1535年〜1619年 戦国武将。戦国後期最強の一角。通称「鬼島津」 島津四兄弟の次男。島津の九州征服で大活躍。慶長の役では「鬼石曼子」と恐れられる。
関ヶ原戦役では紆余曲折あって西軍に参加するが、紆余曲折があったのであまり積極的に行動せずに合戦当日に至る。 大勢が決した後、「島津の退き口」と称されることになる「前方への退却」を行い、井伊直政を負傷させたり島津製作所のご先祖様に助けられたりしつつ国元に帰還する。その後、隠居して維新と号した。
こんにちは~、rekikakkunです。 関ヶ原シリーズ第4回目となりました。 いよいよ、関ケ原へと向かいます。 合戦前日1600年9月14日の情勢を 簡単に下の地図で表してみます。 (③と④の城はほぼ残ってないので近くのもので代用) ①大垣城(西軍) ②岐阜城(落城し東軍) ③竹ヶ鼻城(落城し東軍) ④福束城、及び周辺の駒野城等(落城し東軍) ⑤徳川家康本軍の美濃赤坂着陣 ⑥菩提山城(東軍に寝返り) ⑦松尾山城(小早川秀秋軍が、 西軍守備隊を追い出して占拠) ⑧佐和山城(西軍三成本拠) 濃尾平野の大半を東軍に落とされ、 9月14日、⑤に家康本軍、 ⑦に小早川秀秋の大軍勢が着陣した事により、 …
鹿児島県姶良市に蒲生(かもう)というところがある。この地に鎮座する蒲生八幡神社(かもうはちまんじんじゃ)は素敵な場所だ。 主祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。ほかに摂社・末社も境内には祀られている。 そして、境内には「蒲生の大楠」と呼ばれる巨樹がある。この御神木もすごい存在感なのだ。 蒲生氏が創建 島津義弘が再興 木々の生命力を感じる (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 蒲生氏が創建 保安4年(1123年)に蒲生舜清(かもうちかきよ、藤原舜清)が創建した、と伝わる。もともとは「正八幡若宮」と呼ばれていた。 蒲生氏は関白の藤原教…
肥後国では、島津義久(しまづよしひさ)と龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)による勢力争いが続いていた。 天正9年(1581年)8月、島津義久は肥後国水俣(みなまた、熊本県水俣市)を攻めて、相良義陽(さがらよしひ)を降伏させた。 球磨・葦北・八代(熊本県の人吉市・水俣市・葦北郡・八代市のあたり)に勢力を持っていた相良氏が傘下となったことで、島津氏は肥後国のかなりの範囲を支配下に置いた。そして、肥後国に勢力を伸ばす龍造寺氏との対立も激化。また、阿蘇(あそ)氏も抵抗する。 rekishikomugae.net 激戦が続く。島津義久・島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津…
就大仏材木之儀、最前如被仰出候、義久*1并兵庫頭*2領中*3杉・桧事、不寄大小入念付立*4、註文*5両人令持参、子細可言上候、寺社之雖神木等、大仏異尓他被仰付由候条、不存緩付立可申上候、依其趣可被差遣御奉行*6候、其刻自然*7可相立御用木於付残者、両人可為不届候条、可成其意候、就中両人罷上候跡ニも、可差上材木者堅申付、無由断相着*8候様可申付候、次巣鷹*9事、御自愛*10之段、各存知候間、定而不可有油断候へ共、当年者出来候様走廻、可入精事尤専一候、委細猶長岡兵部大輔入道*11・石田治部少輔*12可申候也、 正月廿日*13 御朱印 伊集院右衛門大夫入道とのへ*14 島津図書入道とのへ*15 (四…
鹿児島県姶良市加治木町木田に、隈姫神社は鎮座する。御祭神は隈媛命(クマヒメノミコト)。「球磨から来た姫」を意味する。その姫とは、島津義弘(しまづよしひろ)のニ番目の妻である。肥後国球磨(くま、熊本県人吉市のあたり)の相良義陽(さがらよしひ)の妹にあたる。名は「亀徳」という。 政略結婚であった。そして、島津氏と相良氏の同盟が破綻したことから離縁する。亀徳は悲嘆にくれて亡くなったと伝わる。その供養のために祀ったのだという。 正室と離縁、継室とも離縁 川に身を投げて 隈媛神社をお詣り 亀徳は球磨に帰った、とも 正室と離縁、継室とも離縁 島津義弘は離縁を二度経験している。いずれも同盟の破綻によるもので…
