qfwfqの水に流して Una pietra sopra

2017-05-26

日が暮れてから道は始まる





 過日、久しぶりに所用で都心に出かけ、午後すこし時間があまったので古本屋を覗いてみることにした。JR中央線荻窪駅前のささま書店。かつて国分寺に住んでいたころは通勤の帰りに週に一度はかならず立ち寄っていた店だ。百円均一の本を一冊レジにもってゆくのは気が引けて一度に数冊買うのが恒例だった。ときには両手に抱えきれないほど持ち帰ったこともあった。家中に本があふれ、引越しのさいに本を退かすと積み上げた本の重みで床が抜けていたことは以前書いたことがある。

 数年ぶりのささま書店は相変らずわくわくする魅惑に充ちていた。あれもこれもと買いたい本は何冊もあったが、いずれ大量に本を処分しなければならないのでこれ以上増やすわけにゆかない。厳選してとりあえず四冊に絞って購入。まずは店頭の百円均一から一冊、山崎昌夫『旅の文法』(晶文社、1976)を拾う。かつて持っていたはずだが引越しの際に処分したのか見当らない。どこかに埋もれているのかもしれないけれど。

 ぱらぱらと立ち読みしていると、クレリチの「水のないヴェネツィア」のモノクロ図版が目に飛び込む。キャプションに《裸にされた花嫁。骨だけの女神。「亡霊のような廃墟のヴェネツィアが、砂に埋もれた潟(ラグーン)の上に涸上っている」(ホッケ)。百年の恋がさめる。》とある。本文のタイトルは「籠絡の装置・ヴェネツィア」。プッサン、カザノヴァ、シャトーブリアン、マン、ワグナー、リルケマリネッティ、そしてサルトルたちのヴェネツィア、とテクストは例によって引用の織物。博識の百科全書派で、名前のよく似た山口昌男と気質的にも相似たところのある人だったように思う。巻末に附された三十頁余におよぶ詳細な「注と参考文献」など、山口昌男の『本の神話学』の向こうを張ったものにちがいない。

 1934年生れ、新潟大学を卒業後、生保会社、出版社を経て、「社会新報」編集部の記者となり、かたわら新日文の会員として多くの評論・エッセイを執筆し、79年病没。没後、「社会新報」一面の連載コラム「視点」が友人たちの手で一冊にまとめられた。別刷りの冊子に関根弘、長谷川龍生、松田政男ら十三名の追悼文が収められている。この『視点――山崎昌夫の遺したもの』(『視点』刊行委員会、1982)は、いまでも書架の見えるところにある。ドイツ文学者平井正の旧蔵書で、追悼文を寄せた平井に宛てた刊行委員会の手紙が挟まれていた。

 山崎昌夫には、わたし書評新聞に勤めていたころに幾たびか会ったことがある。『旅の文法』が出版された早過ぎる晩年のころだった。『視点』の口絵にポートレートが掲げてある。三十代初めのころだろうか、穏やかな微笑をたたえた若々しい写真だ。わたしが会っていたころは、もう頭髪はほとんど白くなっていた。温厚な人柄でわたしは好きだった。


 店内、詩集のコーナーを物色し、足立巻一詩集『雑歌』(理論社、1983)を見つける。足立巻一は『やちまた』を初め『紅滅記』『夕暮れに苺を植えて』『評伝竹中郁』『夕刊流星号』『戦死ヤアワレ』『親友記』といった評伝・小説、それにエッセイ集『人の世やちまた』『日が暮れてから道は始まる』など主要な著作はほぼ持っているけれど、単行詩集はこれが初めて。足立巻一−伊藤正雄−岩本素白という繋がりもあるけれど、それだけでなく関心を持ち続けている著作家のひとり。『雑歌』より一篇「秋風」を引いておこう。

  *

  秋風

坂の途中のフランス料理屋で/ふたりの息子があるという五十歳の人妻に/難題を持ちかけられて困った。/あの人にはもう会わないほうがいいのでしょうか?/水ばかりをやたらと飲み/返答に窮したままにフランス料理屋を出/人妻と坂を登っていくと/若い夫婦がゆっくり坂をおりて来た。/男が赤ん坊を運命のように抱いている。

坂を登りつめると駅で/人妻とはそこで別れた。/電車のなかで理学博士に遭った。/真水(まみず)しか蒸発しないんです。/蒸発した真水は雨になって地球に戻ります。/そのとき雨は大気ちゅうの塵を運び/地表の物質の微粒子を川へ流し海へ送り/海は太陽熱によって鉱物を濃縮し/やがて海は死海よりも塩辛い沼となるでしょう。

真水しか蒸発しないとはなんと悲しい話だろう!/でもそれは遠い遠い未来ですと笑い/理学博士は大学のある駅でおりていった。/入れちがいに女学生が男友だちと乗りこんで来/頰ぺたを寄せて何やらはしゃぎつづけ/盛り場の駅であたふたとおりた。/電車は終着駅に近づき/午後の内海に沿って走りはじめ/窓から窓へと秋風が吹き抜ける。

  *

 足立巻一は1913(大正2)年生れ、わたしの亡父より3つ年上。1985年、72歳で病没。死の三年前に「遺言」をしたためている。

「死の時が、近づいたようだ。/そのとき、泣き悲しむな。すべては終わったのだ。葬儀は簡素に。/思えば幸福な一生だった。幼少年のころは恵まれず、戦争でも苦しめられ、戦後も苦労したが、晩年は幸運で平安だった。書きたいものはほぼ書きつくした。『評伝竹中郁』が残ったが、しかたがない。だれかが継いでくれるだろう。(以下略)」(東秀三『足立巻一』編集工房ノア、1995所収)

 足立没後の1986年、『評伝竹中郁』は理論社より未完のまま刊行された。亡くなる年の1985年に「読売新聞」に連載された「日が暮れてから道は始まる」がほぼ遺稿となった。連載第一回に記された「つらいことだけれど/道は/日が暮れてから/ほんとうは はじまるのだ」は、わたしの座右の銘


 文学書の棚から『世にあるも 世を去るも――中村光夫先生追悼文集』(私家版、1989)を抜き出す。四六判上製・継ぎ表紙・貼函入、150頁ほどの瀟洒な本。明治大学大学院で中村光夫に教えを受けた人たち二十一名による追悼文集。中村光夫は明大に大学院が設置された1952(昭和27)年から81(昭和56)年まで専任教授として授業を担当した。

 当時の明大はといえば、目もくらむような名だたる教授がひしめいていた。寄稿者のひとり江口良一(1961年入学、小学校校長)によれば、ある日の午後は林達夫先生に芸術哲学の講義をサシで受け、その次にまた渡辺一夫先生に中世仏文講読演習をサシで受け、毎週ほとんど一人で佐藤正彰先生のヴァレリー講読を受けるといった具合。ほかに、鈴木力衛、淀野隆三、齋藤磯雄唐木順三平野謙、西村孝次、柴生田稔といった面々が居並ぶ教授陣はちょっと比類がない。

 寄稿者にも、倉橋由美子(学生の時にデビューしたので佐藤正彰は彼女を「パルタイさん」と呼んでいたという)を初めとして、高田勇、嶋岡晨、矢野浩三郎といった著名な学者・詩人翻訳家がいる。誰もが一様に木庭一郎先生(中村光夫)の「厳しさ」について語っているのだけれど、その裏には「心根のやさしさ」「優しい心づかい」があることを訴えずにはいない。ところが一篇、異様な文章が収載されていて、それは師弟関係がありながら中村氏を“先生”と呼ばない、なぜなら「フランス語についてもフランス文学についても何の学恩も受けていないからである」という一文に始まる。筆者は内海利朗(1953年入学、明大教授)。大学院の授業に白水社の『仏和中辞典』を持参するのは「御自宅でリットレを参照されたとしても院生の指導の仕方としてはあまりにお粗末」で、その後入学したパリ第三大学博士課程の院生指導を引合いに出して「中村氏の授業における身すぎ世すぎ的いい加減さを痛感した」と書く。

 冒頭の一文は反語かと思って読み進めていると、どうもそうではないらしい。体は大きく偉丈夫だったが顔付きは童顔というより容貌魁偉、「多少出っ歯で、色黒で、ちぢれっ毛」(実際そうなんだろうけど、ちょっと嫌味ったらしくありません?)、「そうした外見に似合わず小心ないしは細心で慎重な人」で、それは「NHKの若い美女を相手にしての文学講義などにもよく現われていた」(わざわざ「若い美女」と書くところが思わせぶり)。「ひとつひとつ言葉を選ぶような訥々とした話しぶりは正に氏の面目躍如たるものがある」につづけて「鈴木力衛氏がそばについていたとはいえ在仏中どんなフランス語を話していたのであろうか」は会話力の覚束なさを当てこすっているようにも読めますね。

 つづけて筆者は「このようにいわゆる美男でもなくまた決して器用な人でもなかった中村氏がどのような女性遍歴を経たか」の考察に移るのだけれど、それは「私などの詳らかにするところではない」ため、ただの推測にとどまる。そして、横須賀線の車内で「臈たけた若い美女同伴の中村氏と乗り合わせた」経験を披露する。筆者が声をかけると「中村氏は無言のまま仏頂面」でうなづき、「そのまま美女と共に逗子方面に向って去った」そうで、筆者は「なんと気の利かぬことを」と後悔したそうだが、この目撃譚をきっとあちこちで言いふらしたにちがいない。鎌倉の行きつけの料理屋の「老女」は「光夫さんは親切でやさしい人だった」と筆者に語ったが、「(そうした)中村氏の側面に接した思い出は老若を問わず特に女性たちにはあったかもしれないが私個人は皆無である」という。いやあ、笑った笑った。江戸の敵をここぞとばかり長崎で討ったのか、それとも高度なユーモアなのか、判然としないところが見事。前代未聞の追悼文である。この原稿を受け取った編集担当者(もちろん中村光夫の教え子)もさぞ困惑したことだろう。追悼文は二十六名に寄稿を依頼したそうだから、五名がなんらかの理由で執筆しなかったことになる。そのうちの何人かは、追悼文集を読んでこの手があったかと地団太を踏んだかもしれない。

 さて、最後の一冊は……もう充分ながくなったので、あとは御想像におまかせしよう。べつに珍しい本ではありません。


 「いのちたとへばちりぬるきはも――塚本邦雄論序説」につづいて、以前このブログに掲載した小説が伊吹文庫で電子書籍になった。上に書いたクレリチの「水のないヴェネツィア」を見返しに使っていただいた。わたしの偏愛する絵画である。関心のある方は以下のサイトへお立ち寄りくだされば幸いである(あ、閲覧は無料です。為念)。


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http://neonachtmusik.wixsite.com/bookarts/h-shigel-ebook-shelf (専用棚)

http://neonachtmusik.wixsite.com/bookarts/copy-of-ebook-shelf-2 (塚本棚)

2017-04-02

イッツ・オンリー・イエスタデイ――『騎士団長殺し』への私註


――「おそらく愚かしい偏見なのだろうが、人々が電話機を使って写真を撮るという行為に、私はどうしても馴れることができなかった。写真機を使って電話をかけるという行為には、もっと馴染めなかった」(第2部、283頁)




 村上春樹の新作『騎士団長殺し』は、発売早々から各紙誌に書評が掲載された。いくつかに目を通したが、おおむね似たような受け取り方だった。首肯できるものもそうでないものもあったが、そこになにかをさらに付け加えようという気にはなれなかった。ただ、読んでいてわたしがちょっと引っかかった点に言及しているものがなかったので、私註としてそれのみを書いておきたい。

 主人公の「私」は「その年の五月から翌年の初めにかけて」の九ヶ月ほどの出来事を数年後に思い返している。性的な交渉をもった人妻は四十一歳で、「私より五歳ほど年上」だったから、当時「私」は三十六歳だったことになる。 

 「私」は妻のもとを去り、ふたたび戻ってきて(ユリシーズの帰還か)いっしょに生活するようになってから数年後に東日本大震災が起こる。二〇一一年のことだ。「数年後」を二、三年後ととるか、五、六年後ととるかで時間に多少の幅が生じるが、中をとって仮に四年としておくと、この「九ヶ月ほどの出来事」は二〇〇七年前後ということになる。したがって、逆算すると「私」は一九七一年頃の生れである。

 何が言いたいかというと、この物語は現実の世界を参照枠としつつ、超自然的な出来事が現実の世界に侵入してくるという構造なので、現実世界は現実世界として動かしがたいものでなければならない。つまり、東日本大震災が二〇〇〇年や二〇一七年に起こってはならないし、ナチスが世界制覇を遂げてはならないのである。それはまた別の物語である。

 で、一九七〇年前後に生れた「私」には、作者村上春樹の考え方や実体験がかなり投影されており、読んでいると「私」=三十六歳とは思えないような箇所がちらほらと出てきて「おやおや」と思ったりすることになる。たとえばこんな箇所。


 「私は結局、その店で目についた二枚のLPを買った。ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』と、ロバータ・フラックダニー・ハサウェイのデュエットのレコード。どちらも懐かしいアルバムだった。」(第2部、222頁)


 『ザ・リヴァー』がリリースされたのは一九八〇年。「私」が十歳の頃である。十歳の頃に買ったとすれば相当ませていたことになるが、あるいは、十五歳の頃に買ったのかもしれない。ロバータ・フラックとダニー・ハサウェイのデュエットのアルバムは一九七二年リリース。「私」はまだよちよち歩きなので、これはずっとのちに買ったのだろう。それにしても、好みがシブい少年だね。「You’ve got a friend」なんて、ほんとに懐かしい。わたしも大学生の頃、よく聴いたものだ。村上春樹は当時二十三歳ですね。

 上記の引用箇所にこういう文章が続く。


 「ある時点から私は新しい音楽をほとんど聴かなくなってしまった。そして気に入っていた古い音楽だけを、何度も繰り返し聴くようになった。本も同じだ。昔読んだ本を何度も繰り返し読んでいる。新しく出版された本にはほとんど興味が持てない。まるでどこかの時点で時間がぴたりと停止してしまったみたいに。」


 わたしもそうだ。新しい音楽や新しい本を聴いたり読んだりすることもないではないけれど、気持ちはどうしても昔へと向かってしまう。映画もそう。歳のせいですかね。

 あるいは、こんな箇所はどうだろう。


 「我々は一九八〇年代にFMラジオから流れていたいろんな音楽の話をしながら、箱根の山の中を抜けた。」(第2部、273頁)


 我々とは「私」と大学時代の友人・雨田政彦。二人は、ABCの大ヒット曲「The Look of Love」(1982年)が入ったカセットテープを聴きながら車で走っている。80年代といえば「私」や雨田は十代で、べつに不都合はないのだけれど、中学生時代を懐古していることになるわけですね。

 ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』といえば、こんな箇所がある。「私」はLPのA面を聴き終えて、裏返してB面をターンテーブルに載せる。「『ザ・リヴァー』はそういう風にして聴くべき音楽なのだ、と私はあらためて思った」。


 「B面の冒頭に注意深く針を落とす。そして「ハングリー・ハート」が流れ出す。もしそういうことができないようなら、『ザ・リヴァー』というアルバムの価値はいったいどこにあるだろう? ごく個人的な意見を言わせてもらえるなら、それはCDで続けざまに聴くアルバムではない。『ラバー・ソウル』だって『ペット・サウンズ』だって同じことだ。優れた音楽を聴くには、聴くべき様式というものがある。聴くべき姿勢というものがある。」(第2部、429頁)


 ビートルズの『ラバー・ソウル』(A面2曲目が「ノルウェイの森」)は1965年にリリースされた(日本では翌年)。ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』は66年だ。「私」はむろん同時代に聴いたわけではない。1970年生れの選曲とは思えないけれど、「ごく個人的な意見を言わせてもらえるなら」、彼が初めて聴いたのはCDじゃないかしらん。それにしても、この「個人的な意見」というのは、村上春樹自身の意見のように聞こえませんか。


 この物語は誰もが指摘しているように村上の過去の作品のプロットのヴァリエーションなのだけれど、短篇小説を幾度も書き直しているように、村上は過去の長篇小説を違った視点からretoldしてみようと思ったのかもしれない。「そのとき樹上で、鋭い声で一羽の鳥が鳴いた。仲間に何かの警告を与えるような声だった。私はそのあたりを見上げたが、鳥の姿はどこにも見えなかった」(第2部、214頁)なんて『ねじまき鳥クロニクル』のまんまだしね。

 第一部が「顕れるイデア」、第二部が「還ろうメタファー」と題されているのは興味深い。初期の『1973年のピンボール』から村上春樹の小説は一貫してseek and findの構造を持っているが、それと同時に、超自然的な出来事が現実に侵入してくるという特徴がある。だが、現実と超自然的な出来事とは二元的なものでなく、物語のなかでは表裏一体なのである。


 「だってこの場所にあるすべては関連性の産物なのだ。絶対的なものなど何ひとつない。痛みだって何かのメタファーだ。この触手だって何かのメタファーだ。すべては相対的なものなのだ。光は影であり、影は光なのだ。そのことを信じるしかない。そうじゃないか?」(第2部、382頁)


 イデアからメタファーへ。これはネオプラトニズムか? あるいは、むしろグノーシス主義か? 〈光〉と〈闇〉の戦いは西欧のファンタジーのクリシェとして蔓延しているけれど、村上春樹的物語においては〈光〉の中の〈闇〉、〈闇〉の中の〈光〉といったambiguityに焦点が当てられる。「どんなに暗くて厚い雲も、その裏側は銀色に輝いている」(第2部、241頁)のだ。

