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2016-09-12 慈悲型資本主義 ダイジェスト

慈悲型資本主義 ダイジェスト 慈悲型資本主義 ダイジェストを含むブックマーク 慈悲型資本主義 ダイジェストのブックマークコメント

1 世間エコノミー


世間なんて倫理はいまだにあるのか、古くさいという考えはあるが、実際は日本人は法よりも、世間に訴えることが多い。世間正義があり、法さえ超えて、日本人を正しく導くと考える。西洋国家市民もいう対立構図が日本にないのは、世間では一体だから首相だろうが、世間の一員で、最後世間のために働く。首相と言っても、一時期の職分で、おおもとは世間の一員で、世間に反すれば、家族一族さらに子々孫々に制裁を受ける。

世間日本人だけの独特な倫理圏。今でも、「世間体を考える」、「世間が許さない」、「世間のみなさまにご迷惑をかけて申し訳ありません」など、日本人は語る。世間とはもともと仏教用語で、世界のこと。外はない。仏教的な倫理が共有されているだろう世界。おそらく世間が今のように、日本人全体のように考えられるのは、近代ネーション形成混同されてからだろう。

世間とは慈悲圏。慈悲とはエコノミーであり、より身近でないものに多くを与えること。ミウチよりセケンのために。日本人職場家族写真を飾らないのは、ソトにミウチを持ち込み自慢することだから。ウチよりソトを重視する姿勢が慈悲の善。ベタに言えば、武士がお家のために自分を、家族犠牲にするまで、溯れる。

贈与交換は、信頼できる身内で貸し借りとして働いた。慈悲は、贈与交換を身内から世間に広げたものと考えれば良い。いつか返ってくるためには、みんなが返ってこないことを覚悟で与えなければならい。一人でも身内だけのことだけ考えたら、返ってこなくなってしまう。みんなが返ってこないことを覚悟に知らない人に与える集団、それが世間である




2 世間歴史


近代化で失われたが、江戸時代日本人仏教価値観の中でも生きていた。仏教信仰するか、どうか以前に、それしか考え方がなかったから。慈悲は常識だった。

鈴木正三は、まさにその時代に慈悲による死後も安定を説くが、その天才は、慈悲を、職を通して可能にしたことだ。だれもがもつ職を通した慈悲を可能にし、職分網として世間を作り出した。

から日本人宗教がない、の意味は、正確には都市化市場経済化しているにもかかわらず、世界宗教必要としないということの不思議仏教も、世界宗教による救済ではなく、生活慣習の一部に吸収してしまった。慈悲は救済より、エコノミーとして、気づかないうちに働いている。なぜ日本人世界宗教による救済なく平気なのか?ある意味、いまだに、土着民だから島国の閉鎖空間、擬似単一民族世間という暗黙の共同体倫理作動しているから

どの仕事もみな仏道修行である。人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである仏道修行で無い仕事はあるはずがない。一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。鍛冶・番匠を始めとして諸々の職人がいなくては世の中の大切な箇所が調わない。武士がなくては世が治まらない。農人がいなければ世の中の食物が無くなってしまう。商人がいなければ世の中の[物を]自から移動させる働きが成立しない。このほかあらゆる役分として為すべき仕事が出てきて世の為となっている。天地を指した人もいる。文字を造り出した人もいる。五臓を分けて医道を施す人もいる。その種類は数えきれないほど現れて世の為となっているけれど、これらすべて一仏の功徳の働きである。このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えている本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである自身とはつまりであるから、仏の心を信じるべきである

万民徳用 鈴木正三




3 弱者救済改善


西洋人の慈愛は、弱者救済という目的が明確であり、機能的であり、古い伝統がある。事前事業ボランティアなどの近代的な弱者救済は、キリスト教文化からきて、機能的に運営されて、効果を上げている。しか日本人の慈悲は、生活の中で埋め込まれて、生活全体を慈悲で満たし快適にしているが、弱者救済という強い目的意識はなく、機能的とは言えない。このために、日本でも、ボランティアなどのキリスト教文化によって、活動されている。

