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2016-07-15 テスト<夏休み特別企画> 日本人として必ず読んでおくべき思想

テスト<夏休み特別企画> 日本人として必ず読んでおくべき思想本10選 テスト<夏休み特別企画> 日本人として必ず読んでおくべき思想本10選を含むブックマーク テスト<夏休み特別企画> 日本人として必ず読んでおくべき思想本10選のブックマークコメント

慈悲 (講談社学術文庫)

慈悲 (講談社学術文庫)

内容(「BOOKデータベースより)

友愛の念「慈」、哀憐の情「悲」。生きとし生けるものの苦しみを自らのものとする仏の心、そして呻きや苦しみを知る者のみが持つあらゆる人々への共感、慈悲。仏教根本、あるいは仏そのものとされる最重要概念精緻分析釈迦思惟探究し、仏教精神社会的実践の出発点を提示する。仏教の真髄と現代的意義を鮮やかに描いた、仏教学不朽の書。

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慈悲は遠く、古い理想ではない。日本仏教が伝来して以来の千五百年の歴史の中で日本人に住み着いている。世界的に不思議民族と言われる日本人特性の多くは慈悲から来ている。

内容(「BOOKデータベースより)

民主主義を支えるのは、自発的社会的責任意識であろう。江戸時代の人々は、それを「役」と表現し、現代役人役員の語につながる。民主主義近代の一つの特色であるとすれば、日本近代江戸時代に始まっていたのではないか。この新しい視点から日本近世近代多角的考察する。

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 名論「日本における国民宗教の成立」

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

内容(「BOOKデータベースより)

日本人宗教死生観について考えるとき、すぐに仏教連想され、戦前はもちろん、戦後もしばらくは影響力を保っていた儒教などは、もはや消え去ったと思われている。しかし、実はそうではない。私たち宗教感覚の深層には、生命連続を重んじる儒教が伏流となって流れているのである。それは、たとえば仏教独自のものと思われているお墓や位牌、祖先を祀る儀礼などの中に見ることができる。儒教道徳性宗教性関係、その構造世界観の紹介と分析を通して、日本人儒教の深い結びつきを解き明かす。

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逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

内容(「BOOKデータベースより)

「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間生存をできうる限り気持のよいものにしようとする合意とそれにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ」近代に物された、異邦人によるあまたの文献を渉猟し、それから日本が失ってきたもの意味根底から問うた大冊。1999年和辻哲郎文化賞受賞。

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葬式仏教の誕生?中世の仏教革命 (平凡社新書600)

葬式仏教の誕生?中世の仏教革命 (平凡社新書600)

内容(「BOOKデータベースより)

日本では中世まで、亡くなった人は、河原や浜、道路わきの溝などに捨てられていた。死は穢れとして、忌み避けられていたからだ。そんななか、人々が弔いを託したのが仏教である葬式と、墓石を建てる習俗起源を探りながら、日本人仏教に求めたことと、仏教が果たした意義を探る。

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「清浄の戒は汚染なし」

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

内容(「BOOKデータベースより)

日本農業中心社会だったというイメージはなぜ作られたのか。商工業者芸能民はどうして賤視されるようになっていったのか。現代社会の祖型を形づくった、文明史的大転換期・中世。そこに新しい光をあて農村を中心とした均質な日本社会像に疑義を呈してきた著者が、貨幣経済階級差別権力信仰女性地位、多様な民族社会にたいする文字資料の有りようなど、日本中世真実とその多彩な横顔をいきいきと平明に語る。ロングセラーを続編とあわせて文庫化

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内容紹介

中国朝鮮との関係を見つめ、記紀神話の敗者に寄りそう――弱い者の立場に立つ“上田史学”の集大成古代史とは「日本」の深層を探ること――日本という国号はいつ成立したのか? 大王家はなぜ天皇へと変わったのか? 万世一系に断絶はなかったのか? そして最大の謎、『古事記』は果して偽書なのか? 縄文以前から国家としてのシステムが整う天武・持統朝まで、通史として俯瞰し見えてくる新たな歴史像!

