qfwfqの水に流して Una pietra sopra

2016-06-17

ゲイブリエルとグレタを乗せた馬車がオコンネル橋を渡る





 昨日16日、ブルームズデイにちなんでジョン・ヒューストンの『ザ・デッド』を観た。以前BSで放映されたものの録画で、二度目か三度目かの再見になる。見直して新たに気づいたことなどについて二、三書いてみよう。

 ストーリーは簡素だ。二人の老嬢姉妹ケイトとジューリアそれに姪のメアリーの三人が例年催す舞踏会に招かれた縁戚の者や知人たちのダンス、ディナー、会話。そして宴の果てた後の一組の夫婦の、妻の回想をめぐるささやかな諍い。ヒューストンジョイスの小説を、幾つかの科白をふくめてほぼ忠実に映画化しているといっていい。

 原作にヒューストン(シナリオは息子のトニーが担当し、オスカーにノミネートされた)が付け加えた場面は幾つかある。その一つ、酔っぱらいのフレディがいつものように遅れてやってきて、先に来ていた母親に問いただされる。「委員会の会合があって」とかなんとかしどろもどろに言い訳するフレディに、母は「会合? どこでかね。マリガンのパブでかい?」と皮肉を言う。観客をにやっとさせる『ユリシーズ』へのアリュージョンである。

 大きな改変は、メアリーのピアノ演奏が終わった後に、グレイスが詩を長々と朗読する場面が挿入されることで、これは原作にないエピソードである。朗読するのは、Lady Augusta GregoryのDonal Og。「レディ・グレゴリーがアイルランド語から翻訳したBroken Vowという詩である」とグレイスは朗読の後に注釈をつける。元はアイルランドに伝わるバラードで、グレゴリー女史はアイルランドに伝わる民話、伝説、バラードを英語に翻訳してアイルランド文芸復興に寄与した人。W.B.イエーツととともにアビー・シアターを設立し、多くの芝居を執筆した*1

 グレイスの朗誦が終わると、居並ぶ老若男女は、初めて聴いたこの詩への称賛を口々に唱える。「バラードにするといいね」という人までいる始末。ヒューストンはなぜこの場面を付け加えたのだろうか。おそらく当時のダブリンの独立運動、アイルランド人のアイデンティティ、といった背景への言及だろうが、当時の歴史的状況に疎いので確かではない(民族主義者のアイヴァーズ嬢にゲイブリエルがからまれる場面が小説にも映画にも登場する*2)。

 そしてもう一つ。ジューリアがベッリーニ歌曲「婚礼のために装いて」を朗唱する場面で、カメラは階段をゆるやかに上り、二階の室内に入ってテーブルの上の蝋燭立て、小さな民族人形、写真立ての肖像写真などの事物を次々に映し出す。そして一枚のタペストリーに縫い取られた文字――Alexander Popeの詩句に焦点を合わす。二人の老嬢のいずれかの持物だろう。あるいはそれは親の代から伝わってきたものであるのかもしれない(ポープの引用の意図はさまざまに解釈できるだろう)。


 Teach me to feel another’s woe,

 to hide the fault i see,

 that mercy i to others show,

 that mercy show to me.


 ゲイブリエルとグレタを乗せた馬車がオコンネル橋を渡る。深い闇の中にいくつものガス灯の明かりが靄に滲み、川面に照り映えている。静謐で譬えようもなく美しい場面。そしてグレシャムホテルに着いた二人は部屋に落ち着くが、グレタはなにかに憑かれたように物思いに耽っている。


 ――グレッタ、ねえ、なにを考えてるんだい?

  返事もなく、腕に身をまかせるでもない。もう一度、やんわり言った。

 ――言ってごらんよ、グレッタ。どうかしたんだろ。違うかい?

  彼女はすぐには答えなかった。それからわっと泣き出して言った。

 ――ああ、あの歌のこと考えてるの、オーグリムの乙女のこと。

  彼女は身をふりほどいてベッドへ駆け寄り、ベッドの柵上へ腕を十字に投げ出して顔をうずめた。

         (柳瀬尚紀訳「死せるものたち」、新潮文庫『ダブリナーズ』所収)


 「オーグリムの乙女」は舞踏会の最後にダーシーの歌った歌である。グレタは階段の上に立ち尽し、部屋の中から聞こえる歌声に耳を傾けていた。それは、若き日のある青年との永遠の訣れを思い出させる歌だった。

 ジョイスはグレタが「わっと泣き出し」たと書いているが、ヒューストンはそうは描かない。グレタは哀しみに耐えている。肺病で死んだ青年マイケルとの思い出を語るうちに感情が激してくる。そしてベッドにからだを投げ出して嗚咽するのである。感情の機微についてはジョイスよりもヒューストンに一日の長がある。The Deadを書いたとき、ジョイスは25歳だった。80歳を過ぎたヒューストンが若きジョイスに「ほら、このほうがいいだろ?」とウィンクしているようである。

 ちなみに、しんしんと降る雪の場面を観ていて、わたしはある小説の雪の情景を幾度も思い出していた。その小説、アン・ビーティのIn the White Nightにも、ある雪の降る夜、パーティがお開きになったあとの一組の夫婦の小さな諍いが描かれていた。ずいぶん昔読んだ小説なので確かではないけれど。ビーティもあの小説を書くときにThe Deadが頭にあったのだろうか。


追記(6.18)

In the White Night を探し出して再読した。「小さな諍い」ではなかった。愛する者を失った哀しみがいまなお生々しく現前するというところに共通するものがあった。その哀しみを浄化するかのように雪が降りしきるという情景においても。


ダブリナーズ (新潮文庫)

ダブリナーズ (新潮文庫)

*1https://www.theguardian.com/books/booksblog/2010/apr/19/poem-of-the-week-lady-augusta-gregory

*2:結城英雄は訳書『ダブリンの市民』(岩波文庫)の解題で、ヒューストンは「ポスト・コロニアルの視点で映画化したが、ミス・アイヴァーズを中心に据え、見事である」と記している。

2016-05-12

緑色をした気の触れた夏のできごと――村上春樹訳『結婚式のメンバー』





 以前書いた「MONKEY」の村上春樹・柴田元幸対談「帰れ、あの翻訳」*1で予告されていた「村上春樹・柴田元幸 新訳・復刊セレクション」が「村上柴田翻訳堂」として刊行され始めた。第1回の配本がカーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』(村上訳)とウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(柴田訳)。今月2回目の配本は、フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』とトマス・ハーディ『呪われた腕 ハーディ傑作選』の2冊。前者は集英社文庫、後者は新潮文庫(『ハーディ短編集』)を復刊したもの。

 『僕の名はアラム』は、短篇のそれぞれにドン・フリーマンの挿絵がついていて、原著を踏襲したものだろう、素朴で味わいのある雰囲気を醸している。ここでは『結婚式のメンバー』についてすこし書いてみよう。

 読み始めてちょっとした違和感をおぼえたのだけど、そのわけはすぐに思い当った。ああそうか、チャンドラーだな…。清水俊二訳でチャンドラーに親しんだものにとって、村上春樹訳のチャンドラーは著しい違和感をもたらしただろう。だれもが、「ええっ、これがマーロウ?」と思ったはずだ。これも以前ここに書いたけれども*2、村上訳は、原文に忠実であること、表現の細部を疎かにしないこと、に特長がある。そうすることによってかつてのマーロウのイメージは一新されたが、それがより本来の姿に近いマーロウなのである。

 『結婚式のメンバー』の翻訳も同じく、村上春樹は原文に忠実に、ディテールを正確に訳すことに専心している。The Member of the Wedding には先行する二種の邦訳がある。渥美昭夫訳『結婚式のメンバー』(中央公論社、1972)と加島祥造訳『夏の黄昏』(福武文庫、1990)である*3。わたしの「ちょっとした違和感」の所以は加島祥造訳にある。冒頭を写してみよう*4


 「フランキーが十二歳の夏は、不思議な奇妙な季節だった。今年も彼女は一人きりだった。どこのクラブのメンバーでもなかった。毎日ひとりで、戸口のあたりでぶらぶらしていた。フランキーは不安だった。六月の緑の色はあざやかだったのに、真夏になるとにわかに黒ずんでくる。強い日射しの下で、何もかもが濃く縮んでしまったのだ。それでも初めのうちは町じゅうを歩きまわった。どこかに何か用があるような気がした。

 朝と夜、町は灰色でひんやりしている。しかし日中は太陽の光がおそろしく強く、道路は溶けてガラスのように光った。しまいに両足が熱くてたまらなくなり、気分がわるくなった。いっそ家にいた方がましだった。ところで家にいるのは、ベレニス・セイディ・ブラウンとジョン・ヘンリ・ウェストだけだ。(以下略)」 (加島祥造訳『夏の黄昏』)


 短いセンテンスをたたみかけて、きびきびとしたリズムのある訳文だ。手練れの翻訳家の手になるものとわかる。村上春樹訳だとこうなる。


 「緑色をした気の触れた夏のできごとで、フランキーはそのとき十二歳だった。その夏、彼女はもう長いあいだ、どこのメンバーでもなかった。どんなクラブにも属していなかったし、彼女をメンバーと認めるものはこの世界にひとつとしてなかった。フランキーは身の置き場がみつからないまま、怯えを抱きつつあちらの戸口からこちらの戸口へとさまよっていた。六月には木々は明るい緑に輝いていたが、やがて葉は暗みを帯び、街は激しい陽光の下で黒ずんでしぼんでいった。最初のうちフランキーは戸外を歩き回り、あれやこれや頭に思いつくことをやっていた。街の歩道は早朝と夜には灰色だったが、昼間の太陽がそこに釉薬(うわぐすり)をかけ、焼けついたセメントはまるでガラスみたいに眩しく照り輝いた。歩道はついにはフランキーの足が耐えられないほど熱くなり、おまけに彼女はトラブルを抱え込んでいた。なにしろたくさんの秘密のトラブルに巻き込まれていたので、これは家でおとなしくしていた方がいいかもしれないと考えるようになった。そしてその家にいたのは、ベレニス・セイディー・ブラウンとジョン・ヘンリー・ウェストだけだった。(以下略)」 (村上春樹訳『結婚式のメンバー』)


 一見しておわかりのように、村上訳は加島訳にくらべて三割がた長い(文庫本の頁数もそれに応じて三割がた多くなっている)。一つのセンテンスも長く、したがって、ややもったりした感じを受ける。要するに文章に「キレ」がない。これは、チャンドラーの村上訳と清水訳とを比べた時の感じとまったく同じである。だが、訳文のセンテンスが長いということは、原文の一語一語を省略せずに訳出している、ということでもある。原文を見てみよう。


It happened that green and crazy summer when Frankie was twelve years old. This was the summer when for a long time she had not been a member. She belonged to no club and was a member of nothing in the world. Frankie had become an unjoined person and hung around in doorways, and she was afraid. In June the trees were bright dizzy green, but later the leaves darkened, and the town turned black and shrunken under the glare of the sun. At first Frankie walked around doing one thing and another. The sidewalks of the town were grey in the morning and at night, but the noon sun put a glaze on them, so that the cement burned and glittered like glass. The sidewalks finally became too hot for Frankie’s feet, and also she got herself in trouble. She was in so much secret trouble that she thought it was better to stay at home – and at home there was only Berenice Sadie Brown and John Henry West.


 それはグリーンでクレイジーな夏に起こった、という書き出しで始まる。すこしあとで、6月には木々が目もくらむような鮮やかな緑に輝き、とあるのでgreenは葉っぱの色だとわかる。だから加島訳は冒頭のgreenを省略し、その代りに「不思議な奇妙な季節」と、訳者の(この小説から読み取った)「主観」で染め上げる。あるいは、greenのあとにsummerが続けば、それは木々の緑を意味することが明らかなので省略したのかもしれない。村上訳は律儀に文字通り「緑色をした気の触れた夏」と訳している。

 それに続く加島訳は「今年も彼女は一人きりだった。どこのクラブのメンバーでもなかった」と、原文の順序を入れ替えている。村上訳は原文通り。フランキーの「不安」(加島訳)「怯え」(村上訳)は、彼女がunjoined personであることに起因している。自分の居場所がなく、誰からも承認されていないという寄る辺なさが、アドレッセンスにある少女を捕えているafraidの正体なのである。ここは原文通りの順序がいいだろう(「ここは」というのはヘンだけど)。次の加島訳「どこかに何か用があるような気がした」はまったくの「意訳」。あれをやったりこれをやったりするけれど、心ここにあらず。本当にやるべきことはほかにあるはずだけれど、それが何かはわからない。そんな感じですね。だれにも覚えがあるにちがいない。

 「太陽がそこに釉薬をかけ、焼けついたセメントはまるでガラスみたいに眩しく照り輝いた」は、いい比喩。村上春樹調といってもいいかもしれない(逆ですけど。村上春樹は、浴びるほど読んだ外国の小説からこうした比喩を学んだのである)。加島訳は、比喩は無視して「太陽の光がおそろしく強く」と至極あっさりした調子。その次も「気分がわるくなった」とあっさり処理しているけれども、これでは日射病か熱中症にでもなったみたいだ。気分がわるいのは焼けついた歩道のせいばかりではない。それにもましてトラブルを、「たくさんの秘密のトラブル」を抱えていたからである。ここは(ていうか、ここも)原文をはしょらないほうがいい。

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 と、こうやって小説の冒頭を原文とふたつの訳文を対照しながら見てくると、加島訳のきびきびとしたリズム、キレのよさは、原文を多少なりとも損なうことで得られたものだということがわかる。清水俊二訳チャンドラーと同じである。ただし加島訳は、村上春樹が清水訳をさしていった「細かいことにそれほど拘泥しない、大人(たいじん)の風格のある翻訳」というよりも、「確信犯」という感じがする。原文に忠実であることより、読者にとって読みやすい翻訳が「いい翻訳」であるという信念のようなものを感じさせる。どちらがいいかは「好みの問題」なのかもしれないけれど、わたしは原文に忠実に(はしょることなく)訳したものが好きです。


 さて、マッカラーズの『心は孤独な狩人』の映画版(邦題『愛すれど心さびしく』)をBSで見ることができた*5。原作の深みには及ばないが、主役の一人である少女ミック役のソンドラ・ロックが素敵だ。初出演のこの映画でオスカーにノミネートされたらしい。映画が撮影された時は20歳ぐらいのはずだが、ちょっと見には男の子のような「亜麻色の髪をしたひょろ長い十二歳ばかりの少女」をよく演じている。ミックはフランキーであり、少女時代のカーソンでもある。

 『結婚式のメンバー』の文庫カバーには、映画でフランキーを演じたジュリー・ハリスとベレニス役のエセル・ウォーターズの間にはさまれたマッカラーズの写真が使われている。ペンギンブックス版のカバーはこんなのです。『心は孤独な狩人』のソンドラ・ロックにちょっと似ている。いずれもcoming-of-age storyであり、バルテュスの少女のイメージもどこか揺曳しているようだ。

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上は『心は孤独な狩人』のソンドラ・ロック

下はバルテュスの Thérèse dreaming, 1938

*1id:qfwfq:20151115 ついこないだのことだと思ったら、もう半年前になるんだね。歳月は蹄の音を残して走り去る…

*2id:qfwfq:20070414

*3わたしの知るかぎり、この二種。渥美訳以前にも、あるいは邦訳があったのかもしれない。加島祥造は福武文庫のあとがきで、「これは以前に『結婚式の仲間』と訳された」と書いている。渥美訳『結婚式のメンバー』は、書棚を探したけれど、どこかに埋もれたのか、引越しの際に処分したのか、見つからない。

*4:「MONKEY」対談の注で、柴田さんは「マッカラーズの書き出しはいつも印象的である」と書いている。

*5:フルムービーをYouTubeで見られるんですね。知らなかった。『結婚式のメンバー』も。どちらも字幕はついてませんけど。

2016-03-30

時計の針はゆっくり流れる砂のよう…





 O様

 昨日は終日氷雨が降りしきっていましたが、今日は一転して朝から快晴。窓の向かいの樹林が暖かな陽射しをあびてきらきらと輝いています。風に吹かれて小梢がゆらゆらとダンスを踊り、葉鳴りがひそひそと何かをささやきかわしているかのようです。ナボコフが「暗号象徴」で書いたように、それは葉っぱたちの発信する秘密の暗号のようにも思えます。ナボコフも日がなうっとりと樹木のダンスを眺めていてあのお話を思いついたのかもしれません。 

 氷雨のなか、村上春樹のいう「雪かき仕事」の打合せで久しぶりに神保町へ出かけてきました。うちの近所にも書店はあるにはあるのですが、コミック・雑誌・実用書がほとんどで用をなしません。神保町で東京堂書店をのぞいて久方ぶりに渇を癒しました。三階の文学書のコーナーへ行くと、ペーター・フーヘルの分厚い評伝が平台に積まれていました。おお、こんな本が出ている! 数年前にフーヘルの詩集がやはり300頁ほどの上製本で出たときも驚きましたが、それも東京堂の同じコーナーの同じ平台で見つけたのでした。

 『ペーター・フーヘル詩集』は小寺昭次郎の訳*1で『詩集』『街道 街道』の二冊の詩集が収録されています。小寺昭次郎はエンツェンスベルガーの『現代の詩と政治』*2の訳者で、以前、そのなかの「自由の石」というエッセイに引用されているネリー・ザックスの「新しい家を建てるあなたたちに」という詩をメールに引用したことがありましたね。まるで3・11の後に書かれたような詩。もう一度、ここに掲げてみます。


 あなたが家を新しく建てるなら――

 あなたのキッチン、ベッド、机、椅子を――

 消えていったあのひとたちを悼む涙を

 石に

 柱に、懸けてはならない、

 あのひとたちはもうあなたとともに住むことはないのだから――

 そうでないとあなたの眠りのなかに涙が落ちる、

 あなたがぜひとらねばならぬ短い眠りのなかに。


 ベッドにシーツを延べるとき、ため息をついてはならない、

 そうでないとあなたの夢は

 死者たちの汗とまじってしまう。


 ああ、家も家具もひどく敏感なのだ、

 風琴のように、

 あなたの苦しみを育てる畑のように。

 だからあなたに、塵埃にひとしいものを嗅ぎつける。


 建てなさい、時計の針はゆっくり流れる砂のよう。

 だがわずかな時の間も、泣きつづけてはならない、

 光をさえぎる

 塵埃とともに。


 こうして書き写していても、哀しみと諦念を押し隠して自らを励ます福島の人たちの顔が浮んでくるようです。アドルノは、アウシュビッツ以後、詩を書くことは不可能であるといったけれども*3、この命題を否定できる数少ない一人がザックスである、とエンツェンスベルガーは書いています(「自由の石」)。

