「味わい」ということについて書きたいと思います。 先の投稿でも書きましたが、親鸞会を卒業して、浄土真宗を聞き求められ心境が変わった方がたくさんあります。 しかしながら、真宗の信心に救われたという人たちの間で、お互いの領解を受け入れられない問題があることを書きました。 特に親鸞会を経由した人は、「信心は同じでなければならない」という固定観念に強く捕らわれ過ぎているように感じます。 信心の表現や、体験の描写が相違していることを持って、他の「味わい」を間違いと主張してしまう場合があるようです。信心体験は論理を超えた、宗教的な信仰の表現ですので、その描写は詩的であったり、表現力が豊かな人とそうでない人…