 「白いスバルフォレスターの男」も、おそらくは「私」の中の〈闇〉のメタファーなのだろう。


騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

2017-02-27

大西巨人の現在」というワークショップに出かけてみた





 生来の出不精にくわえ寒さにはからきし弱いので、もっぱら冬眠していた。このところすこし暖くなってきたので、啓蟄にはすこし早いが冬籠りから這い出して、九段の二松學舎大学で催された「大西巨人の現在――文学と革命」という公開ワークショップを聴講しに行った*1。午前中に行なわれた多田一臣先生の講演「『神聖喜劇』と万葉集」も聴きたかったが、朝10時半からなのでスルー。お目当てはスガ(糸圭)秀実「大西巨人の『転向』」。

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 転向とは、文学・思想上においては、ある主義主張イデオロギーではとりわけコミュニズム)を外圧により放棄することで、転向を論じたものとして吉本隆明の「転向論」や鶴見俊輔ら「思想の科学」グループの広汎な「共同研究 転向」などが知られる。「大西巨人の『転向』」というタイトルはなかなかにプロブレマティックで、こうした問題構制はかつて例のないものだ。周到に準備された90分におよぶスガ氏の講演を充分に咀嚼できていないけれど、行論の核にあるのはどうやら柳田国男らしい。というより、近々刊行されるという柳田国男論の構想・執筆過程で、大西巨人を柳田で読んでみるというアプローチが生まれたのかもしれない。

 

 大西巨人は中野重治のように官憲によって転向を余儀なくされたわけではないし(学生時代に左翼運動で摘発された際に「偽装転向」があったとスガ氏は推測しているが)、また戦後、日本共産党を「除名」されたが、亡くなるまで原則的にマルクス主義を放棄しなかった(マルクス主義を放棄したのは日共であるともいえるわけだが)。スガ氏はこの講演で転向をもうすこし広い意味、いわばカントにおける認識論的転回のようなものとしてとらえており、したがってそれは特殊日本的なものでなく歴史的に普遍的現象であるという。彼ら(「転向者」)は、自分が考えていた人民もしくは大衆など一種ファントムにすぎないということがわかった。そこで彼らが見出した(あるいはすがりついた)のが柳田国男のいう「常民」だった。これは、「転向者」たちがなぜ柳田国男に親炙もしくは私淑したのか、それを柳田の「常民」概念を介して「転向のコンステレーション(布置)」として捉え返してみようとする試みといえるだろう。

 これは、メモもとらずに聴いた講演を当日配布されたレジュメに基づいて、わたしの理解したかぎりにおいて要約したものなので、誤解もしくは歪曲もあるにちがいない。大西における「転向」の事訳はわたしに必ずしも説得的でない。いずれ長篇評論もしくは単行本として上梓されるのを期して俟ちたい。


 スガ氏の講演で、ひとつ気になったのは、大西巨人は村上一郎と短歌の嗜好がまったく同じだと二度にわたって強調されたことである。だがそれはわたしに疑問なしとしない。大西巨人と村上一郎に書簡のやりとりがあり(ワークショップ会場にも展示されていた)、また、『神聖喜劇』に登場する青年将校村上少尉の命名が村上一郎に由来するとスガ氏は述べている*2。 

 二人のあいだに交流があったことはたしかだし、いずれも一時期、日本共産党に所属していた。日本浪漫派・前川佐美雄・齋藤史にかんして共通の嗜好を伺うこともできる。だが、大西の短歌における好尚は村上のそれと必ずしも一致しない。大西の好んだ近現代の歌人は主として、白秋、牧水、海人、そして茂吉、赤彦、憲吉、文明といったアララギ派の歌人たちである。以前、「塚本邦雄論序説」で書いたように、前川佐美雄や齋藤史が編輯同人である「オレンヂ」(戦後「日本歌人」を改称して創刊した歌誌)に大西巨人も出詠していたが、同じころ出詠していた塚本邦雄や山中智恵子について大西の著作における言及はない。

 一方、村上一郎はいうまでもなく山中智恵子の歌集『みずかありなむ』の編者であり、塚本の短歌への評価もある。というより、村上は塚本・山中にかぎらず、現代短歌に伴走した批評家であり、村上と短歌とのかかわりは深浅でいえば大西のそれよりもずっと深い。前川・齋藤の歌は、大西・村上のみならず他の多くの歌人・文学者をも惹きつけたわけで、それをもって二人の嗜好の共通性を言い立てるのは無理があろう。スガ氏とは講演の前にすこし立ち話をしたが、講演後は話す機会がなかったので、ここに記しておく。 


 ワークショップ会場で「二松學舎大学人文論叢」抜刷りを配布していたのでありがたく頂いて帰る。第88輯「大西巨人氏に聞く――『神聖喜劇』をめぐって」(聞き手:田中芳秀、橋本あゆみ、山口直孝)と、第89輯「大西巨人氏に聞く――作品の場をめぐって」(聞き手:石橋正孝、橋本あゆみ、山口直孝)。それぞれ、2011年と12年に行なわれたインタビューを起こしたもので、いずれも2012年に発行されている。

 第88輯では、「安芸の彼女」にはモデルになった女性はいないが、鷗外『渋江抽斎』の最後の妻・五百のイメージは揺曳しているという証言、それと齋藤史の短歌をめぐる禅問答めいた「革命的ロマンティシズム」論議が面白かった。第89輯では、大西巨人の作品には神社が頻出する、それもなにか事件が起こったりするトポス(場所)として、あるいは、虚無的な心情と結びついた形で神社が舞台となる、という石橋正孝氏の鋭い指摘に興をおぼえた。大西は、その指摘ないしそれにまつわる質問にたいして、どこかはぐらかしているような印象を受けるが、それは意図的なミスティフィカシオンではないだろう。おそらく大西にとってそれは無意識の領域に属するのだろうと思う。

 小説家は設計図を書くように、あるいは設計図に基づいて小説を書くのではなく(そういう小説家もいるだろうが)、自分の無意識を掘り起こしてゆくように小説を書くものだ。暗闇のなかを手探りで進むように、一行が次の思いがけない一行を生みだし、それまで思いもかけなかったことが文章として紡ぎだされてゆく。このインタビューがうまく噛み合わなかったとすれば、それは、大西なら小説の隅々まですべてを意識化して書いているはずだという思い込みが聞き手の側にあったからではないか、という気がするのだがどうだろう。


 さて、上述した「塚本邦雄論序説」がこのたび電子書籍になった。塚本邦雄の特装本を制作されている伊吹文庫の刊行で、一般に配布するものでなく無料で閲覧に供するのみ。関心のある方は以下のサイトへお立ち寄りくだされば幸いである。塚本邦雄の美しい稀覯本もぜひ御覧いただきたい。

 http://neonachtmusik.wixsite.com/bookarts/copy-of-ebook-shelf-2

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天皇制の隠語

天皇制の隠語

*1http://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/ea_h28workshop.html

*2:『天皇制の隠語』(航思社)に、「村上一郎市民派マルクス主義」の副題のある村上一郎論「暴力の『起源』」がある。

2017-02-18

一期は夢よ ただ狂へ――梯久美子『狂うひと』




――おひさしぶり。最近どうしてる?

――浦の苫屋の侘び住まい。

――なにそれ。

――酒も薔薇もなかりけり。あいかわらず本と映画の日々ですよ。たまに仕事を少々。

――最近、なにか面白い本読んだ?

――遅ればせながら『狂うひと』を読み終えたばかり。

――島尾ミホの評伝ね。

――圧倒的だったな。六百頁をこえる大著で、眼疾の身にはこたえたけれど。

――どうすごいの?

――『死の棘』の夫婦には一種神話化されたところがあるでしょう? それを資料をもとに解きほぐして脱神話化する手腕に敬服した。

――たとえば?

――島尾敏雄の最大の理解者といわれる吉本隆明奥野健男、それに『死の棘』文庫版の解説を書いた山本健吉らによって、島尾夫婦にはある種のイメージができあがったわけだね。南の島を守るためにヤマトからやってきたマレビトと、巫女の血をひく島のおさの娘が結ばれる。だがやがて夫の不貞を機に妻は精神に異常をきたしてゆくという悲劇。島尾隊長と出会ったミホを吉本や奥野は「島の少女」と表現するのだけれど、ミホはそのとき25歳だったんだね。

――立派な大人の女ね。

――当時なら「行かず後家」と言われても不思議じゃない。島尾敏雄とは二つ違いだったんだからね。

――どうして少女って書いたのかな。

――「少女」という言葉の処女性が巫女につながること、それと、か弱さや幼さが守られるものというイメージに合致するためだと著者は書いている。ある種の神話的構図のなかに二人を押し込んだんだね。囚われたお姫様を救出にきた王子みたいなね。

――いかにも男の評論家が書きそうなことね。

――でもそれが定着して、今に至るまで「少女」って書かれているそうだよ。それと、ミホは元をたどれば確かに司祭職につながる家系養女だけれど、巫女じゃない。東京の高等女学校で教育を受けたインテリで、島ではひときわ目を惹くモダンガールだった。島尾敏雄と出会ったときは代用教員として子どもたちを教えてたんだね。

――「瀬戸内少年野球団」の女先生みたいね。

――奄美だからニライカナイ伝承と結びつけて神話化されたけれど、淡路島じゃそうはゆかなかったね。島の住民にどう受け止められたかはともかく、島尾隊長は島民を守るためにやってきたのじゃない。特攻基地は本土ヤマトの防波堤であり、ひとつ間違えば沖縄のように住民の集団自決もありえたんだからね。

――島尾が小説に書いているように、出撃直前に終戦になって命が助かるのね。島の人たちも。

――8月13日の夕方に特攻戦が下令され出撃を待機していたら、翌る14日にポツダム宣言を受諾するのだから間一髪だったね。島尾隊長が出撃したらミホは自決するつもりだった。

――終戦になって島尾隊長はどうしたの?

――ミホの親に結婚を申し込んで本土へ帰るんだけど、ミホが島尾を追って島を出たのは三か月後、闇船で嵐に遭いながらひと月かかって鹿児島へ着いたそうだよ。

――命からがらの航海だったのね。そうして二人は結ばれるんだけど、夫に愛人がいるのを島尾の日記で知った妻は精神に異常をきたす。

――『死の棘』冒頭のインキ壺事件をきっかけにね。だけど、島尾はミホが読むことを想定して日記を書いていたんだね。インキ壺事件のずっと前から、ミホは島尾の日記を読んで、書き込みまでしていたというんだからね。

――夫の日記に書きこむの?

――そう。それで徳冨蘆花を思い出した。あの夫婦も、妻が蘆花の日記を偸み読みして、日記に書き込んでいたらしいね。

――以前、あなたがブログに書いた『蘆花日記』ね*1

――そう、破天荒さでは甲乙つけがたい夫婦だねえ。ともあれ、島尾はミホが日記を読むことを知っていながら、いや、もっといえばミホに読ませるために愛人のことを日記に書いたんだ。

――なぜ?

――もちろん、小説に書くために。じっさいそのすぐあとで、それを題材にしたらしい「審判の日の記録」という小説を書き始めているんだから。島尾の誤算は、妻の嫉妬が予想外の長期にわたってあれほど精神を蝕む結果になると思わなかったことだろうな。まあ、おかげで『死の棘』という文学史に類のない傑作を残すことになったのだから、もって瞑すべしというべきかもしれないけれど。

――小説家の妻になんてなるもんじゃないわね。

――でもね、どうも妻のほうも夫に加担していたふしがあるんだ。

――どういうこと?

――愛人からの電報が届いたり紙片が郵便受けに入れられていたりするんだけど、それはミホが仕組んだ可能性がある。あるいは、島尾の自作だったかもしれない。さらにいえば、島尾の狂言を知ったうえでミホがそれに加担したのかもしれない。

――まさか。

――精神病院にまで入るのだから彼女が精神に変調をきたしたのは事実だけど、なにかに憑かれたような錯乱状態がコントロールできないまでに昂じたのかもしれないな。島尾はミホが読んだ日記のほかにもう一つ、裏日記というようなものも書いていたらしいんだ。息子の伸三さんが証言してるよ。そういえば、伸三さんが「知力も体力もある二人が総力戦をやっていたような夫婦だった」と評しているのが言い得て妙だな。

――妻を狂わせてまで小説を書くって、小説家の「業」みたいなものかしら。

――富士正晴が島尾の文学を「永遠につづく不安定志向の文学」だと書いているよ。「島尾は世界が安定していると窒息しそうになり、それに裂け目が出来そうになると、不安に満ちた息づかいになりつつも、それで却って落ち着く(安心するという意味ではない)というところがあるようである」と。

――やっかいな人ねえ。

――著者はその引用につづけて「ミホはミホで、自分が存分に狂ってみせることが、よどんで閉塞した状況に風穴をあけることになると、無意識のうちに気づいていたかもしれない」と書いているね。

―― 一種の共犯関係ね。『死の棘』の二人のたたかいって凄絶なんだけど、傍目にはちょっと滑稽でもあって、ひたむきに演じてるってところがあるわよね。

――総力戦でね。

――愛人についてはなにも書いてないの?

――『死の棘』の単行本が出たときにはすでに他界していたらしいね。著者は愛人の友人だった稗田宰子という人に会って話を聞くんだけど、女優の三宅邦子に似た知的な女性で、決してエキセントリックなタイプではなかったそうだ。この稗田宰子って、塚本邦雄同人誌「メトード」をやってた稗田雛子のことでね。その後上京して、島尾やその愛人らと「現在の会」に所属するんだけど、大阪にいる頃から毛糸を使った織物などをつくって売っていた、とあって「ああそうか」と思ったな。彼女の「私とてジャケツ脱ぐ時ひとすぢの毛糸ぬぐとはさらさら思はぬ」という歌が好きでね。ああそれで毛糸か、と思ったわけ。余談だけど。

――愛人の女性はなにか書き遺してないの?

――小説も書いてたらしいけど、島尾とのことはなにも遺してないようだね。稗田さんは『死の棘』の一方的な書き方に憤慨してるよ。あの小説の「犠牲者」だと。

――そうよねえ、最後まで「あいつ」だものねえ。

――吉本隆明も「この愛人の女性がその後どうなったのか」を島尾は書くべきだった、それが文学だと著者に語っているよ。でも「犠牲者」といえば、いちばんの犠牲者は娘のマヤさんじゃないかな。聡明で快活だった少女が十歳で言葉を失うんだから。哀しいね。埴谷雄高は中学生の頃のマヤの「ものいわぬ無垢な魂」に深い感銘を受けたと書いているよ。「生の悲哀がかくも美しい静謐を内包していることを教えられた」と。

――むごいわね、文学って。

――文学がむごいんじゃない。生のむごさに目をそむけずに直視するのが文学なんだ。


狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

2017-02-04

オンリー・コネクト――バッハマン、ツェランアメリ





 日がな一日のんべんだらりと過している。本を読み、映画を見、家事をし、また本を読む。その繰返しで一日が過ぎ、一週間が過ぎ、ひと月が過ぎる。時のたつのが早い。Time flies by. 時は翼をもつ。翼をもたないわたしは時に置き去りにされ呆然と立ちすくむ。


 「思ってもみないところで、思いがけない名を聞く」。わたしにも覚えがあることだが、これは長田弘の「錬金術としての読書」というエッセイの冒頭の一節だ(『本に語らせよ』)。

 長田弘が出遭った思いがけない名はインゲボルク・バッハマン。韓国映画誰にでも秘密がある』(2004)で、チェ・ジウが本を読んでいる。それを見たイ・ビョンホンが声をかける。「インゲボルク・バッハマン?」。初めての出会いの場面――。

 韓国の若者がバッハマンを読んでいてもなんら不思議はないけれど、やはりちょっと虚を突かれるところがある。有村架純がバッハマンを読んでいたらどうだろう。ちょっとキュンとするかも。まあ、チェ・ジウや有村架純だからかもしれないけれど。

 長田弘は書いている。


 「バッハマンが不慮の死をとげたのは一九七三年。いくつかの忘れがたい詩と物語をのこしたきりのウィーンの詩人の名が、その名を知っている人ならば信じられるというふうにして、ソウルの映画の現在にさりげなくでてくるおどろき。」


 その本を好きな人ならきっと好きになる。あなたがどんな本を読んでいるか言ってごらん、あなたがどんな人間か言い当ててみせよう。


 バッハマンの短篇集『三十歳』の邦訳が出たのは1965年白水社の「新しい世界の文学」シリーズの一冊としてだった。生野幸吉訳。前年には野崎孝訳のサリンジャーライ麦畑でつかまえて』が同シリーズで出ている。二冊目の邦訳、長篇小説『マリーナ』が1973年、これは晶文社の「女のロマネスク」シリーズの一冊だった。神品芳夫・神品友子訳。このシリーズではゼルダフィッツジェラルドの『こわれる』が青山南訳で出ている。そして30年後の2004年に『ジムルターン』の邦訳が出る。「バッハマンはいまも知られていないが、いまも忘れられていないのだ」と長田弘は書いている(2011年にはバッハマンの全詩集中村朝子訳で青土社から出た)。

 『三十歳』はちょうど一年前に松永美穂による新訳が岩波文庫から出て読んだのだけれど、『ジムルターン』の邦訳が出ているのは知らなかった。Amazonで取り寄せる。こういう本は都心の大きな書店に行っても並んでいるかどうかわからない。『ジムルターン』は大羅志保子訳、鳥影社の「女の創造力」シリーズの一冊。バッハマンは「シリーズ」に縁が深い。

 まずは訳者あとがきに目をとおす。こういう箇所に目がとまる。


 「第五話のなかに、主人公エリーザベトが、フランス語の名前だが実はオーストリア出身でベルギーに住んでいる男性の『拷問について』というエッセイを読んだとき、トロッタが何を言おうとしていたのかを理解したという個所がある。」