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参照 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20151106#p1

日本倫理思想史(二) (岩波文庫)

日本倫理思想史(二) (岩波文庫)

内容(「BOOKデータベースより)

古代から近代に至る倫理思想の展開と社会構造の変遷を、壮大なスケールで描いた和辻哲郎の主著。本巻で扱うのは、平安末から鎌倉室町にかけての武家が台頭する時代武士主従関係を支えた「献身道徳」「神国思想」、鎌倉仏教に顕著な「慈味の思想」など、軍記物語謡曲視野に入れつつ、当時の倫理思想抽出する。全4冊。

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日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

内容(「BOOKデータベースより)

同じ仏教でもインドとも中国とも異なる日本仏教は、どのような変化を遂げて成立したのだろうか。本書では6世紀中中葉に伝来して以来、聖徳太子最澄空海明恵親鸞道元日蓮など数々の俊英、名僧によって解釈修正が加えられ、時々の政争時代状況を乗り越えつつ変貌していった日本仏教本質精緻検証。それは我々日本人思想の核を探る知的興奮に満ちた旅でもある。

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本覚思想、草木成仏思想

人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)

人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)

内容紹介

増加と停滞を繰り返す、4つの大きな波を示しつつ、1万年にわたり増え続けた日本人口。そのダイナミズム歴史人口学によって分析し、また人々の暮らしの変容と人生をいきいきと描き出す。近代以降の文明システムのあり方そのものが問われ、時代は大きな転換期にさしかかった。その大変動のなか少子高齢化社会を迎えるわれわれが進む道とは何か。(講談社学術文庫)

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参照 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20160331#p1

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2016-07-06 [お勉強]宗教で読む戦国時代 神田千里 講談社選書メチエ

[]宗教で読む戦国時代 神田千里 講談社選書メチエ ISBN:406258459X 宗教で読む戦国時代 神田千里 講談社選書メチエ ISBN:406258459Xを含むブックマーク 宗教で読む戦国時代 神田千里 講談社選書メチエ ISBN:406258459Xのブックマークコメント

このような「天道」の観念を表明したものとして、小田原城本拠地として関東支配した北条氏の始祖、北条早雲の遺訓として伝えられた「早雲寺殿廿一(じゅういち)箇条」がある。

・・・まずここに記された「天道」の観念の四つの要素に注目したい。これは神仏への礼拝について述べているものであるが、第一に「仏意冥慮に適」い「神明加護」を願い、「天道に放され」ないよう慎むべしとあるように、「天道」が人間恩寵や冥罰を与える超自然存在であるとの認識である。第二に「仏意冥慮」や「神明加護」に言及しているように、神仏への信仰を重視していることである。第三に「正直・憲法にして、上たるをば憐れみとあるように、正直、公正、上下関係への配慮など、ほとんど宗教色のない世俗的な道徳が重視されている点である。第四に「祈るとも心曲がらば、天道に放され申さん」とあるように、神仏との関わりは、外面の形式ではなく内面倫理を重視していることである。P53-54


宗教で読む戦国時代 神田千里 講談社選書メチエ ISBN:406258459X

曹洞宗の松堂高盛は、いわゆる「明応の大地震」と呼ばれている、明応七年(一四九八)の大地震に際して、それに対処することを信徒に説いた法語を述べている。・・・僧侶の身であれば三宝帰依して修行に励み、戒律を守るべきこと、在俗の身であれば、内面仏法を深く信じ、外では儒教道徳を学んで仁・義・礼・智・信の「五常」を実践すべきである、というのである

一方、本願寺蓮如はどう説いたか。「仁義礼智信」すなわち五常を守り、「王法」すなわち世俗支配者の法を尊重し、「内心には本願他力の信心」に基づくべし、とか、先ず「王法」に基づいて、「仁義」を第一に考え、「世間通途の儀」、いわば世俗道徳に基づいて行動せよ、そして「当流安心」すなわち真宗信仰は「内心」に深く蓄えて、外面には出さず、「他宗」の人々には目立たないようにせよ、などの教説が「御文」に散見される。

