2012-02-09 多摩大学地域プロジェクト発表祭--増加、広がり、深まり
2011年度の多摩大学地域プロジェクト発表祭が開催された。
2009年度11件、2010年度15件、そして2011年度は、20件と発表プログラムは順調に増え続けている。専任教員9・非常勤2の教員が関わっている。数量的な増加とともに、多摩市・多摩ニュータウン(14件)、広域多摩(4件)へのフィールドとしての広がり、そして地域の多くの企業・行政・団体・学校などへのアプローチの深まりが感じられるようになったのは嬉しいことだ。
問題解決力を身に付けさせることを目標としたプロジェクト型学習が根付き始めたと思う。地域の方々も多数参加されて、活発な質問や感想をいただいた。今回は、提携協定を結んでいる関西・奈良の手塚山大学からの教授と広報の方も見えて、丸一日参加された。私のホームゼミは3件の発表。
以下、案内文から。
「多摩大学では地域活性化マネジメントセンター(CRD)を中心に「プロジェクト型地域学習」を推進しており、3 年目を迎えました。2011 年度は、多種多様な20 のプロジェクトが多摩地域を主なフィールドとして展開されました。3 年目ということで、継続的に同じテーマを発展させているプロジェクトがある一方、新たなプロジェクトも多く加わり、「地域プロジェクト」という取り組みが着実に、蓄積と新陳代謝を行っていることを実感しております。
この度は、下記のとおり、「2011 年度 多摩大学地域プロジェクト発表祭」を行い、その成果を地域の皆様と共有する機会を設ける運びとなりました。行政、企業、NPOの皆様にも是非ご出席いただき、交流を深めるとともに、新しいプロジェクトが生まれるきっかけづくりになれば幸いでございます。
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10:00 開会の挨拶 諸橋正幸 地域活性化マネジメントセンター長
(1) 『多摩地区にクラシック音楽を!』 樋口裕一ホームゼミ
(2) 『多摩市サイクルマップ制作プロジェクト』 梅澤佳子ホームゼミ
(3) 『東京にしがわ大学の授業を企画しよう』 中野未知子プロジェクトゼミ「実践知的プロフェッショナルゼミナールOUTPUT」
(4) 『Enjoy! Puroland again!』 齊藤T裕美ホームゼミ
(5) 『若者たちのメッセージ−未来に向けて理想となる多摩市の姿−スピーチ大会』梅澤佳子ホームゼミ
(6) 『Let's GO-ya プロジェクト−多摩市におけるゴーヤ・グリーンカーテンの教育効果調査−』中庭光彦ホームゼミ
(7) 『多摩の手土産づくり支援』 久恒啓一ホームゼミ
(8) 『サンリオピューロランドの課題解決イベントの企画・運営』松本祐一プロジェクトゼミ「集客施設のマーケティング」
(9) 『東京ヴェルディの地域活動支援』 久恒啓一ホームゼミ
(10) 『多摩うどん「ぽんぽこ」プロジェクト』 梅澤佳子ホームゼミ
(11) 『中里介山と白洲次郎から考える多摩地域』 寺島実郎インターゼミ「多摩学グループ」
(12) 『近隣交流「七輪横丁」プロジェクト』 梅澤佳子ホームゼミ
(13) 『東北「道の駅」大震災研究プロジェクト』 地域活性化マネジメントセンター
(14) 『アニメによる街づくり立川プロジェクト』 齊藤T裕美ホームゼミ
14:45 招待発表 『生駒山上遊園地の衰退と再生の可能性』(帝塚山大学 経営情報学部 姜聖淑ゼミ)
(15) 『親と子のコーチング』 飯田健雄ホームゼミ
(16) 『多摩市防災マップの作成』 久恒啓一ホームゼミ
(17) 『みんなの菜園プロジェクト』 梅澤佳子ホームゼミ
(18) 『多摩ニュータウンコミュニティサロン創出プロジェクト/貝取・豊ヶ岡団地 みんなでお食事/永山名店街・週末のバール創出構想』片桐徹也プロジェクトゼミ「公民連携ビジネスプランニング」
(19) 『ドトール・プロジェクト』 酒井麻衣子ホームゼミ
(20) 『多摩市市制施行40 周年記念ハッピーフォトモザイクアート』松本祐一プロジェクトゼミ「地域プロジェクトマネジメントの手法」
16:30 コメンテーターからの総括 (20 分)
16:50 閉会の挨拶 久恒啓一 地域活性化マネジメント副センター長
