詩人(1895〜1975)
一八九五年、大鹿和吉・りょうの三男として愛知県に生まれる。本名は安和。
四歳の時に金子荘太郎・須美のもとへ(正式に養子となったのは七歳の時)。
早大英文、慶大英文科、東京美術学校各中退
作品
<こがね虫>、<鮫>、<人間の悲劇>などの詩集
<どくろ杯>、<ねむれ巴里>、<西ひがし>、<マレー蘭印紀行>等の海外放浪のエッセイー、紀行文
@@@@@@以下、原満三寿「評伝金子光晴」から
<光晴>のペンネームの由来は、詩人の上杉浩子『金子光晴の思い出』によれば、次のようなことであるらしい。「そのころ一時、姓名判断が大流行していて、彼もそれに影響されて名を選んだのだという。<光>の字が縁起がよいので光のついた名にしようと決めたが、すると後に続く字がむずかしくなった。本名の保和*1から和の字を採ると<光和>になるが、金子身付かず、に通じてどうにもよくない。光男は密談だし、夫とつければ密夫になる。結局<晴>の字に決めて光晴にしたという」
光晴と変えさせた姓名判断師はM君だというが、詩人易者の三石勝五郎であったろうか。中西悟堂によると、それは法名でもあったという。「その頃は僧籍に入れば本山から法名をくれる。それを添えて役場に届ければそれが戸籍場の本名となったもので、私の『悟堂』も法名である。そこで金子に一応俺の弟子となれとすすめ、師僧としての私から延暦寺へ届け、法名を光晴(こうせい)としたい旨の副書を添えて出したところ、間もなく本山から『法名光晴』という鳥の子の用紙の度牒(得度入籍の牒)と数珠一環が届いた。以来彼は大っぴらに光晴を名乗ったが、坊主になどなる筈もなく、光晴だけを物にした。役場へ届けたかどうかは知らない」(「悪友金子光晴と私」)
@@@@@@
一九七五年六月三十日、気管支喘息による急性心不全。その生涯を閉じる。享年八十一。
*1:光晴の戸籍上の名は安和である。ただ義父荘太郎が「安」の字を嫌ったために保和とよばれた