SFと私 双葉十三郎

 いま思いかえしてみると、私は子供のころからSF的なものが好きだったらしい。外国の童話の類には、空想の翼をひろげ、SFの領域に及ぼうとしているものが多いが、日本の作品はあまり好まず、そっちばかり読んでいたせいであろう。たとえば、「アラビアン・ナイト」にでてくる魔法のランプとか空飛ぶ絨毯など。ジャック少年の豆の木なんか、巨大植物SFの元祖みたいなものである。
 中学生のころからは探偵小説に熱中したが、とくに愛好したのは密室物である。この密室物は、探偵小説のなかでも最もゲームの要素がつよい。不可能をめぐる知恵くらべだからである。密室というその不可能な状況をつくり出すには、ゆたかな空想か必要であり、その空想には、科学技術的なものも含めたSF的な要素が含まれている。たとえば、密室から犯人か出たあと、まだ被害者か生きていたと思わせるのに、ラジオの真空管があたたまってきこえはじめるまでの時間を利用するトリックがあった。今日ではまったく成立しないトリックであるが、昔のことだからたいへんうまい着想に思われた。これは、ジュール・ヴェルヌの月世界への旅や原子力潜水艦ノーチラス号が、当時としては不可能な夢でしかなかったのが、今日では現実のものになったのに似ている。映画の影響も絶大だった。少年のころ熱中した連続活劇には、SF的要素を含んだものが多かったからである。当時としてはまことに新奇なポケット・サイズの無線電話なるものも登場した。落ちてきた隕石のなかに大きなダイヤモンドが入っていて、それを奪い合うお話もあった。殺人光線も使われた。人間タンクつまりロボットも活躍した。こたえられないたのしさである。
 しかし、中学の上級から戦争がおわるまでの長い時期は、SF的なものとは縁が遠くなった。作品に恵まれなかったからである。探偵小説は浴びるほど読みつづけていたが、今日のようなSFの出版はほとんど見られなかったし、一般の文学を読むのもいそがしかったので、わざわざ原書をさがすゆとりはなかった。読んだのは、H・G・ウエルズやチャペックの作品など、僅かなものである。日本では、小栗虫太郎の魔境シリーズなど、ひろい意味でのSFの要素があふれていたし、海野十三の作品にもこのジャンルにいれていいものが多かったが、当時は正面きってSFという肩書はつけられなかった。映画のほうも同様で、ドイツ映画の「メトロポリス」や「月世界の女」など、あることはあったがごく僅かだった。「ロスト・ワールド」や「キング・コング」のような大怪獣映画の先輩も登場したが、これまた稀でしかなく、つづけてつくられたのは「フランケンシュタイン」や「ドラキュラ」や「狼男」などの怪奇映画に属すろもの。これらもSFの一分野として扱っていいのだが、やはり怪奇と恐怖の映画のつもりで見てしまう。
 そんな次第で、私とSFの親交が本格的にはじまったのは、戦後になってからである。すでに述べたように、読みたいにも見たいにも作品がすくなかったので、縁がうすくなっていただけのこと、内外とも出版がさかんになり映画もふえて、チャンス到来となった。探偵小説がつまらなくなったことも理由の一つである。日本の作品は推理小説なんてよばれるようになったらトタンに推理がなくなり、本格物は激減。次第にサスペンスで色づけした程度のエロ小説が、推理小説でございと大きな顔をするようになってきた。とてもつき合いきれない。外国の作品は、洋書店をのぞいてあれこれと買っていたのだが、ハードボイルド全盛となり、ジョン・ディクスン・カーのような密室物はあとを絶ち、そのハードボイルド系の作品も最後までたのしめる場合がすくなくなってきた。これは私個人だけの問題ではなく、あちらのミステリー界全体としての問題で、その結果がSFブームをよぶことになったのは、ここにあらためていうまでもない。映画は出版界の傾向を反映する。アメリカでは一九五○年からSF映画がさかんになりはじめて、ブームとよんでいいくらいになった。こちらがいよいよSFムードになってくるのも自然のなりゆきである。
 SFファンにも硬派と軟派があるらしい。この分類にしたがえば、私は軟派に属するのではないかと思う。空飛ぷ円盤なんてマユツパ物か大好ぎだからである。コロラド大学が監修した写真入りの大冊「未確認飛行物体の科学的研究」などを、大よろこびで読む人種である。そういえば、私月身も十年ほど前のある日の午後、自宅から南西の方向に、映画「宇宙戦争」に登場する火星人の円盤と色も形もそっくりなやつを目撃したことがある。ただし私は近眼もいいとこだから、文字通りのUFOである。
 軟派たる私は、未来社会テーマがあんまり好きではない。とかく理屈っぼくなりがちだからであろる。コンピューターみたいなものが極度に発達して意思を持ち、人間を支配するお話はいくつもあるか、一冊よめぱたくさんである。エドガー・ライス・パロウズの《火星シリーズ》をはじめとするスペース・オベラも、はじめ数冊は御愛嬌でよろしいが、だんだん飽きてしまう。好きなのはジョン・ウインダムの「トリフィドの日」とか「呪われた村」のような侵略テーマであるが、これをつきつめれば、現実的な人間と外界からの怪奇の対決ということになる。とはいえ、どんなジャンルでも、すぐれた作品は好みを越えて面白い。だからその秀作傑作にめぐりあおうと、つい片っ端から読んでしまうのである。ファンの宿命であろうか。

