前の記事の「コミュニケーション的暴力としての、意味の占有」での、夫と妻の会話についてつづります。 本では、『魯肉飯のさえずり』という小説から、台湾出身の母を持つ妻と生粋の日本人の夫との会話が引用されています。 夫は言葉の端々に妻を(実際には女性全員を)自立していない「女の子」として見ていながら、ときには性の対象である「女」としてみます。 著者の三木さんが指摘するコミュニケーション的暴力の根源がこの”相手の存在を自分勝手に変更する認知”にあるように思えます。 私の前半生がまさにこれでした。 親と子(住職と家族、お寺の奥さんと家族、師と弟子、年長者と年少者、社会的上位者と下位者)という強者と弱者の…