「新刊」裏倉庫 Twitter

2013-08-29

『羽生善治論』

インターネットを検索していたら、驚くべき事実を知ってしまった。と言っても、たいした話ではないのだが、昨年末あたりから、本書の著者で将棋棋士加藤一二三九段がテレビによく出ているらしいのである。将棋番組かと思えば、マツコデラックスビートたけしと共演しているというから腰を抜かした。70歳を超えたけど大丈夫かと思いながらも、youtubeで「加藤一二三 マツコ」と検索したら「加藤さん、結局、自分の自慢話ですね」とマツコとナインティナイン矢部浩之に突っ込まれている加藤一二三が出てくるではないか。正座しても、ネクタイが畳に着くくらい長く、対局中に前後ゆらゆら、駒をパシパシ空打ち。あああ、民放で「ひふみん」の雄志を見られるとは。といってもネットだが。テレビ全く見ないので知らなかったが。

そんな「おちゃめなおじいさん」ぶり全開の著者の新刊タイトルは『羽生善治論』。副題は「天才とは何か」。親交がある天才棋士羽生を中心に、中原誠谷川浩司森内俊之渡辺明、故人である大山康晴米長邦雄まで自らの対局経験から彼ら天才棋士に通ずるものは何かを探る。そして、天才棋士の中でも希代の名棋士である羽生は何が彼らとは違うのか。羽生羽生たらしめるものは何かを論じている。

まるで、レビューのようなことを書いてしまったが、もちろん、そんな無難な内容で終わるわけはない。著者が「ひふみん」なのだから。対局中に滝の音がうるさいと止めてしまう「ひふみん」である。対局中、ヒーターを相手に向けて「熱い」と怒らせてしまう「ひふみん」である。対局中、リモコンで温度を上げようと思って、部屋の明かりを消してしまう「ひふみん」である。普通に羽生善治を論じるわけがない。ひふみんファンはお見通しだろうが、本書は羽生善治を論じるとみせ、加藤一二三論なのである。

書き出しからしてひふみん節全開である。「はじめに」の一文目が「かつて私は、『神武以来の天才』と呼ばれた」である。確かに、14歳でプロ棋士になり、18歳で順位戦の最高峰A級にのぼりつめた。天才であることは間違いないが『羽生善治論』なのに加藤一二三論の様相をいきなり呈している。第一章になるとさすがの「ひふみん」も本の趣旨を思い出したのかまともな書き出しである。「まずは、羽生善治という棋士は果たして『天才』と呼ぶことができるのか、ということについて考えていきたいと思う」から始まる。

「そう!一般読者が望んでいたのはこの展開だ!」と思えたのは一瞬。その2行後は「ご承知のこととは思うが、何を隠そう、私もかつて『天才』と呼ばれたことがある」

さっき読んだよ!と突っ込みたくなるのは必至だが、これこそが「ひふみん」である。最初の16ページでこれでは先が思いやられる展開であるが、実際、この後も羽生の話をしていても、森内の話をしていても「私の場合は」とひたすら道がそれる。時には戻ってこない。「ひふみん」はまだまだ健在である。

アマゾンのレビューでは「タイトルほど羽生善治を論じていない」や「老人が書いた自慢話本」と低評価もあるが、評価はさておき、コメント自体はその通りである。そもそも、この本は、ひふみんファンのためのひふみん節全開の本だ。羽生について知りたければ、羽生善治『決断力』を読むべきである。

とはいえ、この楽しさを一部の「ひふみん」ファンだけで享受するのはもったいない気がするのは気のせいだろうか。是非、動く「ひふみん」をネットかテレビで見て興味を持ったら、本書を手に取ってほしい。ひふみんワールドから抜け出せなくなるのは必至である。

『指揮権発動』

指揮権発動 検察の正義は失われた

指揮権発動 検察の正義は失われた

「指揮権」。政治経済の教科書に出てくる「あれ」である。検察は独立性を保障されているが、法務大臣は個々の事案では検事総長を指揮できると検察庁法14条は規定している。過去に発動されたのは戦後一度のみ。1954年、世に言う「造船疑獄事件」で後の首相である佐藤栄作氏に対する逮捕状請求を当時の法務大臣が無期限に延期するように指揮した。その指揮権が実は50年以上の時を経て、昨年6月5日に発動される可能性があった。当時の法務大臣野田佳彦首相(当時)に指揮権発動を打診、準備を整えていたが、指揮を決めていた一日前の4日に解職される。「本当かよ」と思われる人もいるだろうが、本当だ。本書の著者は当時の法務大臣である小川敏夫氏なのだから。

小川氏が指揮権発動を決意したのは「小沢事件」に関する虚偽の捜査報告書問題に対する検察の対応の稚拙さからだ。「小沢事件」とは政治家小沢一郎氏の資金管理団体陸山会」の土地取引を巡る政治資金収支報告書の虚偽記載問題だ。かつて新聞やテレビでも毎日のように報道されていただけに、この事件に詳しい人は当段落をすっ飛ばして貰ってもかまわない。問題にされた事象は04年の報告書に土地購入を計上せず、05年に取得したと誤って報告したというものである。形式犯であり、通常ならば修正報告で済む事案らしいが、検察は元秘書の石川知裕氏を逮捕した上での起訴と異例の厳しい対応を迫った。というのも、検察側としては、誤った記載は小沢氏が土地購入資金の出元を隠蔽するために偽装工作したのでは見立てたからだ。親玉である小沢氏の起訴に向けて取調べは続いたが、その後、検察公判が維持できないと踏み、小沢氏を不起訴処分とした。だが、話は終わらず、市民で構成する検察審議会が二度に渡り起訴相当と議決する。その大きな判断材料となったのが、取り調べ検事が作成した捜査報告書だ。ところが、小沢氏の裁判の過程で石川氏の隠し録りにより、これがでたらめだらけの報告書と言うことが判明するから、事態は一変。焦った検察上層部は「担当検事の記憶違いで誤って報告書を書いた」というあり得ないような理由で決着を急いだが本書の著者の小川氏は「ベテラン検事がそんな間違いするか。許さん!」と指揮権発動を水面下で探るものの、解職されるに至るのである。

