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2016-07-23

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ネトゲ嫁に続いて、Hisasi原作イラストラノベアニメを気に入ってしまいました。

セカイ系設定の、進撃の巨人ミーツIS(この見立てすら成立するか怪しい)を、中学生高校生向けのスケベアニメ、むしろ中高生でさえ、中高生であるがゆえに恥ずかしくなるようなライトノベル原作を真面目に見ることについての文章。3話なんてキャラが「世界は残酷」とかモノローグはじめてもおかしくないオーラで悪趣味悲劇のマイルドな開示がなされていて笑ってしまう。 何が笑うって、その残酷設定を設定のままに本気で受け取ろうとする気持ちが自分の中でほぼゼロっていうw つまり、このアニメに失笑を浮かべることは、いわば、最近のラノベにおけるリアリストを気取っているともいえるわけなんだけども。なんだけども、まさにそのことにおいて気持ちよくなってしまったというご報告をしておきたいと思います。なぜそんなどうでもいいことを報告するの? というのは、ちゃんと理由がある。3話でキャラクターたちの設定と自意識がシンクロをはじめて、若干ハードボイルドふうに恋愛小説ぽくなったというか。主人公の芝居が、モロに神谷浩史に寄せてあったので、そのせいで、アレ? って。それに引っ張られ、ヒロインたちのある種のまともさにおいても物語シリーズの出来損ないのようだ。

極限状況においての恋愛と戦争っていう魔装学園H×Hがそれをやっているはずなのにむしろ正反対の都合のいいセックスと暴力の垂れ流しにしか見えないはずなのに、それがアニメになったことで、その設定の構造のエッセンスだけがフィルムに漂ってしまったということではないかと思っています。

ヒロインたちの性格描写も、先週までとあんまり繋がってなくて、金髪はちょっと牽制球でアプローチしてくるかわいらしいことになっていてなんかおかしいぞって思ったんですよ。本当に魔装学園H×Hなのかこれは? っていう。だって、普通にただデートしただけなんだよ? ほかのヒロインが尾行してるとかじゃないんだよ? ありえなくない?

そしてデートの帰りにまた都合よく見かけた、風紀委員の黒髪ロングも、暴力キャラじゃなくて、つまずいてこけたのを支えられて、異性と密着したので顔を赤らめて緊張してしまうというかわいいリアリズムがあって、悔しかったよね。私の今期の推しアニメであるところのリライトでさえ! リライトでさえ! 暴力ギャグをやってしまうんだぞ! 2016年に! それが! 魔装学園H×Hに!

そして、きわめつけは、アイデンティティを揺らがせ自暴自棄な思春期少女が処女を捨てたいと言ってくるのをそれに乗るフリしてペッティングをかましてここで一言「お前、ふるえてんじゃねーか」です。(シーンの解釈に改竄があります

みなさん、分かりますか、このライン。このオッサンハードボイルド美学のホットラインが。おそらくは、原作においても、主人公と出会って、恋愛に目覚める美少女というファンタジーがへたくそにぶっきらぼうにイミテーションの中で展開されているだけなんだろうけども。私はこの、世界の終わりの設定の中でハードボイルドワンダーランドな振る舞いをすることの気持ちよさを見出してしまったわけですよ。

主人公の造形が薄味なのが難点だけど、作品の設定としては露骨な性欲をテクストに組み込んでいるのに、バトルに関係ない日常描写ではまともにふるまうことである種の生々しさがあるヒロインたちw 2話みたいに、主人公の部屋の中で変身して部屋が爆発、みたいなのとは違う雰囲気があった。

求めてるものに対しての、だいたい15点くらいの出来なんだけど、この15点性においては、なぜ、ライトノベルたちは極限状況においての恋愛と戦争のセカイをこういった魔装学園H×Hのような描き方でしか語らなくなったのかという問いと同時に、その可能性をどのようにして失っていったのかを再帰的に確認するようでもあり、、、進撃の巨人ミーツISミーツオッサンラノベという構造がもしかしたらセカイ系の語り口を更新し得たかもしれないなどと感じさせもするのだ。


コンテンツとしては、「間違っても、たとえ気が狂ってもこの作品を褒めないでください」と高らかに宣言しているので、それに従おうと思いますが、ものすごい好きになってしまいそうな可能性があったのかもしれないと、そういう報告でした。



まあ、おおよその、あらかたのライトノベルを優れた批評的視座において救済してしまうというのは私の得意とするところではありますが、まさか魔装学園H×Hまで? と。(ちっ、と舌打ち

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2016-07-16

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第一部完結ということわけで、記念に。うん。よい作品だった。すごくおもしろい作品ではないけど、よい作品だった。ここでのすごくおもしろいというのは異能バトルとしての快楽原則にガンガンにカンフル剤ぶっこんで盛り上がるように書かれていること、なので、そうなっていないということは、つまりそっけなさを感じてしまったのだけれど、しかし異能バトルというジャンルにおいての、オタクの流行がすでに終わっているかに思えるジャンルにおいての思索、現代と地続きの世界の、そこに生きる少年少女たちにひとつの終わりを迎えさせること、どういうプロットを用意すれば終わりらしきものにたどり着けるのかという思索において妥当なものが用意できたのではないかと思います。

作中の設定や、キャラクターのあらゆるドラマを運命的に収束させるというようなものではなくて(おそらくはそういうものが傑作とよばれる条件にされることが多いとはいえ)、それらの上澄みをすくいながら、物語のおわりに用意されたのは、戦争を回避すること、というものだった。

なんだよ〜、少年漫画ふうエンタメ冒険活劇バトルモノじゃないのかよ〜、という反応も当然だけど、まあこれも時代性との格闘だと思います。「ラノベに政治を持ち込むなよ、純粋に楽しみたいだけなのに」といった極端な物言いがなされるほどアクチュアルには書かれていないし、しかし、作者が、自分が数年間関わってきたキャラクターたちに、戦争を回避させる役割を与えておこう、と思う程度には、時代性を抱え込んでいるということだったのかなと。

ざっくりと、禁書目録化物語マッシュアップラノベが、2016年に、こういう戦争回避のドラマで終わったんだというそういう認識でいいのではないかと思います。戦争回避というか、クライマックスらしく派手なバトルではあるんだけど、トライブ同士の、国家的な全面戦争を起こさせないためのドラマにおいて、登場人物たちにひとつのピリオド、安らぎを与えるというような終わり方をしたので、第一部完結ということなのでしょう。

作中のアレコレがどうこうというものを分析して突っ込んだり褒めたりするほどではないけど、少年少女たちはいったい何を背負わされてようとし続けているのかという問いは、まだ続いています。まあ、恋愛をするか、戦争をするか、という、なんかニコニコ動画に投稿される曲のタイトルみたいになっているけどw 現実の恋愛にも戦争にもあんまり興味ないなあという暮らし向きの場合には、よりゲーム的、観念的なビジョンの中で、ハンターハンターや、ドリフターズや、フェイト世界とかで、現代の学園の異能とは別のリアリティの楽しみもあるようですから両方を楽しむのがいいんじゃないかなあという。

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2016-07-02

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見ていてとりたてて何か刺さったりしたわけではないけれども、カバネリが意外なことに亡国のアキトとだいたい同じような構造になっていた。兄と妹、そこに関わるヒロイズムの化け物、敵の残党の赦し、人種差別友敵差別アナロジーとか。アンバランスなところもw 

うるさめのジャズっぽい曲をフィルムに貼る作品もガンダムサンボルとか文豪とかハイキューとかでちょくちょく増えているし、地味に10年代地下水脈として重要になるのかもしれない。なったところでなんだって話ですが。でも高森奈津美の、ちょっと強めに出す感じの、ローズヒップとかはいふり江戸っ子のあの演技の先鞭をつけたのは亡国のアキトのサラじゃないかなあと。以前にもあったかなあ、ああいうの。

カバネリが進撃じゃんっていう、まあサルでも分かる元ネタ土台を使っていて、ギアス原作の脚本家がそのスピンオフの採用した構造と力に引っ張られたっていうなんだか妙な感じだけれども。まあ文脈スタイリングのことですよね。「ほにゃらら(人気作品)みたいなお話を自分で考えてやる」という。ふわっとした印象でしたが、まあよかった。

春のアニメでは元ネタをどうミックスするのかということでカバネリとクロムクロがちょうど1クールと2クールでの素材への手つきの違いみたいな部分で分かりやすく比較できそうです。クロムクロを進撃っていうのはちょっと強引かもしれないけれども、普通に筋運びは進撃っぽいんですよ。特に敵がやってきて謎の遺跡アイテムとか記憶改ざんネタとかなんか重要なことが分かるのかと思ったら自爆したり意図せず殺しちゃったりでちょい見せになって腰砕けとかね。進撃ですよ、ああいうのは。

