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苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳

2011-11-03

「神のかたち」であるキリスト    改訂

     2011年10月31日JECA北関東地区牧師勉強会

      (奥多摩バイブルシャレーにて)

 *福音主義神学に載せていただいた原稿に若干の手直しをした。脚注は省略されている。用語としての変更の重要ポイントは、本文の趣旨にしたがって、「キリスト論的解明」を「キリスト論的開示」と直したことである




f:id:koumichristchurch:20111101071532j:image

アウトライン

1.コロサイ書による創世記1章26、27節の「神のかたち」理解

(1)封じられてきた「神のかたち」キリスト

(2)コロサイ書による「神のかたち」の開示

(3)創世記1:27の邦訳について

2.「見えない神のかたち」――神の計画のキリスト論的解釈必然性

3.「神のかたち」なる御子を軸として神の計画全体を展望する

(1) 人間の尊厳のリアリティ

(2) キリストの受肉の理解

(3) 聖化の理解

(4)「神のかたち」と教会の職務

(5)予定から終末まで

結論



「1:26神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。 1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」創世記1章26,27節

「1:15御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 1:16万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 1:17彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。」コロサイ書1章15-17節


 コロサイ書1章における創世記1章の「神のかたち」開示を出発点として、キリストを中心として神の計画全体の理解に展望を開く。

1.コロサイ書による創世記1章26、27節の「神のかたち」理解

(1)封じられてきた「神のかたち」キリスト

創世記1章26,27節の人間創造の記事における「神のかたち」とは何を意味するのかについては、古代から多くの議論がなされてきた。創世記1章26節では、「われわれのかたちにおいて(WnmeÞl.c;B.、)われわれに似せて(Wnte_Wmd>Ki.)」と、ツェレムとデムートという二つの言葉が用いられ、七十人訳聖書ではツェレムはエイコーンeivkw.n、デムートはホモイオシスo`moi,wsijと訳され 、ウルガタではツェレムはimago、デムートはsimilitudoと訳され 、英語訳では一般にツェレムはimage、デムートはlikenessと訳されてきた 。本稿では引用文を除きツェレムを「かたち」、デムートを「似姿」と訳すことにする。

エイレナイオス(130-200AD)は、創造における「神のかたち」は御子であると述べている。「『・・・(神は)人を神の似像として造ったからである。』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。 」またエイレナイオスは御子と聖霊を父なる神の両手に譬える独特な聖三位一体の理解に基づいて、御子を「かたち」に聖霊を「似姿」に関係付け、神はこの両手でもって人間を造られたとし、「かたち」は人間においては、肉体 ・理性・自由・自律性といった本性に見出されるという。他方、聖霊が与える「似姿」とは、肉体の救いを究極的に完成させる神の本性としての「不死性」を意味する 。

オリゲネス(185-254AD)は、『諸原理について』第三巻で創世記1章26節のこれら二つのことばを区別して解釈している。すなわち、神が26節で「我々のかたち、我々の似姿にしたがって人を造ろう」と言いながら、27節で「神のかたちに従って造り」と述べて、似姿については沈黙しているのは、「人間が最初に創造されたときに、像(かたち)としての身分を与えられたが、似姿という完全さは完成の時まで留保されていることを示しているのにほかならない。(中略)像としての身分を与えられたことで、始めから完全になることの可能性が人間に与えられているが、人間は終わりの時になって初めて、わざを遂行することによって、完全な似姿を自ら仕上げるべきである 。」というのである

オリゲネスが「神のかたち」について述べていることの中でさらに注目すべきことは、創世記1章における「神のかたち」とは御子であると述べていることである。「では、その像に似姿として人間が造られた神の像として、われらの救い主のほかに何があろう。この方こそ、『すべて造られたものに先立って生まれた方』(コロ1:15)であり、『神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れ』(ヘブ1:3)と言われた方であり、自ら自身について『私は父のうちにおり、父は私の内におられる』(ヨハ14:10)、『私を見た者は父を見たのである』(ヨハ14:9)という方である。 」

このように、オリゲネスとエイレナイオスが共通して述べているのは、創世記1章における「神のかたち」は御子であるということと、創造における人間未完成であって、終わりの時に究極的な完成を見るということである

<追記2011年11月5日

 また、アタナシオスも次のように述べている。「善なる方として(神)は、彼ら(人間)をご自分の像であるわれらの主イエスキリストにあずからせ、ご自分の像にかたどり、似姿にかたどって彼ら(人間)を造られたのである。それは、このような恵みを通して、像―つまり私の言わんとするのは父の言(ロゴスである―を認識して、(言)を通して父に関する概念を受け入れることができるようになり、創造主を知覚することで、幸福で祝された生涯を送ることができるためであった。」(『言の受肉』11小高毅訳)

〜〜〜(以下、10月31日の集会で加えた部分)〜〜〜

 そして、「福音主義神学」に発表して後、さらに確信が深まりつつあるのは、実はエイレナイオスとオリゲネス(追記 およびアタナシオス)の創世記1章の「神のかたち」に関する理解は、新約聖書そのものの創世記1章の「神のかたち」理解であり、アウグスティヌスより前の古代教会における一般的な理解だったのではないかということである新約聖書記者・初代キリスト教会・古代教会における主要な関心事の一つは、キリストが受肉以前の旧約時代に生きておられ、さらに御父とともに永遠にいまし、旧約時代にも生きていましたお方であられるということであった。イエスが神であられる以上、それは当然のことであった。もしそうでなければ、ナザレのイエスは単なる新興宗教教祖にすぎないことになってしまう。イエスご自身の言明においても、ご自分はアブラハムにあたかも昨日会ってきたように話された(ヨハネ8:58)。預言者イザヤはイエスの栄光を見たのだとも言われている(イザヤ6:1,ヨハネ12:41)。ヨハネ福音書冒頭にも、同17章のイエスの大祭司の祈りにも、ピリピ書のキリストの受肉についての記述にも、われわれは先在のキリストを見る。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。」ヨハネ1:1,2