指揮権発動を検討するとは、どれほどでたらめだったのかが気になるところだろう。そこが本書の読みどころのひとつである。本書にはでたらめだらけの報告書、取り調べを一部隠し録りしたデータをテキスト化した文書の両方が掲載されており、読み比べられる。

もちろん、捜査報告書のずさんさは著者が本文内で端的に指摘しており、検察のめちゃくちゃな行動が白日のもとにさらされている。いずれの文書も読まなくても理解できるのだが、隠し撮りの文書は本書全316ページ中134ページもあるのだから嫌でもペラペラとめくりたくなる。私のような暇人にはたまらない。「検察は取調べ対象者からこのような誘導で言葉を引き出そうとしているのか」など敏腕検事の手の内を見られるだけで純粋に興味深い。ドラマ「HERO」の木村拓哉みたいな軽い検事はテレビだけかと思っていたけど、意外にフランクだし。「はっはっはー」とやたら笑うし。このやりとりを読むだけでも1890円を払う価値はある。

脱線したが、驚くべきなのはデタラメだらけの報告書の虚偽性だ。著者の指摘によれば、事実に基づかず作成された箇所は108行。報告書全体の8割に相当する。単語そのものは確かに発言記録としてあるが、全く異なる文脈で使用していたり、前後が矛盾なくつながるように、勝手に文章を作成してつなげたり、検事のクリエイティブな仕事ぶりに感心してしまう。スキルフロッピーディスク改ざんだけではないのである。また、本来、専門用語で作成するはずの報告書が簡易に書かれているのも興味深い。なぜか。検事出身の著者ならではの鋭い指摘が随所に見られ、頷かされる。

検察内部のパワーバランスや検察高官と著者のやりとりなど、事件を限りなく近くで見てきた著者だけに臨場感あふれる描写も多い。野田元首相との指揮権発動に関する会話も生々しい。指揮権と聞いて野田元首相が放った言葉は「50年ぐらい前に大騒ぎになったあれですか?」。やっぱり指揮権は「あれ」な存在なのである。

小沢氏の風貌からか、世間的にも小沢はクロのような風潮が強かった。この前も、新宿で仕事関係の人と飲んでいたら「小沢は絶対に悪いやつだ」と説かれた。確かにそう言われればそのような気はする。あんな風貌であのしゃべり方の上司がいたら出社拒否になるかもしれない。起訴されろと思うかもしれない。実際、こうした私のような市民感情を追い風に、狙いが大物政治家の小沢氏という背景も手伝って検察は自らの都合の良いストーリーに証言の断片をはめ込むという手法で無理を承知で見込みで突っ走ったわけだ。ストーリーに事実を当て込むのは検察並に得意とするマスコミを駆使して。今回は石川氏がテープを隠し撮りするというウルトラCで露見したが、さすがに対象が小沢氏だろうが、ヤクザだろうが報告書を捏造されては身震いしてしまう。著者は検察が本気になったらシロはクロくなるし、全てを闇に葬り去ることができることを示唆する。だからこそ声を上げたのだと。

残念であるとすれば、法務大臣の職を解かれたことの詳細については多くを語らないところか。ただ、舌鋒鋭い著者があえてそこに触れないところが、検察問題の根深さを逆に浮き彫りにしている。

2013-08-04

『ステーキを下町で』

ステーキを下町で

ステーキを下町で

ゴールデンウィーク(GW)に突入である。海に山に忙しい方も多いだろうが、HONZ読者ならば読書にも忙しいはずである。私もレビュー用にここぞとばかりに、アマゾンで『立身出世と下半身』という本をタイトル買いしたら、あらゆる意味で軽薄短小が売りのはずの私の元にタウンページのような厚みの本が届いたのが一週間ほど前。GWに入り、読み進めると、学生になぜセックスを推奨しないかのといった問題提起から始まり、明治時代の学生が丸裸にされて身体検査されていたりと、興味深くはあるものの、連日の陽気な天候と何とも対照的な内容に、ああ、どこかに行きたい、うまいものでも食いに行きたいと、現実逃避モード全開になったのが昨夜の午後。「本など読んでいられるか」とボヤキながらも積んどくタワーを崩して、ちょい読みのつまみ食いを続けていたら、つい引き込まれて最後まで読んでしまったのが本書である。

タイトルは『ステーキを下町で』だが、北は北海道から南は沖縄まで、食を求めて文字通り東奔西走した13編からなるエッセイ集だ。北海道豚丼青森県の鮟鱇、沖縄のそば。そして今や駅自体が一大観光スポットである東京駅構内の飲食店や都内の「餃子の王将チェーン店巡りまで。一編につき1−2ページ、『孤独のグルメ』で知られる谷口ジロー氏の漫画も掲載されており、「あぐ、あぐ」、「ごく、ごく」といった食いっぷり、飲みっぷりが食欲をそそる。ゴールデンウィーク後半にかけ遠出する人もそうでない人も持っていては損ではない一冊だ。

