1535年〜1619年 戦国武将。戦国後期最強の一角。通称「鬼島津」 島津四兄弟の次男。島津の九州征服で大活躍。慶長の役では「鬼石曼子」と恐れられる。
関ヶ原戦役では紆余曲折あって西軍に参加するが、紆余曲折があったのであまり積極的に行動せずに合戦当日に至る。 大勢が決した後、「島津の退き口」と称されることになる「前方への退却」を行い、井伊直政を負傷させたり島津製作所のご先祖様に助けられたりしつつ国元に帰還する。その後、隠居して維新と号した。
加治木城(かじきじょう)は大隅国桑原郡加治木(「桑原郡」はのちに「始羅郡」)にあった。現在の鹿児島県姶良市加治木町である。「本城」や「古城」、「龍門ヶ城」とも呼ばれた。南九州の戦乱史において、加治木はたびたび戦いにさらされた。 長さ約1.2㎞、周囲4kmほどの丘陵に築かれている。曲輪には「本丸」「二ノ丸」「西ノ丸」「御馬城」「高城」「向江城」「松尾城」「新城」「栫城」などがあったという。そのほかに「犬馬場」「弓馬場」も配置し、近くの山には砦もあった。かなり堅固そうである。 現在は宅地となっているが、山城の痕跡もけっこう見られる。ちょっとあるいてみた。 県道脇から急坂をのぼって 加治木氏(大蔵氏…
島津義弘(しまづよしひろ)は「島津氏の17代当主」とされる。江戸時代に作成された『島津氏正統系図』ではそうなっている。 しかし、島津義弘は家督を相続した事実はないらしい。このことを理由に、「17代当主ではない!」という意見もあったりする。 なんだかモヤモヤした感じなのだ。 結論としては……、 「島津義弘は17代当主である」って言ってもいい、と私は思う。 正統系図がそうなっているのだから、その通りなのだ、と。家督を相続していなくても、である。 系図で「当主とみなす」という例はいくらでもある。例えば、ある当主が長生きして、その世子が早世し、嫡孫に家督を継承。この場合、世子を当主代数に数える場合もあ…
戦国時代に活躍した島津氏の四兄弟。長男は島津義久(しまづよしひさ)、次男は島津義弘(よしひろ)、三男は島津歳久(としひさ)、四男は島津家久である。それぞれに、次のような評伝が広く知られている。 島津義久は「三州の総大将たるの材徳自ら備わる」 島津義弘は「雄武英略を以て傑出す」 島津歳久は「始終の利害を察するの智計並びなし」 島津家久は「軍法戦術に妙を得たり」 これらの言葉は、島津忠良(ただよし、島津日新斎、じっしんさい)が孫たちを評したものだとされる。どれもカッコいい。言いたくなるフレーズである。そして、人物像をあらわす言葉としてもしっくりくる感じだ。で、けっこう取り上げられることが多い。書籍…
16世紀半ばに、島津貴久(しまづたかひさ)は大隅国蒲生(かもう)を攻めた。この一帯での戦いは「大隅合戦」と呼ばれる。その中で激戦地となったのが松坂城(まつざかじょう)である。場所は鹿児島県姶良市蒲生町米丸。 松坂城跡は城域の一部を歩くことができる。荒々しい雰囲気の山城であった。 大隅合戦 切通を抜けて山中へ なお、日付は旧暦にて記す。 大隅合戦 天文23年(1554年)9月、島津貴久は大隅国始羅郡(しらのこおり、鹿児島県姶良市のあたり)の攻略に乗り出す。蒲生範清(かもうのりきよ)・祁答院良重(けどういんよししげ)らが、加治木城(かじきじょう、姶良市加治木町反土)を囲んだことをきっかけに島津貴久…
【職人の魂を込めた本物手刷り作品】武将Tシャツ2013モデル!侍・武士・和柄・戦国武将Tシャツ【半そで】( 島津義弘)【送料無料】価格: 2420 円楽天で詳細を見る 島津義弘の名言から学ぶ現代社会の知恵 名言1:「一旦決めたことは、最後までやり遂げる。」 島津義弘は、一度決めたことを最後までやり遂げる強い意志を持っていました。彼のこの言葉は、決断力と持続力の重要性を示しています。 現代の知恵 現代社会でも、目標を達成するためには、決断力と持続力が求められます。困難に直面しても諦めず、目標に向かって努力し続けることで、大きな成果を得ることができます。目標を設定し、それに向けて計画を立て、最後ま…
