第33代(592 - 628)歴代天皇で最初の女性天皇。 554年、欽明天皇の皇女として生まれた。母は蘇我稲目の娘である堅塩媛(キタシヒメ)。即位前の名は額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ),諡名は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)。初め、敏達天皇の皇后。蘇我馬子による崇峻天皇暗殺直後、即位。 聖徳太子を摂政とした。体制の維持整備、遣隋使の派遣などにより海外からの制度文物を積極的に導入。
小墾田宮(おはりだのみや)は、推古天皇が治めた、日本の政治改革が始まった地である。小墾田宮は、小治田宮とも書き、飛鳥時代に推古天皇が営んだ宮殿。 『日本書紀』によると、603年(推古11年)、豊浦宮(明日香村)からこの宮に遷り、聖徳太子や蘇我馬子とともに「冠位十二階」や「十七条憲法」の制定、遣隋使の派遣など、国家の礎を築く数々の政治改革を行った。 飛鳥資料館の展示 当時の宮は、南に南門を構え、諸官が勤める「庁(まつりごとの場)」を配し、さらに北に女帝の居る「大殿」を置く構造で、のちの都城(朝堂院と大極殿)の原型とされる。608年には、隋の使者・裴世清を迎え、国書の交換と盛大な饗宴が催された。ま…
古代日本史の超面白いドラマ! 女帝の先駆けと蘇我vs物部の大乱【ビギナー向け】 日本書紀を読んでいると、古代のヤマト王権がめちゃくちゃ人間くさくて面白いんです。皇位継承のドタバタ、豪族同士の権力闘争、仏教をめぐる大対立……。今日は清寧天皇から推古天皇あたりまでのエピソードを、トリビア満載で初心者さん向けにまとめ直しました。ドラマや大河ドラマみたいに楽しんでください! 1. 兄弟の譲り合いと、意外な「初代級女帝」飯豊青皇女白髪天皇(清寧天皇)が亡くなった後、皇太子の億計王(後の仁賢天皇)と弟の弘計王(後の顕宗天皇)が「お前がやれ」「いやお前が」と皇位を譲り合って、いつまでも決まらない事態に。そこ…
みなさんは小学生の頃、聖徳太子を「十人の話を同時に聞く天才」「十七条憲法を作った偉人」として学んだと思います。あの親しみやすい英雄像が、近年少しずつ変わってきています。最新の歴史研究では「実在した人物ですが、後世に理想化された部分が多い」という見方が主流です。この記事では、太子のこれまでのイメージ、実在性をめぐる議論、教科書の扱い方、そして歴史が作り上げられる理由を、わかりやすくお伝えします。 聖徳太子の1万円札 ① これまで聖徳太子はどのような人物として知られてきたか 聖徳太子(厩戸皇子または厩戸王)は、推古天皇の時代(592~628年頃)に活躍した皇族として、日本史の教科書で長く英雄として…
この記事は、奈良市にある最古の式内社、率川神社(いさがわじんじゃ)を訪問した記録です。ここでは初代神武天皇の妃である、媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祀っています。 率川神社(いさがわじんじゃ)とは 媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祀った大三輪君とは 率川神社を参拝 まとめ 率川神社(いさがわじんじゃ)とは 奈良市本子守町にひっそりと鎮座しています。 媛蹈韛五十鈴姫命『神武』より 祭神は媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと) 初代神武天皇の皇后です。 狭井大神 (御父神) 、玉櫛姫命 (御母神)も祭神となっていますが、媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらい…
