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2017-04-20 恋するプラトン主義者たち

pikarrr2017-04-20

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1 美人とはなにか


美人より美しいものがこの世にあるだろうか。美人野に咲く花のように、限られた時期に、偶発的に生まれる。いかに金をかけて作られた作品よりも、ただ美しい。美人とは、左右均等説、黄金比説が有名だが、そこには性欲が欠いている。女性の美しさを考えるときには、単に造形的な美しさではなく、性的な魅力を抜きには考えられないでしょ。性的な魅力のおおもとは、若さでしょう。生殖を促す時期、十代後半から二十代。美人とは基本的若さです。三十代、四十代でも美人はいますが、彼女たちは十代後半から二十代をイメージさせる造形です。逆に、十代後半から二十代の非美人は、老けた造形です。

美人とは、若さイメージさせる造形です。美人はただ美しいと眺めることはない。相手性的もの掻き立てるものとともに来る。美人の前で落ち着かないのは、死ぬほど空腹時のカレーライスを見せられるだけで、食べることを禁止されているごとくだ。




2 プラトン主義は恋の病


しかしこの美人論は失敗している。若さイメージ造形とはなにか?なぜ美人を語ることは必ず失敗するのか。美人は必ず人をプラトン主義にする。すなわちイデア論から逃れられない。逆に、プラトン主義本質暴露するともいえる。すなわちプラトン主義美人を語るためにあり、そして必ず失敗する。すなわちプラトン主義とは恋の病である数学者は数式に恋をする。科学者世界に恋をする。精神分析でいえば、神経症

イデア論。完成された世界がすでに存在していること。心身二元論、理性主義。それを魂=精神は知っている。人は完成された世界を作り出すのではなく、想起するということ。客観主義。このとき理性はこの世界の外に立っている。設計図とこの世界客観的に見比べる神の位置を獲得している。プラトン主義というこの特殊神学は、ローマ時代に忘れ去られ、ルネサンスに再発見される。そして近代化の中で世界を席巻する。まさに科学プラトン主義を基礎としている。まさに科学はこの客観主義を引き継いだことで成功した。世界主観を排して、客観的に観察し、そして作り替えること。科学世界真実=イデア発見する。イデア数学的な調和記述されている。人間の理性のみがそれを発見することができる。現代人はプラトン主義者であるが、あまりにあまりまえすぎて自らがプラトン主義であることを意識しないし、だからプラトン主義の外があることを知らない。




3 プラトン主義以前の世界


グーグルマッププラトン主義である。神の目線から地球を流れる。しかしこれは新しいだろうか。ボクたちは教育により、世界地図が頭に入っているし、自らのいる位置を知っている。このような俯瞰思考別に地図だけではない。生物も博物的に分類され、さらに進化論的に時間軸に位置づけられている。

ルネサンス以降、世界写実的に描くことが始まったが、同じく数量化することが始まった。世界を長さ、時間単位、個数など、あらゆるものが計測された。まさに科学のはじまる前だ。現代これらの知識短期間で教育として与えられる。世界客観的認識する訓練である。もはや当たり前すぎる認識方法であるしかしそれはルネサンス以降、プラトン主義回帰により始まった。すなわちそれ以前は、異なる認識が行われていた。それ以前、いかに人は世界と向き合っていたか。

世界という考え方がある。たとえばクモクモとして存在するのではなく、その環境と一体として世界形成している。クモを捕まえ虫かごに入れて眺める。魚竿もして情けない。しかしそれはクモではない。クモの適切な環境クモの巣を張り、完成性として存在する。それがクモの環世界だ。人も環世界を作り生きていた。彼らにとって世界は自らの行為と一体化された世界である。それを俯瞰して見ることもない。自らの行為世界を作っている。それがプラトン主義以前の世界である

現代も人は環世界を生きている。みずの行為に合わせてアフォーダンスさせている。しか社会流動性が高く、俯瞰的に自らを見ておかないと、途端に虫かごのクモのように魚竿することになる。

それでも人はプラトン主義を超えなければならない。事件会議室でなく現場で起こっているからだ。世界客観的に眺めてあーだこーだ考えるだけでなく、目の前の現実と向き合いそれに対して働きかける、調整すること、それがまさに生きるということだ。たとえそれが虫かごの中でも、巣を張らなければ何も始まらない。