元ネタの相互不信な人間関係とか軍国趣味とか神経症的なキャラ造形とかの部分をほとんど全部裏返してクロムクロは異様に健康的だけど。

駆逐してやるとか、心臓をささげよとかが俺は鬼を斬る、それだけだとか軍曹シゴキとかに反転してギャグ扱いになってるところなんかもまあ、どことなく子供が好きなものを大人が茶化しているような印象もあるんだけどもw 回帰的ちゅうか円環的ちゅうかエヴァガンパレマブラヴ、進撃、クロムクロエヴァというような。

いや、進撃のことあんまり知らないけど、記憶改ざんとかやり始めたおかげである部分では、クロムクロプロットが2クールで終われる進撃の巨人の構造に見えてくるっていう。

つまり、このクロムクロの構造であの敵幹部たちの会議シーンを絵で見せてしまうという、とんでもない暴投ではないかっていうことなんですが。吹くでしょ、あれは。進撃の巨人が、諌山先生が描きたくないと思ってるイマージュを全部凝縮したのがあの会議なんですよ。それを絵にすることでクロムクロは2クールで終われる進撃の巨人になりうるわけですが。

なんといいますか、子供≒オタクが自分の好きなものをヒステリックに出力したものを作家性としてグルーヴさせていくような流れを無理やり捻じ曲げてしまうというか、手品の種明かしをやりながらトリックを見せられているというか。一言で言えば、すごいと思われたいという欲望が微塵も感じられないw そこが逆にクロムクロはすごいw もうほとんど良心しかないっていう。ラーメン屋と甲冑姿でM・A・Oちゃんが王のUTSUWAになってしまうんじゃないかっていうくらい良心しかない。進撃の巨人を実在性ミリオンアーサー的な良心でもって2クールで終わらせるっていう。メタにもほどがある見方をしてしまっているので、もうだめですね。

一方、カバネリは1クールで終わる制約の元で進撃っぽい世界で語られるひとつの寓話足りえていると思います。ある意味では進撃のフォロワーの初期衝動を作品として着地して成立させるひとつのモデルですね。魅力的だったかというとまあ別だけど。まあウルトラマンになる前の進撃ふうというか、ブランキージェットシティーふうの心象風景というか、列車に乗って、壁の向こうの、果てのない荒野への旅みたいなw そういうアトモスフィアがありました。

あとは、はいふりですかね、はいふりが、1クールかけて、もかちゃんを助けることをめぐっての話をやっていて、すごいいいなって思ったんですよ。艦長がんばれって。もかちゃんがネズミにギアスかけられてたら危なかったね。でもよかった。(素

どのような舞台設定で、どういうキャラクターをどんなふうにして救えばいいのだろうか、というのは10年代に限らず普遍的なものだと思うけども、アニメ問題意識として地下水脈的な場所に押しやられているような気がしますw

特殊な状況下で発揮されるヒロイズムに対しての、鑑賞者からの、うざい、わがまま、というみんな大好きリアリズム合戦であるw

まあ全然、観測した私の勘違いかもしれないんだけれども。生駒が、主人公的な問題を抱えさせられ、ビルドゥングスロマンめいていることに、安心して価値を判断し、兄様の悪役としてのうつろさにおいては、思考を停止してしまう、それくらいの態度で週一で見てしまうわけですよね。

無名ちゃんを助けて美馬を殺す、という言葉を口にしてしまっている生駒、もかちゃんを助けたい艦長のどちらがどうだろう、という。そんなことを考えていました。

進撃やガルパンとかの、元ネタからのずらし具合、奇妙に荒廃した架空の世界においての汽車軍艦、複数のキャラによるランダムなアフェクションによる作用の効果という、1クールの物語表現の試行錯誤が感じられたような、そんな感じです。

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2016-03-11

シンとジャンが行ったところまでは見えなかった。 シンとジャンが行ったところまでは見えなかった。を含むブックマーク シンとジャンが行ったところまでは見えなかった。のブックマークコメント

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監督やメインスタッフやプロデューサーの複数のインタビューを読むに明言こそしないが何らかの形で新しいシリーズを描けるようにして終わろう、そういった可能性を持たせてみようといったような含みがあって、プチガンダム化すべく色々な試みがされた作品になった。寓話性の強さ、おとぎ話っぽさ含め、ガンダムというよりはむしろFSSのような世界を想像(妄想)させる作品になったわけだけど、まあそういった印象はともかく、じっくり語りましょう。

1章2章と段階を踏み、3章から5章にわたる一つの大きなエピソードでようやく幕が下りた。10年代活劇系アニメの方法論がひとつ更新されたと言ってもいいだろう。コードギアスというシリーズにおいての諸々の設定の齟齬や矛盾の中、その戦い(それを利用して拡大を促したとも言えるけど)においても素晴らしかった。もう少し言い添えれば、90年代以降のアニメシーンはもちろん、ビジュアルノベルからライトノベルの方法論や、あるいは美学的な洗礼を受けることで10年代的なフィルムに変質していったというような面もある。10年代の前半、同時期に製作されていた実写版パトレイバーでは自己言及的なパロディを演じながら押井守が「遺産」というようなメタレベルでの記憶を利用するのと同じように、赤根和樹もまた自身の監督作からの継承と先行作からの引用によって新しいモデルを作り上げたということになる。ロボットアニメと戦争映画の両立、結末を迎えるためのプロットの駆動方法は劇場版パトレイバーからの借用だけれど、そこに恋愛映画としてのパト2や、最終章ではるろうに剣心を召還してそれをロボットアニメとしての構造に投げ込み、滑稽で馬鹿馬鹿しく不条理な戦場を演出してみせたわけですが、そういった成立条件、用意されたリングの上での戦いぶりにおいて、説得力とリアリティを感じられる水準になっていました。コードギアスの1期と2期の間という与えられた条件の中で選んだ舞台設定、キャラクター造形やテーマ性などはアクチュアルなものだし、それらをあのテンションと密度でまとめあげられるリングが用意されるのは、これから先しばらくはないんじゃないでしょうか。ああいう物語をああいう画面で見られるのは、今度はいつになるのか。すでに知られている文脈をひたすら過剰に詰め込んでしまうことによるアンバランスなスタイリストぶりが作品性につながっていた。これはコードギアスの世界で赤根和樹が自身の内的世界の具現のためにさまざまなバグを仕込んだからなし得た事であり、もし赤根和樹オリジナルアニメで好き勝手作ったとしてもおそらく無理だったことなので、そういった意味で幸福なマリアージュがあったと言えるでしょう。

亡国のアキトという作品は、善性か悪性かの、世界の救い方の方法、世界の有り様をめぐる衝突のドラマである。そしてその世界の有り様をめぐって多くのものがこれまでに語られてきて、近代はそれをめぐってきたといってしまってもいいけれど、そこまで大げさではなく、ここではアニメや漫画や小説のその世界の語られ方、そこから初めてもいいだろう。

「失敗する歴史の中のとるにたらない出来事」がキャラクターを支える世界そのものとして置かれている。戦争へのロマンティシスムは右翼的なものしろ左翼的なものにしろ侵略と開放のカタルシスコードギアスの設定でいえば植民地化とそれへの抵抗というものが示されるけれど、「〜〜戦争」といったマクロなものではなくて、ひとつの戦場、先に言った、滑稽で馬鹿馬鹿しく不条理な戦場をフィルムの上に演出することがここでは成功しています。そしてそこで強調されるべきなのは「戦争ではなく戦場を」ということです。そういった悪夢的な戦場にキャラクターを叩き込んでその状況の中でどんなことを考えてどんな行動をとるのだろうかということを注視しなければならない。

外堀をうめていけば、一種の混血性の志向がある。国の名前がなくなり番号で呼ばれるといったトンデモ設定が成立する世界を背景として持ちつつ、提示されたのは、おそらく設定上では世界中に亡命したと思われる日本人たち。アキトをはじめとする部隊のメンバーたちはもちろんユーロブリタニアで日本人として成り上がったシンに拾われて惹かれていく捨て子のアシュレイやジャンというような奇妙に錯綜した混血雑食志向の世界。そこで繰り広げられる混血の象徴としての戦争。あるいはジプシーなんていうのもその志向のひとつでしょう。

全5章の総時間は単純に分数だけなら290分ほどなのですが、それをTVシリーズとして本編20分程度で換算すれば15話くらいの分量があり、しかし5章という制約があって、そのうえで、いかに枠組みを与えるか。構造と力のその選択において、すでに旧作で世界がある程度構築されており、そこを土台に何を語るのかを納得させられたのは劇場公開5章という歪な形での制約があったからだと思います。


