『しあわせ仮説』ジョナサン・ハイト著  
 象に鎖を繋ぐと、何度か抜こうとするが、駄目と諦めると、二度と引こうと
しなくなるという。人間も、現象として見えないが、似たようなもの。ここで、
「象と象使い」の例えを、「本能と理性」「意識と無意識」などに例えている。
しかし、この象が本当に何をしたいかと思ったら、象使いも彼にはかなわない。
ハッピーな象使いに、ハッピーな象が当たる? が、その確率は一割以下?
まあ、世の中を見れば直ぐにわかる。何とか折り合いがついているようだが。
 娑婆娑婆である。
   * 心の「象と象使い」
≪・著者は私たちの心を「象と象使い」に例え、本能と理性、無意識と意識など、
 いろんな言い方がありますが、象使いというのはわかりやすい例えと思います。
「象使いは、象がより良い選択をするのを助けるために象の背中に乗っている。
象使いはより先の未来を見通すことができ… 貴重な情報を習得できるが、象の
意志に反した命令をすることはできない」
・また本書の「幸せはあいだから訪れる」という考え方、
「だから、知恵を探すなら、けっして見つけられないと思うような場所、つまり
あなたに相反する精神の中を探すべきである… 純粋悪の神話という目隠しを
取り去ることができたら、そこではじめて何らかの良い思想に出会えるだろう」
・<幸福は「あいだ」から訪れる>。あなたと他者のあいだ、あなたと仕事の
あいだ、あなたとあなたより大きな何かとのあいだに、正しい関係を築くことで
訪れるのだ。わたしは、アメリカ人よりも日本人の方がこの考えに対して納得し
やすいのではないかと考えている(「日本語版への序文」)」。
・著者ハイトは、人間の欲求や感情の強さと、それをコントロールするはずの
意志や理性の弱さを、「象(欲求・感情)の背中に乗った象使い(意志・理性)」
と表現する。自分自身の行動について、理性にもある程度はコントロールする力が
あるが、主導権は感情に握られている。「私は手綱を握り、あっちへ引っ張ったり、
こっちへ引っ張ったりして、象に回れ、止まれ、進めなどと命令することが出来る。
象に指令することはできるが、それは象が自分自身の欲望を持たない時だけだ。
象が本当に何かしたいと思ったら、私はもはや彼にかなわない。」≫

▼ 夫婦関係も然り。お互いが象であり、象使い。どちらかというと、象使いが
妻の傾向が強い?…「自分管理をしようとしたら、自分自身を幼児のように扱え」
と。 優しく、丁寧に、繰返し、褒めて、時には厳しく、前向きなプラス思考で、
成功体験と、大自然と芸術を可能な限り触れさせ、感動と感激を最大限に経験させ、
愛情を無条件に注ぐこと。実際は、自分に逆ばかりをしている。周りに影響され、
同化してしまうため。象だけならまだしも、象使いも自分の手に鎖をかけている。
無知は悪であり罪と、つくづく考えさせられる。これは他者の合せ鏡で、察知
するしかないが… 狂暴なのもどうだが、大人しいのも… 鈍重なメス象も?…
 〜で、文脈として去年の同月同日の内容につづく〜
・・・・・・
5526,若者よ、外に出よ! ー? 世界の祭り  
2016年05月02日(月)          
   * 祭りから世界の楽しさを知る
『若者よ、まず楽しさを経験しろ!』である。「嬉しい、楽しい」という
感情が、人間を突き動かすことになる。ゲームでも、ミニ祭りの飲み会でもよい。
その極地が街レベルで行われる祭り、それも世界的祭りの楽しさを知ること。
 世界最大の祭りといえばクリスマスだが、ど派手な祭りの、ブラジル
の「リオのカーニバル」と、北スペイン「牛追い祭り」を体験してみた。
その熱狂の渦が全ての人を恍惚に誘う。この2週間の北スペインのバスツアー
は、これまでのツアーのベスト5に入れることが出来る。祭りは、原始人の頃
から営なわれていたことは壁絵から推察される。生き抜く苦労と、その憂さ
晴らしは、古代も現代も同じ。祭りには時代の文化が現れ出る。
 大相撲も神事で行われていたのが始りだった。 祭りは実に楽しい! 
