『イメージの進行形』刊行記念選書フェア「の知――2010年代の「映画」を考えるための35冊」開催@リブロ池袋本店1階


渡邉大輔です。
先日の佐々木敦さんとのトークセッション@東京堂書店には、多数の方々のご来場を戴き、満員御礼でした。たいへんありがとうございました!
トークセッションに続き、また拙著関連の催しのお知らせです。
本日、4月17日(水)から、リブロ池袋本店さま1階の「カルトグラフィア」コーナーにて、拙著『イメージの進行形』(人文書院)の刊行を記念し、選書フェアを開催して戴きます。題して、「<映像圏>の知――2010年代の「映画」を考えるための35冊」。
開催時期は、少なくとも1ヶ月間(5月17日頃)までとのこと。
すでにあちこちのインタビューなどで喋っていますが、拙著の目論見のひとつは、(これはマジで)映画批評本を「人文書」の枠組みで受容できるようにすることでした。いまや映画批評や映像論は、専門家や一部のシネフィルだけが読むニッチな言葉になっている。そこには、「批評」の名に値する真に「知的」な包括性や脱領域性はあるのだろうか。それを僕なりに突破することが、『イメージの進行形』の目標のひとつでした。そして、その目的は、東浩紀さんのゲンロンサマリーズで取り上げられたり、朝日新聞のインタビューに掲載されたりしたことで、ある程度は達成されたと思っています。
しかし、そのためには、この本は、単に映画本の枠組みではない、より広いいまの知的言説のネットワークの中でこそ、読まれてほしいとも思っていました。そして、そのためには刊行の暁にはぜひどこかで選書フェアをやりたいというのが僕の希望でした。
今回、学生時代から長く通い続けているリブロ池袋さんのカルトグラフィアコーナーでフェアを開催できることは非常に感慨深いものがあります。今回はどうもありがとうございました!>池袋リブロ担当者さま

フェア会場には、それぞれのセレクト本について、150字ほどの僕のコメントを付したリーフレットを配布しています。
その内容を、都心までなかなか出ていけないという読者のために、ここにアップしておきます。『イメージの進行形』を読む際の参考にして頂ければ幸いです。

<映像圏>の知――2010年代の「映画」を考えるための35冊(渡邉大輔・選)

イメージの進行形: ソーシャル時代の映画と映像文化

イメージの進行形: ソーシャル時代の映画と映像文化


 昨年末に、『イメージの進行形――ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院)という書籍を刊行しました。その目的を一言でいえば、映画批評や映像論の「現在」に何らかの思想的な表現と社会的な基礎づけを与えるということにありました。
現在、映画や映像をめぐる状況は激変しています。ところが、映画批評は、複雑化し、相互に不透明化するここ20年ほどの文化状況の中で、極端にニッチ化し、「お家芸化」してしまったように思えます。僕はこの本で、そうした閉塞し、自明化した映画/映像をめぐる言葉を、できるだけ俯瞰的な視座のもとに再定義し、多様な文脈に結びつけることを試みました。
その有力な切り口として選んだのが、近年の社会や文化で広がる「ソーシャル化」で、このソーシャル化に最適化した映像環境を「映像圏」と名づけ、分析しました。
 今回の選書は、その「映像圏」というコンセプトを形作った重要な書物を中心に選びました。著者としては、(もちろん、狭義の映画批評の文脈でも読めるよう書いてありますが)ぜひ、これらの多様な知のネットワークの中でこそ読まれてほしい本だと思っています。本来、批評(=批判)とは、現実や価値観の自明性を問い直し、危機(critic)に直面させ、アップデートする作業です。その意味で、僕はこれからも、「映画批評=批判」を実践していくつもりです。

プロフィール
1982年生まれ。日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程芸術専攻修了。専門は日本映画史・映画学。現在、日本大学芸術学部跡見学園女子大学文学部などで非常勤講師。『ユリイカ』『早稲田文学』などに論考を寄稿。共著に『見えない殺人カード』(講談社文庫)『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)など。


