kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

安倍政権の「成長戦略」は百害あって一利なし

もはやその悪質な「研究不正」を疑う余地がなくなった「STAP細胞」の「発見者」小保方晴子を(トンデモカルト極右政治家の)下村博文が庇い続けているのは、下村が小保方を信じているというよりは、笹井芳樹の政治力が大きく寄与して既に走り出していた、理研CDBへの予算の傾斜配分という惰性を止めることに労力を割きたくないという官僚の思惑を反映した言動ではないか。そう私は勘繰っている。再生医療は、安倍政権の「成長戦略」に組み込まれていることは確実だ。

再生医療の分野に限らず、また安倍政権に限らず過去の政権においても、政府の「成長戦略」は百害あって一利なしである。何度も書くが、かつての自動車産業は政府からほったらかしにされるどころか、厳しい排ガス基準を突きつけられて、その壁をクリアしたことが成長の原動力になった。明らかな研究不正を不問に付そうとする動きはその真逆であって、当該分野の技術レベルを下げるものにほかならない。

同じように政府に甘やかされてきた技術が原発であろう。「世界一厳しい安全基準」という安倍晋三の言葉が嘘八百であり、ヨーロッパの原発の安全基準が日本よりはるかに厳しいことは、テレビの報道番組などでも繰り返し指摘されている。安倍晋三小保方晴子に優るとも劣らない大嘘つきであることを知らない人は今や誰もいないだろう。

さらに安倍政権が力を入れている分野に軍需産業がある。もっとも、政府が後押しすると技術力がつかない傾向を考えれば、日本の軍事技術は世界に冠たるものにはなりそうもないといえるかもしれない。しかし、「成長戦略」とやらは、掛け声だけではなく税金が投入されるわけだから、そのデメリットは計り知れない。こういう「ムダ」こそ削減しなければならない。

また最悪なのは労働の規制緩和である。今朝(7/31)の朝日新聞4面掲載の解説記事に、

(成長戦略の)全体に通じるのは、企業のもうけを増やすことを最優先に、企業活動のじゃまをする規制をなくしたり、企業に必要な労働力を確保したりするという考え方だ。

と書かれているが、「企業活動のじゃまをする規制をなくしたり、企業に必要な労働力を確保したりする」ことが「企業のもうけを増やす」ことになるかどうかは疑問だ。たとえば安倍政権は派遣労働の規制をさらに緩和しようとたくらんでいるが、景気が悪くなると派遣社員は職を失って購買力が低下するから、企業は製品を買ってもらうことができなくなり、企業の儲けが減ることにつながる。日本の政治は、1980年代以降(特に1990年代以降)、あまりに一方的に企業側に偏った経済政策をとり続けて失敗を重ねていると私は考える。

政府の経済政策に「成長戦略」など必要ないのである。

検察審査会が東電の3人を「起訴相当」と議決/元会長・勝俣恒久は小沢一郎の「ジョン万次郎の会」仲間

http://mainichi.jp/select/news/20140731k0000e040212000c.html

検察審査会:東電元会長ら3人「起訴相当」福島原発事故

 東京電力福島第1原発事故を巡り、東京第5検察審査会は31日、業務上過失致死傷の疑いなどで告発され、東京地検が不起訴とした東京電力勝俣恒久元会長(74)ら元東電幹部3人について、「起訴相当」と議決したと公表した。審査会は「津波の発生を具体的に言い当てるのは不可能だが、原発事業者としては、津波の来襲を想定して対応を取る必要があった」と指摘した。

 議決は23日付。東京地検は再捜査した上で起訴か不起訴か改めて判断する。再び不起訴とした場合でも、検察審査会が2度目の審査で再び起訴すべきだと議決をすれば、検察官役に指定された弁護士が強制起訴することになる。

 他に起訴相当とされたのは、武藤栄・元副社長と、武黒一郎・元副社長の2人。審査会はほかに、元東電幹部2人について「不起訴相当」、1人を「不起訴不当」とした。

 審査会は、地震予見可能性について、東日本大震災以前の研究は科学的根拠に基づくもので、東電も研究を無視できないと認識しながら、対策費がかさむことなどから採用を避けていたとした。