そして、活劇系娯楽作品においていったい何がどの程度の水準で達成されればいいのだろうかという問いがまずあるわけだが、押井守がすでに通過した地点にいる悪役の夢想誇大妄想としてのアポカリプス、90年代JRPGふうの、あるいは90年代末のラルクアンシエルの歌詞世界のような(るろうに剣心タイアップ!)破滅願望としての世界の敵の人物造形。世界への嫌悪によって導かれる粛清と虐殺の暴力革命の、破壊の神話。その呪いのようなニヒリスム≒否定性をゴロリと投げ出していることが重要で、つまりは亡国のアキトという作品は少年性をめぐる物語でもあるということです。

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楽曲のテンションだけ感じてもらってもかまいませんが、せっかく読んでいる人にはここらで歌詞検索などもしていただきたいものです。作品の通奏低音としてはこの90年代的な冥く耽美なムードがある。私のなかではこういった世界観の少年性のリアリティがずっと生きていて、それがアニメの中で現れてくれたのも擁護したくなった理由のひとつ。悪役のシンだけではなくて、ユキヤのように「世界を守れるんだ」ということと「世界を愛せるよ」ということがイコールで結ばれていて、その気づきに向かうまで世界を憎んでいたユキヤの少年性は、シンの憎悪とは違うレイヤーにあるニヒリスムだったわけである。ほかにもアンナに対してオペ子たちが「戦争のためのロボなんてボスには似合わない」といったプロットに発展せずにそのまま投げ出されるセリフも冴えていた。滑稽で馬鹿馬鹿しく不条理な戦場の中で彼らはそんなことを思うのだ。

一方でコードギアスという世界のリアリティを吹っ切るような存在、あの管理者の女だったりドクロだったりが跋扈する次元というのは、あらゆる妄想の可能性を引き出していて、それはつまり反逆2期でルルーシュがちょっとだけ世界をよくしたっていう結末にゆり戻しをかけることにもなって、911以降の夢想だった反逆のルルーシュという地点からそれまでの、そして現実のこの世界と同じように世界を憎む人間がボコボコいることが当たり前の世界っていう認識が導かれる。反逆シリーズはエポックな作品だと思うけど、そのスピンオフでこういう強烈な自立性をぶつけてきた、もう一度世界を開いてみせた、というのは非常に挑発的だと思います。具体的な世界変革のモードっていうのがあって、00ガンダムなどもそうだし、ファフナーとかも英雄というか、変革者がいるというようなビジョンがあったわけだけど、亡国のアキトは身も蓋もなく世界をめちゃくちゃにしたほうがいいというリアリティで革命のビジョンを語るという、10年代においてはもうキッズアニメでさえやらないのではないかという少年性のビジョンで物語をやっているわけです。好ましいのはそのシンプルさですね。単純であるがゆえに深遠であるという。

メタ的には、人気作品のファンタジーを強化するのではなくて、完結した作品世界にもう一度、一種の現代性を与える、バグを持ち込んでアップデートするというミッションだったのではないかと思います。


物語の決着の構図にしても、昨今の特殊能力のルール条件下において戦われる少年漫画的な理屈からも離れたアンフェアな印象を残すもので、しかしこの作品で重要視されたのは何よりもその否定性に魅せられてしまう呪いからの脱出だったように感じられる。(ヒロインのレイラが自身の超能力を知らない自覚していないというのは意図的なものでこれは後述)

さらに世界大戦の戦時下戦争状況のなかで激しく敵対する者同士の赦しというある面から見れば間の抜けたおとぎ話に映るだろうこの作劇(残酷ポルノを自身の世界観のリアリティとして信仰する者には特にそのように映るでしょう)、しかし別のある面から見れば10年代娯楽活劇のひとつの重要なモデルとそのヒントにもなっており、つまりは過去20年30年のスパンでの文脈的な射程をとることで作品としての風通しがよくなっている。なおかつそこに10年代においての閉塞感を引き受けつつそれを打破しようというムードを込めること。1章および2章の相互不信のムードから、それを継承しつつ、3章以降のキャラクター描写の変化とゆらぎ、明確なテーマ性の移動と飛躍は「与えられ限られた中で何をみせなければならないか」を作り手が強く意識した結果だと思います。開き直った快楽主義や半笑いの排外的好戦的な残酷を内面化してリアリストを気取るのではなくて、フィクションとして、少年性をさらけ出すこと、ある意味では無様に見えるようにやりあうこと、ロボットアクションや思想的感情的な面も含めて無様に徹底的にやりあうことが課題になっているのではないかというのがこの文章のおおまかな出発点と仮説になっている。アニメで描かれるアクションが現実の戦争の代理作用とアナロジーであることは昨今のご時勢にあっては否定しがたい事実であるでしょう。一切何も関係がない、そうあるべきだという人はもうここでこの文章を読むのをやめたほうがいい。肝心なのはその両方の際を行き来するバランス感覚、自分の中にあるリアリティです。その場所での、オタクの病理としての燃え≒萌え、ミリタリスム≒批評性ということに対して解体と再構築を試みることが一方にあって(言及性の強い、文脈前提の作品であること)、もうひとつは、作家性≒作品性に対してトランスするのではなくて、フィルムに映っているものと自分自身の娯楽作品に対する態度(自分の中のリアリティ)に向き合うことであり、私はそうしたときにこの作品に惹きつけられるものがあったということで。テレビアニメに週に1回のトランスするよりは3〜4年で1時間のアニメが5回っていうペースもちょうどよかったのかもしれません。とはいえ商業的な価値判断としてはこのペースは褒められたものではないのでしょうけれど。


戦争映画の中に、一つの類型となるかもしれない奇妙なヒロイズムが叩き込まれるという構図はキャシャーンもののけ姫という先行作があって、亡国のアキトの場合はパトレイバーを経由しているせいで少しややこしくなっており、戦争映画に悪役のヒロイズムの情動をブチ込んだ、作品としてそういう迂回を選択したところにひとつの特徴がある。

こうして自分で文字にするとおかしいけど、それを乗り越えて作品に接しないと乗れないっていうのはまああるのかもしれせん。とはいえ、作品全体のトーンにおいて、とりわけアクションにおいて「死ね死ね」「殺せ殺せ」と象徴的なセリフとして配置している、連打される憎悪のトーンを裏返して否定して止めてみせたというのはやはり重要なものだと感じます。

さしあたりはロボットアニメというジャンルで戦争を描くということ、その根源的な意図、ビジョンについて少し俯瞰してみると、20世紀は戦争の世紀だった、ということをフィクションの世界の架空の歴史、架空の戦争においても認めることが出来る。キリスト教的な(?)千年王紀のビジョンにおいて20世紀は具体的な戦争と死と破壊に彩られ、1999から2000という具体的な数字のリセットの実感を伴って繰り出される世界の終わりのビジョンを借りてひとつの娯楽創作活動として出力される世界の終末。そのアポカリプスの切迫は、少なくとも宗教的な位相の世界観においてはまぎれもなく終わりの到来を予感していて、同時代現象としてのノストラダムスエヴァンゲリオンとそれ周辺の終末論的調子を帯びた作品群が提示する多くの世界の終わりがあった。そして当然ながらそれ以前の作品においても、20世紀は先行する歴史的事実の戦争のビジョンの影響下において語られてきた。おそらくロードオブザリングスターウォーズにいたるまで。そして原子爆弾の閃光とキノコ雲がアメリカという国の屈折した勝利者としての愉悦をハリウッドがノスタルジックに表現することまで。あるいは満州ドレスデンまで。その想像を絶する戦争のイマージュを引き連れながら多くのものが作られ語られてきた。ナウシカ女神転生、FF、DQ。あるいは高射砲の轟音やサーチライトに照らし出される戦闘機のロマンチックなイメージ。宮崎駿の描くようなあのイマージュ。戦争へのフェティッシュ含めて。

しかし当然ながら終末は訪れずに現在において私たちはこうして生きているのである。そして今の日本のアニメと戦争というとラブライブの監督がゲートを作っているという、一種のブラックジョーク的な状況、戦争をテーマにしたブラックジョークなんて感性は日本人には身につかないと思うけれど、そういうおかしみは感じられる。だからここでは、亡国のアキトはラブライブと同じ時代のアニメだということを認識しておく必要がある。

たとえばシンのようなキャラクターをキャッチ22という小説にあてはめる。狂った司令官と兵隊たちのブラックジョークブラックジョークで終わらせるのではなく、それを使って、その狂気から這い出させること、パトレイバーブラックジョーク帆場暎一、柘植行人のためのブラックジョーク。それはどのようにして可能なのだろうか。悪意のビジョンとしては政治的な怒りや悲しみを滲ませた柘植よりも帆場の純粋な破壊衝動を焼き付けた第1作のほうが強烈で、あそこまでのビジョンを背負ってフィルムの中で動けるアニメキャラというのは文字通りフィルムの中で亡霊になることでしか不可能なのかもしれない。つまり、近代においては「世界を破滅させたい」なんてのたまう悪役は滑稽なブラックジョークになるしかないというわけである。

