ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

シンガポール事情に関する一私見

以下は、シンガポールから送られてきた論文に対する愚考の和訳です(参照:2008年9月6日・9月7日付「ユーリの部屋」)。Aさんからは、「論文を読んでくれた努力に感謝している。少しこちらも考えさせてほしい。後で返事を送る」とのご連絡をいただきました。一部、個人名を伏せてありますが、内容に大差はないつもりです。また、大枠はこのブログでもたびたび言及してきたものです。

2008年9月5日

A様



ご論文を送ってくださってありがとうございます。昨日、読み始めました。


ムスリム・クリスチャン関係についてのお考えに関して、私なりに幾つかのコメントがありますので、直接お会いして意見交換したいと思います。しかしながら、今は9月中旬に行なう学会発表準備をしていて、目下、充分な時間がありません。私の発表テーマは、「独立前のマラヤ(含シンガポール)におけるマレー語聖書翻訳史」です。


私の見解をお分かちする前に、まずは次のことを確認しておきたいと思います。マレー語聖書翻訳に関する私の関心は、最初から、基本的にマレー・ムスリムキリスト教に改宗させる意図を持つものではありません。私は単なるリサーチャーであって、伝道者でも宣教師でも聖書翻訳者でもありません。1990年4月に、国際交流基金からマレーシアで仕事をするよう任命された時以来、一度も改宗の意図を持ったことはないのです。


私は、マレーシアの前首相マハティール・モハマド氏が唱道した東方政策の下、マレー人学生達に日本語を教えていました。学生達とは、マラヤ大学での3年間の教師期間中、良好で穏やかな関係を持っていました。契約が終了した後でさえ、マレーシアを訪問する度に、必ず偶然にも、ホテルや大学図書館で私を見つけた元学生達の何人かに出会いました。学生達は私の宗教的背景を知りませんでしたが、私は常に、言語講師として、特別の留意を払いつつ、学生達と接していました。学生の方も、たいてい私と連絡を取りたがりましたが、9.11後は、突然、何らの通知もなく連絡が絶たれてしまいました。


イスラームそしてキリスト教や西洋に対するマレー・ムスリム達の見解に関するAさんの記述は、すでに日本人の学者や研究者達によって、10年以上も前に多くの論文や出版物で書かれていることです。大変申し訳ないのですが、正直に言いまして、ムスリムの態度や意見に関するAさんの分析や説明には、ほとんど新しいものはありませんでした。私は、あのようなムスリム側の典型的な政治的発言にはもう慣れています。ご論文の参考文献の多くは、最近のシンガポールの宗教間事例を除けば、実は私の所有するものと重複しています。何人かのムスリム執筆者は、ここ日本でマレーシア研究をしている日本人研究者や学者の間で、よく知られています。


しかし問題は、Aさんが最終章(pp. 216-234)で述べている提案の適合性と可能性だろうと思います。


シンガポールの現実を直視するならば、仏教人口が42.5%と最大で、第二の人口を占めるのが無宗教の14.8%です。数週間前、オンライン新聞で読んだのですが、今やシンガポールでは、仏教がキリスト教よりも人気があるのだそうです。この現象は、日本の今の現象と非常に似ていて、興味深いと思います。

 
最新のシンガポール統計によれば、キリスト教人口は14.6%で、ムスリム人口は13.9%です。その意味するところは、71.5%以上のシンガポール人が非一神教に属するということです。また、シンガポールは世俗的で自由な国家です。そして、移民の子孫といくらかの外国人達が多数派を占める小さな都市国家です。


つまり、クリスチャンがムスリムの間で宣教活動を控える限りにおいて、特に問題はないという意味です。そして、シンガポールやマレーシアで私が知っているクリスチャンのほとんどは、国の法律を守っています。同時に、キリスト教に興味を持つムスリムは、自由に、自由意志の下で、強制なく、恐れを抱かずに、キリスト教に接近することができなければなりません。もっとも、多くのムスリムが、あえてそうすることはないのは明らかですが。ムスリムがもし、キリスト教の宣教活動をやめるよう要求するのであれば、ムスリムの方もイスラーム宣教を控えるべきなのです。



