明治政府が1885年に太政官制を改め内閣制度を発足させた折に、内閣を構成し政務を司る内閣総理大臣はじめ国務大臣と分離し、閣外の宮中職としての内大臣の官職を復活させ、その職掌を司る庁として創設された。
太政官時代の内大臣の略称が内府であったことと、内務大臣(内相)と区別する必要から、大臣ではあるが内相ではなく内府と呼ばれた。
明治政府下における内大臣は常に天皇の側にあって補佐(常侍輔弼)する宮中の官職であり、御璽・国璽を保管し、詔勅・勅書その他の宮廷の文書に関する事務などを所管した。また、国民より天皇に奉呈する請願を取り継ぎ、天皇の聖旨に従って、これを処理するなど側近としての重要な役割を果たした。内大臣の職務・権限・助言できる範囲は、憲法学者ですら明確に定義することができないほど、非常に曖昧かつ抽象的なもので(当時の宮内大臣とかぶるものが多い)、全ては就任した人物と天皇の信頼関係のみで成立するという特殊な地位だった。当初は、太政官制廃止時の太政大臣三条実美の処遇のための役職の意味合いもあった。三条の側近だった尾崎三良は就くことに反対し、また内大臣そのものも無用の長物としている。
当初は事務方であった内大臣も、昭和以降に入ると、元老に代わって、後継総理の奏薦などで次第に強い発言力を持つようになっていき、特に1940年に最後の元老の西園寺公望死去後は、宮中だけでなく府中(政府内)にも力を持った。大東亜戦争敗戦を契機として1945年11月24日、連合国最高司令官(SCAP)指令により廃止された。
律令官制・太政官制における役職。
律令制の条文自体には規定のない所謂「令外の官」。左大臣・右大臣に準ずる職として、官位相当は正二位・従二位。職掌も同じで、ただし、左右大臣が欠員・何らかの事情で出仕しない/できない場合などのときに、代わって太政官の政務を総裁した。定員1名。
大宝令以前*1は「内臣」といって左右大臣よりも上の位で、中臣鎌足が最初にこの職に就いたが、大宝令では設置しなかった。
8世紀末の光仁天皇の代になって「内臣」を復活し、藤原良継・藤原魚名を任じたのち、「内大臣」と改名して、左右大臣よりも下の位とした。
10世紀末に藤原道隆が就任して以降は常設の職とされる。
*1:7世紀半ば〜8世紀