が、その背後には、普段の地道な生活が必要である。
≪ ☆ パンプローナ牛追い祭り(2002/09/07 記)
 今朝9時半より、衛星TVで今年のサン・フェルミン祭を放映していた。
もし神様が一日だけもう一度同じ日を与えてくれるといったら、4年前の
この祭りの最終日を間違いなく選ぶだろう。今年は例年になく多くの負傷者
が出たようだ。今日の番組は毎朝の牛追いに絞った8日間の内容の為、毎年
放映される中でも特に迫力があった。初めから最後まで手に汗を握る内容だ。
 この祭りはヘミングウエーの「日はまた昇る」で舞台になり世界に一躍
知られるようになった。
 この期間ー7月上旬の8日間、町中の人が白い服に赤の腰巻の布を巻き、
赤いネッカチーフをつける。パンプローナの出身者の多くが帰ってくる。
毎朝6頭の闘牛とそれを先導する虚勢牛6頭の合計12頭が闘牛場に向かう
街の道路に放たれる。毎日異なるドラマを生みながら熱狂を8日間重ねる。
その6頭の闘牛が毎日おこなわれる。4年前その最終日の闘牛をみたが、
会場が異様な熱狂に包まれていた。 その牛の前を走るエニシエロが、勇気
試しになる。19世紀半ばからこの祭りが始まり、闘牛とか牛追いは途中
からその祭りに加わった。
 ーユーラシア旅行社でいくと、市役所広場の前の4階の部屋から
  最終日のエンデングと牛追いが見れる。
――――
4年前の「北スペインの旅」−より抜粋ー  
 ・・この中で一番のハイライトがパンプローナの“牛追い祭り”であった。
延々8日間にわたって毎夜、闘牛が行われる。その牛を毎朝、市役所から
闘牛場へ、町中を追い上げる。その前を街の若者が走って、度胸試しをする。
死人が出ることがあるという。我々が着いたその日が最終日の為、最高の盛り
上がりであった。夜の闘牛もその為か異常な熱狂を会場にただよわせていた。
これこそ正しくスペインと思われた。
 深夜の十二時に向けたファイナルギャザリングが、一生の思い出になる
感動的場面であった。市役所前に数千の群集がロウソクを手に持って集まり、
ロウソクをかざしながら歌い踊るのだ。 彼らが心の底からパンプローナ
愛しているのがよくわかる。民家の4Fの一室を借りて見たのだが、光の海を
見ているようであった。トランペットやバイオリン・タイコの楽団の演奏に
あわせて歌を全員が歌っている。
 キリスト教で祭りを集団で祝うのはスペインだけといわれている。
イスラムキリスト教が融合して、神聖かつ感動的・熱狂的なお祭り騒ぎ
なのである。このような宗教的感動的場面に出会ったのは初めての経験。
この場面に出会っただけでもこの旅行は充分の価値があった。
一生の心の財産になった。 ≫
――――
≪ ☆ リオのカーニバル(2003/04/23)
この時期になると例年、NHKハイビジョンでその内容が放映される。
毎年三月の初旬に開かれ,約一月後に放映されている。
何とも派手で陽気で豪華で楽しい!
8年前にいって、その雰囲気を知っているから、観ていても楽しいのだろう。
違うのは音量の大きさと、会場の熱気が直接伝わっていることだ。
 TVを観ていると、会場に行っているような錯覚をしてしまう。
以前にも書いたものを後でコピーしておくが、なかなか奥行きが深い。
ブラジルではTVなどで生中継される全国的な行事なっている。
今回、あるチームの準備などの内幕をドキュメント風に紹介していた。
80分の持ち時間の演技のために一年間の準備をする。
 審査項目が10項目あり、それを細かく説明していた。
・テーマ曲の良し悪し
・打楽器ーバテリアの内容
・テーマの紹介のパフォーマンス
・同じ衣装のダンス隊のダンス
・山車の美しさ、テーマの解りやすさ、迫力
・チームの旗手の踊り
・そのチームの女王の観客へのアピールと反応等々ある。
プロの演出者を雇い、その年のテーマにそって
カーニバルとサンバと山車や音楽や衣装が組み合わされる。
今年もなかなかの出来であった。
数回再放送でやるから、何回もみるつもりである。
ーー以前書いた文章をコピーしておきますーー
H0703  ブラジル旅行記
 “行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。
カーニバルはリオディジャネロだけでなく、全国津々浦々の都市で
行われており、四日間全国がお祭りの為休みとなる。
その最も有名で世界的に知られているのがリオのそれなのである。
リオのカーニバルのランクがA・B・CとなっておりAランクが9チーム、
Bランクが15〜16チーム、Cランクは数十チームとなっている。
AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー800mを80分の
持時間で踊りながら行進する。そこは六万人の観客席があり、審判席で
厳格に審査され、その年の優勝等順位があらそわれる。

 そのチケットは一般の人はほとんど入手不可能である。我々のTV
新聞等で目にするのはCチームが街頭で行進するものでしかなかった。
チームは四千名が1チームで構成されており、それが約500名×8チームに
細分化され統一のコンセプトのもとに仮装が華やかにつくられている。
音楽も各チームごとに毎年新しいコンセプトのもとに有名作曲家が名誉を