単なる食を巡る紀行集と言われれば、それまでだが、秀逸なのが著者の軽妙な文体だ。たとえば、「朝は大衆酒場、夜はスナック」という編。タイトルからして場末感たっぷりだが、一行目はこう始まる。

「酒は飲んでも飲まれるな」というけれど、「酒に飲まれなくてどうする」とも思う。

日本全国の泥酔者のうなずきが聞こえてきそうな書き出しである。そして、文学者で評論家の吉田健一の次の言葉を引用する。

ただ飲んでいても、酒はいい。余り自然な状態に戻るので、かえって勝手なことを考え始めるのは、酒のせいではない。理想は、酒ばかり飲んでいる身分になることで、次には、酒を飲まなくても飲んでいるのと同じ状態に達することである。球磨焼酎を飲んでいる時の気持を目指して生きて行きたい

個人的にはわかるようで、わからないような主張であるが、日本全国の泥酔者のむせび泣きが聞こえてきそうな珠玉の台詞である。著者は、球磨焼酎を飲んでいる時の気持には素面ではなかなかなれないが、この世には「飲んでいるだけで羽化登仙にいざなわれる場所が本当にあるのだから」と続ける。どこだよ。

この世の天国、それは東京のノースサイド、北区赤羽にある。名前を「まるます家」という。八年まえ、はじめて足を踏み入れた瞬間はいまだに忘れられないー(中略)ー(ここは極楽浄土か)

この世の天国が赤羽にあるというのだ。赤羽である。赤羽。初耳である。「まるます家」の開店は午前九時。昭和二十五年創業、初代店主が「俺が朝から酒を飲みてえ」と始めた店だという。この時点で、確かに、一部の人には極楽浄土である。朝っぱらからおじさんたちが鯉やうなぎをさかなに焼酎を飲む。たまらん。下戸の人には地獄でしかないだろうが。いや下戸でなくても引く人は多いだろうが、毛嫌いせずに本書を手にとって欲しい。生唾ごっくんで食べたく、飲みたくなるおススメ上手な描写が繰り広げられている。私の筆力だと引用の連続になってしまいそうなのでここでは多くを書かないが、おススメられ好きのHONZ読者ならば間違いなく、足を運びたくなるようなおススメぶりである。

赤羽編の場末感は本書の中では例外的な位置づけであるが、全編に共通する点もある。著者や同行する編集者の思い出がそれぞれの食に関わっているということだ。編集者が学生時代の恋人とすすったうどんを味わいに京都に足をのばし、著者が幼い頃には特別な食べ物だったビフテキの味を思い出し、肉を食す。料理の味や匂いの記憶は土地の記憶でもあるのだ。本書には訪れてみたいと思う店も満載だが、自分の記憶を辿り、昔訪れた店や土地にふらりと行きたくさせる一冊でもある。

『愛と欲望のナチズム』

愛と欲望のナチズム (講談社選書メチエ)

愛と欲望のナチズム (講談社選書メチエ)

女子プロゴルファーとの間に最近、第一子をもうけたかつてのトレンディー俳優が言ったかどうかは知らないが、今から約70年前のドイツナチスの幹部たちはこう叫んでいたはずだ。

不倫?何が問題なのさ?」

ナチズムと聞くと、抑圧的な政策を推進したことで広く知られる。伝統的な道徳観への回帰を説き、性に対する態度もそれは同じであったとの見方が支配的だった。純潔な結婚こそが民族の繁栄につながると主張して、スポーツなどを通じて若者に節制を学ばせてきたことからもそれは明らかだ。

ただ、当時の新聞や雑誌などでの幹部の発言などを丁寧に拾っていくと我々が想起するナチズム像とは別のナチズム像が浮かび上がってくると本書は指摘する。ナチズムは性に対しては抑圧的ではなく、むしろ開放的であったのだと。

それは『我が闘争』の中で純血を守れという趣旨の主張をしていたはずのアドルフ・ヒトラーの発言からも伺える。彼は内輪向けには保守的な道徳感に異議を唱えることが多かったが1942年3月には側近にこう漏らしているという。

“もっとも偽善的なのは『上層の一万人』だ。私はこの点について信じられないようなことを経験してきた。彼らは他人が婚外「交渉」をしたといって非難するが、自分は離婚歴のある女性と結婚しているのだ!・・・・・・結婚が自然の望むものの実現、すなわち偉大な生の憧憬の実現であることがいかに少ないか、考えてみたまえ”

性に対してヒトラーを始めナチス幹部が性に寛容だった理由のはひとつは人口政策。単純に性欲を肯定すれば子孫の増殖という彼らが言うところの「優秀な民族の繁栄」の機会は増える。ただ、重要なのはもうひとつの理由である。政治動員として性の利用だ。

抑圧された中、性的快楽を真っ正面から肯定することで、自らの政権の支持強化につなげたのである。性は生殖のためでなく、むしろ快楽装置として徹底的に活用したのだ。極論すれば、ヌードは氾濫し、若者は乱交に勤しむこともOK。不倫も目をつぶります。それがナチ体制下の性の実情だったのである

しかし、彼らの性への政治的介入は意図せざる結果ももたらした。外国人との性行交に励む女性や、イギリス風のファッションに身を包む青年があわられるなど性に限らず道徳全体が崩壊に向かう。

本書では一次情報をもとに議論を展開しているため、個々の話もおもしろいのだが、本書全体を通じては為政者が意図せざる結果とどう対峙するのかという現代にも通じる課題を我々になげかける。とはいえ、現代の日本の場合は意図せざるというよりもそもそも何も予期していない人が多そうだけど。

