1535年〜1619年 戦国武将。戦国後期最強の一角。通称「鬼島津」 島津四兄弟の次男。島津の九州征服で大活躍。慶長の役では「鬼石曼子」と恐れられる。
関ヶ原戦役では紆余曲折あって西軍に参加するが、紆余曲折があったのであまり積極的に行動せずに合戦当日に至る。 大勢が決した後、「島津の退き口」と称されることになる「前方への退却」を行い、井伊直政を負傷させたり島津製作所のご先祖様に助けられたりしつつ国元に帰還する。その後、隠居して維新と号した。
鹿児島県北部の山間に「湧水町」という自治体がある。2005年に吉松町と栗野町の合併により発足したもので、湧水が多い地域であることから新町名もつけられている。このあたりは霧島連山の西麓に位置し、山々が蓄えた水が湧出する。湧水町内では栗野(くりの)の丸池湧水(まるいけゆうすい)、吉松(よしまつ)の竹中池湧水(たけなかいけゆうすい)が知られている。 竹中池湧水の近くにある熊野神社(くまのじんじゃ)は素敵な場所である。境内に湧水が湧き、なんとも心地良い雰囲気なのだ。かつてここには内小野寺(うちおのじ)もあった。島津義弘(しまづよしひろ)も崇敬した場所でもある。 内小野寺は明治時代初めの廃仏毀釈で廃寺と…
島津義弘(しまづよしひろ)を知るにはオススメの一冊だ! 『島津義弘の賭け』は、16世紀末から17世紀初めにかけての島津家の事情を丁寧に掘り起こす。豊臣政権下で苦闘し、関ケ原の戦いから生還し、粘り強く交渉して本領安堵を勝ち取る。お家存亡の危機の連続を、島津家がなんとか乗り越えていく過程がつづられている。 島津義弘の賭け (中公文庫) 作者:山本 博文 中央公論新社 Amazon 著者の山本博文(やまもとひろふみ)氏は東京大学史料編纂所の教授として長年にわたって歴史研究に携わってきた人物だ。一般向け書籍もかなりの数を執筆していて、ネットで検索してみると面白そうなタイトルの著作がぞろぞろと出てくる。…
加久藤城(かくとうじょう)は宮崎県えびの市小田にあった山城である。「覚頭城」と書かれる場合もある。永禄7年~天正18年(1564年~1590年)に島津義弘(しまづよしひろ)がこの地を領有。元亀3年(1572年)の「木崎原の戦い」の緒戦は、この城であった。 城域は東西320m、南北270mほど。比高は50mほどで、シラス丘陵に築かれている。周囲は断崖で、いかにも堅固な感じである。本城のほかに新城・中城・小城が連なり、防御力をさらに高めてある。 伊東軍のしくじりのはじまり 加久藤城を散策 初代薩摩藩主の生まれた城 なお、日付は旧暦で記す。 伊東軍のしくじりのはじまり 現在の宮崎県えびの市・小林市の…
戦国時代の島津氏でもっとも知名度が高い人物は島津義弘(しまづよしひろ)だろう。それで、「薩摩の島津義弘」と説明されることも多く、一般的にもそんなイメージだと思われる。だが、島津義弘は薩摩国で城主になったことがない。居城は日向国や大隅国にあった。その中で代表的なものが、日向国真幸院(まさきいん)の飯野城(いいのじょう)である。 飯野城跡を川内川河畔から見る 島津義弘は永禄7年~天正18年(1564年~1590年)に飯野城を拠点とした。壮年期の26年間(29歳~55歳)にあたり、この間に島津氏は南九州から勢力を急拡大させ、豊臣秀吉とも戦った。 飯野城跡は宮崎県えびの市飯野にある。別名に「亀城(きじ…
宮崎県えびの市は、島津義弘(しまづよしひろ)ゆかりの地である。ここはかつての日向国真幸院(まさきいん)にあたる。永禄7年(1564年)から天正18年(1590年)にかけて、島津義弘は飯野城(いいのじょう、えびの市飯野)を居城として真幸院を治めていたのだ。 島津氏と伊東氏の決戦の地 島津義弘像 木崎原古戦場跡 鳥越城跡 首塚と太刀洗川 元巣塚へ 島津氏と伊東氏の決戦の地 日向国に大きな勢力を持つ伊東義祐(いとうよしすけ)も真幸院の支配を目指していた。伊東氏は真幸院の三山城(みつやまじょう、さんのやまじょう、宮崎県小林市)を前線基地とし、たびたび軍事行動を起こしていた。 元亀3年(1572年)5月…
4月9日のことです。JR東海道本線の関ケ原駅にやってきました。 関ケ原駅 東首塚 関ケ原古戦場記念館 1階 映像展示コーナー 2階展示コーナー 5階展望室 レストラン&ショップ 徳川家康最後陣跡 関ケ原決戦地 石田三成陣跡 島津義弘陣跡 開戦地 小西行長陣跡 宇喜田秀家陣跡 西首塚跡 まとめ 関ケ原駅 線路わきに以前からある、関ケ原における東軍と西軍の主な武将を紹介した看板です。 今回は2020年に新しくオープンした関ケ原古戦場記念館に行ってみようと思います。 こちらはおそらく記念館開館にあわせて取り付けられた看板だと思います。やたらとカッコよく描かれた絵とともに武将を紹介しています。東軍の大…