かけてつくる。その作曲も採点の大きなポイントになるという。
一日6〜8チームが夜の七時より翌朝の七時まで延々と踊りの行進が続く。
観客席もその行進曲にあわせて半数以上が踊っている。
音響もすさまじく隣の人の声は全く聞こえない。

 上位数チームが翌週の土曜日に優勝をかけて再び行進がおこなわれて優勝
チームは10億以上の賞金がつき、かつ翌年に向けよいスポンサーが約束される。
その年の山車とか衣装は翌年に持ちこさずすべて破棄するという。
カーニバルをみていて“気”とか“色即是空”とか“禅の悟り”がすべて含まれ
ており、東洋的なこのような言葉が小さくみすばらしくさえ思えるくらいだ。
ブラジルの印象として残ったイメージとしてのキーワードを書くと“サッカーと
“サンバ”(カーニバル)と“森林”と“イグアスの滝”そして
汚職まみれの国”である。さらに加えるなら“まずしさ”である。≫

――――
▼ 祭りは、普段の質素倹約した単調な生活の憂さ晴らしのための爆発の
『晴れ』を集団で楽しむ娯楽。特に、イタリア、スペインのラテン系の国の
祭りは歴史があって、ど派手。日常からの集団トリップの一端に触れるだけで
充分に価値がある。そこには、セックスと血と死の匂いが、漂っていた。
 リオのカーニバルには、「カーニバル・チルドレン」が、結果として誕生し、
捨てられ、ストリート・チルドレンになるという。

・・・・・・
・・・・・・
5161,不幸不利の7つの法則 〜�
2015年05月02日(土)
   * 不幸不利の法則を具現化した人
 絶対的に不幸な人も、幸福の人も存在しない。それぞれの人生の時節で、
孝不幸の比率が変わる。それと教養レベルでも・・ 不幸不利の法則を、
そのまま具現化したような人を、周辺に直ぐに見つけることができる。
内幕情報屋を売りにした「あの人!」。人の不幸を探し出し、噂話を探し
まわって、転々と人々の間を、尾ひれはひれを加え、舞いまわる人たち。
最近はネットに移行したから、始末が悪い。聞いている方は、その人間の
卑しさに気づいて軽蔑をしても、顔に出さない。情報化や都会化で、人は
表面的には誰とでもフレンドリーだが、実は、彼らは「孤独の群集」で、
他人の内幕を知りたがる。だから、こういう、「内幕情報屋」の存在が
必要となる。学生時代に読んだ、リースマン著『孤独の群集』の中で、
都会化が進むほど、「内幕情報屋」が、多く現れると論証していた。
自分の趣味と、一般教養を持たないと、現象界をそのままを現実、真実
として受入れてしまう。(偶然だが、一年前と4年前の同月同日の内容が、
そのまま書いてあった) 普通の人であれば、噂話も世間話をするし、
敢えて、特徴を取り上げることもなし、ただ無知なだけ!と割切ればよい。 
ところが、実は、その内幕情報屋の流される噂話が、個々人には、
「掟というトリック」が含まれている。それが各人の牢獄をつくり上げる。
これが「絶対不幸」の人たちを作り上げる。その結果、「不幸不利」を
なってしまう。そして、自分の世界を小さく小さくしていく。
「不幸不利」のスパイラルは、強力なマイナス磁力がある。
己の「不幸不利」に気づくには教養のベースか、死線を漂う経験などが
必要になる。小、中、高、大学の同級会に毎年、出席しているが、不幸不利
の人の比率が、進学するにつれ減っている。鬼のような形相のオバサンや、
時代かかった成金は皆無になる。豊かさ貧しさは、置かれた状況でもある。
幸福であれば、他人の不幸には興味が無頓着になる。不幸不利の人は・・
・・・・・・
4796,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜�
2014年05月02日(金)
   * 何かが変?なのは、自分? それとも巷の常識?
 先日取り上げた【「道徳」を疑え!〜自分の頭で考えるための哲学講義
  ー小川仁志著】の中で、イギリスの哲学者 フランシス・ベーコン
「イドラ(本当のことを隠してしまう臆見)を取り上げていた。
 彼によると、人間には四つのイドラがあるという。
《・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、
 感情や感覚によって知性が惑わされることによって生じる。人間は自分が
 主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できない。
・二つ目は「洞窟のイドラ」。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んでしまった
 かのように、個人の狭い事情により生じる思い込み。その人の受けた教育、
 影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い考えに入り込んでしまう。
・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込みです。
 あたかも市場で聞いたうわさ話を信じてしまうがごとく、人は言葉のもつ力に
 弱いものです。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因?