もしくは、予見性とか、時代を切り取っているとか。大人の鑑賞に堪えるということに対してがたとえばトレンディドラマのような恋愛の挿入でしかないこと。ミリタリー考証が行き届いていること、政治的倫理的にアクチュアリティがあること、あるいは子供じみたご都合主義によってではなく、大人の世界観で物事が描かれている云々。

そもそも、子供じみた戦争、大人じみた戦争というものがありうるのだろうか、あるいは、それではどんな場所にロボットアニメの描く戦争は開かれようとしているのか。

劇場版パトレイバーを乱暴に要約してしまえば、誇大妄想に憑かれた悪役が連れてくる大状況やビジョンを特車二課が鎮めようとする話だと言える。架空の世界の架空の歴史の、しかし現実と程度の差はあれ重なり合っている作品。パトレイバーならば、東京の風景や、戦争を忘れた東京、日本というそれらの強烈なビジョンが提示されるけれど、そこまでの現実性、リアリズムとしての迫真性は亡国のアキトは持っていない。このあたりは、ゲーム的な箱庭性や虚構性の中で格闘するしかない世界をフィルムに焼き付けることが課題になる。パルプフィクションとしての? そうであるならそのパルプフィクション文学の空間として的確に把握しなければならない。

コードギアスという作品はギアスという超能力を肯定的に、というか、人間の持つ願いといったものと配置して終わったけれど、それはルルーシュをきれいに退場させるためにという都合もあっただろう。亡国のアキトにおいては解釈を少しズラして、呪いめいたものとして焦点があてられている。

最終章で提示されるのは呪いと浄化の特殊能力、および浄化としての世界線の移動、運動の力、しかしそれでもシンの呪いは解けない。そこでは主人公や悪役といった物語の中の役割というよりも、なにやら得体の知れない呪いの渦中にある者同士が不幸な出会いを果たしてしまったように感じられるのだ。そこではキャラクターたちはその呪いの引き裂かれによって我を忘れているように見えて、鑑賞者にとっては呪いと浄化のどちらにも共感しながらもどちらにも反発するようなものが提示される。

この説話の場所によって奇妙な感覚が与えられる。ハリウッド的ではなく、日本アニメの巨匠たちのようでもなく、少年漫画的あるいはキッズアニメ的なヒロイズムに近い説話の置き場所、世界からはじきだされた文学の空間においての感覚。箱庭のような場所にいるのだろうか、壁に囲まれたような閉塞感の中に生きているのだろうか、あるいは世界を日々構成する歴史、社会の仕組みそのものによって世界から疎外されているように感じさせられているのだろうか。そこではヒロイズムは呪いにしろ浄化にしろまったく意味のない乾燥した砂漠の砂のようなものなのだろうか。そんな問いがある。


00年代、911以降の日本のコンテンツの戦争フェアの一環として反逆のルルーシュという作品があったわけだけれど、亡国のアキトは、90年代の終末思想から地続きのオタク意匠をちりばめたパルプフィクションとしての、911以降の戦争フェアの末端にあるのだろうと思います。個人と世界の問題といったセカイ系と呼ばれる少年性をめぐる問題意識やそれと連続する世界の敵の造形とそれとの対峙(ブギーポップですね)、世界線の移動やら20年間のモードを詰め込んでいるのはすでに書いたけれど、もう少し踏み込めば亡国のアキトのバグりの感覚は赤根和樹の内的世界が震災によって受けた衝撃があの時空の管理者のめちゃくちゃな存在として具現化したのかもしれません。2016年アニメクリエイターがインタビューで震災に言及することの意味はちゃんとフィルムに刻まれていて、ゼロレクイエムなんてあってもなくてもこういう存在がいれば(地震が起これば)一緒だっていう身も蓋もなさと、作品としての少年性の無様なまでの曝け出され方は通じているのではないかと思います。

そのバグりの具体性っていうのはアニメで戦争を扱うことによる、反戦厭戦、そして好戦、抗戦、のイマージュに引き裂かれながら、その稜線を描くこと。亡国のアキトにおいては、最終的に国家の枠組みからはじき出された状態での闘争が繰り広げられることになるのだけど戦争というよりは決闘的なイマージュに焦点が当たってしまう。それはどういうことなのだろうか。

架空の戦争のおいて前提とされる知識やリテラシーの場所というか、ある世界、映画の中の世界、社会や歴史があるであろう社会。そこへの想像力が……。

劇中のキャラクターたちはぼんやりと「みんなで行ってみたいね、日本に」などとどうでもいいような口調で、それが叶おうが叶わなかろうがどちらでもいい、ただ行けるものならいつか行きたいなあという程度の、少なくともプロットとしては別に日本に行くことが目的としてに置かれることはないわけです。たとえコードギアスのひとつの自立した、政治的な意図のあった作品世界の歴史の中に挿入されていたとしても、である。つまりここでは「反逆のルルーシュ」というその架空の歴史の中に「亡国のアキト」という別の作り手の意図によるキャラクターが挿入されることで本編で物語られた内容とは離れて、ロボットアニメという表現形式の自立と深化の可能性を模索することができるようになる、というわけである。

コードギアスの奇怪な世界大戦の状況下に挿入される人々、ヨーロッパ亡命した、移民としての日本人たち、異様といえば異様な設定によってその寓話性が強調されているともいえる。そういった作品の手つきの中に、このジャンルには何ができて、何ができないのか、そういう問いがある。そのコードギアスという戦争のある世界に対して、いったい何をどのように、その戦争という出来事にどう向き合わせるのかがまずは問題となるはずだ。どのような立場と態度をもってすれば、この世界に対峙できるのか……。

たとえばあるロボットアニメイマージュ。たくさんのキャラクターたちがおりそれぞれ信念を持っておりどちらが正しいともいえなく悪でもなく正義でもなくしかし対立しあう何らかの陣営に属しておりそれらがいやおうなくぶつかってしまい、それによって人が死に、また新たな対立の種がまかれそれを引き継ぎそして歴史らしきものが、繰り出される? そんなイマージュ

だが、当然ながらというか、それほど単純に整理はできないのが物語の難しさ、奥深さ、そして楽しみどころでもある。

世界との対峙の例をひとつあげれば、4章のアキトとアシュレイはロボット同士の戦闘が終わり、お互いが生身で向き合って、アシュレイがアキトに拳銃を向けてアキトは罰を望むように静かに「撃てばいい」と言い放ち、実際にアシュレイは引き金を引くのだが、その後の二人の展開については見た人は知っているだろう。それに対してなぜそんな状況になるのか? と疑問に思う者は、人が人を殺すことを渇望する類の趣味の持ち主である。「いやだって、このアニメでは設定として彼らは戦争してるんでしょう?」という思考停止においてどうしようもないし、アシュレイは撃つことをやめたのではなく実際に引き金を引いているという演出の意味さえ読み取るのを拒否しているのでしょう。

キャラクターが世界の有り様と対峙するということは、その叙事詩的な戦争というイマージュ、それらの世界設定、その世界の現実の歴史に逆らうこと、(反逆の?)ではその反逆は実際にどのようにしてフィルムの中で展開されるのだろうか。その作品世界の中で生きているというキャラクターたちがその世界の歴史に逆らうとはどういうことなのだろうか。

そもそも反逆のルルーシュ2期においてこの世界のヨーロッパの行く末はすでに決定されているのだが、シリーズのファンでもないかぎりそんなことは知らないし、興味もない。架空の世界のアニメの歴史、そこでどう振舞おうとも、そんな部分をありがたがるなんて、どうかしてる。その歴史においてはたいした意味を持たず、世界の隅の出来事でしかない。しかし、それが重要だ。

ファンにとってのその架空の世界の正史があって、その世界大戦という大文字の歴史設定の中のアンダーグラウンドで戦われたものを滑稽で馬鹿馬鹿しく不条理な戦場をフィルムにしたというのなら……。亡国のアキトという作品は果たして……。




赤根和樹のこれまでの略歴、オリジナルアニメばかりを監督してきたこのアニメ作家、亡国のアキトを手がける前に初めて原作つき、鉄腕バーディーDECODEといったものがあったけれど(言うまでもなくパトレイバーゆうきまさみ原作だ)、これも原作とはほとんど別物の半分オリジナルであり、つまり赤根和樹はひとつの場所があったとして、その場所から身をそらすようにしてアニメを作ろうとするタイプの作家ということである。そして、赤根和樹コードギアスの設定から身をそらすことで、それによって歴史の連続性を獲得することができた。コードギアスの異様な歴史の一部として語られているものを注視して、そこにある構造と制約を想像してみる。そこでは構造そのものを、その異様な歴史、コードギアスという異様さの中に装填し、脚色し、ひとつのアマルガムとしての作品を練り上げることが示されているようなのだ。


