第15代の天皇。
誉田天皇、品陀和気命とも。 足仲彦天皇(仲哀天皇)の第四子。母は気長足姫尊(神功皇后)。
子女には、荒田皇子、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)、根鳥皇子、額田大仲彦命皇子、大山守皇子、去来真稚皇子、大原皇子、菟道稚郎子太子尊、稚沼笥二俣皇子尊、隼總別皇子、大葉枝皇子、小葉枝皇子、矢田皇女、阿倍皇女、淡路御原皇女、紀菟野皇女、雌鳥皇女などがある。
今回は『川尻八幡宮』へ参拝してきました。川尻八幡宮は神奈川県相模原市緑区に鎮座されます神社です。 御祭神は第15代天皇である応神天皇(おうじんてんのう)です。別名として誉田別命(ほんだわけのみこと)ですね。創建は大永5年5月5日(1525年)だそうです。 鳥居のすぐ右側には推定樹齢500年以上の椎ノ木と樹齢不詳のウラジロガシが見事に聳え立っています。写真では曇天ですがとても気持ちのいい参道でした。 この地で亡くなられた奥州に下る途中の舎人親王の子孫が、石清水八幡宮の御分霊を護持していたそうで、御神体として祠に建てお祀りしたそうです。再び鳥居があり、階段を登ります。 川尻八幡宮の手水舎は右側にあ…
今回は『大宮八幡宮』へ参拝してきました。大宮八幡宮は東京都杉並区に鎮座されます神社です。 『東京のへそ・子育厄除八幡さま』と、この看板が紹介してくれています。”東京のへそ”とは、大宮八幡宮が東京の重心に位置する事からそう呼ばれるのだそうです。パワースポットとして有名なのだそうですよ。そして”子育厄除八幡さま”としても親しまれているんです。御祭神である神功皇后が応神天皇を身籠ったまま出陣し、無事に帰還出産された伝承があります。そこから安産・子育ての八幡さまとされているそうです。 御祭神は応神天皇(第15代の天皇)、仲哀天皇(応神天皇の父君)、神功皇后(応神天皇の母君)です。都内では、明治神宮、靖…
三皇子の出自 三皇子の関係 大鷦鷯尊の正体 三皇子の出自 一旦ここで話を戻して、応神帝による太子選定を最初から見直してみることにする。そもそも応神帝はなぜ末子の菟道稚郎子を後嗣にしたかったのか。元より応神帝の真の思惑や、諸皇子を取り囲む環境などは、今となっては知る由もない訳だが、単に偏愛していたからという理由だけで郎子を選んだのであれば、それこそ君主失格と言われても仕方がない。そこで応神天皇の名誉のためにも、この末子相続には然るべき理由があったという前提に立った上で、史書の行間に隠れた歴史の真実に迫ってみたいと思う。 まず改めて大山守皇子の系譜を見ておくと、生母の高城入姫命は、景行帝皇子の五百…
古事記に見る皇位継承 日本書紀に見る皇位継承 太子と大鷦鷯尊の譲り合い 古事記に見る皇位継承 応神天皇から仁徳天皇への皇位継承については、未だ解読されていない事案がいくつか存在する。元より史書が故意にそれを隠している訳だから、そこに多少の違和感を覚えたとしても、取り敢えずその場は史書を信じて先へと読み進めるしかないのだが。そうして記紀の成立から約千三百年の間、誰もが敢て異議を唱えることなく読み流してきた通説について、改めてここで再考してみようと思う。因みに記紀の設定では、大山守命が長兄、大鷦鷯尊(大雀命)が次兄、菟道稚郎子(宇遅能和紀郎子)が末弟となっている。まず記紀に伝える応神帝崩御から仁徳…