4 美人現場主義では生まれない


なぜ現場重要であるのか。この世界には現場しか存在しないからだ。動物は、発情期に異性から性的シグナルに反応する。しか人間は、性的シグナルをフェティシズムとしてあらゆるものに感じる。指、靴、ハンカチ排泄物・・・この謎の解を、フロイト幼児の性に求めた。幼児時に性的体験と結びついた対象フェティシズムになる。大人になってそのことを覚えていないが、何故かある対象性的な興奮を覚える。

人は知能を発達させたが、そのために脳が肥大して、十分に成長してから出産するには頭が大きくなりすぎた。だから未熟児で生まれていくる。動物が生まれてすぐに、生きるための行為をすることができるのに対して、人はまったくなにもできずに生まれてくる。その分、生まれてから体験により、様々な大人が作られる。幼児期体験、すなわち現場によって、人は多様に作られている。美人というイデアも、様々な現場から生まれてくるものしかない。

美女に興奮するのは美女が美しいからではない。美しいのにボクらと同じにだからだ。性欲があり、自慰をして、おできがあり、うんちをして、ふきのこしでちょっと肛門にうんちがついていたりする。広瀬すずちゃんだって、鼻をほじって、ほじった指を舐める若さとは動物的、すなわちグロものだ。

古来、芸術家達は美人魅せられて、絵や彫刻写真などに治めようとしてきた。しかしいまだかつて成功した人はいない。ピカソより、ゴッホより、ラッセンより、今日駅で見かけた美人の方が億万倍美しい。だから芸術家は書き続けるわけだ。

やはり美人現場主義では生まれない。現場的な美人など美人ではない。美人プラトン主義からしか生まれない。美人プラトン主義の極限だろう。魅了されることからプラトン主義は始まる。プラトン主義のもとであるピタゴラスは、数に魅せられた。世界が美しい調和でできていることに魅せられた。近代科学技術しかり、科学者達は世界が美しい調和でできていることに魅せられた。美人を前に人は必ずプラトン主義者になる。

美人は近代の発明だ。近代は視覚の時代と言われる。科学技術の発展は、社会流動性を上げて、伝達手段として聴覚よりも、視覚を重視した。客観的で伝わり安いからだ。視覚による伝達により情報伝達の速度を上げた。まさにマスメディアは視覚を刺激する。美人は最高の人を魅了する対象だ。映画、テレビ、雑誌など、美人は作られた。イデアが作られたのは、ハリウッドだろう。グレースケリー。映画を通して拡散された。




5 現場で一番重要なことは反復がないということ


科学とは反証可能性である。誰がやっても再現できなければそれは科学ではない。科学における人は、無名人間という種になる。フロイト現場主義だ。精神分析は、精神分析学ではない。人は、人の症候はひとりひとり異なるから学問として体系化するのでなく、現場の技と考えた。特に幼児の性を基本としたのは、幼児期という大人になるための反復できないたった一度の体験が、そこにあるからだ。そしてそれぞれの人が作られていく。

それでもフロイトプラトン主義呪縛から逃れられなかった。結局、多くの体系を語った。超自我エス……それらは西洋の理性主義継承している。それは、日本人精神分析を当てはめたときに露呈する。

ラカン日本人無意識存在しないといったが、日本人西洋精神分析分析すると、範囲を超えてしまう。たとえば、甘えの構造では、日本人社会に甘えが溢れている。義理人情など。西洋の理性主義では、甘えは幼児性としか分析できない。しか日本人ならわかるように、義理人情幼児性とは真逆の高度な社会調整機能である西洋の我ありに対して、無我、我なしを基本に据える日本では、高度な他者への配慮が重視される。これらはどの教科書にも載っていないし、あまりにも高度すぎて体系化もできない。空気の読み方は現場で学ぶしかない技である

そして現場で一番重要なことは、反復がないということだ。現場では今日現場は昨日の現場とは違うし、今日自分は昨日の自分とは違う。日々の活動が新たな現場、新たな自分、そして新たな関係を作り、日々の向き合うしかない、ということ。

日本人現場主義において優れている。現場での調整能力改善能力日本ハイレベルな社会インフラはまさにその賜物である西洋人が枠組みだけ偉そうにいっている現場が雑なのに対して、この現場の繊細な調整は、生産性下げる。なぜなら価格に反映されないからだ。西洋人雑と費用が同じなら、国民総生産繁栄されない。どころか無駄として生産性を下げる。しか日本人はこの勤勉を互いに与え合う。それが慈悲エコノミーである