ソビエトSFとの出あい 豊田有恒

 ソビエトSFとぼくの出あいは、イワン・エフレーモフの「アンドロメダ時代」と、ロソホパッツキーの「砂漠の再会」でした。それ以前にも、いくつかの短編には、お目にかかっているわけですが、あまり記憶には残っていません。というよりむしろ、欠点のほうが気になって、悪い印象しか残っていないといったほうがいいようです。
 ソビエトSFに共通する、人間性への突っこみの浅さと、イデオロギープロパガンダ臭、このニつの弱点か気になって、安心して読めないという怨みが、つねにつきまとってきました。そのころ、ハードなSFを目ざしていたぼくにとって、そこで扱われる科学的アイデアには、すばらしいものがあり、捨てがたい魅力があったのですが、とっつきにくさのほうが先になってしまったのです。
 こういったぼくの偏見をあらためさせたのは、七〇年の国際SFシンポジウムでした。そこに出席したソビエトSF作家たちと、パーソナルに話しあったのち、いろいろな無理解や偏見があったことに気がつきました。
 SFシンポジウムに出席したソビエト作家は、ソビエト作家同盟の代表団という資格で、この国へやってきました。僅か五人の一行でも、代表団であるからには、つねに公的な資格がつきまといます。団長のワシリー・ザハルチェンコ氏は、「技術青年」の編集長ですから、シンポジウムや参加作家の取材という使命もありました。その点、個人の資格で参加したA・C・クラーク氏など、英米のSF作家とは、まったく心構えがちがうわけです。しかし、だからといって、ソビエト作家が、あつかいにくい、きゅうくつな人間だったわけではありません。それぞれの国の体制のちがいによって、人間が違ってしまうわけではありません。せんじつめれば、どこの国に住んでいても、人間であることに変りはないということになります。
 エレメイ・パルノフは、ダンスの名手で、F・ポール夫人をパートナーに、ホテルのバーで妙技を披露してくれました。ユーリ・カガリツキーは、ジョークが得意でした。共同コミュニケの作成に、日本側のみなさんが困っていたとき、「どうせなら、こういう書きだしは、どうだい? ニ十世紀の最後の四分の一は、サイエンス・フィクションという名の亡霊が徘徊することになるだろう」いうまでもなく、これは、カール・マルクスとF・エンゲルスの「共産党宣言」の書きだしのパロディです。ウクライナのSF作家ワシリー・ペレジイノ氏は、いかにも人のよさそうな小父さんで、英語も日本語も話せないのに、だれからも親しまれていました。団長のザハルチェンコ氏は、いかめしい研究熱心な人で、日本のものは何ひとつ見のがすまいとしているかのように見えました。
 こうしてパーソナルなつきあいを通して偏見がなくなったところで、ソビエトSFを見なおしてみると、いろいろな点に気づきました。ソビエトSFには、あまり破滅テーマを見かけません。未来に全世界が共産主義化してユートピアになっているはずだから、人類の破滅などとんでもないという、天降り的な制約があるのかと思っていましたが、どうやら、そうではなさそうです。たしかに、全体主義の惑星を描いてストルガツキーが批判されたように、いくつかの思想的なタブーがあるようです。しかし、考えようによっては、程度の差こそあれ、それはどこの国にもあることだと思います。ソビエトSFの特徴は、科学というものの考え方のちがいによって、小説的な構成が変っていることだと思います。つけたりの恋愛や、平板な悪人の登場など、小説作法としては、疑問の点がすくなくありません。しかし、あの国のSF作家は、そこが書きたいのではないのです。あの国では、科学者という人種が、たいへんおもいきった発言や行動をします。火星の衛星は人工のものであるかという類のことです。そこで、あの国において、SF作家として食べていくためには、もっととんでもないことを書かなければなりません。SF作家は現在の科学知識をペースにして、知的なゲーム性をもったアイデアを、さらにソフィスティケートさせなければならないのです。
 そういうSFが是が非かということは、ここでは論じません。しかし、それが、あの国のSFというものなのです。日本でならさしずめ架空ルポの形をもった未来論や、科学啓蒙読物とよばれるようなものも、あの国では、ナウチナヤ・ファンタスティカ−−つまり、SFの範疇のうちにはいってしまいます。そこでは、アイデアの面白さが、とことんまで追及され、知的な読者に提供されます。
 このシンポジウムを機会に、ぼくも、じっくりソビエトSFを読みこんでみたいと思っています。