鉄腕バーディーDECODEにおいてはリュンカと呼ばれる超常の破壊衝動の力をめぐるボーイミーツガールであり、また一方で少数民族の特殊能力を軸に帝国主義の陰謀と民族浄化とその復讐をめぐる話であり、反逆コードギアスとそれらは文脈を共有しているかのようであり、(亡国のアキトの企画の話が赤根監督に行ったときはこのあたりの共通性が想定されていたかもしれません)入野自由千葉紗子の二人が相棒で1クール目のヒロインであるのは坂本真綾であって、亡国のアキトはある部分においての再話であることは言うまでもない。軽く見直してみたんですが、微妙に着地しきらずに終わっていました。 原作のスペースオペラ性との齟齬がむしろ見所だった。特に2クール目は1クールの事件での都市災害を引きずったもので、そことの兼ね合いがあって、スマートに処理されたがゆえにこじんまりとした印象を与えてしまっていたんだけど、ヒロイズムというものがほとんど存在しないまま官僚的に物語を閉じてしまっていた。どうしようもないことをどうしようもないこととして受け入れる物分りのよさがあった。ここで性急に言えば、亡国のアキトは赤根作品として前作よりは物分りが悪くなった作品というようなことがいえる。

一方で初監督作のエスカフローネ女子高生思春期の揺籃の保有地としての異世界ファンタジー。これも亡国のアキトにとっては引用した遺産。特に劇場版などの構図はもうほぼ引き写しというくらいに。主人公とその兄が囚われた虚無とそこに顔を出すヒロインと、リメイクかというくらいメインプロットは似ている。亡国のアキトはそこに90年代年代以降のエンターテイメントの素材や、設定の中での対立構図の描き方にミッション性が加わって、現代的な娯楽アクションの魅力を獲得しているわけなんだけれど、その遺産と現代性のマッシュアップにはアイカツラブライブすらその共通した影響圏にあるというか、キャラクター性の描き方は共通項があるというか、同じ場所にあって、お前本気で言っているのか、という失笑が聞こえてきそうだけど、たとえばレイラ・マルカルと星宮いちご高坂穂乃果の持つ資質、あるいは振る舞いを想起すればいい。同時代の2010年代のヒロイン像、役割がそこに見出される。それはその人物と接触することによって起こる劇中でのアフェクションの数々、亡国のアキトを貫くのはレイラ・マルカルという人物のもたらすアフェクションによってプロットが駆動していることを想起すること。それはあの最終章のバグりにおいてすら響いてくる。つまり、主人公としての特権性はアキトではなくレイラにある。


そして、るろうに剣心のテーマとしての不殺と赦し(この不殺というものが大いに嫌悪されるようになったのがここ20年くらいの時代性でしょう)。ここではパトレイバーから志々雄のクーデターなども共通性としてからめられるだろうけどそういった少年漫画のエンタメの美学的要請、悪役との神話としてのバトル、それらとは微妙に、少しだけズレた異なるひとつの線が感じられる。似ているけれど、微妙に違う。むしろ、それらがあったから成立しうるかもしれないもの。不殺と赦しがロボットアクションのテーマになる、そういったものがあることさえ戦時下戦争状態の中での不殺といったことがいささか突拍子もない間の抜けた選択に見られるようになったのが10年代にとっての現代性(の一つの側面)だということも忘れてはならない。たとえばハリウッドにおいてもフューリーという戦争映画のサディズムこそが本当に描かれるべき戦争の姿なのだと説得されかかる、そんなこともあったわけである。あるいは鉄血のオルフェンズにおいて三日月が序盤で人をためらいなく殺すことで一部のファンはハードな世界観のガンダムだと色めきだって喜んでいたこともあったわけである。そして一方、亡国のアキトではアシュレイという部下の敵を討つために死地に赴いた復讐の鬼がアキトたちとの戦いに敗れた後に憑き物が落ちたかのようにして一転し味方になることに対してリアルではないとしシラけて、最前線の兵士たちにむかって「戦争しているんだから殺しあって当然でしょう」という恐るべき思考停止と身の毛もよだつようなサディズムをふりかざしながら戦場のリアルを切望する人がいることを忘れないようにしよう。しかしそのサディスティックな、あるいはマゾヒスティックな立場に同化を切望するにしても結局のところただの欲求不満のはけ口になっているだけのことが多い。肝心なのはそのふたつのリアリティをつなぐ稜線だ。

亡国のアキトでもサディズムがないわけではない。そういった残酷のリアリズムはアシュレイの復讐よりもユキヤのヒロイスムにおいて示される。それは鉄血のオルフェンズに近い、いわゆる「仲間のためにどんな汚れも厭わない」という残酷のヒロイスムがユキヤにはある。3人組の中では常に一歩引いていて物事をさめた目で見ている皮肉屋がそのようにヒロイックさを見せて、アキトには相手を殺させず、しかし自分は爆弾魔として大量殺戮すらやってのけるという異様なメンタリティであり、戦時下の兵士のリアリティ移民の兵士の狂った仲間意識を体現している印象がある。これらは十全に描けているわけではないし、上映時間の制約でひたすら内面描写らしきものをそぎ落としてほとんど行動のみを捉えているので、ある程度は作品に転移しないと支離滅裂なものとしてしか感じられないでしょう。最終章で世界を愛せると気づいたユキヤも戦場に向かいまたその手を汚すのであって、戦場、地上戦の最前線の不条理さがここにはある。これもヒロイスムをめぐるブラックジョークだ。

さらにたとえばひとつの傾向として、「血みどろの殺しあい」というイマージュに正当性をどれだけ与えられるのかを競い合うように、それがあればあるほど優れている、といったような価値判断が下されることがある。キャラクターたちをそこに囲い込み覆いつくされたものをみて、この作品は優れている、と思うことがある。亡国のアキトはそういった感覚からへの言及から始まる。つまりはその異様な世界に囲い込まれているのだと証明する生贄としての登場人物がフィルムに現れることになる。

亡命した日本人たち、という異様さを認識することから始めなければならず、それはまずカミカゼじみた日本人の少年たちの自爆から始まる。そして最終章では敵方のキャラクターが城への突破口をひらくために自爆する。マッドマックスのウォーボーイズたちの持つ、死への栄光、英雄への扉、そういったビジョンすら与えられない日本人の少年たちの、ヨーロッパ亡命した日本人たち家族の市民権獲得のためにと自爆から始まる異様な光景。祖国が戦場になったせいでヨーロッパ亡命し、アンダーグラウンドで生きる少年たちという偶然にも現実の世界とダブるようなことにもなっているけれど。(フィクションでこの社会問題を扱うのは相当神経質になるでしょう。さらにアクションものとして成立させるとなると)

これらは作品を終わらせるための3章以降とは少し離れた場所に、1章ではその祖国を亡くしたことに対する喪失感を強調するレイラの罪悪感を吐露するようなモノローグがある。劇中のプロットとしてはおそらく切り捨てられた部分、そこに拘泥してみるのもいいかもしれません。インタビューでは彼らの黒と赤のパイロットスーツのデザインなどは拘束衣をイメージしているそうで、これは作中の立場というか歴史の上に置かれた者たちが拘束されてあるということですね。

世界からはじき出されてあること、それはエヴァンゲリオンもそうだし、思春期の揺籃のカリカチュアだけれど、亡国のアキトもその少年性のイマージュは色濃く受け継いでいる。

たとえば動機、メタ視点で見るものに対しての物語での行動原理、そういったものがあらかじめほぼ剥奪されている。せいぜい亡命先から日本に帰りたいというようなぼんやりとしたものしか持てず、アキトに関してはただほとんど生きているから、そういう状況下だから軍人として戦っているのだと韜晦が示されるだけで、むしろ主人公であるはずのアキトが死への情動に雪崩落ちようとするところを、レイラとほかの3人組が引き上げようとすることを軸にして物語は展開していく。いくらレイラが居場所を与えるといっても現実に作中世界の仕組みを変えることなどできないし、アキトはシンの呪いに囚われているし、ユキヤの狂った自己犠牲精神にしてもどうしようもない。しかし出会うことによって確実に何かが変化しつつあることも事実なのだ。

ここで私が言いたいことはこの作品がその身を横たわらせようとしている場所、そこから見えるもの、アニメの世界の架空の歴史の中に放り込まれた作品というものの意図である。

ここで新しいひとつの稜線が少しずつ出来上がろうとしている。ひとつの作品世界の歴史が存在し、さらにその別の場所、離れてはいるけれど隔絶はしていないもうひとつの世界の場所へと、その稜線がフィルムにうっすらと描かれはじめる。



