『悪の教典』

一条真也です。

悪の教典』上下巻・貴志祐介著(文藝春秋)を読みました。
いや、面白かった! この一言です。ハードカバー上巻434ページ、下巻411ページ、合計845ページを一気に読みました。


            戦慄のサイコホラー、超弩級のエンターテインメント


この本は、まず装丁のクオリティが非常に高いですね。
書店で見かけたら、誰でも思わず手に取り、読んでみたくなるのではないでしょうか。
今度刊行する『ムーンサルトレター』(水曜社)は上下巻の2分冊を予定していますが、本書のように2冊あわせると互いに引き立て合うようなデザインにしたいと思います。
さて、本書のストーリーは、とても単純です。IQが高く好青年でもあるサイコパスの青年が高校教師となります。彼は持ち前の頭脳で、次々と同僚たちを罠に嵌め、教え子たちを皆殺しにしようとします。上巻の帯にある「ピカレスクロマンの輝きを秘めた戦慄のサイコホラー」というコピーそのままです。



著者は、デビュー作『黒い家』(角川ホラー文庫)で保険金殺人を題材にしました。
その直後に、あの和歌山毒物カレー事件が発生し、あまりにも『黒い家』の内容に酷似していることから話題になりました。『黒い家』は1999年に森田芳光監督によって映画化され、その後、韓国でもリメイクされています。
『黒い家』も本書『悪の教典』も、「人間はどこまで悪になれるのか」がメインテーマです。
そう、貴志祐介は「悪」をエンターテインメントとして描ける作家なのです。
現在、吉田修一の『悪人』がベストセラーになっていますが、「悪」が時代のキーワードなのかもしれません。それもまた、現代日本の世相を表しているということでしょうか。


それにしても、本書の主人公・蓮実聖司の壊れっぷりはハンパではありません。
自分が殺した2人の生徒の死体を持て余したあげく、「木の葉は森に隠せ」というチェスタトンの名言を思い出して、生徒全員を殺して死体を転がしておけば2体の死体も隠せるなどと途方もないアイデアを思いつきます。
そして、すぐさまそれを実行に移すというトンデモない奴なのです!
子どもの頃から他人への共感能力に欠けていたという設定ですが、それだけではこの前代未聞のサイコキラーぶりは説明できないでしょう


蓮実は、殺人に及ぶ前、いつも口笛である曲を吹きます。「モリタート」という曲です。
「殺人物語大道歌」という意味だそうですが、もともと『三文オペラ』で使われる曲です。
三文オペラ』はミュージカルの原型のような作品で、ベルトルト・ブレヒトの戯曲にクルト・ヴァイルが曲をつけています。
その舞台は、切り裂きジャック事件の衝撃から間もない19世紀末のロンドンで、裏切り、投獄、殺人などがてんこ盛りのギャングの物語です。
モリタート(殺人物語大道歌)」は「三文オペラ」の中で最も有名な曲です。
英語版をパティ・ペイジやエラ・フィッツジェラルドが歌いました。
その曲は「マック・ザ・ナイフ」の題名で、ジャズのスタンダードになっています。



人間の本性は善であるのか、悪であるのか。
これに関しては古来、2つの陣営に分かれています。
東洋においては、孔子孟子儒家が説く性善説と、管仲韓非子の法家が説く性悪説が古典的な対立を示しています。
西洋においても、ソクラテスやルソーが基本的に性善説の立場に立ちましたが、ユダヤ教キリスト教イスラム教も断固たる性悪説であり、フロイト性悪説を強化しました。
そして、共産主義をふくめてすべての近代的独裁主義は、性悪説に基づきます。
毛沢東が、文化大革命で『論語』や『孟子』を焼かせた事実からもわかるように、性悪説を奉ずる独裁者にとって、性善説は人民をまどわす危険思想であったのです。



性悪説といえば、蓮実が教師になる前に外資系の金融会社に務めていた頃、深夜、勤務先のオフィスに侵入しようとしたエピソードの中で次のように書かれています。
「欧米企業のセキュリティの厳重さは、あらゆる意味において我が国とは比較にならない。日本では、事務所荒らしなどの外部からの侵入には一応の対策を講じるものの、従業員に対しては、いまだに性善説に立っている会社が多いが、欧米においては、警戒の対象は、第一に従業員である」
現在、ドラッカーの『マネジメント』がよく読まれているようです。
まさに“マネジメントの父“であるドラッカー性善説の人でした。
また、ドラッカーの最も嫌悪したものは「独裁」であり、独裁とはマネジメントの反対語であるといった趣旨の発言もしています。独裁主義国家の相次ぐ崩壊や凋落を見ても、性悪説に立つマネジメントが間違っていることは明らかでしょう。