・・・こうしてみると、日本仏教宗派の少なくとも一部は、仏法世界世俗世界区分する、すなわち聖俗を棲み分けるという枠組みで共通しており、その枠組みは「天道思想と一致していると想定することができよう。P85-86


宗教で読む戦国時代 神田千里 講談社選書メチエ ISBN:406258459X

戦国時代」の名称にふさわしく、各地でそれぞれの大名独自権力をもち、固有の大名領国が形成されているにもかかわらず、その価値観内面世界においては、驚くべき整然とした秩序が存在したことである

天道」の観念が上は天皇から下は雑兵に至るまで浸透しており、彼らを門徒・檀徒として組織していた仏教の諸宗派は、世俗世界儒教的倫理尊重するとともに、個々人の内面世界では宗派固有の信仰を主張するという棲み分け論理、いわば「政教分離」ともいうべき論理を共有していた。そして寺院僧侶・檀徒を支配する大名たちは、原則的に諸宗派共存と、信仰世界と俗的な支配との両立を原則としていたのである

こうしたかなり整然とした観念の秩序は、豊臣秀吉宗教政策や、秀吉外国に表明した宗教観にも共有されているものである。例えば豊臣秀吉天正十五年(一五八七)に発令したキリシタン取締り令と、伴天連追放令とを想起したい。まず一般人の信じる宗派は「八宗九宗」の儀であり自由であること、人々の信じるさまざまな神仏を尊重する「神国」の中で他宗派武力攻撃し、信仰強制するキリシタンは「邪法であることが表明されていた。これは、当時の信仰に関する支配的な理念とも合致している。

・・・さらに豊臣秀吉インドポルトガル総督に対して天正一九年(一五九一)に書翰を送っているが、その中で「日本神国である」として次のように述べている。神は森羅万象の根源であり、これが「竺土(じくど)」すなわち仏教発祥の地天竺にあっては「仏法」と呼ばれ、中国にあっては「儒道」と呼ばれ、日本にあっては「神道」と呼ばれる。だから日本の「神道」を知れば、すなわち「仏法」を知り、「儒道」を知ることになるのだ、と。

・・・少なくとも豊臣政権宗教政策宗教観の表明には、当時の日本人の集合心性ともいうべき観念を色濃く反映している。

・・・自分の有する信仰や、自分の属する宗派キリスト教徒の対抗関係において、みずからのものを「日本」のそれとして識別する観念は、当時の日本人にあって特に珍しいことではなかった。言い換えれば彼らは、自分たち信仰宗教心を、「日本」という国家との関係位置づけ、「日本」に住む「日本人」という自己認識と密接に関わらせて考えていたということができよう。P209-213


宗教で読む戦国時代 神田千里 講談社選書メチエ ISBN:406258459X


職人質問して言うには、「後世菩提[を願って修行すること]が大切だというけれど、家業を営むのが忙しく、昼も夜も世渡りの稼ぎをするばかりです。それなのに、どうやって悟りに至るのでしょうか。」答えて言う。「どの仕事もみな仏道修行である。人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである仏道修行で無い仕事はあるはずがない。一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。仏の身体を受け、仏の本性が備わっている人間が、心得が悪くてすき好んで悪道地獄餓鬼畜生)に入るべきではない。

本覚真如の一仏が百億に分身して世の中を利益なさっている。鍛冶・番匠を始めとして諸々の職人がいなくては世の中の大切な箇所が調わない。武士がなくては世が治まらない。農人がいなければ世の中の食物が無くなってしまう。商人がいなければ世の中の[物を]自から移動させる働きが成立しない。このほかあらゆる役分として為すべき仕事が出てきて世の為となっている。天地を指した人もいる。文字を造り出した人もいる。五臓を分けて医道を施す人もいる。その種類は数えきれないほど現れて世の為となっているけれど、これらすべて一仏の功徳の働きである。このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えているというのに、この道理を知らずに自分から自分の身を貶しめ、悪心や悪業に夢中になり、好んで悪道に入っているのを迷いの凡夫というのである過去現在未来三世に諸々の仏が現れて、衆生則仏成事(生きとし生けるものがそのまま仏であること)を直接にお示しになった。[私たちが]眼に形を見、耳に音を聞き、鼻に香りを嗅ぎ、口にものを言い、[心に]思うことという自からの働きを為す、手自らの働き、足自からの働き、これらはすべて一仏の自らなる働きである