現場主義化する人工知能


いままでAIはプラトン主義的に考えられていた。現象に対して俯瞰して解を求める。それが現場レベルの無数のケースに対応できなかった。それがAIのジレンマだった。ディープラーニングはどのように乗り越えたのか。現場を経験させたのだ。チェスなら、チェスの完全な解を求めるのではなく、休みなくチェスの勝負を繰り返させる。疲れを知らないから永遠にゲームし続ける。そしてその経験は他のAIに移植できる。そしてさらに強くなる。すなわち、最新のAIは現場主義ということ。

いま、時代現場主義である。コンピュータの発達は、プラトン主義的な合理的な知だけでなく、現場主義的な暗黙知を可能にしてきた。合理的な知の限界は、無限の状況に対応できないことだ。まさに人工知能のディープラーニングは解を与えるのではなく、経験させて自ら深層学習する。その現場で学ぶ。まさに現場主義体験することに人工知能は賢くなっていく。今日現場は昨日の現場とは違うし、今日の人工知能は昨日の人工知能とは違う。日々の活動が新たな現場、新たな人工知能、そして新たな関係を作り、日々向き合う。

しかしこれは新たな問題でもある。暗黙知と言われるように、現場知識は、プラトン主義の知のように単純でなく、言語表記も超えていく。ひとも自らの中にある暗黙知を知らない。人の無意識の領域に、人工知能は進出する。人の環世界へ人工知能は進出する。環世界を補完して、快適にする。しかし人はなにが起こっているかわからない。知らずに自らが作られる。これは高度な環境管理の世界だ。



プラトン主義

イデア論。完成された世界がすでに存在していること。心身二元論、理性主義。それを魂=精神は知っている。人は完成された世界を作り出すのではなく、想起するということ。客観主義。このとき理性はこの世界の外に立っている。設計図とこの世界客観的に見比べる神の位置を獲得している。科学はこの客観主義を引き継いだことで成功した。世界主観を排して、客観的に観察し、そして作り替えること。科学世界真実=イデア発見する。


現場主義

現場で一番重要なことは、反復がないということだ。現場では今日現場は昨日の現場とは違うし、今日自分は昨日の自分とは違う。日々の活動が新たな現場、新たな自分、そして新たな関係を作り、日々の向き合うしかない、ということ。

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2017-04-10 キミはプラトン主義の呪縛から逃れられるか

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プラトン主義ピタゴラス


プラトン主義を考えるとき師匠ピタゴラス教を考える必要がある。ピタゴラス教は輪廻転生を基本とする。人は生まれる前に魂として、すべてが調和された完全な世界に住んでいる。それがこの世界に生まれるときに、生まれる前の記憶は失われて、肉体をもち欲望などの下俗の欲を持つ。

から重要なことは想起である。肉体からの欲を抑制して、生まれる前の完全な世界記憶を取り戻すこと。そして調和された完全な世界数学によりできている。だからピタゴラス教において数学神の言葉である数学的な調和を探求する、想起することが重要である

基本的プラトン主義ピタゴラス教を継承している。ピタゴラス数学にこだわったのに対して、プラトンイデア論として、ものへと拡張した。プラトン理想国家は、もっとも完全な世界を想起した哲学者統治者にして、国民は肉体を管理するように禁欲的で鍛錬し、そしてそれぞれに適した役割を担う。




プラトン主義科学技術として復活した


ここで重要なことは、完成された世界がすでに存在していること。イデア論それを魂=精神は知っている。人は完成された世界を作り出すのではなく、想起するということ。心身二元論、理性主義

世界の完全な設計図イデアはすでに存在し、理性はそれを知っていること。ここにプラトン主義の最大の特徴である客観主義がある。このとき理性はこの世界の外に立っている。設計図とこの世界客観的に見比べる神の位置を獲得している。まさに科学はこの客観主義を引き継いだことで成功した。世界主観を排して、客観的に観察し、そして作り替えること。

プラトン主義というこの特殊神学は、ローマ時代に忘れ去られ、ルネサンスに再発見される。そして近代化の中で世界を席巻する。まさに科学プラトン主義を基礎としている。科学世界真実=イデア発見する。イデア数学的な調和記述されている。人間の理性のみがそれを発見することができる。