教会やモスクは、それぞれ、個人のアイデンティティを再確認する出会いの場所を提供しています。ささやかな私の観察によれば、シンガポールキリスト教会は、マレーシアと同様、単なる礼拝場所としてのみならず、教派的、言語的、民族的、地域的、社会経済的特徴のために、コミュニティセンターとしても機能しています。この観点から、一般のクリスチャン達が、自らのキリスト論や神学を変えたがらないのは、よく理解できるところです。なぜなら、このクリスチャン達にとって、宗教間対話に関わることで自らの中心アイデンティティを変えることは、ほとんど意味がないと考えられるからです。それは、宗教指導者達の責任だと、考えているかもしれません。

 
また、シンガポールやマレーシアのクリスチャンのほとんどが私に言いました。ムスリム伝道は非常にセンシティヴだということは充分理解していて、地元の法律が許可した範囲内で活動しているだけだ、と。シンガポール聖書協会の前総主事であったL博士は、1999年にメールで書いてくださいました。1965年にマレーシアからシンガポールが分離して以来、クリスチャン達はすでにマレー人伝道やマレー語聖書には関心を失ってしまった、と。2000年11月の段階で、私はシンガポール聖書協会の書店で、マレー語新約聖書の小さな分冊を見つけただけでした。それは、シンガポールで働いているインドネシア人メードが将来使うかもしれないから、とのことでした。スタッフの一人が、もしムスリムが教会に来たら、教会指導者は政府に通報しなければならないとも言いました。そうすることで、人々は社会秩序と安定を守っていたのです。


私のマレー語聖書翻訳に関する主な焦点は、もともとマレー語そのものの使用に基づくものであって、宣教学や宣教問題ではありませんでした。聖書を読むことで、マレー語を適切に学びたかったのです。学部生時代、ドイツ語やスペイン語を学んだ時に、同様のことをしました。それがすべてで、それ以外ではありませんでした。私にとって、聖書とは偉大な古典の一つであり、現代文脈の中で、学問的に神学的に再解釈されなければならないと考えています。そして、聖書の歴史的批判や批判的な聖書の読みは絶対に必要だと思っています。この観点から、シンガポールやマレーシアのキリスト教はやや保守的で、私にとっては、より伝道中心に思われます。Bobby E. K. Sng博士の著作 (1980/1993/2003: 180-2, 213, 228-238, 263, 352)では、シンガポール自由主義神学は最終的に拒否され、論争はトリニティ神学院で決着がついた、と読みました。これも、地元の人々の概して現実的な態度やいささか文化的に伝統的な思考方式を見るならば、全く理解できるところであります。もっとも、シンガポール人はしばしば、自分達が「西洋化され、最も進歩的で繁栄したアジア人」だと誇りを持っているようですけれども。教会は人々の必要を満たさなければならないので、その意味では、自由主義神学は地元の人々に合わないようなのです。


以前もメールでお伝えしたように、この夏、私は、シンガポールから学校教師のグループをお迎えしました。このグループは、大阪で開かれた国際美術教育学会で発表をしたのです。グループの一人が私の古い友人で、20年前に10ヶ月、私の母校で日本語を勉強していました。大変興味深かったのは、私と夕食を共にしたメンバーの大半が、クリスチャンだったということです(2人がカトリック、2人が長老派、1人が洗礼は受けたが教会へは行っていない人)。一人のマレー人女性は、今では見かけなくなったものの18年前のマレーシアでは珍しくもなかったカジュアルな短いスカーフをした人でした。私の友人は電話で、シンガポールのマレー・ムスリムは、マレーシアのマレー人と違って、比較的もっとオープンだと言いました。同様のことは、既にずっと前に、マレーシア研究をしている日本人学者によっても観察されていますし、それには私も同意します。それはともかく、私は、彼女に英語とマレー語で話しかけ、彼女は私と一緒にいて楽しそうでしたし、私達が、教会の教派や私のイスラエル旅行の話をしていた時でさえ、侮辱的だとは感じていなかったようでした。