★1576年(伊東崩れ)~1587年(秀吉の九州征伐)を加筆しました!! 「NHK大河ドラマ20作品戦国武将俳優比較表」をまとめて残念に思ったのは,九州・四国の武将が少なすぎる点です。東北には「独眼竜政宗」(1987年)があり(といっても南部や安東は全く出てきませんが),中国には「毛利元就」(1997年)があるのですが,九州・四国の大名が主人公になる大河ドラマがないんです。島津なんて関ヶ原の戦いの「島津の退き口」でしか出てきません。大友・龍造寺・島津がしのぎを削った「九州三国志」をテーマにした大河ドラマはないんですね。そこで「武田氏・真田氏年表」の次は「九州三国志年表」を作っていきます。 ⭐️…
鹿児島県姶良市脇元に、国の史跡にも指定されている白銀坂(しろかねざか)というのがある。白銀坂の駐車場から赤い鳥居が見える。そこに鎮座しているのが愛宕神社(あたごじんじゃ)である。こちらをお詣りした。 山の端の絶景に祀られる 白銀坂、薩摩と大隅の国境 島津義久・島津義弘・島津歳久の初陣の地 山の端の絶景に祀られる 道路から見えるのは参道の入口だ。鳥居をくぐると崖沿いに石段が続いている。 山の麓に朱の鳥居がある 参道入口 急勾配だ。入口には上まで「170m」とあった。これは距離なのか? 高さなのか? けっこう登った気がする。 登る、なかなかしんどい 石段をのぼり切ると、ちょっとした広場に出る。小さ…
河津桜が咲いていた。参道はパッと明るい雰囲気に。もう春だ。 参道の河津桜 精矛神社(くわしほこじんじゃ)に詣でた。鹿児島県姶良市の加治木に鎮座する。御祭神は島津義弘(しまづよしひろ)である。御神号を「精矛巌健雄命(クワシホコイヅタケヲノミコト)」という。 島津義弘は大隅国加治木を隠居所とし、元和5年(1619年)にこの地で没した。加治木の本誓寺(ほんせいじ)には御影像が安置された。精矛神社はこの本誓寺を前身とする。本誓寺が廃されたために、明治2年(1869年)にその役割を引き継いで島津義弘を祀る神社が創建されたのである。 精矛神社の詳細はこちらの記事にて。 rekishikomugae.net…
鹿児島県姶良市鍋倉のあたりは「米山(よねやま)」とも呼ばれている。この地名は「米山薬師(よねやまやくし)」に由来する。 『三国名勝図会』(19世紀に薩摩藩が編纂した地誌)にイイ感じの絵図もある。 『三国名勝図会』巻之三十八より(国立国会図書館デジタルコレクション) 別府川沿いに岩の丘が突き出ている。米山薬師はその上にある。川沿いの道路からは、国旗が掲げられているのが見える。そこがお堂のある場所だ。あそこへ登ってみる! 米山薬師を見上げる、手前は別府川 写真の右手前が米山薬師。山のふもとには帖佐小学校があり、そこが『三国名勝図会』に描かれた「鎮守神社」のあたりになる。そして、学校の裏手が「総禅寺…
島津義弘(しまづよしひろ)の生涯を年表風にまとめてみた。……なかなかのボリュームに。とにかく戦いが多すぎるのである。 島津義弘は、島津家15代当主の島津貴久(たかひさ)の次男である。16代当主の島津義久は兄にあたる。父と兄のもとで、島津家の軍事面の主力を担った。 16世紀半ばから島津家は薩摩国(鹿児島県の西側)より勢力を広げていく。そして大隅国・日向国をも制圧。勢いはとまらず、九州全土を覆っていく。その中で、島津義弘の戦場での活躍が光る。 豊臣政権下に入ったあとも、島津義弘は戦場で凄みを見せる。「泗川の戦い」や「関ヶ原の戦い」では絶望的な状況を突破した。 島津義弘の戦いぶりは泥臭い感じがする。…
戦国時代の肝付家というと、肝付兼続(きもつきかねつぐ)・肝付良兼(よしかね)がよく知られている。大隅国肝属郡高山(こうやま、鹿児島県肝属郡肝付町)を拠点に戦国大名化し、大隅半島の大部分を支配下に入れる。島津貴久(しまづたかひさ)・島津義久(よしひさ)と南九州の覇権を争った。 もうひとつあるのだ、肝付家は。 16世紀には肝付兼演(かねひろ)・肝付兼盛(かねもり)・肝付兼寛(かねひろ)らが活躍した。こちらは高山の肝付家を出奔した三男坊の家系である(詳細は後述)。大隅国加治木(かじき、鹿児島県姶良市加治木町)を拠点としたことから、「加治木肝付氏」「加治木肝付家」と呼ばれた。また、のちに薩摩国喜入(き…
二人織部の古田重然と古田重勝。「古田重 」までは名前が同じですが、その人生は違っています。古田織部は大坂方に内通した嫌疑で捕えられ、切腹を命ぜられました。 内通と言うからには、そこには必ず人との接触が有る筈です。 「類は友を呼ぶ」「友達を見ればその人が分かる」などなど、人に関する諺が数多くあります。関ケ原から大坂の陣までの期間限定で、織部の周りにいた人々から彼の属性を探ってみたいと思います。 織部の周囲 織部には弟子が沢山いました。 下記に記載した人達は、織部の弟子で、それなりに茶人として名を成しております。ここでは、関ケ原合戦の時と大坂冬の陣・夏の陣の時に、東軍か西軍かどちらに属していたかを…