17:30 パーティ開始(19:00 終了)
2012-02-08 『東北「道の駅」の震災対応の実態と新しい役割』
多摩大学 東北「道の駅」大震災研究プロジェクト 報告書『東北「道の駅」の震災対応の実態と新しい役割』が関係者のご苦労によって完成。131ページ。
来週の仙台での報告会で配布予定。
以下、私の担当の「まえがき」。
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2011年3月11日に発生した東日本大震災からほぼ一年が経った。
この地震・津波・原発事故によって、私たちの世界観は一変した感があり、被災した東北のみならず日本全体の行方に大きく深刻な影響を与え続けている。
「道の駅」は、1993年に103駅から出発し、現在では977駅と全国展開し、車社会を生きる国民にとって欠かせない身近な存在となっている。
今回の震災にあたっては、本来の休憩機能、情報発信機能、地域連携機能を土台に、震災直後には被災者支援の拠点となっただけでなく、自衛隊・消防等の基地、物資の集積配送拠点、市場の開催場所、など、復旧・復興支援の防災的拠点としても重要な役割を演じており、評価が高まっている。
多摩大学は財団法人JKAからの資金協力を得て、救援、復旧、復興支援にあたり、東北の道の駅の果たした役割がどのようなものだったのかを明らかにし、今後果たし得る平常時と災害時の双方に適応した地域の多機能型交流拠点としての新しい役割を模索するために、一年間に亘って調査を行う機会を得た。組織的には、多摩大学地域活性化マネジメントセンターが主体となり、現地のNPO法人東北みち会議の協力を得ることができた。
そして2011年9月5日から10日まで岩手県・宮城県・福島県の3県に、教員・職員・学生の混成チームによる現地調査団を派遣し、道の駅と地方自治体を合わせて合計29の施設を訪ね、震災時の状況と対応の聞き取りを行った。
その過程で筆舌に尽くし難い困難に対処せざるを得なかった、現場を預かる駅長さん達のリーダーシップ、志の高さ、スタッフたちとつくりあげたチームワーク力、地域社会との固い信頼関係、そしてそれらが織りなす具体的で的確な問題解決力に強い感銘を受けたことを記さずにはおれない。
また、その後、現地調査の成果を基に139の全東北「道の駅」を対象としたアンケート調査を行い、先の現地調査と合わせて今後の道の駅のあり方についての提言をまとめたのが本報告書である。各位の参考になれば幸いに思う。
多摩大学としては、外部資金を得て教員・職員・学生の混成チームで現地調査を行うという大型プロジェクトとなったことが特筆すべき点である。
「現代の志塾」という教育理念と問題解決力の養成に向けたプロジェクト学習を標榜する教育機関として、合宿型の調査プロジェクトは教職員・学生双方にとって大きな教育効果もあったと判断している。
本プロジェクトに関係した皆様に改めて感謝申し上げたい。
多摩大学地域活性化マネジメントセンター副センター長・現地調査団団長
久恒啓一
2012-02-07 「あの人は何歳で関東大震災に遭遇したか」--仙台で講演します
2月13日に知的生産の技術研究会仙台支部主催のセミナーで講演を行います。
タイトルは、「あの人は何歳で関東大震災に遭遇したか---83歳の渋沢栄一から4歳の堀文子まで」。
大震災で人生、あるいは人生観が一変した人たちを取り上げて、東日本大震災を考える機会にしたいと思っています。
2月13日:PM6時半から8時まで。会費:1500円。終了後、懇親会を開催。
連絡先:022-344-6853 横野。
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午前中は、思い立って溜まった書類を鬼のようになって一気に整理。「ライブ、保管、保存、廃棄」という自分なりのルールにのっとって分類。ゴミがかなり出た。精神的にスッキリ。
12時半からは、来年度の入試パンフレットの取材を受ける。前回は樋口先生との対談の取材だったが、今回は学部全体の方向についてのインタビューだった。1時間ほどだったが、きちんとしゃべることができた。
取材を終わってすぐに九段へ向かう。
学長に人事案件や学部の懸案事項などの報告と相談。いくつか示唆をいただいて動きやすくなった。