ここ日本では、主流派はリベラルで、社会に対してより関心があります。それ以外が福音派とカリスマ的なグループです。両者は互いに合意せず、時には争うこともあります。しかし、最新の統計によれば、日本人口のたった0.8%がクリスチャン(カトリック0.3%、プロテスタント0.5%、その他はロシア正教)です。今や多くの教会員が急激に高齢化していて、明らかに教会は若者や中年の職業人を引きつけるのに失敗しています。今では、日本聖書協会は、聖書の単なる配布や改宗活動よりも、むしろ、教育プログラムや出版に力を入れています。また、早かれ遅かれ、日本では、ムスリム人口がクリスチャン人口より大きくなるだろうとも言われています。


このような状況下で、日本人の福音派系クリスチャンの中には、東南アジアで、聖書翻訳者や牧師や宣教師として働くことをより好む人もいます。実は私は、このような福音派クリスチャンと社交上の接触を持っていますが、それは過去にマレーシアに滞在した経験のためです。しかし、個人的には、私はよりリベラルで批判的でありたく、キリスト教自己批判はいつでも歓迎しています。

 
1990年に初めて、キリスト教書店やマレーシア聖書協会に行ってマレー語聖書を入手しようとした時、マレー語聖書は「センシティヴ」だと言われました。その時以来、聖書が、マレーシアのようなイスラーム国やその他のアラビア語を用いる国々でどのように翻訳されているか、自分なりのリサーチを始めたわけです。ムスリムの知人から、アラビア語聖書は、アラブ諸国で参考書の一つとしてムスリムによって受け入れられてきたと聞きました。この状況は、マレーシアとは少し異なっています。マレーシアでは、マレー語聖書は、少なくとも公的には、もはやマレー人のためではなく、マレー語で教育を受けたサバ・サラワクのブミプトラ・クリスチャン用です。しかしながら、ご存じのように、1980年代以降、主にマレー人の政治運動と国内のイスラーム化政策のため、マレーシアでは、"Allah"のようなマレー語の宗教用語が繰り返し問題になってきました。

 
私は、キリスト教の宣教学や聖書翻訳の方法は、常に、時代や地域によって、地元の文脈の必要を満たすために変化し続けてきているということを知っています。しかし、私の意見では、ムスリム学者は、自らのクルアーンハディースの解釈を変えることなく、また、キリスト教側の変化を理解することなく、ムスリムイスラームに対する支持をもっと得ようとして、自らの便宜のために、キリスト教宣教師や福音派クリスチャン達を批判し攻撃する傾向があると思います。確かに、非常に保守的な福音派クリスチャンの中には、マレー人や他のムスリムを、今でも改宗させようと試みている人がいるのは事実ですが、もしマレーシア人クリスチャンに関する私の観察が正しいならば、そういう人達は必ずしもキリスト教多数派ではありません。


私の考えでは、真の相互理解は、相互の自己批判に基づかなければならないというものです。しかし、現在のアカデミアでは、これ以上状況を悪化させないために、クリスチャン側がより自己批判的になってきていて、ムスリム学者は、善意のクリスチャン達を黙らせることで、より政治力を増してきたように思います。これは不公平であり不公正です。マレーシアで、私は何人かのカトリックおよびプロテスタントキリスト教指導者達に会って議論してきましたが、この人々はもう既に、ムスリムの隣人を理解するためにイスラームを学び始めていました。しかし、草の根レベルの宗教間対話や公の対話セッションは、もっぱら、ムスリム側からの一方的な話かリップサービスだけのようです。そして、マレーシアの非ムスリムは、自分達の扱いに対する改善の遅さに対して、ある種のフラストレーションを抱いています。それが、マレーシアで多くの人々が宗教間対話にあまりにも躊躇する主な理由です。そして、これは同情をもって理解されるべきです。なぜなら、彼らは、ますます社会の中で脇へ押しやられ、問題を改善するのが遅過ぎると感じているからです。