 その上で、勝俣元会長は「東電の最高責任者として各部署に適切な対応策を取らせることも可能な地位にあった。従来の想定を大きく超える津波が襲来する可能性に関する報告に接していると考えられ、重要な点について知らなかったという説明は信用できない」と指摘。武藤、武黒の両元副社長も原子力担当として、2008年に、最悪の場合に15・7メートルの津波が発生するとの試算の報告を受けており、適切な措置を取るべき立場にあったとした。

 被災者や市民団体などは勝俣元会長ら当時の東電幹部や、事故対応に当たった菅直人元首相ら政府関係者を告訴、告発した。東京地検は13年9月、当時の東電幹部10人を「容疑不十分」、菅元首相ら政府首脳を「容疑なし」とするなど計42人全員を不起訴処分とした。

 これに対し、福島県の住民や避難者でつくる「福島原発告訴団」は同年10月、勝俣元会長ら6人に絞って審査会に審査を申し立てていた。【吉住遊】

 ◇東京第5検察審査会の議決

勝俣恒久元会長起訴相当

鼓 紀男元副社長不起訴相当

小森明生元常務不起訴不当

武藤 栄元副社長起訴相当

武黒一郎元副社長起訴相当

榎本聡明元副社長不起訴相当

(議決順)

毎日新聞 2014年07月31日 11時38分(最終更新 07月31日 13時56分)

検察審査会の「起訴相当」といえば、誰もが4年前の小沢一郎を思い出すだろう。

東電元会長の勝俣恒久は、その小沢と「ジョン万次郎の会」つながりの仲だった。

http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20110602(2011年6月2日)より『週刊文春』の記事を孫引きする。

小沢一郎東京電力「蜜月21年」

 一九五五年の自民党誕生直後に、原子力の平和利用を促進する原子力基本法が制定された。以来、五十年以上にわたり電力業界と自民党との蜜月は続いてきた。

 一方で、労働組合の電力総連も野党に議員を送り込み続け、その系譜は現在の民主党に引き継がれている。

 東京電力を始めとした電力業界の触手は、政界に網の目のように張り巡らされてきたのだ。果たして、東電の“毒マンジュウ”を喰った政治家たちに、原発処理や賠償問題ができるのか。徹底取材で「東電と政治家の闇」を探ったーー。

「現役議員の中で、東電と最も長く深い関係のあるのは、小沢一郎さんで間違いない」(ベテラン政治記者

 東電と民主党の小沢元代表との関係は、二十年以上の長きに及ぶという。

「小沢さんの財界での最大の後ろ盾は、長らく東電の平岩外四さん(故人)でした。経世会旗揚げ前の竹下登さんが、財界人との勉強会で付き合いのあった平岩さんに『小沢のための会を作ってやってくれ』と頼み、財界人で小沢氏を囲む『一政会』ができたのです。それが一九八〇年代半ば、小沢さんが自民党幹事長になる前のことです」(同前)

 平岩氏といえば、七六年から九三年まで東電の社長、会長を歴任し、九〇年から九四年までは経団連の会長を務めた東電、財界のドンである。〇七年五月、平岩氏(享年九十二)の訃報に小沢氏は<若い時から大変目をかけていただいた。大樹を失った悲しみをかみしめ、心からご冥福をお祈りする>との談話を出したが、三十歳近く年の離れた二人の蜜月は並大抵のものではなかった。

「九〇年十一月、豪腕幹事長として絶頂にあった小沢さんが、日米の草の根交流を図るために『ジョン万次郎の会』を設立しましたが、平岩さんはその発起人にも名を連ねた」(同前)

 別の古参の政治部記者はこんなエピソードが印象に残っているという。

「九三年六月、小沢氏が自民党を飛び出して、八月に細川連立政権を作った。直後の九月、平岩さんは経団連の会長として、それまで長年行われてきた自民党への政治献金の斡旋を中止した。自民党殲滅(せんめつ)を目指した小沢さんがどれほど喜んだか分かりません」

