2018/04/28 浅草橋散歩 01 神田駅/大和町/美倉橋/美倉橋ガード/浅草橋駅/圓福殿辨財天

24時間勤務アケで、神田から浅草橋経由で浅草近くまで歩き、浅草橋までまた歩いて戻ってゴール。
坂などは無かったので歩きやすかった。



◆神田駅



大和町




江戸時代のはじめまで、この界隈は、武家屋敷が立ち並び、通称「元誓願時前(もとせいがんじまえ)」と呼ばれていました。
この地が「大和町」と呼ばれるようになったのは、享保年間(1716年〜1736年)のことです。もともと竜閑橋(りゅうかんばし)(現在の内神田二丁目にあった橋)の北側にあった大和町に住む人々が、ここに代地を与えられ移転してきたため、大和町代地となりました。
幕末のころには、この町から隣の東竜閑町にかけて、駄菓子問屋が数百軒ほど軒をつらね、ずいぶん賑わっていたようです。またここには、蝋燭やべっこう細工、箪笥などをつくる職人も多く住んでいました。
明治二年(1869年)、大和町代地は、神田元柳原六丁目、神田久右衛門町二丁目代地、神田佐久間町四丁目代地、横山町三丁目代地と合併して、神田大和町となりました。
明治四十四年(1911年)に町名はいったん大和町と変わりますが、昭和二十二年(1947年)、神田区麹町区が合併し千代田区になると、ふたたび神田大和町に戻ります。そして昭和四十年(1965年)、住居表示の実施により周辺の町の一部と合併して岩本町二丁目になりました。






◆美倉橋







◆美倉橋ガード




浅草橋駅

良く見てみると、変わった形の駅だよね・・・。




◆圓福殿辨財天



続く。

2018/04/28 浅草橋散歩 02 銀杏岡八幡神社/浅草橋須賀神社/加賀美久米森稲荷/陣内神社/鳥越神社/浅草天文台跡

この日記のエリアは蔵前駅西側あたり。
急に史跡が少なくなり、巡るのは神社がほとんど。
なんでこんなに史跡が少ないんだろう?



◆銀杏岡八幡神社





此葉(このは)稲荷神社





境内社



子守唄と銀杏岡八幡神社

江戸時代に伝わった我が国の子守唄やわらべ歌を集成し、高く評価されている「童謡集」は釈行智(しゃくぎょうち)の著によるものです。
行智(1778〜1841)は、銀杏岡八幡神社の氏子一同により享和三年(1803)別当寺として勧請された覚吽院(かくうんいん)にて阿光坊と称して修験僧となり、後に住職となるなど台東区にゆかりがあります。
行智は、採録した子守唄を「寝かせ唄」「見覚め唄」「遊ばせ唄」など細かく分類し、子供の暮らしの背景がよく解るように書き残すなどして、その伝承に努めました。



鳥居





◆浅草橋須賀神社








◆加賀美久米森稲荷






◆陣内神社





◆鳥越神社




鳥越神社
当神社は、白雉二年(651)の創建。日本武尊天児屋根命徳川家康を合祀している。社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(1046-52)奥州の安部貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義・義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名づけた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前4-16附近)は、関東大震災で焼失したため大正十四年に当社に合祀された。
例大祭は、毎年六月九日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑わい、また正月6日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。



福寿神社



志志岐神社







鳥居



旧浅草鳥越二丁目

 本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代後期の頃(1185)まで白鳥村とよばれていた。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくとどまったことから村の日飛田はそのご威徳を慕い尊び、白雉二年(六五一)白鳥山の山上に白鳥大明神を祀った。その後、永承(1046〜1053)の頃、源頼家 親子の率いる軍勢が奥州征伐のため大川を越えようとするとき、白い鳥に浅瀬を教えてもらい無事渡ることができた。頼家公はこれ白鳥大明神のご加護を讃え、鳥越大明神の社号を奉った。
  「鳥越夜祭り」
 六月九日に近い日曜日に鳥越神社の「千貫御神輿」が氏子によって町内を練り歩く。なかでも見ものは宵の宮入である。火入れ式のあと氏子集によってかかげられた百十の高張提灯と担ぎ手の熱気によって祭りは最高潮に達する。



◆浅草天文台




 この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
 天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明2年(1782年)、牛込藁店(わらだな)(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方(てんもんがな)」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
 その規模は、『司天台の記』という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の資料『寛政暦書』では、石段は二箇所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。
 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の『富嶽百景』の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台が描かれている。
 ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬(いのうただたか)がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ影保(かげやす)の進言により、文化8年(1811年)、天文方内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学書、藩書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
 天文台は、天保13年(1842年)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治2年(1869年)に新政府によって廃止された。