・四つ目は「劇場のイドラ」です。それぞれの都合の良い物語を疑おうと
 しないで信じてしまうことをいう。》
:この結果、世間とかいう、ほぼ嘘で固められた常識を疑うことなく信じる九割
 以上の人達がつくられ、現に存在する。この方々は、殆どのイドラが全存在。 
 覆い隠されている真実の世界の存在など想像すら出来ないため、厄介そのもの。
 彼らには、「嘘もほどほどにしろ」より、「本当のことは、ほどほどに」と、
 対応するしかない。何故なら、本当のことは、イドラの世界からは見ることが
 出来ないから。本来、人間は共同幻想の中にしか生きることが出来ない存在。
 とすると、変なのは社会と、その中で生きる、私たち(個々人)になる。
 問題は、それを常に自覚できるかどうかが、境目になる。リーマンショック
 から、一段と世の中が変になっている。ところが何故か、それを覆い隠して
 いる何か、恐ろしい力。それが何だろう?「世界恐慌は静かに浸透しているが
 誰も声高に言わない。いや、言えない」のだろう。石ころの大小を言っている
 自分も、その中の砂利でしかない。結論は、「私も、一般常識とも、変!」 
 ということ。
・・・・・・
4429, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか 
2013年05月02日(木)
 * 死の恐怖を克服する七つの登山道とは   
           ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 人生で最大の難関が最期の死。ここで、死の恐怖を克服する著者の椎奨の七つ
の登山道が書かれている。スッと眠るように死にたいが、そうは簡単にいかない。 
長生きすれば「死に損ない」と言われそうだし、癌で、あと一年、数ヶ月と
区切られ悶々と死んでいくのも厳しい。現に父親が、そうであった。一年間、
傍にいたので、直に伝わってきた。砂漠の真只中に置かれたような生の渇望の
乾きは残酷である。実際に、その立場に置かれて経験しないと分からないこと。
死の恐怖の克服法は知らないより、知っていた方が遥かによい。生への渇望の
克服など無理といえば無理。肉体的に精神的にも、のたうちまわって死んでいく
しかないのが実態。だから恐れる。著者が死への登山道は言い得て妙である。 
  ーまずは、7つのルートとはー
ルート1  心が幻想だと理解する道(脳科学の道)
ルート2  すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
ルート3  自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)
ルート4  主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考の道)
ルート5  自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道)
ルート6  幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
ルート7  リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思想の道)
▼ 次回から、それぞれのルートの要点を書き出してみるが、最近読んだ、
「宇宙は本当にひとつなのか」と「宇宙は何でできているいるのか」(村山斉著)
を読んで、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している可能性がある
と知り、単純だが、自分の人生も、死も、大した問題でないことを改めて知った。
これはルート3の、客観的スケール思考の道になる。この7つのルーツの道を繋ぐと、
≪ 人間の心は、本来幻想。人の一生は宇宙的スケールでみれば、瞬時でしか
 ない、直ぐ死ぬのも後で死ぬのも同じ。また微細な存在。知情意で捉えている
時間も幻覚。自分という枠組も定義で変わるもの。恐怖が幸福の対角にあるとし、
その幸福という感覚も幻覚。ただそれだけのこと。≫ ということになる。
般若心経そのものになる。だから、死に直面すると、写経を始めるのは効果がある。
こう、まとめると、各ルートを歩くのが面倒に思ったが、よく読むと、道筋には
含蓄に満ちた景色がある。目先の死を知ってから、それまでの一生分を生きる
のだから、学び足りないのは当然。

つれづれに

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  今日のYoutube

 大相撲の地元力士の小柳が、ぎりぎり初入幕になった。
将来の大物といわれるが、問題は怪我。 四股名が「豊山」で、先代、
先々代に続く名前。 まだ実戦経験が少ないが、三役、大関になれる素養がある。 

 ゴールデンウィークの中間日の昨日、スポーツジムはさすがに人出は少ない。
今日はどうだろう? いつもの早朝の自転車コースの信濃川の水道塔公園の
「鯉幟」が一週間ほど前から棚引いている。そこの公衆トイレの入り口に、
