NHKスペシャル「未解決事件」FILe10「下山事件」。須賀敦子論。

 

NHKスペシャル「未解決事件」ーーFILe10「下山事件」の再放送。第1部はドラマ、第2部はドキュメンタリーで、午後1時から3時近くまでだった。

終戦直後のアメリカ占領時代に労使紛争にゆれる国鉄を舞台に起こった未解決事件の一つが下山事件だ。国鉄での10万人の解雇という圧力を受けていた下山総裁が謎の死を遂げる。その真相は今もって闇の中である。

東京地検主任検事の布施健を主人公に、国鉄労組、共産党ソ連、日本政府、GHQ、アメリカ、スパイ、二重スパイ、右翼の大物、小説家、新聞記者らが織りなす複雑怪奇なストーリーを描いた傑作だ。ソ連説、アメリカ説をめぐって生存者の証言やアメリカ公文書館の文書が明らかになっていく過程は息をつかせない。

朝鮮戦争の勃発をにらんで、当時共産主義勢力の伸長に危機感を抱いたアメリカが、下山総裁殺害の犯人を共産側になすりつけるために仕組んだい陰謀という結論が示唆される。

主任検事の布施健は政治によってこの事件から手を引かされるが、最終的に検事総長にのぼりつめていく。そして田中角栄元首相を逮捕することになる。最後に、これも大きな陰謀の肩を担がされているのかも、という述懐を残して消えていく。NHKスペシャルらしい力作だ。主役の森山未来の演技が印象に残った。

森山未來

NHKスペシャル 未解決事件

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高橋源一郎飛ぶ教室」で須賀敦子について取り上げていた。 

須賀 敦子(すが あつこ、1929年1月19日] - 1998年3月20日)は、日本の随筆家・イタリア文学者。18歳で洗礼を受ける。24歳で渡欧、以後日欧を往き来する。32歳ペッピーノと結婚。34歳、谷崎潤一郎春琴抄』『蘆刈』のイタリア語訳を刊行し、以後日本文学のイタリア語版を刊行していく。谷崎作品のほか、川端康成『山の音』、安部公房砂の女』などをイタリア語翻訳刊行する。長く大学の非常勤講師を務めた後に、53歳、上智大学国語学助教授。60歳、比較文化学部教授。

須賀敦子の名は、ビジネスマン時代に同僚の女性から名前を聞いてはいたが、本を読むまでには至らなかった。今回『須賀敦子を読む』を読んで、須賀自身のエッセイに興味が湧いた。

翻訳を長く仕事とし、生前はエッセイを書いた。翻訳は自分をさらけ出さないで、責任をとらずに文章を書く楽しみを味わえたから須賀は好きであり、いい仕事をし、イタリア共和国カヴァリエール功労賞を受章している。2014年には、イタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。また、エッセイでは女流文学賞講談社エッセイスト賞を受賞している。2014年にはイタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設された。

少女時代から「書く人」になりたいと願った。書くということは「息をするのとおなじくらい大切なこと」という須賀は、『ミラノ 霧の風景』から始まる完成度の高いエッセイ群によって、たどってきた時間を生き直したと『須賀敦子を読む』の著者・湯川豊はいう。信仰と文学の一体化を実現する小説の道を発見した須賀敦子が語った「書くべき仕事が見つかった。、、」は、死の直前の1998年2月4日の言葉だ。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(孔子)を彷彿とさせる。孔子の言う道は真理という意味であるが、須賀敦子の場合は自分の進むべき道であったろう。

以上は2018年に私がブログに書いた文章だ。ラジオの刺激を受けて、手元にある『日本文学全集』(池澤夏樹個人編集。全25巻)の「須賀敦子」を手に取った。

池澤の解説によれば、須賀敦子のイタリア語は母語の域に達していた。そして日本人としての主体性を失うことなく、ヨーロッパ思想を最も深いところから身体化していた。母岩としての13年に及ぶイタリアの日々の観察と記憶を精錬して貴金属を抽出し、人物単位でまとめるという仕事をしたのである。

ラテン語の詩を読んだ時に漢文の詩を思いだして、ああ同じだ。という感じを持ちました」

この全集の中に「マルグリット・ユルスナール フランドルのうみ」というエッセイがあった。ユルスナールは大傑作『ハドリニアヌス帝の回想』の著者だ。この本を昨年読んで感銘を受けている。

この本の内容、つまりハドリニアヌス帝が述べる生涯に出会う、多彩な人物、遭遇する事件とそこから引き出す教訓、旅の過程での発見、皇帝であることを活かした猛烈な仕事ぶり、人生についての深い知見、、、など、感銘を受ける箇所が随所にある。この本は手元に置いて、座右の書の一つにすることにしている。

69歳になっていた須賀敦子は「書くべき仕事が見つかった。いままでの仕事はゴミみたいなものだから」 と死の直前の2月に覚睡しているのだが、3月に帰天する。

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「名言との対話」4月29日。牧伸二「漫談芸は格闘技である」

牧 伸二(まき しんじ、本名:大井 守常〈おおい もりつね〉、1934年9月26日 - 2013年4月29日)は、日本のウクレレ漫談家。色モノ芸人の集まりである東京演芸協会の会長。

牧伸二は芸能界の「色モノ」ウクレレ漫談の創始者だ。色モノとは非正統という意味である。泉ピン子は弟子にあたる。最初の芸名は漫談の先駆者・徳川夢声一門から出た師匠の牧野周一からつけてもらった「今何度」である。高校卒業後、温度計を製造している東亜計器に勤めていたからだ。

ウクレレをひきながら「あーあやんなちゃった、おどろいた」で始まるやんなっちゃった節は一世を風靡した。今でも私の耳にも残っている。「フランク永井は 低音の魅力 神戸一郎も低音の魅力 水原弘も低音の魅力 漫談の牧伸二 邸能の魅力 ああやんなっちゃった ああ おどろいた」は、1300番以上も続く歌詞の最初である。

