第33代(592 - 628)歴代天皇で最初の女性天皇。 554年、欽明天皇の皇女として生まれた。母は蘇我稲目の娘である堅塩媛(キタシヒメ)。即位前の名は額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ),諡名は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)。初め、敏達天皇の皇后。蘇我馬子による崇峻天皇暗殺直後、即位。 聖徳太子を摂政とした。体制の維持整備、遣隋使の派遣などにより海外からの制度文物を積極的に導入。
日本初の女性天皇! 女帝・推古天皇は象徴的な存在に留まらず、エリート血統の卓越した政治的手腕を持つ人物だった! 日本書紀 巻第二十二 推古天皇 中継ぎ説の再考 推古天皇は、日本初の女性天皇として広く認識されています。多くの歴史上、男性の天皇が続いていた中で、なぜ推古天皇が即位されたのでしょうか? これまでの通説では、推古天皇が即位した理由として、次の男性天皇が即位するまでの中継ぎとしての役割を果たしていたと信じられてきました。 当時、皇位継承の候補者は複数存在していましたが、いずれも年齢が若く、群臣たちの間で意見が分かれていました。 この対立を抑えるため、蘇我馬子は姪にあたる炊屋姫(推古天皇)…
筆者撮影 船場橋(馬門石製)宇土市 熊本県宇土市には通称「馬門石」と呼ばれる、薄ピンク色をした阿蘇凝灰岩を産出し、この石材を使った、船場橋や門柱など風情豊かな景観を醸し出している。また、今から300年前の江戸時代に馬門石数千個を用いて、総延長4.8㎞に及ぶ日本最古の上水道管(轟泉水道)(記載写真)を完成させ、現在でも使用されている。 この馬門石、実は今から遡る事1500年前の、5世紀後半から6世紀前半にかけて、火国から瀬戸内航路を利用し遙々近畿地方に運ばれ、大和の大王や豪族の古墳内に石棺として納められてきた事が近年明らかになった。 その馬門石も石棺以外に、四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺)の境…
敏達天皇の正嫡である押坂彦人大兄皇子。系図を眺めると政治的立ち位置が見えてくる。 太子彦人皇子 日本書紀には丁未の乱の直前に押坂彦人大兄皇子の記事が出てくる。 587年4月2日に用明天皇が天然痘に罹患し死の床についたことで紛争が勃発。「群臣が大連を陥れようとしている」との噂から物部大連守屋が本拠地の河内国に避難。物部氏側の中臣勝海は『太子彦人皇子』と竹田皇子を呪詛するも、事の成り難きを知り、彦人皇子に帰順するが、彦人皇子の舎人に斬られた。 このように、日本書紀は、押坂彦人大兄皇子は物部氏側の中臣勝海を斬っており、物部陣営には属さず、推古天皇寄りの立場に居たと記している。 系図からわかること 事…
用明天皇と聖徳太子の違いは何か?聖徳太子はなぜ『用明天皇のような天皇』の扱いをされなかったのか? 用明天皇第一皇子田目皇子 聖徳太子=厩戸皇子は用明天皇の第一皇子ではない。第一皇子は蘇我石寸名の子で田目皇子である。 この田目皇子は、父の皇后である穴穂部間人皇后を娶った。これは政治的には田目皇子が用明天皇の後継を狙ったものと解釈できる。 父の正妻を娶って後継となるのは珍しいことではなく、「鎌倉殿の13人」でも奥州藤原氏で秀衡の長男国衡が秀衡の正妻を娶って、秀衡後継体制の安泰を図ろうとしていた。 田目皇子は父の皇后との結婚に成功し、権威を得たものの、崇峻天皇との後継争いには敗れたようだ。 なお田目…
継体天皇の即位の条件として、前政権への一族全体での婿入りがあった。継体天皇は手白香皇女へ婿入りし、後継は手白香皇女の子、欽明天皇と確定していたというのは定説となっている。 一方で、継体天皇崩御時の政治情勢は、強力な指導者を必要としていた。任那については百済に割譲され、北九州では磐井の反乱も起きた。 安閑天皇・宣化天皇は即位したのか? 安閑天皇・宣化天皇は、継体朝内で発言力もあり、政権幹部として活躍していた。軍事・外交上の決済権は安閑天皇・宣化天皇が継体天皇崩御後も握っていたとみて間違いないだろう。 一方で、天皇としての祭祀はどうなのか。安閑天皇・宣化天皇期の記録の混乱を見ると、「天皇」は欽明天…