ツバメが巣を作るが、今年も飛び回っている。初夏の到来である。
 



・・・・・・
4055, 一個の人間の顔、それは一つの象形文字
2012年05月02日(水)           
                 ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より
≪「一個の人間の顔、それは一つの象形文字だ。ある神聖な、明確なしるしだ。なかに魂の現在が
あらわれている。動物だってそうではないか水牛がものを咀嚼しているとき、その顔を見てみたまえ、
鷲の顔を見てみたまえ、犬の顔を見てみたまえ。一個の人間の顔の中にはっきりした意欲と決意とが
あらわれているとき、それは一個のばらばらな意欲と決意という以上のものだ。そういう顔をぼくの
夢想の中のドイツ人は持っていた。どれも一息つくより短い夢の間にすぎなかったが。むろんぼくは、
ぼくに向って吹きつけてきたその未知の人物の顔を必ずしもいつも見たわけではない。(中略)・・・
だがともかくそういうとき、ぼくはそういった顔を内側から見たという気になったものだ。
『 わたしはこういう人間だ 』と、それらの顔には書かれていた。そして今ぼくはこの四ヶ月と
いうもの、現実の人間の顔を見ているわけだ。 なにもぼくはかれらに魂がないなどというのではない、
魂の光は一再ならず閃き出るのだが、それがすぐまたふっと消えてしまうのだ。鳩小屋の鳩と同じことで、
強と弱、近いものと遠くから持ってきたもの、卑俗なものと高貴なものとの、永遠の入ったり飛び
立ったりなのだ。 あるのはざまざまな可能性のそういった落着きのない出入りだけ、そしてそこには
つねに、あの一つの偉大な、決して言葉に言い現わせぬ奥底の思想が欠けている。
立派な顔には必ずあるあの変らぬものが。・・・ ≫ ーホフマンスタール『帰国者の手紙』より
▼ 顔に責任を持て、と言われても今更だが、年齢を重ねた顔には責任を持たねばならない。
 特に、政治家の大事を成し遂げた顔は、大事の象形文字と見ることが出来る。『わたしはこう
いう人間だ』と、そのまま書かれているようだ。先年、亡くなった片岡球子の人物画の顔が良い。
人間の顔が象形文字ということを知り尽くしているから、あのような顔がかけるのである。 
顔は魂の表出、老いてきたとき、行蔵が、そのまま現れ出る。
    ・・・・・・・
3689, 自己を見つめる -12
2011年05月02日(月)
  * 世間とは        「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 
 世間についても、何度も取り上げてきた。特に絶対神を持たない日本では、右に倣えの
世間的価値に同化することが善になる。人生の最晩年になって、いかに、それが自分の壁に
なっていたことに気づいて慌てふためく。(それさえない人もいる) 世間から身を守るため
には、やはり読書か、芸術や趣味などに専念するなどライフワークが必要である。 
世間を否定するのではなく、それと、心底で距離を置くことが必要である。 
  ー以下の、哲学的世間論も分かりやすい。
【 ー世間とはー 世の中の人が判断する仕方に従って判断する。大勢に準じた生き方のスタイルが、
 自分自身の生き方のスタイルになってしまう。 それ以外に自分の人生を考える余裕もすっかり
なくなってしまう。 なにしろ、そうした自己喪失的な大勢順応の暮らし方のほうが、気楽で、
安心で、責任がなく、居心地がいいのである。下手に逆らったり、別の道を選ぶと、世間から
締め出される危険性が忍び寄ってくる。 みんなと一緒のほうが安全なわけである。したがって、
誰も、真剣に自分のほんとうの生き方の道などを考えてみようとはしない。 ハイデッガーは、
こうした自己喪失的な世人のあり方を「頽落」と呼んだ。そのときには、世の中の人は、いやな
過去のことはどんどん忘れ、将来の成功のことをもっぱら予期し、現在の周りの出来事には、
最大の注意を払って、そこでの出番の成り行きに汲々となる。 そのとき世の中の人は、好奇心に
動かされて、噂話や風評に打ち興じ、物事の真相を曖昧にしたまま、仕事や趣味や遊びや気晴らしで、
興奮した多忙な日々を送る。そうしないと、恐ろしい倦怠と、ぞっとするような人生の深淵が眼に
入ってきて、鬱陶しいのである。そうして、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な世界内
存在の表面ないし前景を形作ることになる。・・・ 】
 -世間とは、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な世界内存在に生きている人たちをいう。
しかし人間は、自分の存在の根底を見つめたとき、投げ出された底なしの存在に、不安を覚えるもの。
その気分の方が、人間の根源に潜む根源的気分であると、ハイデッガーが看破した。 
それは死にさらされた自己自身の存在の自覚とともに立ち上がってくるという。その逆に、存在の
根底から目を背ける人たちが世間の人である。我々は底なしの存在から目を背け現象に気持ちを
集中させて生きようとする別名、俗人ということになる。 俗人も悪くはないが。