 平岩氏を源流とした、小沢氏と東電との深い関係は随所で力を発揮したようだ。ある政治ジャーナリストはこんな話を明かす。

阿部力也という世田谷区議がいますが、彼は小沢さんが自民党幹事長だった頃の秘書です。その後、東電のグループ企業である東電不動産に入社し、区議選に立候補。今も同社から給料を貰いながら、区議の仕事をしています。政治家の秘書を辞めた人間がいきなり東電グループに入社できたのは、小沢さんの口添えがあったからに違いないと言われました」

 当の阿部氏に尋ねると、小沢氏の秘書だったことも、東電不動産の社員で報酬もあることも認めたが、小沢氏の口添えで入所したわけではない、と答えた。

 また前述した「ジョン万次郎の会」は、今も小沢氏が会長で、東電の勝俣恒久会長が理事を務めている。(vanacoral注;4月*1時点で勝俣氏は顧問)

 さらにその勝俣氏と小沢氏は囲碁仲間でもあるという。財界関係者が明かす。「六本木のANAホテルの三十七階に、高級会員制囲碁サロンがあります。小沢さんと勝俣さんはここの囲碁仲間で、勝俣さんは『囲碁では小沢さんに負けないんだ』とうれしそうに言っている。〇九年の政権交代後、幹事長として鳩山政権を牛耳っていた小沢さんに会いたくても会えない財界人が多い中、勝俣さんは囲碁の縁を通じて小沢さんに食事会を持ちかけた。三井物産の上島重二元会長と新日鉄の今井敬名誉会長も加わって四人で数回会食したそうです」

週刊文春 2011年6月9日号134-135ページより)

*1:2011年=引用者註

フリードマン主義全盛の現在、「徴兵制」なんかにリアリティは全くない。安心せよ、リッチな「リベラル」たちよ

https://twitter.com/mtcedar1972/status/494658089723764739

杉山真大@震災被災者@mtcedar1972

徴兵制ガーと騒ぐ以上に、「成長戦略」でハイテク化された自衛隊周辺諸国との対立の原因に、って方が現実的なのに、「リベラル」「左派」にはこの点危機感に欠けているよね>安倍政権の「成長戦略」は百害あって一利なし(id:kojitaken) http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20140731/1406765170

最近の「リベラル」たちの言説にはとんと疎いのですが、彼らは安倍内閣の「集団的自衛権の政府解釈変更」の閣議決定で「徴兵制ガー」などと騒いでるんですか。

そうだとしたら時代後れもいいところ。

あの「小沢信者」の伝道師であらせられる植草一秀センセも信奉する*1ミルトン・フリードマンの経済理論が全盛の現在、「徴兵制」なんかにリアリティは全くありませんから、リッチな「リベラル」たちよ、心配ご無用ですぜ。

念のために当ダイアリーで「徴兵制」を検索語にして日記内検索をかけたところ、5件しか見つからなかった*2。しかも一番新しいのは2008年2月8日の記事*3で、「きまぐれな日々」に私自身が書いた記事*4から、

徴兵制などの極右的発言を繰り返している東国原

と引用しているだけだ。他の4件のうち1件*5も同じく、東国原英夫が徴兵制の発言をしたことに軽く触れたもの。さらに2007年12月24日の記事*6には、

なにしろ橋下は、核武装や徴兵制を唱え、高齢者予算削減を主張する、ウルトラ右翼にして新自由主義者である。

と書いていた。しかし、新自由主義者橋下徹が「徴兵制」を唱えていたとは、後述のフリードマンの教えに大きく反する間抜けな発言だったと言わざるを得ない。

さらに2007年6月3日の記事*7では、森永卓郎

なぜそこまでして秋学期入学にこだわるのかといえば、徴兵制度導入の準備ではないか。秋までの期間は軍事訓練をするのにちょうどいい。

と書いていた*8ことを紹介している。

一番古いのが、当ダイアリーが「4万アクセス」を記録した2006年11月13日の記事*9で、立花隆が、当時も首相だった安倍晋三が執念を燃やしていた教育基本法の「改正」について、

隠された争点は、個人が上位にあるのはけしからんということ。公共心とは、国が決めたことを守れということだ。将来徴兵制ができて、また戦争に行きなさいとなったとき、米国のような良心的忌避の権利が認められるだろうか。日本人のマインドには、何もかもお上が決めたら従えという全体主義の傾向がある。