1963年には日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)の演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、5秒に1回笑わせるテレビ的な番組となった。この人気番組は1978年まで続き15年にわたり司会をつとめた。牧伸二が偉いのはこのままではまとまった芸ができなくなり芸が枯れると考え、この間もキャバレーなどのステージを増やし芸を磨き続けたことだ。

「つかみ」を盗み、「間」を盗み、達人たちのいい部分を盗み、自分のセンスに加え、長い年月をかけて熟成させる。そうしてやっとオリジナルの格闘スタイルが完成させていった。そして「長い休みを取らず芸をやり続ける」ことで芸をさび付かせず、最高のコンディションを維持していく。これが牧伸二の芸の磨き方だった。

牧伸二ビートたけしを「化け続ける芸人」と呼ぶ。タモリは「緊張感のないお笑いスタイル」でテレビで遊んでいると批評する。ダウンタウンには師匠のいない芸人の欠点の修正法をアドバイスしている。永六輔大橋巨泉はテレビが生んだ「不思議業」と規定する。これが芸の格闘家・牧伸二の確かな目である。

時事ネタを取り入れて漫談を行うには時代の流れに敏感でなければウケナイ。また政治や宗教の風刺、下ネタ、その土地土地に存在するタブーなどはやらない。自分の足で街を歩き、見て、聞いて、観じた「いま」をネタにしなければ、お客さんが笑うような面白いものは出来上がらない。これが牧伸二のポリシーだった。優れた芸人は「時代」を表現し、今を生きる人々の心に共感のさざ波を起こし、笑いをとる。牧伸二は油断できない、隙を見せられない、真剣勝負の格闘技の世界を生き抜いた人だったのだ。

 

 

 

八王子夢美術館「川瀬巴水ーー旅と郷愁の風景」展:出会い・出来事、そして旅。

八王子夢美術館「川瀬巴水ーー旅と郷愁の風景」展。

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高齢の夫婦と中年女性が多かった。巴水展はSOMPO美術館と日本橋丸善の企画展で見てきたが、あたらめて画力を堪能した。

詳しくは別途書くことにするが、今回の訪問の趣意は、彼の人生行路に興味を持ったからだ。

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川瀬巴水(1883-1957)という人物を理解するカギは、出会いと出来事、そして旅である。

絵の道に進むことができたのは、家業が傾いたことにより反対がなくなったことによる。その時、巴水はすでに25歳となっていた。27歳で入門した鏑木清方門下の伊東深水木版画に影響を受けて、木版画に挑戦すること決意する。

その後の2つほど年下の版元・渡邊庄三郎との出会いは大きい。二人は同志となって「新版画」を開拓していく。

そしてもう一つは人生の節目に行った大旅行である。1923年の関東大震災で写生帖などが焼けるという悲運に見舞われる。震災以前は思い切った構図が特長だった。巴水は庄三郎に励まされ、102日間の旅にでる。その後は、鮮やかな色彩と精密な筆致の作品を描いいている。

マンネリ化した作風を突破したのは、朝鮮への旅行だ。初めてみる異国の風景と珍しい風俗を新鮮に感じ、その成果は戦中、戦後に開花する。

戦後は海外から版画に注目が集まるようになり、多忙となる。その間、国内を旅を何度も重ね、日本の原風景を描いた。その旅情あふれる作品は今日でもファンが多い。この展覧会で改めてそのことを確認した。

川瀬巴水は、文部省からの高い評価や、三菱財閥の総帥たちの起用によって、木版画の中心人物になっていく。「昭和の広重」という最大の尊称をうけるまでになる。

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粟津潔 - 作家|大地の芸術祭

「名言との対話」4月28日。粟津潔「ものを創りだすことは、見ることだと思う」

粟津 潔(あわづ きよし、1929年2月19日 - 2009年4月28日)は日本グラフィックデザイナー

小学校を出ると建具職組合の給仕をしながら夜間の商業学校で学ぶ。神田の古本屋街や自宅に間借りしていた哲学者からも影響を受ける。古い映画雑誌の口絵などを教科書として、「独学」で絵を描き始める。山手線を循環しながら人物描写のスケッチ練習を重ねた。20歳頃には、政治運動に熱中。この間、ベン・シャーンというリトアニア出身のデザイナーの仕事に「出会う」ことでデザインの世界に入る。そして図案家、商業美術家という職人的地位を脱しようとする人々の動きの中に入っていく。

1956年、日活映画宣伝部に入り、職業デザイナーの道を歩む。20代は演劇、映画、そして街頭の芸術であるという考え方でポスターを手がけた。1960年建築家の有志を募り新陳代謝を提案する『メタボリズム』を結成する。その後武蔵野美術大学商業デザイン学科(現・視覚伝達デザイン学科)助教授に就任。「デザイン批評」編集長もつとめた。

粟津潔のデザインのモチーフをあげてみよう。指紋、地図、印鑑、手相図、人相図、肖像写真。亀、花、鳥、。既成のイメージを引用、再編、聖化していく。阿部定の顔、モナ・リザの手、髪、家相図、地相図、方位図、胎児、嬰児、陰毛、人体解剖図、統計、同性愛、、、。死と魔の世界といってもよい。こういった世界は「生」をつきつけてくるという。粟津の方法は、模倣し、取り入れ、表現することだ。ベン・シャーン北斎、ガウディ、白川静などがその対象だった。

粟津は日常の中にデザインがあると考えていた。日常に身を投じながら、創造していくというスタイルを通していく。土着的なモチーフを大事にしたのは、デザイン作品は生活や人間をきりはなせないと考えていたからだ。根源は「生いたち」の中にあるとする。そして「誰かと誰かが「出会う」という事実によって、何か今までになかった世界がつくられます。お互いが未知なるものを秘めながら、必然的であろうと偶然的であろうと、そこから新しい出来事が始まります」。