・・・・・・・
3324, 「B層」という「IQ]が低い人々
 2010年05月02日(日)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ーの中で、B層という言葉が
印象的に残った。以前、小泉元首相が、≪一言メッセージ≫を国民にわかりやすくコメントしたり、
郵政解散自民党の内部分裂をショーにして選挙に大勝した。 これは、考えない「B層」に
狙いを絞った戦略だったことを、この本で知った。その後の民主党の大勝も、「腐りきった
長期政権の自民党の破壊」という分かりやすい争点であった。それにしても、小泉、安部、福田、
麻生、鳩山という政治を家業とする二代目が、徹底的に日本を破壊してくれた。創造の前の破壊なら、
それも良しだが。どうも、そうでもない。アメリカの実質、日本の植民地化の政策が背後にある。
彼等二世の養成もアメリカの長期戦略の一つ? 恐ろしい限りである。
 ーウィキペディアによると 「B層」とは
2005年、小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社
スリード」が、小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズム
動員される国民層を揶揄する意味合いで使われるようになった。 スリード社の企画書では国民を
構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQ、ITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として
分類し、「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。 
主に主婦や教育レベルの低い若年層、高齢者層を指すものとされる。 上記の企画書がネット等を
通じて公に流布されたため、資料中に使用された「IQ」(知能指数)の語や露骨なマーケティング
戦略が物議を醸すところとなり、国会でも取り上げられた。
・「A層」=エコノミストを始めとして、基本的に民営化の必要性は感じているが、これまで、
  特に道路公団民営化の結末からの類推上、結果について悲観的な観測を持っており、批判的
  立場を形成している。「IQ」が比較的高く、構造改革に肯定的。
  *構成ー財界勝ち組企業、大学教授、マスメディア(テレビ)、都市部ホワイトカラーなど
・「B層」=現状では郵政への満足度が高いため、道路などへの公共事業批判ほどたやすく支持は
  得られない。郵政民営化への支持を取り付けるため、より深いレベルでの合意形成が不可欠。   
 「IQ」が比較的低く、構造改革に中立・肯定的。
  *構成ー主婦層、若年層、高齢者層など。具体的なことは分からないが
  小泉総理のキャラクター・内閣閣僚を支持。
・「C層」 構造改革抵抗守旧派。     「IQ」が比較的高く、構造改革に否定的。
  ~~
 大前は、「B層という知の減退した人たちと一線を引いて、何とかA層に入りなさい!」という
から辛辣といえば辛辣。しかし、この日本の低たらくの現実がある。 ネット社会=情報化社会では、
端末から価値ある情報が無限に引き出せる。したがって彼の論旨も、ある意味で納得できる。 
知能まで植民地の住人に落ちてしまったB層の比率の拡大? 周囲は、ほぼB層? ということは、
私も? まあ、いいか!  で、A層とかいう幸せな方々、実はD層じゃないかい 
(一番大事なことを考えない、見えてない、という意味で?) 上
記の5人が、その証明。  闘い続けている点は認めるが!
 ・・・・・・・・
2949, スリルな瀬戸際だった日々
2009年05月02日(土)
 先日の4月28日に、無事に第二シングル・インの中のテナントが決まり、調印が終わった。
そして午後にテナントの内装屋から電話が入り、「建物の用途変更は、お宅でして貰えるので
しょうね」という。     (字数の関係でカット2,008年5月2日)
 ・・・・・・・・
2585, 情報は1冊のノートにまとめなさい
2008年05月02日(金)
「情報は1冊のノートにまとめなさい 」
 -100円でつくる万能「情報整理ノート」 ー奥野宣之著
 (以下、字数制限のためカット2010年5月2日)
・・・・・・・・・
2007年05月02日(水)   ー遇然同日に、酒の話があった。面白いものだ2008年5月02日
2220, 酒の話ー3  +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜・:*☆  
 酒の話は、ここで何度も取り上げてきた。酒には付き合い酒、祝い酒、涙酒、別れ酒、
怒り酒、迎え酒、寝酒など、色いろあるが、あるHPで酒に関する面白い文に行き当たった。
酒は下ネタと同じく時空を超えて万国共通であるためか人間の本質を知る上で身に沁みる
戒めが多い。特に私は!? 偶然の一致だが、三年前の今日、『酒について』というテーマで
酒について、書いていた。面白いものである。 それにしても、酒の失敗があまりにも多い!
