何も生み出さない、無駄、無為、後ろ向き。 生産との対比で用いられるから、生産のみを価値とする旧世界的イデオロギーからすれば「非生産的なことはけしからん!」となるが、ニューウェーブでは非生産こそ創造の母ということで逆にもてはやされていた。 柴田亜美の「南国少年パプワくん」という漫画に鼻血を出しながら「ホモはいかんぞ、非生産的な!」と繰り返す人が出てくるが、これも物質的生産につながるヘテロを絶対善とする旧弊な考え方を、おちょくるもの。
「何もしない時間」 いままでの考え方は何もしない時間は無駄だ。 効率化的に物事を進めなければならない。 段取りの悪さはイライラを生むし いかに生産的であるかに注力してきた。 「何もしない時間を減らす。」 それが自分に課せられた義務のように感じていた。 でも今は何もしない時間があっても良いと考える それはなぜか。 実際に何もしない時間をつくることでその有意義さを 身にしみて感じることができる。 信じられない人は体感してほしい。 「生産的なことをしなければならない」というシガラミからの解放 こんな自分も必要なんだという自分自身を受容する時間。 何もしない時間の浪費こそ最高の贅沢なのかもしれない。 …
撮影データ日時:2023年11月28日・17時00分ボディ:PENTAX KPレンズ:smc PENTAX-DA 18-270mmF3.5-6.3ED SDM の180㎜域絞り:f6.3 (解放)シャッタースピード:1/30s (Auto)感度:ISO 6400 (Auto)(プログラムAE -1EV) 以前、「異常も、 日々続くと、 正常になる。」というキャッチコピーについて取り上げたが、一向に正常にはならない。そんな中、今日は久しぶりに少しは正常だと思える1日だった。 と言っても今日は普通だと感じたのは最初の1点だけで、普段は2・3分しかないFitbitスマートウォッチによる「深い睡眠」が…
ラインも返さない。 午前は映画を見に行き 午後は漫画を読んで気がついたら夜でした。 大真面目なわたしは、「休みの日はなにかしないと!」と思って 部屋の掃除 図書館へ行く 読書をする メイクの研究 などなど、なんかやらなきゃ!みたいなモードだったんだけど。 今日は本当に、好きなことして終わりました。 そんな休日の過ごし方にがっかりしてしまいました。 なにをそんなにマジメに生きているのかなと自分に突っ込みをいれました。 休みなのに。 わたしは、生産的なことは積極的にやるのに(勉強、図書館に行く習い事等) 非生産的なこと(漫画、映画、ドライブなど) なんの役にも立たなそうなことに関しては、非協力的で…
心理的リアクタンスとは、個人が自分の自由や自律性が脅かされたり制限されたりすると感じるときに起こる心理現象です。これに対して、怒り、欲求不満、抵抗などの否定的な感情を経験したり、非生産的な行動や危険な行動に走ったりすることがあります。 心理的リアクタンスは、自分自身の人生を自由にコントロールしたいという人間の欲求によって引き起こされます。自分の選択や行動が外部の力によって制約されていると感じると、人は自律性を主張したり、認識された制約に反抗することで反応することがあります。 例えば、あることをできないと言われた場合、それが自分のためにならないことであっても、とにかくやってみたいという強い欲求に…
まん防(まん延防止等重点措置)が解除になってから、ブログを書く時間がなかなか取れなくなってしまいました。 それは、会社が基本的にテレワークを中止としてしまったためです。 もちろんコロナ感染者の減少は喜ばしいのですが、テレワークがなくなったことで、1日の中で有効に使える時間が減ってしまったことは残念です。 時間が減っても、食事の支度ほか諸々の家事や、年老いた親のことなど、日常生活のために必要な時間は減らせません。よって割を食うのは"自分の時間"でした。それがブログを書く時間だったり、睡眠時間だったりします。 この時間泥棒の犯人は「通勤時間」です。 "通勤"には純粋な移動時間だけでなく、それに付帯…
本日が祝日だということをすっかり忘れていた。普段どれだけ起伏がない生活しているかわかる。曜日も世の中の休日も季節の移り変わりも、まるで意識していない生活。「忙しくて記念日も忘れる」なんて話はよくあるが、たぶん私の場合は忙しくなさ過ぎて日々の細々したことを忘れている。平坦で自由な状況は、拓けているのに対象を見失う。些細なことを拾えないまま、流れていく。 多くの人が勤労を感謝される中で、何一つ勤も労も払ってない私は今年も、普段と何一つ変わらない一日を過ごすことだろう。というか過ごした。これを書いている今は後日だった。日々頑張っている人を労う気持ちと非生産の申し訳なさ、しかし何故誰の何に対しての申し…