書籍のデザイン、いわゆるブックデザインにも力を注いでいる。長いあいだ残る作品であり、複合的なデザインが要求される分野だ。内容とデザインを一致させる必要があり、結果としてさまざまの領域の本を読むことになった。他人の思想を生かしながら自己成長を続けていったのだ。粟津潔の仕事は膨大で、かつその都度、大きなインパクトを与えている。注目のデザイナーとして若きデザイン学生たちが杉浦康平粟津潔を挙げていたことからもその影響力がわかる。

私の記憶にあるのは、映画『田園に死す』での詩人役、日本文化デザイン会議の諸ポスター作品、映画『心中天網島美術監督、つくば万国博覧会・テーマ館アートプロデューサーなどだ。作品は国際的にも評価が高い。ニューヨーク近代美術館、アムステルダム現代美術館、オスロ近代美術館ワルシャワ・ポスター美術館、富山県立近代美術館、金沢21世紀美術館などに作品が所蔵されている。

粟津潔の『デザインになにができるか』(企画制作:金沢21世紀美術館)を面白く読んだ。何人か私も縁のある人の名前があった。この中で、「生い立ち」「出会い」「出来事」という言葉がでてくる。私は「人生鳥瞰図」というコンセプトデザインを提唱しているが、この中で人の「価値観」を導くのは、この三者であるとしている。粟津と同じ方向を向いている感じがする。そして粟津は人との「出会い」や、イベントなどの「出来事」によって、学習し、経験し、デザインという仕事を広げ、深めていったとみえる。粟津潔は「独学」と、「ヒトリノヒトガヒトリデタッテイル」と本人がいうように「独歩」の士であった。

「ものを創りだすことは、見ることだと思う」という。見ること、見えてくること、見抜くこと。見て、見て、見つづけることが、やがて創りだすことである。独創の秘訣は見ることにある。

 

 

 

 

 

神保町:シェア書店「ほんまる」見学会。喫茶「襤褸」での懇親。「PASSAGE」2号店尾のカフェで懇談。

神保町のシェア書店「ほんまる」のオープンの日。

橘川さんのグループの見学会。私の本棚も少し入れ替えをする。

左から。田原、仁上、片岡、地蔵、橘川の各氏。撮影者は私。

「ほんまる」の私の棚「アクティブ・シニア革命」。この理念にあう自著を中心に登録して並べた。「イコール」増殖版の知研責任編集の「アクティブ・シニア革命」も並べる予定。

見学の後、昭和の匂いの立ち込める喫茶「襤褸」(ぼろ)で懇談。橘川さんに「人物記念館ミュージアム」の構想図と「アクティブ・シニア」の企画図を手交。

終わって、岡山の白石島で地域協力隊の活動をしている片岡玲実奈さん(25歳)と、シェア書店「PASSAGE」2号店(1号店のビルの3階)でお茶。400人ほどの島での活動の様子を聴く。いくつかアドバイスも。

皆さんとのやり取りの中で京都と白石島に行く案が浮上。

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「名言との対話」4月27日。佐田の山「お前たちはお客さんに『相撲を見せてやっている』と思っていないか。『見ていただいている』という気持ちで土俵に上がりなさい」

佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ、1938年2月18日 - 2017年4月27日)は、長崎・五島列島出身の大相撲力士。第50代横綱。享年79。

1956年初場所初土俵。1961年初場所に新入幕を果たした。入幕3場所目の夏場所、前頭13枚目で12勝3敗を挙げて初優勝。1963年、出羽海親方の長女と結婚。1965年初場所に3度目の優勝を果たし横綱に昇進。大鵬柏戸の両横綱と全盛期が重なった不運があった。私は攻め続ける姿勢が好きだった横綱だ。

大鵬佐田の山戦は常に大相撲となった。佐田の山が突っ張りで激しく攻める。大鵬は下からあてがいながら応戦し、あと一歩のところで組み止められることが多かったが、敢闘精神あふれる相撲をとった。大鵬に善戦する姿は目に焼きついている。ユーチューブで久しぶりに大鵬戦を何番か見てみたが、闘志あふれる姿は爽やかだ。

「この柱、現在はコンクリート製ですが、私が若い頃は木製でした。部屋での稽古が終わった後、この電信柱に向かって何度も何度もテッポウを繰り返しました。この電信柱が私の基礎を作ったと思っています」「力士たるもの、はがき一枚出すにも着物で行け」

1967年11月場所では12勝3敗で5度目の優勝、1968年1月場所では13勝2敗で連覇を果たしたのだが、3月場所で序盤に3敗を喫するとあっさり現役を引退した。出羽海部屋の名横綱に見られた「引き際の潔さ」という伝統を受け継いだと言われている。

「引退して少しは楽になるかと思ったらとんでもない。ますます大変になった。こんなことならもう少し現役を続けていれば良かった」と後悔する口ぶりだったが、出羽ノ海部屋を立派にマネジメントした。師匠としては、三重ノ海横綱へ育てたほか、子飼いの弟子からも関脇・出羽の花、小結・大錦、佐田の海舞の海などの幕内上位力士を多数育成した。

二子山理事長が停年を迎えた1992年からは日本相撲協会理事長を3期・6年にわたり務めた。現役時代に苦杯をなめた大横綱大鵬が理事長にはなれなかったのとは対照的だ。引退後はライバルを圧倒したのである。一方、一代年寄の栄誉を担った大鵬は、白鵬という不世出の横綱を育てている。

こういうライバル関係で思い出すのは将棋の世界だ。「北海の美剣士」二上達也という天才棋士の時代には、大山康晴という突出した名人がいた。二上は9歳年上の大山康晴とは、通算で45勝116敗と苦杯をなめた。タイトル戦では20回対戦し奪取2・防衛0・敗退18であるが、大山の五冠独占を2度崩している。天才・二上達也の名前は、メディアでよく見たものだが、大山は自分を脅かすその二上を浮上させないように気合を入れて対局に臨んでいた。

