「文豪・夏目漱石〜そのこころとまなざし」(9月26日、両国を歩く)
■旧安田庭園〜東京都慰霊堂〜相撲博物館
やっと涼しくなったので、Kさんと両国を散歩する。最大の目的は、きょうからはじまる江戸東京博物館の「文豪・夏目漱石〜そのこころとまなざし」。漱石のこうした企画は意外に少ないので、見逃せない。
旧安田庭園(入園無料)のベンチで、買ってきたお握りの昼食。庭園の中心に池があって、その周囲を散歩できるようになっている。サイトを見ると、「隅田川の水を導いた世界でも数少ない汐入回遊式庭園」(「ぶらり下町探偵団)と説明されている。
隣接する「東京都慰霊堂」(堂内無料)へ足をのばす。ここで持参した携帯カメラがないことに気づいた。バックの中を見てもない。つい5分ほど前、旧安田庭園で数枚池の風景を撮ったので、そこへ忘れてきたかと思い戻ったが、なかった。狐につままれた気持ちだ。結局カメラがなかったので、今回は写真なし。
【追加】Kさんが写した写真をお借りして、アップさせていただきました。Kさん、ありがとう!
「東京都慰霊堂」(写真)には、関東大震災と東京空襲の犠牲になった霊が祀られている。堂内には、東京空襲の写真、関東大震災の絵などがぐるりに展示されていた。東京空襲では、墨田区のような下町だけでなく、銀座、市ヶ谷、五反田などの街も空襲で崩壊、建物の残骸と並んで、犠牲者の死骸が無造作に横たわっている……そんな写真を見た。
慰霊堂の外には、震災や空襲で亡くなった朝鮮人を追悼する石碑もあった。関東大震災では、朝鮮人が暴動を起したり、井戸に毒をいれているという、根拠のない噂が流布して、日本人は大量の朝鮮人虐殺を行った。地震の二次的災害だが、普段の差別意識と、差別からくる報復の恐怖が、自然の災害に人為的な災害を重ねてしまった。
東京慰霊堂から、「相撲博物館」(入場無料)へ寄る。
相撲博物館では、歴代の横綱の写真などを見る。相撲が好きになったころ横綱だった鏡里、吉葉山の姿が懐かしい。それ以前は知らない。最初にファンになった力士は、多くのひとと同じで初代若乃花だった。
■「文豪・夏目漱石〜そのこころとまなざし」(江戸東京博物館)
そしていよいよ「江戸東京博物館」。何度か来ているが、ここは建物の中が広い。相撲博物館にあった「文豪・夏目漱石」のチラシが100円の割引券になっていた。これから行くひとは、いきなり「江戸東京博物館」へいかず、「相撲博物館」(入場無料)で先にそのチラシをもっていくと、わずかだが割引になるので注意。
展示は次のように時代で区分されている。詳しくはこちら(公式サイト)をごらんください。
- 生い立ち・学生時代
- 松山・熊本〜ロンドン留学
- 帰国・創作開始
- 漱石山房の日々
- 晩年
展示は想像していたよりおもしろかった。漱石ゆかりの品々〜原稿、書簡、書、絵〜などが並んでいることは予想していたが、時代を追って見やすく整理され、その量も考えていたよりずっと多かった。
第1章「生い立ち、学生時代」
びっしり英語で綴られたノートのメモや本の書き込みを見て、改めて漱石の勉強ぶりのすごさに驚く。もちろん学生時代だけではない。大学の講師時代はもちろん、作家になっても続く。通常の小説家が読む量ではない。
漱石は、1867(慶応3)年の生まれ。小さなころ養子に出され、塩原姓を名乗るが、また生家に戻される。この体験は小説『道草』のなかに描かれている。
帝国大学の友人・米山保三郎は、漱石の尊敬する友人だった。彼は勉学に優れているだけでなく、気宇が壮大だった。
<文学では食えない、建築を職業にしよう>そう考えていた漱石に、<今の日本でどれほどの建築ができるとおもっている。夏目が生涯をたくすに足るのは文学しかない>
そう思い直させたさせたのは、米山保三郎だという。漱石と米山がともに学生服で撮った写真が展示されている。
