不定期で消失日記

2018-03-07

「何かに〈ついて〉」考えるという事が全て「違う」のかもしれない(ノート201802#1)

ポプテピピックでパロディとはなんだろうという(パロディと一口にいってもいろんなタイプがあるよなあ…そもそもそれって「パロディ」なのか?というような)方向に考えるというのならいいが、パロディという概念でポプテピピックを考えるというのは何か順番が逆ではないかと思ってしまう。何かを考えるために作品があるのであって、作品を何かで考えるというのはどうなのだろう。作品「へ」向かうベクトル…作品を楽しむことが目的地であるというのは違うのではないか。「作品に〈ついて〉」考えるということが、もとより、「何かに〈ついて〉」考えるという事が全て「違う」のかもしれない。

2018-02-28

ノート201801#1 既視感

既視感を感じさせない作品が、改めて振り返ってみて新しいものに満ち溢れているかというとそういう事はない。新しいと主張出来るところがない事もないが、概念操作で新しいと主張出来るような新しさなら既視感だらけの作品にもあるだろう。既視感を感じるかどうかは、見ている対象の道具立て(「要素」に分解されるような)とは関係がないのだと思う。

ノート201801#2 作品・状況・問題

作品はどうしてこういう風にしか問題にならないのか。そもそも「問題」というのが違うのか・・・

作家は状況論をやっていても話(仕事)にならない。作品を「状況」の中に置き直すのは評者の仕事。また、面白いから状況に置けるのであって、状況に置けない作品がつまらない/置ける作品が面白いという事はない。

ノート201801#3 映像作品において言葉によって与えられた…

映像作品においても素っ気なく言葉によって与えられたものによって空間の把握の仕方が影響を被る事もあるのだから、言葉も音も捨象して考えることは出来ない。

ノート201801#4 語りかけるように書かれたもの

「語りかけるように書かれている」と思える小説が好きなのだが、自分の中には家族や友人が実際に語るような「生の語り」だけでなく、特撮・アニメのようなある種「大仰な語り」も息づいていて、だからこそ流れるようなリズム感とは遠いつっかかりのある文体(例えば大江の小説のような)を「語っているように書いている」ものと読めるのではないか。

ノート201801#5 対象・接近

対象に接近する事で対象を見極められるというロマンティシズムを捨てなければならない。対象が対象として選別されているということに既にひとつの歪みがある

2017-12-31

2017年のテレビアニメ ベスト

細かいコメントは各ツイートのスレッドをご覧ください(スレッド化してるツイートの個別埋め込みがうまくいかない…)

2017年 良かった文

2017-07-12

繰り返し見る・読む・聴くことの価値

「見る・読む・聴くたびに〈発見〉がある」から「再読(再視聴)の価値がある」作品だというような言い方が好きではない。それ(作品)を見る・読む・聴くという体験に含まれるある「こと」が再体験によって立ち上がる(「こと」を再読によって立ち上げる)ことに再読の価値があるのであって、〈発見〉という、体験の不定形に耐えきれずに作品から静的な(死んだ)要素(それは例えば「問い」に代表される)を抽出して作品と等価においてしまう、惰性の翻訳行為のために再読(再視聴)というものがある訳ではない。

2017-05-25

画面が「繋がっている/繋がっていない」「もっている/もっていない」

青山真治が対談で最近の大河ドラマを画面が全然繋がってないと言っていてどんな基準で言ってるのか気になってしまった(「誰が誰を見てるのか分からない」という基準はひとつ挙げられているのだが、どうもそれだけではない気配が漂っているのだ…)のだが、万田邦敏が木下恵介の映画について画面の繋ぎが全く気持ちよくないので好きになれなかったという事を言っている評論にて、「画面が繋がっている/繋がっていない」ことの基準に関して「気分で測って許される事ではないが、かなりの部分、気分である事も確かだ」という趣旨の事を言っていて、頗る感覚的な部分を基準にしているのだなあと思ったと同時にその潔さに嬉しくなってしまった。

「画面が〈繋がっている/繋がっていない〉」に近い言い回しで、「画面が〈もっている/もっていない〉」というのもある。

青山真治の映画にも万田邦敏の映画にも最後まで「画面がもっている」感じがある。なんだか基準はよく分からないが画面が「繋がっている」「もっている」ことに敏感に反応している人たちが撮っている映画が、なんだか基準はよく分からないが画面が「繋がっている」「もっている」感じがする映画になっているという事実は頼もしいものがある。

2017-05-17

泉鏡花・中心・小説の運動

泉鏡花集成 8』(ちくま文庫)を読んでいる。泉鏡花はやはり比喩の人で、例えば『木の子説法』でいえば「茸-男根 茸の柄-乳房」というのがあるのだろうが、かといってそういう比喩的なところは、あるいは比喩的なところに限らずある構図のようなものは、鏡花の小説のなかで決して「中心化」しないようになっている。