十八世紀の火星旅行記 種村季弘 

 ――SFの古典というと、どういうわけか島ユートピアの話と月世界旅行がほとんどだね。月は近そうなので、月世界旅行なら実現可能と昔から思われてたせいかな。
 ――いや、月は死者の国と考えられていたから、月世界旅行は冥府降下神話の変形だろうね。ホメロスから、バロック文学の昇天幻想まで、夜と死への憧憬が月世界旅行記の基盤となっている。そうはいってもシラノ・ド・ベルジュラックなんか太陽の国旅行を書いているし、ヴォルテールシリウス星と土星の住人が地球に寄り道する話を書いているらしいね。パロックも後期に入ると月世界ばかりが異界ではなくていろいろなヴァリエーションがあらわれてくる。啓蒙主義時代となると、もうずいぷん現代に近いよ。そういえばこの間もドイツ後期啓蒙主義時代に書かれた、カール・イグナツ・ガイガーの「ある地球人の火星旅行記」(一七九〇年)というのを読んで、とても面白かった。
 ――十八世紀の火星旅行記か。そりゃ面白そうだな。ユートピア物語かい。
 ――終りの方になってモモリーというユートピアが出てくるんだけど、そこへたどり着くまでのパパグワン、プルンパツコ、ビリビイなんて国は、まァあんまり住みよい国じゃなさそうだな。最初のパバグワン国というのは一種の神権国家で坊主が絶大な権力を持っている。王様が善政を布こうとすると、皇太子をたぶらかして毒殺しちゃう。プルンパツコ、ピリビイの両国は軍神マルス(=火星)の名にちなんで、物凄い軍事独裁制国だ。
 ――聞いてるとなんだか啓蒙主義の政治諷刺的バンフレットみたいだけど、SF的な奇想は凝らしてないのかい。
 ――かなりあるんだ。たとえばパパグワイ国では家がローラーの上にのせてあって絶えずあちこちに凄いスピードで動き回っている。引っ張っているのはラクダに似た火星生物で、上流階級になるほどその数が多くなるというわけだ。そのためにパパグワイ国では都市が定った場所に形成されない。一夜にして砂漠のまん中に大都市が出来上っているかと思うと、つぎの日にはもうなんにもなくなっている。食事の習慣も面白いよ。食事が自動的に動き回って欲しいと思うと皿がすぐ眼の前にくるものだから、サービス係の従僕が必要ないのだ。宗教的な慣習も、毎日いたるところで神様の肉を啖うとか、かなり奇想天外だけれど、反教権主義的なキりスト教のパロディーの尻か割れてくるとこれは案外つまらない。
 ――すると作者は、反教権、反独裁、反封建主義的な啓蒙主義的知識人なのだね。
 ――まアそうだ。青年ゲーテと同時代の急進的な自由思想家だね。故郷のエルリンゲンの領主をからかったために追放されて、ニュールンベルク、パイロイト、ライブチッヒ、ミュンヘン、イェーナなどを転々とし、半生を放浪のうちに過して病死している。アングロマニアだったガイガーの理想は英国風の議会民主制を封建君主制のドイツに移植することにあったらしいが、晩年にはより急進的にルソー主義に傾倒し、どうやらドイツの神秘主義的秘密結社光明派の首領アダム・ヴァイスハウプトとも接触があったらしい。
 ――しかし先刻の話だと、パパグワイ国では坊主どもの謀略にたいして毒殺される王様の「善政」に同情的だったようじゃないか。とすると当時の妥協的な啓蒙主義者ニコライなんかと径庭のない政治的俗物にすぎないみたいだな。
 ――理論的には個々の封建領主の善政悪政か是と非とで観察するよりも、君主制そのものの急進的な否定にまで到達しているのだけれども、現実にはヨーゼフニ世のような開明的進歩的な君主にドイツ統一の希望を託していたらしいね。ヨースト・ヘルモントというガイガー研究家の説だと、パパグワイ国の王様のモデルは実際にヨーゼフニ世その人だったらしい。ところかガイガーの伝記では、あらゆる君主や大学で門前払いを食ったり冷飯を食わされたガイガーが最後にヨーゼフニ世に保護を求めにいくと、先方は「余はすでに保護しなければならぬ人材を十分抱えている」というので、あっさり満員御礼の札止めを食ってしまう。不運な男だ。