2013-05-13

『チャイナジャッジ』

チャイナ・ジャッジ 毛沢東になれなかった男

チャイナ・ジャッジ 毛沢東になれなかった男

2月6日、前代未聞の事件が起きた。中国重慶市の副市長の王立軍がアメリカ領事館に逃げ込んだ。地方政府とはいえ共産党幹部がアメリカに助けを求めたのだ。それも、女装姿で他人に借りたジープを駆って。

薄熙来に殺される」。

ハリウッド映画もびっくりの展開だが、これは当時の重慶市のトップだった薄熙来とそのファミリーが世界を震撼させる序章に過ぎなかった。王立軍が薄熙来不正蓄財や国家指導層まで対象とした盗聴、重慶市での冤罪事件の数々の証拠を抱えていたからだ。おまけに薄熙来の妻の谷開来が英国人二ール・ヘイウッドの殺人に関与している物証までも持参していた。

その後の展開は日本でも報じられたのでご存知だろう。公に出来ないことが多すぎるのか、話題は妻の殺人事件に集中。この殺人事件も真相は不明だが、「5000億円とも言われる不正蓄財のもつれで共産党幹部の妻がマネーロンダリングを委託していた英国人を殺した事件」という火曜サスペンス劇場もびっくりな陳腐なあらすじが用意されたため(実際、裁判はこの筋書き)、普段、中国の政治などスルーの日本でもワイドーショーが食いついたのは記憶に新しいはずだ。加えて、薄熙来と谷の息子でハーバード大学に留学中の瓜瓜が白人女性とたわむれるあられもない姿が世間を賑わし、その後、「中国の人気女優チャン・ツィイー薄熙来と一晩7500万円で援助交際」という出所不明の東スポ報道も過熱するなど、「さすがにそれはないだろ」という醜聞も聞こえてきた。だが、本書を読むとそれら報道への感覚は一変するだろう。薄熙来なら「ありえる」と。いや、「もっとエグいことをしているのは間違いないね」と思えてしまう。それほど彼の行動はぶっ飛んでいる。

本書は殺人事件を解明するという無理難題に実は挑んでいる。謎解きは興味がないという方も、その前提としての「薄熙来とは何者か」に迫る終盤までは読んでいただきたい。純粋に読み物として面白いの一語なのだ。薄一族を取り巻く現実は小説よりも小説らしく、映画よりも映画らしいのだから。冗談としか思えないような現実がそこにあるのだ。

薄熙来を語るのに欠かせないのが60年代半ばから70年代半ばまで続いた文化大革命。幹部が若者に軒並みつるし上げられたわけだが、当時、共産党の要職にあった薄一波に馬乗りして、飛び上がって蹴りを食らわして肋骨3本をへし折ったのが革命に燃えた息子の 薄熙来だ。負傷した一波は骨折しながらもこう思ったという。「こいつはいずれ国を背負う大物になる」。肋骨でなく、頭を強打した間違いなのではと読みながら思ってしまったが、この骨折事件が薄一族の天下取りの始まりであり、悲劇の始まりでもあったのだ。

薄熙来と切っても切り離せない 父親の薄一波は元副総理文化大革命後に長期にわたり小平と並ぶ権力を握った元老だ。本書が面白いのは 薄熙来の生涯を描きながら、文革後の中国政治を追体験できる点。薄一波と小平江沢民中国の行く末を決める駆け引きは何ともしびれる。天安門事件につながる決断を小平に下させたのも一波。そしてその背後にあるのは「 共産党体制を何としても維持し、薄熙来をトップにすえる」という私情。2007年に99歳で死去するまで暗躍しつづける一波の姿にはあきれるというよりも感心してしまう。

実際、将来を見込んだ息子への親父の猛プッシュは凄い。薄熙来文革で収監されるが娑婆に戻っても、職がなく、何とか機械修理工場に就職する。工場でも特にモチベーションが高いわけでもなく燻った日々を過ごしていたが、父親が1978年に名誉回復して、79年に副総理にまで登り詰めると躍進が始まる。躍進と言っても単なる親父の引きだが、その引きが凄い。全く勉強していないのに78年に北京大学にいきなり入学するとたった1年で学士を習得。政府シンクタンク系の中国社会科学院修士課程に進学、2年後には中共中央書記に就を得る。

一波の権力を考えれば、容易いことだろうが、面白いのはそれほど力があっても、その後の薄熙来の出世が早くなかった点だ。むしろ遅い。なぜかといえば、身勝手で偉そうなため周囲に嫌われ続けるのである。経歴を見れば明らかだが、北京のエリートコースから遼寧省の片田舎に突如派遣されたのだがそれっきり遼寧省に20年もいる。その背景にあるのが離婚。工場勤務時代に北京市書記を務めた共産党幹部である李雪峰の娘と結婚したが、薄熙来は親父の復権とともに自分が引き上げられると現在の妻の谷と浮気。「離婚したい」と言い出すのである。妻と李雪峰は当然激怒するわけだが、ここでも一波が司法に手を回して勝手に離婚を成立させてしまう。李は「おれの目の黒い内はあいつはゆるさん」とぶち切れ、さすがの一波もほとぼりが冷めるまでと息子を、遼寧省に配置したわけだ。ところが恨みは怖い。李は97歳まで生きてしまう。そのため、2004年まで帰れないという笑えない状況に陥るのである。