植民地時代の多くのムスリムは経済的に弱く、内向きであったのに、独立後は、正確な事実を調査することなしに、西洋によって犠牲者にされたと主張し始めるようになったという印象を、私は 持っています。実際には、マラヤでは、多くの普通のカンポンに住むマレー人は、外部の影響から距離を置いていて、善意のキリスト教の医師や教育者によってさしのべられる助けの手から逃げていました。私は、パンコール協約は二つの相反する意味によって解釈されうると思っています。一つはムスリム側の見解で、マレー人社会に対する英国の社会政治的な管理と干渉というもの、もう一つは、英国のイスラーム保護によって、マレー人はキリスト教奉仕の便宜を受ける機会を失ったというものです。


後者の考え方は、今でも地元のクリスチャンの思考様式に影響を与えています。彼らはこう考える傾向にあります。インドネシアでは、アチェ以外、シャリーア法が撤廃され、スルタン制はもはや存在しなくなりました。インドネシアの第一代スカルノ大統領は、パンチャシラを採用し、共産主義と戦うために、二つの種類のキリスト教、すなわちカトリックプロテスタントを五大公認宗教として認めました。その結果、インドネシアムスリムは、もし望むならば、キリスト教に改宗できたし、今でもできるのです。そして、憲法のために誰も改宗を止める権利はないのです。一方、マレーシアでは、シャリーア法もスルタン制も現存していて、マレー人は非ムスリム諸宗教の宣教の影響からしっかりと保護されてきました。彼らは、元々は同じマレー語話者でマレー系の人々なのですが、ある意味で異なる宗教的権利を持っています。この点で、一般的に、ムスリムが当時の西洋人キリスト教宣教師を非難することはほとんど意味をなさないのです。すべては、地元の人々の選択であり、好みでした。オランダ人は、植民地時代に地元のムスリムを見下げていたかもしれないのですが、英国人は、本当に地元のマレー人やイスラームを保護したのです。歴史的な証拠に基づき、この二つは区別すべきだと私は思います。


そうはいうものの、同時に私は、ミッションスクールで教育を受けた多くの専門職のマレー人を知っています。この人々は、ムスリムとして親切に適切に遇される限り、キリスト教について決して文句は言いません。クアラルンプールのクリスチャンのインフォーマントの何人かも、私に次のように打ち明けました。トゥンク・アブドゥル・ラーマン時代には、彼らのマレー人の友人がメソディスト学校のチャペルに来て一緒に座っていたが、誰も騒がなかった、と。また、何人かのマレー人は自発的にキリスト教に改宗し、ムスリム名を西洋化した名前に変えたが、当時はムスリム側からなんら反発もなかった、と。もしこの言及が正しいならば、マレーシアのムスリムの間でさえ、世俗的で非組織的なムスリム環境が、このような寛容で自由な態度を生み出したのではないかと私は考えています。


ハートフォード神学校は、日本では明治時代から、アメリカにおける保守的で「帝国主義的な」キリスト教神学校として知られていました。無教会の有名な独立キリスト教指導者の内村鑑三は、1887年から1888年までハートフォード神学校で学んだことがありますが、すぐに、キリスト教教育や研究の方法にとても落胆しました。(無教会のクリスチャンは、日本の小さな少数派ですが、彼らの多くは高度な専門職で大変知的です。私のクリスチャンの友人の何人かは無教会に属し、私は大変尊敬しています。)ともかく、この見解は卓越した日本人学者である早稲田大学の後藤乾一教授によっても受容され、支持されています (1987: 52-57)。