ようするに、別物として作動している。では日本の慈悲が世界的な貢献がないかといえば、日本製品が慈悲という日本生活から生まれて、世界の人々もまた豊かにしている。慈悲と知らされずに、生活レベルで貢献している。




4 欲望資本主義西洋式)と慈悲型資本主義日本式


日本人の慈悲型資本主義とは、売手と買手のウィンウィンだけでなく、世間のウィンも重視する経済。すなわち買手のための商品ではなく、世間のための商品である

世間という倫理とは、慈悲である顧客とは、最も買ってくれそうな人であるが、慈悲とは、最も買わなさそうな人に買ってもらえるようにすることだ。

欲望資本主義西洋式

 消費者欲望を想起させ続ける。欲望とは他者欲望への欲望であり、終わりがない。主体欲望論。

慈悲型資本主義日本式

 求めていないと人のためにこそ、利便性提供する。買った人は求めた人になり、さらに求めていない。人が生まれ、終わりがない。集団的充足論




5 サービスと慈悲


サービスとは、自由主義経済では、等価交換される商品のことであるしか日本語では、かたや「サービスする」というように、商品につくオマケと意味が強い。この意味は、慈悲行との関連が強い。慈悲行における商品の以上の価値、売り手と買い手の等価交換を超えた、世間よし!が、自由主義経済の導入時に、サービスと混乱した。

これは、日本経済成長の大きな武器となった。日本製品には、等価交換を超えた価値サービスされるんだからお得である。それは、オマケされる商品という狭い意味ではなく、品質であったり、改善であったりする。日本製品の高品質付加価値サービスである

しか問題は、第三次産業化により、サービスそのもの商品となったときに、混乱を起こしている。たとえばサービスはただであるという勘違いが、商品としてのサービス販売を妨げる。西洋サービス価格が相関しているのに対して、日本ではおもてなしといって、曖昧で、消費者は安い価格でも、平気で高品質サービスを求める。そしてサービスが悪いと文句をいう。特に有名なものが、感情労働であるサービスはただだと思って無理難題をふっかけてくる。特に学校先生医療でよくある。

たとえばサービス残業も、この問題では重要である。なぜなら、サービス残業が、サービスされる高品質や高機能を支えていたことは否めないからだ。労働という商品にもサービスはつく。我よりも会社のため、さら世間のために、ただで働くことが慈悲行であるからだ。




6 IoTと慈悲


ガラパゴス化などで象徴されるように、日本人ITに失敗した。失敗の一つの理由は、慈悲故にITによって、サービスの質が落ちることを、売手も、買手も見過ごせなかった。世間が許さなかった。

では得意の製造業ITが融合した「IoT」の領域ではどうか?ものインターネットは、人のコミュニケーション以前なので、慈悲型商品によって、また日本人の優位が戻ってくるかもしれない。すなわちサービスコストランクにするのではなく、誰にも等しく、安価サービス提供できる。ここで慈悲は、おもてなしという高度なサービス安価提供できる可能性がある。

IoTが普及した世界でいうモノとは、ユーザーからするとモノであることを忘れさせ(そもそもモノであるかどうかさえ気にならなくなり)、モノが自律的判断した上で、全体の中で最適な制御を行うようになると言えます。これをモノのスマート化と捉えています。P45

IoTまるわかり 三菱総合研究所編 日経文庫 ISBN:453211344X




日本人の慈悲型資本主義とは?(散文)

 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160906#p1

Iot日本人の慈悲を世界に発信する装置になれるか 慈悲型資本主義その2

 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160907#p1

いまも世間は強力な力をもつ 慈悲型資本主義 その3

 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160909#p1

日本人世間エコノミー 慈悲型資本主義 その4

 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160910#p1

なぜ日本人世界宗教による救済なく平気なのか? 慈悲型資本主義 その5

 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160911#p1

2016-09-11 なぜ日本人は世界宗教による救済なく平気なのか?