「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」ヨハネ17:5

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、」ピリピ2:6

 創世記1章26,27の「神のかたち」がキリストであるというコロサイ書の

記述は、上述のような新約聖書記述ひとつだということができようし、初代キリスト教会の旧約におけるキリスト理解のひとつであったと思われる。

〜〜〜〜以上、新たに加えた部分〜〜〜

 ところが、アウグスティヌス(354-430AD)において「神のかたち・似姿」について、大きな理解の転換が訪れる。アウグスティヌスは、「かたち」と「似姿」の違いには関心を寄せず、むしろ「御父が御子のかたちにしたがって人間を造った」という説を批判して、神が「我々のかたちにおいて」と言われているゆえに、人は一つのペルソナによるのではなく三位一体のかたちに従って創造されたということを強調する 。アウグスティヌスがこのように強調しなければならなかったことには背景がある。「御父が御子のかたちにしたがって人間を造った」という理解の仕方では、「御子は御父に似ていないことになる 」のではないかという懸念があったからである。つまり、御子の神性が割引されて、御子は父と同質でなく、一段下の存在であるというアレイオス的「従属説」の異端に陥ることを警戒しているのである

 「少なくとも使徒以来、キリスト教史の中では、その教説によって千年もの間支配的であった人物は、アウグスティヌス以外にはない。 」とJ.ペリカンがいうように、アウグスティヌスの神学的権威がその後の教会において絶大であったため、御子が人間創造における「神のかたち」であるという理解は、その後、長らく教会史のなかで封じられることになったと思われる。千年間どころか、事実上アウグスティヌスは近代に至るまでカトリックプロテスタントを問わず西方教会歴史信仰に立つ者たちにとって巨大な権威である。そういうわけで、創世記1章の「神のかたち」は御子であるというオリゲネスやエイレナイオスの理解は、中世近世を通じて封じられてしまった観がある。

 中世スコラ哲学においては、自然と恩寵の神学の枠に合わせて、自然的賜物としての理性と意志の力がツェレム、超自然的賜物として神によって付加された賜物がデムートであるとされるといった解釈上の変化はあるが 、御子こそ「神のかたち」であるとは教えられない。カルヴァンは 、創世記5章1節と同9章6節において、デムートとツェレムは相互変換可能な語として用いられているので、両者を区別する釈義的根拠は薄弱であるといったことは論じているが、御子が人間創造における範型としての「神のかたち」であるという理解は改革者にあっても忘れられたかのようである

 18世紀以降近代の啓蒙主義的な前提に立つ聖書学は、聖書権威からも解放されているから、アウグスティヌス権威からも解放された。しかし、近代聖書学は、聖書が全体として統一性ある神の啓示だとは信じず、聖書を成す各巻はそれぞれの時代の文化や執筆事情を背景として成立した歴史的文書にすぎないことを前提としているので、聖書各巻は、それぞれの書自体として完結しているものとして読まれるべきであるとされる。したがって、コロサイ書1章で創世記1章を釈義するなどということは、近代聖書学者にとってはナンセンスなこととされてしまう。その後、K.バルトが示した男女の相互主観的関係の根拠が「我々」と自称される三位一体の神のかたちなのだという解釈は興味深いものであるし 、また創世記の書かれた時代的文化的背景からの解釈として、「王の『像』がその地にあっての王の権威と存在を代表しているように(ダニエル3:1,5)、神の『像』である人間は被造物世界における神ご自身の権威と統治を代表するかのように立てられている 」という聖書学者たちの見解は、近代聖書学の方法論のもたらした成果として意義あるものではある。しかし、近代聖書学のパラダイムでは、創世記1章の人間創造に際しての「神のかたち」が御子であるという理解を得ることはできない。

以上のように中世から近世にわたっては、キリスト従属説に対するアウグスティヌスの過度の警戒感によって、そして近現代においては近代聖書学が聖書啓示の統一性を否定したことによって、アウグスティヌスより前の古代教父たちが旧新約聖書から読み取っていた、(追記 いなむしろ、新約聖書自体が教えている)御子が人間創造における「神のかたち」であるという理解は封じられてきたと考えられる。

(2)コロサイ書による「神のかたち」の開示

コロサイ書1章15節本文は以下の通りである

o[j evstin eivkw.n tou/ qeou/ tou/ o` avora,tou prwto,tokoj pa,shj kti,sewj

 「神のかたち・似姿」にかんする諸説を見てきたのだが、聖書の統一性・漸進的啓示を信じる立場に立つならば、パウロが記したコロサイ書1章15節「御子は見えない神のかたち」に依拠して、創世記1章の「神のかたち」は端的に御子を指していると理解するのがもっとも妥当であると思われる。

聖書啓示の統一性ということで我々が意味していることは、多くの記者性格能力・状況が用いられたにしても、唯一の著者である神がその多くの記者たちを十全な指導によって導かれたことのゆえに、聖書は全体として統一された書として成り立っているということを意味する。聖書啓示の漸進性というのは、神は聖書において真理を一度にすべてではなく少しずつ明らかにされたことを意味する。特に、旧約聖書においては暗示されるにとどまっていた真理が、新約において明示されているということである

 コロサイ書1章15節の「御子は見えない神のかたち」であるという記述創世記1章26,27節における「神のかたち」を指していることは、次の二点から明白である。第一点は、コロサイ書1章15節は、創造論の文脈で語られているということである。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:15-17)幼い日から、律法に親しんだパウロが、創造について論じその中に「神のかたち」と記すとき、創世記1章26節、27節を念頭に置いていなかったと想定することは、ほとんど不可能であるコンツェルマンは、コロサイ書1章14節までの散文体が15節から詩文体に変化して20節までがひとつの讃歌となっていることを指摘し、この讃歌は、この手紙の著者の作ではなく、原始キリスト教会において用いられた讃歌の引用であるとしている 。F.F.ブルースもこの箇所がパウロオリジナルではなく、原始キリスト教会共通の教えから受け容れたものの一部である と考えている。実際、キリストが神性・先在性をそなえた創造者・神を現す方であるという思想は、コロサイ書のみならずヨハネ福音書1章1−3節およびヘブル書1章2,3節にもあることを見れば、これが原始キリスト教会共通の教えであったという判断は妥当であろう。かりに事実そうであったとしても、パウロがこの讃歌を引用するにあたって、創世記1章27節の創造の記事を念頭に置いていたことは疑い得ない。

コロサイ書1章15節の「御子は見えない神のかたち」であるという記述創世記1章26,27節における「神のかたち」を指していることの第二の根拠は、旧約聖書において詩篇ヨブ記も神の創造のわざに言及しているけれども、人の創造における「神のかたち」について述べているのは、創世記1章26,27節以外にはないということである。しかも、神の「かたち」という用語に注目すれば、コロサイ書はeivkw.nという語をあてていて 、これはパウロが常々用いていた七十人訳聖書創世記1章27節で「神のかたち」に用いている訳語と同一である。以上の事実にかんがみれば、パウロが「御子は見えない神のかたちである」とコロサイ書1章15節を記したとき、彼の念頭に創世記1章26,27節があったことに疑いの余地はない。