 ザックスのこの詩は『死の住みかで』という詩集の一篇です。死が「その家の主」となってしまった強制収容所を主題としたこの詩集には、ヨブ記の一節がエピグラフに掲げられています。――わがこの皮、この身の朽ち果てんのち、我肉を離れて神を見ん、と。

 そういえば、ネリー・ザックスの詩集*4もフーヘルの詩集と同様、上製単行本で出ていて、いずれもそれほど多くの読者を期待できない本がこうして商業出版物として刊行されるということに(そしてそれをきちんと並べておく書店があるということに)一筋の光明のようなものをおぼえたことでした。


 ペーター・フーヘルの評伝は、土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』*5という400頁ほどの本。まだあちこち拾い読みしただけですが、フーヘルの詩の翻訳と原詩とを随所に引用しながら、かれの生涯と生きた時代を描こうとするもので、あまり詳しくない戦後ドイツの文学事情を理解するうえで大いに役立ちそうです。

 フーヘルは1903年、ベルリン近郊に生れ、1930年、週刊文芸紙「文学世界」で詩人としてのデビューを果たします。フーヘルの投稿した詩を読んだ編集長兼オーナーのヴィリー・ハースが「天から巨匠が降ってきたかと思った」といったほどですから、鮮烈なデビューといっていいでしょう。

 フーヘルは出征し、45年4月、壊走するドイツの部隊を逃れてソ連軍捕虜となり、収容所で文化活動に従事します。ドイツの敗戦で、英米仏ソによって分割占領・共同統治されたベルリンへ戻りますが、フーヘルはソ連占領区のベルリン・ラジオ放送局ではたらくことになります。占領地区におけるソ連の文化政策(とくに西側に対する文化宣伝)にとってフーヘルは絶好の人材であったわけです。

 ここで思いだすのは、以前、リヒターの『廃墟のドイツ1947』にふれて書いた「47年グループ」のことです*6。リヒターはアメリカ軍の捕虜となり、収容所で発行されていたドイツ人捕虜向けの新聞「デア・ルーフ」に寄稿したりしますが、ドイツへ帰国後、アメリカ占領下のミュンヘンで同名の雑誌「デア・ルーフ」をアンデルシュとともに発行し、やがてそれが47年グループの創設につながってゆく。つまり、フーヘルはソ連軍の捕虜となり、リヒターやアンデルシュはアメリカ軍の捕虜となったことが、その後のかれらの人生と文学に決定的な影響をおよぼすわけですね。

 フーヘルは1948年、『詩集』という名の第一詩集を上梓します(32年に出版を準備していた『少年の池』という詩集は刊行されず、そこに収録されるはずだった73篇のうち、18篇が『詩集』に採録されました)。49年に文芸誌「意味と形式」が創刊され、フーヘルは編集長を務めます。ブレヒトを「雑誌の顔」として正面に押し出し、エルンスト・ブロッホルカーチクラウスらを常連執筆陣に迎えて「ドイツとヨーロッパの文学と芸術の伝統をマルクス主義の立場から解釈し直す仕事によって雑誌に骨太な骨格を形成した」(土屋洋二)のです。

 西ドイツの作家、とりわけ若い世代の作家たちを起用することはフーヘルの望むところでしたが、思うようにことは運びません。ここには(ここにも)「文学と政治」の問題が横たわっていました。すなわち党指導部=文化官僚は文学(芸術)を政治に従属すべきものと考えていたのです。「社会主義リアリズム」というやつですね。

 47年グループとフーヘルとの接触は一度、54年の会合にリヒターからの招待状が届いたときだけです。その会合で参加者からフーヘルに東ドイツの体制について質問が出され、フーヘルは「硬直した東側の画一的見解に固執した」と西側メディアは報じたそうです。「国家から財政支援をうける芸術アカデミー機関誌」(同前)の編集長が、他国で「秘密警察の暗躍する東ドイツの体制」を批判できるわけがありません。フーヘルの盟友エルンスト・ブロッホ(20歳ほど年長ですが)は、「党指導部によって反革命分子の烙印を捺され」、ライプツィヒ大学の教授を解任されて61年、西ドイツへ移住します。フーヘルもまたその翌年に「意味と形式」の編集長を解任されて、秘密警察の監視下に軟禁状態を余儀なくされました。フーヘルも71年に東ドイツを出国し、10年後に西ドイツのシュタウフェンで亡くなります。


 フーヘルの評伝を見つけたということをお伝えするつもりが、思いがけなく長くなってしまいました。最後に、フーヘルがブロッホの70歳の誕生日に献げた詩を一篇、掲げておきます。これは「意味と形式」に掲載されたものですが、ブロッホの主著『希望の原理』もまた「意味と形式」に断続的に連載されたものでした。

 土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』には、訳詩と原詩、そして詩の詳細な解読があり、それはこの献詩を理解するのに有益ではありますが、ここでは小寺昭次郎の訳で引用します。『ペーター・フーヘル詩集』は小寺の遺稿(の一部)で、かれにいますこしの時間が残されていたらフーヘルの全詩集を自らの手でまとめることができたかもしれません。1950年代から小寺昭次郎と文化運動をともにしてきた古志峻は、巻末の解説でこう書いています。「小寺昭次郎は、高原宏平らとともに、「ドイツ・グループ」で、フーヘルをはじめて読んでいらい、フーヘルへの関心は終生かわらなかった。そしてそれは、戦後、DDR(ドイツ民主共和国)において、内外の風圧に耐えぬき、「ひととひととの間に距離をなくすものではなく生かす友情」(ブレヒト)のために闘ったフーヘルの精神の根源への共鳴でもあったといえよう」と。


     献詩――エルンスト・ブロッホのために


 秋と、霧の中で次第に明るさを増す太陽、

 そして夜空には火の形象(すがた)。

 それは崩れ、流れる。きみはそれを保持せねばならぬ。

 切り通しの道ではいっそう素早く野獣が入れ替わる。

 遙かな年からの木霊のように

 遠くの森を越えて一発の銃声が轟く。

 再び目に見えぬ者らがさまよい、

 川は木の葉や雲を追い立てる。


 猟人(かりうど)はいまや獲物を引いて帰ってゆく、

 松の枝のようにこわばった角を。

 沈思する者は別の形跡を探る。

 木から金色の煙が立ち昇る

 その切り通しの道をかれは静かに通り過ぎる。

 時は刻々と過ぎ、秋風によって研ぎすまされた

 思想は鳥たちのように旅立ち、

 そして多くの言葉がパンとなり塩となる。

 宇宙の大きな気流の中で、

 冬の星座がゆっくりと上空へ昇るとき、

 かれは予感する、夜がなお黙していることを。

                (小寺昭次郎訳)


ペーター・フーヘル: 現代詩への軌跡

ペーター・フーヘル: 現代詩への軌跡

*1:『ペーター・フーヘル詩集』小寺昭次郎訳、績文堂、2011年

*2エンツェンスベルガー『現代の詩と政治』小寺昭次郎訳、晶文社1968年

*3:「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とも。

*4:『ネリー・ザックス詩集』綱島寿秀編・訳、未知谷、2008年

*5:土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』、春風社、2016年

*6id:qfwfq:20151012

2016-02-26

あ、猫です――『翻訳問答2』を読む





 片岡義男鴻巣友季子『翻訳問答』については以前ここで書いたけれども*1、その続篇『翻訳問答2』が出た。今回は趣向をあらためて、鴻巣さんと5人の小説家の対談という形式になっている。奥泉光円城塔角田光代水村美苗星野智幸がそれぞれ、吾輩は猫である竹取物語、雪女、嵐が丘アラビアンナイトの英訳、英語原文を和訳して、それについて語り合う(星野智幸は『アラビアンナイト』英訳のスペイン語訳からの和訳)。

 『猫』の冒頭の奥泉さんの訳文が「あ、猫です」。わお!これには意表をつかれた。「I am a cat.を見て、ふつう「吾輩」とは訳さないですよ」と奥泉さん。仰るとおり。前回、『翻訳問答』について書いた際に、柴田元幸さんの『猫』訳と、それに附されたこんなコメントを紹介した。「原文を知らずに訳していても、この猫の個性が見えてくるうちに、「吾輩は猫である」という訳文にいずれたどり着いたかもしれない、とも思う」。それは小説全文を読んでこの小説のvoiceを聞き取ればの話で、たかだか冒頭1頁ほどの英訳から「吾輩」は出てきようがない。

 わたしが意表をつかれたのは、吾輩はどこへ行っちゃったの、ということ以上に「あ」の一語にある。幕が上がり暗転した舞台にスポットライトが当たると男がひとりそこに立っていて、客席に向かって、いま初めてお客さんに気づいたかのようにいう。

 「あ、猫です」

 そんな感じ。その軽さの由来を奥泉さんはこう述べている。「I」がとても小さく見える、と。「「吾輩」という表現は当時の政治的な文書によく見られるもの」で「政治主体を表す一人称「吾輩」が猫であることの落差で、このテクストはでき上がっている」と。仰せのとおりである。しかるに、英訳は以下のごとし。

 I am a cat; but as yet I have no name. Where I was born is entirely unknown to me. (translated by Kan-ichi Ando)

 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。/どこで生れたか頓と見当がつかぬ」は、近代小説の書出しとしては最も有名なものの一つである。だれもが脳のヒダヒダにこびりついているといってもいい。奥泉さんにこの「I」がとても小さく見えたのは、きっと漱石の原文と(脳内で)比べたからにちがいない。つまり、『猫』が大仰な一人称とそれをあやつる猫との落差ででき上がっているのと同じように、ここには漱石の戯文と平明な英文との落差がある。だから「吾輩」に比べて「I」がとても小さく見えたのだろう。この英文から「吾輩」は導き出されない。だが、原文の意図を斟酌した英訳も可能ではあるまいか。「かえるくん、東京を救う」を英訳したジェイ・ルービンさんなら、あるいはマイケル・エメリックさんならもう少しちがった英訳になっただろう。Kan-ichi Andoさんには失礼な言い方だけれど*2。ちなみに、前回『翻訳問答』で紹介した『猫』の講談社英語文庫版の英訳( translated by Aiko Ito and Graeme Wilson)では冒頭の一文はI AM A CAT.と大文字になっている。鴻巣さんは村上訳『キャッチャー』風文体の「キャット・イン・ザ・ライ」と牝猫風文体の「わたし、猫なんです」の二種。


 さて、まだ『猫』の冒頭、鴻巣・奥泉対談では最初の3頁ぐらいにしかすぎないが、この調子で紹介していると日が暮れる*3。急いで、わたしがこの本でもっとも感動したみごとな訳文を挙げておこう。角田光代さんの「雪女」の訳。まずはその箇所の英文を(もちろんラフカディオ・ハーンの原文である)。

 The white woman bent down over him, lower and lower, until her face almost touched him; and he saw that she was very beautiful, ――though her eyes made him afraid.

 鴻巣さんはシナリオ風とノーマルの二種、以下はノーマル・バージョン。

 「白づくめの女はだんだんと屈みこんできて、とうとう顔と顔が触れそうになった。そうして見ると、女はたいそう美しい――とはいえ、なにやら眼(まなこ)が恐ろしい」

 次に、角田光代さんの訳。

 「白装束の女はゆっくりと、美濃吉を押しつぶすように、顔が触れるくらいまで屈み、そして美濃吉は、その瞳に震えながらも、女がとてもうつくしいことに気づいた」

 さて、この箇所の角田訳を「綺麗ですね」という鴻巣さんにたいし、角田さんは「自分で書いておいてなんですが、感じ悪い文章です」と応えている。


 角田 ここは句読点でブツブツ文章を切りたくなくて、ひと続きの文章にしました。でも改めて読んでみると、書き手が「どうじゃ!」と自慢している気がして嫌な感じがしますね。こうして読者として読むと、これを書いた人に「いい仕事したと思い上がってるんじゃないの。文章を入れ替えてうまくやったと思ってるでしょ!」と言いたくなります(笑)。

 鴻巣 ドヤ顔が思い浮かぶと(笑)。

 角田 ただ、「女は美しいと気づいた。でも、その目が怖かった」とはしたくありませんでした。


 原文は、女の美しさを言い、そのあと目におののいたと続けている。「角田さんは美しさを後にしてそっちに焦点をもっていってますね」という鴻巣さんの指摘に、「訳しているときは深く考えませんでしたが、改めて考えてみると私はやっぱり顔が綺麗なことを書きたかったんだと思います。私にとっては、瞳が恐ろしかったことを強調した訳文があることじたいが新鮮でした」と角田さんは応えている。翻訳者は原則的に原文の語順を変えない場合が多いが、ここは小説家の直感がみごとな訳文を生んだというべきか。角田さんがこれを自慢気だというのは、ある種の小説的ケレンによる美文だからだろう。だが小説にはときに外連も必要である。度を越すと嫌味で下品になるが、ここぞというときにもちいると絶大な効果をあげる。

 文体におけるそうした外連のひとつに文末の体言止めがある。先の対談で、奥泉さんは「名詞で文章を終えるのは、日本語としてはリスキーなんです。なんというのかなあ、安っぽい印象になる危険性をはらんでいる。ただ、僕はわりと体言止めは好きなんです」と仰っている。大西巨人も「現代口語体における名詞(体言)止め」*4という文章で、「「現代口語体」における名詞止めの採用ないし多用がしばしば文の体(すがた)をいやしくする」(「雅文〔文語体〕」においてはなかなかそうではない)と書いている。そして鏡花や一葉の例を列挙するのだが、ここでは一例のみ挙げておこう。


 「トタンに衝(つ)と寄る、背後(うしろ)へ飛んで、下富坂の暗(やみ)の底へ、淵に隠れるように下りた。行方(ゆきがた)知れず、上野の鐘。」 (泉鏡花「親子そば三人客」)


 「その名詞止めによる締め括りは、水際立ってみごとである」と大西巨人は評している。角田さんの如上の訳文も、水際立ってみごとである。


翻訳問答2 創作のヒミツ

翻訳問答2 創作のヒミツ

*1id:qfwfq:20140720, id:qfwfq:20140727

*2:奥泉さんは「英訳文を読んで、よく訳されているなと感心しました」と仰っているけれど。

*3:「日が暮れてから道は始まる」と仰ったのは足立巻一である。

*4大西巨人編『日本掌編小説秀作選 下』花・暦篇、光文社文庫、1987。但し、この元版であるカッパ・ノベルス版にはこの文章は収録されていない。

2016-02-11

炎上する花よ、鳥獣剝製所よ――矢部登『田端抄』





 矢部登さんの『田端抄』が開板された。龜鳴屋本第二十二冊目*1。矢部さんが出されていた冊子「田端抄」については三年ほど前にここで触れたことがあるが*2、「田端抄」全七冊から三十篇、それに新たに四篇を加えて構成したと覚書にある。巻末に木幡英典氏撮影による田端界隈の写真帖が附されている。奥付に貼附された検印替りの村山槐多水彩画「小杉氏庭園にて」とともに心憎い編集である。ちなみに未醒小杉放菴旧居は、矢部さんのお住まいから「歩いて八十歩たらず」にある由。

 「谷中安規の動坂」という章に、このところ安規の「動坂」をながめている、とある。谷中安規の「動坂」はこんな木版画である。


 「坂道は画面中央にゆるやかな曲線をえがいている。/坂の上の右側には白くぬかれたショーウインドーがあり、そのなかに鳥の剝製があざやかに浮かぶ。左側には住宅の屋根が点在する。夜空には満月が白くおおきくえがかれていて、そのなかに寺の塔が小さく浮かびあがる。(略)満月と寺の塔、鳥の剝製のシルエットが印象にのこる。夢まぼろしと現実の動坂とが溶けあい、妖気がただよう。」


 このショーウィンドウの中の鳥の剝製から、矢部さんは本郷弥生坂の鳥獣剝製所に思いを馳せる。わたしは、仕事で東大本郷キャンパスに幾度も通った。通常は本郷三丁目駅から本郷通りを歩いて赤門か正門へと向かうのだが、ときに根津駅から言問通りに沿って坂をのぼり、二つ目の信号の角を曲がり弥生坂をすこし下って弥生門から行くこともあった(帰りはいつも本郷通り沿いの古本屋を覗きながら本郷三丁目駅へ向かった)。その言問通りの信号の角に鳥獣剝製所があり、通るたびに不思議な佇まいにいつも気が惹かれた。おそらくその前を一度でも通ったことのある人なら誰もが忘れられないにちがいない。


 「その日は、鳥獣剝製所の白い看板とショーウインドーのまえにたちどまり、あらためて見入った。八十年前、谷中安規の幻視した《動坂》が眼のまえにあることに驚愕したのだった。不況からぬけだせぬ平成の時代に、谷中安規は甦り、街なかをほっつきあるく。そのすがたが、ふと、よぎる。弥生坂の鳥獣剝製所あたりで、まぼろしの安規さんと袖すりあわせていたかもしれぬ。」


 鳥獣剝製所といえば思い出すのが富永太郎の「鳥獣剝製所」で、「一報告書」と副題の附いた幻想小説風の味わいのある富永最長篇の散文詩である。

 「過ぎ去つた動物らの霊」「過ぎ去つた私の霊」に牽かれて、「さまざまの両生類と、爬蟲類と、鳥類と、哺乳類」の剝製の犇めきあう古ぼけた理科室のような暗鬱な建物に「私」は足を踏み入れる。剝製たちはみな「私」の荒涼とした心象の外在化であるかのようだ。富永太郎はこの詩を発表した年の霜月、二十四歳で夭折する。翌月、太郎の弟、次郎と中学で同級生となり、のちに富永太郎評価に多大の貢献をした大岡昇平はこの詩を「剝製は時間による忘却の結果であり、私が建物に歩み入ることにより、動物の霊は再生する。散文詩全体は追想の快楽と苦痛を表わそうとしているようである」と評している*3

 「……流水よ、おんみの悲哀は祝福されてあれ! 倦怠に悩む夕陽の中を散りゆくもみぢ葉よ、おんみの熱を病む諦念は祝福されてあれ!(略)炎上する花よ、灼鉄の草よ、毛皮よ、鱗よ、羽毛よ、音よ、祭日よ、物々の焦げる臭ひよ。/さはれ去年(こぞ)の雪いづくにありや、」