■映画・映像系
ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書――映画監督のノート』(筑摩書房

シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

 ヌーヴェル・ヴァーグにも敬愛された孤高の巨匠によるアフォリズム的な断想集。これまでシネフィル的な文脈で受容されてきた本ですが、じつはいま読むと、ニコ動のMAD職人や「P」たちの心に響く箴言がたくさんある気がします(笑)。次世代の「シネマトグラファー」に読まれるべき本です。

ジャン・ルイシェフェール『映画を見に行く普通の男――映画の夜と戦争』(現代思潮新社)

映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書)

映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書)

 ドゥルーズが『シネマ』の中で「理論が一編の偉大な詩になっている」と絶賛し、長年、邦訳が待望されていた映画論の名著。僕が最も衝撃を受けた映画論の一つです。観客論/情動論/身体論/宗教論/ホラー論……としても先鋭的。何より、このみずみずしくダンディな文章に何度でも痺れていただきたいです。

蓮實重彦『映像の詩学』(ちくま学芸文庫

映像の詩学 (ちくま学芸文庫)

映像の詩学 (ちくま学芸文庫)

 蓮實重彦さんは、僕にとって、現代日本において「映画批評」を実践していた唯一の書き手です。それは「映画」という枠組みそれ自体の足場を批判的に問い直すという営みです。この本のラング論、ベルトルッチ論は何度読んでも燃えます。オルドリッチ論の不穏な筆の震えには泣けます。

三浦哲哉『サスペンス映画史』(みすず書房

サスペンス映画史

サスペンス映画史

 僕の本はいわば「ポスト蓮實の映画批評」の方向を模索した仕事ですが、三浦さんの著作もその有力な一つだと思います。すべてがサスペンスフル(基礎づけ主義の失効)であらざるをえない「3・11」以後の文化状況のなかで、運動感覚を極限まで模倣することで読者に映画的快楽を「体感」させる稀有な成果です。

平倉圭ゴダール的方法』(インスクリプト

ゴダール的方法

ゴダール的方法

 この著作も、「ポスト蓮實の映画論」だと思いますが、三浦さんとは対照的。後者が「動的」に蓮實をアップデートするのだとすれば、この本は、フィルムによって不可視化されていたものを、ディジタル解析の「編集台」に乗せて解剖することで現勢化するという「静的」アプローチを目指しているといえます。

加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(中公新書

映画館と観客の文化史 (中公新書)

映画館と観客の文化史 (中公新書)

 本書は『イメージの進行形』の重要なネタ本の一つ。日本の映画研究は、近年、カルチュラル・スタディーズなどの影響下に観客論が大ブームですが、その代表的な基本文献です。これを読むと、現在考える「映画」の枠組みがいかに狭いかを実感します。柳下毅一郎氏の『興行師たちの映画史』(絶版)と併読してください。

萩野亮編『ソーシャル・ドキュメンタリー――現代日本を記録する映像たち』(フィルムアート社)

ソーシャル・ドキュメンタリー ──現代日本を記録する映像たち (CineSophia)

ソーシャル・ドキュメンタリー ──現代日本を記録する映像たち (CineSophia)

 僕の本では「ドキュメンタリー」も重要なジャンルです。本書は、「ソーシャル・ドキュメンタリー」という従来ある写真史の用語を再定義して、SNSをはじめとした21世紀以降の新しい文化状況との関わりの中で変容していく現代ドキュメンタリーに注目した論集。僕自身も寄稿していて、問題意識は共通しています。

岩本憲児編『日本映画史叢書15 日本映画の誕生』(森話社

日本映画の誕生 (日本映画史叢書)

日本映画の誕生 (日本映画史叢書)

 近年、急速に隆盛し、叢書類も複数刊行され出している学術的な映画研究の最新成果から一冊。僕の本の狙いの一つは、映画批評の知と、急速に体系化されているこの学術研究の面白い成果とを結びつけることにありました。この論文集で論じられる黎明期の日本映画の状況は、現代映画の理解をきわめて豊かにします。

吉田広明『亡命者たちのハリウッド――歴史と映画史の結節点』(作品社)