学生時代に漱石に影響を与えた友人としては、もうひとり正岡子規がいる。ともに、芝居や落語が好きで親しくなる。漱石は、子規によって俳句に興味をもち、子規は、漱石の漢学、和学、洋学にわたる深い知識に、感銘を受ける。
「漢学に深い知識のあるやつはいる。英語のできるやつもいる。しかし夏目のように、漢学も英語もできるやつは、めずらしい」
二人の短いが、生涯にわたる友情がはじまる。
第2章「松山・熊本〜ロンドン留学」
漱石はロンドンに留学したが、交際費のかかる大学をすぐにやめ、送金される金をすべて書物の購入にそそぐ。ビスケットを公園の水で飲み込むような極端に切り詰めた日々。漱石は、下宿にひきこもり、身を切るような激しさで、書物と格闘する。
それを体験できるのがこの章だ。
漱石が買い集めたおびただしい蔵書が現実に並んでいる。
英語の原書に、びっしり小さな文字で書き込まれた英文の感想を見ていると(ぼくは読めないので)、ため息が出てくる。
身を削るような勉強だったろう。時には、「文学がわからなくなった」と泣き出し、下宿のおかみさんを気持ち悪がらせたともいう。「蝿の頭ほどの小さな字」(『道草』)で書かれた、おびただしいメモを見ていると、漱石の苦しみが伝わってくる。
この東北大学の「漱石文庫」に保管されていた漱石の蔵書と、その本への詳細を極めた書き込み……今回この企画でぼくがもっとも感動したものだった。
第3章「帰国・創作開始」
漱石は、東京帝国大学はじめての日本人英文学教師となったが、「教師はいやだ。創作三昧で日々を送りたい」という気持ちが強くなり、辞職。朝日新聞専属の作家になる。
職業作家としてはじめて朝日新聞に発表したのが『虞美人草』。余技だった小説が本職になったため漱石は気負った文体で、これを書く。<俳句をつなげたような文章>は、今は不自然で息苦しく、読むのがつらい。
それでも『虞美人草』は、連載から大きな話題になり、「虞美人草浴衣」や「虞美人草アクセサリー」などが便乗発売されるほど。
「朝日新聞」に出た、『虞美人草』の漱石自身による予告記事。売り出された「虞美人草浴衣」の現物などが陳列されている。
『三四郎』、『それから』、『私の個人主義』(講演)などで、おおらかな明治の新しい青年の姿を描く漱石。青年に、個人主義を奨励し、そのために社会から孤立することになっても、その寂しさを近代人はくぐりぬけなければならない、と説く。
この頃、ユーモラスで知的な漱石の小説は、1作ごとに若い文学青年たちの人気を呼ぶ。
初版本や原稿が展示されている。漱石の原稿の文字は、きちんとわかりやすく、意外に直しも少ない。頭の回転のように、早く一気呵成に書いたのではないか、とおもう。思想を深めることに苦心しても、文章そのものはおおらかだ。
文体そのものが彼の感性のように鋭く、書いても書いても直し、途中引出しにしまって、数年してまた書き直して発表することもあった志賀直哉とは対照的。
第4章「漱石山房の日々」
小説『門』から漱石に変化が起こる。自己本位の哲学=自我主義は、漱石から語られることが少なくなり、それはあとからやってきた青年作家・武者小路実篤の主張としてよみがえるわけだが……。
『門』で描かれるのは、人間が持って生まれた罪=原罪の意識。人と人とが生きていると、知らず知らず相手を傷つけてしまう。神の前には、すべての人間が罪人であるという認識。
【追記】しかし、漱石が<神>を、小説のなかに持ち出すことはなかった。
『門』を発表したあとに、修善寺で胃潰瘍に倒れる。危篤状態になるが、このときは生還する。
修善寺の大患をはさんで、『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』と3つの作品で、人間の原罪というテーマがさらに深められていく。