元亀元年(1570年)、島津貴久(しまづたかひさ)は薩摩国(鹿児島県の西側)を平定する。このほか、大隅国の西部(現在の鹿児島県霧島市・姶良市・姶良郡湧水町・伊佐市菱刈のあたり)、日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市のあたり)にも勢力を広げていた。 rekishikomugae.net rekishikomugae.net 島津貴久には4人の息子がいる。嫡男は島津義久(よしひさ)、次男は島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男は島津歳久(としひさ)、四男は島津家久(いえひさ)である。戦国島津氏の戦いは次世代へ引き継がれる。 島津義久の代に、島津氏は全盛期を迎えることになる。島津四兄弟の…
桜の季節の城跡の写真を撮っておこうかと思い、鹿児島県姶良市にある帖佐館(ちょうさやかた)・平山城(ひらやまじょう)・岩剣城(いわつるぎじょう)・蒲生城(かもうじょう)にいってみた。見頃はちょっとすぎている感じで、花びらが落ちて地面をピンク色に染めていた。これはこれで、またイイ感じなのだ。 帖佐館跡(稲荷神社)、島津義弘の居館 平山城跡(桜公園)、大隅合戦の激戦地 岩剣城跡、島津貴久がここから攻略 蒲生城跡、大隅合戦の最終決戦の地 別記事にて精矛神社(くわしほこじんじゃ)の桜も紹介。こちらもどうぞ。 rekishikomugae.net 帖佐館跡(稲荷神社)、島津義弘の居館 姶良市の鍋倉(なべく…
花満開であった。精矛神社(くわしほこじんじゃ)を参拝した。再訪である。 精矛神社は鹿児島県姶良市加治木に鎮座する。御祭神は精矛厳健雄命(くわしほこいずたけをのみこと)だ。島津義弘(しまづよしひろ)公である。 島津義弘は関ヶ原の戦いから生還して一線を引いた。そして、隠居生活を送ったのが加治木(かじき)の地であった。関ヶ原の時点でかなりの高齢であったが、その後も長生きして元和5年(1619年)に没する。享年85。死後に加治木の本誓寺(ほんせいじ)が菩提寺とされた。ここは廃仏毀釈で廃寺に。そして明治2年(1869年)に本誓寺の後継として創建されたのが、精矛神社である。 春の精矛神社へ! 精矛神社の詳…
島津貴久(しまづたかひさ)は日向国真幸院(まさきいん、宮崎県えびの市)にも進出する。一方で、伊東義祐(いとうよしすけ)も真幸院への勢力拡大をうかがう。島津氏と伊東氏の野望がぶつかり、そこに肥後国の相良義陽(さがらよしひ)も絡んでくる。抗争はいよいよ激しくなっていくのである。今回の記事では、薩摩国・大隅国・肥後国・日向国の国境付近で激戦となる。 島津と伊東と肝付と相良と 島津貴久が陸奥守に任官 薩州家が長島を攻める 祁答院良重、妻に刺殺される 島津義久が家督をつぐ 三ツ山城を落とせず 菱刈氏の離反 馬越城を攻め取る 薩州家は島津貴久・島津義久に協力 大口攻防戦 伊東氏が飫肥・櫛間を制圧 島津忠良…
【シリーズ=教養の饗応】(5/24配信第27号) 今は、二十四節気の「小満(=しょうまん)」(5/21-6/5)です。 七十二候では、「蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)」です。 昨日5月23日は、「友引(ともびき)」です。 本日5月24日は、「先負(せんぶ)」です。 明日5月25日は、「仏滅(ぶつめつ)」です。 また、5月の陰暦五月の異名は「五月(さつき)」です。 英語では「May」フランス語では「mai(メ)」です。 中国語では『五月』と書いて『ウーユエ』と発音します。 韓国語では「오월」と書いて『オウォル]』と発音します。 第27号の配信です。 【今日の特集=トピックス】 鉄鋼流通=特約…