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すでに書いてきたけれど、重要なのは主人公のアキトよりもヒロインのレイラと悪役に配されたシンである。ブリタニア皇帝を殺すと息巻いてるシンはこの時点の作品の中の世界情勢において、反逆1期ルルーシュの目的とほとんど同じ、つまりは革命の担い手だということを認識しておく必要がある。植民地主義に染まろうとしている異様な世界においての革命、許しがたいほどに醜く見える世界において、シンが目指す革命の成就とは、この世界が滅びることであるというわけである。なぜといってそうでもしなければもはや回復が望めないほどにこの世界は失敗してしまっているのだから。そして自分の愛するものたちを救うためにはこの世界は滅びなければならず、自分の愛する者たちが救われなければならないほどに失敗した世界に生きていくことに耐えられないという倒錯がシンというキャラクターに与えられている。

その倒錯の中でシンは絶対的な自由希求という夢想の革命家として語られることになる。シンという人間にとって世界の崩壊はその絶対的自由のために必要な条件であり、コードギアスという作品の設定はその条件にそぐわない、つまりは、この世界は生きるに値しないという呪いにかけられることになる。そこにおいてシンは救世主としての悪役になれるのであり、彼の言葉にある程度のシンパシーを感じなければこの作品はひたすら上滑りするものとして映るだろう。しかしここではまたしてもユキヤが2章の作戦中にロケットから地球を眺めたとき「ぶっ壊れちゃえばいいのに」と口にしたことを思い出させる。彼らはほとんど同じことを考えているのだ。ということはおそらくは、鑑賞者たちにおいてもいくらかは彼らと同じように……。

この倒錯したヒロイスムと革命のビジョンからロボットアニメという馬鹿馬鹿しい素材でいったい何を表現できるのかということ。アニメにおいて戦争映画のエクリチュール、戦争に対する思索、現実への照射、パトレイバー2のある側面は逆襲のシャアへの返答として作ったということなのだが……。

「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人間に絶望もしちゃいない」

逆シャアでのアムロシャアに向かって言ったセリフ。これはパトレイバーの思想犯たちに向けられてもいいし、悪役としてのシンに向けられてもよい。つまりはそこでガンダムからパトレイバーからコードギアスへと敷衍していくロボットアニメとしてのビジョンがある。元々こういった暴力的な支配と統治によるイマージュというのは物語としては避けられることが多く、シャアや帆場や柘植だけでなく、コードギアスにおいてもルルーシュ父親と兄のその救済と統治を否定することでエクリチュールを生んでいったわけです。亡国のアキトもその伝統を引き継いでいる。それがマクロ的なスケールの、つまりルルーシュが世界規模でそのビジョンを展開していて、亡国ではミクロな範囲で同じことをやっている、アンダーグラウンドの歴史に強引に挿入されたという。世界の救い方をめぐるミクロな革命として。

亡国のアキトの説得力は章ごとに用意されるその戦いのステージの絵の、アクションのシチュエーションです。もうほとんど文字通りゲームのステージみたいなものです。リアルロボットとしてのアクチュアリティで都市の中で戦えるのかという問いがあってサイズもそのために数メートルのものになるような要求があって、ボトムズレイバーの志向したリアリスムを吹っ切って沼地や城や空中要塞でゴリゴリのCGアクションをやるっていう嘘をつく思い切りの良さとシチュエーションの巧みさがある。1章ごとにガッツリした画面を作れる劇場公開という形態ならでは。最終章の決戦の舞台、雪化粧の石造りの城が近代的な改造されていてロボットがそこでやりあうというイマージュがあるのだが、もう一つ、これはすごいと唸ったのが亡国のアキトで主要なガジェットとして登場するアポロンの馬車という超長距離輸送機があって、大気圏外にまで出て行ってそこから降下して敵陣に奇襲を仕掛けるために用意されたものだけど、いわゆるリアリティレベルを逸脱したもので、もちろんそれはロボットアニメのCGの実験的な意味合いもあって、どういった画面を成立させるのかということと、それ以上に世界規模の大戦、戦時下状況においてすでに国を追われている、国を亡くした者たち、そのキャラクターたちが国境を軽々と超える乗り物に乗っているというイマージュを成立させているわけです。

重力の虹ミサイルの軌道の別名で、亡国のアキトはコードギアスシリーズとして継承した「ギアス」という特殊能力をいささか軽んじているというか、重きをおいていないわけだけど、むしろそれと同等になるのはいかに歴史と関わるのか、関わろうとするのかということで、それを象徴するのがこの重力の虹アポロンの馬車の軌道に、その作品性のイマージュが託されているように感じられる。

世界からはじき出された者たちがロケットに乗るイマージュは第2章で強調されている。作品世界から離脱しかねないあの一連のシーンはすばらしい。もしかしたらこの瞬間は、作品が持ちうる決定的にシンボリックな瞬間だといえるかもしれない。戦争映画にこんな象徴性を置く、リアリスムから完全に逸脱したオーバーテクノロジーをほとんど暴力的に作品世界に装填すること。設定のリアリティレベルと、レイラ・マルカルの率いる愚連隊が持つヒロイズムのビジョン、世界を貫くほどの強烈なヒロイズムとその大気圏外から眺める世界というイマージュがフィルムの上に配置されている。

ここでようやく、彼らの主人公性、もうこのフィルムにおいては絶対的な立場の強度が、鑑賞者側からは確認できるようになる。歴史からはじき出されようとしている者たちが今までとは違う世界を眺めて、もう一度その世界に帰還する、というような。ここはとても不思議な感覚である。(地球は青かったみたいな、宇宙から見れば国境線はないなど、そういったビジョンは使い古されたものだけれど、このワンダーな感覚は、それでも戦うためにもう一度世界に降り立つ、戦時下の悲劇的なイマージュを背負わされているせいだと思います)

そして、アポロンの馬車は作品世界の設定としてはオーバーテクノロジー、つまりバグであって、象徴的な意味での聖杯の争奪戦、シンは戦略上の意図をもって、本国ブリタニアにそれを使用し、世界崩壊の第一歩としようと目論み、その軌道をもって世界に対しての戦争を仕掛けようとする。つまりは、ここに世界を貫く二つの革命のビジョンがある。その片方、シンが持っていないものを持っているのがレイラ・マルカル、WZERO部隊という構図がある。超越性のイマージュの争奪戦。 アポロンの馬車というのは作品世界の自由と革命をめぐる聖杯、革命への約束の道しるべでもあるのだ。レイラたちにとっては、自由を、この世界にあるはずの自由としての象徴的なアイテムが、シンにとっては世界を騒乱に叩き込むための重要なアイテムとして置かれるというわけです。

あきらかにそれまでの作品のリアリティレベルから飛躍したように思える描写。それがイマージュとして作品性とむすばれているのである。

ロケットの軌道が描かれ、稜線が続く。引き裂かれていたはずのものたちが少しずつ互いの存在を認めはじめる。


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さて、その稜線はどのようにしてつながっていくのかというと、どうやら管理者はレイラに関心があったようなんだけどもシンをどうにかしたのはレイラではなくジャンだったし、シンのことを呪いから解き放ちたいのはジャンでありそれはアキトも一緒だったのであり、ユキヤやアヤノの担った一連のシーンの、(世界を愛することも含め)、この人間の愛情とか、世界を愛せるようになることっていう自意識のゆらぎは管理者にとってはバグっていうことです。で、この作劇も、娯楽作品として、おそらくはというか半分はバグである。超越的存在に特権性を認められたヒロイズムの対決で死闘の果てに勝利するようなものが最適解(見終わってすっきりする程度の意味ですが)なはずで、そうはなってないけれど、そのバグりこそが作品性なのでしょう。

反戦的なテーマだったり世界観というものは00年代に入ってから急激に後退しているのがここ20年の時代性だと言ってきたけど、亡国のアキトは反戦で、不殺で、赦しがそのアクションの中心に置かれているので、これも完全にバグです。時代性の中のバグ、つまりは美学的な折衷。いわゆる「世界は残酷」っていう流行の美学支配的なムードの中に、説得力のあるアクションを配置してそのテーマ性が展開されているので。そしてBRSというSFガジェットとレイラのギアスの謎めいた描写、つまりは、戦争下、戦場においての共振、共鳴の模索のための作劇すらバグのひとつにあげられるのでしょう。(この共振共鳴の模索される場所は後で触れます)

最終章では、歴史の中、設定の中で疎外されていくものたちがギアスという呪いをめぐって、あるいはアポロンの馬車という超越性をめぐって、それさえも半ば関係なく、ただひたすらその状況を狂気の根拠にして戦っているような構図で、しかしそこに注がれる手つきはサディズムに陥ることはなく、それぞれがそれぞれの狂気に対して抗う根拠を示すために戦われているかのようだ。どういうわけなのか、リアリスムの重力は作品に誠実であろうとすればするほどまるでキャラクターたちをもがき苦しませるために存在するかのようなのだけれど、私たちは知らず知らずのうちにそう思い込まされているのではないだろうか。何かリアリスムを壊すような出来事が起こった時、そんなことはありえないと反発するように、そう思うように仕組まれてきたのではないだろうか。ときおり、いくつかの作品がそれを突破するにせよ、いまだに私たちは否定性のリアリズムを称揚することがあるべき姿なのだと信じ込まされているのではないだろうか。もしかしたら、鑑賞者にとっての世界の敵のようなものに。