照島神社(てるしまじんじゃ)は、鹿児島県いちき串木野市西島平町に鎮座する。 串木野は薩摩半島の西側に位置し、東シナ海に面している。「串木野港」という大きな港がある。ここは遠洋漁業の基地でもある。その串木野港のやや南に「島平港(しまびらこう)」がある。ここが、かつては串木野港の中心地だった。 島平港の沖に「照島」という小島が浮かぶ。照島神社はここに祭られている。 創建年代は不明。御祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)・少彦名命(スクナヒコナノミコト)・大山津見命(オオヤマツミノミコト)。 朱色の太鼓橋を渡って 薩摩焼開祖着船上陸記念碑 島津義久も立ち寄る 徐福が上陸したところ? もともとは松尾大…
城野神社(じょうのじんじゃ)は、鹿児島県姶良市木津志に鎮座する。木津志(きづし)というところは、なかなかの山奥である。鎮座地は「隠れ里」という言葉がしっくりくるような雰囲気だ。 城野神社の参道口 御祭神は浄之御前(じょうのごぜん)。源為朝(みなもとのためとも)の奥方だと伝わっている。 城野神社の由緒 島津義弘の腹痛を治す 城野神社をお詣り 大隅国桑原郡の源為朝伝説 もとは違う神様か? 城野神社の由緒 由緒については『木津志百年史』(1966年発行)や『姶良町郷土誌』(1968年発行)に詳しい。こちらの資料を参考にした。 創建年代は不明。浄之御前については源為朝の妻と伝わるのみで、出自はわからな…
島津氏は、元亀2年(1571年)に島津貴久(しまづたかひさ)が没して代替わりをする。跡を継いだのは長男の島津義久(よしひさ)。そして、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)、四男の島津家久(いえひさ)らが兄を支える。 この四兄弟の時代になって、島津氏はものすごい勢いで支配領域を広げる。短期間のうちに九州のほとんどを制圧し、そして天下人となった豊臣秀吉と対峙することに。……その過程をたどってみる。 島津の四兄弟 島津義久 島津忠平(島津義弘) 島津歳久 島津家久 島津包囲網 肝付が動く、鹿児島湾岸の戦い 伊東も動く 加久藤城の戦い 木崎原の戦い 大隅の制圧 小…
鹿児島県姶良市鍋倉は、かつての大隅国始羅郡(しらのこおり)の帖佐(ちょうさ)のうち。この地には平山城(ひらやまじょう)という山城があった。別名に帖佐本城(ちょうさほんじょう)ともいう。 この平山城跡に向かう山道の途中に、高尾城(たかおじょう)跡を示す白い標柱がある。 「高尾城跡」 高尾城は平山城(帖佐本城)の支城である。位置関係から想像すると、平山城(帖佐本城)へ侵入してきた敵を、道の途中で叩く防衛拠点のような感じだろうか。 また、高尾城跡にはかつて稲荷神社が鎮座していた。「元稲荷」とも呼ばれている。 ちょっと登ってみた。 平山城について 高尾城での戦い 高尾城跡へ 曲輪跡に元稲荷 日付につい…
これ、素晴らしい一冊だ! 帯には「戦後初の中世島津氏本格的通史!」の文字。そのとおりの内容となっている。「ずっとこんな本が欲しかった」と、個人的に思っていた。 『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年10月発売 (C)EBISUKOSYO PUBLICATION CO.,LTD. 2023 図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル 戎光祥出版 Amazon 戎光祥出版のホームページはこちら www.ebisukosyo.co.jp 島津氏の歴史は長い。12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が南九州に所領を得たことに始まる。島津…