亡命者たちのハリウッド――歴史と映画史の結節点

亡命者たちのハリウッド――歴史と映画史の結節点

 吉田広明さんや上島春彦さんの著作群は、蓮實重彦山根貞男らが80年代に地ならしをした映画論の地平を正統に継承し、さらに細密化しているという側面があります。この吉田さんの新著もいかにも『リュミエール』的。このあまりに豊かな達成をいかに別の形で乗り越えるかが、僕の本の課題でした。

廣瀬純『シネキャピタル』(洛北出版)

シネキャピタル

シネキャピタル

 廣瀬さんのこの本は、ドゥルーズの『シネマ』を一種の「資本論」(シネキャピタル)として読み替えようとする野心的な試み。小著ですが、濃密な本で、僕の『シネマ』解釈にも影響を与えています。巻末には安井豊さんの解説が付されているのですが、これもすばらしい文章です。

■思想・文学系
ジル・ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』『シネマ2*時間イメージ』(法政大学出版局

シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)

シネマ 1*運動イメージ(叢書・ウニベルシタス 855)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

 20世紀後半フランスの大哲学者によるあまりにも有名な映画論の古典。「映像圏」のアイディアをここから数多く得ました。「情動論」「可能世界論」「資本論」「情報社会論」……読む角度によってキメラのような多彩な顔を見せます。処女作の『経験論と主体性』や後期の『襞』も大いに参照しました。

ジョナサン・クレーリー『知覚の宙吊り――注意、スペクタクル、近代文化』(人文書院

知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化

知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化

 クレーリーの著作は90年代半ばに一度流行りましたが、いままた新たな視点から読み直されるべき重要な仕事だと思います。この本のマネなどの絵画をもとに、「注意」と「気散じ」を論じた議論などは、複雑化/消費化/ソーシャル化する現在の映像の受容環境を考える時に、きわめて示唆的です。

クリストファー・チャーニアク『最小合理性』(勁草書房

最小合理性 (双書現代哲学7)

最小合理性 (双書現代哲学7)

 従来の「理想的行為者」モデルに代わる、曖昧で確率的な合理性=主体モデルを提示する、現代知識論の古典。表象文化論的な知が「全体化可能」なモデルを逆説的に志向しているとすれば、映像圏は「全体化不可能」な創発的世界観を相手にしています。認知限界論やヒューリスティクスにも近い本書の議論もそうです。

ベルナール・スティグレール『技術と時間1――エピメテウスの過失』『技術と時間2――方向喪失』『技術と時間3――映画の時間と<難‐存在>の問題』(法政大学出版局

技術と時間1 エピメテウスの過失

技術と時間1 エピメテウスの過失

技術と時間2 方向喪失-ディスオリエンテーション

技術と時間2 方向喪失-ディスオリエンテーション

 ポスト・デリディアンの思想家はいろいろいますが、重要なのは、「可塑性」のカトリーヌ・マラブーと、このスティグレール。ITも含めた「メディア技術」がもたらす「記憶」や「人間性」の変容を考える時に、目からウロコが落ちる話をしています。第三巻の映画論の邦訳が待たれます*1

ダンカン・ワッツ『偶然の科学』(早川書房

偶然の科学

偶然の科学

べき乗則」の理論はゼロ年代に若手論壇の一角で流行りましたが、本書やマーク・ブキャナンやバラバシなどの複雑ネットワーク理論の知見は、今後、MAD動画など新しい映像コンテンツの特質を考える時に有力な助けになると思います。本当は僕がやりたかったのも、「複雑系映画論」みたいなことでした(笑)。

加地大介『穴と境界――存在論的探究』(春秋社)

穴と境界―存在論的探究 (現代哲学への招待)

穴と境界―存在論的探究 (現代哲学への招待)

 従来の哲学が「実体」や「存在」といったことについて考えてきたのに対し、「穴」や「境界」といったそこからはみ出る奇妙でマイナーな「ものもどき」について考察する現代の形式存在論の書。僕が『イメージの進行形』で考えたかったことも、いわば映画文化の「穴」や「境界」だったのかもしれません。

笠井潔『例外社会――神的暴力と階級/文化/群衆』(朝日新聞出版)