二上の10人の弟子の一人が、2019年に大山康晴の通算勝利数を抜いた天才・羽生善治だ。1989年に弟子の羽生と初めて公式戦で対局し、負けて引退を決意する。二上は大山会長の後を継いで日本将棋連盟会長に就任する。7期14年の長期政権となり、大山の12年を超えた。二上は「最後にようやく勝った」と述懐している。

「見ていただいている」は、力士としての発言ではなく、歴史と伝統ある大相撲を率いる日本相撲協会理事長としての名言である。

 

 

JAL時代の同窓会(蒲田)。シェア書店の「ほんまる」への引っ越し(神保町)

朝:ウェブ上につくる「人物記念館ミュージアム」のズームミーティング。だいぶ形になってきた。

午後:JAL時代の同窓会(成田客乗時代)を蒲田の「銀座アスター」で開催。向かって左から、山崎、望月、松尾(福岡から)、環、久恒、堀。それぞれの事情を抱えてはいるが、みな元気。楽しい3時間でした。

夕:シェア書店の移動のため神保町へ。

  • 「猫の本棚」の私の「人生100年時代」書店の本を本を撤収。店主にご挨拶。
  • 次に、明日オープンするシェア書店「ほんまる」(さくら通り)に本を運ぶ。「アクティブ・シニア革命」の本棚を開設。

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「名言との対話」4月26日。戸川昌子孤独という切符を買ってでも、自由な旅人でいたい」

戸川 昌子(とがわ まさこ、1931年昭和6年〉3月23日 - 2016年4月26日)は、日本推理作家シャンソン歌手。享年85。

東京出身。高校を中退。タイピストとして伊藤忠商事に勤務ののち、シャンソン歌手を経て、1962年、戸川自身が住んでいた独身女性専用の同潤会大塚女子アパートを舞台としたミステリー『大いなる幻影』で第8回江戸川乱歩賞を受賞。「BG(ビジネスガール)、バーの女給、舞台女優、シャンソン歌手……とさまざまな人生経験のすえ書いた推理小説大いなる幻影』で、第八回江戸川乱歩賞を受賞した戸川昌子さん(29歳)は、異色女流作家として一躍ジャーナリズムから注目されるようになった」と書かれた。

「歌手作家」という肩書きをはねのけるためには、乱歩賞受賞作とはガラリと違った作品を書かなくてはならない、と考えて書いた次作『猟人日記』は官能的描写で話題となり、直木賞候補となる。

猟人日記』を読んだ。夜の街で女を漁る主人公は、その記録をつけた日記を書いていた。それが「猟人日記」だ。その中の一人が妊娠し自殺する。その姉が犯人を追い詰めていくミステリーだ。彼が関係した女たちを事前に殺し、その現場に居合わせるように工夫し、アリバイを壊し、恐怖に陥れる仇討の物語だ。途中で逮捕され裁判にかけられるが、その弁護士が動機に疑問を持ち、真相を追及していく。驚くべき構想、ち密なからくり、的確な心理描写など、戸川昌子は一流の小説家だと感じた。このベストセラーになった傑作は映画化されている。

この本でやっと、推理作家と認められる。戸川昌子は生涯で100タイトル近い作品を発表した。『深い失速』をはじめとした作品は世界8か国語に翻訳されている。

戸川昌子流の老いの愉しみ方が箴言集が満載の『人生とは明日のことではなく今日のことである』(海竜社)では、「人生はいつでも適齢期」「生きたいように生きるために」「男の愛 女の愛」「母と子」「還暦」「青春と性」「老いからの出発」が語られている。

戸川昌子は46歳という高齢の出産でも話題になった。また、2014年に放送された「私の何がイケないの?」で、 戸川昌子の家がゴミ屋敷だという映像が流れた。世間を騒がす戸川昌子に関するマスコミの記事や映像を私もよく見たものだ。確かに「孤独と自由」はトレードオフの関係にあるから、戸川の人生は戸川自身の生き方の結果であり、それでよいということなのだろう。

 

 

 

「知研読書会」の22回目ーー毎回、新しい読書法を試しています

「知研読書会」の22回目。以下、紹介された本。

  • ラテン語さん『世界はラテン語でできている』SB新書(2014)
  • ピオリカ・マリアン著 今井むつみ監訳『言葉の力』KADOKAWA(2023)
  • 田内学『きみのお金は誰のため』
  • ダニー・ドーリング(遠藤真美訳)『Slow Down 減速するすばらしき世界』東洋経済(2022)
  • 竹内宏「元気の経済学」PHP研究所(1986)

以下、主宰者のまとめ。

「最後のまとめとして、今回は言語と経済(成長と成熟)の2つにまとめられるが、ほとんどの本が関係をもっていること、自分のもっている経験や知識から読むこととが大切なこと、例えば成長と成熟にしても流行った本だけを頼りにせずよく考えること、西洋的な考えの中に巻き込まれないよう注意が必要、などが挙げられていました。」

次は私の図メモ。

私の発表した本。

、「PEP BUSINESS LBRARY 「元気」の 経済学 低成長時代の新たな活力とは 竹内 宏」というテキストの画像のようです

準備した資料:バブル直前の約40年前の本。その当時の経済状況、数十年後の予想。打開策の提示。実施できなかった場合の姿。

まさに改革を怠った約40年後の現在の日本の惨状を予言している。

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「名言との対話」4月25日。田畑義夫「新曲を出し続けることが、現役歌手の証し」