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世界宗教


ユダヤ教ユダヤ人選民思想ユダヤ教の一派のキリストユダヤ人以外にも解放して、世界宗教になった。バラモン教は上層の司祭バラモンのみが解脱できる。バラモン教の一派の仏陀が誰でも修行によって解脱できると、世界宗教になった。

仏陀、その継承小乗仏教は、出家して厳しい修行によって、解脱できる。大乗仏教在家を認め、全員一斉解脱を目指して、菩薩たちの解脱せずに人々の救済を目指す。出家の仏行も慈悲行などいろいろ必要だったが、中国を経て、東洋の終わり日本親鸞でとうとうただ念仏を唱えるだけで救済されるまで簡単に行き着く。




世界宗教商品等価交換の深い関係


日本仏教商売関係は深い。寄進されて大量の領地をもってたお寺は日本有数の大富豪だったし、日本ネットワーク商売して、中国とのネットワークで大もうけとか。権力問題だろう。権力は金になる。

しかしそれ以上に、世界宗教商品等価交換には、深い関係がある。キリスト教しかり、仏教しかり、最初世界宗教を指示したのは、都市層ということ。農村では自給自足、再配分(権力者による税の徴収)が中心部だが、都市層では商売が発展し、商品等価交換が活発に富裕層が生まれた。日本でも鎌倉時代以降に、仏教庶民に普及し始めるが、それは貨幣経済が発展する時期など重なる。

世界宗教等価交換経済類似はすでにいろいろ類似されている。

贈与交換、再配分→商品等価交換

土着宗教世界宗教

簡単に言えば、商品等価交換による都市化により、都市から切り離された人々が、土着宗教から離れた世界宗教を指示し、求めた。もともと土着宗教呪術的で、土地に埋め込まれていた。生活と一体で、教義も明文化されず、多神教でその土地で生まれ生きる人しか、入れない。都市部の人々は、誰でも入れる救済を望んだ。誰でも入れるためには、生活と切り離された、しっかりした教義必要だ。




なぜ日本人世界宗教による救済なく平気なのか?


から日本人宗教がない、の意味は、正確には都市化市場経済化しているにもかかわらず、世界宗教必要としないということの不思議仏教も、世界宗教による救済ではなく、生活慣習の一部に吸収してしまった。慈悲は救済より、エコノミーとして、気づかないうちに働いている。なぜ日本人世界宗教による救済なく平気なのか?ある意味、いまだに、土着民だから島国の閉鎖空間、擬似単一民族世間という暗黙の共同体倫理作動しているから

2016-09-10 日本人の世間のエコノミー 慈悲型資本主義 その4

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現代エコノミー全体像


資本主義社会なので、エコノミーの基本は、商品等価交換市場自由競争によって、経済発展し、豊かになった。しか自由競争だけでは、上手くいかない。「再配分」国家は、インフラ整備で、経済発展を助けて、また自由競争でこぼれ落ちた弱者を、富の再配分で救済する。もっと生活レベルでは、「贈与交換」が身内や近所の助け合いもまた補完的に働く。そして、さら弱者には即効的に、強者から「慈愛」弱者救済ボランティア炊き出しなどの救済が行われる。これらがエコノミー全体像だ。

交換様式


商品等価交換

再配分

贈与交換

慈愛




世間バッシングするエコノミー


日本人には、エコノミーとして「慈悲」による世間が働いている。贈与交換は、信頼できる身内で貸し借りとして働いた。慈悲は、贈与交換を身内から世間に広げたものと考えれば良い。贈与交換では身内なので貸せばいつか返ってくる。しかしそれを世間に広げれば、知らない人たちなので、貸しても返ってくる保証はない。だから返ってこない覚悟で与えなければならない。しかしみんながそうすればいつか回りまわって返ってくる。いつか返ってくるためには、みんなが返ってこないことを覚悟で与えなければならい。一人でも身内だけのことだけ考えたら、返ってこなくなってしまう。みんなが返ってこないことを覚悟に知らない人に与える集団、それが世間である

これが可能なのは日本特殊事情による。島国という閉鎖空間、擬似的な単一民族であること。仮に誰かがずるをしても逃げられない。身内に、そして祖先、子々孫々まで世間は忘れない。だから逃げるのが難しい。だから日本人はみな世間のために貢献する。天皇重要であるのは世間象徴からだ。天皇祖先、子々孫々と安定して続いていることは、世間機能していることだ。