では、コロサイ書1章の「神のかたち」である御子の役割とはなにか。御子は創造の代理者、保持者であり、目的であると、16,17節は語っている。大づかみにいえば御子は神と被造物の仲立ちの役割を担われる 。無限の超越者である神が、有限な被造物といかにかかわりうるのかということは、哲学的難問であるが、パウロ三位一体の第二ペルソナである御子が、有限な被造物との仲立ちを担当しているのだと語っているのである

このように解釈したばあいアレイオス的従属説に陥るのではないかというアウグスティヌスの懸念を払拭しておきたい。彼は先に述べたように、人は一つのペルソナによるのではなく三位一体のかたちに従って創造されたと強調し、「もし御父が人間を御子の似像によって創られ、したがって人間は御父の似像ではなく御子の似像であるなら、御子は御父に似ていないことになる 」と推論して、御子のかたちにしたがって人が造られたとする説を批判したが、この推論には誤りがある。アウグスティヌスに対して、我々は、「人は御子のかたちに似た者として、したがってまた、三位一体の神のかたちに似た者として、造られたのだ」と応えよう。父と子と聖霊本質において同一だからである聖書は、人は御子の似姿として造られたと述べ、かつ、時には男は神の似姿でもあるとも呼ばれ 、それゆえ神の子どもたちは御父のように完全になることが期待され 、かつ、人は御子に似た者となることが約束されている 。御子に似ることは、父に似ることなのである。御子が人間創造において仲立ちの役割を果たされたことは、御子が本質において御父に劣っていたことを意味するものではない。御父と御子と御霊は同質であり力と栄光を等しくされる。

なお「見えない神のかたち」は表面的には、プラトン的思想の影響下に成立したグノーシス思想のロゴス論に似ているが、両者は本質的に異なっている。そもそも「コロサイ人への手紙は、グノーシスが広がり始めた初期に、これとの神学的対決が開始された状況をわれわれに示し」てくれる書物である 。コロサイ書の議論を仔細に検討すれば、想定された論敵の思想は「すべての支配・権威 」といった天使たちの諸階級を構想し、諸天使への礼拝を求め 、キリストを諸天使のひとりとみなしていたと推定される。それゆえパウロはこれに対して、「王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。 」とキリストの絶対性を主張して、その論敵を一蹴している 。また天的なものを善、地的なものを悪とし、見えない霊を善、見える物質を悪とするのがグノーシス二元論世界観の基本的枠組みであり、物質を造ったデミウルゴスは悪い神であるとするのだが、コロサイ書は「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの」すべてを造ったのは御子であると述べて、グノーシス二元論を排している。そして、もう一つの決定的違いは、霊肉二元論に立つグノーシス思想にとってロゴスの受肉と受難はありえないのに対して、コロサイ書は神は御子の十字架の血によって平和をつくられた と述べている点である

以上のようなわけで、コロサイ書1章15節における「神のかたち」はパウロと原始キリスト教会が常に親しんだ創世記1章に根ざしていることは明白である。ちなみに、H.リダボスも、コロサイ書1章15節の「神のかたち」という表現が、フィロンないしグノーシス主義の影響から出ているとする説は信用に値しない として、創世記1章27節に直接的に根ざしていると指摘する 。三位一体の神は、ご自分に似た者として人間創造されるにあたって、御子が仲立ちの役割を担当されたのである創世記記者によってすでに暗示されていた真理が、時満ちて、聖霊に導かれたパウロによってベールをはがされ、明示されたのである

(3)創世記1:27の邦訳について

ここで新改聖書第三版の創世記1章26,27節に少々触れておきたい。新改聖書第三版は、件の箇所を、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。(中略) 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と訳している。七十人訳聖書は、創世記1章27節の~yhiÞl{a/ ~l,c,îBを、katV eivko,na qeou/ すなわち「神のかたちにしたがって」と訳しているので、コロサイ書1章によって、<「神のかたち」は御子であり、その御子になぞらえて人は創造された>と理解できる。だが、新改聖書第三版は創世記1章27節の「神のかたちとして」という訳では、<人イコール「神のかたち」>ということになって、御子の創造における仲立ちの役割が見えない 。

これに対して、文語訳(明治訳)は「神の像の如くに之を創造り」と訳している。ここに重大な違いがある。新改訳第三版では、<人イコール「神のかたち」>という意味に取られるが、他方、文語訳は<人は「神のかたち」に従って造られた「神のかたち」の如きものである>という七十人訳と同じ趣旨になる。

翻訳ポイントは、~yhiÞl{a/ ~l,c,îBにおける前置詞Bをどう訳すかということである 。Bという前置詞のもっとも一般的な訳語英語でいうinであるから「神のかたちにおいて人を創造された。」と訳すのがもっとも無理がない。実際、ほとんどの英語聖書はin the image of Godと直訳している。我々は、ほとんどの英訳聖書また日本文語聖書がそうしているように、「神のかたちにおいて人を創造し」と訳すのがもっとも適切であると思う。

確かに神と御子は本質において等しく、御子のうちにこそ「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿ってい 」るのであるから、人が御子になぞらえて造られた以上、当然、御子を介して、父なる神のかたちでもあるので「人は神のかたちである」という表現も間違いではない 。しかし、コロサイ書1章の光に照らされて、御子の仲立ちとしての役割を知った我々としては、創世記1章27節は、「神は人をご自身のかたちにおいて創造された。神のかたちにおいて彼を創造・・・」と直訳したほうが、コロサイ書による開示とも一致するので、より適切であると考える。しかも、「神のかたち」とは御子であり、従って、神はもともと人を御子に似た者として造られたという真理は、後述するように御子の受肉や我々の救済の理解にも無理なく連絡する。

 聖書自然的過程を経て成立した単なる文化的所産にすぎないと信じる自然主義者や理神論者にとっては、創世記釈義にコロサイ書を適用するのはナンセンスなことであろう。しかし、十全な指導によって旧新約66巻の聖書啓示を漸進的かつ統一的にお与えになった聖霊を信じる我々にとっては、コロサイ書による創世記1章のキリスト論的開示こそが、規範的釈義であると判断すべきであろう。