そうであるから、後世を願うというのは、自身の身を信じることが本意である。本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである自身とはつまりであるから、仏の心を信じるべきである。仏には欲心がない、仏の心に瞋恚(しんい)はない、仏の心に悪事はない。このような道理を信じないで、勝手に貪欲を作り出し、瞋恚を出し、愚痴に溜まり、日ごと夜ごとに自我への執着、自我への慢心、邪まな偏見妄想を主人として、それらに随って苦痛や悩乱の心の休む時がない。本から備わる自らの本性を失って、一生空しく大いなる地獄を造り固めて、未来永劫の住処としていることをどうして悲しまないのか。これを恐れ、これを嘆いて一大事の志を励まし、万の念を放ち捨てよ。そして、すること為すことの上において、切実に真実勇猛の念仏によって、自己の中の真実の仏を信仰する。そうすると、[修行の成果として]気(機)が熟するに随って、自然に誠の心に至って終に信を得ることが極まる。その時、思わずに無我・無人・無住所の境地に入って、自己真実の仏が顕現するのである。一筋に信仰せよ、信仰せよ。」P47-49


万民徳用  鈴木正三著作集1 加藤みち子 中公クラシックス ISBN:4121601548

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2016-05-27 空観とはなにか

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1 空観と慈悲

  1)空とは縁起である

  2)贈与交換と慈悲

  3)慈悲があるから空観が得られる

  4)空観に達するための実践

2 自然と空観

  5)親鸞レトリック

  6)地獄をさけ極楽を目指す慈悲ゲーム

  7)無為自然自然法

  8)無我論

  9)無為自然から自然法爾そして空観へ

3 世間と空観

  10)江戸時代葬式ブーム

  11)「世間」という慈悲圏

f:id:pikarrr:20160528005423j:image:w600

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2016-05-26 [お勉強] 歎異抄 親鸞

[] 歎異抄 親鸞  歎異抄 親鸞を含むブックマーク  歎異抄 親鸞のブックマークコメント

転写元 http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub11.htm#tannnisyou.11




他力本願、自力批判

(三)

善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。

ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない 」 といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。

(四)

慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。




自然

(八)

念仏は、それを称えるものにとって、行でもなく善でもありません。念仏は、自分のはからいによって行うのではないから、行ではないというのです。また、自分のはからいによって努める善ではないから、善ではないというのです。念仏は、ただ阿弥陀仏の本願のはたらきなのであって、自力を離れているから、それを称えるものにとっては、行でもなく善でもないのです。

(十三)

またあるとき聖人が、「 唯円房はわたしのいうことを信じるか」と仰せになりました。そこで、 「 はい、信じます 」 と申しあげると、 「 それでは、わたしがいうことに背かないか 」 と、重ねて仰せになったので、つつしんでお受けすることを申しあげました。すると聖人は、 「 まず、人を千人殺してくれないか。そうすれば往生はたしかなものになるだろう 」 と仰せに なったのです。そのとき、 「 聖人の仰せではありますが、わたしのようなものには一人として殺すことなどできるとは思えません 」 と申しあげたところ、 「 それでは、どうしてこの親鸞のいうことに背かないなどといったのか 」 と仰せになりました。続けて、 「 これでわかるであろう。どんなことでも自分の思い通りになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せとわたしがいったときには、すぐに殺すことができるはずだ。けれども、思い通りに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう 」 と仰せになったのです。このことはわたしどもが、自分の心が善いのは往生のためによいことであり、自分の心が悪いのは往生のために悪いことであると勝手に考え、本願の不可思議なはたらきによって お救いいただくということを知らないでいることについて、仰せになったのであります。