マネジメントとは何よりも、人間を信じる営みであるはずです。
しかし、お人好しの善人だけでは組織は滅びます。
人生の達人の中には、若いうちに、いわゆる「飲む」「打つ」「買う」をはじめとした世のさまざまな誘惑には軽く触れていた方がよいと言う人もいます。
横領などの悪事にしても、自分がやるのはまずいが、そういう悪事に手を染める人間がいることを知っておくのは無駄ではありません。
つまり、悪に染まってしまってはいけないが、悪を垣間見るということも、生身の人間を扱うマネジメントには必要だと言えるでしょう。



それでは、本書はマネジメント、あるいは人生において「悪を垣間見る」ことの教典になるのでしょうか。わたしは、残念ながら、まったくならないと思います。
蓮実聖司のサイコキラーぶりは、あまりにも常軌を逸していて、日常生活における人間関係的な教訓はほとんど導き出せません。というか、あまりにも間抜けな失敗も繰り返す、このサイコキラーにはユーモアさえ漂っています。
わたしは本書を読む途中で、「もしかしたら、この本ってギャグなのか?」と思ったくらいです。もちろん、蓮実は大量殺人鬼であり、とんでもない“外道”なのですが、どことなく憎めないキャラなのです。なんというか、愛嬌があるのです。
こんな愛嬌のあるサイコキラーは、これまでにいなかったのではないでしょうか。


著者が本書を執筆するに当たって、大変な物議を醸し出しだあの「バトル・ロワイヤル」をイメージしていたことは間違いないでしょう。
しかし、たしかに蓮実に狂気はあるのですが、なんだか明るい狂気というか、軽やかな狂気というか、「バトル・ロワイヤル」のような恐怖をまったく感じません。
映画「バトル・ロワイヤル」の主人公である教師を演じたのは北野武でした。
また、貴志祐介原作の『黒い家』の映画版は、大竹しのぶが主役を演じました。
それぞれ、とっても怖い名演だったわけですが、本書『悪の教典』が映画化されたとしたら、主役の蓮実聖司を演じるのは誰でしょうか?
頭が良くて、感じが良くて、女子生徒の人気を集める30代のイケメンという設定です。
なによりも、表の顔と裏の顔とのギャップを感じさせるキャラでなくてはなりません。
妻夫木聡玉木宏香取慎吾国分太一なども思い浮かべましたが、堺雅人が最も適役ではないかと思います。主人公の蓮実役にはけっこう悩まされましたが、黒いポルシェを乗り回す美術教師役は、なぜか谷原章介のイメージしか浮かびませんでした。
最後に一言つけ加えるならば、本書はたしかにものすごく面白くて一気に読ませます。
しかしながら、読み終わった後には何も心に残りません。ストレス解消にはなります。
いわば、コミックやアクション映画に近いエンターテインメントなのだと思いました。


2010年10月10日 一条真也

悪のうた♪

一条真也です。

貴志祐介ピカレスク・ロマン『悪の教典』には、徹底した「悪」が描かれていました。
その後半は、すさまじい殺戮シーンの連続です。
変な表現ですが、気前良く次々に人間が死んでいきました。
読みながら、わたしの心の中には、ある懐かしい歌が流れていました。
少年時代に夢中になった特撮ドラマ「愛の戦士レインボーマン」に出てくる悪の組織である〈死ね死ね団〉のテーマ曲「死ね死ね団のうた」です。


「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死んじまえ〜」で始まる、トンデモない歌です。
「金で心を汚してしまえ」とか「黄色い猿めをやっつけろ」などの危険な歌詞もあります。
「ニッポン人は邪魔っけだ」「黄色いニッポン、ぶっつぶせ」という、凄まじい反日ぶり。
ついには、「世界の地図から消しちまえ」「地球の外に放り出せ」と歌われる始末です。
とにかく、数百回は「死ね」を連呼しているのではないでしょうか。
この世紀の怪曲を作詞したのは、森進一の「おふくろさん」を作詞した、あの川内康範
ちなみに、「愛の戦士レインボーマン」そのものの原作者も川内康範です。
彼は、日本における特撮ドラマの草分けである「月光仮面」や「七色仮面」の原作者でもありました。いわば、この道の第一人者だったのですね。
ちなみに、かの名曲「月光仮面は誰でしょう」も彼の作詞によるものです。
また、「七色仮面」が「レインボーマン」の原型となっていることは明らかでしょう。