2.「見えない神のかたち」――神の計画のキリスト論的解釈必然性

 創世記1章26,27節にいう「神のかたち」は御子であり、人は御子に似せられて造られたものである。つまり、御子は創造論的に神と人との仲立ちの役割をしておられる。本章では、おもにコロサイ書1章15節に基づいて、御子は創造においてのみならず、啓示と救済においても、神と人との仲立ちをされることを明らかにする。

さて、コロサイ書1章15節が「御子は見えない神のかたちである」と述べる、「見えない神のかたち」という表現はなにを意味するのであろうか。神は「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。」(1テモテ6:16)とあるから、人間は神に近づくことも、見ることもできはしない。人が神を見ようとすることは、たとえば好奇心に駆られた研究者望遠鏡太陽を見ようとするようなものである。御子は、人が見ることのできない超越者を「見る」ことができるようにしてくださるお方であるという意味で「神のかたち」である。「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」(コロサイ1:19)ておられ、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」(コロサイ2:9)いるので、我々は御子を見るとき、御父を見ることができる。同様の思想は、ヨハネ福音書にも表現されている 。宇田進はコロサイ書1章15節に次のように的確な注解を付している。「神がどのようなお方であるかを知るために、私たちはイエスを見なければならない。このイエスは、人が見ることができ、かつ理解できる形をとった神の完全な表象であり、啓示なのである。 」

 伝統的に、キリストの仲立ちとしての役割という言い方は、救済に関して言われることが最も一般的であるから、ここではその典型的証拠聖句はひとつだけ挙げるにとどめておく。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリストイエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(1テモテ2:5,6)

このように啓示と救済において、御子が神と被造物の仲立ちの役割を果たすことができるのは、そもそも創造において御子が、神と被造物との仲立ちであられるからである。御子は、創造における神と被造物の仲立ちの立場を基盤として、啓示においても、救済においても、神と被造物の間に立って仲立ちの役割を果たされるのである。J.オアは御子が聖三位一体のうちの啓示の原理(the principle)であり、世界人間創造における啓示は、御子を通してなされたという趣旨を語っている 。またコンツェルマンはコロサイ書1章15節と18節後半が対応して、前者は創造の仲立ちとしてのキリストを叙述し、後者は救済の仲立ちとしてのキリストを叙述していると述べ、救済者は創造者と一つであるが故に、救済が可能であり、確実となるのだというのがこの讃歌の基本的思想だと解釈している 。

 このようなわけであるから、神認識にあたってのキリスト論的集中というのは創造と保持における神と被造物との関係を基盤とした啓示のあり方からして必然である。御子は見えない神のかたちであって、見えないお方を見えるようにしてくださる唯一のお方であるからである。もしキリストを通さず哲学的思弁をもって神を知ろうとするならば、そこで見出された神は生ける真の神ではなく、スコラ学者たちが陥り、パスカルが非難した「哲学者の神」つまり抽象的な哲学概念としての神にすぎない。また、御子を介さずに生きた聖霊体験を求めようとする人は、暗い森の中をさまようことになる。なぜなら体験主義者は、その体験が神からのものなのか、それとも悪魔からのものなのかが識別できないからである。だから神認識に関しては、神論的集中とか聖霊論的集中ということはありえない。K.バルトは使徒信条を講解して、「キリスト教神学者たちが、造り主なる神の神学を抽象的・直接的に考案しようとした場合には、たとえ彼等がこの高き神を、どのような畏敬をもって考え・また語ろうとしても、いつも迷路に踏み入ったのである。そしてこれと同じことは、神学者が第三項の神学に、即ち第一項の高き神とは反対の体験の神学に、突進もうとした場合にも、起ったのである。 」と述べている 。

 バルトの警告にもかかわらず、今日ニューエイジムーブメントの波に呑み込まれて、自由主義陣営の神学は包括主義から宗教多元主義に突き進み、ますます第三項の体験の神学の暗い森に迷い込んでしまっている。我々は「霊性の神学」には一定の意義があることを認めるものであるが、人として来られたイエスキリストを告白しない霊による神学は、ヨハネが警告するとおり 、反キリストの霊によるものである

 イエスが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。だれでもわたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 」と言われたとおり、我々はただイエス・キリストを通してのみ、生ける神を知り、聖霊の満たしを経験することができる。

 我々はコロサイ書1章における創世記1章のキリスト論的開示の一端を見たが、それどころか、復活の日、主イエス旧約聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた 。旧約各巻をその記述された時代・文化・言語の文脈の中で解釈するという意味での歴史的文法的聖書解釈の意義を否定するわけではもちろんない。だが、特に霊感を受けた新約聖書記者またキリスト御自身が旧約聖書キリスト論的に開示しているところについては、上記の意味での「歴史的文法的聖書解釈」は自らの限界を認める謙虚さが求められるべきであろう。

3.「神のかたち」なる御子を軸として神の計画全体を展望する

 神は、人を御子に似た者として創造された。オリゲネス、エイレナイオスに倣って、我々はこの理解を神の救いの計画全体の中に位置づけたい。「神のかたち」である御子を軸とするとき、創造人間キリスト、救済が、さらに予定と教会と終末的完成が一本の太い筋でつながっていることが明確に見えてくるであろう。

(1) 人間の尊厳のリアリティ

 「人間の尊厳の根拠とはなんですか?」という問いに対して、筆者は伝道者となって以来、「それは神が人間をご自分に似た者に造ってくださったことです。」と答えてきた。聖書は「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9:6)とか、「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」(ヤコブ3:9,10)と教えているのだから、まちがった教えではなかった。しかし、質問者の表情は、『そうですか。でも、なんだかピンと来ないなあ』と語っていた。考えてみれば、神は人には近づくことも見ることもできないお方であるから、その神に似せて造られたという人間の尊厳も、やはりよくわからないということになる。それは、ちょうど哲学的手法で存在を証明された神が、単なる観念としての神であって、生ける神でないことに通じている。神が単なる観念に過ぎなければ、それに似せて造られたという人間の尊厳もリアリティに欠けるただの観念となってしまうのである。「いまだかつて神を見た者はいない」以上、いまだかつて人間の尊厳を見た者もいないのである

 だが、イエスが「わたしを見た者は、父を見たのです。 」と言われた通り、御子を見ることによって我々は父なる神を見ることができる。さらに、本来、人は御子イエスに似せて造られたものだということを知るならば、我々は、人間の尊厳をもリアルに知ることができるようになるだろう。我々は、キリストに出会うとき、神に出会うのみならず、自己と隣人とも出会う。「貧しい人にふれるとき、わたしたちは実際にキリストの身体にふれているのです。」というマザー・テレサのことばは、このことと深く関連しているであろう。