  =====
*まずは『旧約聖書外典』である。『外典』は、『正典』としての「旧約」や「新約」聖書の
成立の編纂で、排除された文章をまとめたもので、酒に関する戒めのような実用的なものが多い。
これが2000年前の旧約聖書にあったのだから、酒は今も昔も人間を狂わせてきた魔物。
 ー『旧約聖書外典』(関根正雄編 講談社文芸文庫)よりー
大酒を飲むことで勇者を気取るな           酒で失敗した人は多いのだ
炉が鋼鉄をためすように               酒は酔っ払う人の性格をためす
酒はほどよく飲めば                 生命の力となる
酒なくして何の人生か                酒は人を幸せにするために作られた
時をえらんでほどよく飲めば             酒は心を楽しませ 愉快にする
だが飲みすぎれば苦い思いを味わい          怒りと復讐の心を生む
愚か者は酒によって憤り 自ら害を招く    酒は力を弱め ついには障害をうけるようになる
酒の席ではとなりの客と争うな            相客が楽しんでいるのを妨げるな
隣人をあざけったり                 借金の催促などをしてはいけない
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また若山牧水「酒の歌」で『今まで自分のして来たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を
  作ってきた事だけの様である。いま一つ、出鱈目に酒を飲んで来た事。』
と酒の思いを述べている。
ー牧水の酒のうたー
(字数制限の関係でカット09年5月02日)
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2006年05月02日(火)
1855, ローマから日本が見える-9       (o´・ェ・`o)♪ぉはょぅ
ローマ街道を彼らローマ人は武器と考えた。そして、その武器を最大限生かした。
その武器を平時の時に常につくり続けていった。 (字数の関係でカット2,008年5月2日)   
  
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2005年05月02日(月)
 1490, 24歳の日記ー4  ー4月1日  1970年
一番大事なことは、誠実である。誠実さを持てば自ずから幸福につながる。言葉という
ものは自由な消費財と捉えられる。しかも、その消費財を使う消費者は生産者を兼ねている。
何か解ったような解らないような。父親に言われる、「人間、自分が将来に希望を持てない
ようだったら死ぬべきだ!周囲に迷惑がかかる。死ぬなら今のうちだ」
 ー4月11日
10日間、両親と三人で四国に行ってきた。両親と三人で旅行するのは、今迄で初めてである。
考えていたより、素晴らしい旅行であった。 良い思い出になった。特に、香川の坂出の夕陽
のオレンジ色の輝きは生涯忘れることができない。生まれてみる初めて見た自然の輝きであった。
瀬戸内海の景色の中の波の照り返す黄金の輝き! 学生時代に湘南で見た夕陽とは、また
違った輝きであった。それと、両親と旅行することも二度とないだろう。 
かなり加熱していた頭を冷やすのに丁度良い。
 中原中也の詩「山羊の歌」の中の
ーあき・修羅街輓歌ーと、
ーみちこ・汚れてしまった悲しみにーが、今の自分を慰めてくれる。
 今の自分の心をそのまま表現している。 心の傷を消毒をしてくれる。強くあらねば!
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  酔生
私の青春も過ぎた、 ―この寒い明け方の鶏鳴よ! 私の青春も過ぎた。
ほんに前後もみないで生きて来た…… 私はあむまり陽気にすぎた? 
―無邪気な戦士、私の心よ!
それにしても私は憎む、 対外意識にだけ生きる人々を。 ―パラドクサルな人生よ。
 (以下、字数制限のためカット2010年5月2日)
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2004年05月02日(日)
 1125, 酒について (ああ、酒よ!)
「神はこの世を六日間で創り給うた。そして、第七日目には、二日酔いを与え給うた」
というとおり、酒はよいことだけではない。「バッカス(酒の神)はネプチューン
(海の神)よりも多くのものを溺死させた」と、ローマの諺にある。酒は肝臓に悪い。
腎臓に悪い。 しかし、酒は「心の特効薬」?である。酒の一杯は健康のため。二杯は
快楽のため。三杯は放縦のため。四杯は狂気のため。というが、酒はプラスにもマイナス
にもなる。「おい堀井。お前、晩酌で二日酔いしたことがあるか?」と高校の同級生に
聞かれたことがあった。「ほとんどない!」と答えたら、「おれなど、いつも晩酌で
二日酔いをしているぞ!」 何か深い深い意味があった。目の前の悩みを洗い流して
くれるのは、酒と先人の言葉と諦念である。酒は愉楽の完全な典型である。酒は実に
うまい、不満を追い払ってくれる。 それ以上何を望もうか、それでよい。酒を飲む
ことほど日々を楽しくさせてくれるものはない。くよくよさせず、勇気をいっそう
勇敢にさえしてくれる。しかし、酒であまりの多くの失敗をしてきた。 
若き日、酒を飲んで多くの議論をしてきた。そして、多くの人と争ってきた。 