田端 義夫(たばた よしお、1919年大正8年1月1日 - 2013年(平成25年)4月25日)は、日本歌手ギタリスト。享年94。

三重県松坂市出身。赤貧のため小学校は3年で中退。トラコーマで右目の視力を石失う。名古屋で丁稚奉公。

1939年、「島の船歌」でデビューし以降もヒットを続け、東海林太郎、上原敏と並ぶヒット歌手となった。

戦後の1946年には「かえり船」が累計180万枚を売り上げる大ヒットとなり、岡春夫、近江俊郎と戦後三羽烏と呼ばれている。その当時、復員兵が大阪駅に到着したとき、「かえり船」が流され、家族との再会時に一緒に涙を流しながら聴き入った姿をみる。「ああ、私の歌で涙を流す人がいる。歌手をやっていて良かったな、生きていて良かったんだな」と思った。歌を歌うことが「ライフワーク」となったのである。

1960年には山口組(田岡一雄)と明友会との全面抗争に巻き込まれた(明友会事件)。それ以来、ヒットは出なかったが、1962年に「島育ち」を歌い、大ヒットを記録する。

その後も、精力的に歌手活動を展開していく。1984年には医療過誤であろうか、一時半身不随となったが、リハビリにあh下三奇跡的に回復している。年号が平成になっても新曲を発表し続けた。

人柄も好かったようで、1985年以降は日本歌手協会会長、名誉会長を続けている。因みに結婚は4度である、

現役時代が長く、レコーディングした曲の総数は実に約1200曲という膨大な数である。没後には、日本作詞大賞・テレビ東京特別賞と、日本レコー大賞特別功労賞が贈られている。

田端義夫がギターを横向きに構えて、情感たっぷりに歌う姿は、テレビでよく見かけた。かなりに年配になても歌っているなという印象を持っていたのだが、それは田端自身の信条によるものだった。

「新曲を出し続けることが、現役歌手の証し」という考えで、常に新曲に挑んだのだ。ファンの支持やレコード会社の評価がなければ、実現できるものではないから、現役でいつづけることは難しいのだ。それをやったことに頭が下がる。そして「90歳までは歌う」という執念のとおり、最後まで現役歌手として舞台に立ったのである。

私がやってきた知的生産の分野においても、本を出し続けることもなかなか難しいことである。読者の支持、出版社の意向、そして自身の力量、時代が求めるテーマ設定など、いくつもの要素の組み合わせが成功しければ、新刊本の刊行をながく続けることはできない。「90歳までは歌う」という決意で文字通りのライフワークを歌を歌い続けた田端義夫には学ぶことが多い。人生100年時代の生き方のモデルである。

 

 

 

「図解ジャパン」プロジェクトが始動ーー規定科目と自由科目。

「図解塾」の「図解ジャパン」プロジェクトが始動。

「規定科目」と「自由科目」の2科目で構成。

初回の今回の規定科目は、「粋」と「生け花」の発表。自由科目は「共同親権」と「押し」の発表。

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以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、図解塾。先ずは久恒先生ブログの話題で肩慣らし。①Covid19に倒れた著名人、岡江久美子(俳優、タレント、2020年4月23日没、享年63)、立石義雄(実業家、2020年4月21日没、享年80)、志村けん(タレント、2020年3月29日没、享年70)、クルーズ船のケースなど当時日本国内ではまだ「他人事」だったところ、相次ぐ有名人の悲報に当時「身近に迫る恐怖」を実感。著名人の犠牲者はその後死因の公表を控えるようになったとか。身近な環境ではあの頃在宅勤務が始まり、仕事のやり方が大きく変化。社内でのマスク着用、朝会前の会議席アルコール清拭は今も継続中。②神保町「ほんまる」4月27日開店に向け書棚の準備が佳境。店内意匠は佐藤可士和氏監修との事で皆規律順守!久恒先生ご契約の棚には「アクティブシニア革命」の看板、訪れたし。③「木村伊兵衛展」恵比寿東京都写真美術館、伝説のカメラマン、報道・宣伝は勿論、スナップ・舞台芸術迄なんでもござれのマルチな活躍ぶり、貪欲なコレクションに逢いたし、嗚呼連休間近。④「橋本治展」神奈川近代文学館、『とめてくれるなおっかさん背中のいちょうが泣いている男東大どこへ行く』伝説の駒場祭ポスターの作者、こちらもマルチな才能との事、逢いたし。④久恒先生が『アクティブシニア革命』構想を図解。人生100年時代の最前線で生きるヒトは『与生』で生き抜く、『情報産業社会』(梅棹先生)と『知の再武装』(寺島先生)双方からの学びが思考のベースとなる。「学ぶ」「交わる」「表現する」「貢献する」夫々のジャンルで活躍するシニア執筆候補者へ仕掛ける『戦略』とは?取り上げるジャンルの順番・依頼する執筆のボリウム割り振りなど、「繋がり」「リズム」が重要でその為に図解を駆使した立体的な構想が不可欠(箇条書きでは考えが偏ってしまう)。年末頃の編集に向けて今の「段取り」がきっと役立つ大切なプロセス。⑤寺島先生「世界を知る力」1)岸田首相訪米で考えさせられる「日本の立ち位置」:『離島の領有権問題』『対米経済協定』『非核・平和主義の主張』どれも曖昧、明確な主張を米に示せ。沖縄に国連施設を。中国は攻撃できないだろう、2)中国の止まらない人材流出、昔からエスケープを繰り返す中国民族の歴史、3)日本人はプリンシプルをもち対米基地/地位協定問題に毅然としたビジョンを。…写真によると久恒先生図メモはA4で5枚構成、行間に余裕を取り「マル」「矢印」が明瞭で「図メモ」の体が有る。一方当方は同一内容をA4で3ページ。必死のメモ取りで字は小さく行間ツメツメ、「学級新聞」みたいな出来栄え。次回への心得は「字ズラを白く仕上げる」コト。さて、本題。「日本を知る105章」から2題。#1『いき』は当方が担当。外見の洗練というよりも日本固有の、しかも遊郭という虚構世界で発達・成長した概念が記述の背骨、外観は二の次。「遊女」が持つプライドという記述に対しては本文を読むだけでは理解できず、「大吉原展」関連の新聞記事から情報を拾い補完することにより、納得出来る図メモが出来。このような限定された世界の「美意識」の説明が本稿の大半をしめた為、恋愛スタイルの「今昔」やファッションの「東西」といった文化比較の観点で情報不足の感はありましたが「解ったつもり」でいた事柄が理解できたことは多いなる学びとなりました。#2『生け花』では、『茶道』『花器』との関連性が説かれ、『そぎ落として残ったものの美しさ』という観点から、もはや美しく見せるテクニックとま全く違う『生き方』に関わる心の有り様の重要性は先述の『いき』にも通じており『心の有り方』をどちらも追及しているという事を理解する事が出来ました。自由課題の『親権』及び『推し』については丁度話題の社会問題に関連していた為大変参考になりました、どちらの話題も「かつて存在した類似の事象」に対する変化点や背景を勘違いや思い違いする事なく明確に伝えるという観点で図解の重要性を改めて気付く事が出来ました。いよいよ連休を迎え様々な催しに足を運ぶことができる事に大変ワクワク致します。今日の学びを生かして新たな気付きが得られる様活動したいです。有難うございました。次回も宜しくお願い致します。
3人、、「久恒図解塾 M 西く 上方 smartness, stylishness, chic, elegance 日本を知る105章01 い いき 美意識 昔 江戸時代 佐伯順子 さえき じゅんこ 1961- 比较文化学者 同志社大学教授 江戸 24Apr.2024 垣内武 武 虚構世界 遊郭・ 花柳界 潔さ 社会的 地位 一 現実世界 媚態 プライド 乳前が良い 恰好良い 社会的 圧力 承認された 立場 家族の為 稼ぐ 西には 「いき」 「いき」に対応する音 葉が有るのかな? はんなり 相手に執着しない 男性社会 一期一会の関係 借金の形 西 派手な原色色彩 ごちゃごちゃした紋様 生き様にてなりきる 生き様に なりきる 惹かね もつきりした格好良さ 黒みを帯びた冷たい色調 相手と一心同体 の関係 恋愛観 ファッションのみなら 可振類い」方にも 喫響しているかも いなせ」とか・ ファッション ファ」というテキストのイラストのようです
 