いきなり挫折しかかる薄一族の野望だが、薄熙来には人望のなさを補うだけの行動力があったから厄介だ。遼寧省に行っても「あいつとは口をきくな」と村八分状態に追い込まれるが、ヤクザに接近し、経済開発に走り、大連を「北の香港」と呼ばれるまでに発展させる。80年代末に当時の総書記趙紫陽がゴルフが好きと聞けば、趙紫陽の名前が入ったゴルフ場を作るし、趙紫陽が失脚するや何の恥じらいもなく名前を変える。時の最高指導者江沢民が何を考えているか気になって気になって仕方がなくなると、「そうだ」と思いつき盗聴する。単純というか大胆というか。

薄熙来は父親とは切り離せないが、本領を発揮するのは実は死後。北京に呼び戻され、商務部長(大臣)に抜擢され、本人は副総理の座が見えたと喜ぶが重慶市に飛ばされる。こいつは何をしでかすかわからないと薄々感じていた最高指導部が不正の洗い出しに動いており、証拠がどっさりあったからだ。

それでもへこたれないのが 薄熙来。直近にオヤジという後ろ盾がなくなり、一発逆転というか破れかぶれで、取り組んだのが、「唱紅運動」。毛沢東を讃える革命歌(紅歌)を歌おうという運動だ。貧富の差が拡大する中、「あの頃はみな平等で良かった」という大衆層に馬鹿受け。最高指導部の「個人崇拝は絶対に許さない。でも毛沢東は否定できない」という盲点をつき、3・5兆円もの金をつぎ込み、重慶市をまっかかに染めたのだ。もちろん、予算はなくなるので資産家から金を取り上げるのである。この間に600人の経営者冤罪で逮捕。資産を没収して数兆円の金を巻き上げる。政敵も次々と逮捕、場合によっては死刑にする。「俺は毛沢東になるんだ!!!!」。暴走する薄熙来とそのファミリーだが実は本人たちも気づかない落とし穴があった・・・。

冒頭にも書いたが、著者が最後まで疑問を持つのは薄熙来の妻の殺人動機。一族の個人資産だけで1兆円を軽く超える上に、いくらでも金を生み出す仕組みがある中、些末な金をけちって殺人を犯すのか。本書の終盤では一次情報や中文、英文ニュース、自らの取材をもとに、薄一族が中国では決して超えていけない一線を意図せずに越えてしまったのではないかと疑問を投げかける。ここではあえてその答えは明示しないが、それが中国のトップを目指していた薄の妻が殺人に手を染めてしまった理由であり、薄熙来が全ての公職を解かれる「チャイナジャッジ」を受けた真の理由ではないかと推測する。共産党幹部ならば不正蓄財は多かれ少なかれあるものだし、政敵をつぶすことなど朝飯前。「唱紅運動」は問題はあったが、政権交代前のごたごたを差し引いてもここまで厳しい処分はくだらないはずではないかと。最後の著者の仮説が正しいかは不明だが、今年上半期の話題を不思議な形で集めた薄熙来を通じて中国の政治原理を学ぶだけでも読む価値はある。出世のために、周りに嫌われても、時の最高権力者に気に入られることだけを目的に生き続けた薄熙来に焦点を当てることは暗部も含めた中国政治そのものなのだから。

『日本最強場 秘められた血統』

日本最強馬 秘められた血統

日本最強馬 秘められた血統

最後の直線で大外から並ぶ間もなく先頭に立ったとき、誰もが確信したはずだ。「勝てる」。それほど脚色は違った。あとはどれだけ2着以下を突き放すのか。競馬の世界最高峰のレースのひとつである凱旋門賞。日本馬が挑み始めて43年。日本競馬界は悲願の頂に登ろうとしていた。その10秒後にまさか「ぐおおおおおおおお」と声にならない叫びをあげるとは今となっても信じられないが。

10月7日の午後11時25分(日本時間)。凱旋門賞フランスロンシャン競馬場で発走した。地上波フジテレビ)で生中継があったことも注目の高さをうかがわせる。日本からは史上7頭目の三冠馬で現役最強馬のオルフェーヴルが出走。見せ場は十分だったが、惜しくも先頭とは首差(約80センチメートル)の2着に敗れ、日本列島が絶叫の渦に包まれたのだ。

これまでも日本場の凱旋門賞での2着は2度あるが、本日の紹介本『日本最強馬』を読むと今回の2着の持つ意味が異なることがわかる。「下町に昔からある定食屋」に著者がなぞらえるオルフェーヴルの血統が最大の理由だ。何だかマニアックな香りがしてくるが、安心して欲しい。本書が面白いのはタイトルを見事に裏切り、単なる血統解説本ではないところだからだ。日本の競馬界が長らく「血」の幻想に縛られすぎていたことや、オルフェーヴルの活躍が内需が縮む中、日本の場産地が世界に飛び立つ希望になっていることを指摘している点にこそ本書の本質はある。競馬に詳しい方には「何を今更」の記述もあるかもしれないが、凱旋門賞をみて「オルなんちゃらって凄いのね」と興味を持った人にも気軽に読める内容になっている。