職分を通して行う慈悲を行う世間


実際、貴族層以外、系譜は怪しい。寿命も短く、安定的結婚制度もない。家系が安定するのは、江戸時代前後だ。だから世間成熟したのも江戸時代だが、天皇が太古から続いていること、それが安定的系譜があったよう、さらに続くように見せる。江戸時代世間の成形に慈悲の貢献は大きい。

戦国時代イメージと違い、戦国時代は、貨幣経済が広がり、古い荘園による拘束が崩れて、農民たちが自立し、土地根付いて系譜が続き始めた。すると、死後の安楽を求めて、葬儀が営まれて、墓が作られ、極楽にいくことをのぞみ信心する。鈴木正三は、まさにその時代に慈悲による死後も安定を説くが、その天才は、慈悲を、職を通して可能にしたことだ。だれもがもつ職を通した慈悲を可能にし、職分網として世間を作り出した。

どの仕事もみな仏道修行である。人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである仏道修行で無い仕事はあるはずがない。一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。鍛冶・番匠を始めとして諸々の職人がいなくては世の中の大切な箇所が調わない。武士がなくては世が治まらない。農人がいなければ世の中の食物が無くなってしまう。商人がいなければ世の中の[物を]自から移動させる働きが成立しない。このほかあらゆる役分として為すべき仕事が出てきて世の為となっている。天地を指した人もいる。文字を造り出した人もいる。五臓を分けて医道を施す人もいる。その種類は数えきれないほど現れて世の為となっているけれど、これらすべて一仏の功徳の働きである。このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えている本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである自身とはつまりであるから、仏の心を信じるべきである

万民徳用 鈴木正三

2016-09-09 いまも世間は強力な力をもつ 慈悲型資本主義 その3

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世間の強力な実行力


世間なんて倫理はいまだにあるのか、古くさいという考えはあるが、実際は日本人は法よりも、世間に訴えることが多い。世間正義があり、法さえ超えて、日本人を正しく導くと考える。西洋国家市民もいう対立構図が日本にないのは、世間では一体だから首相だろうが、世間の一員で、最後世間のために働く。首相と言っても、一時期の職分で、おおもとは世間の一員で、世間に反すれば、家族一族、さらに子々孫々に制裁を受ける。世間はこのような物理的な実行力を持つから強い。ベッキー世間的に抹殺されて、家族も苦しい思いをしているだろうし、このまま結婚して子供を産めば、子供はずっと後ろ指を指されつづける。

その意味では、テレビ世間日本人全体に広げて、倫理を調整するのに役立った。現代ではネットしかり。ネットグローバルのようでローカル日本語圏で閉じている。でもネット分散的で、共有性が低い。だから炎上させて、テレビなどマスコミに取り上げてもらい、また炎上する、それをテレビネタにするというメディア圏として働く。




ネーション世間


ネーション世間の違いはなにか?ネーション近代グローバル化の中で、各国の富国強兵が目指される中で、国に生まれた「想像の共同体」。ナショナリズム。主に国の標準語国語教育で生まれたと言われる。

世間日本人だけの独特な倫理圏。今でも、「世間体を考える」、「世間が許さない」、「世間のみなさまにご迷惑をかけて申し訳ありません」など、日本人は語る。世間とはもともと仏教用語で、世界のこと。外はない。仏教的な倫理が共有されているだろう世界。おそらく世間が今のように、日本人全体のように考えられるのは、近代ネーション形成混同されてからだろう。




極楽地獄世間


では、世間倫理とはなにか?なにを基準善悪を決めるのか。その基本は、近代以前に、日本人倫理基準だった仏教の無我であり、慈悲。世間とは慈悲圏。慈悲とはエコノミーであり、より身近でないものに多くを与えること。ミウチよりセケンのために。日本人職場家族写真を飾らないのは、ソトにミウチを持ち込み自慢することだから。ウチよりソトを重視する姿勢が慈悲の善。ベタに言えば、武士がお家のために自分を、家族犠牲にするまで、溯れる。