 
  • 本日もありがとうございました。「日本を知る105章」の図解を作っていて、日本文化について知っているようで実は何一つ知らなかったことを思い知らされました。「いき」については、花柳界の男女のかけひきがもとになっていたのかと知るとともに、現代のファッションやしぐさにもつながっていることが分かりました。驚いたのは、「いき」は江戸(東京)だけで、上方(京都・大阪)ではまったくそういった文化がみられないということでした。これが現代まで続いているのだから、交通や通信の発達で距離感が無くなったと思われた東西の違いを改めて感じさせられました。「生け花」については、自分が図解したものを発表したのですが、朝顔が垣根いっぱいに咲いているのを全部刈り取って一輪だけ残すという感覚は、きわめて理解しにくいものですが、これこそ日本的なものだと改めて思いました。「親権」と「推し」についてもとても分かりやすい図で、よかったです。これからも楽しみです。
  • 4月の図解塾に参加させていただきました。久恒先生、皆様ありがとうございました。今回学んだ内容は、「ジャパンプロジェクト」として日本文化の紹介で、知っていると思っていた日本の文化も人の説明するとなると知らないことが多く、日本文化について詳しく知ることができ良かったです。今回紹介された内容は、「いき」と「生け花」についての紹介と、「親権」と「推し」に関して図解により紹介されました。
    「いき」については、比較文化学者の佐伯順子さんが書かれた記事が紹介されました。その中では、遊郭花柳界における美意識や上方と江戸、そして江戸時代と現代の違い、さらに男性と女性の視点の違いについて紹介されました。特に、遊郭花柳界における男性視点と女性視点の対比が興味深く、江戸時代の虚構と現実の関係がよく理解できました。「生け花」についてのお話では、日本の美意識について考えさせられました。地元の偉人である木下利玄の牡丹の花の俳句も紹介され、非常に興味深いものでした。 「親権」に関する話題も、複雑な内容でしたが、図解によって分かりやすく解説されていました。改正された「単独親権」と「共同親権」について、理解を深めることができました。最後に、「推し」についても興味深い議論がありました。このテーマは、もともと「オタク」文化から始まったということや、「推し」にまつわる様々な問題について知識を深めることができました。図解によって、複雑な内容も直感的に理解しやすくなり、他人にも説明しやすくなることを学びました。次回の図解塾も楽しみにしています。
  • 本日の図解塾「ジャパンプロジェクト」ありがとうございました。「日本を知る105章」から①「いき」と②「生け花」を図解で読み解きました。「いき」とは何ですかと聞かれると漠然とした言葉でしか答えられないところですが、図解で分かりやすくイメージしながら、新たな発見もありました。特に「いき」という言葉が生まれたのは、時代背景や土地柄などが影響していることや、それを「美意識」として形作ってしまうところに「日本的なもの」を感じました。また、「生け花」も、花そのものを愛でるというよりも、器や生ける場なども含めた全体を「生け花」と考え、精神性まで感じ取ってしまうという感覚にも「日本的なもの」を感じました。後半の自由課題の図解では「『親権』の法律改正」と「推し活」。どちらも現在の「動いてる日本」を知る上で興味深い内容でした。規定課題の「日本を知る105章」の図解と、自由課題の図解との組み合わせは、伝統的な日本と現在の日本を切り取るイメージでとても面白いと思いました。次回も楽しみにしています。
  • 今夜もありがとうございました。改めて図解はパワフルだと思いました。自分で作ろうと思うとなかなかうまくいかず。いろいろなコツを教えていただけてありがたかったです。図解力がアップしたら、文章ももっと書きやすくなりそうです。授業でも取り入れたいと思います。今夜のテーマ「いき」が関東が舞台だとしたら、関西はどうだったのかな?と思うなかで、江戸時代、関西は人形浄瑠璃では「曽根崎心中」など遊女と客の心中ものがはやったという話を思い出しました。「情」の表し方がいきとはずいぶん違うなと思いました。こんなことも考えさせてくれたのは、自由に考えらえるのは図式だからなのだろうと思いました。
  • 本日の図解塾「ジャパンプロジェクト」ありがとうございました。「日本を知る105章」から①「いき」と②「生け花」を図解で読み解きました。「いき」とは何ですかと聞かれると漠然とした言葉でしか答えられないところですが、図解で分かりやすくイメージしながら、新たな発見もありました。特に「いき」という言葉が生まれたのは、時代背景や土地柄などが影響していることや、それを「美意識」として形作ってしまうところに「日本的なもの」を感じました。また、「生け花」も、花そのものを愛でるというよりも、器や生ける場なども含めた全体を「生け花」と考え、精神性まで感じ取ってしまうという感覚にも「日本的なもの」を感じました。後半の自由課題の図解では「『親権』の法律改正」と「推し活」。どちらも現在の「動いてる日本」を知る上で興味深い内容でした。規定課題の「日本を知る105章」の図解と、自由課題の図解との組み合わせは、伝統的な日本と現在の日本を切り取るイメージでとても面白いと思いました。次回も楽しみにしています。
  • 本日もありがとうございました。今回も皆さんの近況から始まり、お決まりの久恒先生の怒涛の1週間のお話。アクティブシニア革命の全体像の図解。ありがとうございました。なかなか現実的になってきたのではないかと思います。「ほんまる」の棚がどうなるか、楽しみです。日本文化の図は、面白かったです。かっこいいのイメージをもっていた「いき」に、そんな土台の意味があったなんてびっくりでした。また、「生け花」は花で心の中を生かす、生け花。という感じでしょうか。今回は心の奥底のものを表現している日本の文化を感じました。日本には、「道」がつくものが多い。これは心の鍛錬を意味しているものが多いように感じます。また「親権」と「推し」も良くわかりました。選んでこられた題材が素晴らしいです。次回も楽しみです。日本のいろいろなことや文化に、じっくり向き合うことができて、復習もかねて、楽しんで取り組みたいと思います。
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シェア書店「ほんまる」の棚のデザインを確定。その後、本の登録を数冊済ませた。