そしてそこで問題なのは、物語の中の否定性によって抹殺されかけているのはまず何よりも「悪役」を任された者たちであるかもしれないということなのだ。世界の残酷に背を向けて破滅を願うほどに。もしそうであるなら、作劇のミッションはその否定性の呪いから脱出するために、つまりは世界を悪役からではなくて否定性の残酷から救い出すために、その共闘のためにどんな支援が可能なのかということである。そのようにしてアキトはもちろん、アシュレイもジャンもシンにかけられた否定性の呪いを解除することがその目的になり始める。

その稜線はどこに描かれようとしているのだろうか。そしてレイラ・マルカルが、星宮いちご高坂穂乃果と同じヒロイン像を託されているということとは、いったいどのような稜線が描かれていることになるのだろうか。

おそらくそこにこそこの作品の一番の特異がある。コードギアスの歴史設定の中に文学の空間を作り出し、ロボットアニメとしての戦争映画に劇場版パトレイバーの構図を装填し、それを覆し、それをせき止めてしまうだけの何事かがあるならば。

つまりはここで、聖性が、ヒロイズムの貌がようやく姿を現す。世界にそれが装填される。だがもう少し検討が必要だ。


この作品の語り口においては、コードギアスという世界の歴史への手つきは全体性への関わりが不可能という制約があり、マクロなものを志向しない。しかし伝説的な登場人物たちをマクロ側の歴史から引き摺り下ろしてくる。それは3章から本格的に出番が与えられるルルーシュスザクということになるのだが、ここでおもしろいのはシンはことのほかスザクに共感を示す。破壊衝動、世界への憎悪という悪意へのシンパシーがここで一気に静かに炸裂してしまって、一方でルルーシュは架空のテロ演出して物語の構図に輪郭を与える軍師の役割で、それを引き継いでシンはクーデターを起こす。だからあの二人はまさにシンの悪意をプロットの上でより激しく炸裂させるために出てきたようなものである。この二人がプロット上での役目を終えて牢屋に入れられているというのも象徴としての閉じ込めであって、彼らは作品でこれから展開されようとするものと交わってはいけない、つまりはルルーシュギアス、絶対遵守という特殊能力、00年代に夢見られた革命のためのビジョンと、亡国のアキトが提示してきた多くのものは同じ世界の歴史の別の出来事として語られなければならないからで、それはレイラのギアスやBRSの描写において示される、共感共鳴共振の試みと、反逆のルルーシュという作品が提示したヒロイスムは、同じ時代にあった別のものとして鑑賞者に記憶されなければならないからです。00年代と10年代のビジョンの違いといったものとして。


そしてそこで意図されたのは、メタ的にこの二人を歴史の証人として立ち合わせることだったように思われる。劇中のプロットとしては膠着する戦況を打破するために謀略を仕掛けて侵略行為を演じてみせ、それによってシンという破壊願望が着火するようにして亡国のアキトという作品の物語が終わるためのミッションが本格的に開始されるわけだ。(何度も言うようにプロットのイメージとしてはやはりパトレイバーから拝借している部分が大きいけれど、押井守がやろうとしなかったことを敷衍しながらその部分を活劇娯楽アニメとして提示できているところも大きい)

亡国のアキトのキャラクターにあるのは歴史の狭間に挿入されたときの汚辱である。むろんそんなことは当人たちは自覚しないそれが分かるのは作っているものと見ているものつまりは現実の歴史にいる私たちだけである。亡国のアキトにおいては、滑稽で馬鹿馬鹿しく不条理な戦場こそが、その場所こそが活劇娯楽アニメバグヒロイズムが開かれるための文学空間として存在する。


その状況として、戦争映画としての状況をまず提示すること、地域があり、国があり、歴史があることナレーションなどで端的に示される戦時下の状況として描かれていることが何よりも強調されなければならないことである。亡国のアキトという作品の物語は、反逆のルルーシュで語られた歴史に対してほとんどひたすら受身である。この受身がどれくらい受身かというとガンダムUCと比べれば理解しやすいかと思う。架空の歴史に対する態度の違いがある。それは作っている人も扱う素材も違うのだから当たり前なのだけれど。「戦争よ、お願いだ、止まってくれ」と悲痛で切実といえなくもないユニコーンのロマンティスズムがあり一方で亡国のアキトの歴史との関わり方はほとんど戯画化された戦争状態、状況への雪崩れ込みがそこでは描かれているわけだけれども。つまり、同じようにすでに決まった歴史設定の中にキャラクターを囲い込みそこで何事かを演じさせる収容所がこの種のアニメの不可避の構造になる。

アニメキャラの収容所であるこの場所で亡国のアキトは何やっているというのかというと、そこでは別に徹底した歴史の汚辱に塗れた者たちを救おう、というものなどではない。むしろ、その汚辱に塗れながら異様な歴史の上でうごめく亡霊たちのヒロイズムがかき鳴らされることが目指されているかのようであり、そしてそれは対立するはずのキャラクターたちがその叩き込まれた状況において等しく同じヒロイスムをかき鳴らしているということになる。



4章の後半からのレイラはぶっちゃけヒロイズムの化物である。シンと握手するときのあの微笑や問答での煽りっぷり。アキトの前に立つ姿。特権的なヒロインとしてなかば怪物的な存在になってしまっているかのようだ。しかしことはそうおどろおどろしいものではない。基本に立ち返ろう。創作態度の話だ。コードギアスというシリーズにおいて、その超能力アクションとしての自覚、キャラクターたちの自身が能力者であるという自覚、それはシンという悪役においてすらなかばぼやけたまま劇がすすむ。少年ジャンプふうの能力バトルが展開しないようにする配慮だといってもいいけど、だがそれはクライマックスにおける大ネタとしてのとっておきなわけだ。つまり、劇中の文学の空間にはじめてギアスの自覚的な発動、レイラが本当にそれを欲したときに炸裂する時限爆弾がその空間に用意されていたということである。

そこで発動されたものは、紀里谷和明キャシャーンで提示することのできなかったものだと言ってもいいし、あるいはスタードライバータクトが「僕には見えている」と言ったものとほとんど同じものだと言ってもいい。そのジャンヌダルクの天啓と重ねあわされるギアスという能力がヒロイズムとして劇中の世界に装填される。しかし、レイラの持っているであろうヒロイスムと理想はこれまでどのように扱われてきたのだろうか。4章の演説はスマイラス将軍に利用され市民感情を刺激するための材料だでしかなかったし、そして市民はレイラの演説内容を咀嚼する暇も与えられず動員されるがまま戦争に邁進していこうとする。一方でアキトたちとは通信が切れたままで、つまりはレイラは自分が英雄的な政治家の娘であったり、自分の考える理想とか立場とかあらゆるものを否定されつつあったのが4章のプロットだった。しかしその実まったくブレてないという特権性、ヒロインとしての役割ももちろんあるんだけど、あの変貌ぶりはやっぱり一種の怪物としかいいようがない。シンと世界観をぶつけあうところとかあれは別に相手を怒らせようとしているのではなくて素で相手のことを「かわいそう」と思っているはずである。あのシーンはもうほとんど、狂人同士の会話といってもいい。どっちも本当のことを言っているのにそれぞれまったく別のことを言われているように受け取り、お互いに憐れみ、怒る、という共犯的なアジテーションが静かに進行していく。ボートで城から出て行くシーンでモアザンワーズが流れる直前の笑顔、あの瞬間にレイラ・マルカルが10年代的な、アフェクションのための媒介、世界を駆動させるヒロインとしての役割を負っているんだと初めて明かされるというか、つまり、それ以前の諸々の劇中設定から拒絶されてはじめて、そのヒロインの機能が本当に駆動することになる。その決定的なアフェクションの対象は、もう一人の革命のヒロイズムの体現者であるシンであるという。

そして一方のシンは全世界を一挙に革命化するというビジョン、これはまさしく本当にあの世界にとっての、良きものである可能性があるのだ。その革命の騒乱によってはブリタニアという帝国の植民地支配が霧散し、あるいは世界中が荒廃してしまうかもしれないにしてもそれが大いなる救済の後のやり直しの機会のひとつにもなりえるかもしれなかった。だがそれは実現されず、シリーズ本編でのああいった世界情勢が続くということになることを鑑賞者である者はほとんどが知っている。いわば、この作品でのヒロイズムは役割としての、作劇の、便宜的なものとしてか現れえず、だからこそ、強力な磁場を持った寓話、正史の狭間に置かれた可能性としての寓話のように感じられるのだ。