 『ジムルターン』は短篇集で、第五話は「湖へ通じる三本の道」という集中もっとも長い作品。


 「そのエッセイを書いた当人のジャン・アメリーはこの個所を読み、『ジムルターン』について万感胸に満ちた書評を書き、バッハマンが埋葬される前日に手向けの一文を寄稿したばかりか、一九七八年十月十七日バッハマンの命日に、ザルツブルクで命を絶った。二人は直接会ったことはなく、純粋に文学を介しての交信であった。」


 『ジムルターン』は1972年に刊行されたバッハマン最後の作品集で、ドイツ批評界の大御所ライヒ=ラニツキらに酷評されたが、読者に支持されたという。「本のなかに織り込まれていたかもしれない「遺言」を理解したのは、まさに読者自身であった」(訳者あとがき)。主人公エリーザベトはバッハマン自身が投影された人物で、拳銃で自殺する亡命者トロッタはセーヌ河に投身自殺する詩人パウル・ツェランがモデルとされる。バッハマンは22歳の初夏、シュルレアリスト画家エドガー・ジュネの家でツェランと知り合い恋におちた。


 ジャン・アメリー。「思ってもみないところで、思いがけない名」ではないけれど、バッハマンとアメリーとのつながりに一瞬虚を突かれ、すぐさま了解する。ああ、ジャン・アメリーか、と思う。

 W・G・ゼーバルトの批評集『空襲と文学』(鈴木仁子訳)に「夜鳥の眼で――ジャン・アメリーについて」がある。アメリーはプリーモ・レーヴィとおなじアウシュヴィッツの収容所にいたことがある(そして二人とも過酷強制収容所生活を生き抜いたのちに自ら死を選ぶ)。ゼーバルトはアメリーについてこう書いている。「彼は自身と自身のような人間に対して加えられた破壊に、戦後二十五年以上にもわたって、文字どおり頭を占拠されていた人間だったのである」と。そしてこうも書く。「いったん犠牲者になった者は、いつまでも犠牲者にとどまりつづける。『私は今なお宙づりになっている』とアメリーは書いている。『二十二年後の今なお肩の関節がはずれたまま、床の上にぶらさがっている』」と。

 アメリーが、肩の関節がはずれたまま宙づりになっているというのは、比喩であると同時に現実そのものでもある。後ろ手に縛られたまま鎖で床から1メートルの高さに宙づりにされ、アメリーの両肩は自分の重みで脱臼した。「拷問はラテン語の「脱臼させる」に由来する。なんという言語的明察だろう!」(アメリー『罪と罰彼岸』)。

 バッハマンに話をもどせば、エリーザベトが(アメリーの)「拷問について」というエッセイを読んだあと、この小説はこう続けられる。


 「彼女はこの男性に手紙を書きたかったが、しかし彼に何を言ったらいいのか、どうして自分が彼に何か言いたいのか分からなかった。というのも明らかに彼は、恐ろしい出来事の表層を突き抜けるために多くの年月を必要としたらしかったからだ。そして僅かしか読み手がいないだろうと思われるこれらのページを理解するためには、ちょっとした一時的な驚愕を受け止めるのとは違った受容能力が必要だと思われた。なぜならこの男性は、精神の破壊という点で、何が自分に起こったのかを見つけだそうとし、また、どんなふうにして一人の人間が本当に変わってしまい、破壊された存在として生きつづけたのかを見つけだそうとしているからだった。」

 

 アメリーはこの箇所を読んで、百年の後に知己を得た思いがしたことだろう。そして、もしゼーバルトの文章を読むことができたとしたら、彼にたいしても。


本に語らせよ

本に語らせよ

空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション)

空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション)

2016-12-29

高原の秋運転手ギター弾く





 大西巨人に『春秋の花』という著作がある。古今の詩歌句あるいは小説や随筆の一節を掲出して短文を附したアンソロジーである。大岡信の『折々のうた』のようなスタイルの本ですね。なかに「よみ人しらず」の歌も古今集から選ばれているけれど、それとは少し意味合いの違う「失名氏」の作品もいくつか掲出されている。

 「失名氏」とは「筆者〔大西〕が作者名を失念していることの意」であり、こうした「失名氏」の作品が「私の脳裡にいろいろ存在する」とある。大西巨人の読者なら周知のことだけれども、常軌を逸した記憶力の持ち主である巨人氏は、たまたま目にした新聞の投稿欄の短歌俳句までしっかり記憶にとどめてしまうのである。そうした詩文が『神聖喜劇』の東堂太郎のように、折に触れ、記憶の底からずるずると止めどなく溢れてくるのだから、本書をなすにあたって「記憶の中の詩文を言わば『アト・ランダム』に取り出すのであり、特別これを書くための調査・渉猟を試みるのではない」というのもさもありなん、である。

 本書に収められた「失名氏」に次の句がある。


  あぢさゐや身を持ちくづす庵(いほり)の主(ぬし)


 この句に附された文章がいろっぽくて、いい。


 「(略)二十一、二歳の私は、ある二十八、九歳の夫人に深い親愛をもって毎日のように逢っていた。夫人の家の庭隅に見事な一本(ひともと)の紫陽花があって、その花花の爛熟のころ、私は、ふと掲出句をくちずさんだ。「私も『身を持ちくづし』ましょうかねぇ。」とその必ず「身を持ちくづす」ことのないであろう綺麗な夫人が、ほほえんで静かに言った。言うまでもなく、私は、そのひとの手指を握ったことさえも、ついになかった。」


 その夫人は、『神聖喜劇』に出てくる「安芸」のひとではない。なにしろ、あちらは互いに「剃毛」する仲なのだから。艶福家ですねえ、巨人氏は。いや、『神聖喜劇』は小説ですけど。


 さて、最近読んだ小沢信男さんの『俳句世がたり』も、古今の俳句を掲出してそれに文章(短文というより、やや長めのエッセイ)を附した本で、おやと思ったのは次の句。


  高原の秋運転手ギター弾く


 作者は木村蕪城という人で「ホトトギス」系の俳人、のちに俳誌「夏爐」を主宰した、とある。昭和十六年(1941)の作で、当時二十八歳。信州八ヶ岳の麓の療養所で結核の身を養っていた頃の句。

 エッセイでは触れていないけれども、この句は小沢さんにとって元は「失名氏」の句だった。小沢さんの書簡体小説の傑作「わが忘れなば」に二つの俳句が出てくる


  高原の秋運転手ギターひく

  横顔の美しきひと金魚買う


 この句の作者についての探索が小説のプロットをなしていて、ほぼ一人語りの主人公が結核の胸郭成形術のために東大病院に入院していたときに人から聞いた句で、作者は信州信濃の俳人だという。主人公は信州の高原療養所で一年ほど療養したあと、太宰治が情死した昭和二十三年(1948)に転院して手術を受けるのだけれども、このあたりは小沢さんの経歴と一致していて、『神聖喜劇』とおなじく主人公に自己を投影しているのですね。

 で、小説では句の作者はついにわからずじまいになるのだけれど、これは小沢さんの創作だろうとわたしは思っていた。ところがどっこい、小説発表の四半世紀後に「これは実は我が作で」という人が現れた。小沢さんの「高原の秋運転手」という文章からその顚末を簡単に紹介すると――。

 『長野県文学全集』第五巻に「わが忘れなば」が収録され、平成二年(1990)に刊行された。それを読んだ木村蕪城氏が「文芸家協会ニュース」の会員通信欄に随想を寄せられた。「たまたま先ごろ目にした小説に、自分の句を使って「無名な野郎の腰折れ」などと書いている、やれやれ。憮然とした文章であられた」と小沢さんは書いている。小沢さんはさっそくお詫びかたがた蕪城氏に手紙を送り、「文芸家協会ニュース」にもその経緯を書かれたという。

 ちなみに、この「高原の秋運転手」というエッセイは、『長野県文学全集』の版元でもある郷土出版社が刊行した『私たちの全仕事』(1999年・非売品)という700頁ほどの厚い本に収められている。もう十年ほどまえになろうか、古本屋でたまたま立ち読みしていてこの文章に出会って驚いたのなんの、即座に購入した。

 小沢さんは二つの俳句を手術中「呪文のように脳裏に唱えて危機を脱した」と書いている。「文芸は、まことにふしぎだ。偶然の一句が命の綱ともなる」と。だがそれにしても、

  横顔の美しきひと金魚買う

 この句の作者はいまだ不明である。いつかふいに「じつは」と名のり出る人があるやもしれない。ひょっとすると、二つの句を教えてくれた「商家の若隠居ふう」の人が作者だったのかもしれない、と小沢さんは書いているけれども。

春秋の花

春秋の花

俳句世がたり (岩波新書)

俳句世がたり (岩波新書)

2016-12-07

猥褻鳥


 目をこらしてみたが、鳥の姿を認めることはできなかった。鳴き声だけだ。いつものように。とにかくこのようにして世界の一日分のねじが巻かれるのだ。

                    ――村上春樹ねじまき鳥クロニクル

                     

                                 

  1

その鳥の存在に最初に気づいたのが誰だったのかいまではさだかでない。それは一種都市伝説のように人の口から口へと伝わっていった。というのはしかし確かではない。口から口へでなくツイッターやフェイスブックといったソーシャルメディアでつぶやかれ瞬く間に拡散したといったほうがより事態の推移を正確に伝えているだろう。ツイッターにおけるごく初期のつぶやきによればその声は――当初は「声」と表現されていた――東京近郊で耳にされたという。ある寝苦しい盛夏の明け方どこからともなく聞えてきたその声を耳にしたある集合住宅の住人は隣に住む二十代後半と思われる人妻の発した声かと思った。だがそれにしては声が明瞭に過ぎはしまいか。本来ならばもう少しくぐもった声であるはずだが明らかに開放的といってよい発生法とオペラアリアにも比すべきゆたかな声量が訝しい。しかもそれは隣の部屋というよりむしろ窓の外から聞えてくるような気がする。しばらく耳をすませていた住人は――言い忘れたが住人は都内の私立大学に籍を置く二十代前半の男であるとされている――隣の部屋を慮りながら窓をそっと開けた。窓外には鬱蒼と繁る樹林が薄明のなかに遠望されどうやら声はそのあたりから発して木々によって増幅されて聞えてきたものらしい。不可思議な現象にしばらく耳をかたむけていたがやがて声は次第に途絶えて聞えなくなったという。これはむろんツイッターのつぶやきそのものではなくそれが幾たびもリツイートされそこに尾鰭が加わって出来上がった一種の物語である。ある者によれば発祥は東京都下の多摩地区だという。またある者によればそれは多摩地区ではなく埼玉であり別の者によれば茨城だとされている。それが伝聞の不確かさによるものなのかあるいはほぼ時を同じくして幾つかの場所でその声が確認されたものなのかいまとなっては断定することはできない。いずれにせよそれはインターネットによって一気に津々浦々に広がった。どこからともなくその声が聞えてきたというだけなら一過性の話題として速やかに忘れ去られたにちがいない。それが国内はおろか海外にまで波及するほどの広がりを見せるとは……いや、先走るのは慎もう。ツイッター上のつぶやきが増幅されて広がってゆくティッピングポイントはもう一つのつぶやきの出現に求められよう。最初のつぶやきをめぐる応答がひとしきり賑わいを見せやがて収束するかと思われたころ新たな証言――いまでは第二の発見者と呼ばれている――が出現した。当の人物は東京郊外に住む三十代の男性システムエンジニアとされているが(多摩地区に居住するのは彼であるとする説を唱える者もいる)彼もまた明け方どこからともなく聞えてくる声を耳にしてあるいはこれがSNSで話題となった例の声かと思いすぐにベランダの窓を開けたという。システムエンジニアの居住するマンションから至近距離にある公園の樹木からその声は聞えてきた。梢が枝葉をふるわせながらすすり泣いているようでしばらく耳を傾けていると梢のあいだから一羽の鳥が飛び立って朝ぼらけのなかを空のかなたへ消えてゆきそれとともに声も途絶えたと彼はツイートしている。その鳥と件の声との関連についてシステムエンジニアは断定を憚ったがこの第二の発見者の証言は事態を煽り立てるに充分の効果を上げた。彼はツイッターでつぶやくとともにある動画共有サイトに動画を投稿した。スマートフォンによって咄嗟に録画されたというその動画には妙なる声を発する樹木と空のかなたに羽搏いてゆく一羽の鳥がたしかに映し出されていたからである。サイトに動画が投稿された数時間後にはアクセス数はたちまち四桁に達しツイッターやフェイスブックへの投稿がそれに拍車をかけた。映像から判断するに件の声はこの鳥の鳴き声にほかならない。どこかのうちに飼われていた九官鳥かインコが逃げ出したのにちがいない。そうしたつぶやきがインターネット上に溢れるなか事態はさらに大きく展開する。鳥たちの映像が堰を切ったように動画サイトに次々とアップロードされたのである。


  2

東京郊外といわず全国各地から投稿された鳥たちの映像が動画サイトに溢れ海外からの投稿もなかには数件雑じっていた。ここで急いで付け加えておかねばならないのは当初九官鳥もしくはインコかと推測されたのはその特徴的な鳴き声に原因があり人々の関心がこれほどまでに昂まることになったのもまたその鳴き声が最大の要因にほかならないということである。二十代後半の人妻の発した声かと思ったと第一発見者がツイッターでつぶやいたごとくそれは閨房における媾合の際の女性の喘ぎ声に酷似した鳴き声であった。鳴き声には幾つかのヴァリエーションが認められた。「あっはーん うふん いやん」と悩まし気に鳴く声。「いやんいやんいやん」と身悶えするように鳴く声。ひときわ高く「あっあっあっ」と断続的に感極まったように鳴く声。個体によって鳴き方が異なる場合もあれば同一個体が複数の鳴き方を奏でる場合もあった。押し殺した声で溜息のように「ああ うう はあ」と繰り返す鳥もいれば「いやいやいやっ」と咽び泣くような声が次第に「いい いい いい」と甘やかな声に変化しついに「あっあっあっ」と高まって果てる高度な変奏を披露する鳥もいた。最初の投稿から旬日を経ずして動画サイトのアクセス数は百万回に達した。各メディアもさすがにこの事態を無視もしくは傍観し続けるわけにもゆかず最初は新聞がインターネット上に現れた未確認飛行物体とそれが巻き起した事態について鳴き声にふれることなくささやかな報道を行なった。ついでテレビがニュース番組で取り上げてネット上の動画を引用しつつその特徴的な鳴き声に関心が集まっているとキャスターがコメントしたが肝腎の鳴き声にピー音がかぶせられていたために意味不明の報道となり多数の苦情が視聴者から寄せられることとなった。インターネットから発した鳥をめぐる狂騒は日に日に昂まってゆくかに見えたが押っ取り刀で取り上げた週刊誌の記事によってこの騒動はあっけない終焉を迎えた。鳥かどうかさえ識別のつかないぼやけた映像は論外としても識別可能な個体のすべては世界各地に生息する鳥たち――ヒバリ、ミソサザイ、ムクドリ、ウタツグミ、アカゲラ、ムネアカヒワ、カラフトムシクイ、エトセトラエトセトラ――でありどだいこのような鳴き声をたてる鳥など世界中を見渡しても存在しない。おおかた鳥の映像とアダルトビデオの音声とをコラージュしたトリコラで世間を騒がせて喜ぶ愉快犯の仕業だろう。鳥類学者が厳かにそう断言したからである。こうして幻の鳥をめぐる騒動は一件落着したかに見えたが事態は思いがけない方向へと展開する。


  3

その年の夏は例年に増して猛暑の日が続いた。都心でも連日体温を上回る気温が観測され東京近郊では摂氏四〇度を超える高温が幾度も記録された。人は天変地異の起こる前触れではないかと噂し合いそれに呼応するかのごとく列島各地で大小の地震が頻発し南国では火山が噴火して市中を灰色に染めた。そして立て続けに襲った颱風による豪雨が一切合財を洗い流して列島に秋色が訪れたころ次第に色づき始めた武蔵野台地の樹林にあの声が戻ってきた。俗に三多摩と呼ばれる関東平野の西域には住宅地に隣接して鬱蒼と繁る雑木林が其処彼処に点在してかつての武蔵野の面影を残している。そうした雑木林の一つがある日の明け方もの思わし気な歔欷の声を洩らし夜がしらじらと明けるころにはその声はぴたっと鳴き止んだ。それからというもの声はたちまち近隣の樹林に伝播して武蔵野台地の木という木が一斉に悩ましげな声を発し始めた。もはや誰かの作為的な悪戯とも思われず鳴き声を発する樹木が存在するのでなければ鳥もしくは鳥に類する生物の発するさえずりの一種といわねばならないと鳥類学者が新聞でコメントを述べた。バードウォッチャーたちが双眼鏡や望遠鏡を駆使して観測したが鳥の姿は枝葉に紛れて一向に確認できなかった。インターネットの動画サイトに連日投稿されたすすり泣く樹林の映像には木を見て鳥を見ずとコメントが書き込まれた。やがて小学生たちのあいだに鳥の鳴き声の真似が流行し始めた。ランドセルを背負った児童たちが登下校の際に声をそろえて「あっはーん うっふーん」と唱和する声がいたるところで聞こえ見かねた大人たちの苦情が役所や市町村の教育委員会さらには新聞の投書欄や政党の市議団事務所に殺到した。なりゆきを静観していた某テレビ局のワイドショーがおそるおそる取り上げると視聴率が一挙に二倍に跳ね上がり各局もそれに追随して事態に拍車をかけた。深夜の討論番組では各界の識者たちが侃々諤々の議論を繰り広げた。児童に悪影響を及ぼす害鳥は即刻駆除してもらいたいと教育評論家が発言するとヒバリやウグイスの鳴き声はよくてこの鳥の鳴き声は悪いというのは人間中心主義的思考でありいまだかつて鳴き声によって害鳥とされた鳥は存在しないと動物保護団体のメンバーが反論して駆除には断固反対すると表明した。海外の学術団体やメディアも日本に突如出現した幻の鳥に大きな関心を示した。英国王立鳥類保護協会はこの鳥を数羽捕獲して生きたまま英国へ送るよう日本政府に申し入れ(可能なら雌雄ひと番いに加え鳴き声のヴァリエーション数に相当する個体数を希望すると付け加えた)ニューヨークのある雑誌はこのunidentified mysterious flying creature(未確認飛行生物)をThe obscene bird(猥褻鳥)と名づけGODZILLAを引合いに出して原発事故による突然変異の可能性を示唆した。幻の鳥を一目見ようと近隣諸国の観光客がツァーを組んでぞろぞろ押しかけたが姿を見ることはかなわず鳥を図案化したTシャツを爆買いして帰っていった。鳥たちは東京近郊から徐々に都心へ向かって行動範囲を広げてゆくかのように思われた。新宿御苑や明治神宮外苑や日比谷公園の樹林で次々と鳴き声が確認された。インターネット上では鳥たちの次なるターゲットが取り沙汰され鳥たちは皇居をめざすと書き込む者が現われた。吹上御苑で鳥たちが一斉に乱交のごとく卑猥な鳴き声で高らかにさえずる光景を想像した者たちは恐れおののいた。彼らはかくなる事態は断固阻止せねばならぬと息巻いて丸の内のオフィスビル街を街宣車で行進し大音量のスピーカーで鳥の即時撲滅を訴えた。事態の沈静化を図ろうとした環境省が捕獲に乗り出すと発表したがいかなる手段で捕獲するかについては識者による委員会の設置を待って検討すると述べるにとどまった。千鳥ヶ淵から国会議事堂さらに桜田門の周辺はにわかに騒然とし始めた。街宣車に乗った迷彩服を着た男たちと鳥を護れと大書したプラカードを掲げた動物保護団体や一般市民さらには鳥は天から遣わされた愛の象徴であると唱える宗教団体のデモ隊らが入り乱れて国会前で小競り合いを繰り広げた。街宣車から降り立った男が壇上に立ちこのようなおぞましい生き物を不法侵入させぬよう皇居の周囲に高い壁を築けと叫んだ。日を追ってデモンストレーションに加わる人々の数は膨れ上がり国会周辺はいまや一触即発の危機を孕むかの様相を呈した。 


