http://www.kajisoku.com/archives/eid1055.html
耄碌が加速してます。日本の大家ってのはこんなのばっかか。
明日友人のつてで、民主党の前原誠司に会ってきます。溢れ出る知性品格を隠し切れず、「汝こそ我が子房なるぞ!」なんて一目惚れされて、幕下に乞われたりしたらどうしましょうかしらん。やはり三度目までは断るべきでしょうか。
- 作者: 北島正元
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1963/06
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (2件) を見る
終わりなき戦いに勇気のピリオド
徳川家康
天文十一(1542)〜元和二(1616)年。徳川幕府初代将軍。松平広忠*1の長男。幼名竹千代。元信、元康、1563家康と改名。三河岡崎に生まれる。幼少時、織田・今川氏の人質となるも、’60桶狭間の戦いのあと岡崎に帰る。’64三河統一。’66従五位下三河守に叙任。松平から徳川へ改姓。’70岡崎から浜松に移る。’72武田信玄*2と三方ヶ原で戦い大敗。’75信長*3と武田勝頼*4を長篠で破る。’82駿河を手中に収める。同年本能寺の変の後甲斐・信濃を攻略。’84小牧・長久手の戦いで優位に戦闘を終結するが、’86豊臣秀吉*5に臣従。同年岡崎から駿府に移る。’89全領の総検地を実施。’90小田原攻めの後関東に転封。江戸を本拠とする。’96正二位内大臣に叙任。’98秀吉から五大老の筆頭として後事を託される。1600関ヶ原の戦いに勝利し、’03征夷大将軍。’05将軍職を秀忠*6に譲るが、なお実権を保持。’07駿府城を拡張し居城とする。’11後水尾天皇*7即位で上洛、二条城で豊臣秀頼*8と会見。上洛中の諸大名らから誓紙を取る。’14大坂の秀頼を攻め一旦講和するが、翌年再度兵を起し豊臣氏を滅ぼす(大坂の陣)。同年武家諸法度・禁中並公家諸法度を定める。’16太政大臣に任じ、駿府城で死去。遺体は駿府久能山に埋葬。翌年東照大権現の神号を朝廷から得、日光に改葬。(『岩波日本史大辞典』より引用)
1963年刊の本。如何に20年一昔の歴史学会とはいえ、骨董品臭さは拭えません。かと言って、文化系の本とは違って、当時の空気がよく分かるって程のもんでなし、学説の変遷に興味がある人と本ならなんでもいいやってジャンキー以外にはオススメできません。
古さには目をつむるにしても、膨大な家康の事績を新書一冊で片付けようってんだから無理は出るわけで、全体的にとっちらかっていて消化不足なのは否めません。特に、人物「徳川家康」の理解をこの本で済ますのは正直厳しいと思われます。しかし、解説自体は丁寧なので、江戸初期家康時代の政策の入門書としては良質と言っても問題はないのではないでしょうか。尤も、近年の研究と照らし合わせないと怖くて使えそうにはありませんが。
結論:半世紀も前の本を今更持ち出して云々言う方が悪い。
愚にもつかない悪口で終わるのも、寝覚めが悪いので、以下に家康の松平姓時代の前半生を略述。徳川襲名以降は面倒臭いあまりにも有名なので省略。いつもの如く、備忘録程度の殴り書きなので鵜呑みにはしないで下さいまし。
家康の生まれた天文十一(1542)年は三河を統一した英雄祖父の清康が「森山崩れ」で家臣の振るう村正の凶刃に斃れてから早7年。西三河は織田家に蚕食され、残る東三河も今川の庇護なしには掌握できないという苦難の時期でした。今川家への依存を強める父広忠により、僅か三歳にして今川家への人質に出される羽目になった竹千代ですが、苦難はそれで終わりません。織田と内通した家臣の手により名古屋へ搬送され、敵地の織田家での人質生活を余儀なくされます。二年後には父広忠も家臣の手にかかり24歳の若さで横死。松平家臣団は主を失い苦難を極めます。翌年には今川の天才軍師太原雪斎の活躍により本来の居場所駿府へと引き取られ、義元から偏諱を給い「元信」と名乗り元服を果たしますが、松平家の状況は変わりません。主君が籠の鳥ではなす術もなく、対織田の最前線の捨て駒として使い捨てられていました。
状況の変わるのは桶狭間で今川義元が横死してから。今川家を見捨てた元康*9は織田信長と同盟し東三河で独立を果たし、名も義元の偏諱「元」の字を捨て「家康」を名乗ります。しかし、苦難は終わりません。三河統一に向けた戦力増強の為の軍役増加に反発した一向門徒が一揆を結んで蜂起しました。さんざ苦しめられながらも、騙し討ち*10で何とか平定に成功した家康は永禄八('65)年に念願の三河統一に成功し、翌九('66)年には徳川の名字と従五位下三河守の官位を手に入れ、ここに後世「神君」と讃えられる英雄が誕生したのです。
孤独に負けたなら 明日はないのさ
世界でも珍しい250年もの平和を生み出した徳川家康。信長が搗き、秀吉がこねてくれた後での棚から牡丹餅的な物だったとは言え、家康の功績にはまこと端倪すべからざるものがあります。
顧みて現代日本はと言うと、秩序の破壊者「信長」たる小泉こそ現れましたが、残念ながら後を継いで新体制を構築成熟させうる人材が出てくる気配すらありません。強いて今の安倍を喩えるなら、うっかり柴田勝家が天下を取ってしまった状態とでも言うべきでしょうか。苦心惨憺して壊したアンシャンレジームの鑑みたいな旧弊が後継者じゃ信長も報われません。願わくば、早く秀吉の出で来て覇業を完遂してもらいたいものです。私の長くはないであろう寿命のあるうちに創業の家康や発展完成の秀忠の時代を見る事が出来ますように。
今日の一行知識
徳川氏は元々源氏ではなく藤原氏。
松平家康が三河守任官運動のついでに万里小路家から系図を買って名乗ったのが藤原姓の徳川氏。征夷大将軍になる際に藤原氏じゃまずいってんで、部下の吉良氏から新田の分家の得川氏*11の系図を借りて*12源氏を称するようになりました。上野介義央で有名な吉良氏が高家筆頭として権勢を奮った背景にはこんな事情があったんですね。
- アーティスト: 水木一郎,コロムビアゆりかご会,こおろぎ’73
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 1999/12/01
- メディア: CD
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (14件) を見る
*2:晴信。甲斐・信濃・駿河の戦国大名。大膳大夫。父信虎、母大井信達女。
*3:尾張・美濃の戦国大名。右大臣。父信秀、母土田御前。「第六天魔王」を自称。
*5:関白。父木下弥右衛門、母大政所。旧名:木下藤吉郎・羽柴秀吉。幼名:日吉丸。通称「猿」「はげ鼠」「豊太閤」。
*6:徳川2代将軍。太政大臣。父家康、母宝台院。通称「江戸中納言」
*8:摂津・河内・和泉の大名。右大臣。父秀吉、母淀殿。幼名:拾。
*9:元服から二年後、築山殿を娶った際、三河の英雄祖父清康にあやかり改名。
*10:「首謀者お咎めなし、仏閣は元の通り」の条件で講和するも、実際は関係者一斉検挙・寺社は全て破却の横紙破り。当然の如き猛講義に「約束通り元のままの野原に戻してやったぞ」と呵呵大笑したのは有名。
*12:当時は漢字に無頓着だった(ex.武田⇔竹田)ので、音通で同じトクガワ氏とごまかせたんですね。