近代法と異なる倫理が、各国にもあるだろう。それぞれのローカル倫理の中で、日本人世間特殊だ。すなわち日本人という特徴を最も表している。国の倫理には、国の倫理統一することの難しさがある。多くの国は多民族、他宗教で、倫理統一が難しいから、国の中でも、バラバラだか、だからこそグローバルスタンダードな近代法重要となる。

日本は、宗教なく、擬似的単一民族で、江戸時代から日本人に共有された世間の倫利がある。だから近代法と並列に存在しても、みんな納得する。すなわち江戸時代から仏教倫理の慈悲が生き残っている。

世間とは慈悲のエコノミー圏だから、より知らない人により多くを与えることを善とする。このエコノミー圏が成立したのは、江戸時代。寺請け制度で、日本人は必ずどこかのお寺の檀家にならなければならない。キリシタン排除の、実質の戸籍制度。総仏教徒化。そして慈悲の倫理教育されて、エコノミー圏としての世間が成立した。

これは江戸幕府強制というより、日本人死生観関係する自主的もの。人は死ねば、極楽地獄かにいく。極楽に行きたければ慈悲を行え。現代と違いは、死んだらなにもないなんて考えられない時代。誰もが極楽地獄を信じている。葬式仏教の普及。近代化で失われたが、江戸時代日本人仏教価値観の中でも生きていた。仏教信仰するか、どうか以前に、それしか考え方がなかったから。慈悲は常識だった。




「いつまでいっていても仕方のないこと 。早く早く殺して殺して 」と 、最期を急げば 、「承知した 」と 、脇差をするりと抜き放し 、 「サアただ今だ 、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 」といっても 、さすがにこの年月 、いとしい 、かわいいと 、抱きしめて寝た肌に刃が当てられようかと 、眼もくらみ 、手も震えて 、弱る心を引きしめ 、取り直してもなお震え 、突こうとはしても 、切っ先はあちらへはずれ 、こちらへそれ 、二 、三度ひらめく剣の刃 、あっと一声だけ上げたお初の喉笛にぐっと通るや 、「南無阿弥陀 、南無阿弥陀南無阿弥陀仏 」とえぐり通し 、えぐりつづける徳兵衛の腕先も弱ってゆく 。弱りきったお初を見ると 、両手を伸ばし 、断末魔四苦八苦 、哀れといってもいい尽くせない 。「自分とても遅れようか 。息は一度に引き取ろう 」と剃刀取って喉に突きたて 、柄も折れよ 、刃もくだけよとえぐり 、ぐりぐりえぐりつづけると 、目もくらみ 、苦しむ息も 、暁の死ぬべき時刻をむかえて絶えはてた 。誰が告げるとはなく 、曾根崎の森の下風に乗って噂が伝えられ 、広まりつづけて 、身分の高下にかかわりなく大勢の人たちの回向を受けて 、未来成仏疑いのない恋の手本になった 。


曾根崎心中 冥途の飛脚 心中天の網島 近松門左衛門 角川ソフィア ISBN:4044011036<<

要するに、西鶴が(永代蔵で)いうには、この世にある願いは、人の命をのぞけば、金銀の力でかなわないことはない。夢のような願いはすてて、近道にそれぞれの家業をはげむがよろしい。人のしあわせは、堅実な生活ぶりにある。つねに油断してはならない。ことに「世間」の道徳第一として、神仏をまつるべきである。これが、わが国の風俗というものだ、ということである。そもそも商売は、町人にとって生涯の仕事であり、親子代々に伝える家業であった。西鶴は、自分家業との関係において、家業にはげみ、諸事倹約まもるこの必要性を説くいっぽう、<家業>と<世間>との関係において、「世間」の道徳にしたがうことの必要性を説いているのである

・・・西鶴作品には、「世間」を道徳基準のよりどころとするような表現がなんと多いことであろうか。たとえば「世間並に夜をふかざす、人よりはやく朝起して、其家の商売をゆだんなく、たとへつかみ取りありとも、家業の外の買置物をする事なかれ」、というふうにである。P60-66


世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫  ISBN:406159852X