 ヴィヨンのルフランのあとの最終聯。

 「私は手を挙げて眼の前で揺り動かした。そして、生きることゝ、黄色寝椅子(ディヴァン)の上に休息することが一致してゐるどこか別の邦へ行つて住まうと決心した。」

 とんでもねえボードレリアンだと後年物議をかもした、と北村太郎は書いている*4。――この世のほかなら何処へでも、か。

 富永太郎の鳥獣剝製所は、大岡昇平によれば「富永の家のあった代々木富ケ谷一四五六番地からほど近い、今日の東大教養学部の構内、当時の農学部、俗に「駒場東大」の一部にあったものを写したらしい」とのこと。駒場と本郷、いずれにしても東大に縁が深い。ちなみに久世光彦の『蝶とヒットラー』*5によれば、弥生坂の鳥獣剝製所の剝製の値段は「栗鼠が一万五千円、狸は五万円、狐六万円、鹿の頭部は十三万円、そして鹿全体が五十万円」だそうである。二十五年ほど前の文章だから、さて、いまではいくらぐらいになっているだろうか。この鳥獣剝製所、ただしくは尼崎剝製標本社という。


 話を谷中安規にもどせば、石神井書林内堀弘さんが雑誌「ひととき」に隔月連載されている「古書もの語り」、今月(2月号)は内田百間の『王様の背中』を取り上げている。「谷中安規先生が、美しい版画を、こんなに沢山彫つて下さいました。お蔭で立派な本が出来ました」と百鬼園先生が序(はしがき)でいうとおり、安規の版画がふんだんに収載されたお伽噺集である。文庫版で見てもその楽しさの一端は伝わってくる。

 昭和九年、楽浪書院発行のこの本には二百部作られた特装本がある、と内堀さんは書いている。谷中安規の展覧会でこの特装本を見て溜息が出た、という。「会場では、この本に収められた二十数点の木版画を一点ごとに額装し、壁一面を使って展示していた。そのどれもが不思議と懐かしい」。それからこの本を探しはじめ、ようやく出逢った入札会ではりきって落札した。古書店の先輩に「おっ、ずいぶん頑張るね」とからかわれたそうだ。

 日本の古本屋サイトで検索すると、石神井書林出品の『王様の背中』帙入特装本のお値段は、七十五万六千円となっている。

*1http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/

*2id:qfwfq:20130420

*3:『富永太郎と中原中也』レグルス文庫、1975

*4:『富永太郎詩集思潮社現代詩文庫・解説、1975

*5日本文芸社、1993/ハルキ文庫、1997

2016-01-24

目の伏せ方だけで好きになる――『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』





 この2ヶ月、これはすごいという作品には巡り会えなかった。なにか書いておきたいと思わせられた作品は、残念ながらほとんどなかった。2つの作品を除いては。もっとも、毎月すごい作品にいくつも出会えるわけはないのだけれど。

 その稀な作品のひとつはスティーヴ・エリクソンの小説『ゼロヴィル』。これは全篇を通じて映画の氾濫する映画好きにはこたえられない小説で、映画批評家でもあるエリクソンの鋭い批評が登場人物をとおして全篇に鏤められている。タイトルはゴダールの『アルファヴィル』の科白から。3月のエリクソンの来日にあわせて2月末には柴田元幸さんの翻訳が白水社から出る予定なので、その頃にまた書く機会があるだろう。

 もうひとつは、先週から始まった連続TVドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』*1。ふだんはTVをほとんど見ないのだが、坂元裕二脚本のドラマは見逃せない。録画して繰り返し2度見た。

 坂元脚本の『Woman』についてはここで一度書いたことがある*2。その後、wowowの『モザイクジャパン』(2014)、フジテレビの『問題のあるレストラン』(2015)を見たが、いずれもあまり感心しなかった。わたしが坂元裕二に求めているものと肌合いが違っていたからだろう。このたびの『いつ恋』は、間違いなく『Woman』や『それでも、生きてゆく』のテイストにつらなる傑作になるだろう。


 女手ひとつで育てられた杉原音(おと)は、母を亡くし幼い頃から北海道の育ての親のもとで暮らしている。そこへ、音が失くした母の手紙を届けに、運送会社で引越しの仕事をしている曽田練(れん)がトラックに乗ってやってくる。

 音はトラックの品川ナンバーのプレートを見て「あ、新幹線のある駅でしょ」と言う。「あ、はい」「に、住んでるの?」「いえ、住んでるのは雪が谷大塚って」

 雪が谷大塚は東急池上線の駅。西島三重子名曲「池上線」を思い出させる。練も雪が谷大塚できっと「池上線」の歌詞のような生活と恋をしているのだろう。

 「有名?」と音が訊く。「東京ってひと駅分ぐらい歩けるって本当?」「本当です」「ウソだ」「3駅ぐらい歩けますよ」「ウソ言うな、3駅って選手やん」「選手じゃないです」「競技やん」「競技じゃないです、3駅歩く競技ないです」クスっと笑う音。

 北海道の小さな町、ダムの底に沈むはずだったさびれた町から音は1歩も出たことがないのだろう。音には、東京は友だちとの会話か雑誌かで知った断片的な知識しかない都会だ、ということをこの科白がさりげなく伝えている。

 病の床に伏せっていた養母の容態が悪化し、たまたま通りかかった練のトラックで病院へかつぎ込む。病院の帰り、音は練にファミレスに連れて行ってくれと頼む。初めて来たファミレスに興奮する音。第1回のハイライトともいうべきシーンである。すこし長くなるが、再現してみよう。

 メニューに目移りしてなかなか注文する品が決まらない。大根おろしとトマトソースのハンバーグを両方注文して二人で分けようと提案する練。注文が終わったあともメニューを食い入るように見ている音。「網焼きチキンサンド、ポークソテーきのこクリーム」と目を輝かせて読み上げる。微笑んで見ている練。気づいてちょっときまり悪くなって「引越し屋さんはさ、ファミレスとかよく行く?」「そんなに」「ふーん。付き合ってる人とかいる?」「います」「どんな人?」「会社員」「じゃあさ、改札とか、駅のこっちとこっちとかでさ」とケータイで話す身ぶり。「電話するねとか言う?」「え?」「ね、花火大会とか行ったりする? 家具屋さんに二人で行ったり」「行かないです」「東京の家具屋さんて、すごい広いんでしょう。はぐれたりするんでしょう?」少し首をかしげる練。「ハイヒール?」「はい?」「その人」「ああ、はい」「どんな服着てる?」「服?」「うん」「服は……」自分のセーターとジーンズ、スニーカーを指して「ねえ、こんなのとはちょっと違うでしょう?」「もうちょっとオシャレっていうか」

 坂元裕二の脚本では、他愛のない会話でもその科白の一つひとつが意味をもっている。音は21歳になるまでファミレスに行ったこともなかった。おそらく花火大会も。そういう暮らしを強いられてきたのだろう。子どもの着るスキーウェアのようなセーターも、どこかのスーパーでディスカウントしたものを精一杯奮発して手に入れたにちがいない。新聞配達とクリーニング店でのアルバイトで、高校の学費も自分でまかなったはずだ。

 「ねえ、引越し屋さん、私にだってファッションに強いこだわりありますよ」。すこし意外そうな顔の練。ほらこれを見て、というようにマフラーを見せる音。「(笑って)それはあの、ファッションじゃなくて寒さしのぎですよね」「(笑って)それ言ったら服は全部寒さしのぎだよ」「それ言ったら一番オシャレなのは羊になりますよ」「羊?」「羊」「どうかな」と笑う音。

 やや間があって、「私にも付き合ってた人いましたよ。気象観測部の保利くん。中3から高3まで付き合ってて、けっこう好きでしたよ」「どんなところがですか?」「目の伏せ方?」「なんですかそれ」「わかんない? なんかこう、ふとした時にシュって感じの、わかんない?」「わかんないです」「やってみて」「いや、できないです」「できるって。はい」ぎこちなく下を向く練。「それじゃあ、下向いただけ」と笑う音。「目の伏せ方だけで好きになったんですか?」「なんか、彼が本読んでる時とかに、こう、何読んでるのかなあってこっそり覗き込んだり。あと、中庭に百葉箱ってわかる? 小さい家みたいな、温度計がはいってる箱。あそこに昼休み、保利くんいて、あ、今日フルーツサンド食べてるんだあとか、見てて、不思議だよね、こう、好きな人って、居て見るんじゃなくて、見たら居るんだよね。たとえば教室の……」思い出している。自分に言い聞かせるように「うん」

 「保利くん、いまどうしてるんですか?」「札幌の大学に行った。知り合いが一回偶然会って、元気にしてたって言ってた」。すこし沈み込む音。高3の時に「一緒に札幌の大学を受験しよう」というメールが音に届いたことがあった。家庭の事情で進学を断念したのだろう。音、沈み込んだ気持ちを逸らそうとメニューを手にして「いいアイデアだね、違うの頼んで分けるんだ。トリプルベリーパフェ。ふーん」とひとり言のように言う。音は保利くんとデートしたことがあったのだろうか。一緒にファミレスへ行って他愛のない会話をしたかったと思ったのだろうか。ドラマは大事なことを半分しか語らない。残りの半分は見る者の想像にゆだねられている。「また、見つかりますよ、好きな人」励ますように言う練。聞こえなかったように「ベルギーチョコプリン」とメニューを読む音。「やっぱり好きな人と……」。練は、音が好きでもない金持ちの男と、養父に無理やり結婚させられようとしているのを知っている。聞こえなかったように「一番オシャレなの羊って……」とつぶやく音。

 注文したハンバーグセットが来る。ナイフとフォークで切り分ける練。吹っ切ったように「白井さんと結婚することにした」と音は言う。「さっき病院で決めた。ありがとう。手紙持ってきてくれて。引越し屋さんが言ってたとおり、あれって私のつっかえ棒やったから。ほんまに嬉しかった。結婚する」見つめ合う二人。うなだれるように目を伏せる練。「引越し屋さん」「はい」。目を上げる練。「いま、すごくいい目の伏せ方しましたよ」


 音を演じる有村架純が圧倒的にいい。『それでも、生きてゆく』で、連続ドラマの初めてのヒロインを演じた満島ひかりの再来を思わせる。練の高良健吾も受けの演技をみごとにこなしている。

 音が練と一緒にトラックに乗っているところを目撃した白井は、養父に破談を申し入れにやってくる。玄関で出くわした白井から悪態を投げつけられる音。家の中に入ると、音が後生大事に持っていた母の遺骨を養父がトイレに流しているのを見つける。性懲りもなく今度は中年の男やもめとの縁談を勧める養父。絶望している音を抱えるようにして養母が言う。「音、逃げなさい。もう、あんたの好きなところに行きなさい」。因業親父を振り切って外へ飛び出す音。外は土砂降りだ。土砂崩れの注意警報のサイレンが鳴るなかをひた走る音。通りかかった練のトラックと出会い、乗り込む音。このシークエンス演出も充実している。主題歌の手嶌葵「明日への手紙」は、このドラマのために作られたかのようにsuitableだ。

 音は上京し、雪が谷大塚に住む。その1年後から第2回が始まる。明日の夜9時が楽しみだ。

2015-11-15

植草甚一ふうにいうと……――村上春樹柴田元幸「帰れ、あの翻訳」についてのあれこれ





 植草甚一ふうにいうと、「MONKEY」最新号の村上春樹・柴田元幸の対談を読んで、村上春樹はホントにアメリカの小説をよく読んでいるなあと唸ってしまった。この対談は特集の「古典復活」にちなんで、絶版や品切れになっている英米の小説について二人が語り合ったものだ。古典復活といってもここに出てくるのはいわゆるクラシックな小説ではなく、30〜40年ぐらい前にふつうに読むことのできた翻訳小説がほとんどで、だから対談のタイトルも「帰れ、あの翻訳」となっている。村上さんはわたしより2歳年上、柴田さんは3歳年下、したがってわたしはお二人のちょうど真ん中あたりの世代になるのだけれど、読書体験としてはほぼ同世代といっていいだろう。お二人が選んだ〈復刊してほしい翻訳小説〉50冊、それぞれの書影が出ていて――相当に年季の入ったくたびれた本なのでおそらく蔵書を撮影したものだろう――いずれも8割方はわたしの蔵書と重なっている。処分してもう手元にない本もあるけれど、だいたいわたしも20〜30歳代に読んでいた本ばかりである。品切れになっているのは当然で、かといって取り立てて珍しい本というわけではなく、古本屋へ行けばいまでも均一本で転がっているような本がほとんどだ。書影についてはあとで触れるとして、まずは対談についてちょっと思いついたことを書いてみよう。


 「僕がフィッツジェラルドを訳しはじめたころも、『グレート・ギャツビー』と短篇が少し出ているぐらいで、あとはほとんど出ていなかった」(村上さん)

 村上さんがフィッツジェラルドを訳しはじめたのは、ウィキペディアによると1979年、「カイエ」に載った「哀しみの孔雀」が最初で、81年に「哀しみの孔雀」を含む短篇集『マイ・ロスト・シティー』の単行本が刊行される。柴田さんが注で書いているように、フィッツジェラルドは81年に荒地出版社が作品集(全3巻)を出して短篇もそれなりに読めるようになったが、村上訳『マイ・ロスト・シティー』と2冊の『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』がフィッツジェラルド再評価の先鞭をつけたといっていいかと思う。それより10年ほど前、わたしの学生時代にはエリザベス・テイラーのスティル写真がカバーになった角川文庫の『雨の朝巴里に死す』(飯島淳秀訳、映画化された「バビロン再訪」の邦題)、新潮文庫の『華麗なるギャツビー』(野崎孝訳、これは名訳だと思う)、それに角川文庫の『夢淡き青春』(大貫三郎訳、副題にグレート・ギャツビーと付いていたけれど、なんでこんな邦題にしたのだろう)あたりをよく見かけたものだ。角川文庫版の『夜はやさし』(谷口陸男訳)はすでに絶版になっていたように思う(のちに金色のカバーで復刊される)。


 「マッカラーズ、個人的に大好きで、『心は孤独な狩人』が絶版なのはすごく残念で、自分で訳したいくらいなんだけど、何せ長いからなあ」(村上さん)

 柴田さんが「映画にもなってますね。邦題は『愛すれど心さびしく』」と応えている。この映画は見ていないけれど、『ママの遺したラヴソング』という映画で、スカーレット・ヨハンソンが寝食を忘れて読みふけっていた、死んだ母親の好きだった小説が『心は孤独な狩人』のペーパーバックだった。母親のかつてのボーイフレンドアル中の元英文学教授がジョン・トラボルタで、かれがT・S・エリオットの詩「四つの四重奏」を朗唱したりするのだけど、こういった映画のなかの文学趣味がわたしは嫌いではない。『ミリオンダラー・ベイビー』でイーストウッドがつぶやくW・B・イェーツの詩「イニスフリーの湖島」もよかった*1。あれはジョン・フォードの『静かなる男』へのオマージュなのかもしれない。マッカラーズの『結婚式のメンバー』を村上さんが訳しているそうだ。これはたのしみ。


 「研究者のあいだでは、同じアメリカ南部の女性作家ということで、マッカラーズはフラナリー・オコナーとよく較べられて、オコナーの方がすごいと言われがちです」(柴田さん)

 南部の女性作家ってことだけで較べられてもなあ、と思うよねえ。アメリカ北部の男性作家という括りで誰かと誰かを比較したりしないもんね。村上さんにいわせれば、それは「ジム・モリソンとポール・マッカートニーを較べるようなものですよ」ということになる。さすが、比喩が的確だ。昨年と今年、『フラナリー・オコナーとの和やかな日々』『フラナリー・オコナーのジョージア』の2冊が翻訳刊行された(いずれも新評論から)。オコナー再評価の機運があるのだろうか。オコナーの短篇「善人はなかなかいない」には、佐々田雅子の新訳がある*2

 翻訳家大久保康雄について、柴田さんが「個人の翻訳者というよりは「大久保康雄」という名の翻訳工房であり、面倒見のよい個人・大久保康雄の統括の下、総じて良質の翻訳が大量に生産された」と注に書いている。へえ、そうなんだ。わたしたちの世代はみんな大久保センセイの翻訳にお世話になりましたね。いま新訳が刊行中の『風と共に去りぬ』とか、ヘミングウェイとかヘンリー・ミラーとかO・ヘンリーとかダフネ・デュ・モーリアとか、もうあれもこれも大久保センセイの翻訳だった。常人の仕事量ではありませんね。ちなみに『風と共に去りぬ』を大久保康雄と共訳した竹内道之助は三笠書房の創立者でもあるけれど、三笠からクローニン全集というのを全巻個人訳で出していた。クローニンって、いまはもうほとんど忘れられた作家だけど、むかしはクローニン原作のテレビドラマなんかが幾つもあってけっこう読まれてたのね。石坂浩二樫山文枝の「わが青春のとき」とか。ぼくも原作買って読んだもん。どちらかというと大衆的な小説家だけど復刊すると意外と受けるかもしれませんね。

 復刊といえば、柴田さんが対談で挙げているマラマッドの『店員』(『アシスタント』の題で新潮文庫から出ていた)や、オコナーの『烈しく攻むる者はこれを奪う』を復刊した文遊社は目の付け所が絶妙ですね。ナボコフの『プニン』に、ペレックの『物の時代 小さなバイク』、サンリオSF文庫で出ていたアンナ・カヴァンデイヴィッド・リンゼイ。最近ではグラックの『陰欝な美青年』。「おお、そうきたか」って、なんか一昔前の文学好きといった感じの選書だな。個人的な希望をいわせてもらうと、『陰欝な美青年』と同じ筑摩の海外文学シリーズで出ていたデープリーンの『ハムレット』、ビュトールの『仔猿のような芸術家の肖像』、ヒルデスハイマーの『眠られぬ夜の旅』(新潮社の『詐欺師の楽園』も)、河出のブッツァーティ『ある愛』、アルトマン『サセックスのフランケンシュタイン』、サンリオジョン・ファウルズダニエル・マーチン』、SF文庫のボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』、スラデックの『言語遊戯短編集』なんかをぜひ復刊していただきたい。それに青柳瑞穂訳の『アルゴオルの城』(人文書院)とかね。あーあ、こんなこと書いてたらキリないな。最初に書いた書影について急いで触れておこう。