と書いていたことを紹介している*10

しかし、2008年2月8日を最後に、もう6年以上も当ダイアリーに「徴兵制」の文字列は、私自身が書いた文章はもちろん、引用文中にも出てこなかった。本記事で、実に6年半ぶりに「徴兵制」の文字列が復活するのだ。今になってみれば、立花隆森永卓郎も橋下も東国原も、みんなずいぶん感覚が古かったんだなあと思う。

さて、長い前振りはここまで。ようやくミルトン・フリードマンの主張を紹介するところまで来た。以下、西谷修一氏のブログ記事を引用する。

http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2013/01/post_180.html(2013年1月24日)

M・フリードマンと徴兵制廃止

 もうひとつ中山さんの本から、経済学理論がたんに経済の話にとどまるものではなく、強力な組織作用を伴うという典型例を――

 この本のなかでとりわけ注意を引いたのは、ミルトン・フリードマンの台頭にアメリカの徴兵制廃止が絡んでいたというくだりである。

 フリードマンはもともと主著『資本主義と自由』(1962) のなかで政府がやる必要もない項目リストに「平時の徴兵制」があげていたが、ベトナム戦争がしだいに激化し、アメリカの若者の間で反戦運動が高揚して徴兵忌避の機運も広まるなか、フリードマンは志願兵でいいじゃないか、という提言をして若者たちに支持されたという。

 この提言はニクソン大統領の採用するところとなり、結局アメリカでは一九七三年に徴兵制が廃止される。もちろん、軍からは大きな反発があった。参謀総長のウェストモーランドは「金目当てで集まった傭兵の指揮などしたくない」と抵抗したが、フリードマンは「志願兵がどうして無理やり連れてこられた奴隷の兵士より役立たないというのか」とやり込めたそうだ。

 このエピソードはフリードマンの考えの典型を示しているというにとどまらず、その後の国家と戦争のあり方を考えるうえでもなかなかに意味深い。
 
 もともと徴兵制は、ナショナリズムを統合原理とする近代国民国家の制度的根幹にある。国民が義務として国を守るということだ。兵役に就くのは国への奉仕であり、国民の義務だとされてきた。この徴兵制を廃止し、志願兵(あるいはリクルート兵)で間に合わせるということは、軍隊を他の職業と同じ選択肢として扱うことを前提にしており、この「職業」を他とひとしなみの「選択の自由」に委ねるということだ。だから、軍隊が魅力的な「職場」であれば、志願者に事欠くことはないというわけだ。

 もともと、国民軍の主力は志願兵だった。そして志願兵は自分がなぜ戦うかを知っており、納得ずくで進んで危険に身をさらす。だから、ナポレオン軍は当時の傭兵からなる他国の軍隊を蹴散らしてヨーロッパを席捲し、その強さを分析することからクラウゼヴィッツに『戦争論』を書かせることになったわけだ。

 ただ、そのときの「志願」の動機は、「自由か、しからずんば死か」という、フランス革命後の民衆の「自由=フランス」への愛国心だった。そしてそれがやがて国民皆兵へと制度化され、近代国民国家の軍隊に編成されてゆく。

 ところが、兵役への同意が空洞化する一方で、ベトナム戦争のような大義が疑われる戦争の場合には、国民的合意が崩れて徴兵制度が破たんし始める。そのときにフリードマンは、そんな戦争はやめようと言うのではなく、やりたい(いやじゃない)者だけ集めてやればいい、と提言する。そしてそれを「志願兵」と言うのだが、実はそれはナポレオン軍の前に潰走した「傭兵」の方に近い。「志願兵」は戦うことを志願してくるが、「傭兵」は働き口を求めて集まる(フリードマンはその点をごまかして、ウェストモーランドをうまくやりこめた)。

 フリードマンは「自由」を導入すると言い、多くの若者がこれを支持したというが、ここにはいくつもの論点がある。

 兵士を集めるのに国民の義務や強制は必要ない。軍隊に職を求める者を集めればよい。人は適性や意欲に応じてこの職業を選ぶ。軍の方では、この職業をできるだけ魅力的なものにするように意を尽くす(沖縄やディエゴ・ガルシアのリゾートetc.)。