旧浅草蔵前

 本町は、付近の九ヶ町を整理統合して昭和九年(1934)にできた。蔵前という町名が初めて付けられたのは元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府米蔵 があったことから付けられた。
 米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するために造られた倉庫で三ケ所あった。大阪、京都二条と御蔵とあわせて 三御蔵 といわれた。その中でも特に# 浅草御蔵 は重要であった。米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、その土砂で墨田河岸を整地し造成された。当時六十七棟もの蔵があったことから約六十二万五千俵(三万七千五百トン)のコメを収納することができた。この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と領地をもたない旗本・御家人に支給する給料米であった。




続く。

2018/04/28 浅草橋散歩 03 川柳発祥の石碑/三守神社/旧朝草桂町/蔵前神社/榧寺/蔵前橋駅/廣澤稲荷社

先程のエリアから北上。
だんだん浅草が近くなるが、このエリアより北には行かない。



◆川柳発祥の石碑



宝暦7年(1757)8月25日、当地(旧浅草新堀端天台宗龍宝寺前)里正柄井八右衛門、無名庵川柳と号し、初めて万句合を開巻す。爾来文運旺んに、逐には文芸の名をもって呼ばれ、今日に至る川柳隆盛の礎を開く。本年その250年に当たって後学相諮り、一碑を建てて開祖の遺業を顕彰し、永く歴史に留めんと祈念するものなり。





◆三守神社





◆旧浅草桂町



 文化十四年(1817)の火事で小石川と富坂町(現文京区)の地が幕府に没収され、この地が代地となった。そして小石川富坂町代地と呼ばれたが、天保九年(1838)に浅草富坂町と改称された。明治五年、隣接地を併せて町域を広げるとともに、浅草南富坂町および浅草北富坂町にわけられた。
 昭和十六年(1941)浅草北富坂町を中心に同南富坂町の東部などを合併し、浅草桂町が誕生した。町名は、地元が生んだ政治家頼母木桂吉の功績をたたえるため、地元の強い要望で名前の一字をとって名付られた。
 頼母木桂吉逓信大臣をつとめ、昭和十四年に東京市長になったが、翌十五年おしくも現職のまま没した。



◆蔵前神社





錦絵




 この錦絵は、文政七年(1824年)の春に、御藏前八幡宮(現・藏前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(1794年〜1832年)です。
 素人の力持は文化後期より流行し、この錦絵が描かれた頃には絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。上の絵の「大関金藏」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金藏と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として製作されたものですが、絵のなかに当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら三枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されていたのではないかとも言われています。
 また、この奉納力持が開催された御藏前八幡宮は、勧進大相撲の発祥の地であり、天保四年(1833年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院・深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた三大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられましたが、なかでも天明二年二月場所では六十三連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れて江戸中が大騒ぎとなりました。
 この錦絵は隅田川遊歩道・テラス(厩橋〜藏前橋の間)にも掲示されています。



古典落語ゆかりの神社

元犬
蔵前の八幡様の境内で満願かなえて人間になった真白い犬が、奉公先で巻き起こす珍騒動はは・・・・。

阿武松
江戸時代勧進相撲発祥の地蔵前の八幡様で名横綱に出世した相撲取りの人情噺。


鳥居







◆榧寺(かやでら)



 石川雅望墓

 石川雅望(1753〜1839)は江戸時代後期の国学者狂歌師です。旅館糟谷七兵衛おと浮世絵師石川豊信の子として生まれ、六樹園、五老斎などと号しました。刻宅を津村淙庵、狂歌を太田南畝らに学び、狂名を宿屋飯盛といいました。店名年間に狂歌壇に台頭し、狂歌四天王に数えられます。寛政三年、宿や経営に関連して江戸を一時離れますが、このころ、国学に努め「源乩註余滴」や「雅言集覧」も著します。文化期には狂歌壇に復帰し、文化文政時代の狂歌界を鹿津部真顔と二分する勢力となります。真顔の俳諧歌体に対して俗上俗語の軽妙さを主張しました。「(百人一首)古今狂歌袋」などの狂歌絵本や「万代狂歌集」などの狂歌撰集「草まくら」などの紀行文もあります。