サラブレッドが血で走る動物であることは間違いない。競争力の高い血統は繁栄し、逆ならば廃れる。またしても朝からマニアックな話になってしまうので簡略化するが、オルフェーヴルは父親も母親も母の父親も内国産馬だ。つまり日本で生まれた馬だ。日本で培ってきた血であるからこそ関係者の胸にぐっと迫るものがあるのだ。「定食屋」は言い過ぎかもしれないが、超一流とは言い難い血統であるのは事実だ。父ステイゴールドは大人気種牡馬サンデーサイレンスの産駒だが、競争成績は超一流には届かなかった。香港でG機憤貳岾覆高いレース群)を勝利したのも引退レースとなる50戦目。国内でのG犠,舛魯璽蹐澄J譴良磧メジロマックイーン天皇賞春を連覇するなどした歴史的名馬だが種牡馬になった時期がサンデーサイレンスの全盛期と重なり、十分な血脈を築く前に死亡する。そもそも日本古来の「古臭い」血統だ。実際、マックイーンを輩出したしたメジロ牧場は経営難ですでに40年以上の歴史に幕を閉じている。ただ、マックイーンはステイゴールドとの相性の良さで、母の父として再び注目を集めることになる。

本書によるとこれは戦後の競馬史を振り返れば何とも皮肉な話だという。二代(母方は三代以上)にわたり国内で育てた系譜が海外に打って出て好勝負を演じること自体が一昔前には考えられなかったことだからだ。というのも、前述のように日本では長らく「血」の劣等幻想に悩まされてきた時代があったからだ。つまり、「血統がダメだから勝てるわけがない。だから優秀な種牡馬を輸入しよう」を繰り返していた時期があったのだ。血統は確かに重要だが著者は、あまりにも血に原因を求めすぎたため内国産馬が冷遇される時代が長く続いたと嘆く。この極端の思想の背景には海外遠征での惨敗があった。

海外遠征の歴史は本書によると、1958年のハクチカラ米国遠征で実質的に始まる。惨敗が続いたが、59年に出走した重賞レースで米国の歴史的名馬ラウンドテーブルを負かしてしまうのだ。これに騒然としたのが日本の関係者。「勝てるんじゃない?」と遠征に火がつき62年に当時の天皇賞馬タカマガハラ、64年に宝塚記念有馬記念を勝ったリュウフォーレルと一流馬が米国遠征に挑むが相次ぎ惨敗。リュウフォーレルに至っては勝ち馬から30馬身(一馬身は約2・4メートル)も離された最下位に沈んだ。相次ぐ惨敗を受け、遠征熱が冷めたのもつかの間、欧州への遠征が69年に始まる。67年に米国遠征していたスピードシンボリ英国仏国のレースに挑戦。凱旋門賞にも出走するが見せ場もなく24頭立ての11着以下(当時は11着以下は記録していないという)に終わる。

大敗に終わるが、この遠征がひとつの転換点になったという。これまでの米国遠征はほとんどが招待レース。費用は相手持ちだ。一方、スピードシンボリなどの欧州遠征は自腹。オーナや騎手が世界に追いつけと私費を投じて、国内で走らせておけば賞金が稼げるものの負け続けながらも海外遠征を続けた。シンボリの生産者兼オーナーの和田共広が欧州遠征時の会見で語った言葉にその思いは込められている。「国内だけで競馬をやっていても意味がない−中略―日本だけが取り残されている現実を残念に思う」。もちろん、遠征だけでなく、海外馬の強さを目の当たりにしたことで海外種牡馬も手当たり次第に買うようになるわけだ。

こうした種牡馬の積極輸入は現在の競走馬の確実な底上げにつながった面もあるが、皮肉なことに日本の血は劣っていないという証明も実は早い段階で証明されていたと著者は指摘する。一時期は世界一の高額賞金レースとなったジャパンカップJC)の創設だ。81年に始まり、最初の2年の惨敗を受け、「10年は勝てない」と言われたものの、83年の第3回で日本馬が2着に入り、84年にはカツラギエースが勝ってしまった。実際、JCの歴史を見れば、その後も、血統は一流とは言えず格下と思われていたオセアニア馬や香港馬が活躍したことが「血統で劣るから勝てない」が全てではないことを裏づけていると本書は指摘する。血も重要だが、輸送技術や調教、育成などのノウハウこそが足りないという認識が広まっていったわけだ。

ただ、「血」だけではないということがわかりつつも、80年代以降90年代半ばまでは海外遠征は下火になる。「海外で勝てない」という事実もあったが、それ以上に80年代末の日本競馬の予想外の盛り上がりが大きい。バブルの追い風もあり、日本の賞金が高額化。「リスクを負って海外に遠征する必要がない」と急速に「内向き」になる。

現在、多くの馬が再び海外遠征に出向くのは国内の賞金が下がったわけでも、「血が劣っていない」証明が済んだからでもない。関西のトップ調教師の一人である森秀行氏は海外遠征の意味を「外国に出向いて日本馬は強いんだなということを示し、日本の競馬競走馬を送り込んでもそう簡単には勝てないことを、海外にアピールすることです」と語る。鎖国を続けた日本のレースも開放の圧力に晒されて徐々にではあるが海外に門戸を開き始めている。著者は競馬の自由化とともに海外遠征の意味がロマンではなく自らの生活を守るものへと変化しているのだと説く。そして今、海外に挑戦する意味はもう一つの意味も持つ。オルフェーヴルのような内国産馬が活躍すれば、日本の場産地にも海外から目が向く。これから国内の競馬産業が急成長を遂げることは考えにくいことを考えれば競走馬だけでなく、馬産地もデビュー前の馬の売買で今以上に海外を視野に入れるしかない。海外遠征の活発化は地盤沈下が進む馬産地の光明につながる可能性もあるという。