この記事は奈良市内にある式内社 漢國(かんごう)神社を参拝した記録です。 漢國(かんごう)神社とは 漢國神社の歴史 漢國(かんごう)神社を参拝 漢國(かんごう)神社とは 漢國(かんごう)神社は奈良県奈良市漢国町(かんごくちょう)に鎮座する式内社です。 祭神は 園神: 大物主命(おおものぬしのみこと) 韓神: 大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなびこなのみこと) かつては、「春日率川坂岡神社 (かすがいさがわさかおかじんじゃ)」あるいは「園韓(そのから)神社」などと呼ばれていましたが、いつしか「園」が「國」に、「韓」が「漢」へと書き換えられ、現在の「漢國神社」という名になったと伝えら…
661年7月24日斉明天皇崩御後、中大兄皇子は10月7日には博多港の長津宮を離れ倭京に戻ってしまった。結局九州で指揮をとったのはたったの2ヶ月半。以後、九州で中大兄皇子が戦争を指揮した記録は日本書紀にはない。 中大兄皇子何してた? 斉明天皇崩御後の日本書紀の記事について時系列をまとめてみると、7月24日 朝倉宮で斉明天皇崩御7月 中大兄皇子は長津宮に移り、徐々に(稍)、海外軍を指揮する(原文『稍聴水表之軍政』)8月1日 中大兄皇子は斉明天皇の亡骸を磐瀬宮(長津宮)に移送9月 中大兄皇子は長津宮で豊璋に織冠を授与し軍と共に百済に送り出す。10月7日 中大兄皇子は斉明天皇の亡骸とともに出港10月2…
推古天皇、そして聖徳太子は、ペルシャ人の末裔とする説がある。ここではそうであったとする説を支持する根拠を示していく。次の流れで紹介していく。 ・李密翳(りみつえい)・破斯清道(はしのきよみち)・間人皇女(はしひとのひめみこ)・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)・聖徳太子・推古天皇(すいこてんのう)・駱駝の献上・アナーヒター・新羅の官位のササン・法興寺(飛鳥寺)の建設とイラン人・女性のトジコやイラツメが出現する時代・男性の5人のイラツコ・アリアケ・依羅氏と我孫子・依網池(よさみのいけ)と依網屯倉(よさみのみやけ)・阿蘇と蘇我・阿蘇ピンク石の使用の歴史・出挙と貸稲・蘇我稲目・蹴鞠の掛け…
日本初の女性天皇! 女帝・推古天皇は象徴的な存在に留まらず、エリート血統の卓越した政治的手腕を持つ人物だった! 日本書紀 巻第二十二 推古天皇 中継ぎ説の再考 推古天皇は、日本初の女性天皇として広く認識されています。多くの歴史上、男性の天皇が続いていた中で、なぜ推古天皇が即位されたのでしょうか? これまでの通説では、推古天皇が即位した理由として、次の男性天皇が即位するまでの中継ぎとしての役割を果たしていたと信じられてきました。 当時、皇位継承の候補者は複数存在していましたが、いずれも年齢が若く、群臣たちの間で意見が分かれていました。 この対立を抑えるため、蘇我馬子は姪にあたる炊屋姫(推古天皇)…
筆者撮影 船場橋(馬門石製)宇土市 熊本県宇土市には通称「馬門石」と呼ばれる、薄ピンク色をした阿蘇凝灰岩を産出し、この石材を使った、船場橋や門柱など風情豊かな景観を醸し出している。写真の船場橋は、網津町で産出する馬門石と安山岩による、全長13.7m、幅4.1mのアーチ橋で江戸末期の建造である。河岸には船着き場があり、川沿いの階段は昔の荷揚げの場所である。石橋の色が他地域の石橋と異なり、ピンク色であることからずいぶん異なった印象を受ける。 また、今から300年前の江戸時代に馬門石数千個を用いて、記載写真の様な轟水源から旧宇土城下までの、総延長4.8㎞に及ぶ日本最古の上水道管(轟泉水道)を完成させ…
敏達天皇の正嫡である押坂彦人大兄皇子。系図を眺めると政治的立ち位置が見えてくる。 太子彦人皇子 日本書紀には丁未の乱の直前に押坂彦人大兄皇子の記事が出てくる。 587年4月2日に用明天皇が天然痘に罹患し死の床についたことで紛争が勃発。「群臣が大連を陥れようとしている」との噂から物部大連守屋が本拠地の河内国に避難。物部氏側の中臣勝海は『太子彦人皇子』と竹田皇子を呪詛するも、事の成り難きを知り、彦人皇子に帰順するが、彦人皇子の舎人に斬られた。 このように、日本書紀は、押坂彦人大兄皇子は物部氏側の中臣勝海を斬っており、物部陣営には属さず、推古天皇寄りの立場に居たと記している。 系図からわかること 事…