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「名言との対話」4月24日、岡本行夫「国でも企業でも、フロンティア型人間が増えなければ進歩がありません。いかにプロアクト型人間を増やすか、というのはとっても重要なことです」

岡本 行夫(おかもと ゆきお、1945年昭和20年〉11月23日 - 2020年令和2年〉4月24日)は、日本外交評論家。享年74。

神奈川県鎌倉市藤沢市出身。湘南高校から一橋大学経済学部を卒業し外務省に入省。北米局安全保障課長、北米第一課長などを経て1991年に退官し、「岡本アソシエイツ」を経営し、硬派の外交評論家としてメディア出演などで活動しながら、外交の現場に立った。橋本内閣の総理補佐官(沖縄問題担当)、小渕内閣科学技術庁参与、小泉内閣内閣官房参与、総理補佐官(イラク復興担当)、総理外交顧問、福田内閣外交政策勉強会メンバーをつとめた。

岡本が外務省を退官したとき、JAL広報課長だった私は、外交の最前線の要職にありながらどうして辞任したのか不思議だった。今回わかったのは、デスクワークが主の管理職になって現場から離れることを嫌ったためだとわかり驚いた。また、社内でも岡本を支援する動きも知っている。

岡本行夫 現場主義を貫いた外交官』(五百旗頭真ら編)では、「官僚の仕事は課長時代が一番面白い」といい、切り込み隊でなく安全プレーをしていくのは、「自分の生き様に向いているのか。自分は燃えないのではないか」と対談で語っている。官僚に限らず、組織での仕事も一番面白いのは、課長クラスの時だ。私の場合を思い返すと、九大探検部のキャプテン時代、JALの広報課長、経営企画担当次長時代、多摩大学の学部長時代がもっとも燃えた時代だった。現場の最前線の指揮官の醍醐味を忘れることはできない。この点は岡本の生き様に大いに共感する。

民間人として自由に課題解決に愛国者として奔走する姿は、日本側だけでなく、アメリカ側からも「日米同盟の擁護者」「日米関係の巨人」と評価されている。

死後の2021年に刊行された『日本にとって最大の危機とは?』と題した講演録を読んでみた。以下、岡本行夫の言葉を拾った。

  • 国際社会で大事なことは、常に、反射的に、相手の立場に身を置くこと。
  • 案の段階から関与した人が、自分で担いで走らなければいけない
  • 日本人の国際化のために学ばなければならないと思うのは、課題設定能力です。白地のキャンパスに自生んで最初から絵を描くような構想力、設定力が世界へ打って出ていくために必要な能力だと思います。
  • 課題設定能力は、質問を積み重ねて自分が物事を相対化し、その事象を深掘りして初めてできるものです。
  • プロアクト型の人間は自分も環境の一部だとして考える、つまり自分が動けば環境も動く、上司の命令を待たず自分で自分の仕事を探しに行く。常にフロンティアを求め動く。、、、国でも企業でも、フロンティア型人間が増えなければ進歩がありません。いかにプロアクト型人間を増やすか、というのはとっても重要なことです。

相手の動きに反応するリアクションするリアクト型ではなく、常にフロンティアに立つプロアクト型人間が、岡本行夫の生き方だった。

岡本は2020年4月24日に新型コロナで亡くなった。享年は74であった。岡本は自叙伝を執筆中だった。「父母たちの戦争」「日本人とアメリカ人」「敗者と勝者の同盟」「日本の失敗とアメリカの傲慢」「イラク戦争」「難しき隣人たち」「漸進国家・日本が辿る道」という構成であった。亡くなった時点では未完だが、出版の予定となっているとのことである。