 その職務内容は、戦争で戦うこととその訓練などだが、その行為から「お国のため」という論理は外れる。それは好きで選んだ職業なのだから。ということは、フリードマンは戦争のナショナリズムを解体したことになる。戦争は国民の義務ではなく、好きな者が戦争をやればよい、ということだ。軍隊というのも、国家に必要な機構ではあるとしても、それに暴力装置という機能以外の意味はなくなる。少なくともフリードマンの考えではそうだ。

 徴兵制廃止と兵士のリクルートは、その後に顕著になる軍のアウトソーシングや軍事の「民営化」の端緒でもある。軍隊の維持、とりわけその基礎である「人材」部門に「民間活力」を導入し、「選択の自由」という市場の原理をもちこんだのだ。

 兵士のリクルート制は、必要に応じて採用を伸縮できるし、人材派遣会社を間において徴募をさらに柔軟にすることもできる。そして何より、労働市場の事情を最大限活用することができる(つまり不景気や貧民層の増大で、人集めは容易になる)。

 それは経営効率上も、合理性の観点からも「適合的」だろうが、軍隊の仕事は特殊である。破壊、殺人、強奪etc.と、なにひとつ「生産」には寄与しないばかりか、熟練者を育てると、社会に対するネガティヴ効果も大きい。事実、軍は下層の求職者や犯罪常習者の吹き溜まりになる(イラクの米軍を扱ったブランアン・デ・パルマの映画『リダクティッド』が示していたように)。あるいは、この職種の「ホワイトカラー」層は、毎日アメリカ国内の基地に出勤し、そこから無人爆撃機を指令して意図なき破壊と殺人の仕事をこなすサラリーマンになる。

 結局、「自由」は分断する。関係を断つ。戦争をするという国家の専権事項だったものをも分解し、機能的なセクターの組み合わせに解体する。いま、それをつなぎとめるのは「最適化」だけを求める「マネージメント」であり、そこに覆いかぶさるのは、メディアで流布される「テロとの戦争」とか「領土問題」とかいった粗雑な物語だけである。


記事の最初に言及されている「中山さんの本」とは、下記の平凡社新書である。



この本は私も読んだ。未公開の読書記録を参照すると、昨年1月27日に読み終えている。その頃はまだ、中山智香子氏が著書で論じているフリードマンガルブレイスも読んだことがなかったが、その後読んだ。


資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)


ゆたかな社会 決定版 (岩波現代文庫)

ゆたかな社会 決定版 (岩波現代文庫)


満足の文化 (ちくま学芸文庫)

満足の文化 (ちくま学芸文庫)


今や、裕福な家庭に育った者がわざわざ軍隊に行かなくても良い時代になったのだ。前世紀前半の戦争においては、日本の裕福な家庭に育った若者にも「赤紙」が来たが、仮に今後、日本国憲法が改定(=明文改憲)されて自衛隊が「国防軍」になったとしても、徴兵制は決して実現しない。だから、東京の中央線沿線(武蔵野市など)とか鎌倉とか、関西なら阪神間(芦屋市や西宮市など)や神戸市東部などに住むリッチな「リベラル」の人々は、徴兵制の心配をする必要など全くないのである。新自由主義全盛の現代は、昔よりももっと酷薄きわまりない時代だ。「徴兵制」のごとき、富裕層(というよりガルブレイスが晩年の著書『満足の文化』で書いたところの「満足せる人々」)に不人気な政策など、今後誰が総理大臣になろうが、どの党が政権与党になろうが、間違っても採用されない。だから「徴兵制」は絶対に現実のものとはならない。現在でさえ、自衛隊がどういう階層から労働力(戦力)をリクルートしているかを考えれば、そんなことは自明だろう。

未だに徴兵制についてピーチクパーチクやっているお花畑のていたらくでは、「リベラル」に未来などない。いくらリアリティのない仮定の話に内輪だけで花を咲かせても、誰もついて来ず、自分たちの勢力は拡大できない。いま心配し、議論しなければならないことは徴兵制なんかじゃないのだ。