日本馬で初めて凱旋門賞に挑戦したスピードシンボリは24頭立ての11着以下に沈んだ。着差は不明だ。72年に挑んだメジロムサシは19頭立ての18着に終わり、着差は20馬身以上だったという。それから40年。内国産の星、オルフェーヴルは首差届かなかったものの、かつて詰めるのは難しいと見られていた20馬身の差をほぼ詰めた。本書を読めば読むほど熱きホースマンの情熱と無念が20馬身差を詰めたことがひしひしと伝わってくる。欧州優位の最高峰レースで内国産馬が「世界で戦う」だけでなく「世界に勝てる」ところまできているのだ。我々の「ぐおおおおおおおお!」が悲しみの絶叫から歓喜の雄叫びにかわる日も遠くない。

2013-01-13

お買い物

年末に読んで面白かった非ノンフィクション



つい買ってしまう『ゴルゴ』。全3編のうち、2編が放射能がらみのネタ。08年の連載作品ですが。



64(ロクヨン)

64(ロクヨン)

かなり前から話題ですが、積読で年末にようやく読了。私の周りは横山嫌いが多いですが、そんなん知らん。



ルック・バック・イン・アンガー

ルック・バック・イン・アンガー

エロ本出版社のお話。2、3日、立ち直れないくらいの衝撃。こういうのが小説なのだろう。



ぬけまいる

ぬけまいる

アラサー3人組女の伊勢参り。珍道中は痛快。一気読み。



国を蹴った男

国を蹴った男

伊東さんは短編の方が面白い気がする。



火口のふたり

火口のふたり

著者名だけで買う数少ない一人。

『空洞化のウソ』

空洞化のウソ――日本企業の「現地化」戦略 (講談社現代新書)

空洞化のウソ――日本企業の「現地化」戦略 (講談社現代新書)

企業取材を仕事とするため、経営者に会うことは多い。国内の雇用に対する考え方を聞くことも少なくない。自分でも陳腐な質問だなと思うが、企業の生産拠点の海外移転に伴って国内の雇用縮小などを指す「空洞化」という言葉を一ヶ月に一回は使っているかもしれない。

空洞化」について個人的に強い関心を持っているわけではない。本音を言えば、相手の答え方次第では記事の見出しが立ちやすいから聞いてしまう。そうは言っても、相手も相手で用意された想定問答集があるので、オンレコの場では「国内の工場は守る」といったことを話すのである。「○×工場閉鎖」などの見出しは簡単には立たないのである。いわば、営業マンが「今度、飯行きましょうよ」と投げかけ、相手は「おまえなんかと行くか、ボケ」と思っていても、「いいですねー、是非」といった答えるのと同じような予定調和なやりとりがあちこちの取材の場でも不毛にも展開されているのである。

こうした流れが少しずつ変わってきたのはリーマンショック以降だろうか。オンレコの場でも、超意訳すると「世界で戦っているのだから何で日本でだけモノをつくりつづけなければいけないのだ。別に国内を軽視するわけではないけれども」と声高に叫ぶ大企業経営者もちらほらと増え始めた(もちろん直接的にこう話す人は少ない)。それでも大マスコミは企業の海外の新工場建設が発表されると、国内製造業の先細りに警鐘を鳴らしまくるのである。

本書はこうした空洞化に対する危機感のあおりに統計などを使って冷静に反証する。「空洞化はウソだ。海外に出て行く現地化でしか生き残れない。それこそが国内も含めてハッピーになる処方箋だ」と著者は語りかける。3章構成で1章が空洞化について2章はいかに新興国に進出して現地化を進めるか、3章が総括になっている。

実際、空洞化を証明する研究論文統計はない。むしろ、統計や実証研究はアジアへの進出が進んでいる企業ほど国内の雇用も増えていることを結論付けているという。現地化が進めば国内本社は海外法人をサポートする部署や研究開発部門の人員を拡大する必要性に迫られ、雇用が増えるというわけだ。

それでも「海外進出空洞化」という議論は都市伝説のように、亡霊のように産業政策につきまとってきたという。こうした間違った見方が日本の産業を萎縮させ、成長を妨げかねないと著者は指摘する。すでに貿易収支(貿易の輸出入の差分)と所得収支(海外投資から得られた配当や利子)が逆転して久しいことを踏まえれば、加工貿易で国を支えているとの認識は改めるべきである。制度的にも「貿易立国から投資立国へ」と変貌していくのは自明だと著者は説くが変化が遅いのが実態だ。

著者は、本筋から逸れた突っ込みを続ける抵抗勢力の存在が日本の産業政策の変革や企業の意識の遅れにつながってきたことを示唆する。本書では具体的な言及はないが、その本筋から逸れた突っ込みというのが「生産の海外移転が進めば、大手企業の地方の工場がつぶれるのでは。そこに勤務している彼らはどうするの」といった類のものだろう。実際、国内大手企業の製造拠点が拡大する可能性は今後極めて少ない。むしろ、大手企業の人員削減や工場閉鎖の報道が年初以降、相次いでいる。もちろん、対策は必要だし急務な問題だが、こうした問題が話題になればなるほど議論の本筋が見えにくくなる。なぜなら人員削減や工場閉鎖がテレビや新聞をにぎわす業界は、海外移転というよりもビジネスモデルや構造不況が原因だからだ。海外移転の結果、もたらされる雇用減「空洞化」ではないのだ。

官僚である著者がグランドデザインを描いても、今後もこうした抵抗は予想される。著者は手遅れになることを懸念する。もたもたしていたら身動きがとれなくなると。だから、勝手に飛び出していきましょうと企業にエールを送る。日本の仕組みを変えるには外から変えるしかありませんと強烈なメッセージをこめて。

