律令官制の中で最高の役職。職掌自体はとくにはないが、もっとも重く扱われる。
定員1名(「正一位」または「従一位」相当)
「おほきおとど」「おほきおほいどの」でも同じ。
摂政・関白が臣下の役として定着するまではこの役職が同様の役割を果たした。
『養老令』の規定には、「天皇の師範としてあり、世界に善法を知らしめる存在であり、国事を経緯し*2道を論じ、陰陽を和らげ治めるものである。そのような有徳の人がない場合は、則ち闕くこと。」とある。
「太政官のトップ」という位置づけだが、選任するにあたっての規定は厳しく。
その為に『則闕の官』とも言われる。必ず設置する必要はなく、該当する有徳者のいない場合には設置されなかった。(=闕官)
671年に天智天皇が、初めて「太政大臣」という職を置いたときに子息の大友皇子を任じた。*3
以来、二三の例外を除き、ずっと皇太子の職とされる。*4
奈良時代には、左右大臣経験者の死後に贈られる職へと変わり、*5
平安時代に入り、藤原良房が現役中に任命(857年)されたのを始め、以降は藤原氏が続けて任じられるようになるが、
平安時代の中頃にもなると、「政界からの引退」の意味が強くなっていく。
さらに少し時代が下ってからは、平清盛(1167年)や豊臣秀吉(1586年)など、他家の人も任じられるようになる。
太政大臣を勤めた人は没時の待遇も厚く、諡号(しごう・おくりな=贈り名)を下された。
*ただし、藤原兼家や藤原道長らのように、生前に出家すると諡号は下されない。