(2)キリストの受肉の理解

創世記1章の「神のかたち」とは御子であるという理解によって、御子の受肉の出来事が正しく位置づけられよう。オリゲネスは、次のように講解している。「したがって、この方の像の似姿として人間は造られ、このため、神の像であるわれらの救い主は、その似姿として造られた人間に対して共感の情をもっていたが、人間が自分の像を捨てて、邪悪な者の像をまとったのを見て、憐れみの情に駆られ、人間の像を自分のものとして、(人間の)許に来たのである。 」また、エイレナイオスは、次のように言っている。「『・・・(神は)人を神の似像として造ったからである。』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。そういうわけで、『終りの時に』(その神の子は)似像(である人間)が彼自身に似ていることを見せるために『現れた』(汽撻1:20)のであった。 」すなわち、創造における「神の似姿」は御子であり、御子は人がご自身に似ていることを見せるために受肉したというのである

つまり、F.F.ブルースの言い方でいえば、人が御子に似せて造られたという事実が、後に御子が人となられたことを可能にしているのである 。受肉において御子が取った人性とは、堕落前の人性であり、その人性とは御子自身を範型として造られたものである。御子が人性をとったというのは、本来ご自身に似た者として造られた者の性質を帯びられたという事態であって、御子は似ても似つかぬものの性質を取ったわけではない。

キェルケゴールが、ヨーロッパ思想に伝統的なプラトン的二世界説を背景として、「永遠が時の中に突入した瞬間」というような言い回しで受肉を表現し、弁証法神学がこれを援用したので、現代の我々はある程度これに慣れてしまっている。たしかに「永遠が時の中に垂直に突入する」といったダイナミックな表現には、19世紀の汎神論化した自由主義神学において「自然と同質化された神」を打ち砕くという一定の功績はあったのは事実であるが、反面、そこでは神と人の異質性のみが強調されたあまり、創造論との関係における受肉の聖書的な理解を妨げてきたのではなかろうか。受肉とは、グレーゴル・ザムザが何の脈絡もなく、ある朝、突然毒虫に変身してしまった というような不条理な(absurd)事態を意味しているわけではない。むしろ、主の譬えを用いて言えば、受肉とはあの父親が放蕩息子に駆け寄って抱きしめ接吻してやまなかったという事態を意味しているのである。いかに豚の糞尿にまみれて悪臭を放っていたとはいえ、あれは息子であった。あの父親はゴキブリに駆け寄って接吻したわけではない。しかも、父は「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と言おうとする息子に最後まで言わせず 、その指に相続人の証である指輪をはめさせた。驚くべき愛。しかし、馬鹿げた(absurd)愛ではない。

(3)聖化の理解

人は本来、御父と聖霊との愛の交わりのうちに生きる御子に似せて造られた者であった。それゆえ、人は神を愛し、また、互いに愛し合うべきものである。また、人は御子に似た者として造られたからこそ他の被造物を正しく統治する務めを担っていた。とはい創造の段階におけるアダムは「血肉のからだで蒔かれ 」たので無罪ではあったが未完成であり、善悪の知識の木の試練のかなたに「御霊に属するからだ」という完成体を目指す、「罪を犯さないこともでき、犯すこともできる罪なき状態」の自由意志を与えられていた 。

ところが、人は罪に堕ちて「神のかたち」に似ない者、つまり「罪を犯さないことができない状態」、すなわち、「救いを伴うどんな霊的善に対する意志の能力もみな全く失っ 」た状態に陥り、被造物を暴君的に支配するようになった。

しかし、受肉した御子の十字架の死と復活によって、信じる者は義と認められ、御霊を与えられ神の子どもとされた。神が、子とされた者たちに与えた聖化の目的とは、パウロが以下に述べるように、「神のかたち」である御子にますます似せられて行くことに他ならない。「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)とあるが、造り主とはすなわち神であるから、「造り主のかたち(eivkw.n)」とは、すなわち「神のかたち」である御子を意味している。パウロは、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)とも述べている。

オリゲネスやエイレナイオスが創造における人間未完成と捉え、我々の目指すのがいよいよ神に似せられることとしたのは適切であった。またエイレナイオスが、究極の救いにおいて肉体の救いを含めた全人的救いを視野に入れていたことも聖書的に正しいことであった。

(4)「神のかたち」と教会の職務

人は、本来「『神のかたち』のかたち」つまり、「御子のかたち」として造られた。アダムにあって堕落してしまった人間品性は腐敗しているので、人間を観察しても神に似たところを見出すことはむずかしい。しかし、我々は「神のかたち」であるキリストを知っている。真の神であられたが真の人となられたキリストのうちには、堕落の影響をこうむっていない真の人性がある。キリストの全生涯に、本来の人性が現れている。その内容はあまりにも豊かで一言では表現しがたいので、ここでは御子の品性については、御子の御霊の実すなわち「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を挙げるに留めておく。

また、アウグスティヌスカルヴァンは、パウロがエペソ書とコロサイ書で人の再創造目標について述べるところにしたがって、創世記1章における「神のかたち」が人間資質のどの点を指しているか解釈している 。救いの計画全体の中で「神のかたち」を理解しようとした聖書解釈の手法に、我々は学ばなければならない。「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:10)「造り主のかたち」とはすなわち御子である。その御子キリストに似せられてますます新しくされて行くならば、その人は「真の知識ἐπίγνωσιs」に至る。また類似の表現がエペソ書にある。「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23,24)と、新しい人は「真理に基づく義δικαιοσύνhと聖ὁσιότηs」を身に着けると教えられている。この両節を総合すれば、「神のかたち」の内実は、真の知識と真理に基づく義と聖とであるということになる。我々は、真の知識と義と聖ですべてを尽くしていると考えるわけではないが 、これらが「神のかたち」の主な要素であることは確かである

グリム&セイヤーによれば、「真の知識」とは「道徳また神にかんする知識」を意味し、義とは「誠実さ、徳、生活の純粋さ、まっすぐさ、考え方、感じ方、行動の正確さ」を意味し、聖とは「神に対する敬虔さ」を意味している。これらが、たしかに見えない神のかたちである御子キリストにおいて完璧に備わっていたことを私たちは福音書において知ることができる。時折、改革派神学において、「神のかたち」における、知識を預言者職に、聖を祭司職に、義を王職にそれぞれ必要な資質として関連付けて理解し、キリストの三職と教会キリスト者の三職とを関係付けているのを見かけるが、美しい整理だと思う。