 まずは村上さんの〈復刊してほしい翻訳小説50〉から。ケン・コルブの『傷だらけの青春』(角川文庫)。写真では背しか見えないけれど、表紙カバーはエリオット・グールドキャンディス・バーゲンのツーショット。映画『…YOU…』のスティル写真である。好きだったな、この映画。主題歌(映画原題と同じ GETTING STRAIGHT*3)もよかった。ダリル・ポニクサンの『さらば友よ』は映画『さらば冬のかもめ』の原作*4。これも角川文庫で、この頃(1970年前後)角川文庫から外国映画の原作本が続々と出ていたんですね。これはたしか角川春樹さんの仕事で、のちの角川映画メディアミックス横溝正史とか森村誠一とか)につながってゆく。『マッシュ』も『くちづけ』も映画の原作。けっこう原作本を読んでるんですね、村上さんは。

 左上に掲げられている絵はジョン・ファウルズの『魔術師』の原書ダストジャケット*5。ちょっとシュールで面白い絵なので調べてみた。画家はトム・アダムスさん*6。ここに掲げておこう。

f:id:qfwfq:20130831015908j:image:w360:right

 柴田さんの〈復刊してほしい翻訳小説50〉には、ダニロ・キシュやミロラド・パヴィチなど、英米以外の作家も挙げられている。パヴィチの『ハザール事典』は先頃、文庫化された。ドナルド・バーセルミの『口に出せない習慣、奇妙な行為』はサンリオSF文庫から出ていたが、『口に出せない習慣、不自然な行為』と改題されて彩流社から復刊された。復刊本も品切れのようだ。ゼーバルトの『アウステルリッツ』も挙がっているけれど、これは品切れ中なのか。単行本が出て、ゼーバルト・コレクションに入るときに「改訳」されたが、実際は、重版の際にほどこすのと同等の小さな手直しである。ナサニエル・ウェストの『いなごの日』と『クールミリオン』(いずれも角川文庫)は、改訳するかそのまま岩波文庫にでも入ればいいのに。『孤独な娘』も入ったことだしね。

MONKEY Vol.7 古典復活

MONKEY Vol.7 古典復活

*1:脚本はポール・ハギス。かれの監督作品『サード・パーソン』は、今年BSで見た100本ほどの映画のなかのベスト。

*2:「善人はそういない」、アンソロジー『厭な物語』文春文庫所収。

*3https://www.youtube.com/watch?v=vWER0TLWLuo

*4:『さらば冬のかもめ』はアメリカン・ニューシネマの代表作の1本。監督がハル・アシュビー、脚本がロバート・タウン。ハル・アシュビーとハスケル・ウェクスラー(撮影)コンビの『帰郷』で、ジェーン・フォンダジョン・ボイトはそろってオスカー主演賞を手にした。ベトナム反戦映画の代表作。ジョン・ボイトはアンジェリーナ・ジョリーのお父さんですね。ロバート・タウンはわがオールタイムベストの1本『テキーラ・サンライズ』で監督も務めた。Allcinemaの『テキーラ・サンライズ』の解説には不賛成。『さらば冬のかもめ』、BSでやんないかな。

*5:Published by London: Jonathan Cape,1966

*6http://www.tomadamsuncovered.co.uk/index.html

2015-11-01

怯えるカフカ




 『小泉今日子書評集』が書店新刊の平台に並んでいた。読売新聞に10年間掲載された書評を集成したものだという。それぞれの末尾にあらたに短いコメントが附されている。手に取ってぱらぱら頁をくっていると、ある箇所にきて、おおっと思った。最近、文庫本の小さい字が読みづらくて眼鏡をかけて読んでいる、といった意味のことが書かれていた。キョンキョンが老眼鏡ねえ。歳月人を待たず、か。わたしもむろん疾うから老眼だが、いまのところ文庫本のルビもどうにか裸眼で読めるので老眼鏡はもっていない。目はひとより酷使しているので、そのせいか、1年ほどまえに白内障の徴候があると医者に診断されたが、いまのところ自前の水晶体を騙し騙し使っている。たんにモノグサで眼鏡をかけたり手術をしたりするのが面倒なだけなのだけれど。

 文庫本といえば、最近創刊された集英社の〈ポケットマスターピース〉シリーズは近来出色のものである。全13巻と多くはないが文庫版世界文学全集というべきもので、初回配本がカフカとゲーテの2冊。とりあえずカフカの巻を買ってみた。「変身」(「かわりみ」とルビが振られている)と、「ある戦いの記録」から抜粋した2篇、それに「田舎医者」から1篇、都合4篇が多和田葉子の新訳、ほかに「訴訟」(「審判」)や「流刑地にて」「巣穴」など8篇すべてが70年代生れの中堅研究者(川島隆、竹峰義和、由比俊行)による新訳。さらに書簡選、公文書選も収録されている。 

 「変身」冒頭の有名なセンテンスを多和田葉子はこう訳している。


 「グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。」


 「なにか気がかりな夢」という訳語も含みがあって好きなのだが、「複数の夢の反乱」というのも、ざわざわした不安な夢の感触をつたえて悪くない。多和田葉子は本書に「カフカ重ね書き」という12頁におよぶ解説を寄せている。今年の「すばる」5月号に「変身」の翻訳が掲載された際に「カフカを訳してみて」という見開きの文章が掲載されたが、それと重複する部分もある。ふたつの文から大意を紹介すると――

 「変身」冒頭、原文は「ウンゲホイアのようなウンゲツィーファーに変身してしまった」であり、ウンゲホイアは化け物であり「余剰によって人間をはみだしてしまった」という語感があるという。ウンゲツィーファーは害虫、訳文の()内に補足されているように「生け贄にできないほど汚(けが)れた生き物」が語源である。父親の罪=借金を償うためにグレゴールは会社に生け贄として捧げられていたが、変身することによって生け贄をまぬがれて自由の身になる。だがその代償として家族や社会から見捨てられ、生き延びることができなくなってしまう。変身したグレゴールからはまた「引きこもり」や「介護」の問題も読み取ることができる。カフカの小説はそうした複数の解釈を生じさせる重層構造があるが、それは労働者災害保険局に勤めてさまざまな社会的問題と直面していたことと関係があるかもしれない、カフカの書いた公文書もそういう視点で読むと面白い、と多和田葉子はいう。

 というわけで、公文書選の「1909年次報告書より 木材加工機械の事故防止策」を読んでみる。これは、木材切削加工用のかんな盤の安全シャフトについての報告で、角胴と丸胴のシャフトの相違をイラスト図版つきで詳細に説明している。すなわち――


 「(角胴は)かんな刃とテーブル面のあいだに広い隙間が空いているせいで作業員の身に生じる危険は、明らかに突出して大きい。この方式のシャフトで作業するということは、すなわち危険について無知なまま作業して危険をいっそう大きくするか、あるいは避けようのない危険にたえずさらされている無力を意識しながら作業するか、どちらかを意味する。きわめて用心深い作業員なら、作業に際して、つまり木材を回転刃に送る際に木材より指が前に出ないよう細心の注意を払うことができるだろうが、危険があまり大きいので、どれだけ用心しても無駄である。どれだけ用心深い作業員でも手が滑ることはあるし、片手で工作物をテーブル面に押しつけ、もう片方の手でかんな刃に送るとき、木材が躍ることは少なくない。すると手が刃口に落ちて回転刃に巻き込まれてしまう。そのように木材が浮いたり躍ったりするのは予測不能であり、防ぐこともできない。木材にいびつな箇所があったり枝が出ていたりするとき、あるいは刃の回転速度が足りないとき、あるいは木材を押さえる手の力が不均一であるときに、それは簡単に起こる。だが、ひとたびそのような事故が起これば、指の一部または全部が切断されずには済まない。」


 面白い。書き写していると面白くてつい長く引用してしまった。「避けようのない危険にたえずさらされている無力を意識しながら作業する」なんて役所の報告書としてはレトリックが過剰で、もっと簡潔に事実のみを述べよ、と上司が注意したのじゃないだろうか。イマジネーションが過剰に発動して、カフカはここでほとんど作業員と一体化して危険におびえているかのようだ。

 巻末の詳細な作品解題で川島隆は、公文書は従来カフカ研究において重きをおかれていなかったが、近年では「文学作品と公文書のあいだの文体上・モチーフ上の連続性が指摘されるようになってきて」おり、「両者の境界線撤廃し、カフカの公文書を「文学作品」として読む可能性もまた読者の前に開かれている」と記している。 安全ヘルメットを発明したのはカフカだという「風説」もあったそうだが、危機や危険にたいする異常に鋭敏なセンサーは、たとえば「巣穴」などの作品にも明確に発揮されている(川島隆は、この木工機に関する報告書を「流刑地にて」と対をなすテクストだと書いている。慧眼である)。

 本書に収録された公文書は、ドイツの「批判版全集」の公文書の巻からカフカの文章であることがほぼ確実なものを訳出したそうだが、もっと読んでみたいと思わせられた。「カフカお役所文集」なんて出るといいなあ。売れないだろうけど。「訴訟」や書簡選には、批判版全集の校注を参考に訳注を附すなど、ぜんたいに最新の研究成果が取り入れられている。800頁の大冊で本体1300円と、値段もお買い得である。


2015-10-12

小説家は寛容な人種なのか、もしくは、ドイツ戦後文学について





 又吉直樹の「火花」は「文學界」に掲載されたときに読んだ。芥川賞候補になる前だったが、いい小説だと思い、好感をもった。ただ、いささか「文学」っぽすぎるような印象があり、そこがいささか気になった。芥川賞受賞後、「文學界」の特集(9月号)を読み、いくつか出演したTV番組を見て(漫才の番組ではない。わたしは彼の漫才を見たことがない)、聡明な人だな、という感想を持った。小説家にしては聡明すぎるようで、そこが彼の弱点かもしれないと思った。そう思ったのは、村上春樹の『職業としての小説家』の冒頭に、「小説を書くというのは、あまり頭の切れる人に向いた作業ではない」と書かれていたからである。

 村上は「頭の回転の速い人々が――その多くは異業種の人々ですが――小説をひとつかふたつ書き、そのままどこかに移動してしまった様子を僕は何度となく、この目で目撃してきました」と書いている。「頭の回転の速い人々」が小説家に向いていないとする村上説の当否については直接その文章にあたって判断していただきたいのだけれど、わたしが村上説をそうかも知れないと思ったのは、芥川賞の選考委員のだれよりも又吉直樹のほうが頭の回転が速く聡明そうに見えたからである。ある種の「頭の回転の速さ」がなければ、生き馬の目を抜くような芸能界で頭角をあらわし生き残ってゆくのは不可能だろう。小説家として「生き残ってゆく」資質は、それとは違うものだと村上は考えているらしい。

 芸人や芸能界の世界を舞台にした小説でわたしが思い出したのは、中山千夏の『子役の時間』と松野大介の『芸人失格』である。いずれもよく書けたいい小説だと思った記憶がある。ずいぶん昔に読んだので「火花」と比較して論評はできないが、遜色はなかったように思う。松野大介はそれ以降も小説を書き続けている(というよりも物書きに転身した)らしいが、中山千夏は数冊の小説集を出して、村上春樹のことばを借りれば「そのままどこかに移動してしまった」。ビートたけし荒木一郎も一時期小説に手をそめて「移動してしまった」才人たちである。

 又吉直樹の小説が村上のいう「多少文才のある人なら、一生に一冊くらいはわりにすらっと書けちゃう」一瞬の火花のようなものにすぎないのか、それともこの先「二十年、三十年にもわたって職業的小説家として活躍し続け」てゆくのか(もしくは池田満寿夫唐十郎のように二足のわらじを履き続けるのか)、見届けたいと思う。

 

 さて、村上のこの文章――「小説家は寛容な人種なのか」と題されている――で、もうひとつ面白いと思ったのは、「小説家の多くは――もちろんすべてではありませんが――円満な人格と公正な視野を持ち合わせているとは言いがたい人々です」という断言である。村上は続けて「また見たところ、あまり大きな声では言えませんが、賞賛の対象にはなりにくい特殊な性向や、奇妙な生活習慣や行動様式を有している人々も、少なからずおられるようです」と書いている。「僕も含めてたいていの作家は」と書いているように、自らを「基本的にエゴイスティックな人種」であると村上は認めているのだろう。わたしにも小説を書く知人がいなくはないけれども、それほど「奇妙な生活習慣や行動様式を有している」ようには見えない。村上は「たいていの作家」を「だいたい九二パーセントくらいじゃないか」と書いているので、かれらは残りの八パーセントに属するのかもしれないが、かれらよりわたしのような人間のほうがきっと「賞賛の対象にはなりにくい特殊な性向」の持ち主にちがいない(年をとっていくぶん円満になったという気が自分ではしているのだけれど)。

 最近刊行された『廃墟のドイツ1947』という本を読んで、このもうひとつの村上説を思い出した。これは「四七年グループ銘々伝」と副題のついたハンス・ヴェルナー・リヒターの本。四七年グループとは1947年にドイツで結成された文学グループで、「グルッペ47」とも言われる。リヒターはその中心人物で、本書はそのグループの仲間たちのポートレートを描いたものである。訳者の飯吉光夫によると、原著(「蝶たちの曖昧宿で」)では21人の肖像だがすこしカットされて17人が収録されている。

 「四七年グループ」については、日本ではドイツ文学者の早崎守俊が『負の文学――ドイツ戦後文学の系譜』(思潮社、1972)や『グルッペ四十七史――ドイツ戦後文学史にかえて』(同学社、1989)といった著書でつとに紹介してきた。第二次世界大戦敗戦国となったドイツと日本には共通点が少なくない。ドイツの戦後文学を主導した「グルッペ47」は、早崎守俊も『負の文学』で書いているように、日本では1945年荒正人や埴谷雄高らによって創刊された「近代文学」に相当するといえるだろう。「近代文学」派の小説家・批評家たちが日本の戦後文学を牽引したように、「グルッペ47」には(のちにノーベル文学賞を受賞する二人の小説家を含む)錚々たるメンバーが加わっている。『廃墟のドイツ1947』で取り上げられた小説家・詩人たちのなかから、わたしに比較的親しい名前を拾ってみても、次のような人たちが挙げられる。イルゼ・アイヒンガー、アルフレート・アンデルシュ、インゲボルク・バッハマン、ハインリヒ・ベル、ギュンター・アイヒ、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーギュンター・グラス、ヴォルフガング・ヒルデスハイマー、ウーヴェ・ヨーンゾーン、ハンス・マイヤー、マルセル・ライヒ=ラニツキ、マルティン・ヴァルザー、ペーター・ヴァイス。このほかにも、パウル・ツェラーンやペーター・ハントケらも「グルッペ47」の集会に参加している。

 集会では小説や詩を著者が朗読し、それが「こっぴどい批評」にさらされて「満身創痍になる」こともあったという。村上春樹のいうように「自分がやっていること、書いているものがいちばん正しい」という「エゴイスティックな人種」の集まりだから、さもありなんというべきか。「「四七年グループ」は、彼(アルフレート・アンデルシュ)の見解では、出世主義者の集団で、つねに一人が他をだし抜こうとしており、この出世主義芝居の中心に彼にはギュンター・グラスが立っているのだった」とリヒターは書いている。「(グラスは)「四七年グループ」の集会に毎年やって来、機会はすべて捉えて朗読をし、三年間それをやっても無駄ではあったものの、おめず臆せず、ベルリンまたはパリから、極貧にもかかわらず、やって来た」というから、野心を抱いた若者だったのだろう。むろんグラスは、ヒルデスハイマーが見抜いたように「なみなみならぬ才能」を有していたし、こうと決めたら脇目も振らずに精進する「一種の勉学の天才」だった。そして集会で朗読した『ブリキの太鼓』によって「いわば一夜にして、グラスは有名な作家に成り上がった」のである。 

 いっぽう、アルフレート・アンデルシュは「グルッペ47」の前身ともいうべき雑誌「デア・ルーフ」(「叫び」、「呼び声」とも)以来のリヒターの盟友だったが、飯吉光夫が「無理をして書いている」と評しているように、彼についてはいささか歯切れの悪い書きぶりである。アンデルシュは「野心家だった」とリヒターは書いている。それも並外れた野心家で、「トーマス・マンより有名になることが自分の目標だ」と語ったという。周囲のものたちは「唖然として口をぽかんと開けていた」が、アンデルシュ自身は「困惑しきった沈黙に気がつかず、むしろそれを暗黙の了解のしるしにとった」というから、村上説による小説家の資質を充たしてあまりある。

 ヴィンフリート・G・ゼーバルトは、リヒターのこの回想を引いた後、「たしかに当初、アンデルシュの予想は当たったかに見えた」と書いている(『空襲と文学』白水社)。『自由さくらんぼ』、さらに『ザンジバル』によって大きな反響と賞賛を得たが、『赤毛の女』において「批評界は二分」され、絶賛の一方で「胸くその悪い嘘とキッチュのごたまぜ」(ライヒ=ラニツキ)と酷評される。ライヒ=ラニツキは次の作品もこき下ろしたため、アンデルシュは「いちじるしく気分を害し」たが、短篇集をライヒ=ラニツキに思いがけず褒められると「あれだけ毛嫌いしていた男に対して、そそくさと愛想のいい手紙を書き送る」。そして、つぎの『ヴィンターシュペルト』にたいしてライヒ=ラニツキがまたもや否定的評価を下すと、アンデルシュはかれを告訴しようかとまで考えたという。ゼーバルトは『空襲と文学』において一章をさいてアンデルシュの作品を懇切に論じているが、訳者の鈴木仁子があとがきで「あまりにも酷ではないか」と記すほど、その批判は身も蓋もなく厳しい。「夢のテクスチュア」(『カンポ・サント』同)と題されたあの発見にみちた繊細なナボコフ論とのあまりの懸隔は読むものに眩暈を生じさせるほどだ。

 ギュンター・グラスに対するアンデルシュの態度は「最初から敵意にみちたものだった」とリヒターは書いている。すでにいち早く「世界的に有名になっていた」グラスへの嫉妬によるものとみていいだろう。グラス以上にアンデルシュ自身が「出世主義芝居の中心」にいたのだから。リヒターはアンデルシュにたいして時にうんざりしながらも彼が死ぬまで長く友情をたもって付き合った。良くも悪くも中庸を重んじる性格だったのだろう。リヒターがここで取り上げている作家たちに比して小説家としてそれほど大成しなかったのは、「基本的にエゴイスティックな人種」であるといった作家としての資質を欠いていたからなのかもしれない。本書はそれをよく証だてているといっていい。