ラジオ・ぼやき川柳、富岡製糸場、インターゼミなどの話題も。
また最近手に入れたというロイドジョージのサイン入り書籍、そして後漢時代(紀元200年前後)の牛車置物も見せてもらった。
夜は、新宿で三笠書房の迫さん(副社長)と久しぶりの会食。大病をしたがほとんど復活されて、その快気祝いというところ。付き合いも10年近くになる。健康の話題、出版界の今後の展望など、、。最近は定時退社で極めて健康的で文化的な生活を送っているとのことだった。病気は転機でもある。
2012-02-06 「晩年も また長丁場 百日紅」--舟さんのお通夜
午前中は学部運営委員会。
私からは学部中期計画、来年度学部運営方針、委員会人事を提案。
午後は、JR東日本での今年度最後の研修。87人。今日の「目からウロコ」は2人。
「外的世界と内的世界」「「驚かされてばかりだった」「やはり企画の部分が欠如」「箇条書きは疑うを今年のテーマに」「納得」「頭を使った」「脳が動いた」「一日一図」「斬新」「一週一図」「刮目」「本とは理解が違った」「図解日記」「考える力」「足元は深く目線は上に」、、。
研修終了後、少し懇親会に参加。
青山葬儀所へ。ビジネスマン時代の30歳頃に出逢った10年先輩の舟崎課長。最も尊敬し、その後に影響を受けた舟崎敬さんのお通夜。懐かしい笑顔の遺影をみながら心から感謝した。舟さんらしい簡素だが浄い式だった。
JALの同期生、学習院の同級生、などが「舟さん」「舟崎」と呼びかけながら故人を偲んだが、よくわかるエピソードも、知らない一面も多かった。
ガンの治療もせずに、最後までしっかりして逝ったそうだが、サムライのような、いかにも舟さんらしい生き方だった。
懐かしい知人の顔も見かけたが、最終的には、客室本部の環と中村さんと私、運航本部の大村、青木、高橋の6人で、人事・労務担当の部下として仕えた舟さんのことを最後近くまで語り合った。たとえ話の名手、おしゃれ、現場の人との付き合い方、勝ちすぎるなという哲学、、、。
「人生観」という言葉があるが、舟さんこそ確固たる人生観と哲学をしっかりと身にまとって生きた人だったと改めて思う。そしてそういう姿に多くの人が感服しながら付いて行った。そういう人徳を感じる人だった。
ありがとう! 舟さん。
優れた俳人でもあった舟さんの「晩年も また長丁場 百日紅」という句を想い出した。
2012-02-05 富岡製糸場--シルクロードの旅

1873年に操業開始した富岡製糸場。生糸から絹を創りだす工場である。
木骨レンガ造り、総ガラスの美しい巨大建築物は、明治5年にできた。明治維新からたった5年後だから、世の中がまだ騒然としている時期に、殖産興業のモデルとして世界最大の繰糸場が日本にできて、養蚕業で外貨を稼ぐ態勢が整った。その当時のままにレンガ造りの建物が残っているのは奇跡である。
この工場は、官営、三井、原合名、片倉と所有者が変わっていって、1965年まで操業を続けていた。この間、経営権は移動したのだが、製糸業という業種は継続した。だから工場を壊されなかったのである。
片倉は、戦前には5番目あたりに位置する財閥だった。長野県諏訪に本拠地がある。諏訪湖のそばにある千人風呂などを見物したことがある。この会社の理念は、「売るな。貸すな。壊すな」であり、一度手にしたものは壊さずに、ずっと維持し持ち続けてくれた。そしてそのまま2005年に富岡市に寄贈し、それが国の重要文化財に指定された。残ったのは片倉のおかげである。
世界遺産への登録の動きがあるが、その理由は以上による。
開業当時には、全世界に数千あった製糸工場は今では一つも残っていない。ただこの富岡だけが残った。開業以来わずか10年で日本全国に1000の製糸工場ができて、それが日本の外貨獲得に大きく貢献した。
開業当時に関わった人たちの年齢は、大蔵省の渋沢栄一32歳、渋沢の従兄で初代所長・尾高惇忠42歳、建物を造ったフランス人ブリュナ32歳という若さだった。お雇い外国人は19歳から35歳という若さだった。
この富岡製糸場に関わった渋沢栄一、中上川彦次郎、原富太郎、片倉兼太郎という歴代の人物の名前をみると感慨が深い。私の近代人物の旅で縁のある人たちだ。