最近朝のランニングの走りに精彩を欠くしんこです。 なんとなく疲労感があって1歩目から走りが重い。脚が全然前に出ないんですよ。 こちらの続き。 www.shinkoace.com キャンピングカーで行く奈良・京都くるま旅 Day3 道の駅 みのかも 天下分け目 関ケ原 関ケ原への道 開戦地無料駐車場 関ケ原古戦場開戦地 小西行長陣跡 島津義弘陣跡 関ケ原古戦場決戦地 徳川家康最後陣地 岐阜関ケ原古戦場記念館 キャンピングカーで行く奈良・京都くるま旅 Day3 道の駅 みのかも 道の駅 みのかもの朝です。 写真の右側に向かって緩い下り勾配になっていますが,エアサスでリヤをリフトアップしてやれば水平…
今期も折り返し! ここまでのくじ確率を振り返ってみよう(●^o^●) 【天下くじ(予想天率10%)】 44連 天:3 極:41 ➡ 天率7.3% 絶賛下振れ中! <天下くじ極排出ランキング> 1位:佐々成政(7枚) 2位:真壁(3枚) 2位:百武(3枚) 佐々成政出すぎィ!!…売れるからいいけど(´・ω・`) 【天戦くじ】 48連 ちえ:27(56.25%) 童:6(12.5%) 天:10(20.8%)シクレ:2(4%) ★5:3(6.25%) 天・シクレ・★5は毎期こんなもんだったと思うけど、今期は童が出るところでちえが出てる分ちえ率が爆増している気がする… 童もっとよこせ!(合成確率アップ…
2025年の大河ドラマは『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』に決定しました。江戸時代中ごろに、浮世絵や洒落本の版元(出版人)として活躍した蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)が主人公で、演じるのは横浜流星(よこはまりゅうせい)さん。『え…蔦屋重三郎って誰!?ってだれ!?』と思った人は、私だけじゃないと思いたい…。というわけで、渾身の2025年の大河ドラマ予想は見事に大外れ!大外れとはいったものの、江戸時代の脚本家・近松門左衛門を予想のひとつに入れていたのは、意外と良い線いっていたのでは!? tsukumogatari.hatenablog.com蔦屋重三郎という人物自体を知らなかったので予想するのは…
編制晒しです、恥ずかしいw 某み〇〇〇氏から「最近どうなってるの?」的な話があったのでね。 軽くやっときます。
改めて、地元のよさを堪能した数日でした! なので、たくさんの写真と少しのコメントで綴ります えびの高原 2つの池 活火山だとわかりますね 白鳥神社 この柱がもの凄いらしい! 夫婦杉 台風で倒れたそうです 狛犬ならぬ仁王像 水分神社 木崎原の合戦跡地 島津義弘公の歌碑もあります 『いそぐなよ、まだ急ぐなよ、世の中の 定まる風が、吹くまでは』 この空間のエネルギーがとてつもなく半端ない! 地元に帰れば、親にグチグチ言ってしまうのですが、 一番相性の悪い組み合わせとあきらめ、 思いやりでいきたいものですね まだまだ修行がたらんのです、、とほほ (´-﹏-`;)ショボン ありがとう!えびの市! あり…
面白い! すごく面白い! 『大乱 関ヶ原』は宮下英樹(みやしたひでき)氏が手がけるマンガ作品である。2022年より月刊誌『コミック乱』(発行/リイド社)で連載開始。2023年4月に第1巻が発売された。 大乱 関ヶ原 (1) (SPコミックス) 作者:宮下英樹 リイド社 Amazon どんな内容かというと、第一話の冒頭でこう述べられている。 何故関ヶ原の戦いが起こったのか その舞台裏を描く次第(『大乱 関ヶ原』第一話より) 唐入りの後始末から 『センゴク』の作者が重厚に描き出す 島津家はどう絡んでいくのか? 唐入りの後始末から 物語は豊臣秀吉の薨去からはじまる。唐入り(朝鮮侵攻)の途上であったが…
宮崎県小林市須木の一麟寺跡にある須木城主米良筑後守重方公の墓を参拝しました。米良筑後守は伊東義祐の信任もあつく、須木城の他に小林城や野首城の城主も兼任していました。島津義弘が小林城を攻めた際も、小林城に籠り猛攻を受けながらも島津軍を撃退しています。1572年木崎原の戦いで伊東祐信と加久藤城を攻めますが鍵掛口が要害で攻めあぐねたため、伊東軍は一時退却します。その際に殿をつとめた米良筑後守は戦死してしまいます。島津義弘は米良筑後守の首実験後、米良筑後守の首を首桶に入れ米良氏の菩提寺であった一麟寺に丁重に送り届けています。米良筑後守の首をいれた首桶はいまも残っているそうです。中央の五輪塔が米良筑後守…
ここ数日のんびりと平和を享受していた我が一門でですが、どうやらまた戦に明け暮れれる日々になりそうです。 というのも・・・。