例外社会

例外社会

 この大著は、浩瀚さと難解さで手に取られにくいと思いますが、リーマン・ショック秋葉原事件を見据えて構想された、グローバル資本主義下の社会思想としてはきわめて先鋭的な著作。とりわけ一種の「戦争論」として書かれた序章などは、いまや「予言的」といえるほどのリアリティを帯び始めました。

小森健太朗『探偵小説の様相論理学』(南雲堂)

探偵小説の様相論理学

探偵小説の様相論理学

 僕はミステリ評論も長く手掛けているのですが、古くはベンヤミンやクラカウアー、ラカンを見れば明らかなように、「映画」と「探偵小説」は20世紀的文化として密接な関連を持っています。その探偵小説の想像力の変容を緻密に考察したのが、この小森さんの本。ジャンルを越えた問題の近さに驚くはずです。

中沢新一『狩猟と編み籠――対称性人類学Ⅱ』(講談社

狩猟と編み籠 対称性人類学2 (芸術人類学叢書)

狩猟と編み籠 対称性人類学2 (芸術人類学叢書)

 僕は次の仕事として、より射程の広い「イメージの自然哲学」のようなものを構想しています。その準備で美術史などを読み直しているのですが、「映画」の起源を旧石器時代まで一挙に遡って見出す中沢さんの「カイエ・ソバージュ」の壮大さには大いに啓発されます。こういう思想書をいつか書いてみたい。

佐藤雄一「リズモロジーの方へ」(『ART TRACE PRESS』01,02所収)(同人誌)
ART TRACE
『イメージの進行形』の第一章の社会システム論を援用した理論的な議論の個人的な補助線の一つとして、映画にも詳しい詩人の佐藤雄一さんが数年前から散発的に書いているリズム論がありました。芸術作品の支持体や「かたち」を、諸作用の動的な平衡状態(個体化)として捉える佐藤さんの議論は刺激的です。

山崎亮『コミュニティデザインの時代――自分たちで「まち」をつくる』(中公新書

コミュニティデザインの時代 - 自分たちで「まち」をつくる (中公新書)

コミュニティデザインの時代 - 自分たちで「まち」をつくる (中公新書)

 富田克也や山崎樹一郎など、配給宣伝までDIYでやったり、映画作り以外に自らの生活共同体を作る「コミュニティ」志向の若手インディーズ映画作家が注目を集めていますが、この本と社会的な文脈は共有しています。シュリンクし続ける映画界、監督志望の学生こそ、こういう本を読んで考えるべきだと思います。

鈴木健なめらかな社会とその敵――PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』(勁草書房

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

 「なめらか」(スケールフリー)という視点から、社会制度を生命システムの進化と延長上に捉え、貨幣システムから民主主義、国家体制まで根源的な刷新を目論む壮大な本。「ソーシャル化」のインパクトに注目する点をはじめ、問題意識が重なります。何より「300年後」(24世紀!)を考えるという議論がアツい。

武満徹武満徹著作集3 遠い呼び声の彼方へ・時間の園丁・夢の引用』(新潮社)

武満徹著作集〈3〉遠い呼び声の彼方へ・時間の園丁・夢の引用

武満徹著作集〈3〉遠い呼び声の彼方へ・時間の園丁・夢の引用

 武満徹は高校時代から大好きで、音楽ばかりでなく、彼の思想や文体からも大きな影響を受けています。「偏在する大きな「音の河」への意味づけとしての音楽」という武満の初期の音楽観は「映像圏」そのものといっていい。唯一の映画随想集『夢の引用』は「映画語」で書かれたうつくしい書物です。

長谷敏司BEATLESS』(角川書店

BEATLESS

BEATLESS

 『イメージの進行形』ではテッド・チャン伊藤計劃円城塔などSFも意識的に参照していますが、主題とも繋がる最近の話題作といえばこれ。「コミュニケーション」のフィードバックループによって事後的に「内面」(愛情)らしきものが生成してしまうという、現代悲/喜劇の寓話です。

■ネット・サブカル
東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+――東浩紀アーカイブス2』(河出文庫

 蓮實さんと並んで、東さんも入れるまでもない(または全著作入れたい)くらい影響を受けているのですが、しいて挙げるとしたら、これかなあ…。ブログで指摘しているひともいましたが、僕の本の第三章の表層批評批判のネタ元はこの表題論文ですね。映画批評にインパクトを与える、隠れた(?)初期の重要な仕事です。