現代人はプラトン主義者であるが、あまりにあまりまえすぎて自らがプラトン主義であることを意識しないし、だからプラトン主義の外があるとを知らない。プラトン主義の外がいかなるもの想像できるかい




客観主義臨界


ゼノンパラドクスとう臨界で、客観主義の神の視線が明らかになる。たとえば時間を止めることできる人がいたとする。彼を神と呼ぶ。時間を止まられる人を人間と呼ぶ。神は時間を止めて、人間の動きをとめて、自分だけ動き回る。神が時間を動かさないと、人間永遠に動けなくなる。というのは、おかしくて、人間時間は進んでないから、人間は動けなくなっていない。神が時間を動かしたときに、人間時間が止められたことを知らない。ゼノンパラドクスも同じ。アキレスと亀はただの競走し、アキレスは亀をあっさり抜き去る。ただの神が時間を操り、数学的に無限に動かしたり止めたりして遊んでいるだけのこと。このときの神がボクたちなわけ。

たとえば20世紀に入り知の限界として、自己言及パラドクスが現れた。ラッセルの嘘つきのパラドクスケインズ美人投票。そして量子力学など。すなわち世界客観的に見ようとしても、この世界自分がいることで、世界に影響を与えてしまう。客観主義限界であり、人の知は限界点まで達したということだ。




プラトン主義の外とは?


プラトン主義の外、それは日常を生きることだ。日常を生きるときに、人は客観的立場になく、この世界の一部として存在して、影響を与えてしまう。そして全体像ではなく、その場で調整し続けている。現実社会は、家を建てるように設計図がそれに向かって構築していくようなものではない。アリは設計図を持たない。そのつどつど調整しながら端から蟻塚は作られていく。たとえばそこで重要なことは理性ではなく、関わることで刻々と変わる現場と実際に関係する身体感覚であり、その場の慣習である

自らも現実の一部として絶えず変わり続ける現実がある。昨日の自分とは変わっている。変わり続ける。実際、人はそのように生きている。だから1回限りであり、二度と同じものはできない。リアリティ(現実)とはそういうものである。先が見えないと言って恐れることはない。アリは本能故に可能なのかも知れない。しかしボクたちには慣習がある。慣習は本能よりも固くはないが、思った以上にかなり頑丈で、また柔軟でもある。そして慣習は一人ではできない。長い時間の経過、そして祖先というローカル努力の蓄積、そしてそれを祖先へつないでいく。




太陽毎日から昇るのは慣習による


数学世界絶対的法則で、それを人間発見したわけではない。人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。太陽毎日から昇るという知識も同じ。世界絶対的法則ではなく、後世は慣習として伝承されて知っているだけ。明日太陽が東から昇るという証明はできない。

たとえば今視界に見えている世界も同様。見るとは目というレンズに光が入って見えるわけではない。見るとは自らの中で作り出すもの見方には影響するのは言語と言われる。言語のように見る。言語は慣習そのもの。今見ている世界は、人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。

たとえば歩くことも同様。歩くとはただ足を前後に動かすわけではないだろ。歩き方は学び訓練して獲得する。歩き方は学ぶ文化個人経験によってそれぞれ違う、歩くことは、人が文明の中で発明したもので、後世はその使い方を訓練して学び、また後世に慣習として伝承している。

なぜそのような慣習になったのか。当時の偉い人が決めたのかもしてないし、その当時それが便利だったのかもしれない。慣習は歴史学的に考察はできても、起源はわからない。道は一つではなく、無数の経路でいまにたどり着いて、そして今も変わり続けているからだ。

アプリオリ問題赤ちゃんが何らかの知をもって生まれてくることは確かだろう。そして慣習を訓練する。なにが遺伝子かと問うことは、同様に起源問題であり、歴史学的に、生物学的に考察はできても、起源はわからない。道は一つではなく、無数の経路でいまにたどり着いて、そして今も変わり続けているからだ。




慣習論とは「当にそのように行為している」ことを受けいれること


慣習論を理解するためには、合理論思考を変えないといけない。よく間違えているのが、経験合理的説明するのが経験論と考えている合理論者が多い。そうではなく、慣習とは「当にそのように行為しているもの」で、そのことを受けいれること。西洋哲学伝統思考である客観主義世界を神の視点から分析することをやめて、疑似問題への逃避をやめて、現実を生きること、慣習は信じるものではない。当にそのように行為しているものだ。