比喩に限らず泉鏡花の小説は「中心」のようなものが見出されかけた瞬間畳み掛けるように終わることが多い気がして、それは「中心」が発見されてしまった瞬間「小説」という運動は運動をやめるということに自覚的であるかのようでもある。

2017-01-17

田中小実昌『ないものの存在』に引用されていた三木清『哲学入門』の断片

行為は運動である。しかしそれは水が流れるとか風が吹くとかという運動と同じに考えることはできぬ。それらの運動は客観的に捉え得るものであるが、行為は、それをどこまでも客観的に見てゆく限り、行為の意味がなくなってしまう。行為は単に客観的に捉え得ぬ主体的意味をもっている。行為の対象であるもの即ち客体は、私が何を為すにしても、つねに既にそこにある。私が今この手帳を取ろうとする、そのときそれは既にそこにある。かように客体はつねに「既に」という性格を担っている。客体の担うこの過去性は、普通にいう過去と同じでない。この手帳は現にそこにあるのであり、現在そこにあるものをも「既に」そこにあるものとするのが行為の主体的立場である。また未来に属するものも、見られたもの、考えられたもの、知られたもの即ち一般に客体としては、既にそこにあるということができる。このようにして客体はすべて或る根源的な過去性を担い、いわゆる過去現在未来に属する一切を既にそこにあるものとしてこれに対するのが主体である。主体はいかにしても既にそこにあるとはいい得ぬものであり、真の現在である。この現在は、過去現在未来と区別される時間の秩序における現在でなく、それを超えた全く異る秩序のものである。この現在においてあることによって、過去も未来も現在的になる。過去や未来が我々に働きかけるというのも、この現在においてである。それは過去現在未来が同時存在的にそこにおいてある現在である。行為は既にそこにあるといい得るものでなく、既にそこにあるのは為されたものであって為すものではない。行為はつねに現在から、普通にいう現在とは秩序を異にする現在から起るのである。行為が主体的なものであるというのはそのことである。かくして行為は過去をも未来をも現在に媒介する、そこに行為の歴史性があるのであって、我々のすべての行為は歴史的である。

(三木清『哲学入門』)

2016-12-28

2016年のテレビアニメ傑作回を振り返る

鬼斬』 第3話 「博多炎上」

何がシン・ゴジラだ、こっちは全長570mだぞ。立ち向かう対策本部が行き着いた作戦は、限られた時間の中で襲来怪獣の性質を的確に分析したうえで立案されたことにおいてヤシオリ作戦に勝るとも劣らない。宙吊りにされたワインボトルに(で)乾杯。「有効物質の経口投与」という意味ではシン・ゴジラと同じ。

ロボットアニメパロディ回(第12話「気焔万丈」)も秀逸で、特撮パロをやってもロボアニメパロをやっても結局鬼斬が優勝という2016年の現実。「OPアニメーションなるもの」のおよそ全てが詰め込まれた完璧なOPアニメーション(&曲)もあいまって、今年の「作品賞」というのを選ぶならぶっちぎりでこの『鬼斬』だろう。


ラクエンロジック』 第4話 「自由か束縛か」

「遮るものの」と「くぐり抜ける/ほどくもの」と置かれていく言葉とが絶え間なく交差して生み出される運動=アニメーション。

これついては前に書いたのだけではいささか心残りなのでもう一度まとめて何か書こうと思ったけど、結局年内には書かなかったね…。こんなにも凄いのにほとんど話題になってなくて(1〜3話も結構凄いのに…)「分かっちゃいたけど、世界のアニメジャーナリズムは"死んで"るんだよねェ…」ってなった。「今年作られた」「アニメーションで」と絞らずとも、今年見た映像作品の中でベスト。作品総体として見ても8話まではやっぱり凄いと思うんだけどなぁ。7話の入浴シーンは今年のベストオブアニメ入浴シーンだろうし(『アンジュ・ヴィエルジュ』は入浴"シーン"とかいう問題でもないので)。


この素晴らしい世界に祝福を!』 第4話「この強敵に爆裂魔法を!」

「こちら」「向こう」…距離と反復のドラマ。これは作品自体が放っといても割とみんな面白いって言ってるやつなので、改めてあんまり言うことを思いつかない(逆になんでこれゾンとかはダメなの?って訊きたくなる)。作品を通してのコメントになってしまうけど、エロい事との距離感が絶妙というのはあると思います。


アンジュ・ヴィエルジュ』 第10話「零れた想い」

"「特別訓練はこれにて終了である!」""「"状況"を開始する!」"

世界=浴場から締め出されていた姉妹の挿話が挿話である事を止め、全ては湯けむりへ(弾丸は湯の中へ)と融解する…。(今年じゃないけど)『Z/X IGNITION』『ラクエンロジック』そしてこの『アンジュ・ヴィエルジュ』…TCG世界観(=非プレイヤードラマ)アニメに駄作なし。いいね?