飯田一史『ベストセラー・ライトノベルのしくみ――キャラクター小説の競争戦略』(青土社

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略

 飯田さんは経営学マーケティング理論を駆使して、「商品」としての文学環境を考察する新世代の文芸評論家。この著作の背景には明らかに今日のデフレ化し切った文化状況があり、それにいわば最適化した「デフレ批評」とも呼べるものの貴重な実践だと思います。僕の本もこうした認識の延長上にあります。

池田純一『デザインするテクノロジー――情報加速社会が挑発する創造性』(青土社

デザインするテクノロジー 情報加速社会が挑発する創造性

デザインするテクノロジー 情報加速社会が挑発する創造性

 ソーシャル化やスマートフォン以降の創造環境の変化を脱ジャンル的に考察した本書は、僕の本と非常に近い問題意識を持っています(特にエイブラムス論など)。僕の本はどちらかというと、映像圏的想像力の日本における状況を扱ったものですが、池田さんの本はその「アメリカ版」として面白いです。

クリス・アンダーソン『MAKERS――21世紀の産業革命が始まる』(NHK出版)

MAKERS 21世紀の産業革命が始まる

MAKERS 21世紀の産業革命が始まる

 映像圏は「イメージのロングテール」だと説明しているように、アンダーソンの著作からの影響も大きいですねえ…。「3Dプリンタ革命」としてまたも話題を呼んでいる彼の新刊ですが、この「ビットからモノへ」という枠組みが今後の映画製作(とその美学的更新?)に与えていく影響については考えてみたいです。

イーライ・パリサー『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』(早川書房

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

 ネットは情報やコンテンツをオープンでフリーにするという一般的なネット論とは違い、SNSやグーグルの定量分析がじつはネット社会を分断していると警鐘を鳴らした話題の本。映画も含むネット時代の公共性を考える時に有益ですが、10年前のキャス・サンスティーンの某著作(絶版)がすでに書いていますね。

大塚英志『映画式まんが家入門』(アスキー新書)

映画式まんが家入門 (アスキー新書)

映画式まんが家入門 (アスキー新書)

 同世代の若手評論家たちの耽溺ぶりに較べると、僕は大塚さんの熱心な読者ではなかったものの、彼の仕事のマイベストです。手塚治虫に始まるストーリー漫画の「映画的」手法の起源が、戦前のモンタージュ理論言説にあるという刺激的な「仮説」は映画/サブカル批評双方にとって重要な補助線になりえます。

さやわか『僕たちのゲーム史』(星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

 僕の本では現代の映像環境=映像圏は「ゲーム的」な構造を持つということを書いているのですが、本書はテレビゲーム史を扱った本では屈指の名著。しかも、「物語」から「コミュニケーション」、そして「現実」へという本書が描くゲームの移行は、どこか映像圏とも通じています。

円堂都司昭『ソーシャル化する音楽――「聴取」から「遊び」へ』(青土社

ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ

ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ

 ソーシャル化以後の音楽状況を多角的に論じたユニークな音楽論。テーマや扱っている題材も重なっており、明らかに『イメージの進行形』と問題を共有している本です。さやわかさんや飯田さんや円堂さんの著作は、僕の本も含め10年代の文化批評の同じ地平をジャンル別に俯瞰している本だといえます。

竹中夏海『IDOL DANCE!!!――歌って踊るカワイイ女の子がいる限り、世界は楽しい』(ポット出版

IDOL DANCE!!!: 歌って踊るカワイイ女の子がいる限り、世界は楽しい

IDOL DANCE!!!: 歌って踊るカワイイ女の子がいる限り、世界は楽しい

 最近の流行りですが(笑)、僕も「アイドル」は映像文化の一つのハードコアになると考えています。それは複雑化し、外縁が曖昧になったイメージの奔流の有力な結節点として機能するからです。僕の本でも「踊ってみた」などに言及していますが、アイドルダンスの魅力を解説した本書は映像論にも応用可能だと思います。

*1:このリーフレット原稿を送ったあと、第3巻の邦訳が刊行されました