(旧題:今日から戦国武将WEEKだ!!!) 突発的に作り始めた戦国武将たちですが、全員作成完了したので今日から投稿していきます。 原則として、なるべくアプリでの能力通りに作成しています*1*2。 共通して背番号は守備番号*3を、背ネームはなし、18歳(経歴はその他)に設定しています。球団は出身とかイメージとかで。 誕生日に関しては調べて出てくる者はそれを、分からない者は没月日(旧暦のままの日付)に設定しました、間違ってても知らん。 パワターはなるべく公式のものに似せる形で作成。好きにいじってください。 このページは戦国高校選手一覧としても使う予定。 日曜日にはこれらの武将を入れた「真・戦国高校…
1600年(慶長5年)に勃発した「関ヶ原の合戦」といえば、戦国時代の終焉を飾った天下分け目の合戦だ。徳川家康の率いる東軍と、石田三成の(名目上の指揮官は毛利輝元だったが)率いる西軍は美濃(現在の岐阜)の関ヶ原にて大いに戦い、激戦の末に軍配は家康の東軍に上がった。 ところがこの戦い、戦場での両軍の布陣だけを見ると西軍の方がはるかに有利だった。そもそも西軍の方が数が多い上、東軍は西軍に取り囲まれる形で布陣していたのだ。実際、明治時代に日本陸軍の軍事顧間として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐が、この布陣の様子を見てすぐに西軍の勝ち、と断言したという話が伝わっている。しかし、結果はまったく逆に…
明日はホームでジェフユナイテッド千葉との対戦です。5月21日(土曜日) 13:00キックオフ vs ジェフユナイテッド千葉 えがお健康スタジアム roasso-k.com |ロアッソ熊本 公式サイト|ROASSO KUMAMOTO OFFICIAL WEBSITE |ロアッソ熊本 公式サイト|ROASSO KUMAMOTO OFFICIAL WEBSITE メディア・SNS www.jleague.jp soccer.yahoo.co.jp kumanichi.com kumanichi.com www.targma.jp www.targma.jp ・FW 坂本亘基/第17節・千葉戦前コメン…
戦国時代後期の九州は島津氏が席巻する。その過程で戦功を挙げまっくたのが島津家久(しまづいえひさ)である。島津四兄弟の末っ子だ。 四兄弟の中でもっとも知名度が高いのは、次男の島津義弘(よしひろ)だ。猛将としてよく知られている。かたや島津家久のほうは「戦国時代が好きな人は知っている」くらいの知名度だろうか。だが、戦場での強さは兄にも引けをとらない。むしろ上回っているかも!? 『破天の剣』は島津家久の生涯を描いた小説だ。2012年に刊行され、2015年には文庫版も発売されている。評判も良いようなので、読んでみることにした。 破天の剣 (時代小説文庫) 作者:天野純希 角川春樹事務所 Amazon 作…
あくまきは 主に端午の節句で食べられる 鹿児島県独特の餅菓子 関ヶ原の戦いの際 薩摩の島津義弘が日持ちのする食糧として 持参したのがはじまりだという説もあるそう 保存性が高いことと その腹持ちの良さから 薩摩にとって長く戦陣食として活用されたそーな 西郷隆盛も西南戦争で食べていたといわれており このようなことから 男子が強くたくましく育つようにという願いを込めて 端午の節句に食べられるようになったそう むかしむかーしは 戦陣食として食べられていたなんて。。 なんだか驚きだなー にしても美味しかったなー いつもありがとうございます ご馳走様でした
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 戦国時代は、悲惨で地獄であった。 ・ ・ ・ 日本の野盗は、中国や朝鮮さらには西洋や中東などの世界を荒らし回った盗賊・匪賊・強盗、山賊・海賊などの凶悪犯罪者とは違っていた。 ・ ・ ・ 2022年5月19日号 週刊新潮「変見自在 高山正之 被爆国の権利 黒沢明の『七人の侍』を見たとき、ちょっと違和感があった。収穫を終えた村を毎年のように野盗が襲う。実りを奪い、女を犯し、逆らえば殺しもするとい映画は言う。 確かに戦国時代に野党の類はいた。ただそのころの野盗は普段は村で百姓をやっている…
平松神社(ひらまつじんじゃ)は鹿児島市吉野町の竜ヶ水(りゅうがみず)に鎮座する。御祭神は碧空巌岳彦命(あおぞらいずたけひこのみこと)。島津歳久(しまづとしひさ)のことである。前身を心岳寺(しんがくじ)といい、島津歳久の菩提寺であった。 島津歳久は、島津貴久(たかひさ、島津氏15代当主)の三男。島津義久(よしひさ、16代当主)・島津義弘(よしひろ)の弟にあたる。父や兄を支えて戦国島津氏の発展に尽くした。天正20年(1592年)、島津歳久は豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられる。島津家には島津歳久の処分が命じられ、島津義久は泣く泣く弟を討つ。島津歳久は竜ヶ水で散った。慶長4年(1599年)、島津義久(…