  4

あの日を境に鳥の鳴き声がぱったりと途絶えた理由についてはSNSで様々な憶測が乱れ飛んだ。あの日の明け方たしかに銃声を聞いたと誰かがツイートした。それに呼応して「猥褻鳥は私だ」というツイートが書き込まれリツイートは数万件にのぼった。撃たれた鳥が最後に「いくっ」と一声高く鳴いたというツイートが一瞬に拡散してネット上を駆け巡った。鳥を追悼する数万人の市民たちのデモ行進が皇居を取り巻いたが狂躁の日々が過ぎると日本国中をあれほど騒然とさせた出来事もやがて何事もなかったかのように忘れ去られ鳥の話題が人々の口の端にのぼることもいつやら絶えて久しくなった。…………私は書きかけのパソコンを閉じて立ち上がり背伸びをした。夜が明けようとしていた。どこからか「いやいやいやっ」と忍び泣くような声が聞えたような気がした。窓を開けるとうっすらと朝靄の立ち込めた薄明のなかに樹林が見えた。目をこらしてみたが鳥の姿を認めることはできなかった。

                                (11月29日脱稿



f:id:qfwfq:20161119093451j:image:w640

2016-09-22

蜻蛉釣り今日は何処まで行ったやら




O様

 台風の影響でしょうか、今日は朝から雨が降りしきっています。いつものように、向かいの樹林を眺めていたら、あ、鷺が! 

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 雨の降る日に時折り姿を見せます。今朝は畑に着地して、なにやら思案気の風情。さて、どうしようかと考えているのでしょうか。しばらくすると、木蔭に向かってとことこと歩いてゆき、そのうちに姿が見えなくなりました。


 珈琲を淹れて朝刊をひろげると、「天声人語」にこういう文がありました。


 「俳優であり俳人でもあった渥美清さんに次の句がある。〈赤とんぼじっとしたまま明日どうする〉。詠んだのは63歳の秋。」


 天声人語子はつづけてこう書いています。

 「じっと動かないトンボに四角い顔を寄せ、何ごとかつぶやく名優の姿が目に浮かぶ」

 そうでしょうか。

 わたしの解釈は、すこし違います。夜も更けて、しんとした静寂のなか、彼は孤り、思いをめぐらせています。さて、明日はどうしようか。明日とは、明後日もしあさってもふくむ不定の未来であるのかもしれません。

 そんなとき、ふと生垣にとまった赤とんぼが脳裏に浮びます。羽根をやすめているのか、それともこれからどうしようかと考えているのか。

 「ざまあねえ、おれもまるで赤とんぼだね」

 ふっと自嘲の笑みが彼の口元に浮びます。


 「天声人語」は、渥美さんの句を枕に、長崎県で絶滅危惧種に指定された赤とんぼ、深山茜(ミヤマアカネ)の話題に移ります。佐世保市の環境団体の会長によれば、休耕田が増えて苗にまく農薬が変ったのが急減の原因とのこと。繁殖に適した環境は「水がちょろちょろと流れ出る棚田」ということで、農家から棚田を借りて稲を育てた。それでも四年前に比べると、生息数は半数以下に減っている。棚田をやめると、絶滅に近づく。「責任は重大です」と会長は語る。

 そして、この文章はこう結ばれます。


 「間近で見るとミヤマアカネはなかなか精悍である。お尻を太陽に向けてまっすぐ突き上げる姿など五輪の体操選手のようだ。実りの9月、棚田を歩きながらトンボと田んぼの行く末を案じた」

 

 深山茜の画像をネットで検索してみました。ぴんと伸ばしたお尻(?)を天にむかって突き上げた姿は、たしかに体操選手を思わせなくもありません。それもさることながら、筆者が体操選手を引合いに出したのは、それ以上に「トンボと田んぼ」の語呂合せの「着地」を自讃したかったからかもしれません。

 数日前、わが家のベランダにもとんぼが一匹飛んできました。ああ、もう秋か、と月並みな感想を抱いたものです。

 夕暮れ時の田舎の畦道では、いまも子供の頃のように赤とんぼが群れをなして飛んでいるのでしょうか。

2016-07-18

異邦の薫り――くぼたのぞみ『鏡のなかのボードレール』を読む





 もう随分まえのことになるけれども、クッツェーの『恥辱』という小説についてここでふれたことがある*1。いい小説だと思い、いくつかの場面についてはいまも印象につよく残っている。だが、最近読んだある本によって、わたしは自分の無知を思い知らされることになった。無知については言うも更なりだけれど、いい小説だと思ったわりには全然この小説を読めてないじゃないか、といささか暗然とするところがあった。

 わたしはこの小説の主人公についてこう書いている。「二度の離婚歴があり、現在はシングル。ナンパしたり娼婦を買ったりの日々を送っている」。そして、「彼、ラウリーはちょっとした気紛れで女子学生のひとりと関係を持つ」と。女子学生メラニーとの交際が発覚して主人公は大学を辞めることになるのだから、このエピソードプロット上の大きな意味をもつ。しかし、それに優るとも劣らぬほど重要な意味が冒頭の「娼婦を買ったりの日々」にあることを、くぼたのぞみ『鏡のなかのボードレール』(共和国、2016年6月刊)*2、とりわけ第9章の「J・M・クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」という文章によって教えられた。

 

 小説の冒頭、主人公は娼館へおもむき、馴染みの女性ソラヤと性交する。その第二パラグラフの最後にこう書かれている。「ソラヤの顧客になってゆうに一年。彼女には満足しきっている。砂漠のような一週間が、木曜は豪奢で悦楽に満ちたオアシスとなったのだから」(くぼたのぞみ訳)。この「豪奢で悦楽に満ちた」に「ルュクス・エ・ヴォリュプテ」とルビが振られているが、原文は「luxe et volupté」、フランス語イタリック体になっている(小説は英語で書かれている)。わたしの読んだ鴻巣友季子訳『恥辱』は、「贅と歓びの」でルビも強調もない。

 くぼたは最初に原著を読んだときは「勢いにまかせて」読んだために、そのフランス語の三語をとくに意識しなかった、だが、オクスフォード大学のピーター・マクドナルドがクッツェーについて学生に講義をする動画を見ていて「はたと気づいた」という。このマクドナルドの講義というのも、きわめて興味深いものだ。小説の冒頭の一文「五十二歳という年齢、離婚歴のある男にしては、セックスの問題はかなり上手く解決してきたつもりだ」について、マクドナルドはセックスを「解決しなければならない問題」(solved the problem of sex)とすることに焦点を当て、「このようなデカルト的合理主義に疑問を投じ、主人公の「解決法」が作中で崩壊し、どのような災厄を招いていくかを指摘していく」という。刺戟的な読解だ。こういう講義を受けられる学生がうらやましい。

 さて、クッツェーがイタリック体で示した「luxe et volupté」、くぼたによれば、これはボードレールの『悪の華』の有名な詩「旅への誘い」に出てくる「luxe, calme et volupté」の引用(「クッツェーがよく使う、原テクストを少し違えた「誤引用」」)だという。「豪奢で、静謐で、悦楽に満ちて」。クッツェーはなぜここでボードレールを引用したのだろうか。しかも、読者にそれと知らせるようなほのめかしとして。


 ソラヤの所属するエスコート・クラブは、ケープタウンの中心から少し離れたグリーン・ポイントにある。ここは「アパルトヘイト時代は背徳法に反するカラーラインを跨ぐ売買春が行なわれていたことで悪名高い。人種別に居住区を定めた集団地域法に反して多人種が混じって住んできた地域でもある」(くぼた)という。主人公が街中で二人の子どもを連れたソラヤと出遭ったのを機に、彼女は彼の前から姿を消す。彼がエスコート・クラブに電話をすると、ソラヤは辞めた、なんなら別の女性を紹介しよう、と電話に出た男はいう。「エキゾチックなタイプは選り取りみどりです。マレーシア、タイ、中国、お好みをどうぞ」(鴻巣訳)。ソラヤもまた「陽に焼けた痕跡のない」「蜂蜜色をした褐色の肢体」をもつ「ムスリム」の女性だった*3。 

 「褐色の肢体」をもつ女性との「豪奢で、静謐で、悦楽に満ち」た時間――。

 ボードレールの『悪の華』には特別に「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」と呼ばれる数篇の詩がある。初版で十六篇、第二版で十八篇。ボードレールのミューズともいうべき、カリブ海出身の黒人と白人の混血女性ジャンヌ・デュヴァルにインスパイアされた詩篇である。くぼたのぞみはこう書いている。


 「ボードレールの「旅への誘い」に出てくる三つのフランス語「luxe et volupté(豪奢で悦楽に満ちた)」をわざわざイタリックで示しながら、クッツェーは一九世紀半ばのヨーロッパ系白人男性の異国情緒と絡めた女性への憧れや性的欲望をこの『恥辱』のなかに描き込んだ。二〇世紀も終盤のケープタウンで人種主義のシステムが崩壊した社会に生きる、これまで特権的地位にあったことをさほど疑問にも思わなかった五十二歳の白人男性の悦楽のあり方として刻み込んだのだ。」


 たしかに、くぼたのぞみの言うように「日本語読者の多くは(略)南アフリカの複雑な人種構成や歴史事情を思い描くこともないだろう」し、「背景がわからなくても、作者の深い意図まで読み取らなくても、小説は面白く読める」にちがいない。「グリーン・ポイント」という地名にも、わたしをふくめて大方はなんの感興も催さないだろう。だが、クッツェーが(周到に)冒頭に置いた主人公とソラヤとのエピソードをうっかり読み飛ばしてしまうと、この小説を表面だけで理解したつもりになりかねない。面白く読んだけれども、じつは本当には読めていなかったのじゃないかと思ったのは、このくぼたのぞみの指摘によってである。

 くぼたは「ホッテントット・ヴィーナス」の名で知られるサラ・バートマン――ケープタウンからイギリスへ見せ物として連れ出された有色人女性――の最初の「所有者」デイヴィッド・フーリー David Fourie の名と『恥辱』の主人公デイヴィッド・ルーリー David Lurieとの関連を指摘し、「作家は当初、頭文字だけ変えてLourie としたが、アフリカーンス語ではルーリーと読んでも、英語圏ではスコットランド/アイルランド系になりラウリーと発音されるかもしれない、と一文字削ったのではないかと推察される」と書いている。邦訳では「ラウリー」となっている。

 そしてさらに、ハベバ・バデルーンの『眼差すムスリム――奴隷制からポストアパルトヘイトへ』(2014、未訳*4)の第四章「ケープ植民地における性をめぐる地理学――『恥辱』」における、冒頭部分に関する犀利な分析を紹介する。バデルーンは自身ムスリムでクッツェーの教え子でもある。ほんの一部分の紹介を読んでも、この本がポストコロニアル・スタディーズの最良の成果であることはよくわかる。すでに充分長くなったので、関心のある方は直接同書もしくは『鏡のなかのボードレール』をお読みいただきたい。


 くぼたのぞみは書いている。「ソラヤとは誰かを考えることは、クッツェーがこの作品の冒頭にあえてソラヤを置いたことの意味を考えることでもあるだろう」と。わたしはこの『鏡のなかのボードレール』で己の迂闊さを知らされ、あわてて『恥辱』の冒頭を再読した。なるほど、初読のさいは気にせずに読み飛ばしていたのだが、そういう目で見るといくつか気になる箇所も目につく。一例をあげれば、主人公がソラヤとの交わりを自問する、自由関節話法で書かれているところ。

「セックス面は、烈しくあっても情熱的ではない。わが身の象徴としてトーテム像を選ぶとしたら、蛇だろう。ソラヤとの交わりは、思うに、蛇の交尾さながらにちがいない。事は長々しく、一心不乱だが、絶頂の瞬間にも、どこか観念的でむしろ乾いている。/ソラヤのトーテムもまた蛇だろうか?」(鴻巣訳)

 これは当然『悪の華』の一篇「踊る蛇」(第二版28)を念頭に置いているのだろう。


 「私の目の楽しみは、物憂げな恋人よ、/そんなにも美しいきみの体が、/ゆらゆらとそよぐ布地のように、/肌をきらめかすさま!/(略)/身はなげやりに美しく、拍子をとって/きみの歩むさまをみれば/棒の穂先にくねくねと/踊る蛇にもたとえようか。」(阿部良雄訳)


 韋編三たび絶つ。繰り返し読まねば本は読んだことにならないとあらためて銘肝した。


*1id:qfwfq:20120414

*2:宗利淳一の装本がみごと!

*3:女子学生メラニーもまた有色人女性である。「この作品では白人男性の欲望が、もっぱら有色の女性に向かっていくことが明示されているのだ」(くぼた)。

*4:Gabeba Baderoon: Regarding Muslims―from slavery to post-apartheid, Wits University Press, 2014 「南アフリカの歴史のなかでもっとも見えにくい存在であったムスリムについて論じる好著」(くぼた)とのこと。翻訳が待たれる。

2016-06-17

ゲイブリエルとグレタを乗せた馬車がオコンネル橋を渡る





 昨日16日、ブルームズデイにちなんでジョン・ヒューストンの『ザ・デッド』を観た。以前BSで放映されたものの録画で、二度目か三度目かの再見になる。見直して新たに気づいたことなどについて二、三書いてみよう。

 ストーリーは簡素だ。二人の老嬢姉妹ケイトとジューリアそれに姪のメアリーの三人が例年催す舞踏会に招かれた縁戚の者や知人たちのダンス、ディナー、会話。そして宴の果てた後の一組の夫婦の、妻の回想をめぐるささやかな諍い。ヒューストンジョイスの小説を、幾つかの科白をふくめてほぼ忠実に映画化しているといっていい。

 原作にヒューストン(シナリオは息子のトニーが担当し、オスカーにノミネートされた)が付け加えた場面は幾つかある。その一つ、酔っぱらいのフレディがいつものように遅れてやってきて、先に来ていた母親に問いただされる。「委員会の会合があって」とかなんとかしどろもどろに言い訳するフレディに、母は「会合? どこでかね。マリガンのパブでかい?」と皮肉を言う。観客をにやっとさせる『ユリシーズ』へのアリュージョンである。

 大きな改変は、メアリーのピアノ演奏が終わった後に、グレイスが詩を長々と朗読する場面が挿入されることで、これは原作にないエピソードである。朗読するのは、Lady Augusta GregoryのDonal Og。「レディ・グレゴリーがアイルランド語から翻訳したBroken Vowという詩である」とグレイスは朗読の後に注釈をつける。元はアイルランドに伝わるバラードで、グレゴリー女史はアイルランドに伝わる民話、伝説、バラードを英語に翻訳してアイルランド文芸復興に寄与した人。W.B.イエーツととともにアビー・シアターを設立し、多くの芝居を執筆した*1

 グレイスの朗誦が終わると、居並ぶ老若男女は、初めて聴いたこの詩への称賛を口々に唱える。「バラードにするといいね」という人までいる始末。ヒューストンはなぜこの場面を付け加えたのだろうか。おそらく当時のダブリンの独立運動、アイルランド人のアイデンティティ、といった背景への言及だろうが、当時の歴史的状況に疎いので確かではない(民族主義者のアイヴァーズ嬢にゲイブリエルがからまれる場面が小説にも映画にも登場する*2)。

 そしてもう一つ。ジューリアがベッリーニ歌曲「婚礼のために装いて」を朗唱する場面で、カメラは階段をゆるやかに上り、二階の室内に入ってテーブルの上の蝋燭立て、小さな民族人形、写真立ての肖像写真などの事物を次々に映し出す。そして一枚のタペストリーに縫い取られた文字――Alexander Popeの詩句に焦点を合わす。二人の老嬢のいずれかの持物だろう。あるいはそれは親の代から伝わってきたものであるのかもしれない(ポープの引用の意図はさまざまに解釈できるだろう)。


 Teach me to feel another’s woe,

 to hide the fault i see,

 that mercy i to others show,

 that mercy show to me.