銅像観音菩薩坐像

観音菩薩坐像は銅製、鋳造で、総高が208.4センチメートル、像高は100.2センチメートルである。
 蔵に刻まれた銘文によると、宝暦年中(1751〜1764)に室生寺の僧、快心が発願し、江戸の鋳物師粉川市正が制作し、当寺の本堂前に安置した。
 粉川市正は江戸神田を拠点に、江戸時代中期から明治時代にかけて活躍した。代々粉川市正を名乗り宗信、宗次、国信、甫信など5から7代ほど続いたと考えられ、全国に100例以上の作例が知られる。本像を制作したのは、他の作例から粉川市正藤原宗信と推定される。
 また文政十年(1827)に丸山佐助が、本草を修理するために多くの浄財を募り、田川民部(たがわみんぶ)が修理を行った。田川民部は正徳年間(1711〜16)以降に活躍した鋳物師で、神田鍛冶町三丁目(千代田区)に居住していた。遺例はわずかであることから、本像は田川民部の活動の一端を知る貴重な資料である。
 本像は、台座に刻まれている銘文から奉納者、製作者、制作年代などを知ることができる。また、江戸を代表する鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品であり、江戸時代の鋳物師の技術、活動を知る上での基準となるものである。
 平成二十三年三月に台東区有形文化財(彫刻)として台東区区民文化財に台帳に登録された。





◆蔵前橋駅





◆廣澤稲荷社






続く。

2018/04/28 浅草橋散歩 04 黒船神社/紙漉町跡/舟和本店/浅草消防署/バンダイ本社/駒形どぜう本店/駒形諏訪神社

浅草を目前にして今度は南下。
隅田川沿いに浅草橋の方に向かって歩く。



◆黒船神社






◆紙漉町跡




 この付近は、江戸時代、紙漉町といい江戸における最初の紙漉きが行われた場所である。江戸時代を通じて盛んに製紙業が行われ、その産紙は浅草紙と呼ばれて土地の特産物だった。
 延宝四年(1676)版の『江戸絵図』には田原町1丁目の西側の道に「かみすき丁」と記され、貞享四年(1687)刊『江戸鹿子』にも「紙すき町」の名が見える。また、安永二年(1773)に成立した『江戸図説』によると、田原町のほかに橋場・鳥越や足立区千住方面でも生産されていたという。
 明治時代になると、浅草紙の製造工場は橋場や南千住の方に移り、浅草付近では作られなくなる。わざかに紙漉きの名残をとどめているのは、以前山谷堀に架かっていた「紙洗橋」の名の交差点表示である。
 浅草紙は、不要になった古紙を手で漉き返して再利用する、今でいうリサイクルペーパーである。




◆舟和本店

芋羊羹を東京駅で良く買うけど、本店はコチラだったんですね!




◆浅草消防署




バンダイ本社





キャラクターの像がたくさんあった。












◆駒形どぜう本店




神輿まつまの
  どぜう汁すゝりけり

久保田万太郎先生は市井のひとを愛し、とくに、また、ふるさとをおなじくする浅草ッ子を愛した。ここに駒形どぜう、越後屋、五代、助七その生前の厚誼をしのんで、先生をしたう情は、まことに涙ぐましいものがあるが、昭和四十一年初夏この句にゆかりの三社祭の吉日に当って駒形どぜうの店の前に、いま先生の句碑を立てる。旧称田原町三丁目なる先生の生家にもっともちかくこの句碑の立てられたことは、さだめし先生も喜ばれていることと思われる。ここにつつしんでこれをしるす者は、おなじく浅草ッ子のひとり。



◆駒形諏訪神社







続く。

2018/04/28 浅草橋散歩 05 厩橋/隅田川テラス/うまやの渡し跡/厩橋地蔵尊/水門/蔵前橋/第六天神社

先程のエリアから隅田川沿いに南下。
歩くと汗ばむ陽気だったが、川沿いは涼しくて気持ちよかった。



厩橋










隅田川テラス




隅田川の脇の遊歩道がテラスになっている。





浮世絵などが紹介されている。
他の浮世絵などはアルバムに入っている。
http://f.hatena.ne.jp/ovanrei/20180428%2028%20%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%B7%9D%E3%83%86/


こいのぼりフェステバルをやっていて、子供たちがおもいおもいに描いたこいのぼりが展示されていた。










◆うまやの渡し跡


江戸時代は幕府の政策により橋の数が少なく、代わりに各所に「渡し船」がありました。
ここは、「うまやの渡し」があり多くの人々を渡しました。
春のお花見の頃は「墨堤の桜」を見に行く多くの人々が利用しました。