三井時代の1891年には、大分県中津から工女25名の入場があった。中津の田舎新聞によれば、中津藩士族たちは製糸会社「末広会社」を設立した。この会社の指導者にするたえに派遣したのがこの工女たちだった。彼女らは福沢の慶応義塾に宿泊し、また旧藩主奥平氏にも面会をしている。因みにこの時の引率者が増田しかである。彼女は福沢の又従兄弟で西南戦争にあたって西郷軍に殉じた中津隊の隊長・、増田宗太郎の未亡人だった。大分県は製糸、紡績業が興隆した。確かに私の子供時代には鐘紡などの大きな工場があった。それはこういう経緯だったのだ。
また、三井時代には大番頭の理事・中上川彦次郎、初代所長・津田興二、呉服部専務理事・朝吹英二などが活躍した。彼らは中津出身で、福沢諭吉の慶応義塾で学んだ人たちだった。福沢の経済思想に影響されて製糸所の経営にあたったのである。これも中津出身の私には驚きだった。
工女であった和田英が「富岡日記」を残しており、当時の様子が克明にわかる。「精解 富岡日記 富岡入場略記」(和田英著・今井幹夫編)を購入して読んだ。当時の若い娘がこの製糸場に入る時に国の父と母の言葉、建物を初めて見た時の感激、長州からの工女たちへの反発心、一等工女への昇進時の感激などが書かれており、その健気な心持に感動する。当時の日本人、日本女性の気高さに心が打たれる。
考えてみれば、トヨタ自動車は豊田織機製作所から派生した会社であるし、日産もスズキも、織物機械にルーツがある。そう考えてみれば、その出発点がこの富岡製糸場であったともいえる。明治の殖産興業から日本の近代産業が出発したのだから、ここがその原点であったのだ。
今回の一泊二日の群馬の旅は、絹の道というテーマだった。群馬・富岡から八王子、そして横浜というシルクロードをたどったことになる。それが実は私の故郷・中津ともつながっていたことを発見して嬉しくなった。
2012-02-04 男児志を決して千里に馳す--新島襄旧宅を訪ねる
新島旧邸。
同志社大学をつくった新島襄(1843-1890年)は上州安中の武士だったが、海外への目が開かれて、21歳の時に函館から出航しアメリカに渡る。函館の港で「新島襄出航の地」という碑を見たことがある。また京都の同志社大学のNiijima Roomという名前の記念室を訪問したこともある。
新島が渡米した1864年当時はまだ幕末で騒然とはしていたが、まだ鎖国が継続中であり、見つかれば死罪という冒険だったのだ。フィリップス高校、アーマスト大学、アンドーヴァー神学校と勉強を重ね、滞米10年を経て、新島は1974年に横浜に到着する。28歳の時には、ワシントン駐在の森有礼(1847年生まれ)とボストンで会い、留学生という形にしてもらっている。日本で休暇をもらった新島は故郷に帰り、家族のいるこの家に29日間滞在する。この間、キリスト教を語り、この安中は上州伝道の礎石となるのである。
キリスト教の大学を創ることを志とした新島は、32歳の時に同志社英学校を開校する。最初の出発は8人の生徒だった。そして33歳の時に、友人となった会津出身の山本覚馬(京都府会初代議長)の妹・山本八重と結婚する。この八重は戊辰戦争に従軍した女丈夫(おんなますらお)であり、来年のNHK大河ドラマの主人公になる女性である。八重は若松城の落城の歌を詠んでいる。
明日の世は何国の誰か眺むらんなれしを城に残す月影
のぼる、八重さんと呼び合った二人は西洋スタイルの生活を送る。新島は家事にも協力的だった。
1883年に開催された第三回全国基督教徒大親睦会の集合写真に、新島襄と内村鑑三が隣同士で並んでいる珍しい姿を発見した。この写真には津田仙の熊本バンド、韓国の李樹延などのメンバーがみえる。この二人は同年齢にみえたが、実際は新島40歳、内村22歳だった。
いしかねも透れかしと一筋に射る矢にこむる大丈夫(ますらお)の意地
良心の全身に充満したる丈夫の起り来たらん事を(良心碑:同志社大学今出校地に建つ)
男児志を決して千里に馳す
自ら辛苦を嘗む豈家を思わんや
却って笑う春風雨を吹く夜
枕頭尚夢む故国の花
時危思偉人(時危うして偉人を思う)
偉人とは一国の良心ともいうべき人。良心を手腕に運用する人物。
家の裏に詩碑「十二の石塚」があり、湯浅半月の詩が刻まれている。題字は新島とも縁の深い徳富蘇峰(1863年生まれ)だった。