だからシンの革命もレイラのヒロイズムもスマイラス将軍の野心も民衆の心もすべてが等しく「失敗するために」歴史の中に置かれる。そこでは彼らのビジョンはお互いがお互いを汚辱に塗れさせるものなのだ。この作品においてはそういった汚辱から逃れられている人物はどこにもいない、舞台設定としての汚辱といってもいい。パリの民衆たちがアジテーションにのることもそれを用意するもの、それを逆手に取ろうとするもの、それに気づかないもの、そういった平等な愚かしさによって誰もが歴史の証人、あるいは一部となる。

いわば歴史の中で閉じ込められ、お互いがお互いの発狂を確認するようにして、プロットが提示され、フィルムの上でやがてひとつの場所が開かれていく。

レイラは自分自身のギアスという特殊能力に何ができるのかを知らないままである。知らないというのは、つまり自分と相手が本当は何ができるのかを知らないという双方向的なメッセージであるということだ。亡国のアキトの構造に真の意味で文学性思想性が宿っているのはこの部分である。この作品に対して「これ別にコードギアスじゃなくてもいいよね」というのはまさにその通りで、ロボットアニメ、戦争映画のフォーマットの中で制約と矛盾と行ったり来たりしながら「コードギアスなんだから何らかの超能力で何かができるらしい、それなのにどうして何も起きないままなのだろうか。それともあの突拍子のない量子論のようなものがそれに該当するのだろうか」という宙吊り状態があり、その状態においてのゆらぎをこのフィルムを見ているものが想像すること、そんな企みがある。そのゆらぎの中でレイラが本当に起こしたいことと同時に鑑賞者が想像することが発現するわけです。

少なくとも、この場においてのギアスというのは異能や超能力ではなく、どのように生きるのかの哲学の顕現だといってもいい。少年漫画ではキャラの願望を投影するような超能力の発現が定番になっていますが、それをロボットアニメ戦時下状況で投影したら、どうなるのか、この願望の投影は戦争を扱うフィクションだけでなく創作に対するリアリズム全般にまで射程のあるものだと思います。つまり、「本当に自分ができる事、そのようにあれと思っていること」願望≒良心への問いかけになるわけです。作品設定の上では、戦争に負ける国の出来事、そんな制約がある中で、それでも戦争をしていることには変わりなく、そんな世界に対する願望としての生の哲学

歴史の証人としてお互いがお互いを傷だらけにしながらひとつの場所を開こうとする。異様な歴史から亀裂が走るようにして? その場所で互いが互いを直接的に見つめながら傷だらけになりひきつれた世界観、この世界は生きるに値することと値しないことを確認しながらそれでもどのように生きるのかを問いかけながら同じ場所に存在していること。ここには一種の根源的な世界のビジョンがある。

世界の悲惨さのリアリズムをそのまま焼き付けたかのような迫真ではなく、その悲惨さを飼いならそうとする統治と訓致の模索でもなく、名状しがたい悪意への敵意でも賞賛でもなく、そこにいたるまでのほんのわずかな間隙、ただその世界のある日ある場所で起きた戦いの痙攣のようなものを描かれた稜線として認めることができる。

そして、おそらくはその稜線を交互に行き来することが戦争を舞台とする、アニメキャラの収容所としてのロボットアニメにとって、ほとんど唯一の戦いであるに違いない。そしてそのようにしてはじめて、ようやくここで戦争というものが、アニメにおいて架空の戦争を舞台とすることが肯定され始める。

その稜線では、そこではヒロイズムというのはほとんど無価値なものとしてある。利用されるために、否定されるために、そしてそうであるからこそレイラの持つヒロイズムは物語の中での意味を持つことになり、そしてそうして開かれた場所こそがこの作品の到達点であるのだろうと。それは別に高らかに歌い上げられるものでもない、悲惨の慰めとして置かれるのでもない。かといって、人類に英知を授けるような態度になるのでもない。歴史との戦いの轟きそのものとしてのアニメがそのようにしてまた戦われる。

ある意味では、キャラクター性から離れたヒロイズムの観念が、自動的に(?)自己展開していくかのように感じられるのだ。もちろんは私の錯覚のようなものだけれども、いわば、あらかじめ定められた歴史設定に対しての敗北のようなものなのだとしても、それに対するゲリラ的な抵抗運動のようなものとしてのビジョンを赤根和樹は欲しがっていたのかもしれないと。それは決して雄雄しく壮麗な、ヒロイズムの高貴さとしてではなくて、汚辱に塗れた人々の生の哲学として提示したかったのに違いない。そしてそれには、そのように感じられるように作品を提供するのには、亡国のアキトという作品の奇妙な成立条件が可能にしたことである。練り上げた方法論と内包された態度の更新と達成において、この作品は10年代の活劇系アニメのなかで特権的な地位を要求してもいいだろう。




付記

去年、3章を見たときに、押井守パトレイバーという素材の成立条件において歪な娯楽映画を提示することができたのとちょっと似ているなあとぼんやり思ったことがきっかけの亡国のアキト論でしたが、ここまでちゃんと読んで、さらに納得できた人ははたして存在するのでしょうかw

声優論に少しだけふみこむならば、坂本真綾が持つ声優性が、出演するアニメーションで描かれるヒロイズムと少しだけ交錯した、そんなフィルムのようにも思えるのだった。最終章の予告キービジュアルでのあのミニスカ軍服をボロボロにして、アキトのおさげを握り締め、吹雪の中で青いギアスマークを目玉にギラつかせながらこちらを睨みつけているあの感覚、一枚のイラストのイマージュ、そのイマージュの交錯の瞬間には作品としての可能性のコアに肉薄した瞬間のようにも思えたものだった。しかしそれは見事に裏切られ、私もヒロイズムの炸裂で物語が終わることを望んでいたのだなあと。

本編の描写や落としどころから妄想できる数々の幻視はあるけれど、それはこのアニメの中で生きる彼らにとってはまた全然別の話なのでしょう。歴史の中から歴史の外に飛び出したような循環性、稜線の行き来。たとえどれだけの可能性に満ちた存在なのだとしても、べつに彼らは世界を救わなくてもよいのだ。それともあるいは、お望みとあらば……。

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2016-01-21

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グリムガル、まあ、受け皿としての、プチカルトとしてのライトノベルみたいなもんなのかしらこれは。真面目であるってこともつらいことなんだなあ。某カルトにはエリートが集まったっていうのを思い出すわ。リアルな生の実感を得ていないという自己認識において与えられるビザールな通過儀礼のミッション。ファンタジー世界でパーティ組んでバトルすれば命の奪い合いが出来てリアルな生の実感が得られるよっていう。ぶっちゃけ恥ずかしい妄想以外の何者でもないんだけど、一緒に漂流教室したダメなほうの子たちの視点にしているのが良心といえば良心。でもナイフ握ってニヤリ笑いな関智一が主人公だったとしても批評性は成立すると思うから、カルト教義の疑似体験であることは変わりない。

説教啓蒙主義に陥らないような感じでネット小説文化圏ポルノ性を批判しようとしたらカルトになってしまったっていうw

ガンツとかみたいのだと逆に作者のモードが理解できるんだけど、これはほんま謎w

TRPG疑似体験にしちゃあむだに説教くさい教条的だし。デスゲームにしちゃあ記憶ナシのマネキンだしでグルーヴないし。アニメはあのハリボテの異世界を「こんな豊かな日常がありますよ」アッピールなんてしちゃうんだけど、余計にわけわからないw それ系の描写があるんだったらSAOで攻略組とあきらめ日常組の区分けがあるほうがいいし。あの子らどうかんがえてもバトル向きの性格じゃないし、なぜパーティ組まされてるのかビタイチ納得できないんだよ。

ジャンルはヒッピイズムちゅうかボーイスカウトちゅうか、活劇モノではないよねw 職業研修みたいな。

いやまあほんとこれどう褒めればいいんだろうなあ。うえのもけなしてるつもりではなく、だって本質的にはリアルな生の実感なんてありえないわけで、まがりなりにもそれを獲得しようとしている真面目さはけなすことは、けなすちゅうか否定することはできないので。。。

たとえば30代の作家が書いて同年代の読者がいて何を思わせたいかというのと10代の読者に何を思わせたいのかといえば、職業的価値からすれば10代のほうが重要なはずで、そうであると仮定すればこの作品は10代に何をやろうとしているのだろうかなんてことも考えたときに、よくわからないのであるw 

まあたぶん、ロックンロール的なメッセージだと思いますのですが。後ろ向きなヒロイズムロックンロールみたいな。よくわからんが文系ロックみたいな。

でも、いちいちこんな職業訓練がなくても自分がヒーローではないことなんてみんな分かってると思うんだよねえ。まあそういうのを確認したくて小説読んだりアニメ見たりすることを、それこそ否定はできないであ

戦う動機とか物語の構図がまったく分からないの、自由でいいなあとw この部分は貶してますが。よくがんばるよね、あの子達w 女の子を助ける活劇ラノベじゃなくてもいいんだ! やった!

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