三帝の年表 応神紀の十年 応神天皇の政治 吉備氏と高句麗 古墳時代の幕開け 三帝の年表 さてここで試みに垂仁・成務・応神の三帝に関して、正史に記された即位直後の時事の中から、恐らく成務帝の治績ではないかと思われる記録だけを、その割り振られた帝紀を無視して年代順に並べてみると、次のようになる。まず冒頭の年月については、史書上の天皇が誰であるかに関係なく「即位何年何月」とし、個々の末尾に出典元の帝紀を記しておく。即位元年春一月、即位(全ての帝紀で共通)即位二年任那人の蘇那□叱智が「国に帰りたい」と申し出たのでこれを赦す。天皇は蘇那□叱智に敦く賞し、赤絹百匹を任那王に贈ったが、新羅人が道を遮ってこれ…
おはようございます 飯塚祇園山笠撮影行③ 二瀬流れ 国道201号線二瀬交番横に 本部がありました。 応神天皇 軍神八幡神とも呼ばれたそうです 見送り 隣には子供山笠の少年太兵衛之夢 子供山笠の見送り 本日も南部鉄器マンのブログに お越し頂きありがとうございました。 南部鉄器マン全力投球のブログ写真 如何でしたでしょうか? 明日も是非お越しくださいませ。 感謝。 2024年6月28日 金曜日 ブログ更新時間午前6時42分 室温24度 湿度81% 外気温度23度 体感温度22度 昨夜は線状降水帯が発生するとの 警報が出ましたが小雨が降ったのみで 今は上がっています。 何事もなく平穏無事に朝を迎えま…
大阪には日本最大の前方後円墳である大仙陵古墳があるように古代から栄えてきた地域でした。 そのため現在の大阪にも古代から受け継がれてきた地名が多く残っています。 大阪市の24区の中から古代の地名が由来となる区を紹介していきます。 浪速区(なにわく)の由来は王仁の歌か? 此花区(このはなく)の由来も王仁の歌か? 住吉区(すみよしく)の由来は住吉津か? 都島区(みやこじまく)の由来は古代の都? 天王寺区(てんのうじく)の由来は 平野区の由来は坂上広野麿 福島区(ふくしまく)の由来は菅原道真 浪速区(なにわく)の由来は王仁の歌か? 百済からきた博士、王仁(わに)が詠んだといわれる「浪速津に 咲くやこの…
前回は朝鮮半島の広開土王碑を参照する事で空白の4世紀の日本の歴史を考えてみましたが、まだまだ空白は多いです。 そこで、この空白を埋めるために『日本書紀』の力を借りて空白の4世紀当時の日本を考えてみることにします。
日本人のルーツは、朝鮮半島に大陸起源説を唱える人が多い日本の学校教育ですが!? 私は、いささか、それに疑問を呈しています。 先ず、大陸起源説者の主張はこうです! 「応神天皇時代に、我々の天皇は朝鮮半島から連れて来られた」と。 確かに応神天皇時代に半島からの移民者の流入はございます、しかしそれを天皇に紐付け出来る証拠はございません! もし彼らや現天皇が仰る朝鮮起源説を、裏付ける理由となる逸話をあげるとすれば、第49代光仁天皇の時代と言えます。 ちなみに光仁天皇は、井上内親王と結婚したことで天皇の地位を得た天皇です。 要は聖武天皇の娘のところに、11系離れた光仁天皇が入婿に入ることで天皇になれた天…
前回は、蝦夷討伐の初陣を切り、その後神功皇后の三韓征伐に参加した鹿我別(かがわけ)王は、神功皇后と同じ「アメノヒボコ」と同じ辰韓の王家の血筋だと考察しました。 ↓前回 kumashine369.hatenablog.com ↓前々回 kumashine369.hatenablog.com ↓前々々回 kumashine369.hatenablog.com 今回はその鹿我別王をさらに深掘りし、なぜ彼が歴史の表舞台から消えたかを探っていきます。 私が気になったのは、鹿我別王という名前です。以前にも、「鹿」とは「神」の意味があると考察しましたが、鹿我別王の名前にある「鹿」も同じ意味ではないでしょうか…