もちろん私は、現在のハートフォード神学校が、黒人やヒスパニックや女性のための牧会に集中していることに気づいていました。B先生の娘さんが2005年8月に私に説明してくださったとおりです。それに、数年前、1911年から2007年までのジャーナル『モスレム/ムスリム世界』を一ページずつ読んで調べました。ですから、神学校内の政策や人事の変化や伝道の転換を理解しているつもりです。ウィリアム・シェラベア博士牧師は、ハートフォード神学校の教授でしたが、もはや古いタイプの宣教師です。しかし、H教授が著作で示されているように、シェラベア博士のマレー・ムスリムに対する態度やイスラーム理解は、その長く献身的な伝道活動や学術的努力の間に、徐々に変化していきました。


この夏、私は、マラヤとシンガポールのメソディスト教団による『マレーシア・メッセージ』(1891年から)や宣教団公会議録(1893年から)を読んでいました。私にとっては、多くの障害や失敗や健康問題にも関わらず、なんと多くの篤い祈りがこれらの宣教師達によって捧げられたかを知り、とても興味深かったです。恐らく、これらの宣教師達は、当時、自らの信仰的な活動が、後になって、ムスリムやあるクリスチャン達によって、西洋帝国主義の道具としてひどく批判されようとは、想像だにしなかったことと思います。宣教師達は、会議でいつも繰り返していました。自分達の活動は自己利益のためではなく、神の業なのだ、と。祈りと聖霊のみが仕事を続ける道を開くことができるのだ、と堅く信じていました。例えば、女性宣教師の一人は、議事録で報告しています、「ペナンで、神は私達と共にいました」と。


それゆえ、シンガポールやマレーシアのキリスト教宣教活動を「帝国主義者」だと非難する前に、私達が理解しなければならないのは、宣教師達の社会宗教的背景と当時の宣教学史なのです。宣教師達の間で、「マホメット教徒達」が否定的に言及され議論されていたのは事実ですが、文書が明らかにするのは、大半の宣教師達は、イスラームやマレー人そのものに主な焦点があったのではなく、それ以上に、半島や海峡植民地やボルネオにいた華人やインド系そして先住民族の人々に焦点を当てていたということです。宣教師達は、学校を建てたり孤児院を造ったり、医療活動などをすることで、地元のモラルを高め、生活水準を上げようとしました。これが言えるのは、同じ時期に日本にいた宣教師達の活動と比較してのことです。キリスト教改宗は、日本では稀でしたし、今でもそうですが、多くの日本人は、社会の近代化のために尽くした宣教師の献身的な仕事を賞賛しています。また、その遺産を尊敬しています。誰も、「宣教師達は日本文化を破壊するために日本へ来た!」などと非難したり攻撃したりはしませんでした。多くの人々は、単に、静かに、キリスト教への改宗を拒否しただけです。

 
私の考えでは、Aさんが唱導するシンガポールの「モデル」は、シンガポールでのみ役立つだけではないかと思っています。そして、マレーシアやインドネシアやミンダナオ地域やブルネイでは、その「モデル」を採用することは必ずしも適切ではないかもしれません。なぜならば、ムスリム学者達は、イスラームは国境を越えるのだと主張していますけれども、民族的宗教的比率と背景が国によって全く異なっているからです。それぞれの国が、地元の必要と希求に合うような、それぞれの「モデル」を形成すべきです。さもなければ、新しく採用した「モデル」が、結局は代替的思考や行動を注入するメカニズムとして働くような、別のタイプの「植民地的精神」を作り出すのに用いられるかもしれないからです。
 

