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板垣退助

一般

板垣退助

いたがきたいすけ

天保8年4月17日(新暦1837年5月21日) 土佐藩士の子として生まれた。

藩主山内容堂の側用役から始まり、藩の要職を歴任。討幕運動に参加し、戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いで藩の大隊司令として出征、土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として会津藩などの攻略を行った。

 1867年に明治新政府の参与、1870年高知藩の大参事、1871年に参議となる。1873年に征韓論を主張するが破れて、西郷隆盛とともに下野。1874年愛国公党を組織し、後藤象二郎らと「民選議院設立建白書」を建議したが却下された。1875年に参議に復帰したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。

 1881年、10年後の帝国議会開設の詔が出されたのを機に自由党を結成して総理(党首)となるが、1884年に自由民権運動の激化で自由党を一旦解党した。

 1890年帝国議会開設後、旧自由党立憲自由党として再興し、翌年自由党に改称してその総理となった。1898年、対立していた進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である大隈重信内閣の内相を歴任した(大隈重信内閣は隈板内閣とも呼ばれる)。1900年、立憲政友会の創立とともに政界を隠退した。

 1882年岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷した際に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという説が流布しているが、実際には板垣はこのようなことは言っていない。この事件の直後、小室信介(案外堂)というジャーナリスト岐阜で行った演説の題名「板垣死ストモ自由ハ亡ビズ」が、板垣自身の発言として世間に広まったものである。