 ゲイブリエルとグレタを乗せた馬車がオコンネル橋を渡る。深い闇の中にいくつものガス灯の明かりが靄に滲み、川面に照り映えている。静謐で譬えようもなく美しい場面。そしてグレシャムホテルに着いた二人は部屋に落ち着くが、グレタはなにかに憑かれたように物思いに耽っている。


 ――グレッタ、ねえ、なにを考えてるんだい?

  返事もなく、腕に身をまかせるでもない。もう一度、やんわり言った。

 ――言ってごらんよ、グレッタ。どうかしたんだろ。違うかい?

  彼女はすぐには答えなかった。それからわっと泣き出して言った。

 ――ああ、あの歌のこと考えてるの、オーグリムの乙女のこと。

  彼女は身をふりほどいてベッドへ駆け寄り、ベッドの柵上へ腕を十字に投げ出して顔をうずめた。

         (柳瀬尚紀訳「死せるものたち」、新潮文庫『ダブリナーズ』所収)


 「オーグリムの乙女」は舞踏会の最後にダーシーの歌った歌である。グレタは階段の上に立ち尽し、部屋の中から聞こえる歌声に耳を傾けていた。それは、若き日のある青年との永遠の訣れを思い出させる歌だった。

 ジョイスはグレタが「わっと泣き出し」たと書いているが、ヒューストンはそうは描かない。グレタは哀しみに耐えている。肺病で死んだ青年マイケルとの思い出を語るうちに感情が激してくる。そしてベッドにからだを投げ出して嗚咽するのである。感情の機微についてはジョイスよりもヒューストンに一日の長がある。The Deadを書いたとき、ジョイスは25歳だった。80歳を過ぎたヒューストンが若きジョイスに「ほら、このほうがいいだろ?」とウィンクしているようである。

 ちなみに、しんしんと降る雪の場面を観ていて、わたしはある小説の雪の情景を幾度も思い出していた。その小説、アン・ビーティのIn the White Nightにも、ある雪の降る夜、パーティがお開きになったあとの一組の夫婦の小さな諍いが描かれていた。ずいぶん昔読んだ小説なので確かではないけれど。ビーティもあの小説を書くときにThe Deadが頭にあったのだろうか。


追記(6.18)

In the White Night を探し出して再読した。「小さな諍い」ではなかった。愛する者を失った哀しみがいまなお生々しく現前するというところに共通するものがあった。その哀しみを浄化するかのように雪が降りしきるという情景においても。


ダブリナーズ (新潮文庫)

ダブリナーズ (新潮文庫)

*1https://www.theguardian.com/books/booksblog/2010/apr/19/poem-of-the-week-lady-augusta-gregory

*2:結城英雄は訳書『ダブリンの市民』(岩波文庫)の解題で、ヒューストンは「ポスト・コロニアルの視点で映画化したが、ミス・アイヴァーズを中心に据え、見事である」と記している。

2016-05-12

緑色をした気の触れた夏のできごと――村上春樹訳『結婚式のメンバー』





 以前書いた「MONKEY」の村上春樹・柴田元幸対談「帰れ、あの翻訳」*1で予告されていた「村上春樹・柴田元幸 新訳・復刊セレクション」が「村上柴田翻訳堂」として刊行され始めた。第1回の配本がカーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』(村上訳)とウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(柴田訳)。今月2回目の配本は、フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』とトマス・ハーディ『呪われた腕 ハーディ傑作選』の2冊。前者は集英社文庫、後者は新潮文庫(『ハーディ短編集』)を復刊したもの。

 『僕の名はアラム』は、短篇のそれぞれにドン・フリーマンの挿絵がついていて、原著を踏襲したものだろう、素朴で味わいのある雰囲気を醸している。ここでは『結婚式のメンバー』についてすこし書いてみよう。

 読み始めてちょっとした違和感をおぼえたのだけど、そのわけはすぐに思い当った。ああそうか、チャンドラーだな…。清水俊二訳でチャンドラーに親しんだものにとって、村上春樹訳のチャンドラーは著しい違和感をもたらしただろう。だれもが、「ええっ、これがマーロウ?」と思ったはずだ。これも以前ここに書いたけれども*2、村上訳は、原文に忠実であること、表現の細部を疎かにしないこと、に特長がある。そうすることによってかつてのマーロウのイメージは一新されたが、それがより本来の姿に近いマーロウなのである。

 『結婚式のメンバー』の翻訳も同じく、村上春樹は原文に忠実に、ディテールを正確に訳すことに専心している。The Member of the Wedding には先行する二種の邦訳がある。渥美昭夫訳『結婚式のメンバー』(中央公論社、1972)と加島祥造訳『夏の黄昏』(福武文庫、1990)である*3。わたしの「ちょっとした違和感」の所以は加島祥造訳にある。冒頭を写してみよう*4


 「フランキーが十二歳の夏は、不思議な奇妙な季節だった。今年も彼女は一人きりだった。どこのクラブのメンバーでもなかった。毎日ひとりで、戸口のあたりでぶらぶらしていた。フランキーは不安だった。六月の緑の色はあざやかだったのに、真夏になるとにわかに黒ずんでくる。強い日射しの下で、何もかもが濃く縮んでしまったのだ。それでも初めのうちは町じゅうを歩きまわった。どこかに何か用があるような気がした。

 朝と夜、町は灰色でひんやりしている。しかし日中は太陽の光がおそろしく強く、道路は溶けてガラスのように光った。しまいに両足が熱くてたまらなくなり、気分がわるくなった。いっそ家にいた方がましだった。ところで家にいるのは、ベレニス・セイディ・ブラウンとジョン・ヘンリ・ウェストだけだ。(以下略)」 (加島祥造訳『夏の黄昏』)


 短いセンテンスをたたみかけて、きびきびとしたリズムのある訳文だ。手練れの翻訳家の手になるものとわかる。村上春樹訳だとこうなる。


 「緑色をした気の触れた夏のできごとで、フランキーはそのとき十二歳だった。その夏、彼女はもう長いあいだ、どこのメンバーでもなかった。どんなクラブにも属していなかったし、彼女をメンバーと認めるものはこの世界にひとつとしてなかった。フランキーは身の置き場がみつからないまま、怯えを抱きつつあちらの戸口からこちらの戸口へとさまよっていた。六月には木々は明るい緑に輝いていたが、やがて葉は暗みを帯び、街は激しい陽光の下で黒ずんでしぼんでいった。最初のうちフランキーは戸外を歩き回り、あれやこれや頭に思いつくことをやっていた。街の歩道は早朝と夜には灰色だったが、昼間の太陽がそこに釉薬(うわぐすり)をかけ、焼けついたセメントはまるでガラスみたいに眩しく照り輝いた。歩道はついにはフランキーの足が耐えられないほど熱くなり、おまけに彼女はトラブルを抱え込んでいた。なにしろたくさんの秘密のトラブルに巻き込まれていたので、これは家でおとなしくしていた方がいいかもしれないと考えるようになった。そしてその家にいたのは、ベレニス・セイディー・ブラウンとジョン・ヘンリー・ウェストだけだった。(以下略)」 (村上春樹訳『結婚式のメンバー』)


 一見しておわかりのように、村上訳は加島訳にくらべて三割がた長い(文庫本の頁数もそれに応じて三割がた多くなっている)。一つのセンテンスも長く、したがって、ややもったりした感じを受ける。要するに文章に「キレ」がない。これは、チャンドラーの村上訳と清水訳とを比べた時の感じとまったく同じである。だが、訳文のセンテンスが長いということは、原文の一語一語を省略せずに訳出している、ということでもある。原文を見てみよう。


It happened that green and crazy summer when Frankie was twelve years old. This was the summer when for a long time she had not been a member. She belonged to no club and was a member of nothing in the world. Frankie had become an unjoined person and hung around in doorways, and she was afraid. In June the trees were bright dizzy green, but later the leaves darkened, and the town turned black and shrunken under the glare of the sun. At first Frankie walked around doing one thing and another. The sidewalks of the town were grey in the morning and at night, but the noon sun put a glaze on them, so that the cement burned and glittered like glass. The sidewalks finally became too hot for Frankie’s feet, and also she got herself in trouble. She was in so much secret trouble that she thought it was better to stay at home – and at home there was only Berenice Sadie Brown and John Henry West.


 それはグリーンでクレイジーな夏に起こった、という書き出しで始まる。すこしあとで、6月には木々が目もくらむような鮮やかな緑に輝き、とあるのでgreenは葉っぱの色だとわかる。だから加島訳は冒頭のgreenを省略し、その代りに「不思議な奇妙な季節」と、訳者の(この小説から読み取った)「主観」で染め上げる。あるいは、greenのあとにsummerが続けば、それは木々の緑を意味することが明らかなので省略したのかもしれない。村上訳は律儀に文字通り「緑色をした気の触れた夏」と訳している。

 それに続く加島訳は「今年も彼女は一人きりだった。どこのクラブのメンバーでもなかった」と、原文の順序を入れ替えている。村上訳は原文通り。フランキーの「不安」(加島訳)「怯え」(村上訳)は、彼女がunjoined personであることに起因している。自分の居場所がなく、誰からも承認されていないという寄る辺なさが、アドレッセンスにある少女を捕えているafraidの正体なのである。ここは原文通りの順序がいいだろう(「ここは」というのはヘンだけど)。次の加島訳「どこかに何か用があるような気がした」はまったくの「意訳」。あれをやったりこれをやったりするけれど、心ここにあらず。本当にやるべきことはほかにあるはずだけれど、それが何かはわからない。そんな感じですね。だれにも覚えがあるにちがいない。

 「太陽がそこに釉薬をかけ、焼けついたセメントはまるでガラスみたいに眩しく照り輝いた」は、いい比喩。村上春樹調といってもいいかもしれない(逆ですけど。村上春樹は、浴びるほど読んだ外国の小説からこうした比喩を学んだのである)。加島訳は、比喩は無視して「太陽の光がおそろしく強く」と至極あっさりした調子。その次も「気分がわるくなった」とあっさり処理しているけれども、これでは日射病か熱中症にでもなったみたいだ。気分がわるいのは焼けついた歩道のせいばかりではない。それにもましてトラブルを、「たくさんの秘密のトラブル」を抱えていたからである。ここは(ていうか、ここも)原文をはしょらないほうがいい。

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 と、こうやって小説の冒頭を原文とふたつの訳文を対照しながら見てくると、加島訳のきびきびとしたリズム、キレのよさは、原文を多少なりとも損なうことで得られたものだということがわかる。清水俊二訳チャンドラーと同じである。ただし加島訳は、村上春樹が清水訳をさしていった「細かいことにそれほど拘泥しない、大人(たいじん)の風格のある翻訳」というよりも、「確信犯」という感じがする。原文に忠実であることより、読者にとって読みやすい翻訳が「いい翻訳」であるという信念のようなものを感じさせる。どちらがいいかは「好みの問題」なのかもしれないけれど、わたしは原文に忠実に(はしょることなく)訳したものが好きです。


 さて、マッカラーズの『心は孤独な狩人』の映画版(邦題『愛すれど心さびしく』)をBSで見ることができた*5。原作の深みには及ばないが、主役の一人である少女ミック役のソンドラ・ロックが素敵だ。初出演のこの映画でオスカーにノミネートされたらしい。映画が撮影された時は20歳ぐらいのはずだが、ちょっと見には男の子のような「亜麻色の髪をしたひょろ長い十二歳ばかりの少女」をよく演じている。ミックはフランキーであり、少女時代のカーソンでもある。

 『結婚式のメンバー』の文庫カバーには、映画でフランキーを演じたジュリー・ハリスとベレニス役のエセル・ウォーターズの間にはさまれたマッカラーズの写真が使われている。ペンギンブックス版のカバーはこんなのです。『心は孤独な狩人』のソンドラ・ロックにちょっと似ている。いずれもcoming-of-age storyであり、バルテュスの少女のイメージもどこか揺曳しているようだ。

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上は『心は孤独な狩人』のソンドラ・ロック

下はバルテュスの Thérèse dreaming, 1938

*1id:qfwfq:20151115 ついこないだのことだと思ったら、もう半年前になるんだね。歳月は蹄の音を残して走り去る…

*2id:qfwfq:20070414

*3わたしの知るかぎり、この二種。渥美訳以前にも、あるいは邦訳があったのかもしれない。加島祥造は福武文庫のあとがきで、「これは以前に『結婚式の仲間』と訳された」と書いている。渥美訳『結婚式のメンバー』は、書棚を探したけれど、どこかに埋もれたのか、引越しの際に処分したのか、見つからない。

*4:「MONKEY」対談の注で、柴田さんは「マッカラーズの書き出しはいつも印象的である」と書いている。

*5:フルムービーをYouTubeで見られるんですね。知らなかった。『結婚式のメンバー』も。どちらも字幕はついてませんけど。

2016-03-30

時計の針はゆっくり流れる砂のよう…





 O様

 昨日は終日氷雨が降りしきっていましたが、今日は一転して朝から快晴。窓の向かいの樹林が暖かな陽射しをあびてきらきらと輝いています。風に吹かれて小梢がゆらゆらとダンスを踊り、葉鳴りがひそひそと何かをささやきかわしているかのようです。ナボコフが「暗号象徴」で書いたように、それは葉っぱたちの発信する秘密の暗号のようにも思えます。ナボコフも日がなうっとりと樹木のダンスを眺めていてあのお話を思いついたのかもしれません。 

 氷雨のなか、村上春樹のいう「雪かき仕事」の打合せで久しぶりに神保町へ出かけてきました。うちの近所にも書店はあるにはあるのですが、コミック・雑誌・実用書がほとんどで用をなしません。神保町で東京堂書店をのぞいて久方ぶりに渇を癒しました。三階の文学書のコーナーへ行くと、ペーター・フーヘルの分厚い評伝が平台に積まれていました。おお、こんな本が出ている! 数年前にフーヘルの詩集がやはり300頁ほどの上製本で出たときも驚きましたが、それも東京堂の同じコーナーの同じ平台で見つけたのでした。

 『ペーター・フーヘル詩集』は小寺昭次郎の訳*1で『詩集』『街道 街道』の二冊の詩集が収録されています。小寺昭次郎はエンツェンスベルガーの『現代の詩と政治』*2の訳者で、以前、そのなかの「自由の石」というエッセイに引用されているネリー・ザックスの「新しい家を建てるあなたたちに」という詩をメールに引用したことがありましたね。まるで3・11の後に書かれたような詩。もう一度、ここに掲げてみます。


 あなたが家を新しく建てるなら――

 あなたのキッチン、ベッド、机、椅子を――

 消えていったあのひとたちを悼む涙を

 石に

 柱に、懸けてはならない、

 あのひとたちはもうあなたとともに住むことはないのだから――

 そうでないとあなたの眠りのなかに涙が落ちる、

 あなたがぜひとらねばならぬ短い眠りのなかに。


 ベッドにシーツを延べるとき、ため息をついてはならない、

 そうでないとあなたの夢は

 死者たちの汗とまじってしまう。


 ああ、家も家具もひどく敏感なのだ、

 風琴のように、

 あなたの苦しみを育てる畑のように。

 だからあなたに、塵埃にひとしいものを嗅ぎつける。


 建てなさい、時計の針はゆっくり流れる砂のよう。

 だがわずかな時の間も、泣きつづけてはならない、

 光をさえぎる

 塵埃とともに。


 こうして書き写していても、哀しみと諦念を押し隠して自らを励ます福島の人たちの顔が浮んでくるようです。アドルノは、アウシュビッツ以後、詩を書くことは不可能であるといったけれども*3、この命題を否定できる数少ない一人がザックスである、とエンツェンスベルガーは書いています(「自由の石」)。

 ザックスのこの詩は『死の住みかで』という詩集の一篇です。死が「その家の主」となってしまった強制収容所主題としたこの詩集には、ヨブ記の一節がエピグラフに掲げられています。――わがこの皮、この身の朽ち果てんのち、我肉を離れて神を見ん、と。

 そういえば、ネリー・ザックスの詩集*4もフーヘルの詩集と同様、上製単行本で出ていて、いずれもそれほど多くの読者を期待できない本がこうして商業出版物として刊行されるということに(そしてそれをきちんと並べておく書店があるということに)一筋の光明のようなものをおぼえたことでした。


 ペーター・フーヘルの評伝は、土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』*5という400頁ほどの本。まだあちこち拾い読みしただけですが、フーヘルの詩の翻訳と原詩とを随所に引用しながら、かれの生涯と生きた時代を描こうとするもので、あまり詳しくない戦後ドイツの文学事情を理解するうえで大いに役立ちそうです。

 フーヘルは1903年、ベルリン近郊に生れ、1930年、週刊文芸紙「文学世界」で詩人としてのデビューを果たします。フーヘルの投稿した詩を読んだ編集長兼オーナーのヴィリー・ハースが「天から巨匠が降ってきたかと思った」といったほどですから、鮮烈なデビューといっていいでしょう。

 フーヘルは出征し、45年4月、壊走するドイツの部隊を逃れてソ連軍捕虜となり、収容所で文化活動に従事します。ドイツの敗戦で、英米仏ソによって分割占領・共同統治されたベルリンへ戻りますが、フーヘルはソ連占領区のベルリン・ラジオ放送局ではたらくことになります。占領地区におけるソ連の文化政策(とくに西側に対する文化宣伝)にとってフーヘルは絶好の人材であったわけです。