2015-09-19

眠れゴーレム




 五、六年前になろうか、寺山修司未発表歌集と題された『月蝕書簡』が岩波書店から刊行されたのは。寺山修司が晩年に作歌したものを田中未知が編纂した遺稿集であるという。この本の出版を新聞広告かなにかで見たときに、わたしのなかに危惧するものがあった。しばらくは打ち捨てていたが、ある時(怖いもの見たさといった)誘惑に抗しきれず、手に取ってみた。そこにあったのは無惨な歌の残骸だった。わたしは、わたしの危惧を確かめるためだけにこの歌集を手にしたことを後悔した。寺山さんは晩年に至って――本人は晩年と意識していなかっただろうが――なぜこのような拙劣な自己模倣にすぎぬ歌を詠んでみようと思ったのか。それだけがわたしのなかに謎として残った。

 『寺山修司青春歌集』(角川文庫、一九七二年)の解説で、寺山を世に出した名伯楽中井英夫がこう書いている。

 

 「寺山修司は十二、三歳のころに作歌を始めたらしいが、その短歌が初めて世に現われたのは一九五四年(昭和二十九年)十一月のことで、部厚い全歌集が発刊されたのは一九七一年一月、といっても、歌のわかれ(ややあいまいな)を宣言した跋文の日付は七〇年十一月となっているから、ちょうどまる十六年間、公的な短歌の制作発表が続いたわけである。この文庫版は『青春歌集』と銘うたれているけれども、その間のすべての作品が収録されている。」


 寺山修司の歌のすべてはこの二百頁に満たない文庫本のなかにある。「月蝕領主」を自称した中井英夫がこの『月蝕書簡』を見ずに逝ったことがせめてもの幸いと思われた。

 

 ここで何度も書いているので聊か気が引けるけれども、岩波「図書」の斎藤美奈子の連載「文庫解説を読む」、9月号では伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』と寺山修司の『家出のすすめ』『書を捨てよ、町へ出よう』を取り上げて対比している。『退屈日記』の解説は関川夏央、『女たちよ!』は池澤夏樹(いずれも新潮文庫)。「二冊の本の解説は、もう一編の良質なエッセイとして読めるものに仕上がった」という斎藤美奈子の評価にわたしも異論はない。関川とそう歳のはなれていないわたしにも、伊丹十三の書く「スパゲッティの正しい食べ方」は衝撃的だった。甘ったるいケチャップにまみれた西洋風いためうどんしか知らない高校生に、スパゲッティはアル・デンテでなければならぬと伊丹十三は懇切に説き聞かせたのである。「スパゲッティについての彼の講釈は、四十年を経たいまでも、私の脳裡にはっきりと刻まれている」と書く関川に、どれほど多くの同世代の読者が大きく頷いたことだろう。

 一方、『家出のすすめ』の解説は竹内健、『書を捨てよ、町へ出よう』は中山千夏(いずれも角川文庫)。斎藤美奈子はこの二冊に対し、いずれも「知己であることに寄りかかった解説」であり「完全に解説者の選択を誤った」と書く。竹内の解説には寺山との私的な交友だけでなく、家=故郷からの離脱を「己の思想の糧」とした寺山と、農村の過疎化といった現在(この解説が書かれたのは四十年以上前だ)の社会状況との関わりの指摘もあるにはあるけれど、斎藤美奈子の評価にわたしもおおむね首肯する。だが斎藤が「伊丹のエッセイは解説の力で輝き、寺山のエッセイは解説の力で輝き損ねているのである」として「若者へのメッセージを込めた本の解説は、その当時若者だった「正しい読者」にしか書けないのだ」と結論するとき、聊か性急すぎる気がしないではない。 

 斎藤が寺山の二冊に対して「なぜこんな人たち(といっちゃうが)に解説を依頼したのだろうか。もしくは二〇〇五年の改版時に、なぜ新しい解説者を立てなかったのか」と書いているように、要は解説にも賞味期限があるということだろう。伊丹十三の二冊はいずれも二〇〇五年刊だが、寺山の『家出』は一九七二年、『書を捨てよ』は一九七五年といずれも四十年ほど前のもので、十年前の伊丹十三の二冊に比べると、どうしても古いという感が否めない。もちろん古いのは解説であって、本文じたいは四冊とも六〇年代に書かれたものだが、風俗もしくは時代のファッションのようなものを別にすれば決して古びず、長く読み継がれるにあたいする名エッセイである。

 ちなみに寺山修司の『幸福論』(角川文庫、一九七三年)の解説は佐藤忠男。「思想の科学」出身の評論家らしい堅実な解説で、それはそれで悪くはないが、次のような箇所にはやはり時代を感じさせる。

 「世の中には、さまざまなかたちで差別され、疎外されている人間がいる。オカマ、ホモ、娼婦、トルコ嬢、彼ら、あるいは彼女らの多くは、自分を不幸だと思っているだろう。」

 大江健三郎は初期短篇を全集(「大江健三郎小説」新潮社)に収録する際に「トルコ」を「ソープ」に変更したが(「女ソープ師」という珍妙な表現は大江らしいユーモアの表われか)、大江にせよ佐藤にせよ、言葉を言い換えればいいという問題ではない。最近も『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫)で、「奇妙な仕事」の「私大生」を「院生」に変えたが、作品の歴史性を無視した改悪というべきだろう。


 さて、話を冒頭の寺山の「歌のわかれ」に戻せば、中井英夫は解説で『寺山修司全歌集』の跋文――「こうして私はまだ未練のある私の表現手段の一つに終止符を打ち、『全歌集』を出すことになったが、実際は、生きているうちに、一つ位は自分の墓を立ててみたかったというのが、本音である」――を引いたのち、こう述べている。


 「(略)この生きながらの埋葬は結構なことだし、第一、いつまでも歌人でいる必然性は彼にはない。消えない歌人のふしぎさはいやというほど例のあることで、墓の中に横たわりながらも、いま一度どうしてもという使命感につらぬかれたときだけ、巨人ゴーレムさながらに土をふりはらって起きあがればいいのだ。」


 「消えない歌人のふしぎさ」とは短歌誌の編集者として中井英夫が嫌というほど目にした、曲がない身辺雑詠を飽きもせず作り続ける「おびただしい中高年齢層歌人」のことで、そうしたなかへ十代の寺山が「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」といった清新な歌を引っさげて颯爽と登場したのだから、中井英夫が「まさに青春の香気とはこれだといわんばかりに、アフロディテめく奇蹟の生誕をした」と歓喜したのもむべなるかなといわざるをえない。だが、「巨人ゴーレムさながらに土をふりはらって」起きあがった寺山の『月蝕書簡』におさめられた歌のどれひとつとして、わたしには「いま一度どうしてもという使命感につらぬかれた」歌とは思えなかった。

 たとえば『月蝕書簡』の、

  地平線描きわすれたる絵画にて鳥はどこまで墜ちゆかんかな

 と、『空には本』の、

  夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず

 とを比べてみれば優劣は一目瞭然である。就中、前者の切れ字は最悪である。

 ――塵にふすものよ醒めてうたうたふべし、か。

 「ああどうか

  眠り続けてくれたまえ

  あした枕辺には

  何もないから

  詩なんか一片だつて

  載つてやしないから」(中井英夫『眠るひとへの哀歌』)


寺山修司青春歌集 (角川文庫)

寺山修司青春歌集 (角川文庫)

2015-08-30

山田稔『天野さんの傘』とその他のあれこれ





 山田稔さんの新刊『天野さんの傘』をようやく読んだ。奥付の刊行日を見ると2015年7月18日発行となっている。その前後に本書の刊行を知り、神保町の東京堂書店に足を運んだ。いままでならレジ前の新刊平台に積まれているはずだった。しかし、そこには見当たらず、3階の文芸書コーナーへ行ってみた。機械で検索してみるとたしかに在庫の表示があるのだが、探しても該当する場所に見当たらない。店員に訊ねると、在庫は客注品で、いま版元に注文を出しているのでしばらくお待ちいただければ入荷するとのことだった。ほう、山田さんの本を注文で取り寄せている人がいるのか、とちょっとうれしくなった。

 その後、入荷しているかどうか何度か東京堂書店へ行ってみたが入っていなかった。版元の編集工房ノアか京都の三月書房にでも注文すればすぐに手に入るのだけれども、この本は東京堂書店で買いたいと思ったのだった。山田さんの本を(編集工房ノアの本を)東京堂書店が置かないでどうする、という思いがあった。地道に文芸書を出し続けている小さな版元の支えになる東京では唯一の書店じゃないか。

 ちなみに、池袋のリブロが閉店し、そのあとに「居抜き」のような形で三省堂書店が入った。リブロもかつての(ということは三十数年前のということだが)店と比べると近年はいくぶん精彩を欠いてはいたが、それでもレジ前の新刊平台に『野呂邦暢小説集成』(文遊社)が並び、文芸評論のコーナーに『岩本素白 人と作品』(河出書房新社)が平積みされる程度には文芸書へのたしかな目配りがあった。リブロと入れ替りに入った三省堂書店は、日本と海外の文芸書が中心だった新刊平台をコミックで埋め尽くした。壁二面(10本ほどの棚と平台)に陳列されていた各国別の翻訳文学書は2本の棚に縮小され(英米独仏露等々の翻訳書がそこにちんまりと押し込まれている)、詩歌のコーナーはコミックとラノベによってほぼ壊滅した。

 池袋は乗換駅なので一昨日も勤め帰りに三省堂書店を覗いてみたが、岩波文庫の棚前の平台に新刊はなく、ハムスンの『ヴィクトリア』(さすが岩波文庫だね)と『文語旧約聖書 歴史』がそれぞれ1冊ずつ棚差しになっているだけで、新訳『パンセ(上)』は見当たらなかった。随筆評論の棚前平台に積まれた細見和之の『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と死』(中央公論新社)の背が低くなっていたのだけが(数冊売れた証拠)わずかな救いのように思われた。

 閑話休題

 さて、東京堂書店でようやっと手にした『天野さんの傘』、なかの数篇はすでに読んでいたが、初めて読むものでは敗戦前後の頃を回想した「裸の少年」と講演録「富士正晴という生き方」が心に残った。表題の「天野さんの傘」は、いかにも山田さんらしい小説ともエッセイともつかぬ小品。山田さんは「VIKING」によって「既成のジャンルにこだわらぬ私のいまの自由なスタイル」、「自分に合った書法を習得していった」と「富士正晴という生き方」のなかで語っている。 

 ここでは「富士正晴という生き方」について、というよりその文章によって触発されたあれこれについて書いてみよう。多くは脇道もしくは愚にもつかぬ由無し事に違いないけれども。


 わたしが富士正晴につよい関心を抱いたのはそれほど昔のことではない。といっても、もう二十年ぐらいにはなるだろうか。何がきっかけだったかは覚えていない。「VIKING」という同人誌はそれよりさらに三十年前、高校生の頃に知った。

 高校に入ってしばらくたった頃、級友何人かで読書会のような集まりを持とうということになった。なかの一人、たしか中学で生徒会の会長をやっていたという早熟の少年から聞いたのだと思う。「VIKING」は関西に本拠地があり、わたしたちの高校もその圏内にあった(ちなみに、手元にある古い「VIKING」の奥付を見ると、印刷は神戸刑務所となっていて、その所在地はわたしたちの高校と同じ市内にあった。神戸刑務所にはわたしの叔父が勤めていた)。かれは、やがては「VIKING」の向こうを張る同人誌をやりたいという稚気愛すべき野心を抱いていたのかもしれない。

 ともあれ集まったわたしたちの最初のテーマは、さて何を読むべきか、だった。毛沢東かマルクスヘーゲルか、そんな名前があがった。だが、それではあまりにフツーすぎてつまらない。そう思ったのか、かれが候補に挙げたのはジンメルだった。だれそれ? わたしたちの誰もそんな名前を聞いたことがなかった(とはいえ、毛沢東もマルクスもヘーゲルも名前を知っているだけで、おそらくそこにいる誰ひとりとして読んだことはなかったにちがいない)。

 「ジンメルというのはあまり知られてへんけどすごい哲学者なんやで」。どこかで聞きかじったのだろう、かれは尊敬する遠縁の伯父かなにかのように自慢げにそう言ったが、ジンメルについてそれ以上のことは知らないようだった。わたしたちに否応のあるはずもなく、「ほんならジンメルにしようか」と即決した。「岩波文庫に『芸術哲学』という本があるんや」。いまでこそジンメルはエッセイであれ論文であれ解説書であれ手軽に入手することができるが、当時はその本ぐらいしか出ていなかった。中公の「世界の名著」の『デュルケーム/ジンメル』の巻が出るのは2年ほど後のことである。わたしたちは岩波文庫の『芸術哲学』をもとめて、町の本屋へと連れだって出かけた。本屋の店長は文庫目録かなにかを調べて、「その本は品切れで重版の予定はないねえ」と厳かに宣言した。わたしたちはうなだれて帰途についた。ちなみに(「ちなみに」ばかりだけど)木村書店というその本屋は、小山書店から出た稲垣足穂の『明石』を復刊した本屋さんで、店長の父親は「水甕」に所属する歌人でもあると知ったのはずいぶん後のことである(いまも同じ場所で商いをしているようだ)。わたしたちの読書会はジンメルで意気消沈したせいか、その後何度か集まりは持ったもののなんら成果を挙げずに自然消滅した。

 またまた閑話休題。

 ジンメルではなく富士正晴だった。わたしは古書店をまわり、富士正晴の本をぽつぽつと集めはじめた。単行本と文庫本をあわせていまでは二、三十冊ほどが手元に集まった。刊行年のいちばん古いのは1964年の『帝国軍隊に於ける学習・序』(未来社)。全五巻の『富士正晴作品集』(岩波書店)は十五年ほど前に、古書店の価格を比較して神保町の一番安い店で買った。月報附きの揃いで一万円だったと思う。インターネットで検索すれば、いまでは半額以下で売られている。書窓展の克書房なら揃いで1500円である。

 山田稔さんとともに『富士正晴作品集』の編者の一人である杉本秀太郎が今年の5月に亡くなったとき、わたしは東京堂書店へ行って杉本さんの詩集『駝鳥の卵』を買った。編集工房ノアから去年出た本で、東京堂書店へ行くたびに詩集棚にその本があることを確認しては買うのを先延ばしにしていたのだった。幸い、わたしと同じことを考えた人はいなかったようで、棚差しになっていた詩集はまだ誰の手にもわたらずにそこにあった。死因は白血病だというから、杉本さんは書きためた詩を死ぬ前に本にしておきたいと思ったのかもしれない。その杉本秀太郎唯一の詩集と、もう一冊、吉岡秀明『京都綾小路通』(淡交社)をひもといて杉本さんを偲ぶよすがとした。

 『京都綾小路通』は杉本秀太郎の伝記で、この本によれば、杉本さんは京都大学大学院在学中に富士正晴と出会った。桑原武夫の引き合わせだった。桑原武夫は杉本さんの仏文科卒論の審査をした一人で(主査は伊吹武彦)、当時(1960年頃)、富士正晴と桑原武夫は人文書院から出る『伊東静雄全集』の編集に携わっていた。桑原から編集を手伝ってほしいと頼まれた杉本さんは、先斗町のお茶屋での打合せで富士正晴と初めて出会う。二度目に会ったとき、富士正晴は「お前とこに行くわ」と杉本家(当時はまだ文化財には指定されていなかった)に押しかけて一泊し、その後、大阪茨木の自宅から京都に出てくるとしばしば杉本家に宿泊するようになった。富士正晴は起きると、顔も洗わず朝からウィスキーをがぶ飲みする(前夜も酒を飲んでいるのだが)といった傍若無人の振舞いをするのだが、おそらくそれは繊細さの裏返しの磊落さだったにちがいない。

 富士正晴については、大川公一の伝記『竹林の隠者 富士正晴の生涯』(影書房)のほか、山田稔『富士さんとわたし 手紙を読む』、島京子『竹林童子失せにけり』、古賀光『富士さんの置土産』(いずれも編集工房ノア)といった本がその人となりを伝えているが、詩人の天野忠の「内面はこまやかでデリケート、そして大胆不敵。ものおじせず、愛敬のある野放図というか、野性味が円熟していた」(『竹林の隠者 富士正晴の生涯』)という人物評が肯綮にあたっているように思われる。もうひとつ、松田道雄京都新聞に書いた追悼文の「冠婚葬祭をふくめて日本のムラ共同体にあるべたべたしたものを一切拒絶していた」「まれにみる近代的知性の持ち主」(同)も出色の人物評だろう。

 山田さんの「富士正晴という生き方」に戻れば、「私が富士正晴を読み直すとき思い浮かぶのは、流れのなかに残る一本の杭の姿であり、孤立をおそれず自立につとめよと説く声です」という言葉に感銘を受けた。松田道雄の人物評とも響きあっていよう。

 大阪茨木市の富士正晴記念館が「富士正晴資料」を精力的に刊行しつづけている。その「整理報告書第20集」の『仮想VIKING50号記念祝賀講演会に於ける演説』(「VIKING」50〜56号に連載された富士正晴の単行本未収録エッセイ、2015年2月刊)と、那覇市で刊行されている季刊誌「脈」84号(2015年5月刊)に掲載された中尾務「島尾敏雄、富士正晴 一九四七−一九五〇」(かつて「サンパン」に連載されたものに加筆)が読みごたえがあった。


2015-08-23

戦争は懐かしい――玉居子精宏『戦争小説家 古山高麗雄伝』を読む





 戦後70年といわれて、いまの若い人はどのような感想をもつのだろうか。二十歳の若者にとって、昭和20年は生れる50年前になる。わたしは昭和26年1951年の生れだから50年前といえば1901年。日露戦争の始まる3年前になる。ロシアは革命の前、帝政時代である。いまの若者にとって日本の敗戦とは、そういう遠い遠い歴史上の出来事なのだろう。

 わたしの幼少期にはまだ戦争のにおいがそこかしこに漂っていた。学校へ戦争絵葉書を持ってくる子供がいた。町では白衣を着た傷痍軍人がアコーディオンを弾いて物乞いをしていた。そうした戦争のにおいはやがて急速に薄れていった。

 一兵卒として体験した戦争を生涯書き続けた小説家古山高麗雄がこういう言葉を残している。


 「もちろん、戦争は懐かしい。当然である。戦争経験は、私の過去の中の重いものであって、楽しくない追憶が多いが、自分の過去の重いものが、懐かしくないわけがない。」


 古山高麗雄は大正9(1920)年に生れ、昭和17年、二十二歳で入隊し、東南アジア、いわゆる南方戦線に送られた。大正5年生れのわたしの父は、日中戦争で中国戦線へ、そして太平洋戦争で南方へ出征し、九死に一生を得て帰国した。寡黙な人だったが、戦争の話になると重い口をひらいたという。懐かしかったのだろうと思う。わたしは父から戦争の話を聞いた覚えがない。