※追記(ツイート引用)

Bloodivores』 第4話「犠牲」

なかなか人の姿が現れないファーストシークエンスにおいてはじめて現れるそれは、ドアの隙間から差し出される破片に映し出されたものだった…。美しいシークエンスから始まったエピソードが、やがてこの作品のトレードマークたる鈍くさくて生命力のある(鉄パイプが支えきれなくなって反動で吹っ飛ぶまでの流れなど)アクションへと流れ込む。4〜5話の1個のグレネードの行方を巡ってああいう風に見せていくのとか、「そう、これなんだよ!」という感じでほんとに凄い。

そして(この回のラストのホテルのシーンとか)作品を通してひたすら堆積していく、話や主題の根幹に関わっているのか単に瞬間的にエモくしたいだけなのか、とにかく何に機能させるつもりなのか皆目検討がつかないが故に予定調和的な機能を超越してしまっている(ように見える)無償のムーブメントの数々。これを前に、俺(視聴者)たちはどうすればいいんだ…。活路は己で切り拓け。「見る事は冒険だよ」その事を改めて教えてくれたBloodivoresもといハオライナーズに感謝。


まとめ

その他『霊剣山』1話、『CHAETING CRAFT』6話なども結構凄かった。

こうしてみると今年は4話が凄いアニメが多い年だったのだな。

2016-12-07

作品を「問い」に変えずに「ここ」に踏みとどまること


作品について、本当は「"ここ"(ある具体的な、画面・音・言葉の連なり/広がり)が良かった」というだけの感想がもっと言われていいのだといつも思う。しかし「"ここ"が良かった」というだけの感想は、単にそれだけでは、言表の資格を持たず、「ここ」が「どう」「なぜ」良かったかにまで早急に踏み込まなければならないと多くの人は思い込んで(思い込まされて)いる。さらに言えば、「"ここ"が良かった」というだけの感想より、「どう」「なぜ」良かったにまで踏み込んでいる感想の方がある種の「重み」を持つと強く思ってすらいる。

結果、「どう」「なぜ」に応える為に作品という具体的な連なり/広がりを収まりのいい構図=「問い」の形に配列変換していくだけの行為が横行してしまう事になる。

「ここ」に踏みとどまり、「ここ」を掴むことに向き合った結果の混濁した苦闘の記録は、作品を整理し「なぜ」「どう」にきっちり応えたクリアな言説よりも重みを持つのではないか。

「どう」「なぜ」に踏み込まず(作品を「問い」に変換せず)、「ここ」(ある具体的な、画面・音・言葉の連なり/広がり)に何があったのかを掴む地点に踏みとどまること。確固たる足場は期待出来そうもない。作品をめぐる全ての「問い」には「さあ?」と応え続けなければならないし、他人に作品を通して感じた事をクリアに伝える事も諦めた方が良さそうだ。

具体性のある事が何も言えなくなってしまうような気もするのだが、作品にある画面・音・言葉の連なり/広がりが「在った」ということを確かに指し示すことは、それだけでひとつの具体性なのではないかと思う。むしろ作品を「どう」「なぜ」という問いに応えるために、体のいい構図に配列変換する態度こそひとつの抽象性に他ならないのではないか。しかし「在った」(在る)とは何なのだ?

2016-11-23

クラーナハデュシャンベケット


ちょっと前にクラーナハ展(これまで問答無用で「クラナッハ」だと信じていたのにこれからはどっちの呼称を使えばいいのだろうか)を見て来たら、デュシャンのスケッチ(?)が2枚ほど展示されていた。デュシャンについてはちくま文庫のインタビュー本を一冊読んだ(良かった)だけで、これにはクラーナハについて何か言ってるような所はなかったので、まさかデュシャンの何かがここで展示されているとは思わなかったのだった。

展示を通して感じた事だがクラーナハはある種の「軽さ」(「軽薄さ」というと侮蔑的なニュアンスが入ってしまうような気がするのでこう言っておく)によってモチーフを決定しているのではと思える所が多分にあり、そういう所がデュシャン(や今回同じ様に展示のあったピカソ)のような、同じくある種の「軽さ」がモチベーションになっている(ように思える)創作者には響く部分があったのではないか…と勝手に思う。

同じ頃ちょうどベケット『モロイ』を読み始めていたのだが、そこに凄い「何か」があるようでしかし単にふざけているだけなのでは…という風なスレスレなテキストの連発で素直に格好いいと思ってしまった(有名なのはおしゃぶり用の石をしゃぶるくだり)。20世紀初頭〜中盤に尖ったものを創ってた人たちの作品は、時に単にふざけているようにしか見えなくもないような、そんなスレスレの事に極めて真剣な面持ちで取り組んでいるような所があって素敵だ。そこには異様な律儀さとある種の軽さが共在している。