人は、本来、御子の似姿として、従ってまた三位一体の神の似姿として造られたものとして、神を愛し、互いを愛し、被造世界を正しく統治するように立てられた。御子によって再創造された者は、その本来の姿に立ち返って、神への愛と隣人愛に生き、被造物をみこころに従って統治する務めが与えられている。教会は世の光として、そのサンプルを世に提供する務めを担った共同体である

(5)予定から終末まで

「神のかたち」であるキリストに視点を定めるとき、さらに予定から御国の完成に至る神の計画全体をも見渡すことができよう。パウロはエペソ書1章4節で、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」という。この一節は、ローマ書8章29節「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたち(eivkw.n)と同じ姿(συμμόρφους)にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」と平行関係にある。「御子のかたちと同じ姿に予定された」というのは、「御前で聖く、傷のない者にしようと予定された」というのと同義であり、聖化の完成としての栄化を意味している。それは、罪を犯しえない自由意志を与えられた「善だけを行為するように、完全かつ不変的に解放され 」た状態である

しかも、その聖化の過程においてキリスト者孤立しているわけではない。キリスト者たちは、キリストの義のゆえに神の前に義と宣言された被告であるばかりでなく、御子の御霊を受けて神の子どもとされた者同士、つまり、互いに兄弟姉妹であるからであるキリスト者は御子イエスを長子とする兄弟姉妹の交わりつまり教会のなかで、その罪から清められ神への愛と隣人愛の実を結んでいく。そして、終わりの時、被造物は滅びの束縛から解放され、御子を長子とする栄化された神の家族は、御国相続しこれを正しく治める務めが与えられる 。

結論 

人間創造において範型とされた「神のかたち」とは御子であるという理解は、宣教上どのような益をもたらすであろうか。第一に、この理解に立つとき、旧約聖書新約聖書のつながりが、明らかになる。創世記1章26,27節の「神のかたち」が、神の御子を意味しており、人は神の御子に似た者として創造されたという理解は、旧約聖書新約聖書の一体性を明確にする。

第二に、予定論・創造論人間論キリスト論・救済論・教会論・終末論の流れがキリストを一本の筋として簡潔に把握できる。神は神の民を世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、そしてきよい御子のかたちと同じ姿にしようと予定された 。神は、御子に似た者として人を創造なさったゆえに、創造論的にも啓示論的にも、御子は神と人および全被造物との間の仲立ちであられる。だからこそ御子は受肉して罪を贖って、救済論的にも仲立ちとなられた。御子の十字架の死と復活を根拠として義と認められた者は、同時に御子の御霊を受けて神の子どもとされ、キリストを長子とする兄弟姉妹の中で聖化の道をたどるが、その目標は御子イエスにますます似た者とされていくことにほかならず、それは終末における主の再臨と全被造物の更新において完成する。

我々は、以上に基づいて、たとえば次のように聖書の教えを語ることができるだろう。「天の父は、人間を御子に似た尊い存在として造ってくださいました。だから、罪に堕ちてしまっている私たちをご覧になってかわいそうに思われました。そこで、御子は、私たちを罪と死から救うために、二千年前、自ら人となって私たちの歴史の中に来てくださり、イエスと名乗られました。御子イエスは、私たちの身代わりとして十字架にかかって死に、三日目に復活して、私たちの罪の償いを成し遂げてくださいました。御子イエスを信じる私たちは、神の子ども、神の家族とされたので、長子であるイエス様から目を離さないで日々ともに成長していくのです。」

ecclesiastesecclesiastes 2011/11/04 12:00 興味深く読み、自分でも調べてみなければならないと思いました。
ポイントはコロサイの釈義だと思うのですが、オリゲネスの聖書解釈はあまりに飛躍しているよう−比喩的すぎるように思い、古代教会の一般理解だったかを検証するには他に同じような用例を挙げる等の必要があるのではないでしょうか。
WBCのO'Brienの反論などもあげながら、コロサイ1:15の釈義をさらにすすめて下さると嬉しいです。

koumichristchurchkoumichristchurch 2011/11/05 09:59 友人に教えてもらって、アタナシオスも「神のかたち」はキリストであると述べているところがあると知りました。『言葉の受肉』11節です。http://www.spurgeon.org/~phil/history/ath-inc.htm#ch_3

訪問者訪問者 2012/04/07 02:04 御主旨が、キリスト告白との関係に立脚しない、今日のニューエイジ・ムーブメントや宗教的多元主義の立場の危うさを批判しておられる点では共感しますが、神認識がバルト的「キリスト論的集中」以外の立場では成り立たないかのような言い方は極端と言って然りだと思います。乱暴な感じさえ受けます。そもそも「〜論的集中」なることがすでに学者的発想であり、一般信徒はそのような形で神を認識するわけではありません。また、そのような神学的方法によって神を認識した牧師の説教を通して初めて神を認識できるということでもないのです。バルトが否定した聖書啓示が信徒の神認識を可能ならしめるのです。新約聖書だけではなく、旧約聖書に示されているイスラエルの神ヤハウェの言葉、また預言者などによるヤハウェについての証言、詩篇などのヤハウェに対する讃美や訴えなどの言葉が神のイメージを形成します。そしてそのイメージは聖霊の働きによるものだからこそ単なるイメージや偶像とは異なって、本人にインマヌエルのレアリテと生きる力を与え、対神関係に置かれている現実の自覚に至らしめるのです。おそらく水草牧師はそのような活きた神との関係の現在よりも神学的理屈を先行させておられるのでしょう。だから「キリスト論的集中」によって認識されない神は「哲学者の神」であるといった極論を語るのです。そのようなことを言われる水草牧師の神は「神学の神」でしょう。そしてそのような「神学の神」と聖書が証しする活ける真の神は必ずしも一致しないのです。「御子を介さずに生きた聖霊体験を求めようとする人は、暗い森の中をさまようことになる。」と言われますがキリスト者である以上、主イエス・キリスト告白を介さぬ聖霊体験などあり得ない話です。水草牧師が「聖霊体験」と言っておられることには何かしら思い込みとか偏見があるようです。文面からはそのようにしか思えません。聖書は聖霊の導きによって活ける神との関係を現在化せしめるのです。その実存的現実を自ら身をもって知らないのであれば、聖霊体験と言えばトーマス・ミュンツァーか何かのような熱狂的なありさまをイメージすることにもなるでしょう。

koumichristchurchkoumichristchurch 2012/04/07 08:45 『訪問者」さま。コメントを感謝します。たぶん、趣旨を(私の表現のつたなさが手伝って)とりちがえておられると思います。