受け身の状況対応をするリアクト型の人間ばかりではなく、能動的に状況を創造せんとするプロアクト型の人間を養成することが重要だという岡本行夫の指摘には大いに賛成だ。与えられた仕事に従事するのではなく、自らフロンティアに立ち、組織や集団の本質的な課題を設定し、その課題解決のために走り回る。既成概念を打ち破る。それが本当の仕事というものなのだ。

 

 

 

 

 

 

NHKテレビテキスト『内村鑑三 代表的日本人』を読んで。

内村鑑三『代表的日本人』は西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮を取り上げた英語の書である。NHKテレビテキスト『100分で名著 内村鑑三 代表的日本人』を読んだ。

原型は1894年の『日本及び日本人』で、その人物論のみの改版として1908年に出版されたのが『代表的日本人』である。他者の伝記のかたちをした内村鑑三の精神的自叙伝でもある。1894年の講演録『後世への最大遺物』の下巻的位置づけだ。

アメリカの哲学者・エマソン『代表的人間像』ではプラトン、スエーデンボルグ、モンテーニュシェイクスピア、ナポレオン、ゲーテの6人を取り上げている。それに倣ったものだ。

内村鑑三の思想。

  • 人間の生涯とはこの世だけのものではなく、死んだ後も持続する。人間は永遠なる存在である。
  • 人間が何かをするのではなく、人間は無私になって天の道具になるのがもっとも美しい。
  • 使命は一人の個人で完成されることはなく、必ず受け継がれる。「私」の使命ではなく、「私たち」の使命である。
  • 人間における「樹木的成長」。種は光と水と時の力が加わって。いずれ木になる。果実を食べた者がその木が何であるかを知る。
  • 人生とは業績ではなくて、その過程すなわち生きる事への態度におてのみ測られる。
  • 「生涯」はいつも個に始まり、個には終わらない営み。未知の他者とともに創造的な営みに従事する。

私たちには、自分の生涯を書くことができます。さらに私たちは自分の「代表的日本人」を書くことができます。書かれた言葉は読まれることによって完成に近づき、さらに書かれることによって変貌していきます。

「余の愛する者は生涯の目的を達せし者なり。彼の宇宙は小なりき。されどもその小宇宙は、彼を霊化し、彼を最大宇宙に導くの階段となれり」(「キリスト信徒のなぐさめ」)。ここでいう「彼」は内村は妻のことを言っているのだが、それは「真面目なる生涯」を送った人々のことである。

さて、私が「幸福塾」で始めた「新・代表的日本人」シリーズと、「図解塾」で始めた「図解ジャパン」プロジェクトを合わせて、「日本・日本人」が究極のテーマとなったのだが、それは日蓮中江藤樹上杉鷹山二宮尊徳西郷隆盛を100年前に内取り上げた内村鑑三の後を継いでいることになることを発見した。この代表的日本人たちは、孔孟の教えを代表とする中国の影響を多分に受けている。つまり東洋思想を体現した人物たちなのだ。

そして内村と同じように、近現代を対象とする「新・代表的日本人」シリーズとその基礎資料となっている「名言との対話」は、私の自伝的、精神的要素も含んでいる。内村鑑三は私の先達である。

この学びは、内村が参考にしたエマソンの『代表的人間像』につながっている。日本人の研究が西洋のプラトン、スエーデンボルグ、モンテーニュシェイクスピア、ナポレオン、ゲーテという西洋の歴史に登場する偉大な人間像につながっているのだ。

「使命は一人の個人で完成されることはなく、必ず受け継がれる。「私」の使命ではなく、「私たち」の使命である」という内村鑑三の言葉の通りだ。

東洋と西洋の人類全体の人物と思想、人間の生き方の研究の流れの中に今の私の日々があることを認識するいい機会になった。

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朝:寺島さんから電話:近況の交換。近々、会うことになった。

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「名言との対話」4月23日。岡江久美子「人と関わるだけで、自分が生きてる証が残っていく」

岡江 久美子(おかえ くみこ、1956年昭和31年〉8月23日 - 2020年令和2年〉4月23日)は、日本女優タレント司会者

東京都出身。1975年、18歳TBSドラマ『お美津』でデビュー。1978年から5年間、『連想ゲーム』の赤組」レギュラー解答者。白組のレギュラー解答者の大和田獏と結婚。

1991年から1999年の『天までとどけ』では母親役を演じた。

1996年から2014年までの17年半、朝の『はなまるマーケット』の総合司会を薬丸裕英と二人でつとめ、全国に知られる。放送ウーマン賞を受賞。

2020年4月3日、新型コロナの疑いを受ける。6日、容態が急変。集中治療室に入り人工呼吸器を装着。8日、PCR検査で陽性。23日に死去。6日から17日間、家族は接触はできなかった。全国的に顔を知られた女優の新型コロナによる63歳の死のニュースは、衝撃を与えた。

その一月前の2020年3月29日に新型コロナでコメディアンの志村けんが亡くなった。1950年生まれの志村の場合は3月15日から体調に異変があり、陽性と判断されてエクモを装着するも29日に亡くなった。新型コロナによる70歳の志村けんの死去は国内外に衝撃を与えた。

志村と岡江の二人の死は、新型コロナの恐怖を身近にした。その後、2020年には経済界も含めて数人の著名人が亡くなったが、それ以降は死因は明らかにされていないようで、調べてもわからなかった。報道上の配慮があったのだろう。

私の母の場合は、ワクチンを打って数日後に体調が急変し、その10日後の2021年6月21日に94歳で亡くなった。死因は別のものだったが、私は今でもワクチンの影響だったのではないかと疑っている。

健康オタクであった岡江久美子は、明るい性格と人懐っこい笑顔が印象的な女性だったが、新型コロナによるごく初期の感染による死亡であったため、その名前が国民の記憶に象徴的に深く刻まれることになった。