 ここで思いだすのは、以前、リヒターの『廃墟のドイツ1947』にふれて書いた「47年グループ」のことです*6。リヒターはアメリカ軍の捕虜となり、収容所で発行されていたドイツ人捕虜向けの新聞「デア・ルーフ」に寄稿したりしますが、ドイツへ帰国後、アメリカ占領下のミュンヘンで同名の雑誌「デア・ルーフ」をアンデルシュとともに発行し、やがてそれが47年グループの創設につながってゆく。つまり、フーヘルはソ連軍の捕虜となり、リヒターやアンデルシュはアメリカ軍の捕虜となったことが、その後のかれらの人生と文学に決定的な影響をおよぼすわけですね。

 フーヘルは1948年、『詩集』という名の第一詩集を上梓します(32年に出版を準備していた『少年の池』という詩集は刊行されず、そこに収録されるはずだった73篇のうち、18篇が『詩集』に採録されました)。49年に文芸誌「意味と形式」が創刊され、フーヘルは編集長を務めます。ブレヒトを「雑誌の顔」として正面に押し出し、エルンスト・ブロッホルカーチクラウスらを常連執筆陣に迎えて「ドイツとヨーロッパの文学と芸術の伝統をマルクス主義の立場から解釈し直す仕事によって雑誌に骨太な骨格を形成した」(土屋洋二)のです。

 西ドイツの作家、とりわけ若い世代の作家たちを起用することはフーヘルの望むところでしたが、思うようにことは運びません。ここには(ここにも)「文学と政治」の問題が横たわっていました。すなわち党指導部=文化官僚は文学(芸術)を政治に従属すべきものと考えていたのです。「社会主義リアリズム」というやつですね。

 47年グループとフーヘルとの接触は一度、54年の会合にリヒターからの招待状が届いたときだけです。その会合で参加者からフーヘルに東ドイツの体制について質問が出され、フーヘルは「硬直した東側の画一的見解に固執した」と西側メディアは報じたそうです。「国家から財政支援をうける芸術アカデミー機関誌」(同前)の編集長が、他国で「秘密警察の暗躍する東ドイツの体制」を批判できるわけがありません。フーヘルの盟友エルンスト・ブロッホ(20歳ほど年長ですが)は、「党指導部によって反革命分子の烙印を捺され」、ライプツィヒ大学の教授を解任されて61年、西ドイツへ移住します。フーヘルもまたその翌年に「意味と形式」の編集長を解任されて、秘密警察の監視下に軟禁状態を余儀なくされました。フーヘルも71年に東ドイツを出国し、10年後に西ドイツのシュタウフェンで亡くなります。


 フーヘルの評伝を見つけたということをお伝えするつもりが、思いがけなく長くなってしまいました。最後に、フーヘルがブロッホの70歳の誕生日に献げた詩を一篇、掲げておきます。これは「意味と形式」に掲載されたものですが、ブロッホの主著『希望の原理』もまた「意味と形式」に断続的に連載されたものでした。

 土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』には、訳詩と原詩、そして詩の詳細な解読があり、それはこの献詩を理解するのに有益ではありますが、ここでは小寺昭次郎の訳で引用します。『ペーター・フーヘル詩集』は小寺の遺稿(の一部)で、かれにいますこしの時間が残されていたらフーヘルの全詩集を自らの手でまとめることができたかもしれません。1950年代から小寺昭次郎と文化運動をともにしてきた古志峻は、巻末の解説でこう書いています。「小寺昭次郎は、高原宏平らとともに、「ドイツ・グループ」で、フーヘルをはじめて読んでいらい、フーヘルへの関心は終生かわらなかった。そしてそれは、戦後、DDR(ドイツ民主共和国)において、内外の風圧に耐えぬき、「ひととひととの間に距離をなくすものではなく生かす友情」(ブレヒト)のために闘ったフーヘルの精神の根源への共鳴でもあったといえよう」と。


     献詩――エルンスト・ブロッホのために


 秋と、霧の中で次第に明るさを増す太陽、

 そして夜空には火の形象(すがた)。

 それは崩れ、流れる。きみはそれを保持せねばならぬ。

 切り通しの道ではいっそう素早く野獣が入れ替わる。

 遙かな年からの木霊のように

 遠くの森を越えて一発の銃声が轟く。

 再び目に見えぬ者らがさまよい、

 川は木の葉や雲を追い立てる。


 猟人(かりうど)はいまや獲物を引いて帰ってゆく、

 松の枝のようにこわばった角を。

 沈思する者は別の形跡を探る。

 木から金色の煙が立ち昇る

 その切り通しの道をかれは静かに通り過ぎる。

 時は刻々と過ぎ、秋風によって研ぎすまされた

 思想は鳥たちのように旅立ち、

 そして多くの言葉がパンとなり塩となる。

 宇宙の大きな気流の中で、

 冬の星座がゆっくりと上空へ昇るとき、

 かれは予感する、夜がなお黙していることを。

                (小寺昭次郎訳)


ペーター・フーヘル: 現代詩への軌跡

ペーター・フーヘル: 現代詩への軌跡

*1:『ペーター・フーヘル詩集』小寺昭次郎訳、績文堂、2011年

*2エンツェンスベルガー『現代の詩と政治』小寺昭次郎訳、晶文社1968年

*3:「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とも。

*4:『ネリー・ザックス詩集』綱島寿秀編・訳、未知谷、2008年

*5:土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』、春風社、2016年

*6id:qfwfq:20151012

2016-02-26

あ、猫です――『翻訳問答2』を読む





 片岡義男鴻巣友季子『翻訳問答』については以前ここで書いたけれども*1、その続篇『翻訳問答2』が出た。今回は趣向をあらためて、鴻巣さんと5人の小説家の対談という形式になっている。奥泉光円城塔角田光代水村美苗星野智幸がそれぞれ、吾輩は猫である竹取物語、雪女、嵐が丘アラビアンナイトの英訳、英語原文を和訳して、それについて語り合う(星野智幸は『アラビアンナイト』英訳のスペイン語訳からの和訳)。

 『猫』の冒頭の奥泉さんの訳文が「あ、猫です」。わお!これには意表をつかれた。「I am a cat.を見て、ふつう「吾輩」とは訳さないですよ」と奥泉さん。仰るとおり。前回、『翻訳問答』について書いた際に、柴田元幸さんの『猫』訳と、それに附されたこんなコメントを紹介した。「原文を知らずに訳していても、この猫の個性が見えてくるうちに、「吾輩は猫である」という訳文にいずれたどり着いたかもしれない、とも思う」。それは小説全文を読んでこの小説のvoiceを聞き取ればの話で、たかだか冒頭1頁ほどの英訳から「吾輩」は出てきようがない。

 わたしが意表をつかれたのは、吾輩はどこへ行っちゃったの、ということ以上に「あ」の一語にある。幕が上がり暗転した舞台にスポットライトが当たると男がひとりそこに立っていて、客席に向かって、いま初めてお客さんに気づいたかのようにいう。

 「あ、猫です」

 そんな感じ。その軽さの由来を奥泉さんはこう述べている。「I」がとても小さく見える、と。「「吾輩」という表現は当時の政治的な文書によく見られるもの」で「政治主体を表す一人称「吾輩」が猫であることの落差で、このテクストはでき上がっている」と。仰せのとおりである。しかるに、英訳は以下のごとし。

 I am a cat; but as yet I have no name. Where I was born is entirely unknown to me. (translated by Kan-ichi Ando)

 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。/どこで生れたか頓と見当がつかぬ」は、近代小説の書出しとしては最も有名なものの一つである。だれもが脳のヒダヒダにこびりついているといってもいい。奥泉さんにこの「I」がとても小さく見えたのは、きっと漱石の原文と(脳内で)比べたからにちがいない。つまり、『猫』が大仰な一人称とそれをあやつる猫との落差ででき上がっているのと同じように、ここには漱石の戯文と平明な英文との落差がある。だから「吾輩」に比べて「I」がとても小さく見えたのだろう。この英文から「吾輩」は導き出されない。だが、原文の意図を斟酌した英訳も可能ではあるまいか。「かえるくん、東京を救う」を英訳したジェイ・ルービンさんなら、あるいはマイケル・エメリックさんならもう少しちがった英訳になっただろう。Kan-ichi Andoさんには失礼な言い方だけれど*2。ちなみに、前回『翻訳問答』で紹介した『猫』の講談社英語文庫版の英訳( translated by Aiko Ito and Graeme Wilson)では冒頭の一文はI AM A CAT.と大文字になっている。鴻巣さんは村上訳『キャッチャー』風文体の「キャット・イン・ザ・ライ」と牝猫風文体の「わたし、猫なんです」の二種。


 さて、まだ『猫』の冒頭、鴻巣・奥泉対談では最初の3頁ぐらいにしかすぎないが、この調子で紹介していると日が暮れる*3。急いで、わたしがこの本でもっとも感動したみごとな訳文を挙げておこう。角田光代さんの「雪女」の訳。まずはその箇所の英文を(もちろんラフカディオ・ハーンの原文である)。

 The white woman bent down over him, lower and lower, until her face almost touched him; and he saw that she was very beautiful, ――though her eyes made him afraid.

 鴻巣さんはシナリオ風とノーマルの二種、以下はノーマル・バージョン。

 「白づくめの女はだんだんと屈みこんできて、とうとう顔と顔が触れそうになった。そうして見ると、女はたいそう美しい――とはいえ、なにやら眼(まなこ)が恐ろしい」

 次に、角田光代さんの訳。

 「白装束の女はゆっくりと、美濃吉を押しつぶすように、顔が触れるくらいまで屈み、そして美濃吉は、その瞳に震えながらも、女がとてもうつくしいことに気づいた」

 さて、この箇所の角田訳を「綺麗ですね」という鴻巣さんにたいし、角田さんは「自分で書いておいてなんですが、感じ悪い文章です」と応えている。


 角田 ここは句読点でブツブツ文章を切りたくなくて、ひと続きの文章にしました。でも改めて読んでみると、書き手が「どうじゃ!」と自慢している気がして嫌な感じがしますね。こうして読者として読むと、これを書いた人に「いい仕事したと思い上がってるんじゃないの。文章を入れ替えてうまくやったと思ってるでしょ!」と言いたくなります(笑)。

 鴻巣 ドヤ顔が思い浮かぶと(笑)。

 角田 ただ、「女は美しいと気づいた。でも、その目が怖かった」とはしたくありませんでした。


 原文は、女の美しさを言い、そのあと目におののいたと続けている。「角田さんは美しさを後にしてそっちに焦点をもっていってますね」という鴻巣さんの指摘に、「訳しているときは深く考えませんでしたが、改めて考えてみると私はやっぱり顔が綺麗なことを書きたかったんだと思います。私にとっては、瞳が恐ろしかったことを強調した訳文があることじたいが新鮮でした」と角田さんは応えている。翻訳者は原則的に原文の語順を変えない場合が多いが、ここは小説家の直感がみごとな訳文を生んだというべきか。角田さんがこれを自慢気だというのは、ある種の小説的ケレンによる美文だからだろう。だが小説にはときに外連も必要である。度を越すと嫌味で下品になるが、ここぞというときにもちいると絶大な効果をあげる。

 文体におけるそうした外連のひとつに文末の体言止めがある。先の対談で、奥泉さんは「名詞で文章を終えるのは、日本語としてはリスキーなんです。なんというのかなあ、安っぽい印象になる危険性をはらんでいる。ただ、僕はわりと体言止めは好きなんです」と仰っている。大西巨人も「現代口語体における名詞(体言)止め」*4という文章で、「「現代口語体」における名詞止めの採用ないし多用がしばしば文の体(すがた)をいやしくする」(「雅文〔文語体〕」においてはなかなかそうではない)と書いている。そして鏡花や一葉の例を列挙するのだが、ここでは一例のみ挙げておこう。


 「トタンに衝(つ)と寄る、背後(うしろ)へ飛んで、下富坂の暗(やみ)の底へ、淵に隠れるように下りた。行方(ゆきがた)知れず、上野の鐘。」 (泉鏡花「親子そば三人客」)


 「その名詞止めによる締め括りは、水際立ってみごとである」と大西巨人は評している。角田さんの如上の訳文も、水際立ってみごとである。


翻訳問答2 創作のヒミツ

翻訳問答2 創作のヒミツ

*1id:qfwfq:20140720, id:qfwfq:20140727

*2:奥泉さんは「英訳文を読んで、よく訳されているなと感心しました」と仰っているけれど。

*3:「日が暮れてから道は始まる」と仰ったのは足立巻一である。

*4大西巨人編『日本掌編小説秀作選 下』花・暦篇、光文社文庫、1987。但し、この元版であるカッパ・ノベルス版にはこの文章は収録されていない。

2016-02-11

炎上する花よ、鳥獣剝製所よ――矢部登『田端抄』





 矢部登さんの『田端抄』が開板された。龜鳴屋本第二十二冊目*1。矢部さんが出されていた冊子「田端抄」については三年ほど前にここで触れたことがあるが*2、「田端抄」全七冊から三十篇、それに新たに四篇を加えて構成したと覚書にある。巻末に木幡英典氏撮影による田端界隈の写真帖が附されている。奥付に貼附された検印替りの村山槐多水彩画「小杉氏庭園にて」とともに心憎い編集である。ちなみに未醒小杉放菴旧居は、矢部さんのお住まいから「歩いて八十歩たらず」にある由。

 「谷中安規の動坂」という章に、このところ安規の「動坂」をながめている、とある。谷中安規の「動坂」はこんな木版画である。


 「坂道は画面中央にゆるやかな曲線をえがいている。/坂の上の右側には白くぬかれたショーウインドーがあり、そのなかに鳥の剝製があざやかに浮かぶ。左側には住宅の屋根が点在する。夜空には満月が白くおおきくえがかれていて、そのなかに寺の塔が小さく浮かびあがる。(略)満月と寺の塔、鳥の剝製のシルエットが印象にのこる。夢まぼろしと現実の動坂とが溶けあい、妖気がただよう。」


 このショーウィンドウの中の鳥の剝製から、矢部さんは本郷弥生坂の鳥獣剝製所に思いを馳せる。わたしは、仕事で東大本郷キャンパスに幾度も通った。通常は本郷三丁目駅から本郷通りを歩いて赤門か正門へと向かうのだが、ときに根津駅から言問通りに沿って坂をのぼり、二つ目の信号の角を曲がり弥生坂をすこし下って弥生門から行くこともあった(帰りはいつも本郷通り沿いの古本屋を覗きながら本郷三丁目駅へ向かった)。その言問通りの信号の角に鳥獣剝製所があり、通るたびに不思議な佇まいにいつも気が惹かれた。おそらくその前を一度でも通ったことのある人なら誰もが忘れられないにちがいない。


 「その日は、鳥獣剝製所の白い看板とショーウインドーのまえにたちどまり、あらためて見入った。八十年前、谷中安規の幻視した《動坂》が眼のまえにあることに驚愕したのだった。不況からぬけだせぬ平成の時代に、谷中安規は甦り、街なかをほっつきあるく。そのすがたが、ふと、よぎる。弥生坂の鳥獣剝製所あたりで、まぼろしの安規さんと袖すりあわせていたかもしれぬ。」


 鳥獣剝製所といえば思い出すのが富永太郎の「鳥獣剝製所」で、「一報告書」と副題の附いた幻想小説風の味わいのある富永最長篇の散文詩である。

 「過ぎ去つた動物らの霊」「過ぎ去つた私の霊」に牽かれて、「さまざまの両生類と、爬蟲類と、鳥類と、哺乳類」の剝製の犇めきあう古ぼけた理科室のような暗鬱な建物に「私」は足を踏み入れる。剝製たちはみな「私」の荒涼とした心象の外在化であるかのようだ。富永太郎はこの詩を発表した年の霜月、二十四歳で夭折する。翌月、太郎の弟、次郎と中学で同級生となり、のちに富永太郎評価に多大の貢献をした大岡昇平はこの詩を「剝製は時間による忘却の結果であり、私が建物に歩み入ることにより、動物の霊は再生する。散文詩全体は追想の快楽と苦痛を表わそうとしているようである」と評している*3

 「……流水よ、おんみの悲哀は祝福されてあれ! 倦怠に悩む夕陽の中を散りゆくもみぢ葉よ、おんみの熱を病む諦念は祝福されてあれ!(略)炎上する花よ、灼鉄の草よ、毛皮よ、鱗よ、羽毛よ、音よ、祭日よ、物々の焦げる臭ひよ。/さはれ去年(こぞ)の雪いづくにありや、」

 ヴィヨンのルフランのあとの最終聯。

 「私は手を挙げて眼の前で揺り動かした。そして、生きることゝ、黄色寝椅子(ディヴァン)の上に休息することが一致してゐるどこか別の邦へ行つて住まうと決心した。」

 とんでもねえボードレリアンだと後年物議をかもした、と北村太郎は書いている*4。――この世のほかなら何処へでも、か。

 富永太郎の鳥獣剝製所は、大岡昇平によれば「富永の家のあった代々木富ケ谷一四五六番地からほど近い、今日の東大教養学部の構内、当時の農学部、俗に「駒場東大」の一部にあったものを写したらしい」とのこと。駒場と本郷、いずれにしても東大に縁が深い。ちなみに久世光彦の『蝶とヒットラー』*5によれば、弥生坂の鳥獣剝製所の剝製の値段は「栗鼠が一万五千円、狸は五万円、狐六万円、鹿の頭部は十三万円、そして鹿全体が五十万円」だそうである。二十五年ほど前の文章だから、さて、いまではいくらぐらいになっているだろうか。この鳥獣剝製所、ただしくは尼崎剝製標本社という。