 一度父が上京した折にわたしのアパートに泊ったことがある。靖国神社に行きたいというので案内した。大鳥居の前で父と別れ、わたしは喫茶店かどこかで時間をつぶして戻ってくるのを待った。若かったわたしは靖国神社に足を踏み入れることを頑なに拒んでいたのである。いっしょに行けばよかったとずっと後年になってから思った。淡い悔いの気持が尾を引いた。

 戦争は懐かしい――。

 玉居子精宏『戦争小説家 古山高麗雄伝』(平凡社)のなかの、そのことばで父のことをおもった。


 古山高麗雄にとって戦争体験は『トニオ・クレーゲル』のいう「何か監獄の類」であったのだろう*1安岡章太郎ら「悪い仲間」とやっていた回覧誌に彼は短篇小説を寄せている。旧制高校に通う男が下宿先の奥さんに性的な妄想を抱くといった、当時の自らの境遇をカリカチュアライズした小説だったようだ。「三枚目の幸福」と題されたその小説は、それからおよそ30年後に発表される処女作(と自認する)「墓地で」と、どこか「根本」において相通ずるところがあると自身が語っているけれども、彼が小説家となるにはその間に「何か監獄の類」が必要だったにちがいない。トニオがリザヴェータに語ったことばをもじっていえば、「自分の一兵卒としての経験が書くものすべての根本主題になっているんです。だから大胆に言ってみればこうじゃありますまいか。小説家になるためには何か監獄みたいなものの事情に通じている必要がある」と。

 そして、さらにトニオのことばに従って敷衍するならば、古山を小説家ならしめたのはじつは「戦争体験」そのものではなく、戦争体験を通して得た「誠実で健全で尋常な人間」たりえないという自覚なのである。以前、大西巨人の『神聖喜劇』にふれて書いたように、詩人芸術家になるにはある種の「獄中体験」のようなものが必要であり、さらにいえば彼をしてそういうところへ追いやったものが「作家精神の根底や源に密接な関係を持っている」のである。そして、表現者というものは「誠実で健全で尋常な人間」もしくはそうした人間たちの営む社会・人生につよく惹かれつつ、いっぽうでそれを唾棄するというアンビヴァレンスのなかに生きている、というのがトニオの(おそらくはトーマス・マンの)、そして東堂太郎の(おそらくは大西巨人の)抱懐するイデーなのである。

 古山もまた、応召して戦場へおもむく前、明晰な頭脳をもちながらあるいはそれゆえに、成績劣等で落第した三高を自ら退学し、東京に舞い戻ってフーテン生活をするといった「青春放浪の戦場」*2にあった。「誠実で健全で尋常な人間」であることを愧じる性行は、実際の戦場へ従軍する前に幼いながらもすでに身につけていたのである。

 古山は初めて書いた小説を振り返ったエッセイ「三枚目の幸福」でこう書いている。


 「いずれにしても戦争が、私から何かを奪い、何かを与えた事件であり環境であったからには、振り返ってみないではいられません。(略)それが戦争でなくてほかのものであっても同じことですが、私の場合、まず、なんといっても戦争ぐらい、ドジの自覚を決定的に自分に押しつけたものは、ほかにはないのではないかという思いがあったのです。

 その自覚は、人をペシミスティックにし、去勢します。そして小説とは、その去勢を恢復する作業かも知れないと考えたことがありますが、いずれにしても、御大層なものではありません。小説とは、小さな生きものたちのささやかな談話に過ぎない、しかしだから心なごむものになりうる。そういったことで“恢復”を考えているのです。」*3


 「ドジの自覚」とは、古山にいわせれば、「人はみな、何かによって、いつ、どこでドジを踏まされてしまうかわかったものではない」という、いわば人生訓のようなものである。ドジを踏むのは「三枚目」ばかりではない。「実人生には、美男や成功者や艶福者はいても、ドジを踏む要素は押しなべて誰にでもある」のである。古山がそう気づくのに戦争体験を含む30年という時間が必要だったといえば、ひとは呆れるだろうか。

 だがそれを柄谷行人のいう「自己欺瞞に対しては苛酷なほどに働くような自意識」であると言い換えれば、ことはそれほど簡単ではない。自分を「誠実で健全で尋常な人間」だなどと間違っても思ってはならない。その仮借のなさがはたらくのは「自分自身に対してだけであって、それは他者に対してはマザーシップとしてあらわれ、けっして勇ましい正義の告発というかたちをとらないのである」(柄谷行人「自己放棄のかたち」*4)。

 そうした「ドジの自覚」は「戦争を扱った小説」であろうと「市井の話を扱った小説」であろうと選ぶところはない。「人が小さな、ぶざまな生きものである」ことを、たった一つのことを、古山高麗雄は生涯をかけて歌い続けたのである。

 『戦争小説家 古山高麗雄伝』では、心臓に持病を抱えながら、生れ故郷の北朝鮮新義州を一目みるために苦心する、その鬼気迫る執念――短篇「七ヶ宿村」で老妻に「あなたは、死ぬまで、戦争や新義州から離れられないのね」といわせた――に打たれた。戦争は懐かしい。それは古山高麗雄にとっては生れ故郷と同義であったのかもしれない。



戦争小説家 古山高麗雄伝

戦争小説家 古山高麗雄伝

*1id:qfwfq:20140614

*2:勝又浩「愛と鎮魂――未復員兵の戦後」、『プレオー8の夜明け 古山高麗雄作品選』講談社文芸文庫、2001

*3:新鋭作家叢書『古山高麗雄集』所収、河出書房新社、1972

*4:新鋭作家叢書『古山高麗雄集』解説

2015-08-02

セラスは、余りに幸福すぎたので……  悼詞・鶴見俊輔





 永井龍男に「朝霧」という短篇小説がある。“短篇の名手”と称される永井龍男の小説のなかでも代表的な一篇に数えられる名篇である(昭和24年の作)。

 語り手(名を「池」という)が学生時代の友人のうちを訪ね、そこで出会った友人の父親(X氏)と母親について、そして友人の結婚にまつわるささやかなエピソードを語る、といった内容。

 X氏は東京の郊外に住み、私鉄の電車を渋谷で省線(いまのJRですね)に乗り換え、市中の中学校へ通う教員だったが、三、四年前に辞職した。「判で捺したような教師生活」と形容されるように、きわめて律儀な、というより度を越して几帳面な性格であることが冒頭のエピソードで示される。X氏は朝、家を出るときに、「たぶん、今日の帰りは、五時……十七分くらいになりましょう」と老妻に告げる。

 X氏はうちを出ようとしたが、ふと思い直して「五時七分には帰る」と訂正する。そしてうちを出てしばらくすると取って返し、「やはり五時十七分に帰る」と言い直す。老妻も慣れたもので「はいよ」と応えて動じない。これは「毎日必ず繰り返される習慣」で、帰宅予定時間を変更するために「わざわざ渋谷駅から通告しに戻ったこともある」というから尋常ではない。語り手はこれをX氏のいくらか度を越した律儀な性格によるもので、「もし、X氏のこうした行為を、健康でないという人があるならば、多かれ少なかれ、われわれ勤人は一種の病気のようなものにかかっているのだと、答えることも出来るかと思う」という。

 だが必ずしもそうとばかりはいえないのは、語り手がX氏のうちを訪ね、老妻に息子の友人の池さんですよと紹介されて挨拶をかわし、しばらく経つと「失礼でございますが、貴下(あなた)様は、どなた様でしたか?」と鷹揚に問いかける場面がつづくからである。そして、話の接ぎ穂に話題にしたテニスについてX氏は「テニスはいい、こう、球を離した瞬間、はすにドライブを掛ける。あの時がいい」と手振り身振りつきでなにかに憑かれたように何度も何度も繰り返すのである。

 X氏は「口養生のひどくやかましい」律義者というばかりでなく、「極度に生に執着」し、健康法としてラジオ体操と入浴は欠かさなかった。風呂釜がこわれて入浴できなくなると、打ちひしがれて明るいうちから布団を敷いて寝てしまう始末だ。「生活の秩序が守られている限り、生命は保証されると、X氏は信じていたものに相違ない」と語り手はいう。だから友人つまりX氏の息子良英の結婚問題にも「理由なく諾否を遅延」するのだという。

 良英もまた父親がぼけてしまったのは「生への妄執」に原因があると考えている。「家庭に於ける奇妙な秩序も、嫁という他人を、家に入れたがらない恐怖心も、自己の余生を盲目的に保護しようとする、執着心に端を発している」と。良英はその妄執に「引導」を渡すために語り手と一計をめぐらし、「家出」というひと芝居を打つことにする。息子が置手紙をして姿を消した翌朝、語り手がX氏のうちを訪ねると、老妻がうろたえている。X氏はといえば、茶の間に端座して沈痛な面持ちで独白している。


 「ラセラスは、余りに幸福すぎたので、――不幸を求めることになりました」


 おろおろと取り乱している老妻におかまいなしにX氏は「ラセラスは」「ラセラスは」と繰り返すばかりだ。ついに堪忍袋の緒が切れた老妻は「お黙りなさい!」と一喝する。


 「ラセラスが、幸福で、それでどうしたんです! その毛唐人が、良英を連れ戻して呉れるとでも云うんですか。ただでさえもうろくしているのに、……ほんとにラセラスは悪い奴です!」


 このひと芝居が功を奏し、息子は無事に結婚することができた。戦争が「次第に辛く煮詰って」来るなか、X氏は心臓麻痺でぽっくりと亡くなった。息子が見つけたX氏の日記には、命日の一週間先の日付まで記されていた。

 「二月十一日 晴  最中二個甘し(つぶし餡)

  二月十二日 快晴 寒明けたれど寒より寒し。鯉こく、ライス・カレー。

  二月十三日 快晴 石ごろも三箇甘し 牛乳一合。配給ナシ――。」

 むろん、モナカや鯉こくなどが容易に口に入る御時勢ではない。語り手は、X氏の死がタイミングを逸したとはいえないと思う。やがて辺り一帯は焼け野原になってしまうのだから。このあとに終結部の一節がつづくのだが、それは書かないでおこう。 

 

              *


 さて、ある雨の昼下がり、ガード下の自転車置き場の地面にひとりの男が段ボールを敷いて端座している。男は背筋をぴしっと伸ばし股引を繕っている。そのみごとな運針に見とれていたら、若い女がかれに近寄ってきて写真を見せてなにか尋ねている。男は首を横に振る。彼女はその様子を眺めていた私のほうに近づき、「ホームレスの方たち」のあいだでこの男を見かけたことがないかと写真を見せて尋ねた。女の鮮やかなパウダーピンクのスーツから淡いバニラの香りが漂った。写真に写っている男は彼女の父親だという。私は写真の背景の観覧車に見覚えがあったが、そのことは告げずに首を横に振った。去ってゆく彼女の後ろ姿を見送っていたら、ふとある言葉が徒雲(あだぐも)のように浮んできた。「サリナスは……あまりに幸福すぎたので、不幸を求めることになりました」。はて、あれは誰の言葉だったのか。

 雨が止んで日も暮れかかった頃、私は酒場へと足を向ける。途中で、ちょっとした騒ぎに遭遇する。さつま揚げを二枚盗んだと中年男が小突かれている。股引を繕っていた男だった。酒場で顔馴染みと呑んでいたら昼間のパウダーピンクの女がやってきて男たちに写真を見せて問いかけている。「お見かけになりませんでしたか」。大方はドヤの男たちで愛想はいいが応えはそっけない。わたしはほろ酔い気分で思い出す。そうだ、あれはサリナスではなく、ラセラスだった、ラセラスはあまりに幸福すぎたので、不幸を求めることになりました。パウダーピンクの女は肩を落として出て行った。私はなにがなしほっとする。そして、やや気落ちをしながら、幸福すぎたので……を胸になぞる。

                         ――辺見庸『眼の探索』(角川文庫)より

              *


 「この短篇小説は、老年ともうろくを忠実にえがいたというだけでなく、その背景に、それととりくむ日本文化の力を示唆する」、そう書いたのは鶴見俊輔である。


 「「ラセラスは……」という短文がどこからとられたか。語り手は知らないし、おそらくX氏も知らないかもしれない。それは受験の譬えとして、予備校教師のX氏の記憶に入りこんだのかもしれないではないか。そういう誰の作の一部とも知れず、脈絡からまったく切りはなされた文学の切れっぱしが、われわれの日常生活で、また密林の戦場で、私たちを支える一つの力となることがある。それは文学を、全集のそろった大学の研究室で読むのとはちがう流儀があることを教える。」*1


 鶴見俊輔が「老いへの視野」という文章でこう書いたのは1980年だった(「思想の科学」80年12月号/『家の中の広場』編集工房ノア1982年)。有吉佐和子が『恍惚の人』を発表したのが1972年、いずれにせよ、認知症という言葉がひろく知られるまでは四半世紀の時を経なければならない。X氏は、従来の性格にくわえて初期の認知障害の症状を呈していると思われる。それらは、この小説が書かれた当時は老人に不可避的におとずれる、ぼけ、耄碌、の症状と認識されていた。認知症は脳の器質的障害である。そう認識されて、原因の探究、対症療法、根本的治療の研究が行なわれている。そうした医学的知見が一般的に広まり、多くの人々に共有されることはいいことにちがいないが、その反面、社会からある種の寛容さが失われてきたような気がしないではない。「狂気」の例を持ち出すまでもなく、認知症患者がときに社会・家族から隔離される例もないではない。むずかしい問題が多々あることを承知の上でいえば、「お爺さんもこの頃ぼけてしまって」という言い方のなかには、だれもがいつかは通る道、といった老人にたいする柔らかなまなざしがあったように思う。少なくとも、いまの老年の多くが抱いているような、自分が認知症になるかもしれないという恐怖、はなかっただろう。

 1980年といえば、鶴見さんはまだ還暦もむかえていない。だがその頃から「老い」が主題として意識され始めたのだろう。その後の著作の多くが、回想、耄碌、をテーマとするようになる。耄碌をテーマとしながら、本人は九十歳を過ぎても耄碌することはなかった。百歳ぐらいまで生きるのだろう、とわたしは勝手に思っていた。耄碌もせずに。

 吉本隆明が亡くなったとき、一つの時代が終わった、とわたしは思わなかった。鶴見俊輔が健在だったからだ。鶴見さんがいなくなったいま、ほんとうに一つの時代が終わった、という感がする。鶴見俊輔の思想はだれかに引き継がれてゆくのかもしれない。だけど鶴見俊輔はもういない。


朝霧・青電車その他 (講談社文芸文庫)

朝霧・青電車その他 (講談社文芸文庫)

眼の探索 (角川文庫)

眼の探索 (角川文庫)

家の中の広場 (1982年)

家の中の広場 (1982年)

 

*1:むろん鶴見俊輔は知っていたはずだが、これはサミュエル・ジョンソンが書いた唯一の小説「アビシニアの王子ラセラスの物語」を典拠とする。『幸福の探求』の題で2011年岩波文庫に入った。朱牟田夏雄訳。

2015-05-23

言語・法・貨幣――岩井克人経済学の宇宙』を読む





 今週の「週刊文春」の「私の読書日記」(リレー連載)で、鹿島茂が岩井克人の新刊『経済学の宇宙』を見開き頁の3分の2以上のスペースを費やして取り上げている。私の知る限り、同著の最初の書評であり(明日、日曜の新聞各紙の書評欄のいずれかに書評が掲載されるかもしれない)、鹿島はその概要を手際よくまとめている。

 本書は、日経新聞の経済解説部編集委員の前田裕之が聞き手となって岩井が語り下ろしたもの。岩井経済学の骨子は、不均衡動学、貨幣論、法人論であるといっていい。それらについてはすでに何度も岩井自身によって語られており、三浦雅士を聞き手とする『資本主義から市民主義へ』(ちくま学芸文庫)もある。じっさい、本書『経済学の宇宙』は『資本主義から市民主義へ』の焼き直しであるとの批判もありうるだろう。だが、本書の後者と異なる独自性を挙げれば、ひとつは、これが岩井の自伝ともなっているという点にある。

 岩井は、中学生の頃に「SFマガジン」が創刊され、50年代アメリカSF小説を読みあさったと語っている。1947年生れの岩井はわたしの姉とほぼ同世代である。わたしの姉も創刊されたばかりの「SFマガジン」を毎月購入し、おかげでわたしも、わたしの弟もめでたくSFファンになった(弟は「マニアの道」に進み、ポケットブック版「ハヤカワ・SF・シリーズ」を全巻揃えるに至った)。岩井はSF小説を中学で卒業し、高校に入ってプルーストトルストイドストエフスキーらに親しむ「文学好き」となる。東大入学し、「駒場文学」(文学サークル)に顔を出し、五月祭賞(大江健三郎が「奇妙な仕事」で入選し、東大新聞に掲載されて実質的なデビュー作となった)に小説を応募したりもするが、高校生で出合った宇野弘蔵の本によって経済学を専攻する。

 経済学部ではマルクス経済学が圧倒的に優勢だった、と岩井はいう。わたしは岩井が学部を卒業した翌年に大学に入学したが、わたしの入った大学ではもはや近代経済学が圧倒的に優勢だった。三年生からゼミに所属することになっていたが、近経のゼミの志望者には面接があり、成績が優秀でないと入れないと噂されていた。わたしは、ほとんど大学に顔を出さない落ちこぼれの学生だったが、もとより近経には関心がなく、一人しかいないマル経の先生のゼミを志望した。そのゼミには、近経ゼミに落とされてしょうがなくやってきたような学生ばかりが集まっていた。わたしは二年次を終えたあと丸一年ドロップアウトしてアルバイトに明け暮れる生活をしていたこともあって、彼らとは馴染めずにひとりで資本論を読んでいた(ゼミ生のコンパやゼミ旅行などがないのはありがたかった)。

 岩井は東大を卒業するとMIT大学院に入学し、そこで博士号を取得し、イェール大学助教授就任する。わたしはいままで岩井を典型的なエリートの秀才だと思っていたが、岩井自身によると挫折の連続であったということになる。新古典派経済学(近経)の優勢なアメリカの学会で新古典派批判をおこなうこと、研究に没頭して論文を量産できないこと、それらはアメリカの大学における居場所を自ら狭めることにほかならなかった。だがそのことによって逆に、岩井は独自の貨幣論、法人論、信任論へと研究を進めることができたのである。アメリカの大学で折り合いをつけながら教授になっていたら、いまの岩井資本主義論に至ることができたかどうか。人間万事塞翁が馬