Aさんの先生は、ご自分では「パレスチナ人」だと主張されていますが、アラブ系イスラエル人です。私は、昨年、テル・アヴィヴ大学から出版された学術論文の幾つかと、デビッド・グロスマンやアモス・オズによる小説の幾つかを読みました。わかったのは、ムスリムユダヤ人関係やアラブ・イスラエル問題に関して、ユダヤイスラエル人は、アラブ系ムスリムよりも、もっと客観的で民主的で自由で批判的な議論を展開してきたということです。私のユダヤイスラエル人の知人の一人は、ヘブライ語聖書学の教授ですが、以前、アラブ系ムスリムは、自分達が犠牲にされてきたと、いつもアジア人を説得しようとしている、と私に言いました。実際、事実は全く違います。私は中立的立場で、ネオコンでもないし、福音派でもありませんが、2007年3月にイスラエルパレスチナを訪問後、今や彼女の見解を支持しています。ここでもまた、これはあるムスリム指導者による現行の政治的主張だと言わなければなりません。どうして、ムスリムクルアーンハディースに対する彼らの宗教的確信や見解を変えるつもりがないようなのに、宗教間問題を解決するために、キリスト論のみが変更されなければならないのですか。誰も、己が心地よく思っている信仰体系を変えるよう強制することはできないのです。ここでも、信教の自由が保障されなければなりません。そこには、宗教を変える権利と信仰を何も持たない選択とが含まれます。ムスリムとクリスチャンは相互に妥協することなく、共に成長すべきなのです。


1990年以降、ハートフォード神学校の前学長であられたZ教授は、京都の大学の宣教師兼教授でしたが、ある時、私にこうおっしゃいました。アメリカではムスリムはマイノリティなので、少数派である限りにおいて、ムスリムが何を言おうと問題はないはずだ、と。いずれにせよ、米国にはシャリーア法がありません。B先生も、私におっしゃいました。「アメリカでは、キリスト教に改宗した元ムスリムは誰も、ムスリムからハラスメントを受けることはない」と。


しかしながら、Z教授は、2004年の公の研究会合で強調されました。ムスリムとクリスチャンの間で、相互の信仰を妥協することなく協調関係を作り出すことが私達にとって重要だ、と。それにも関わらず、Z教授とB先生は、私に打ち明けたのです。ハートフォード神学校やアメリカでさえ、ムスリム・クリスチャン対話はとても困難で難しいと。そして、マレーシアのようなムスリム多数派の国々で、キリスト教少数派が直面させられている問題を解決する方法については、良い考えを持っていないともおっしゃいました。


そこから私が思ったのは、ハートフォード神学校でムスリムに対してクリスチャンの態度が徐々に変わっていったのは、神学校が公に主張しているような純粋な宗教的動機に基づくものではなく、和解の形としてムスリムをなだめるために、ある種の外交的スタンスに基づくものではないかということです。


近年になればなるほど、ジャーナル『ムスリム世界』には、よりムスリム中心の見解が現れてきたように思います。私が今、このジャーナルに関してがっかりしているのは、ムスリム学者によって書かれるマレーシアやシンガポールについての最近の論文のほとんどにおいて、非ムスリムの宗教事情にまつわる調和のとれた見解や記述が全く欠けていることです。


ところで、以下の出版物をもう読まれましたか。私は、これらは、Aさんが主張したいかもしれないような、西洋の偏見に基づくイスラーム見解を保持しているとは思いません。シンガポールの状況とはかなり異なりますが、ムスリムがその主張を再考する余地があるかもしれません。



1. William Montgomery Watt, “Muslim-Christian Encounters: Perceptions and Misperceptions”, Routledge, 1991.

2.Jaques Waardenburg (ed.), “Muslim Perceptions of Other Religions: A Historical Survey”, New York, Oxford University Press, 1999.

3. I. Mark Beaumont, “Christology in Dialogue with Muslims: A Critical Analysis of Christian Presentations of Christ for Muslims from the Ninth and Twentieth Centuries”, Regnum Studies in Mission, 2005.

4. S. Hadi Abdullah and K.S. Sieh (ed.), “The Initiative for the Formation of a Malaysian Interfaith Commission: A Documentation”, Konrad Adenauer Foundation, 2007.

5. Albert Sundararaj Walters, “Knowing our Neighbour: A Study of Islam for Christians in Malaysia”, Council of Churches of Malaysia, 2007.


かなり異なる私の立脚点をご理解いただければと思います。何時も批判は歓迎します。ドアはいつでも開かれています。

(以上 2008年9月8日和訳)