死ね死ね団〉ですが、後に一連の「オウム真理教事件」が起こったとき、〈オウム真理教〉とイメージが酷似していると騒がれました。
レインボーマン」は、ヨガの聖人ダイバ・ダッタによる修行で七つの化身(月、火、水、木、金、土、太陽)に変身できる能力を得るというストーリーで、非常にニューエージ色の濃い不思議なドラマでした。案外、麻原彰晃をはじめ、オウム幹部たちは「レインボーマン」のファンで、その影響を受けていたのかもしれません。
それにしても、「死ね」という言葉ほど下品な言葉はないですね。喧嘩の場面でも、教養がなくボキャブラリーのない人間ほど「死ね」という言葉を吐きます。これはネットの世界でも同じですが、ネットの場合は「氏ね」という誤植を見ることがあります。
「氏ね」という誤植には、下品を通り越して、なにやら救いなき悲哀がありますね。
「死ね」と言ったり、「氏ね」と書き込んだりするたびに、その人は相手ではなく自分の「こころ」を殺しています。そう、「こころの自殺」をしているのです。



死ね死ね団〉のような悪の組織は、多くの特撮ドラマに登場しました。
中でも、その代表格と言えるのが〈ショッカー〉です。
名作「仮面ライダー」に登場した、世界征服を企む悪の秘密結社です。
およそショッカーほど、悪の秘密結社のイメージにふさわしい組織はないでしょう。
そして、その原型は、明らかにかのヒトラー率いる〈ナチス〉にありました。
ゾル大佐、死神博士地獄大使といったショッカーの大幹部たちもキャラが立っており、良い味を出していました。
そして、ショッカーといえば、あの戦闘員が忘れられません。とにかく異常に弱くて、仮面ライダーがちょっと触れるたびに自分から吹っ飛んでいました。(笑)
彼らが発する、何と言っているのかよくわからない奇声も印象的でしたね。


ショッカーが暗躍する「仮面ライダー」の原作は、石ノ森章太郎のマンガです。
わたしが小学生の頃、石ノ森章太郎が生み出した数多くのキャラクターたち、サイボーグ007、仮面ライダーキカイダーイナズマンロボット刑事Kに夢中になりました。
それらはサイボーグ、アンドロイド、ミュータントなど厳密には異なる存在であるけれども、人間を超えた存在としてのパワーと悲しみが十分に表現されていました。
中でも、石ノ森が最も得意としたSFマンガの最高傑作として並び称せられるのが「仮面ライダー」と「人造人間キカイダー」です。
いずれも特撮ドラマ化されましたが、どちらかというと特撮ドラマの王道的な「仮面ライダー」に比べ、「キカイダー」には奇妙な味わいがありました。
ギターを背にしてサイドカーに乗ったジローが、プロフェッサー・ギルの吹く笛の音に苦しむ場面などが、わたしの心に鮮やかに甦ります。
この「キカイダー」には、ハカイダーという悪役が登場しました。
これが、メチャクチャかっこ良かった! わたしは、ハカイダーの大ファンでした。
漂うニヒリズムと、徹底したクールさ、そして、たまらない哀愁・・・・・。
悪役の魅力というやつを、わたしはハカイダーによって知ったような気がします。
ハカイダーのうた」には、「潰せ、壊せ、破壊せよ」とか「キカイダーを破壊せよ、破壊せよ」といったフレーズが出てきて、「悪」の匂いがプンプンしていました。はい。


人造人間キカイダー」は、登場するヒーローの造形という点でもユニークでした。
主人公のキカイダーは透明で内部の機械が透けて見えます。
ハカイダーに至っては、頭部が透明で中の脳が透けて見えるのです!
いわゆる「スケルトン」ですが、なんという前衛的なデザインでしょうか! 
異形のハカイダーに、わたしはすっかりシビれたものです。



そういえば当時、玩具メーカーのタカラが透明なボディの人形「サイボーグ1号」を発売しました。中が透けて機械が見えるところは、キカイダーをヒントにしたのかも。
このサイボーグ1号、着せ替えで仮面ライダーウルトラマン、その他の特撮ヒーローにも変身できるというスグレモノでした。いわば、男版「リカちゃん人形」ですな。
そしてサイボーグ1号には、ライバルの悪役がいました。
その名も、キングワルダー1世! うひゃ〜、もう、たまりゃ〜ん(笑)という感じですね。
でも、このネーミング・センスは、皮肉でも何でもなく素晴らしいと思います。
このキングワルダー1世も透明ボディで、なんと内臓が丸見えでした。脳が見えるハカイダーをさらに進化させたデザインです。
今から考えれば悪趣味なのでしょうが、当時は斬新で、すっかりシビれたものです。
わたしは、もちろん、サイボーグ1号とキングワルダー1世を親に買ってもらい、いつも遊んでいました。何度も何度も、飽きずに両者を闘わせました。
毎日が「善」と「悪」との最終戦争で、わたしは「神」の心境でした。
柔道、空手、キック、ボクシング、プロレス・・・・・あらゆる格闘技をやらせました。
関節が自由に動くようになっていたので、いろんな技を掛け合いました。
今から思えば、あのオモチャは、わたしのヒーロー願望だけでなく、格闘技趣味をも満たしてくれていたようです。いやあ、なつかしいなあ! 


2010年10月10日 一条真也