「 戒律を守って悪い行いをしない人だけが本願を信じることができるのなら、わたしどもはどうして迷いの世界を離れることができるだろうか 」 と、聖人は仰せになっています。このようなつまらないものであっても、阿弥陀仏の本願に出会わせていただいてこそ、本当にその本願をほこり甘えることができるのです。だからといって、まさか自分に縁のない悪い行いをすることなどできないでしょう。また聖人は、 「 海や河で網を引き、釣りをして暮らしを立てる人も、野や山で獣を狩り、鳥を捕らえて生活する人も、商売をし、田畑を耕して日々を送る人も、すべての人はみな同じことだ 」 と仰せになり、そして 「 人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである 」と仰せになったのです。

(十六)

浄土への往生については、何ごとにもこざかしい考えをはさまずに、ただほれぼれと、阿弥陀仏のご恩が深く重いことをいつも思わせていただくのがよいでしょう。そうすれば念仏も口をついて出てまいります。これが、 「 おのずとそうなる 」 ということです。 自分のはからいをまじえないことを、「 おのず とそうなる 」というのです。これはすなわち阿弥陀仏の本願のはたらきなのです。それなのに、おのずとそうなるということが、この本願のはたらきの他にもあるかのように、物知り顔をしていう人がいるように聞いておりますが、実になげかわしいことです。




現世利益批判


(十四)

念仏して罪を消し去ろうと思うのは、自力にとらわれた心であり、命が終わろうとするときに阿弥陀仏を念じて心が乱れることなく往生しようと願う人の本意なのですから、それは本願他力の信心がないということなのです。

(十八)

寺や僧侶などに布施として寄進する金品が多いか少ないかにより、大きな仏ともなり、あるいは小さな仏ともなるということについて。このことは、言語道断、とんでもないことであり、筋の通らない話です。

一方、その寄進は、仏になるための布施の行ともいえるのですが、どれほど財宝を仏前にささげ、師に施したとしても、本願を信じる心が欠けていたなら、何の意味もありません。寺や僧侶に対して、たとえ一枚の紙やほんのわずかな金銭を寄進することすらなくても、本願のはたらきにすべておまかせして、深い信心をいただくなら、それこそ本願のおこころにかなうことでありましょう。

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2016-05-25 [お勉強]老子 岩波文庫 ASIN:B01BD3DLOE

pikarrr2016-05-25

[]老子 岩波文庫 ASIN:B01BD3DLOE 老子 岩波文庫 ASIN:B01BD3DLOEを含むブックマーク 老子 岩波文庫 ASIN:B01BD3DLOEのブックマークコメント

本当の言葉は華美ではなく 、華美な言葉は本当ではない 。本当の弁論家は弁舌が巧みではなく 、弁舌が巧みな者は本当の弁論家ではない 。本当の知者は博識ではなく 、博識な者は本当の知者ではない 。聖人は何もためこまない 。なにもかも人々に施しつくしながら 、自分はますます充実する 。なにもかも人々に与えつくしながら 、自分はますます豊かになる 。天の道は恵みを与えるだけで損なうことはなく 、聖人の道は何かを為しても争うことはない 。

なにも為さないということを為し 、なにも事がないということを事とし 、なにも味がないということを味とする 。小さいものを大きいものとして扱い 、少ないものを多いものとして扱う 。怨みには徳でもって報いる 。難しいことは 、それが易しいうちに手がけ 、大きいことは 、それが小さいうちに処理する 。世の中の難しい物事はかならず易しいことからおこり 、世の中の大きな物事はかならず些細なことからおこるのだ 。そういうわけで聖人は 、いつも大きな物事は行なわない 。だから大きな物事が成しとげられるのだ 。

世の中の人々は 、みな美しいものは美しいと思っているが 、じつはそれは醜いものにほかならない 。みな善いものは善いと思っているが 、じつはそれは善くないものにほかならない 。そこで 、有ると無いとは相手があってこそ生まれ 、難しいと易しいとは相手があってこそ成りたち 、長いと短いとは相手があってこそ形となり 、高いと低いとは相手があってこそ現われ 、音階と旋律とは相手があってこそ調和し 、前と後とは相手があってこそ並びあう 。そういうわけで 、聖人無為立場に身をおき 、言葉によらない教化を行なう 。万物の自生にまかせて作為を加えず 、万物を生育しても所有はせず 、恩沢を施しても見返りは求めず 、万物活動成就させても 、その功績に安住はしない 。そもそも 、安住しないから 、その功績はなくならない 。