寝る前に書くことにタイトルなんか付けない。今日の花言葉◆ナスタチウムの花言葉は「困難に打ち克つ」困難に打ち克つ里菜。o(^o^)oo(^o^)oFrom out of nowhere you came strong as stone おはよん♪、トップは山梨県道志村の人骨発見。【葵 おは川三代】語り・徳川光圀=杉上佐智枝徳川秀忠=笹崎里菜お江=尾崎里紗徳川家光=小高茉緒鷹司信子=黒田みゆ徳川家康=徳光和夫結城秀康=杉野真実松平忠直=後藤晴菜松平忠吉=市來玲奈徳川義直=山崎 誠徳川頼宣=岩田絵里奈徳川頼房=石川みなみ井伊直政=田辺大智榊原康政=平松修造本多忠勝=弘 竜太郎酒井忠次=中野謙吾本多正…
#2022/5/10 GW中にSteamでコーエーテクモが信長の野望シリーズのセールをしていました。以外に「信長の野望 創造PK」が人気を集めていたので、このゲームの違った?楽しみ方を紹介します。このゲームですが、私は発売当時に購入しています。 store.steampowered.com 某4兄弟の人も言っていますが 「戦いは数だよ!兄貴!!」 基本的には数こそ全てです。(武田信玄は除く) なので、本城で人口が増えるように城を改修します。 また、建設で人口が増えやすい商業区画を優先的に建設します。そうすると、兵舎を多く建設しなくても大兵力を動員できる城になります。 ですが、人口が異なるので、…
関ヶ原の合戦に西軍で参加したものの、西軍は敗北。その後の、壮絶な徳川本陣敵中突破で知られる、島津義弘を祀る神社。 元々は妙円寺に祀られていたが、廃仏毀釈により妙円寺は廃寺となり、同敷地に新しく建てられたのが、この、徳重神社。義弘公の壮絶な帰還を称え、その労苦を偲ぶ行事「妙円寺詣り」。毎年、境内は武者姿の参加者でにぎわう。 この神社が創建される廃仏毀釈のずーっと前から妙円寺詣りが行われていた、ということ。西郷隆盛も参加した記録が残っている。 あっさりとした神社だけれど、質実剛健な感もあり。徳重神社 220501
島津義久(しまづよしひさ)は島津氏の16代当主である。天文2年(1533年)の生まれで、慶長16年(1611年)に没する。その生涯は戦国時代後期から徳川幕府成立期にあたる。『島津義久 九州全土を席巻した智将』は歴史作家の桐野作人(きりのさくじん)氏による長編小説だ。島津義久の目線で戦国時代が描れる。 島津義久 九州全土を席巻した智将 (PHP文庫) 作者:桐野 作人 PHP研究所 Amazon 戦国時代の島津氏というと、島津義弘(よしひろ)がよく知られている。島津義久はその兄である。当主も兄のほうなのだが、弟ばかりがやたらと目立っている感じがする。そして、島津氏の歴史も、島津義弘を軸に書かれる…
端午の節句の定番と言えば「かしわ餅」一択だと思っていましたが、それ以外もあったのですね。 「ちまき」 東日本は中華風のおこわを、西日本は細長い甘いおだんごを、鹿児島は灰汁巻き(あくまき)を思い浮かべる方が多いそうです。 ねこさんも、ちまきと言えばおこわのイメージでした。 「がめの葉饅頭」 農林水産省の「うちの郷土料理」によると、福岡県北部の郷土料理らしいです。5月の節句頃、8月のお盆など、年に何度か作ることがあるとありました。がめ(別名サンキライ、サルトリイバラ)の葉を使うから「がめの葉饅頭」と呼ぶそうです。 がめもサンキライもサルトリイバラも初耳の植物です。 「灰汁巻き」 同じく農水省のホー…
〇山中貞則 (1921~2004) 政治家。鹿児島県囎唹郡末吉村(現鹿児島県曽於市)生まれ。鹿児島県議会議員を経て、衆議院議員(17期)。沖縄開発庁長官、防衛庁長官、通産大臣、自民党政調会長などを歴任した。税制のスペシャリストとして君臨し、「税調のドン」と呼ばれた。豪快な人柄でエピソードが尽きず「山中伝説」が多く残る。 <山中貞則像> 場所:山中貞則顕彰館(鹿児島県曽於市末吉町深川5921-1) 竣工: 像高: 作者: 撮影時:2021年3月30日 説明:山中貞則の自宅、事務所が顕彰館となっている。非常に丁寧な展示ながら、この日は忙しかったので、玄関先で胸像を一体撮っただけで後にしてしまったが…