1.「哲学者の神」というのは、貴兄がおっしゃるような「新約聖書だけではなく、旧約聖書に示されているイスラエルの神ヤハウェの言葉、また預言者などによるヤハウェについての証言、詩篇などのヤハウェに対する讃美や訴えなどの言葉が神のイメージを形成します。」ということを否定することではありません。そうではなく、「パスカルが非難した」デカルト、ストア派、そのまえのアリストテレス、プラトンたちのように、聖書啓示によらずに理論的な演繹で「存在証明をされた神」のことです。

2.訪問者様のおっしゃるとおり、たしかに「キリスト論的集中」というのは、わかったようなわからんことばですよね。私もこの表現に出くわしたとき、「アブラハム、イサク、ヤコブが知り、モーセが体験し、イザヤがおめにかかった神はいうまでもなく、活けるまことの神であるし、今日、私たちが聖霊の導きで旧約聖書を通して、少なくともイエス・キリスト様を知らないうちに活ける神との出会いをすることもままあるのに、キリストを介さないでは活ける神認識が成り立たないというのは、変じゃないのか?」と思いました。・・・でも、イエス様はたしかに「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とおっしゃっているのはどういうことか?と悩みました。
 結論をいえば、旧約の聖徒たちも、新約の聖徒たちも、およそ活ける神に出会った人は、本人が意識しようとしまいと、イエス・キリストを介して、活ける神との出会いを果たしているというのが、どうやら「キリスト論的集中」という理解だということです。この辺のことをちゃんと書くべきでしたね。

3.イエス様が世に来られたとき、イエス様を拒否した人々と、イエス様を受け入れた人々がいました。イエス様を拒否したパリサイ派の人々多くは旧約聖書に通暁していて、自分たちは神様のことを誰よりも知っていると自負していたようです。けれども、実際に、神が人となってこられると、このお方を拒否してしまった。一方で、シメオンやアンナやパリサイ派でもニコデモのような人々は、旧約聖書を通じて活ける神を知っていてそのお方が人としてこられたとき、実際に、活ける神との出会いを経験しました。・・・だから、人が旧約聖書によってほんものの活ける神を知っていたかどうかは、キリストとの出会いが試金石となるということです。
 そして、これはたぶん、聖霊体験についても同じことでしょう。ある人が、ある夜、ある圧倒的な体験をして、「神よ。ゆるしてください。わたしはあなたを信じます。」と叫ばずにはいられませんでした。彼は聖書をほとんど読んだことがありませんでした。しかし、自分に迫られたのは、あの神だとわかって、聖書を読み、キリストを知ったとき、ああ、このお方だとわかったのでした。

4.わたしは18年田舎で開拓から始まって伝道してきた、最前線の一伝道者であって、学者を職業としているものではありません。上に掲げたのは、神学雑誌に投稿したので、そういうスタイルにはなっていますけれども。わたしがこんなことをその神学雑誌に書き、牧師仲間に話したのは、末尾に書いたように、なんとかして「造り主であり、かつ、救い主であるお方」を伝えたいという目的からです。

訪問者訪問者 2012/04/07 12:02 御返答を感謝申し上げます。私も誤解があったようです。ただ、「キリスト論的集中」とお書きになったので、まるでカール・バルトの神学を受け入れないと正しい神認識を得られないかのように思ったのです。先生のお立場はどちらかというとウェストミンスター信仰基準を尊重する側の、すなわち自然啓示も認める側だと思っていたので意外でした。「キリスト中心」といった表現でよかったのではないでしょうか?
私はバルトについては概略程度しか知りませんが学習した範囲では聖書を啓示とみなさず、聖書に証しされたキリストのみを啓示としたとのことで、その背景として佐々木稔先生のお言葉を借りれば「ドイツ民族を救済する神の意志、神の啓示を見て、ナチスを翼賛していくドイツ・キリスト者」の状況というものがあって、その言わば反動としてバルトは自然啓示も否定し、選びから何から全部キリストづくめのキリスト一元論ともいわれる極論的体系を構築していったわけです。その反戦の思いや活動には共感し尊敬もしますが、私は聖書を啓示とする立場なのでいかにキリスト証言といわれる聖書であっても神学的キリスト集中は必要ないと思います。聖霊の導きがあれば結果的にキリスト中心になります。救いの恵みに与っている者が虚心坦懐に聖書を読めば必ず聖霊が働いてイエス・キリストの父なる神のイメージが与えられ、その神との交わりの活きた現実を自覚できるようにされるからです。先生が言われるとおり、後でそのようにわかるということがあります。信徒が聖書を読む上ではある程度は神学の学び、特に聖書神学の知識は必要だと思います。しかし神との交わりの場は聖書の中だけではなく生活世界全体であって、聖書が啓示であるという意味は、その言葉が我々信徒をして活きた神との関係現実を自覚せしめ、迷いの中にあってもたえず立ち返らせて生きる勇気を与えてくれるということです。「聖霊体験」とは私にとってこのようなことを言います。だから重箱の隅をつっつくような文法主義にも囚われません。浅学のため誤解を生じてたいへん失礼致しました。どうかおゆるし願います。これからも御サイトを拝見し学ばせて頂きます。
「聖書は神に関して我らに教える書ではなく、活ける神そのものに直面せしめ、その実在にまのあたりふれしめる書である。聖書において我らに迫り来る神は絶対他者としての活ける神、我らの罪をさばくことによって、これを赦したもう聖なる父である。聖書は神に関する真理を観照せしめるよりも、むしろ活ける贖いの神そのものを罪ある我らに経験せしめるものである。聖書において真に神を知るとは、罪ゆるされて、神との交わりに入ることにほかならない。かかる意味で聖書は神の言葉である。」(高倉徳太郎著『福音的基督教』第1講第3節)

koumichristchurchkoumichristchurch 2012/04/07 12:20 たしかに「キリスト中心」でよいかもしれませんね。でも「キリスト論的」というのは、どうやら、まさに「キリストを中心としてものを考える考え方」ということのように用いられているようで、「キリスト的」よりも広やかな概念のようです。