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」 

哲学探究 ウィトゲンシュタイン

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2017-04-01 右翼になろうよ♪

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これほどうまく日本人右翼思想表現した歌はありませんね。

D

古くはプラトン以前とプラトンとの違い、あるいはプラトンアリストテレスの違いにまで遡り、スコラ神学者においては神の存在弁証可能性をめぐる対立として再燃した、「主意主義主知主義」の対立がある。厳密に、前者が右翼後者左翼である。色々な規定可能だが、主知主義とは〈世界〉を知識で覆える(神を合理的弁証できる)とする立場主意主義とはそれを否定する立場だと考えるといい。主意主義がそれを否定するのは、意思知識還元できない端的なものだと見做すからである

宮台真司 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=259

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2017-03-24 なぜ日本人は高い品質を望むのか?

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木村岳史(東葛人)   https://twitter.com/toukatsujin/status/844486491690565633


日本ゲーム会社の人が話していたが、世界一サービス可能オンラインゲームでも、日本ではなく米国などで先行させるのが賢明だそうだ。日本の客は少しのバグも許さないし、ボコボコにされる風評リスクも高いからだ。これは企業向けでも同様で、米国ITベンダーにとって日本優先順位は低い。




みんながサービス残業奉仕しあう質の高い日本社会


なぜ日本人は高い品質を望むのか?これは日本人一人当たりのGDP生産性の低さとも関係する。一つは、日本人の勤勉性による。高い通俗道徳が高い質を求め合う。二つめは、サービス問題日本人サービスを、おもてなし、ただと考える。だからクレームも言いたい放題。三つめは、戦後にそれが成功し、達成されたこと。一人当たりのGDPが低くても、一人当たりのGDPに現れない質の高いサービス提供しあえば、みんながサービス残業奉仕しあえば、日本全体はとても豊かでコンビニエンス社会になる、そしてなった。外国人にとやかく言われることはない。

それが、最近いろいろ問題が出ている。一番は、中国など人件費の安いところで作られた質が悪いが安いもの流入しはじめて、日本人のみんなで維持してきた質の高い社会が、グローバルの波でさらわれ始めていること。あとは、アメリカIT化。IT化は、サービス自動化セルフサービス化による低コスト化が目的からサービス業の質は落ちて、コストは下がる。日本人の質の高いサービス解体される。

終身雇用などある程度の賃金生活保障があったから、みんなで奉仕しあえ、社会をよくしようという通俗道徳による経済的国家総動員体制が維持されたんだが、それが困難になってきている。奉仕する余裕がなくなり、質が低下している。

ようするに、一人当たりGDPという単純化された指標では測れない日本人の質の高い豊かさがあって、それはそれでいい。しかしそれとともに質の高さを維持することの限界も来ている。アジアからの低コスト品の輸入、IT化によるセルフサービス化、そして少子高齢化による勤勉の限界など。




IoT日本人並のIT化を実現するか


IT関係日本人の、 ガラケー呼びに始まる日本人バッシングは、彼らの情弱に対する選民思想がある。日本人おもてなし情弱排除しない。情弱にこそ優しく。それはキリスト教の慈愛と仏教の慈悲の違いだ。簡単に言えば、キリスト教の慈愛は弱者救済。最底辺を助けることが基本。だからわかりやすくて直接的。日本人の慈悲に強者弱者もない。皆が等しく弱者であり、皆で一緒の解脱を目指す。これがほんとに高度で面倒くさくい。簡単に助けたらダメなんだよ。助けると言うことは、相手弱者にするわけで、相手の恥になる。おもてなしとは、もてなしています!はだめで、もてなしていないようにもてなす気遣いが大切。面倒くさいだろう。でもこの繊細さが、GDPでは現れない日本人社会の豊かさを支えているわけ。

空気を読むという日本人特有の繊細さも、ここから来ている。助けないように助ける。主張しないように主張する。好きじゃないように好きになる。ほんと日本人って世界一面倒くさい。西洋人はこれを外面と本音、裏表がある、二枚舌とかバッシングする。あいつらにはわからんよ。そうじゃないんだよ。高度な配慮なんだよ。