現地化に関する記述では新興国戦略で参考になるようなモデルケースを数多く紹介している。筆者がインドやタイに赴任して、海外企業の現地化を間近で見てきたため、取り上げる企業も国際色や規模がさまざまだ。国の産業のあり方というマクロ的な視点に加え、豊富な事例で著者の議論を裏付けした現地化というミクロの視点を内包したことで、本書は一般論に終始しがちな「よくある経済本」と一線を画すことにつながっている。

2013-01-12

『サブカル・スーパースター鬱伝』

サブカル・スーパースター鬱伝

サブカル・スーパースター鬱伝

サブカルライターであり書評家であり、「プロインタビュアー」を名乗る吉田豪サブカル業界人10人に迫ったインタビュー集だ。雑誌「クイック・ジャパン」の連載をまとめたもので、インタビュー対象はリリー・フランキー大槻ケンヂ松尾スズキみうらじゅん菊池成孔など一定の知名度があると思われる人から杉作J太郎など一部のマニアには熱狂的に受けそうな人まで。狭いのか広いのかわからない人選だが、彼らが著者の取材に対して共通して口にするのは「サブカル男は40歳あたりで鬱になってきた」という一言だ。元の連載のテーマが40歳を目前に控えた著者が「サブカル人は40歳を過ぎると鬱になるというが本当かを業界の先輩に聞く」であるため、当然といえば当然の返答なのだが、我々が想像する以上に揃いも揃って悩みが深いのである。

お洒落なミュージシャンのイメージが強い菊池成孔は、駅前の喫茶店で友人と待ち合わせをしていたら「あっというまに全裸になっちゃったんですよ」と何事もないように語る。「ズボンのチャックは開けて、ずっとハーハー言ってる」と自然に振り返るが、間違いなく状況次第ではアウトである。いや完全にアウトである。結果、「自分は絶対に罹らない」と思っていた神経症と診断される。

オカンと僕がどーした、こーしたで小説が爆発的に売れたリリー・フランキーは文章が書くのが嫌になり味覚障害と睡眠障害になり、何もやる気が起きなくなったという。著者の「その時期は主に何をやっていたんですか」という問いに「オナニーだね。酒飲んでオナニー」と答える。「小学生か」と突っ込みたくなる受け答えだが、インタビュー全体のトーンからして間違いなく自慰を繰り返しているような気だるさがつたわってくるので真実なのだろう。

インタビュー対象の10人が鬱(もしくは鬱らしき状態)になった詳細は本書に譲るが、彼らが共通して抱えるのはサブカルという傍流の出自の若造がテレビ出演などメディア露出を経ていつのまにか本流もしくは本流に近いところに組み込まれてしまったというジレンマである。そして、年月を経て段階的に業界でのポジションが上昇して40歳前後で下手すると大家扱いされることによってその居心地の悪さはMAXになり、鬱につながるというわけだ。

その居心地の悪さを絶妙に表すのが本書のタイトルだ。本書内で言及はないがサブカル人の思いを汲んでいる。「サブカル・スーパースターってなんだ。サブでスターって矛盾してないか。俺らは単なるサブカル人だぜ」と。単に梶原一騎原作の漫画『プロレススーパースター列伝』をパロっただけではないのである。

居心地の悪さに敏感であるということからもわかるように、著者はインタビューを通じてサブカル人の大半はサブカルに対する負い目だけでなく自意識過剰が強いことを浮き彫りにする。リリー・フランキーを筆頭に何人かが語っているがサブカル人は体育会系のように「高級車買って、綺麗なオネーチャンを側にはべらして」では満足できないのである。なんとも悲しい話だと個人的には思うのだが、世間的な成功をしても喜べないのである。別に誰も見ていないのだが。

逆に言えば、恥じらいと自意識過剰の強さがサブカルの原動力であったのは間違いないだろう。ありもしない視線に耐え、必死に背伸びをして、おそらく自らの強い意思などなく、いくつものタイミングが重なり世に出てきたのである。自らを計算高くプロデュースするなどできそうもない旧世代の彼らが世に出たのも時代性だろう。そして今、サブカルという言葉がかつてほど勢いがないのも時代性だろう。サブカル人が恥じらいもなくアイドルオタクを公言する時代にサブカルも何もないと著者は指摘する。

面白いのは、巻末の著者と編集者との対話。11人のインタビューを経て(10人+総括で取材した香山リカ)、著者はサブカル人が鬱になる理由をあれこれ挙げるのだが、腑に落ちないらしいのだ。それは各人の生い立ちが違うのだから、括れないのが当たり前なのだが、評論家の町山智浩(本書には登場しない)の「結局、みんな女性問題なんだよ!!」というちゃぶ台をひっくり返すような言葉を引いてくる。小金持って、浮気して、家族がぼろぼろになるから、鬱になって壊れると。「確かに」と思ってしまうが、こうなると、完全にサブカルが関係ない。永田町スーパースター鬱伝でも良い気がしてくる。

その通りなのである。理由は人それぞれにせよ、サブカル人でなくても迷いまくる時代なのだ。喫茶店で全裸になることはなくても、40歳になっても悩むのである。孔子の時代とは違うのである。そう考えると、本書を「どんなに順風満帆でも40歳付近でリズムが狂ってくる10人にインタビューしている本」として読むと楽しみ方も変わってくる。「40歳になるとおかしくなるのか」まではいかないでも「大変だろうな」という危機感は誰しも持っており、そこをうまーく突いたインタビュー本になる。実際、紹介されているサブカル人にはほとんど興味がない私でも最後まで読み進めてレビューまで書いてしまう引力が本書にはあるのだ。