マンガ日本の歴史 5随・唐帝国と大化の改新石ノ森章太郎中央公論社(中公文庫)1997年4月3日 初版印刷1997年4月18日 初版発行 『マンガ日本の歴史 4 王統譜を編み上げる大和王権』の続き。 megureca.hatenablog.com 4では、仏教が伝来し、蘇我氏と物部氏で仏教の受容をめぐって争いが起こり、王権をめぐってもごたごたしていた時代。5では、その後の推古天皇、聖徳太子、そして大化の改新がおこる。 目次序章 女帝誕生第一章 聖徳太子の改革第二章 蘇我氏の専横 第三章 大化の改新第四章 皇極天皇重祚 ポイントを覚書。 日本初の女帝、つまり推古天皇が誕生したのは、蘇我馬子に頼まれ…
穴穂部皇子の行動を見る限り、敏達皇后である推古天皇が天皇としての権威をずっと握っていて、用明天皇は天皇としては権威のない執政権を持つ王であったように見える。 革新派:用明天皇即位の背景 500年代に入り朝鮮半島権益を巡る外交問題が活発化。田舎者国家である倭国にとって外国文化の受容は外交戦略上重要であったはずで、仏教は500年代の外交官にとって必須の教養になっていたと思われる。 最先端の文化に染まった人々が、古来の習俗に反抗するのは世の常であり、用明天皇も即位前に神道に挑戦するようなトラブルを起こしたようだ。※敏達7年に伊勢神宮に仕えさせた敏達天皇皇女の菟道皇女を池辺皇子が犯す事件があり、池辺皇…
天皇が亡くなると次の天皇が立つというのが自明のようだが、皇后はどうなのか? 皇后の地位は天皇が亡くなると消えるのか? 皇后の地位は消えず終身制ではないのか? 推古天皇の権威の源泉 推古天皇の権威の源泉は、敏達天皇の皇后であったからというのは、異論は無いだろう。ということは、推古天皇は敏達天皇の継承者として権力を振るったことになる。 皇后の任務として、一般に言われているのが、天皇不在時の天皇の代わりである。では天皇の権威を皇后はどのように継承するのか? 推古天皇は敏達天皇の殯を行っている。敏達天皇の権威を継承する儀式と解釈できる。 用明天皇即位後も殯は続いていて、穴穂部皇子が敏達天皇の殯に乱入し…
こんにちは、暖淡堂です。 歴史で「飛鳥時代」について学びましたね。 推古天皇や聖徳太子、蘇我氏、物部氏などが登場する時代。 ただ、出来事の全体像を流れで理解することができないまま、人名や事件などを個別に覚えていました。 今回、伊東潤さんの「覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子」を読んで、飛鳥時代にあったことがようやく理解できました。 この時代を理解するための要点は「蘇我氏、推古天皇、聖徳太子」の関係を知ること。 この作品では、その辺りが詳しく書かれていています。 創作の部分も多いのでしょうが、登場するそれぞれの人物の関係はよくわかります。 また後に聖徳太子と呼ばれた厩戸が、皇太子となりながら、…
昨日に続き、東京都羽村市のJR「羽村」駅近くに位置する史跡について。 五ノ神社 五ノ神社は、昨日の「まいまいず井戸」と同じ敷地内にある。というよりも、本殿から見て正面に井戸がある。この配置は見事なまでにナルホドである。なんか、理屈抜きに強烈な説得力によって納得させられてしまう。 説明板 羽村市指定有形文化財 五ノ神社本殿 創建は推古[すいこ]天皇九年(六〇一)とつたえられる古社で、宝亀[ほうき]年間(七七〇~七八〇)、熊野五社大権現[くまのごしゃだいごんげん]を祀[まつ]ったところから、もとは熊野社と称し、五ノ神の地名が生まれたといわれます。 慶長十二年(一六〇七)の修理棟札にみえる「五辰宮」…