 さてもうひとつ、『経済学の宇宙』が『資本主義から市民主義へ』と異なる独自性を挙げれば、それは聞き手の存在である。三浦雅士は頭がよく勉強家でもあるので、岩井の言いたいことをよく理解して、ときには先回りして解説してしまうことも少なくない。インタビューでありながら、対談に傾きがちである。一方、『経済学の宇宙』の前田裕之はほとんどおもてに姿を現さない。ときに、短いが的確な要約を差し挟むだけだ。前田は、東大で岩井のゼミ生であったから、岩井の言いたいことは十分に理解しているはずだ。だが、ここではおそらく「頭の悪い聞き手」を演じて、岩井から言葉を引き出す役目に徹している。語り手は、聞き手が納得していなければ言葉を尽くして説明しようとするが、すべてを理解している聞き手には言葉少なにしか語らないものである。


 本書『経済学の宇宙』は、岩井理論のこのうえない手引書である。その真髄は岩井独自の「言語・法・貨幣」論にある。人間は言語・法・貨幣によって社会を形成する生き物だが、それらには根拠がない。言語はそれらが使われている社会のなかで言語として流通しているから言語としての意味を持ち、法もそれが法としてその社会で認められているから法としての意味を持つ。貨幣もまた同様である。それらは「自己循環論法」によって支えられている。「自己循環論法」とは、それに根拠がないということが唯一の根拠であるような存在をさす。すでに『資本主義から市民主義へ』などによって示された岩井理論だが、本書はそれをさらに丁寧に懇切に解き明かしているといえよう。同著や『二十一世紀の資本主義論』『会社はこれからどうなるのか』などを読んだ読者にも本書は新たな発見をもたらしてくれるだろう。

 わたしは十年ほど前に二度ばかり岩井の謦咳に接したことがある。一度はわたしの関わっていたセミナーのゲストスピーカーとして。もう一度は、わたしの編集した本の座談会の出席者として。そこで岩井の語った「信任論」にわたしはつよい印象を受けた。それは法人論における「信任」の論理を環境論に応用したものだった。

 岩井が現在到達した「言語・法・貨幣」論のさらなる考究と、「市民社会論」――法が支配する国家にも、貨幣が支配する資本主義にも繰り込まれていない第三の領域(前田裕之による要約)――の展開を期待してやまない。


2015-04-19

木戸にとまった一羽の小鳥――『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』を読む





 タイトルが『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』、著者の「11冊目の小説、18冊目の著書」だからそう名づけたのだという。なんとも人を喰った小説(家)ではないか。

 このノルウェイの作家ダーグ・ソールスターの著書をいままでに読んだことのある人は、日本では皆無とはいわないけれど、おそらく100人といないだろう。そんな小説が翻訳されて書店で平積みになるというのは、むろん村上春樹が訳したからである。村上春樹自身もオスロの空港でこの小説の英訳をたまたま見つけるまでは、ソールスターについてはなんら知るところはなかった、そして、飛行機に乗って数ページを読み出したら止まらなくなって夢中で読みふけった、と訳者あとがきに書いている。ふーん、村上春樹をそれほどまでに夢中にさせた(なおかつ訳してみようとまで思わせた)小説とはいったいどういうものなのか。

 村上は「とにかく不思議な小説だ」「タイトルだけではなく、中身もそれに負けず劣らずユニークだ」と書いている。ユニークなのはそのスタイルで、「いったい新しいのか古くさいのか、それすらうまく判断できない」。


 「文体や筋立ては一見してかなり保守的なのだが、全体的なたたずまいはむしろ前衛的ですらある。僕はこの本について「それはどんな小説ですか?」と誰かに訊かれるたびに、「そうですねえ、コンサバな衣をまとったポストモダンって言えばいいのか……」ととりあえず答えてきたのだが、それ以外の適当な表現はいまだに思いつけずにいる。」


 どうですか。読んでみたくなるでしょう?「コンサバな衣をまとったポストモダン」とは手法的にはリアリズムだがどこか微妙にずれている、といった「彼独自のスタイル」を指してのことだろう。いわゆるオフビートな感じなのかなと思って手にとってみた。

 で、読み終えた印象はというと……ビミョーです。「読み出したら止まらなくなる」という小説ではなかったな、わたしの場合。途中でちょっと飽きたし。それでも投げ出さずに最後まで読み終えたのは、村上春樹のいう「予測不可能なストーリーライン」にたいする興味からではなく、この小説のいったいどこがそれほどまでに村上春樹を捉えたのか、それを知りたいという興味からだった。「読後思わず唖然としてしまう」という結末についてはむろんここでは書かないけれど、それも「予測不可能」というほどではなく「想定の範囲内」ではないかと思う。

 村上のいう「独特の巧まざるユーモアの感覚」というのはたしかにあって、たとえば、「ヴィリニュスはどこにあるのか? ヴィリニュスはヨーロッパのどこかしらに位置している。それ以上正確に述べるのは不可能だ」といったすっとぼけた記述にも窺うことができる。これは「巧んだ」ものだけれども(ヴィリニュスはリトアニアの首都である)。


 主人公ビョーン・ハンセンは妻と別れ、幼い子供を妻のもとに残してツーリー・ラッメルスという女性と暮らし始める。ハンセンはノルウェイの地方都市コングスベルグの収入役になり、彼女とともに演劇活動にいそしむようになる。イプセンの「野鴨」の上演を手がけたりするのだが舞台は惨憺たるもので、それが原因ではないけれども二人は14年間連れ添ったあげく別れることになる(だが、何が原因だったのだろう)。物語は、二人のラブストーリーにはほとんど関心を示さないかのようだ。

 ハンセンはコングスベルグ病院のショッツという医師を訪ね、ある計画の共犯者になってくれるように依頼する。その計画とは何か、それが物語の焦点になるのかと思っていたら、そうではなく、成人になった息子が一緒に暮らしたいと手紙を寄こし、その息子との生活がもっぱら語り手の関心の中心をしめることになる。ストーリーが次々と脱線してゆくあたりはポストモダン小説の先蹤『トリストラム・シャンディ』的といえばいえなくもないけれども、トリストラムほど突拍子もない物語というわけではないし、あるいはアンチロマンほど意識的な方法論に貫かれているというわけでもない。なんとなくだらだらと続いてゆくストーリーをなんとなくだらだらと読み続けてゆくといった感じ。

 村上は、登場人物に「感情移入をすることはほとんど不可能」であるのは彼らの「心理や意図に、それぞれの個人的な論理はあっても、それらの論理が互いに有機的に絡み合っていくことがないからだ」と書いている。「それらはただすれ違ったり、ぶつかり合って行き先を失ったりするだけだ」と。それはその通りであって、登場人物たちのあいだに激しいぶつかり合いや葛藤は存在しない。主人公ビョーン・ハンセンが妻と別れるに際しても、また、愛人ツーリー・ラッメルスとの出会いと別れにしても、彼らのあいだに葛藤はない。ほとんど20年ぶりに出会った息子との間にも。

 これがたとえば『8月の家族たち』のような作品(戯曲/映画)であれば、家族の間には暑苦しいほどの葛藤があり、その葛藤がストーリーを先へ先へと推進してゆく。あるいはヌーボーロマンであれば、小説をドライブするのは文体(スティル)である(ちなみにこの小説の冒頭に出てくる作家「ビュートル」は「ビュトール」の誤りですね)。

 では、『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』には何があるか。おそらくここにあるのは、デタッチメントだろう。村上春樹の(初期の)小説を批評する際にキイワードとなったデタッチメント。村上がこの小説に寄せる親近感もそのせいである、というのが、先に書いた「この小説のいったいどこがそれほどまでに村上春樹を捉えたのか」という疑問へのわたしなりのとりあえずの回答である。違ってても責任はもちませんけど。

 村上はこの本を読んだあと、イプセンの『野鴨』を読み返してみたら、「両者のあいだにずいぶん通底した雰囲気があることを発見して、驚いてしまった」と書いている。登場人物たちの「すれ違い方、ぶつかり合い方が、イプセンの戯曲と、このソールスターの小説においては見事なほど通じ合っている。極端なことを言えば、どちらの作品においても、人々はお互いを理解し合うことを意図的に避けているようにさえ見えるのだ」と。

 そうかなあ。『野鴨』の登場人物たちの間にはけっこう「ぶつかり合い」があるような気がするけれども。近代劇ですからね。『野鴨』では「お互いを理解し合うことを意図的に避けている」というよりも、彼らは「真実」に目を向けることを意識的・無意識的に避けているのであって、まあ、それがひいては「お互いを理解し合うこと」を避けていることに繋がるのかもしれないけれど。「雰囲気」は全然ちがいます、とわたしは思います。

 結局、この『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』という小説、面白いのか面白くないのか、わたしにはよくわからない。ひとに薦めるかといえば、「時間があればどうぞ」といったところか。そうそう、「雰囲気」がよく似てると思ったのは、『9990個のチーズ』というベルギーの小説。著者はヴィレム・エルスホット。こちらは80年も前の小説だけれど、すっとぼけたユーモアという点では、こちらのほうがずっと面白い。

 いずれにせよ、驚天動地の事件が起こったりするわけではない。ナボコフが自作の小説に付した序文のことばを借りれば、「しっとりした灰色の日に、一羽の小鳥が木戸にとまっているにすぎない」、そんな小説である。



2015-04-05

書物探索のつづれ織り――北村薫太宰治の辞書』を読む





 北村薫さんの新刊『太宰治の辞書』が出た。久々の「円紫さんと私」シリーズ。カバー装画はもちろん高野文子さん。「花火」「女生徒」、それに書下ろしの表題作「太宰治の辞書」の三作を収録。扉裏の献辞「本に――」にゾクゾクする。残りのページが少なくなるのを惜しみながら一気に読み終える。

 ――私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のような花火の事を。

 そう、「花火」は芥川龍之介の「舞踏会」をめぐるストーリーで、江藤淳三島由紀夫の「舞踏会」評が引用される。むろん引用するのは「私」である。女子大生だった「私」も結婚して中学生の子どもがいる。時の経つのは早いものだ。


 鹿鳴館の夜空に煌く花火を三島由紀夫はこう評する、と「私」は引用する。

 「この短篇のクライマックスで、ロティが花火を見て呟く一言は美しい。実に音楽的な、一閃して消えるやうな、生の、又、死のモチーフ。」

 三島は、「芥川は本質的にワットオ的な才能だつたのだと思ふ」という。そして「『舞踏会』は、過褒に当るかもしれないが、彼の真のロココ的才能が幸運に開花した短篇である」という。

 「私」は三島の『小説家の休暇』より「ワットオの《シテエルへの船出》」の一節をさらに引用する。


 「ロココの世界は、画布の上でだけ、崩壊を免かれるのだった。なぜならワットオのように輝かしい外面に憑かれた精神は、それ自身の運動によって崩壊してゆく内面的な危機から免かれていた。描かれおわった瞬間に各種の情念は揮発して消え、あとには、目に見える音楽のようなものだけが残った。」


 この引用が新仮名表記になっているのは「私」が本棚から手にとったのが、おそらく新潮文庫版だったからだろう(「舞踏会」評の引用は全集からと断わっている)。そして「私」は、こうコメントする。「ロココ風とは、一般に優美軽快、繊細典雅。貴族的であることだろう。武張った印象のある三島だが、建てた家はロココ調であった」と。

 「花火」はそれ自体で完結した短篇であるけれども、ロココをかすがいにして「女生徒」につながる。ここには懐かしの正ちゃん(高岡正子)も登場する。正ちゃんは「ロココっていえば、――太宰だな」と「意外なこと」をいう。「女生徒」の「ロココ料理」である。

 正ちゃんいわく「まあ、この《ロココ料理》のために、ヒロインの造形があり、全体があるといっても過言ではないのであります」。そして「私」は角川文庫の『女生徒』を読むことになる。

 ロココ料理とは「女生徒」の語り手であるヒロインが考案したもので「お台所に残って在るもの一切合切、いろとりどりに、美しく配合させて、手際よく並べて出す」もので「ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見える」というものである。

 「私」は「女生徒」の元になった「有明淑(しず)の日記」の探索におもむく。「女生徒」は大半が有明淑の日記に基づいて書かれたものだが、ロココ料理のくだりは太宰のオリジナルである。ちなみに、有明淑の日記と「女生徒」とを比較して、太宰は何を使い、どのように変更したか、にたいする「私」の考察はするどい(とりもなおさず北村さんの考察でもあるわけだが)。

 「私」は、初出の雑誌も見ておかなくちゃと「女生徒」が掲載された「文學界」の閲覧のために文藝春秋に出かける。編集者という設定が効いている。「女生徒」のロココ料理のくだりにこんな一節がある。


 「ロココといふ言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されてゐたので、笑つちやつた。名答である。美しさに、内容なんてあつてたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまつてゐる。だから、私は、ロココが好きだ。」


 旧仮名の表記になっているのは昭和十四年の「文學界」から引用しているためである。ただし、現行の刊本と文章に異動はない。


 さて、そのヒロインが繰った「辞典」とはなんだったか。その探索行が「太宰治の辞書」のテーマとなる。そして真打円紫さんがこの連作のトリを務める

 「円紫さんの噺を初めて聴いたのが、もう四半世紀近く前――(略)僭越ながら、同じ時間を生きて来た円紫さんと、客席と高座で向かい合えるのは心躍ることだ。」

 『空飛ぶ馬』で初めて北村さん(当時は「覆面作家」といわれていた)と出会ったのが、もう四半世紀以上前。僭越ながら、同じ時間を生きて来た北村さんと、このシリーズの新作で向かい合えるのは心躍ることだ。

 それはともかく、いつにかわらぬ円紫さんのするどい指摘にうながされて、「私」は「本の旅」をつづける。その詳細は、この本をお読みくださいというしかない。ここまで、注意深く地雷を避けるように迂回しながら紹介してきたが、本書をまだ読まれていない方の「心躍り」をこれ以上妨げてはいけない。むろん、円紫さんのいうように「唯一無二の答えが出るようなら、小説とはいえない」のであって、わたしがこの小説のなかのささやかな「謎」を明かしてしまったとしても、この小説の魅力はいっこうに失われはしないのだけれども。

 ともあれ、以下にしるすのは、本書を読んでのわたしのきわめて私的な感想である。

 先に引用したように、三島の建てたロココ調の家は有名である。正しくはヴィクトリア朝コロニアル様式というそうだが、三島はなぜああいう悪趣味な(とわたしには思える)家を建てたのか、それがわたしの長年の疑問だった。映画(『からっ風野郎』)に主演するのと同じ無邪気な露悪趣味のひとつかもしれないと思っていたのだが、この『太宰治の辞書』を読んでその疑問に答えが与えられたような気がしたのである。

 ロココとは「華麗のみにて内容空疎の装飾様式」であるという。太宰治(の辞書)がそういうのである。三島の小説は、そのきらびやかな美文によって、華麗ではあるが人工的な作り物、内容空疎(ロココ料理のような!)と評されることも無きにしも非ずだった。三島自身はそうした批評に表立って異を唱えはしなかった(ように思う)。だが、内心「美しさに内容なんてあってたまるものか」と思っていたにちがいない。そして、文章によってではなく、ロココ調の家によってそうした批判に一矢を報いたのである。「純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまつてゐる。だから、私は、ロココが好きだ」

 太宰治を嫌っていたと言われるけれど、心中奥深くで三島は太宰に共感していたにちがいない。だから冷水摩擦やボディビルや規則的な生活にあれほど執心したのだろう。三島もまた芥川とひとしく「本質的にワットオ的な才能」の持ち主だった。「目に見える音楽のようなものだけ」が残ることを祈念し、「一閃して消えるやうな、生の、又、死のモチーフ」にとりつかれた生涯だった。

 ちなみに、奥付のあとの自社広告までふくめて『太宰治の辞書』という作品になっている。この本に寄せる編集者の愛情が窺われる一冊である。



太宰治の辞書

太宰治の辞書

2015-02-28

詩を書く前には靴を磨くね――岩波文庫版『辻征夫詩集





 今月、岩波文庫の新刊で出た『辻征夫詩集』を買う。思潮社現代詩文庫版(正・続・続続)も全詩集の『辻征夫詩集成(新版)』も持っているのだけれど、「岩波文庫に1票」というつもりで購入する*1

 わたしのつくる本はたいがい票の集まらない本ばかりだが、3000部も出ればもって瞑すべしと思っている(儲からなくて会社には迷惑をかけているけれども。しかし、大西巨人が書いたように、わたしとして3万部、300万部、3000万部売れることを願ってはいるのである)。

 それはさておき。

 『辻征夫詩集』を買ってぱらぱらとページをめくって拾い読みし、なんというか、春の兆しを感じはじめたちょうど今頃の季節――庄司薫が『白鳥の歌なんか聞えない』で「金魚鉢の金魚が勢いよく泳ぎだしたんだよ」と書いたような、あるいは、目にはさやかに見えねども日差しのぬくみにおどろかれぬるといったような――に心がちょっとほどけてゆくような気分を味わった。それがわたしにとって辻征夫の詩を読む効用なのである。


 辻さんに「詩を書く前には靴を磨くね」という一行ではじまる詩があって、アメリカのプロボクサーのデビー・ムーアが――かれは元フェザー級の世界チャンピオンで、試合で受けたダメージが元で若くして死んでしまうのだけれど、試合の前には一心不乱にリングシューズを磨いた。自分もそれと同じで、詩を書く前にはふだん履いてないような靴まで五足も六足も磨くんだ、という。

 そこで1行あいて、「部屋を片付けていることもある」。それから電話をかける。それでもうやることがなくなると、部屋に閉じこもって、むねも、のども、めも、悲しみでいっぱいで、それで詩を書くかというと「書きゃしないんだよ」。地平線のずっと向こうまでのびているハイウェイ、たぶんアメリカの風景なんでしょうね、そんなふうに悲しみだけが「どーん」とつづいてて、そこにほおり出されているのが自分なんだ、というのですね。

 で、詩は「ふりむくと/ことばの破片が/事故の痕跡みたいに落ちていることがあるけれど/それだけさ」と終わる。これは「ハイウェイの事故現場」という題の詩なんだけど、辻さんという人は、なにかそういう深い悲しみを胸の奥にいつもかかえていて、だからライトヴァースと言われる、ああいう軽みのある独得の詩を書けたんじゃないかなと思う。もちろん、この詩の語り手と詩人辻征夫とは区別しなければいけないんだけど、辻さん自身もそういう悲しさ(「なにが悲しいのかって/きかれても困るけれど」と書かれている)、そういうものを抱えていた人だという気がする。