【注】「原罪」を扱ったとおもわせる短編が収録されている『夢十夜』は、『虞美人草』を発表した翌年、1908(明治41)年に発表されている。漱石の「原罪」への関心が、作家生涯の後期にはじまった、というほど簡単なものではなく、現実にはもっと錯綜している。『三四郎』でも、美禰子(みねこ)の口から「ストレイ・シープ(迷える羊)」という言葉がつぶやかれる。また後期の諸作品も、<原罪>だけをテーマに読み解くのは、偏りがある。1作1作に異なるテーマがあるのは承知のうえで、ここではおおきなくくりでそう表現してみただけ。
漱石の読んだ大判の聖書(英語)が展示されている。漱石は、文学だけでなく、宗教、心理、哲学と広い視野から<人間という存在>について考えていく。展示は、漱石が勉強した本と詳細な書き込み。
漱石山房には、人柄と作品を慕って、いろいろな青年が集まってくる。小宮豊隆、森田草平、安倍能成、岩波茂雄、内田百閒、芥川龍之介など。連日訪問を受けていたのでは、本も読めない小説も書けないから、週に1度の集まり、木曜会が設けられる。木曜会では、訪問者は自由に漱石と話し、質問し、意見を尋ねることができた。
展示は、漱石門下生の写真と説明。
漱石山門に集まった青年は、芥川龍之介、内田百閒をのぞくと、学者になるひとが多いのが特徴。これは、漱石という作家の資質をあらわしていると、おもう。
しかし、直接の門下生以外でも、志賀直哉、武者小路実篤などは、漱石を慕い、また漱石にその才能を見出され、小説家としてのスタートを切っている。漱石山脈は、ここで紹介されている人脈よりも、実際はずっと広い。
第5章「晩年」
漱石は晩年小説を書くと「心が穢れるような」気がした、という。それだけ、人間の心の奥へ、エゴへ罪へ眼を向けていた、ということだろう。そこで、心を浄化するために、漢詩を書き、絵を描いた。
「晩年」のコーナーには、漱石直筆の書画が並ぶ。これも、本では見たことがあるけど、現物ははじめて。漱石の本物の書画に心が躍る。
絵は、心を浄化する目的が強いから、山水画が多い。
学生時代、漱石はある1枚の山水画を見て、「あんな深い山で、静かに暮してみたいものだ」と友人に語ったことがある。
「きみ、あんな山の奥に住んでどんなに不便かわかるか」と友人は現実的な感想をいった。
漱石は夢をこわした友人を一瞬憎んだ、と書いている。漱石には隠遁願望が若くからあった。そういう漱石が晩年、自身の静かな願望を山水画や漢詩に表現した。
どれもこれも、晩年になって手習いしたらしいが、どうしたらこんな風に描けるものなのか、この企画展を見ていると、自分の凡才が悲しくなってくる。
- 漱石が処女作『吾輩は猫である』を発表したのは、1904(明治37)年、37歳。
- 『虞美人草』で職業作家としてスタートしたのは、1907(明治40)年、40歳。
- 遺作『明暗』を中絶したまま亡くなったのは1916(大正5)年、49歳。
わずか10年ちょっとのあいだに、漱石は、現在見られる優れた作品を発表した。とても49歳で亡くなったとは思えない。なんという中身の濃さだろう。人生50年、自分との密度のはなはだしい差異に呆然とした。
■そして、最後は居酒屋へ
「江戸東京博物館」の常設展を見ていたら、17時30分に閉館の放送。出て浅草橋の方へ歩く。はじめて、歩いて両国橋を渡った。隅田川をはさんだビルの夕景が美しい。
Kさんの案内で、JR浅草橋駅からガードに沿って歩く。すぐに立ち飲みが目に入った。迷わず、立ち寄る。
Kさんと今日の収穫をカンパイする。夏目漱石展は、予想以上に満足だった。きょうの数時間、漱石と親しく向かいあえたような気持ちになれた。
夜になって、ガートと建物のあいだから、丸い月が見える。
ここのカシラの焼き物、レバ刺し、煮込み、豆腐、ポテトサラダ……みんなうまかった。小さな店を、若い青年が4、5人でやっている。感じがよくて、Kさんと話しながら、飲んで食べた。こちらの方面へ来たら、また寄ってみたい立飲み屋さんだった。
秋葉原へ向かって、JRのガード下を歩く。
博物館の見学で立ち疲れしたので、今度は座れる店へ寄る。酎ハイで、もう一度カンパイ!
夜と酔いが深まっても、Kさんとの話は尽きず、時間の過ぎるのが早かった。