 ――小説にもどろうか。最後にたどりついた理想の国モモリーはさぞかし種もあれば仕掛けもある結構づくめのユートピアなんだろうな。
 ――あにはがらんや通常の意味でのSF的な未来風景は絶無なんだ。人びとはほとんど着物も着ていないし、科学的な便利はひとつもない。朝、太陽の出とともに起きて落日とともに寝る、いわゆる「単純生活」だね。モダンなところが全然ない、むしろ東洋的な桃源境に近い。モアのような理想秩序すらないので、老荘アナーキズムとたいへんよく似ているような気がする。そこら辺がかえって非常に現代的かもしれないね。現代的といえぱユートピア・モモリー国には一種のフリー・セックスが公然とおこなわれているんだ。地球人が道ばたで真昼間からお祭をはじめている連中のそばを通りすぎても全然動じない。私有の観念も、したがって財産譲渡の慣習もないので、誰の子が生れようと一向にかまわないんだね。原始母権社会の共産制というより、いまのヒッピーみたいだな。この理想国のモデルは流亡先のひとつスイスの高原地帯アッペンツェルの農
民生活だそうだ。ガイガーはアッペンツェルの農民たちが「労働」にではなく「踊りと遊戯」に生活のリズムの基盤をおいていると考えていたらしい。
 ――ますます東洋的農本主義の美的至福だな。
 ――小説の冒頭でも主人公はヨーロッパではない世界大陸にいて、飛行方法も当然数年前(一七八三年)にフランスで実証されていたモンゴルフイエ兄弟の熱気気球が使われるのが本筋なんだか、わざわざ一六七○年頃のシナのジェズイット会士P・ラナとスペインのバルトロメウ・ロウレンコ・デ・グスマノのあやしげな空気気球発明の記録を引っ張り出してきて、その古めかしい装置で昇天している。これは気球というより一種の空気船で、舵手のほかに数人の漕ぎ手か乗船して古代のガレー船のように空中を手で漕いでいくのだ。ガイガーは当時のジェズイット教団産業革命と結託して、善男善女に教会で綿労働者になるように説教しているのに憤慨しているから、当然技術工業文明を敵視している。その意味ではたしかにお説の通り、東洋的な美的アナーキストといえるかもしれないね。ともかくSFといえば白痴的な未来信仰技術礼賛一色の現代に、こん
な後向きの急進啓蒙主義者(!)の火星旅行記が発掘されてくるのもなにかの予兆なのだろうな。なんでも原本はミシガン大学に一冊しかないそうだけれど、一冊でも残存していたのがノアの奇蹟だろうね。

翻訳者紹介

飯田規和(いいだ・きわ)
昭和三年山梨県に生まれる。
昭和三十年東京外語大学ロシア語科卒。。
ソビエト文学研究家。
主訳書
 スタニスラフ・レムソラリスの陽のもとに」(早川書房刊)
 H・E・コプリンスキー「電子頭脳の時代」(理論社刊)
 ユリアンセミョノフ「ペトロフカ、38」(早川書房刊)


草柳種雄(くさやなぎ・たねお)
昭和七年東京に生まれる。
昭和三十東京外語大学ロシア語科卒。
ソビエト文学研究家。劇団「風」所属。
主訳書
 へルマン・ウイレ「水の世界」(誠文堂新光社刊)
 イリヤ・ワルシャフスキー「夕陽の国ドノマーグ」(大光社刊)


太田多耕(おおた・たこう)
昭和ニ年長野県に生まれる。
法政大学政経科卒。
日ソ学院講師。
主訳書
 ヴェ・カターエフ「草原の家」(新日本出版社刊)
 ア・ボロジェイキン「ノモンハン空戦記」(弘又堂刊)