この慈悲の繊細さはいか作動しているか?みなが配慮し合っているという暗黙の了解作動する。一人でも配慮しなければ、配慮しているもの馬鹿を見るから配慮しないもの排除される。弱者が叩かれるのではなく、配慮を欠いたものが叩かれる。空気を読まないものが叩かれる。それは強者弱者関係ない。それが江戸時代から続く、日本人独自世間というシステムだ。近代の法による社会とは違う。日本では法に触れなくても、世間が許さない。世間が法の判決さえも変えてしまう。ホリエモン、舛添、ベッキーなどなど。

明るい流れとしては、IoTだろう。いまのアメリカIT化は、アメリカ人のおおざっはなサービス概念をもとにしている。すなわち悪いサービスなら自分でやった方がましだ。おもてなし日本人がこれに耐えられるわけがない。IoTによって初めて日本人クオリティサービス概念自動で実現できるまで技術が追いついてくる可能性がある。おもてなしIT化。




なぜ日本の街にはゴミ箱や灰皿が少ないのか 「世界でもっとも清潔」だと、日本の街並みは外国人から高く評価されている

Newsweekjapan:http://www.newsweekjapan.jp/nippon/mystery/2017/03/188670.php


<街中にゴミ箱も灰皿も少ないのに「世界でもっとも清潔」だと、日本の街並みは外国人から高く評価されている>

「ゴミひとつ落ちていない!」や「世界でもっとも清潔な国だ」、そして「歓楽街ですらキレイなんて!」など、訪日外国人をインタビューするテレビ番組やネットの投稿などで、日本の清潔な街並みを賞賛する声を聞くことが多い。世界最大手の旅行クチコミサイト「トリップアドバイザー」の「旅行者による世界の都市調査」(2014年)でも、2位のシンガポール、3位のベルリンを抑え、街の清潔度で東京が1位を獲得と、その評価は世界的なようである。

驚きの声と同時に彼らから上がるのが、「街にゴミ箱は少ないのになぜ!?」という疑問だ。確かに、1995年の地下鉄サリン事件以降、テロ対策を名目に首都圏を中心に街中のゴミ箱は閉鎖・撤去されていったが、それ以降、コンビニエンスストアの店頭を除けば、現在もその数は大幅に減ったままだ。また、灰皿に関しても、以前は東京・銀座の中央通りに等間隔で置かれていた灰皿がすべて撤去されるなど、2002年以降に各自治体で制定されていった「路上喫煙禁止条例」を機に、路上の喫煙環境は大幅に縮小されている。

一方、欧米ではどうか。アメリカではニューヨークなどの大都市では1ブロックごとに大きなゴミ箱が配置されているものの、つねにゴミが溢れている状態だという。ヨーロッパ各国でも灰皿付きのゴミ箱が多く設置されているが、フランクフルト在住のマリア・ドイチュさんによれば、「ドイツでは歩きたばこがごく普通のこと。街中に灰皿もありますが、吸い殻のポイ捨てもあたりまえです」といった実情だ。

ゴミ箱も灰皿も少ないのに、なぜ日本の街にはゴミも吸い殻も落ちていないのか――。多くの訪日外国人日本の街、そして、日本人の清潔さを賞賛する一方で、あまりの清潔さにある種の畏怖にも似た不思議な感情を持っているのだろう。

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2017-03-19 近代日本人の性倫理の系譜

近代日本人の性倫理系譜 日本人純愛主義男根主義 近代日本人の性倫理の系譜 日本人の純愛主義と男根主義を含むブックマーク 近代日本人の性倫理の系譜 日本人の純愛主義と男根主義のブックマークコメント

性に寛容な日本人キリスト教倫理


西洋文化は、資本主義民主主義世界拡散した訳だけど、それとともにキリスト教の性倫理という特殊文化を広めた。キリスト教の性倫理はとても厳しくて、基本的には性関係そのもの禁止する。そうすると子孫が残せないので、生涯を添い遂げる夫婦においてのみ許した。それでも厳しい戒律では性行はもちろん、自慰さえも悪として禁止した。

この厳しい性倫理は、近代西洋理性主義を結びついて、近代人なら当然守るべき倫理であり、それが守れない民族野蛮人として、対等に見なされなかった。そのために日本明治において、この厳しい性倫理社会に浸透させるのに苦労した。