それからバルトが聖書啓示を否定したというのは、言い過ぎのように思います。バルトの著述をいくらか読みますと、彼は聖書釈義に非常にこだわっています。彼の啓示論によれば、聖書記者たちは神との出会いの証言者たちであって、神の啓示そのものの伝達者とはされていないということなので、聖書は啓示書でなく、啓示の証言書ということになります。その程度にしか聖書を評価していないくせに、なんでバルトは聖書釈義にこれほどこだわるのか不思議といえば不思議なくらいです。・・・というわけで、彼が聖書に基づいて話しているかぎりは有益であり、そこから離れていると無益になるということだとわたしは思っています。

上の話で、バルトを持ち出す必要は必ずしもなく、カルヴァンでもよかったのですが、もっとも短いことばで一息に、キリストを中心に考えることが、父・子・聖霊の三位一体の神を知る上で大事だということを述べていたのが彼だったので、少し引用したというわけです。

訪問者2訪問者2 2013/06/18 13:54 「神のかたち=キリスト」に関して、僭越ながら御参考までに引用しておきました。
「キリスト教は神の像に関するこの祭司資料の表現を、パウロやパウロ以降の新約文書の文脈の中で読んできた。つまり、イエス・キリストこそが神の像(似姿)であり(二コリ4:4、コロ1:15)、すべての人間はキリストの似姿に変えられなければならない(ロマ8:29、一コリ15:49、二コリ3:18)という基本理解がそこにはある。しかし、創世記1章26―27節を含むヘブライ語聖書のいくつかの箇所(創5:1-3、9:6〔知2:23、シラ17:3〕)によれば、すべての人間はすでに神の像(似姿)として造られていると表現されており、ヘブライ語聖書と新約聖書との間には容易に単一化できない緊張関係が存在している。つまり、アダムとキリストにおける神の像を同一視したり、混同すると、イエス・キリストによってはじめて人間が救済論的な完成を見いだすという新約的メッセージが誤解される危険性があるので、神の像としてのアダムと神の像としてのイエス・キリストをどのように区別するかということが古代教会の頃より問題にされてきたのである。」
http://www.kohara.ac/research/1998/09/article199809a.html
どんな解釈も決定的とはならないってことですね。

質問者質問者 2013/09/11 07:08 御サイトに学んでいる信徒です。2点、質問させて下さい。
(1)御子は、人が見ることのできない超越者を「見る」ことができるようにしてくださるお方であるという意味で「神のかたち」である。(中略)我々は御子を見るとき、御父を見ることができる。同様の思想は、ヨハネ福音書にも表現されている 。宇田進はコロサイ書1章15節に次のように的確な注解を付している。「神がどのようなお方であるかを知るために、私たちはイエスを見なければならない。このイエスは、人が見ることができ、かつ理解できる形をとった神の完全な表象であり、啓示なのである。 」
・・・・と書かれてあり、キリストが神の啓示であるということはわかるのですが、「私たちはイエスを見なければならない」と言ったって、実際に主イエスを肉視することは不可能です。イコンであれ何であれ、人間が描いたキリスト像は主イエス自身ではありません。申すまでもなく、私たちはイエスを「見たことがないのに愛している」(ペテロ一1:8)であり、「今」すなわち、この世にある内は「見ることができない」(同)わけです。それなのに宇田先生あたりは、どうやって我々が主イエスを見ることができると言われるのでしょうか?先生ご自身、主イエスを見たことがあるのでしょうか?もし実際に主イエスを見たと言われるなら、私の場合は信用できません。そういうことを言う人に時々、出会いますが、その証言については信用していません。霊視するという意味なら、結局、主イエスも父なる神と同じく「見えない」存在ということになります。主イエスを霊視できるなら、父なる神をも霊視できるかも知れません。主イエスは霊視できるが父なる神は肉視も霊視も出来ないよ・・・ということならわからないでもないですが、実際、ヤコブその他で父なる神を見た者はいます。モーセも神を見た場面がありますよね。新約でもステファノは死ぬ直前に「神と、その右に立つイエス」をまさに霊視しています。彼は「神を見た」のです。そして我々も、聖霊の働きがあれば、いちいち主イエスを「神のかたち」としなくても(むしろ形にこだわると十字架のキリスト像のペンダントなどを身につけて触れて祈るような偶像崇拝的習慣に陥りやすいのでよくない)、直接、「神を見る」ことができるのではないでしょうか?それは「見る」と言うより「知る」であり、その臨在を実感するという意味でよいと思うのです。
(2)ピリピ2:6の「神のかたち」の「かたち」(モルフェー)は単に姿形の外観的意味にとどまらず、むしろ内的・本質的な要素を持つことを意味するそうですが、上の宇田先生的解釈は、どちらかというと外観的意味の方に偏っているのではないでしょうか?
主イエスが「神のかたち」であるという意味は、見えない神を見るには、神の姿形である主イエスを見ればよいといった意味ではなく、ヨハネ14:9のピリポに対する主イエスの言葉も、これまでのご自分の「業」と「言葉」について言っておられるのであり、すなわち「わたし(の働き)を見てきた人は父(の大御心)を見て(示されて)きた」と言っておられるのであって、「わたしの姿形を見た人は父なる神を見たことになる」といった単純な意味ではないと思われます。「見る」という言葉にとらわれるから、主イエスの外形が実体的に神を体現したかのような解釈に陥るのでしょうが、こういう解釈はまさに偶像化の危険があるのではないでしょうか?「神のかたち」はむしろ内的・本質的に、すなわち主イエスが神の本質を与えられた神の子であったことを意味するものとして受けとめるにとどめた方がよいのではないでしょうか?
長くなってすみませんでした。お答えをお待ちしております。

koumichristchurchkoumichristchurch 2013/09/13 21:12 質問者さま。
宇田先生が「見る」といっている意味は、霊視するとかいう意味ではないと思います。主イエスの受肉以前にははっきりとわからなかった神を、主イエスの存在全体、そのことばと行い、とのいのちと復活のすべてをもって「はっきりと知る」「わかる」という意味で、「見る」ということばを用いています。
英語でYou see?っていうでしょう。「わかった?」という意味で。「知る」と「見る」はちとちがうのです。お話をするにも、「わかるようにはなせ」という意味で、「見えるように話せ」というでしょう。

myrtus77myrtus77 2013/09/14 10:16 先達たちが成してきた思索を受け取って、私たち信徒も神学すべきですよね、牧師や学者達だけに任せておかないで。これまでのどの思索も神学も完成されているわけではないのですから。神への道は完成されることはない。それぞれが神の御旨を求めて歩み続けるのみであると思います。でも、その過程で、ある時イエスと、神と出会えたと思える時が与えられるかもしれません。

水草先生の労に感謝して、コメントさせていただきました。

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