 「かぜのひきかた」という詩にも「さびしさと/かなしさがいっしゅんに/さようして/こころぼそい/ひとのにくたいは/すでにたかいねつをはっしている」という一節があるし、同じ『かぜのひきかた』という詩集のなかに「ぼくにも かなしいものが すこしあって/それを女のなかにいれてしばらく/じっとしていたい」(「ある日」)という詩があり、それはもう六歳の頃から「まつおかさんの家」の前を通ると「こころぼそさと かなしみが/いちどきに あふれてくる」のだから年季が入っている。

 辻さんに『ゴーシュの肖像』(書肆山田、2002年)というエッセイ集があって、この本が出たときにbk1のサイト(いまはhontoネットストア)に書評を書いたことがあるので、前回と同様以下に掲げておこう。


    「律義なせつなさ」をかかえた人たちの素敵な肖像


 「くらしが/夢のように/なってから/夢はほとんど/みなくなった/ねむっているとき/わたしはたぶん/はっきりと/現実的に/どたりと/希望もなくねむっている」(辻征夫「睡眠」全篇)


 カフカ夢日記を思わせるような詩だ。辻さんには「老婆殺し」や「学校の思い出」「ジャックナイフ」といったカフカっぽい散文詩があって、じっさい「ジャックナイフ」にはカフカの小説「兄弟殺し」が引用されていたりもする。

 現代詩文庫の『辻征夫詩集』に清水哲男さんが「”辻クン”のジャックナイフ」という文章を寄せていて、辻さんのことを「私にはなんとなくせつなさが洋服を着て、せつなさがネクタイをしているような印象を、いつも受けてきた」と書いている。そういえば、ボヘミア王国労働者災害保険局法規課職員フランツ・カフカにも、清水さんのいう「律義なせつなさ」がうかがえるような気がしないでもない。

 清水さんは「彼の前に出ると(略)誰だって自分のほうがヤクザな生きかたをしているように思ってしまうのではないか」とも書いている。「そんなせつなさを”辻クン”は生得のものとして曳きずっているような気がするのである」と。それを「親和力」と清水さんは呼んでいるのだけれど、どうやら辻さんもまたそうした「律義なせつなさ」を感じさせる人たちに惹かれるところがあるようだ。本書の表題ともなったセロ弾きのゴーシュにしても、いや宮沢賢治にしてからが、そんなせつなさを曳きずっている人じゃあるまいか。

 本書は二年前に急逝した辻さんの遺稿集で、詩の話、詩人の話、日常のくさぐさを活写したエッセイからなるのだけれど、「詩はかんたんにいえば滑稽と悲哀ではないだろうか」と書いているように、本書のいたるところにネクタイをしたせつなさのような「滑稽と悲哀」への親和がうかがえる。小沢信男さんの句集にふれた文章を読んでいて、そういえば小沢さんも、いや、ぼくの大好きな小沢さんの小説「わが忘れなば」(傑作だ!)こそ、「滑稽と悲哀」そのものじゃないかと思ったりした。

 ――この道を泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ

 そうでしょう、辻さん。


 ぼくはいささか「せつなさ」に、あるいは「滑稽と悲哀」に拘泥しすぎているのだろうか。だけど、滑稽とも悲哀とも無縁のような谷川雁の肖像を描くときでさえ、辻さんの筆にかかるとたちまち滑稽味と一抹の哀愁とを帯びてくるから不思議だ。思潮社の編集者だった辻さんが仕事の依頼で雁さんを訪問し、なぜか喧嘩になってしまう。号令一下、九州から荒くれ男を招集して思潮社を潰してしまうぞと脅す雁さんに対し、辻さんは「階段の上から売れない詩集の束を雨あられと」投げつけて応戦する自分を夢想する――。

 柳澤愼一さんにふれた文章がある。編集者と一緒にビールを飲みに入った浅草のお店で、辻さんは柳澤さんのジャズ演奏と歌に出会う。柳澤さんはかつて一世を風靡したエンタテイナーで名バイプレイヤー、「ひょっこりひょうたん島」や「奥様は魔女」の声優でもあった。柳澤さんもまた「律義なせつなさ」を感じさせる人のひとりだ。編集者の勧めであらためて柳澤さんと会って話を聞くことになったのも、自分と同じ一族の匂いをかれにかぎつけたからかもしれない。

 柳澤さんは二年前に『明治・大正スクラッチノイズ』という本を上梓された。軽妙洒脱な文章でつづった大衆芸能文化史。とてもオモシロイ本で、あまり人に知られていないのがもったいなくてならない。本書『ゴーシュの肖像』もまた置いている書店は少ない。こんな本こそbk1で取り寄せて多くの人に読んでもらいたい――柳澤さんの本の編集をお手伝いさせていただいたぼくとしては切にそう願わざるをえない。辻さんに柳澤さんの本をお見せできなかったのが、いまはかえすがえすも心残りである。 (bk1 2003年)


 上に書いた『明治・大正スクラッチノイズ』はその後、装いを新たに(和田誠さんのカバー装画)文庫化された。もうほとんど在庫がないようだが、書店や古書店で見かけられたらどうかお読みいただきたい。

 文庫版『辻征夫詩集』が3万部、300万部、3000万部売れることをわたしとしてせつに願っている。



辻征夫詩集 (岩波文庫)

辻征夫詩集 (岩波文庫)

ゴーシュの肖像

ゴーシュの肖像

明治・大正スクラッチノイズ (ウェッジ文庫)

明治・大正スクラッチノイズ (ウェッジ文庫)

*1:岩波文庫版『辻征夫詩集』には単行詩集の抜粋のほかに「単行詩集未収録詩篇から」として8篇の詩が収録されているのだけれど、これらは『辻征夫詩集成(新版)』には含まれていない。

2015-02-01

アルマとココシュカ、もしくは「風の花嫁」






 わたしがオスカー・ココシュカに関心をもったのは、滝本誠さんの文章によってだったと思う。「人工陰毛のアルマ・マーラー」、副題に「オスカー・ココシュカのスキャンダル」とある。

 滝本さんは当時(1980年代)、一部にカルト的なファンをもつ映画批評家だった。美術や音楽についての文章も少なくなかったが、比較的比重の大きいのが映画だったので、大方から映画批評家と見なされていた。かれの映画批評は独得のもので、だれのものとも似ていなかった。本人は照れからかライターと自称していたが、自分を映画批評家だとも、あるいは自分の書くものを映画批評だとも思っていなかったのかもしれない。ミュージシャンが楽器をつかうように、もしくは画家が絵筆をつかうように、かれはある対象に触発されたエモーションを文章で表現するアーティストだったというべきかもしれない*1

 どういう経緯からかは忘れたが、かれが雑誌に発表した文章をまとめて本にしようということになった。編集はわたしが担当した。その出版社にはわたし以外の書籍編集者がいなかったからだ。雑誌に書いた文章を集めるといっても、目次を立てて並べればおしまい、という本ではない。もともと凝り性のうえに、初めての単行本ということもあって、かれは既発表の文章に完膚なきまでに手を入れた。改稿された原稿はほとんど原型をとどめなかった。そうやって書き直された原稿が週に一度、あるいは月に一度、わたしのもとに届けられた。締切などてんから頓着しなかった。だが原稿はとてつもなくチャーミングだった。いつ果てるともない編集作業はかれの愛するデヴィッド・リンチの映画のように甘美なナイトメアだった。わたしはこの状態がいつまでも永遠に続けばいいとどこかで思っていた。そして、おそらく滝本さんもそう思っていたはずだ。 

 だが物事には始まりがあれば終わりがある。やがて『ブルー・ベルベット』のスティル写真をカバーに配した誘惑的な(もしくは蠱惑的な)オブジェが出来上がった(石川ゆりさんの装訂が素敵だ)。タイトルを『映画の乳首、絵画の腓』という*2。あとがきによれば「タイトルに深い意味はなく、ある日ふっと浮かんだ言葉をそのまま持ってきただけである。荒俣宏に言わせると、こんなタイトルが許されるのは処女作だけですよ、ということになる」。わたしたちの二年におよぶ共同作業の賜物は、しかし、多くの読者を得ることはできなかった。むろんわたしはたくさん売れるなどと考えていたわけではない。”the happy few”に届けば満足だった。高山宏さんは「まるで自分が書いた本のようだ」という感想を送ってくれた。文章はともあれ、図版頁に関してはたしかに高山本のテイストと似ていなくもない。

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 さて、また前置きが長くなった。フローリアン・イリエスの『1913』で久しぶりにココシュカの名前を見て滝本さんの文章を思い出し、つい昔話にふけってしまった。

 「人工陰毛のアルマ・マーラー」は、いま読み返しても見事なものだ。ゲオルク・トラークルの詩「夜」の引用に始まり、この詩がココシュカが制作中だった絵画「嵐」(上図)にインスパイアされて書かれたこと、そして、完成した作品に「嵐」と命名したのがトラークルであることを記したのち、嵐に「難破」するココシュカの運命に思いをはせる。

 「嵐」のモデルと目されるアルマ・マーラーとの悲恋。むろんトラークルもまた妹との「近親相姦」的愛の只中にあり、兄妹はともに悲惨な死を遂げる。ココシュカの自伝、フランク・ウィットフォードによるココシュカの伝記(いずれも邦訳はない)を参照しつつも引用は最小限にとどめて、一幅の絵画にふたりの芸術家の人生を予見させ、ウィーン世紀末の空気のなかに芸術家の悲惨と滑稽を浮き彫りにするこのエッセイの手並みは鮮やかだ。途中に挿入される谷崎潤一郎の短篇「青塚氏の話」のラブドールについてのエピソードは、おそらく別に発表された原稿を合体させたものだろう。ココシュカと谷崎の手術台上での思いがけない出会い。

 1913年7月、ココシュカはアルマ・マーラーとの結婚予告をおこなった、とイリエスは『1913』に記している。日取りは7月19日。だがそれを知ったアルマは7月4日、荷物をまとめて遁走する。アルマの心の半分はまだグロピウスのほうを向いていたのである。

 ココシュカはアトリエキャンバスに向かっている。「アルマの不義を荒々しく夢想しながら」。ココシュカの背後でトラークルがビア樽に腰掛け、「カラスや宿命や腐敗や没落」(いずれもトラークルの詩のアイテム)について重苦しい声でつぶやいている。そして時折り「絶望的な声で妹の名前を呼」んでは、また「永遠の沈黙」に沈み込む。


 「ココシュカが二人の肖像画を描くときには、トラークルは毎日そこにやってきた。この絵に「風の花嫁」という名前を与えたのも、実はトラークルである。このもつれ合ったウィーンの日々に作られたトラークルの詩「夜」に次のような詩句がある。「金色に燃え上がる/まわりでは諸国民の火が。/暗黒の岩礁をこえ/死に酔いしれて迫り来る/明るく燃え立つ風の花嫁が。」このように風の花嫁アルマはアトリエの中でそしてイーゼルの上で明るく燃え立っていた。(略)アルマが「風の花嫁」という標題を得たとき、またココシュカがこの花嫁に何か逃れ去るもの、風というはかないものを書き留めたとき、そのとき初めて、ココシュカはアルマの肖像画を自分のために描くことができたのだ。「風の花嫁」と結婚することはできない。描くことができるだけだ。」(『1913』)


 このトラークルの詩「夜」は、「人工陰毛のアルマ・マーラー」の冒頭に抜粋して掲げられたものだ。平井俊夫訳*3では次のようになっている。

 「金いろに燃えあがる/民族らの兵火/黒ずむ断崖をこえて/死に酔ってなだれかかる/火の旋風」

 ここで「旋風」と訳されている言葉は”Windsbraut”。中村朝子訳『トラークル全集』*4では「灼熱する突風」と訳されているが、訳注に「突風」は「直訳すれば「風の花嫁」となる」とある。「これは、民間信仰で旋風、突風は女性的存在として捉えられていたからであり、詩人もこの詩において、風を擬人化して描いている」

 『トラークル全集』に附された別刷のしおりにココシュカの文章の抜粋が出ているので、参考までに引用しておこう。


 「……私たちは一緒に「嵐の花嫁」(現在バーゼル美術館蔵)を描きました。私は彼の肖像を見たこともありました。が、当時私が「嵐の花嫁」を制作していた頃、トラークルは毎日私のところにいました。私は本当に簡単なアトリエを構えていましたが、彼は私の後ろのビール樽に腰を下ろしているのでした。そして時おり、われ鐘のような声でしゃべるのでした、とめどなく。そして又、何時間も黙りこくっていました。私たちは二人とも当時市民生活に背を向けていました。私は両親の家を出ていました。ウィーンでも私の展覧会や芝居のまわりは荒れ狂っていました。ところで、彼は「旋風」”Die Windsbraut”という言葉を彼の詩に引用しました。」*5


 「嵐」もしくは「風の花嫁」。わたしが滝本さんの本を編集していた頃、今はないセゾン美術館の開館記念(西武美術館から改称)に「ウィーン世紀末――クリムトシーレとその時代」展が催された*6。ココシュカの作品も十数点出品されたが、そのなかに「風の花嫁」はない。

 つぎにココシュカと出会ったのは、およそ十年後、マリオ・プラーツの『蛇との契約――ロマン主義の感性と美意識』*7という本の中で、である。千頁を超える大著だが、碩学が裃を脱いで気楽に語った愉しいエッセイ集である。当時、bk1のサイト(いまはhontoネットストア)に書いた書評があるので以下に掲げておこう。


   ココシュカにあっては、魂(anima)は狂気(mania)と同義語である


 オスカー・ココシュカ。この奇妙な名をもつ画家をご存知だろうか。20世紀初頭、ドイツを中心に起こった表現主義運動――絵画・文学・映画・演劇・音楽、総じて芸術の諸ジャンルにおける革新――の担い手のひとりであったオーストリアの画家。本書『蛇との契約』第8部「ココシュカの人形」でプラーツは、かれのことをイタリアではあまり馴染みがなく、「その滑稽な響きのせいで、空想上の名であるかのように」思われるかもしれないと書いている。

 しかしココシュカは、文学におけるドストエフスキーストリンドベリに匹敵する存在であり、ロートレックゴッホの兄弟、「中央ヨーロッパのピカソとも言える画家である」と、プラーツはかれに最大の讃辞を捧げている。ココシュカの作品を「腐った水溜り」と罵倒したオーストリアの美術批評家への憤懣やら、イタリアで正当に評価されていないことへの反動やらを差し引いても、これは特筆にあたいする評価だろう。

 さてそのココシュカだが、第1次大戦末期、戦争やら、異性との「いくつかのつらい個人的体験」やらのために厭世的な気分に陥った。そこでかれはストックホルムのM嬢という芸術家に、人形の製作を依頼したのだという。手紙にデッサンまで添えて指示したその人形とは、等身大の女で、手足は関節をそなえ、「脂肪と筋肉が急に腱に変わるあたりや、脛骨(すね)など骨が表面に浮かびでているところを触って楽しめる」ようでなくてはならない。また、口にはむろん歯も舌もあり、「秘められた女の部分についても完璧に仕上げ、毛が豊かに生い茂っていなくてはならない」。

 つまりはいわゆるダッチワイフを要求したわけだが、服やらハイヒールやら下着やらを用意して到着を待ち焦がれていたココシュカのところへ届いたのは、丹念につくられてはいるものの要するに「グロテスクな怪物」であった。激怒したココシュカは人形を引っつかんで庭に引きずりおろし葬り去った。だがしかし、やがて公衆の面前に、オペラ劇場のボックス席などに、人形を連れたかれの姿が見られるようになった、という。

 プラーツは、「思うに、芸術家は人形に付き添われて、人形を抱く子供さながら、幸せな時を過ごしたことであろう」と書いている。「芸術家の魂は、永遠の『童子』の魂だと言われてこなかったであろうか」と。 

 ところで、異性との「つらい個人的体験」とは、直接にはアルマ・マーラーとの破局を指す。最初の相手が画家クリムトで、作曲家マーラーと結婚し、やがてココシュカを振って建築家グロピウスのもとへと走った恋多き女アルマ。ココシュカの「嵐」という絵画の、そしてほかならぬくだんの等身大人形のモデルこそ、「ココシュカをその魅力で難破に導いたセックス・セイレーン」アルマ・マーラーである、と滝本誠氏は「人工陰毛のアルマ・マーラー」で書いている(『映画の乳首、絵画の腓』所収)。

 「オスカー・ココシュカのスキャンダル」の副題をもつこのエッセイで、滝本氏は「ココシュカの不幸は、クリムトやエゴン・シーレ、リヒャルト・ゲルストルのように、“世紀末ウィーン”という時代風土の中に殉死できなかったことだ」と論じている。ココシュカは1980年、94歳まで長生きした。だが20年代以降のかれの作品は「色彩バランスが崩れた夥しいジャンクである」と滝本氏は斬って捨てている。

 アルマとは似ても似つかぬモンストルムに抱かれながら、幼児のごとく幸せな時を長い長い夢のなかに過ごした敗残の芸術家――。それにしても、プラーツはなぜアルマの名を伏せたのだろう。この稀代のファム・ファタル(宿命の女)の名を。

 プラーツの名についてまわる「みだりがましいまでに博学な」といった評言(若桑みどり、『官能の庭』訳者あとがき)に恐れをなすことはない。本書は、仰々しいまでに重厚な造本とは裏腹に、読んで愉しいエッセイというに相応しい内容に充ちているのだから。

 綺想、ビザール、マニエリスム、幻想怪奇といったジャンルに興味のある人は手にして裏切られることはないだろう。いささか値が張るが、千頁を超す大著ゆえのこと。決して高くはあるまい。めったな本屋には常備していない。こんな本こそネットで注文するに最適である。重いしね。 (bk1 2002年)


 この書評を書いてからおよそ十年後、フローリアン・イリエスの『1913』で久しぶりにココシュカに再会したわけである。つぎの出会いは2025年頃になるのかしらん。もし生きていればだけれど。


*1:滝本誠は東京芸術大学芸術学科卒業。

*21990年、ダゲレオ出版。数年前に、他社より復刊するという話があったらしいが、その後どうなったのだろう。

*3:『トラークル詩集』筑摩叢書、1967年

*4青土社1997年

*5:Kokoschkas Erinnerung an Trakl. In: Die Presse, 21. Oktober 1959.

*6:1989年10月7日―12月5日、セゾン美術館

*7:浦一章訳、ありな書房、2002年