日本においては優れた科学史家&ジャーナリスト兼思想家でもあり、素晴らしく理知的で柔軟性に富んだ知識人として、夙に名が知られたアーサー・ケストラーであるが、この御仁の若いころの暗黒史を最近、知った。
まずは、公平を期すために彼の絶妙にして独創的な業績を称えたい。
『真昼の暗黒』はスターリン政権下の冷酷な監獄国家の姿をはじめて、西側諸国に知らしめた傑作ドキュメントである。これは皮肉にも彼の黒歴史に関係する。
『偶然の本質』は超心理学に新しい光を当てた。『創造活動の本質』はクリエイティブであることに関する包括的な研究だと信じている。また、『スリープウォーカー』は科学史の人物研究に新生面を開いた。
平和運動など他にも業績があるが、ここまでにする。
Wikipediaでの経歴や評価を参照されたい。彼はハンガリー系ユダヤ人。ドイツ共産党に所属していたことがある。
ティモシー・スナイダー『ブラッドランド』はロシアとウクライナの血に塗られた歴史を克明の記した歴史書だ。
彼の黒歴史はひとえにこの書物に基づいている。
ソ連の共産党政権下の大飢餓時代にケストラーはこう書き残したと同書は記す。
「(飢えた人びとは)働くより物乞いをしたがる人民の敵」
なかでもスターリンの食糧収奪により飢餓に落とし込まれたウクライナ人をケストラーは「食べるものもなくハエのようの死んでいく」と表現しただけだった。あっけらかんと無表情に事態を同情心のひとかけらもなく報じただけなのだ。
つまり、彼はより高い文明のために支払われる代償であり、意にも介さない態度こそが共産主義の勝利だと無邪気に信じていたわけだ。
ありゃりゃ、語るに落ちた「マルクス主義知識人」の典型だ。彼はナチズム批判をするのではあるが、スターリン時代のソ連は理想国への途中の姿としてケストラーは考えていたのだ。
『真昼の暗黒』を著したのはせめてもの贖罪だったのだろう。
今となっては、狂信的な知識人の時代であったと慨嘆するほかはない。
だが、同時代人のシモーヌ・ヴェイユは違った。トロツキーにもかみついた少女は、まことに健全な人間性を維持していたと思う。労働者の味方であった彼女の『工場日記』はただの見せかけの同情者ではないことを身をもって証明している。
彼女のような存在があってこそ、20世紀のヨーロッパは全体主義からの救いと浄化が可能であったのはないか?
そして、初期のケストラーはそうではなかったのは明らかだろう。後半生だけでをみて、あんまり買いかぶるのはよしたほうがいいわけだ。
ナチズムとの対峙はもちろんのこととして、それ以前にスターリンのソ連の本質を彼女は過たず見抜いていた。次の本はその事情を懇切丁寧に知らせてくれた。