そもそも農耕を中心とする文化では、性関係は作物の受精イメージして、めでたいものだった。キリスト教圏外では、性関係は大らかであることが一般的で、日本もそうだった。日本でも、江戸時代春画流行って、一般に売られていたが、当然、エロを楽しむためでもあるが、豊作を願うお守りでもあったと言われる。

江戸時代の性倫理は、儒教の厳しい武士以外は、大らかだった・農民土地に固定して生活していたので、村は生まれたときからの知り合いだし、性行は夜這いとか、盆踊りという乱交とか共同体を結びつける娯楽の一つだった。言ってしまえば、生まれたのが誰の子供かも、いわば村の子供なわけだ。

避妊はなかったが、現代妊娠して3ヶ月内はまだ人間ではないので、中絶しても殺人罪に問われないルールに対して、江戸時代は、生まれてすぐに親が育てると決めるまでは人間ではなく、労働力になる男子確認して決めるなど、間引き一般的だった。避妊術のない時代は、間引き世界的にも一般的だった。




日本人純愛主義男根主義


日本も、近代キリスト教の厳しい性倫理が求められた。特に最初女性行使された。結婚するまで処女を守る、妻は浮気をしない貞操をまもる。一生一人の男に尽くす純愛主義。そこから白馬王子様を待つ夢見る少女趣味神話生まれる。

その裏で、男には合法的売春は認められた。それが戦後売春違法になってから男子にも、純愛主義とともに運命女性を待つ少女趣味が広がる。いまでは、運営女性を求めて、童貞が増えているという。リア充というのは純愛を達成した勝ち組で、彼女ができないのは負け組さら風俗に行くのは純愛からの逃避で負け組という。西洋にもないような、屈折した性倫理に発展している。

そもそも性体験純愛から始まるなんてものは、限られたものだった。昔は村に性体験機能があって、青年になると、村の後家さんとか、誰かが相手して上げていた。都市化すると、売春商売がその機能を果たした。純愛という男女の合意は偶然に作用されて確率論的にも難しいだろう。

さらに、日本近代の性倫理では、キリスト教が導入されるとともに、儒教的禁欲主義も混ざり、男尊女卑の強い純愛主義になっている。儒教の影響から男根主義的で、男性社会的責任感が伴う面が強い。さら高度成長期終身雇用によって、男は働いて一生女性を養うという理想像が出来上がってしまう。

そして高度成長期を終えた80年代ごろから若い男性がそこから逃避し始める。オタク萌えという幼児純粋性への傾倒は、キリスト教的な純愛主義ベースにしていることが確かだが、男根主義社会的重圧からの逃避の面が強い。本来日本人の寛容な性文化としては、幼児性へ向かうことは許容されるだろうが、キリスト教の厳しい性倫理基準にするから、後ろめたくなる。




個人自由キリスト教倫理


近代西洋でもキリスト教の厳しい性倫理に対して、人権個人自由との戦いがあった。キリスト教の厳しい性倫理では、一生に一度の男女の純愛のみが許されたが、純愛の幅も広がり、一生添い遂げる、結婚まで貞操を守るなどは緩和されて、成人同士の恋愛自由度も広がる。さら同性愛犯罪者であり病気なので、法に触れて、強制的な薬物治療が行われたが、戦後闘争によって、同性愛市民権を獲得しつつある。成人が性的興奮を覚えるのは医学的にも仕方が無いので、年齢制限によって、見ることができる性表現を決めよう。売春大人男性が楽しむことは許し、場所をきちんと区切ることが求められる。

いまも厳しいのは、成人以外を性の対象とすること、子供には性欲がないので性の対象として扱うのは、大人暴力しかない。幼児性愛犯罪で、治療必要だ。親子であっても親密すぎるのは問題にされる。

から日本電車という子供もいるような公共の場で、グラビアが見られたり、オタク萌えマンガが読まれるとか、西洋人はこの異常な状況が許せない。要するに、日本人西洋では性表現日本よりオープン勘違いしているが、キリスト教の厳しい性倫理から日本よりも厳しく管理されている。個人自由との調整で、表現ランクにより、年齢や、場所時間などを管理する方法をとった。有名なものが年齢別に区切られた映画R指定だ。だから成人が個人的場所でなら、日本以上の過激表現が許されたりすることを、日本人は性関係オープン勘違いしてしまう。日本は、管理なく、日常に氾濫していることが、西洋人には許せない。

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