心と身体とをしっかり持って合一させ 、分離させないままでいられるか。精気を散らさないように集中させ 、柔軟さを保ち 、赤子のような状態のままでいられるか。玄妙な心の鏡を洗い清めて 、傷をつけないままでいられるか。人民を愛し国を治めるのに 、知恵によらないままでいられるか。目や耳などの感覚器官が活動するとき女性のように静かで安らかなままでいられるか。あらゆる物事についてはっきり分かっていながら 、知恵を働かさないままでいられるか。万物を生みだし 、養い 、生育しても所有はせず 、恩沢を施しても見返りは求めず 、成長させても支配はしない 。これを奥深い徳というのだ。

心をできるかぎり空虚にし 、しっかりと静かな気持ちを守っていく。すると 、万物は 、あまねく生成変化しているが 、わたしには 、それらが道に復帰するさまが見てとれる。そもそも 、万物はさかんに生成の活動をしながら 、それぞれその根元に復帰するのだ。根元に復帰することを静といい 、それを命つまり万物活動させている根元の道に帰るという。命に帰ることを恒常的なあり方といい 、恒常的なあり方を知ることを明知という。恒常的なあり方を知らなければ 、みだりに行動して災禍をひきおこす 。恒常的なあり方を知れば 、いっさいを包容する。いっさいを包容すれば公平である 。公平であれば王者である王者であれば天と同じである。天と同じであれば道と一体である 。道と一体であれば永遠である。そうすれば 、一生 、危ういことはない。

人は地に法り 、地は天に法り 、天は道に法り 、道は自然に法る。

柔弱なるものは剛強なるものに勝つ 。

天下の物は有より生じ 、有は無より生ず。

無という道は有という一を生みだし 、一は天地という二を生みだし 、二は陰陽の気が加わって三を生みだし 、三は万物を生みだす。万物は陰の気と陽の気を内に抱き持ち 、それらの気を交流させることによって調和を保っている。

そこで聖人はいう 。わたしが何もしないと 、人民は 、おのずとよく治まる。わたしが清静を好むと 、人民は 、おのずと正しい。わたしが事を起こさないと 、人民は 、おのずと豊かになる。わたしが無欲であれば 、人民は 、おのずと素朴である 、と。

そもそも絶対的正常などはないのだ。正常はまた異常になり 、善事はまた妖(まがごと)になる。

そういうわけで聖人は 、欲を持たないということを欲とし 、珍しい財宝を尊重しない。学ばないということを学とし 、誰もが過ぎさってしまった素朴なところに復帰する。そのようにして万物本来のあり方に任せているのであって 、自分から何かをすることはないのだ。

わたしには三つの宝があり 、しっかりと保持している。第一は慈悲 、第二は倹約 、第三は世の中の人々の先頭には立たない 、ということである慈悲深いから勇敢でありうるし 、倹約であるから広くなりうるし 、世の中の人々の先頭には立たないから万人の長になりうるのだ。もし今 、慈悲をすてて勇敢であろうとし 、倹約をすてて広くしようとし 、人の後になることをすてて先頭に立とうとすれば 、死んでしまうであろう。いったい 、慈悲によって戦えば勝ち 、慈悲によって守れば堅固である 。天が人を救おうとすれば 、慈悲深い人を守るのだ。

なにごとにも進んで果敢に行動する者は殺される。なにごとにもぐずぐずと尻込みする者は生かされる。この二つの生き方には 、利益があったり損害があったり。天がなにを嫌うのか 、だれにその訳がわかろうか。そういうわけで 、聖人でさえ 、自然道理を知ることはむずかしいとしたのだ。天の道は 、争わないのにうまく勝ちを占め 、なにも言わないのにうまく応答し 、招かないのにおのずと到来し 、はてしもなく大きいのにうまく計画されている。天の法網は広々と大きく 、目はあらいが 、なにごとも見逃すことはない。

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