継体天皇 第26代天皇。男大迹天皇、袁本杼命とも。 武烈天皇に嗣子がなかったため、越前より迎えられた。
皇后・手白香皇女との間の子に第29代欽明天皇がいる。 万世一系を語る上で避けられない天皇。
応神天皇─┬仁徳天皇 ─┬履中天皇──磐坂市邊押羽皇子─┬仁賢天皇─┬武烈天皇 │ │ │ │ │ ├反正天皇 └顕宗天皇 └手白香皇女 │ │ │ └允恭天皇──雄略天皇 ──清寧天皇 │ ├菟道稚郎子太子 │ └稚沼笥二俣皇子 ──太郎子──彦主人王 ──継体天皇
以前訪問した大阪府平野の神社(式内楯原神社)には継体天皇を輩出した息長氏の歴史が伝わっています。息長氏といえば近江や福井を拠点とした豪族であったと想像しますが、実は大阪にゆかりのあるようなのです。 北村某の家記とは 息長氏のルーツは大阪か? 杭全(くまた)の由来は咋俣長日子王(くいまたながひこのみこ)? 継体天皇へ受け継がれる息長氏の血筋 北村某の家記とは 今回の記事は『北村某の家記』がベースとなっています。 「北村某の家記」とは、『大阪府全志』に収録されている、旧喜連村の北村某なる人物が所蔵していた文書である。本来は3巻からなった(1巻:神代から仁徳天皇の治世までは若沼毛二俣王、2巻:醍醐天…
2025年3月30日 今城塚古代歴史館(大阪府高槻市) 大阪府高槻市にある今城塚古墳の1/100スケール模型。 造営時6世紀前半では最大級の前方後円墳で、国の史跡に指定されてます。 『巨大古墳の築造』エリアでは、発掘調査を通じて明らかになった、巨大古墳の築造過程を実大ジオラマなどで解説されていました。 復元された継体天皇の鎧 古墳の埋葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、『古事記』、『日本書記』などの文献の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定されていて、6世紀前半に没した第26代 継体天皇とするのが学界の定説になっています。 しかし、宮内庁は大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳を継体天皇の陵(嶋…
2025年3月30日 今城塚古代歴史館(大阪府高槻市) 今城塚古墳のそばにある今城塚古代歴史館を訪れました。 淀川の右岸、北摂山地から続く三島丘陵地には旧石器時代から人類が住み付き、弥生時代の安満遺跡、邪馬台国時代からヤマト政権時代にかけて造成された大小500以上の古墳(三島古墳群)があり、日本国内でも有数の古墳地帯となってます。 常設展示室のエントランス 古墳時代前期、三島の王とヤマト政権の関連を探る展示です。 三島古墳群の中で最古の安満宮山古墳から出土した3世紀中頃の『三角縁獣文帯四神四獣鏡』。 三角縁神獣鏡が出土したことから、邪馬台国の卑弥呼が魏から贈られた「銅鏡百枚」の一部とする説もあ…
河津桜が満開🌸 2025年3月30日 今城塚古墳公園(大阪府高槻市) 寒の戻りで寒かった日曜、大阪高槻市にある今城塚(いましろづか)古墳公園を訪れました。 淀川の右岸、北摂山地から続く三島丘陵地には大小500以上の古墳があり、それは三島古墳群と呼ばれ、日本国内でも有数の古墳地帯となってます。 前方後円墳の今城塚古墳の立体模型 今城塚古墳は、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、第26代 継体天皇の真の陵とする学説が有力だそうです。 宮内庁は近くにある太田茶臼山古墳を継体天皇陵墓に治定しています。戦前の臨時陵墓調査委員会で、この今城塚古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われましたが、宮内…
俳振歴歩のひろです。 継体天皇陵と言われている今城塚古墳に行ってきました。 このあたりは大阪府の北部の北摂山地と淀川に挟まれた丘陵地帯で三島古墳群と呼ばれており、古墳だけでも700基ほどを数えます。畿内では、大和柳本古墳群、佐紀盾列古墳群、百舌・古市古墳群が有名ですが、ここ三島古墳群も日本有数の古墳地帯です。三島古墳群は淀川流域にできた古墳群ですが、畿内のそれ以外の古墳群は大和川流域の古墳群で、それだけでも何か意味があるような気がしませんか。 今城塚古墳の近くにほぼ同じ大きさの太田茶臼山古墳があり、継体天皇の名が男大迹王(ヲホドノミコ)と呼ばれており、その発音が太田(オオダ)に近いことや旧地名…
日本にマナセ族が渡来していたことを示す。ラテン語のブネイメナシェや隅田八幡鏡に記された人物である継体天皇、武寧王などの関係性から示していく。次の流れで紹介していく。 ・ブネイ・メナシェ・マナセ族・百済の武寧王とブネイ・隅田八幡鏡による日十大王、武寧王、継体天皇の関係・継体天皇と男(men)・尾張目子媛(おわりめのこひめ)とメシ(men-sheh)・目弱王(眉輪王)とクサカ・仁賢天皇とアシ(ash)・まとめ・考察~ナフタリ族、ユダ族、マナセ族~ ■ブネイ・メナシェ ブネイ・メナシェとは、ヘブライ語で「メナシェの子供たち」の意味である。マナセ族の子孫と考えられている。 インド北東部にマナセ族の末裔…
継体天皇の即位の条件として、前政権への一族全体での婿入りがあった。継体天皇は手白香皇女へ婿入りし、後継は手白香皇女の子、欽明天皇と確定していたというのは定説となっている。 一方で、継体天皇崩御時の政治情勢は、強力な指導者を必要としていた。任那については百済に割譲され、北九州では磐井の反乱も起きた。 安閑天皇・宣化天皇は即位したのか? 安閑天皇・宣化天皇は、継体朝内で発言力もあり、政権幹部として活躍していた。軍事・外交上の決済権は安閑天皇・宣化天皇が継体天皇崩御後も握っていたとみて間違いないだろう。 一方で、天皇としての祭祀はどうなのか。安閑天皇・宣化天皇期の記録の混乱を見ると、「天皇」は欽明天…
「古代史の復元」目次 ※ 第三章の11分割は当サイトによる https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2024/01/25/003318 九 第187~202節 倭の五王と継体 186 高句麗との戦い https://mb1527.thick.jp/N3-24-koutaiou.html 187 倭の五王の年代推定 https://mb1527.thick.jp/N3-25-goou.html 188 阿知使主の謎 https://mb1527.thick.jp/N3-25-1ati.html 189 武内宿禰の謎 https://mb1527.thick.jp/N…
今城塚古墳。ほんとうの継体天皇の墓陵ではないかとされる。 つまり、唯一、一般人が踏み入ることができる天皇陵。 一部には、復元された埴輪が展示されている。 葬送の儀式の再現とか 古墳の模型(古墳に隣接する今城塚古代歴史館で展示されている) 石を積む人びと(お給金は出ていたのではないかという説も)
系図(世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)から見えてくる世界。 今回は継体天皇から始まった6世紀の様子について。 502年(紀は506年)に豪族たちの総意で武烈天皇が排除され、503年(紀は507年)に継体天皇が擁立された。継体天皇と二人の皇子(後の安閑天皇と宣化天皇)が和珥系皇女に入婿する形で前世紀の血統の統一が目指された。結果はすぐに現れて継体3年(505年:紀は509年)に後の欽明天皇が生まれて、欽明天皇への皇統の継承が確定するかに見えた。 一方、国際情勢は苛烈化。任那の4県(512年)2郡(513年)を百済に割譲するなど、ジリ貧状態であった。北九州勢としては、せっかく仲哀…