厩橋地蔵尊

こちらは以前来たことがある。
2016/08/02
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20160802/1470215195




◆水門

隅田川に流すための水門と思われるが、具体的なことは何もわからなかった。



◆蔵前橋




第六天神



繁昌稲荷社



浅草文庫跡碑

浅草文庫は、明治7年(1874)7月に創設された官立の図書館である。翌8年に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は十一万余冊とも十三万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
明治14年5月に閉鎖。跡地は翌15年に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。関東大震災後の大正13年、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。
昭和3年に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて、浅草文庫が位置していたところである。高さ4mの碑は、この文教の旧地を記念して、昭和15年11月建立された。



七福稲荷神社




事比羅神社/豊受神社

「金刀比羅」じゃなくて「事比羅神社」なんだね。







 本石碑は、当地にあった東京高等工業学校(現 東京工業大学)を記念し、工業教育発祥の地として同窓会の蔵前工業会が建立したものである。
 当校は、工業指導者の養成を目的として、明治十四年五月東京職工学校として創設され、明治二十三年三月東京工業学校、明治三十四年東京高等工業学校と改称された。
 当校は、常に日本の工業教育の指導的地位にあり、また、多くの留学生を教育するなど、科学技術の発展に貢献し、東京の出身者は「蔵前の出身」という愛称で重用された。
 しかし、大正十二年九月の関東大震災により、校舎、工場等が灰塵に帰したため、学校当局は、当地での再建を断念、目黒区大岡山に移転した。当地の敷地は、正門の位置に建てられている本石碑を中心に、隅田川に沿って面積四万三千平方メートルに及んでいた。
 側面に「昭和十八年三月吉日社団法人蔵前工業会建立」裏面に「永田秀次郎選」の碑文が刻されている。










続く。

2018/04/28 浅草橋散歩 06 御蔵前公園/蔵前水の館/蔵前警察署/浅草御蔵跡碑/首尾の松碑/石塚稲荷神社/浅草橋駅

隅田川を南下して浅草橋から帰ろうと思っていたが、まだ見てないところがあったので引き返す。
やや西側を北上したり南下したり(w
相変わらず後半になるとグダグダ。



◆御蔵前公園



◆蔵前水の館

予約なしでは入れないとのことで、今度予約して行ってみる。



◆蔵前警察署

悪いことはしてません(w




◆浅草御蔵跡碑




 浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から運んだ年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行支配下に置かれた。
 元和六年(一六二〇)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は、享保(一七一六〜三六)頃までに浅草御蔵に吸収された。
 江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは、昭和九年のことである。
 碑は、昭和三十一年六月一日、浅草南部商工観光協会が建立したものである。




◆首尾の松碑






 この碑から約百メートル川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。

 一、寛永年間(1624〜43)に隅田川が氾檻したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。

 二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。

 三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。

 初代「首尾の松」は、安永年間(1772〜80)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(1854〜59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。




蔵前橋

前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来する。
その蔵の前の地というのが、地名にもなったのである。
このお米蔵は、元和年間に大川端を埋め立てて建てられたが、盛時には
数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。
 ここから関東各地から舟運によって、米が集積されたのである。
近代になって、政府関係などの倉庫となり、その中には、浅草文庫という
書庫などもあった。
 蔵前の地は札差など江戸商人発展の地であり、いきや通(つう)のあふれ
た土地柄となってきた。
近代においても、大震災や戦災などの惨禍をのりこえて、種々の商品
の問屋街として、繁栄をつづけてきている。 大震災復興の事業の一環
として、新しい構造の橋が昭和2年(1917年)に完成して、今日に至って
いる。




◆石塚稲荷神社






旧浅草柳橋

 いくつかの町が整理統合され、昭和九年に誕生した。町名の由来は、神田川隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。
 柳橋の名は、江戸中期のころから花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んでにぎわっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。
 「柳橋」は元禄十一年(1698)に初めてかけられた。その当時は、川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は、昭和四年に架けられたものである。




浅草橋駅

あらためて良く見てみると、駅は道路を挟んだところにあり、ホームとつないでいるみたいだね。



今回は土曜日のワリにあまり人が居なかった。
GWだからこんな近場に行かないで遠出しているんだろうね。
浅草行を諦めたのはものすごい人だろうと思ったから。
今度平日の午前中あたりを狙って行ってみよう。