 話を谷中安規にもどせば、石神井書林内堀弘さんが雑誌「ひととき」に隔月連載されている「古書もの語り」、今月(2月号)は内田百間の『王様の背中』を取り上げている。「谷中安規先生が、美しい版画を、こんなに沢山彫つて下さいました。お蔭で立派な本が出来ました」と百鬼園先生が序(はしがき)でいうとおり、安規の版画がふんだんに収載されたお伽噺集である。文庫版で見てもその楽しさの一端は伝わってくる。

 昭和九年、楽浪書院発行のこの本には二百部作られた特装本がある、と内堀さんは書いている。谷中安規の展覧会でこの特装本を見て溜息が出た、という。「会場では、この本に収められた二十数点の木版画を一点ごとに額装し、壁一面を使って展示していた。そのどれもが不思議と懐かしい」。それからこの本を探しはじめ、ようやく出逢った入札会ではりきって落札した。古書店の先輩に「おっ、ずいぶん頑張るね」とからかわれたそうだ。

 日本の古本屋サイトで検索すると、石神井書林出品の『王様の背中』帙入特装本のお値段は、七十五万六千円となっている。

*1http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/

*2id:qfwfq:20130420

*3:『富永太郎と中原中也』レグルス文庫、1975

*4:『富永太郎詩集思潮社現代詩文庫・解説、1975

*5日本文芸社、1993/ハルキ文庫、1997

2016-01-24

目の伏せ方だけで好きになる――『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』





 この2ヶ月、これはすごいという作品には巡り会えなかった。なにか書いておきたいと思わせられた作品は、残念ながらほとんどなかった。2つの作品を除いては。もっとも、毎月すごい作品にいくつも出会えるわけはないのだけれど。

 その稀な作品のひとつはスティーヴ・エリクソンの小説『ゼロヴィル』。これは全篇を通じて映画の氾濫する映画好きにはこたえられない小説で、映画批評家でもあるエリクソンの鋭い批評が登場人物をとおして全篇に鏤められている。タイトルはゴダールの『アルファヴィル』の科白から。3月のエリクソンの来日にあわせて2月末には柴田元幸さんの翻訳が白水社から出る予定なので、その頃にまた書く機会があるだろう。

 もうひとつは、先週から始まった連続TVドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』*1。ふだんはTVをほとんど見ないのだが、坂元裕二脚本のドラマは見逃せない。録画して繰り返し2度見た。

 坂元脚本の『Woman』についてはここで一度書いたことがある*2。その後、wowowの『モザイクジャパン』(2014)、フジテレビの『問題のあるレストラン』(2015)を見たが、いずれもあまり感心しなかった。わたしが坂元裕二に求めているものと肌合いが違っていたからだろう。このたびの『いつ恋』は、間違いなく『Woman』や『それでも、生きてゆく』のテイストにつらなる傑作になるだろう。


 女手ひとつで育てられた杉原音(おと)は、母を亡くし幼い頃から北海道の育ての親のもとで暮らしている。そこへ、音が失くした母の手紙を届けに、運送会社で引越しの仕事をしている曽田練(れん)がトラックに乗ってやってくる。

 音はトラックの品川ナンバーのプレートを見て「あ、新幹線のある駅でしょ」と言う。「あ、はい」「に、住んでるの?」「いえ、住んでるのは雪が谷大塚って」

 雪が谷大塚は東急池上線の駅。西島三重子名曲「池上線」を思い出させる。練も雪が谷大塚できっと「池上線」の歌詞のような生活と恋をしているのだろう。

 「有名?」と音が訊く。「東京ってひと駅分ぐらい歩けるって本当?」「本当です」「ウソだ」「3駅ぐらい歩けますよ」「ウソ言うな、3駅って選手やん」「選手じゃないです」「競技やん」「競技じゃないです、3駅歩く競技ないです」クスっと笑う音。

 北海道の小さな町、ダムの底に沈むはずだったさびれた町から音は1歩も出たことがないのだろう。音には、東京は友だちとの会話か雑誌かで知った断片的な知識しかない都会だ、ということをこの科白がさりげなく伝えている。

 病の床に伏せっていた養母の容態が悪化し、たまたま通りかかった練のトラックで病院へかつぎ込む。病院の帰り、音は練にファミレスに連れて行ってくれと頼む。初めて来たファミレスに興奮する音。第1回のハイライトともいうべきシーンである。すこし長くなるが、再現してみよう。

 メニューに目移りしてなかなか注文する品が決まらない。大根おろしとトマトソースのハンバーグを両方注文して二人で分けようと提案する練。注文が終わったあともメニューを食い入るように見ている音。「網焼きチキンサンド、ポークソテーきのこクリーム」と目を輝かせて読み上げる。微笑んで見ている練。気づいてちょっときまり悪くなって「引越し屋さんはさ、ファミレスとかよく行く?」「そんなに」「ふーん。付き合ってる人とかいる?」「います」「どんな人?」「会社員」「じゃあさ、改札とか、駅のこっちとこっちとかでさ」とケータイで話す身ぶり。「電話するねとか言う?」「え?」「ね、花火大会とか行ったりする? 家具屋さんに二人で行ったり」「行かないです」「東京の家具屋さんて、すごい広いんでしょう。はぐれたりするんでしょう?」少し首をかしげる練。「ハイヒール?」「はい?」「その人」「ああ、はい」「どんな服着てる?」「服?」「うん」「服は……」自分のセーターとジーンズ、スニーカーを指して「ねえ、こんなのとはちょっと違うでしょう?」「もうちょっとオシャレっていうか」

 坂元裕二の脚本では、他愛のない会話でもその科白の一つひとつが意味をもっている。音は21歳になるまでファミレスに行ったこともなかった。おそらく花火大会も。そういう暮らしを強いられてきたのだろう。子どもの着るスキーウェアのようなセーターも、どこかのスーパーでディスカウントしたものを精一杯奮発して手に入れたにちがいない。新聞配達とクリーニング店でのアルバイトで、高校の学費も自分でまかなったはずだ。

 「ねえ、引越し屋さん、私にだってファッションに強いこだわりありますよ」。すこし意外そうな顔の練。ほらこれを見て、というようにマフラーを見せる音。「(笑って)それはあの、ファッションじゃなくて寒さしのぎですよね」「(笑って)それ言ったら服は全部寒さしのぎだよ」「それ言ったら一番オシャレなのは羊になりますよ」「羊?」「羊」「どうかな」と笑う音。

 やや間があって、「私にも付き合ってた人いましたよ。気象観測部の保利くん。中3から高3まで付き合ってて、けっこう好きでしたよ」「どんなところがですか?」「目の伏せ方?」「なんですかそれ」「わかんない? なんかこう、ふとした時にシュって感じの、わかんない?」「わかんないです」「やってみて」「いや、できないです」「できるって。はい」ぎこちなく下を向く練。「それじゃあ、下向いただけ」と笑う音。「目の伏せ方だけで好きになったんですか?」「なんか、彼が本読んでる時とかに、こう、何読んでるのかなあってこっそり覗き込んだり。あと、中庭に百葉箱ってわかる? 小さい家みたいな、温度計がはいってる箱。あそこに昼休み、保利くんいて、あ、今日フルーツサンド食べてるんだあとか、見てて、不思議だよね、こう、好きな人って、居て見るんじゃなくて、見たら居るんだよね。たとえば教室の……」思い出している。自分に言い聞かせるように「うん」

 「保利くん、いまどうしてるんですか?」「札幌の大学に行った。知り合いが一回偶然会って、元気にしてたって言ってた」。すこし沈み込む音。高3の時に「一緒に札幌の大学を受験しよう」というメールが音に届いたことがあった。家庭の事情で進学を断念したのだろう。音、沈み込んだ気持ちを逸らそうとメニューを手にして「いいアイデアだね、違うの頼んで分けるんだ。トリプルベリーパフェ。ふーん」とひとり言のように言う。音は保利くんとデートしたことがあったのだろうか。一緒にファミレスへ行って他愛のない会話をしたかったと思ったのだろうか。ドラマは大事なことを半分しか語らない。残りの半分は見る者の想像にゆだねられている。「また、見つかりますよ、好きな人」励ますように言う練。聞こえなかったように「ベルギーチョコプリン」とメニューを読む音。「やっぱり好きな人と……」。練は、音が好きでもない金持ちの男と、養父に無理やり結婚させられようとしているのを知っている。聞こえなかったように「一番オシャレなの羊って……」とつぶやく音。

 注文したハンバーグセットが来る。ナイフとフォークで切り分ける練。吹っ切ったように「白井さんと結婚することにした」と音は言う。「さっき病院で決めた。ありがとう。手紙持ってきてくれて。引越し屋さんが言ってたとおり、あれって私のつっかえ棒やったから。ほんまに嬉しかった。結婚する」見つめ合う二人。うなだれるように目を伏せる練。「引越し屋さん」「はい」。目を上げる練。「いま、すごくいい目の伏せ方しましたよ」


 音を演じる有村架純が圧倒的にいい。『それでも、生きてゆく』で、連続ドラマの初めてのヒロインを演じた満島ひかりの再来を思わせる。練の高良健吾も受けの演技をみごとにこなしている。

 音が練と一緒にトラックに乗っているところを目撃した白井は、養父に破談を申し入れにやってくる。玄関で出くわした白井から悪態を投げつけられる音。家の中に入ると、音が後生大事に持っていた母の遺骨を養父がトイレに流しているのを見つける。性懲りもなく今度は中年の男やもめとの縁談を勧める養父。絶望している音を抱えるようにして養母が言う。「音、逃げなさい。もう、あんたの好きなところに行きなさい」。因業親父を振り切って外へ飛び出す音。外は土砂降りだ。土砂崩れの注意警報のサイレンが鳴るなかをひた走る音。通りかかった練のトラックと出会い、乗り込む音。このシークエンス演出も充実している。主題歌の手嶌葵「明日への手紙」は、このドラマのために作られたかのようにsuitableだ。

 音は上京し、雪が谷大塚に住む。その1年後から第2回が始まる。明日の夜9時が楽しみだ。

2015-11-15

植草甚一ふうにいうと……――村上春樹柴田元幸「帰れ、あの翻訳」についてのあれこれ





 植草甚一ふうにいうと、「MONKEY」最新号の村上春樹・柴田元幸の対談を読んで、村上春樹はホントにアメリカの小説をよく読んでいるなあと唸ってしまった。この対談は特集の「古典復活」にちなんで、絶版や品切れになっている英米の小説について二人が語り合ったものだ。古典復活といってもここに出てくるのはいわゆるクラシックな小説ではなく、30〜40年ぐらい前にふつうに読むことのできた翻訳小説がほとんどで、だから対談のタイトルも「帰れ、あの翻訳」となっている。村上さんはわたしより2歳年上、柴田さんは3歳年下、したがってわたしはお二人のちょうど真ん中あたりの世代になるのだけれど、読書体験としてはほぼ同世代といっていいだろう。お二人が選んだ〈復刊してほしい翻訳小説〉50冊、それぞれの書影が出ていて――相当に年季の入ったくたびれた本なのでおそらく蔵書を撮影したものだろう――いずれも8割方はわたしの蔵書と重なっている。処分してもう手元にない本もあるけれど、だいたいわたしも20〜30歳代に読んでいた本ばかりである。品切れになっているのは当然で、かといって取り立てて珍しい本というわけではなく、古本屋へ行けばいまでも均一本で転がっているような本がほとんどだ。書影についてはあとで触れるとして、まずは対談についてちょっと思いついたことを書いてみよう。


 「僕がフィッツジェラルドを訳しはじめたころも、『グレート・ギャツビー』と短篇が少し出ているぐらいで、あとはほとんど出ていなかった」(村上さん)

 村上さんがフィッツジェラルドを訳しはじめたのは、ウィキペディアによると1979年、「カイエ」に載った「哀しみの孔雀」が最初で、81年に「哀しみの孔雀」を含む短篇集『マイ・ロスト・シティー』の単行本が刊行される。柴田さんが注で書いているように、フィッツジェラルドは81年に荒地出版社が作品集(全3巻)を出して短篇もそれなりに読めるようになったが、村上訳『マイ・ロスト・シティー』と2冊の『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』がフィッツジェラルド再評価の先鞭をつけたといっていいかと思う。それより10年ほど前、わたしの学生時代にはエリザベス・テイラーのスティル写真がカバーになった角川文庫の『雨の朝巴里に死す』(飯島淳秀訳、映画化された「バビロン再訪」の邦題)、新潮文庫の『華麗なるギャツビー』(野崎孝訳、これは名訳だと思う)、それに角川文庫の『夢淡き青春』(大貫三郎訳、副題にグレート・ギャツビーと付いていたけれど、なんでこんな邦題にしたのだろう)あたりをよく見かけたものだ。角川文庫版の『夜はやさし』(谷口陸男訳)はすでに絶版になっていたように思う(のちに金色のカバーで復刊される)。


 「マッカラーズ、個人的に大好きで、『心は孤独な狩人』が絶版なのはすごく残念で、自分で訳したいくらいなんだけど、何せ長いからなあ」(村上さん)

 柴田さんが「映画にもなってますね。邦題は『愛すれど心さびしく』」と応えている。この映画は見ていないけれど、『ママの遺したラヴソング』という映画で、スカーレット・ヨハンソンが寝食を忘れて読みふけっていた、死んだ母親の好きだった小説が『心は孤独な狩人』のペーパーバックだった。母親のかつてのボーイフレンドアル中の元英文学教授がジョン・トラボルタで、かれがT・S・エリオットの詩「四つの四重奏」を朗唱したりするのだけど、こういった映画のなかの文学趣味がわたしは嫌いではない。『ミリオンダラー・ベイビー』でイーストウッドがつぶやくW・B・イェーツの詩「イニスフリーの湖島」もよかった*1。あれはジョン・フォードの『静かなる男』へのオマージュなのかもしれない。マッカラーズの『結婚式のメンバー』を村上さんが訳しているそうだ。これはたのしみ。


 「研究者のあいだでは、同じアメリカ南部の女性作家ということで、マッカラーズはフラナリー・オコナーとよく較べられて、オコナーの方がすごいと言われがちです」(柴田さん)

 南部の女性作家ってことだけで較べられてもなあ、と思うよねえ。アメリカ北部の男性作家という括りで誰かと誰かを比較したりしないもんね。村上さんにいわせれば、それは「ジム・モリソンとポール・マッカートニーを較べるようなものですよ」ということになる。さすが、比喩が的確だ。昨年と今年、『フラナリー・オコナーとの和やかな日々』『フラナリー・オコナーのジョージア』の2冊が翻訳刊行された(いずれも新評論から)。オコナー再評価の機運があるのだろうか。オコナーの短篇「善人はなかなかいない」には、佐々田雅子の新訳がある*2

 翻訳家大久保康雄について、柴田さんが「個人の翻訳者というよりは「大久保康雄」という名の翻訳工房であり、面倒見のよい個人・大久保康雄の統括の下、総じて良質の翻訳が大量に生産された」と注に書いている。へえ、そうなんだ。わたしたちの世代はみんな大久保センセイの翻訳にお世話になりましたね。いま新訳が刊行中の『風と共に去りぬ』とか、ヘミングウェイとかヘンリー・ミラーとかO・ヘンリーとかダフネ・デュ・モーリアとか、もうあれもこれも大久保センセイの翻訳だった。常人の仕事量ではありませんね。ちなみに『風と共に去りぬ』を大久保康雄と共訳した竹内道之助は三笠書房の創立者でもあるけれど、三笠からクローニン全集というのを全巻個人訳で出していた。クローニンって、いまはもうほとんど忘れられた作家だけど、むかしはクローニン原作のテレビドラマなんかが幾つもあってけっこう読まれてたのね。石坂浩二樫山文枝の「わが青春のとき」とか。ぼくも原作買って読んだもん。どちらかというと大衆的な小説家だけど復刊すると意外と受けるかもしれませんね。

 復刊といえば、柴田さんが対談で挙げているマラマッドの『店員』(『アシスタント』の題で新潮文庫から出ていた)や、オコナーの『烈しく攻むる者はこれを奪う』を復刊した文遊社は目の付け所が絶妙ですね。ナボコフの『プニン』に、ペレックの『物の時代 小さなバイク』、サンリオSF文庫で出ていたアンナ・カヴァンデイヴィッド・リンゼイ。最近ではグラックの『陰欝な美青年』。「おお、そうきたか」って、なんか一昔前の文学好きといった感じの選書だな。個人的な希望をいわせてもらうと、『陰欝な美青年』と同じ筑摩の海外文学シリーズで出ていたデープリーンの『ハムレット』、ビュトールの『仔猿のような芸術家の肖像』、ヒルデスハイマーの『眠られぬ夜の旅』(新潮社の『詐欺師の楽園』も)、河出のブッツァーティ『ある愛』、アルトマン『サセックスのフランケンシュタイン』、サンリオジョン・ファウルズダニエル・マーチン』、SF文庫のボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』、スラデックの『言語遊戯短編集』なんかをぜひ復刊していただきたい。それに青柳瑞穂訳の『アルゴオルの城』(人文書院)とかね。あーあ、こんなこと書いてたらキリないな。最初に書いた書影について急いで触れておこう。


 まずは村上さんの〈復刊してほしい翻訳小説50〉から。ケン・コルブの『傷だらけの青春』(角川文庫)。写真では背しか見えないけれど、表紙カバーはエリオット・グールドキャンディス・バーゲンのツーショット。映画『…YOU…』のスティル写真である。好きだったな、この映画。主題歌(映画原題と同じ GETTING STRAIGHT*3)もよかった。ダリル・ポニクサンの『さらば友よ』は映画『さらば冬のかもめ』の原作*4。これも角川文庫で、この頃(1970年前後)角川文庫から外国映画の原作本が続々と出ていたんですね。これはたしか角川春樹さんの仕事で、のちの角川映画メディアミックス横溝正史とか森村誠一とか)につながってゆく。『マッシュ』も『くちづけ』も映画の原作。けっこう原作本を読んでるんですね、村上さんは。