酒は、脳に入れた敵、気違い水であり、あまりに危ない敵である。
それでも、酒は美味い。これで20年は寿命を短くしただろう。
ー私の場合特に以下の言葉は胸に刺さるー
・酒を飲む理由は二つある。一つはのどが渇いたときに喉をうるおすため。
 もう一つはのどが渇いていないときにのどの渇きを事前に防ぐため。 Tーピーコック
・若者にとって酒は大人の勲章である。              ー吉行淳之介
・一生を洗い流してくれるのはただ酒だけである。         ー韓愈
・どういうことになるものやら見当のつかない二つの場合がある。
 男が初めて酒を飲むとき。女が最後に(今夜きりよ、と)酒を飲むとき。 ーヘンリー
・土曜の夜の酒の味が、平生と違うことを知らないものには、日曜の朝の楽しさは解るまい。
                                  ー水上滝太郎
・酒がいちばんいいね。酒というのは人の顔を見ない。貧乏人も金持ちも同じように
 酔わせてくれるんだ。 -古今亭志ん生
・酒と美しい娘は二本の魔の糸。 経験を積んだ鳥でもこれにはまんまと引っかかる。
                                 -リュッケルト
・酒に害はない。泥酔する人に罪がある。              -フランクリン
・煙草が存在しなかった時は、セックスの後で皆何をしていたのだろう。-アレキサス
・酒は百薬の長なり。                         -「漢書
・百薬の長とは言えど、よろずの病は酒より起これ。           -吉田兼好
・ときには我を忘れるほど酔うことも人間の特権だ。           ー山本周五郎
・大体お酒のみには二種類ありますね。酔いたい人と飲みたい人とです。  -内田百閒
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2003年05月02日(金)
 758、ある医師の夢
 10年近く半年~一年に一度の定期健診ー人間ドックにいっている。その主治医と、
いつの間にか懇意になった。先日検診に行くと、オホーツクの僻地に赴任することになったという。 
僻地医師になるのが長年の夢で、「あと定年まで3年で、このままいても今と同じくり返しでしかない。
一度しかない人生、夢の実現の為に 思い切って決断した!」 ほとんど長岡を出たことのない
最後の人生のデザインである。人生いろいろある。青年期に読んだ本の一節で
「人生、小説でないのよ、勝者が善、敗者が悪なのよ!」というソルジェニーツェンの
小説の一節がある。小説のように生きる事こそ人生の要諦ががあるのではないだろうか。
   (字数の関係でカット2,011年5月2日)
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2002年05月02日(木)
 394,「人生を変える至福の散歩」
昨夜、NHKウオーキング特集を組んでいた。「人生を変える至福の散歩」というタイトル
だった。今更という感で見ていたが、散歩の素人向けの番組だった。15年のプロ、柔道で
いうと2段くらいか。新潟市内を平日の日中歩けば、3段ぐらいになれる。 ただ楽しい至福の
時間だ。他人のことはどうでもいいが、これだけの素晴らしい事を殆どの人が見つけていない。
家内に言っても、息子にいってもいまだ解らない。それが他人にいっても解るわけがない。
全てが含まれている。一日7^8時間歩いているという人の手記を日経新聞で読んで、凄い人が
いるものと驚いた。毎日散歩をしていて感じる事は、自然に溶け込む、自然と一体感が持てることだ。
鳥の世界が見えてくる、草木の世界が見えてくる、昆虫の世界が見えてくる。橋が見えてくる、
山が見えてくる。その世界に入っている自分が見えてくる。太陽の光と空気の世界が見てくる。
自分の人間世界の卑小さが見えてくる。そして何よりも自分の人生が見えてくる。雀のあの
楽しそうなしぜんが見えてくる。
ー過去に書いた文章をコピーしておこう。
  ~ H0311事業百訓
 最近私が造った言葉で“夜明けのリゾート・タイム”がある。(江藤淳の“夜の紅茶”をもじったもの)
*早朝(4時半~5時半)起床  *近くの土手を一時間散歩?テレビ体操?瞑想?家族全員のお祈り?食事
*風呂と続く。特に散歩が非常により。山の彼方をみながら複式呼吸をして歩く。
 季節ごとの草花や鳥をみながら川のせせらぎを聞き、時々に般若心経をとなえる。
この散歩に全てが含まれても過言ではないという“気”にもなる。これを実施して4年、副産物として
アフター・5に出あるく事と、酒量が激減した事だ。健康食品を口にする事も加えて七kgも体重が減った。
時々不節制が続くと散歩していると身体がだるく重くなるのがはっきり判る。また朝の風呂も非常によい。
当初は疲れが残ったがなれると気分爽快になる。早朝型のきっかけは、松下電器の山下俊彦元社長の講演を
聞き感激して自ら挑戦してみた事だ。彼は登山がライフ・ワークであり、その訓練も含め毎朝3時半起床。
1時間半10km歩くという。そして読書とシャワーをあびるとの事。夜は定時がくるとすぐ帰宅。
夜のつきあいは一切断っている。これが逆に考える時間と、心の余裕をつくった。
山下跳び(飛躍的出世)の秘密もこれがポイントだ。
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H0503万歩計
(以下、字数制限のためカット2010年5月2日)