2012-02-03 我にことばありけり何か嘆かむ--100歳の長寿歌人・土屋文明
群馬県高崎の県立土屋文明記念文学館を訪問。
土屋文明は1890年生まれで、没したのは1990年。ということは100歳の天寿を全うした歌人である。また、この文明(ぶんめい)という名前は文明開化に因んだ名前だが、本人はあまり気に入ってはいなかったようだ。次の歌を残してる。
あわただしき文明開化の落しものあわれなる名を一生持ちたり
長寿を詠んだ歌もある。
この伯父と伯母の実子に?我ははくぐまれ 諸人の齢をこえ今に長らふ
中学3-4年生でホトトギスを購読し写実主義文学に目覚めた文明ではあったが、東京茅場町で牧場経営をしていた伊藤左千夫のところで、牛乳配達の仕事をすることになる。伊藤は子規の後継者ではあったが、「歌を習いに来たんじゃない。、乳牛のクソをかきだしに来たんですよ」と本人が述懐しているように、牛飼いをしていた。
文明はここから第一高等学校に入学する。
東京帝大では哲学科に入り、山本有三、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと親交を深める。
アララギで活躍していた島木赤彦から、長野県諏訪高女の教頭に推され、その後には全国最年少の校長に抜擢される。この時の教え子に作家の平林たい子がいる。後に松本高女の校長に転任し、自由な教育を実践するが、反対勢力の排斥運動で左遷される。このとき、すぐに辞表を出している。この事件の前の新聞には「神経質で短気な土屋校長 自我の強い諏訪の女学生もふるえ上がった」という記事も出ている。
「短歌は生活そのものである。生活に溶け込みながら歌を作る」という文明は、昭和5年にはアララギの編集発行人になっている。この有名な短歌雑誌は1997年まで続いているのには驚いた。
生活の真実の表現がなされている歌、生活に密着した歌というが、アララギの同人の歌は広く、歌風は「うそをつかないことくらい」とも言っている。
文明は、柿本人麻呂、大伴家持、山上憶良を評価していた。
ライフワークの一つである「万葉集私注」を書くにあたっては「出てきた疑問は、すべてではありませんが、歩いたことで解けたものもあります」と言うように、とにかく自分の足で確かめる人だった。
もう一つのライフワーク「万葉集年表」が完成したときには、喜びを次のように詠んでいる。
命あり万葉集年表再刊す命なりけり今日の再刊
記念館で気に入った歌を挙げてみたい。
垣山にたなびく冬の霞あり我にことばありけり何か嘆かむ
諸々の清き人等の中にまじりかにかく過ぎし長き一生ぞ
この人の南青山の書斎が再現されていた。大変気に入っていたようで、この書斎で60歳あたりから約40年にわたって活動を重ねていった。
100歳まで現役活動を続けることの凄みは、芸術院賞、文化功労者、東京都名誉都民、文化勲章というあまたの賞に結実していく。
「苦境にあったら、積極的に生きて楽しむ」という主義だった。
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土屋文明記念文学館では、加藤楸邨の企画展も開催していた。
加藤楸邨(1905-1993年)は、朝日俳壇の選者をつとめた俳人。苦学して32歳で東京文理科大学国文科に入学している。49歳で青山学院女短大教授になって、時間的余裕を得てますます活動を深めていく。
楸邨のライフワークは「芭蕉」である。芭蕉に生涯の指針を得ていた。
死は死にて秋の雲ゆき人は泣き
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次に「日本絹の里」を訪問。「機の音 製糸の煙 桑の海」。
生糸を扱った上州商人。
下村善太郎・江原芳平(前橋)
中居屋重兵衛(嬬恋村)
茂木惣兵衛(高崎市)
吉村屋幸兵衛(新里村)
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辻村寿三郎の企画展が行われていた。
60歳過ぎあたりから、引け目が無くなり、次から次へとエネルギーが湧いてきた。
一生かけて新しい表現を求めてきた。
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宿は、磯部温泉ガーデン・雀のお宿。