 左上に掲げられている絵はジョン・ファウルズの『魔術師』の原書ダストジャケット*5。ちょっとシュールで面白い絵なので調べてみた。画家はトム・アダムスさん*6。ここに掲げておこう。

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 柴田さんの〈復刊してほしい翻訳小説50〉には、ダニロ・キシュやミロラド・パヴィチなど、英米以外の作家も挙げられている。パヴィチの『ハザール事典』は先頃、文庫化された。ドナルド・バーセルミの『口に出せない習慣、奇妙な行為』はサンリオSF文庫から出ていたが、『口に出せない習慣、不自然な行為』と改題されて彩流社から復刊された。復刊本も品切れのようだ。ゼーバルトの『アウステルリッツ』も挙がっているけれど、これは品切れ中なのか。単行本が出て、ゼーバルト・コレクションに入るときに「改訳」されたが、実際は、重版の際にほどこすのと同等の小さな手直しである。ナサニエル・ウェストの『いなごの日』と『クールミリオン』(いずれも角川文庫)は、改訳するかそのまま岩波文庫にでも入ればいいのに。『孤独な娘』も入ったことだしね。

MONKEY Vol.7 古典復活

MONKEY Vol.7 古典復活

*1:脚本はポール・ハギス。かれの監督作品『サード・パーソン』は、今年BSで見た100本ほどの映画のなかのベスト。

*2:「善人はそういない」、アンソロジー『厭な物語』文春文庫所収。

*3https://www.youtube.com/watch?v=vWER0TLWLuo

*4:『さらば冬のかもめ』はアメリカン・ニューシネマの代表作の1本。監督がハル・アシュビー、脚本がロバート・タウン。ハル・アシュビーとハスケル・ウェクスラー(撮影)コンビの『帰郷』で、ジェーン・フォンダジョン・ボイトはそろってオスカー主演賞を手にした。ベトナム反戦映画の代表作。ジョン・ボイトはアンジェリーナ・ジョリーのお父さんですね。ロバート・タウンはわがオールタイムベストの1本『テキーラ・サンライズ』で監督も務めた。Allcinemaの『テキーラ・サンライズ』の解説には不賛成。『さらば冬のかもめ』、BSでやんないかな。

*5:Published by London: Jonathan Cape,1966

*6http://www.tomadamsuncovered.co.uk/index.html

2015-11-01

怯えるカフカ




 『小泉今日子書評集』が書店新刊の平台に並んでいた。読売新聞に10年間掲載された書評を集成したものだという。それぞれの末尾にあらたに短いコメントが附されている。手に取ってぱらぱら頁をくっていると、ある箇所にきて、おおっと思った。最近、文庫本の小さい字が読みづらくて眼鏡をかけて読んでいる、といった意味のことが書かれていた。キョンキョンが老眼鏡ねえ。歳月人を待たず、か。わたしもむろん疾うから老眼だが、いまのところ文庫本のルビもどうにか裸眼で読めるので老眼鏡はもっていない。目はひとより酷使しているので、そのせいか、1年ほどまえに白内障の徴候があると医者に診断されたが、いまのところ自前の水晶体を騙し騙し使っている。たんにモノグサで眼鏡をかけたり手術をしたりするのが面倒なだけなのだけれど。

 文庫本といえば、最近創刊された集英社の〈ポケットマスターピース〉シリーズは近来出色のものである。全13巻と多くはないが文庫版世界文学全集というべきもので、初回配本がカフカとゲーテの2冊。とりあえずカフカの巻を買ってみた。「変身」(「かわりみ」とルビが振られている)と、「ある戦いの記録」から抜粋した2篇、それに「田舎医者」から1篇、都合4篇が多和田葉子の新訳、ほかに「訴訟」(「審判」)や「流刑地にて」「巣穴」など8篇すべてが70年代生れの中堅研究者(川島隆、竹峰義和、由比俊行)による新訳。さらに書簡選、公文書選も収録されている。 

 「変身」冒頭の有名なセンテンスを多和田葉子はこう訳している。


 「グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。」


 「なにか気がかりな夢」という訳語も含みがあって好きなのだが、「複数の夢の反乱」というのも、ざわざわした不安な夢の感触をつたえて悪くない。多和田葉子は本書に「カフカ重ね書き」という12頁におよぶ解説を寄せている。今年の「すばる」5月号に「変身」の翻訳が掲載された際に「カフカを訳してみて」という見開きの文章が掲載されたが、それと重複する部分もある。ふたつの文から大意を紹介すると――

 「変身」冒頭、原文は「ウンゲホイアのようなウンゲツィーファーに変身してしまった」であり、ウンゲホイアは化け物であり「余剰によって人間をはみだしてしまった」という語感があるという。ウンゲツィーファーは害虫、訳文の()内に補足されているように「生け贄にできないほど汚(けが)れた生き物」が語源である。父親の罪=借金を償うためにグレゴールは会社に生け贄として捧げられていたが、変身することによって生け贄をまぬがれて自由の身になる。だがその代償として家族や社会から見捨てられ、生き延びることができなくなってしまう。変身したグレゴールからはまた「引きこもり」や「介護」の問題も読み取ることができる。カフカの小説はそうした複数の解釈を生じさせる重層構造があるが、それは労働者災害保険局に勤めてさまざまな社会的問題と直面していたことと関係があるかもしれない、カフカの書いた公文書もそういう視点で読むと面白い、と多和田葉子はいう。

 というわけで、公文書選の「1909年次報告書より 木材加工機械の事故防止策」を読んでみる。これは、木材切削加工用のかんな盤の安全シャフトについての報告で、角胴と丸胴のシャフトの相違をイラスト図版つきで詳細に説明している。すなわち――


 「(角胴は)かんな刃とテーブル面のあいだに広い隙間が空いているせいで作業員の身に生じる危険は、明らかに突出して大きい。この方式のシャフトで作業するということは、すなわち危険について無知なまま作業して危険をいっそう大きくするか、あるいは避けようのない危険にたえずさらされている無力を意識しながら作業するか、どちらかを意味する。きわめて用心深い作業員なら、作業に際して、つまり木材を回転刃に送る際に木材より指が前に出ないよう細心の注意を払うことができるだろうが、危険があまり大きいので、どれだけ用心しても無駄である。どれだけ用心深い作業員でも手が滑ることはあるし、片手で工作物をテーブル面に押しつけ、もう片方の手でかんな刃に送るとき、木材が躍ることは少なくない。すると手が刃口に落ちて回転刃に巻き込まれてしまう。そのように木材が浮いたり躍ったりするのは予測不能であり、防ぐこともできない。木材にいびつな箇所があったり枝が出ていたりするとき、あるいは刃の回転速度が足りないとき、あるいは木材を押さえる手の力が不均一であるときに、それは簡単に起こる。だが、ひとたびそのような事故が起これば、指の一部または全部が切断されずには済まない。」


 面白い。書き写していると面白くてつい長く引用してしまった。「避けようのない危険にたえずさらされている無力を意識しながら作業する」なんて役所の報告書としてはレトリックが過剰で、もっと簡潔に事実のみを述べよ、と上司が注意したのじゃないだろうか。イマジネーションが過剰に発動して、カフカはここでほとんど作業員と一体化して危険におびえているかのようだ。

 巻末の詳細な作品解題で川島隆は、公文書は従来カフカ研究において重きをおかれていなかったが、近年では「文学作品と公文書のあいだの文体上・モチーフ上の連続性が指摘されるようになってきて」おり、「両者の境界線撤廃し、カフカの公文書を「文学作品」として読む可能性もまた読者の前に開かれている」と記している。 安全ヘルメットを発明したのはカフカだという「風説」もあったそうだが、危機や危険にたいする異常に鋭敏なセンサーは、たとえば「巣穴」などの作品にも明確に発揮されている(川島隆は、この木工機に関する報告書を「流刑地にて」と対をなすテクストだと書いている。慧眼である)。

 本書に収録された公文書は、ドイツの「批判版全集」の公文書の巻からカフカの文章であることがほぼ確実なものを訳出したそうだが、もっと読んでみたいと思わせられた。「カフカお役所文集」なんて出るといいなあ。売れないだろうけど。「訴訟」や書簡選には、批判版全集の校注を参考に訳注を附すなど、ぜんたいに最新の研究成果が取り入れられている。800頁の大冊で本体1300円と、値段もお買い得である。


2015-10-12

小説家は寛容な人種なのか、もしくは、ドイツ戦後文学について





 又吉直樹の「火花」は「文學界」に掲載されたときに読んだ。芥川賞候補になる前だったが、いい小説だと思い、好感をもった。ただ、いささか「文学」っぽすぎるような印象があり、そこがいささか気になった。芥川賞受賞後、「文學界」の特集(9月号)を読み、いくつか出演したTV番組を見て(漫才の番組ではない。わたしは彼の漫才を見たことがない)、聡明な人だな、という感想を持った。小説家にしては聡明すぎるようで、そこが彼の弱点かもしれないと思った。そう思ったのは、村上春樹の『職業としての小説家』の冒頭に、「小説を書くというのは、あまり頭の切れる人に向いた作業ではない」と書かれていたからである。

 村上は「頭の回転の速い人々が――その多くは異業種の人々ですが――小説をひとつかふたつ書き、そのままどこかに移動してしまった様子を僕は何度となく、この目で目撃してきました」と書いている。「頭の回転の速い人々」が小説家に向いていないとする村上説の当否については直接その文章にあたって判断していただきたいのだけれど、わたしが村上説をそうかも知れないと思ったのは、芥川賞の選考委員のだれよりも又吉直樹のほうが頭の回転が速く聡明そうに見えたからである。ある種の「頭の回転の速さ」がなければ、生き馬の目を抜くような芸能界で頭角をあらわし生き残ってゆくのは不可能だろう。小説家として「生き残ってゆく」資質は、それとは違うものだと村上は考えているらしい。

 芸人や芸能界の世界を舞台にした小説でわたしが思い出したのは、中山千夏の『子役の時間』と松野大介の『芸人失格』である。いずれもよく書けたいい小説だと思った記憶がある。ずいぶん昔に読んだので「火花」と比較して論評はできないが、遜色はなかったように思う。松野大介はそれ以降も小説を書き続けている(というよりも物書きに転身した)らしいが、中山千夏は数冊の小説集を出して、村上春樹のことばを借りれば「そのままどこかに移動してしまった」。ビートたけし荒木一郎も一時期小説に手をそめて「移動してしまった」才人たちである。

 又吉直樹の小説が村上のいう「多少文才のある人なら、一生に一冊くらいはわりにすらっと書けちゃう」一瞬の火花のようなものにすぎないのか、それともこの先「二十年、三十年にもわたって職業的小説家として活躍し続け」てゆくのか(もしくは池田満寿夫唐十郎のように二足のわらじを履き続けるのか)、見届けたいと思う。

 

 さて、村上のこの文章――「小説家は寛容な人種なのか」と題されている――で、もうひとつ面白いと思ったのは、「小説家の多くは――もちろんすべてではありませんが――円満な人格と公正な視野を持ち合わせているとは言いがたい人々です」という断言である。村上は続けて「また見たところ、あまり大きな声では言えませんが、賞賛の対象にはなりにくい特殊な性向や、奇妙な生活習慣や行動様式を有している人々も、少なからずおられるようです」と書いている。「僕も含めてたいていの作家は」と書いているように、自らを「基本的にエゴイスティックな人種」であると村上は認めているのだろう。わたしにも小説を書く知人がいなくはないけれども、それほど「奇妙な生活習慣や行動様式を有している」ようには見えない。村上は「たいていの作家」を「だいたい九二パーセントくらいじゃないか」と書いているので、かれらは残りの八パーセントに属するのかもしれないが、かれらよりわたしのような人間のほうがきっと「賞賛の対象にはなりにくい特殊な性向」の持ち主にちがいない(年をとっていくぶん円満になったという気が自分ではしているのだけれど)。

 最近刊行された『廃墟のドイツ1947』という本を読んで、このもうひとつの村上説を思い出した。これは「四七年グループ銘々伝」と副題のついたハンス・ヴェルナー・リヒターの本。四七年グループとは1947年にドイツで結成された文学グループで、「グルッペ47」とも言われる。リヒターはその中心人物で、本書はそのグループの仲間たちのポートレートを描いたものである。訳者の飯吉光夫によると、原著(「蝶たちの曖昧宿で」)では21人の肖像だがすこしカットされて17人が収録されている。

 「四七年グループ」については、日本ではドイツ文学者の早崎守俊が『負の文学――ドイツ戦後文学の系譜』(思潮社、1972)や『グルッペ四十七史――ドイツ戦後文学史にかえて』(同学社、1989)といった著書でつとに紹介してきた。第二次世界大戦敗戦国となったドイツと日本には共通点が少なくない。ドイツの戦後文学を主導した「グルッペ47」は、早崎守俊も『負の文学』で書いているように、日本では1945年荒正人や埴谷雄高らによって創刊された「近代文学」に相当するといえるだろう。「近代文学」派の小説家・批評家たちが日本の戦後文学を牽引したように、「グルッペ47」には(のちにノーベル文学賞を受賞する二人の小説家を含む)錚々たるメンバーが加わっている。『廃墟のドイツ1947』で取り上げられた小説家・詩人たちのなかから、わたしに比較的親しい名前を拾ってみても、次のような人たちが挙げられる。イルゼ・アイヒンガー、アルフレート・アンデルシュ、インゲボルク・バッハマン、ハインリヒ・ベル、ギュンター・アイヒ、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーギュンター・グラス、ヴォルフガング・ヒルデスハイマー、ウーヴェ・ヨーンゾーン、ハンス・マイヤー、マルセル・ライヒ=ラニツキ、マルティン・ヴァルザー、ペーター・ヴァイス。このほかにも、パウル・ツェラーンやペーター・ハントケらも「グルッペ47」の集会に参加している。

 集会では小説や詩を著者が朗読し、それが「こっぴどい批評」にさらされて「満身創痍になる」こともあったという。村上春樹のいうように「自分がやっていること、書いているものがいちばん正しい」という「エゴイスティックな人種」の集まりだから、さもありなんというべきか。「「四七年グループ」は、彼(アルフレート・アンデルシュ)の見解では、出世主義者の集団で、つねに一人が他をだし抜こうとしており、この出世主義芝居の中心に彼にはギュンター・グラスが立っているのだった」とリヒターは書いている。「(グラスは)「四七年グループ」の集会に毎年やって来、機会はすべて捉えて朗読をし、三年間それをやっても無駄ではあったものの、おめず臆せず、ベルリンまたはパリから、極貧にもかかわらず、やって来た」というから、野心を抱いた若者だったのだろう。むろんグラスは、ヒルデスハイマーが見抜いたように「なみなみならぬ才能」を有していたし、こうと決めたら脇目も振らずに精進する「一種の勉学の天才」だった。そして集会で朗読した『ブリキの太鼓』によって「いわば一夜にして、グラスは有名な作家に成り上がった」のである。 

 いっぽう、アルフレート・アンデルシュは「グルッペ47」の前身ともいうべき雑誌「デア・ルーフ」(「叫び」、「呼び声」とも)以来のリヒターの盟友だったが、飯吉光夫が「無理をして書いている」と評しているように、彼についてはいささか歯切れの悪い書きぶりである。アンデルシュは「野心家だった」とリヒターは書いている。それも並外れた野心家で、「トーマス・マンより有名になることが自分の目標だ」と語ったという。周囲のものたちは「唖然として口をぽかんと開けていた」が、アンデルシュ自身は「困惑しきった沈黙に気がつかず、むしろそれを暗黙の了解のしるしにとった」というから、村上説による小説家の資質を充たしてあまりある。

 ヴィンフリート・G・ゼーバルトは、リヒターのこの回想を引いた後、「たしかに当初、アンデルシュの予想は当たったかに見えた」と書いている(『空襲と文学』白水社)。『自由さくらんぼ』、さらに『ザンジバル』によって大きな反響と賞賛を得たが、『赤毛の女』において「批評界は二分」され、絶賛の一方で「胸くその悪い嘘とキッチュのごたまぜ」(ライヒ=ラニツキ)と酷評される。ライヒ=ラニツキは次の作品もこき下ろしたため、アンデルシュは「いちじるしく気分を害し」たが、短篇集をライヒ=ラニツキに思いがけず褒められると「あれだけ毛嫌いしていた男に対して、そそくさと愛想のいい手紙を書き送る」。そして、つぎの『ヴィンターシュペルト』にたいしてライヒ=ラニツキがまたもや否定的評価を下すと、アンデルシュはかれを告訴しようかとまで考えたという。ゼーバルトは『空襲と文学』において一章をさいてアンデルシュの作品を懇切に論じているが、訳者の鈴木仁子があとがきで「あまりにも酷ではないか」と記すほど、その批判は身も蓋もなく厳しい。「夢のテクスチュア」(『カンポ・サント』同)と題されたあの発見にみちた繊細なナボコフ論とのあまりの懸隔は読むものに眩暈を生じさせるほどだ。

 ギュンター・グラスに対するアンデルシュの態度は「最初から敵意にみちたものだった」とリヒターは書いている。すでにいち早く「世界的に有名になっていた」グラスへの嫉妬によるものとみていいだろう。グラス以上にアンデルシュ自身が「出世主義芝居の中心」にいたのだから。リヒターはアンデルシュにたいして時にうんざりしながらも彼が死ぬまで長く友情をたもって付き合った。良くも悪くも中庸を重んじる性格だったのだろう。リヒターがここで取り上げている作家たちに比して小説家としてそれほど大成しなかったのは、「基本的にエゴイスティックな人種」であるといった作家としての資質を欠いていたからなのかもしれない。本書はそれをよく証だてているといっていい。


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