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2016-05-27 空観とはなにか

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1 空観と慈悲

  1)空とは縁起である

  2)贈与交換と慈悲

  3)慈悲があるから空観が得られる

  4)空観に達するための実践

2 自然と空観

  5)親鸞レトリック

  6)地獄をさけ極楽を目指す慈悲ゲーム

  7)無為自然自然法

  8)無我論

  9)無為自然から自然法爾そして空観へ

3 世間と空観

  10)江戸時代葬式ブーム

  11)「世間」という慈悲圏

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2016-05-26 [お勉強] 歎異抄 親鸞

[] 歎異抄 親鸞  歎異抄 親鸞を含むブックマーク  歎異抄 親鸞のブックマークコメント

転写元 http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub11.htm#tannnisyou.11




他力本願、自力批判

(三)

善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。

ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない 」 といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。

(四)

慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。




自然

(八)

念仏は、それを称えるものにとって、行でもなく善でもありません。念仏は、自分のはからいによって行うのではないから、行ではないというのです。また、自分のはからいによって努める善ではないから、善ではないというのです。念仏は、ただ阿弥陀仏の本願のはたらきなのであって、自力を離れているから、それを称えるものにとっては、行でもなく善でもないのです。

(十三)

またあるとき聖人が、「 唯円房はわたしのいうことを信じるか」と仰せになりました。そこで、 「 はい、信じます 」 と申しあげると、 「 それでは、わたしがいうことに背かないか 」 と、重ねて仰せになったので、つつしんでお受けすることを申しあげました。すると聖人は、 「 まず、人を千人殺してくれないか。そうすれば往生はたしかなものになるだろう 」 と仰せに なったのです。そのとき、 「 聖人の仰せではありますが、わたしのようなものには一人として殺すことなどできるとは思えません 」 と申しあげたところ、 「 それでは、どうしてこの親鸞のいうことに背かないなどといったのか 」 と仰せになりました。続けて、 「 これでわかるであろう。どんなことでも自分の思い通りになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せとわたしがいったときには、すぐに殺すことができるはずだ。けれども、思い通りに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう 」 と仰せになったのです。このことはわたしどもが、自分の心が善いのは往生のためによいことであり、自分の心が悪いのは往生のために悪いことであると勝手に考え、本願の不可思議なはたらきによって お救いいただくということを知らないでいることについて、仰せになったのであります。

「 戒律を守って悪い行いをしない人だけが本願を信じることができるのなら、わたしどもはどうして迷いの世界を離れることができるだろうか 」 と、聖人は仰せになっています。このようなつまらないものであっても、阿弥陀仏の本願に出会わせていただいてこそ、本当にその本願をほこり甘えることができるのです。だからといって、まさか自分に縁のない悪い行いをすることなどできないでしょう。また聖人は、 「 海や河で網を引き、釣りをして暮らしを立てる人も、野や山で獣を狩り、鳥を捕らえて生活する人も、商売をし、田畑を耕して日々を送る人も、すべての人はみな同じことだ 」 と仰せになり、そして 「 人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである 」と仰せになったのです。

(十六)

浄土への往生については、何ごとにもこざかしい考えをはさまずに、ただほれぼれと、阿弥陀仏のご恩が深く重いことをいつも思わせていただくのがよいでしょう。そうすれば念仏も口をついて出てまいります。これが、 「 おのずとそうなる 」 ということです。 自分のはからいをまじえないことを、「 おのず とそうなる 」というのです。これはすなわち阿弥陀仏の本願のはたらきなのです。それなのに、おのずとそうなるということが、この本願のはたらきの他にもあるかのように、物知り顔をしていう人がいるように聞いておりますが、実になげかわしいことです。




現世利益批判


(十四)

念仏して罪を消し去ろうと思うのは、自力にとらわれた心であり、命が終わろうとするときに阿弥陀仏を念じて心が乱れることなく往生しようと願う人の本意なのですから、それは本願他力の信心がないということなのです。

(十八)

寺や僧侶などに布施として寄進する金品が多いか少ないかにより、大きな仏ともなり、あるいは小さな仏ともなるということについて。このことは、言語道断、とんでもないことであり、筋の通らない話です。

一方、その寄進は、仏になるための布施の行ともいえるのですが、どれほど財宝を仏前にささげ、師に施したとしても、本願を信じる心が欠けていたなら、何の意味もありません。寺や僧侶に対して、たとえ一枚の紙やほんのわずかな金銭を寄進することすらなくても、本願のはたらきにすべておまかせして、深い信心をいただくなら、それこそ本願のおこころにかなうことでありましょう。

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2016-05-25 [お勉強]老子 岩波文庫 ASIN:B01BD3DLOE

pikarrr2016-05-25

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本当の言葉は華美ではなく 、華美な言葉は本当ではない 。本当の弁論家は弁舌が巧みではなく 、弁舌が巧みな者は本当の弁論家ではない 。本当の知者は博識ではなく 、博識な者は本当の知者ではない 。聖人は何もためこまない 。なにもかも人々に施しつくしながら 、自分はますます充実する 。なにもかも人々に与えつくしながら 、自分はますます豊かになる 。天の道は恵みを与えるだけで損なうことはなく 、聖人の道は何かを為しても争うことはない 。

なにも為さないということを為し 、なにも事がないということを事とし 、なにも味がないということを味とする 。小さいものを大きいものとして扱い 、少ないものを多いものとして扱う 。怨みには徳でもって報いる 。難しいことは 、それが易しいうちに手がけ 、大きいことは 、それが小さいうちに処理する 。世の中の難しい物事はかならず易しいことからおこり 、世の中の大きな物事はかならず些細なことからおこるのだ 。そういうわけで聖人は 、いつも大きな物事は行なわない 。だから大きな物事が成しとげられるのだ 。

世の中の人々は 、みな美しいものは美しいと思っているが 、じつはそれは醜いものにほかならない 。みな善いものは善いと思っているが 、じつはそれは善くないものにほかならない 。そこで 、有ると無いとは相手があってこそ生まれ 、難しいと易しいとは相手があってこそ成りたち 、長いと短いとは相手があってこそ形となり 、高いと低いとは相手があってこそ現われ 、音階と旋律とは相手があってこそ調和し 、前と後とは相手があってこそ並びあう 。そういうわけで 、聖人無為立場に身をおき 、言葉によらない教化を行なう 。万物の自生にまかせて作為を加えず 、万物を生育しても所有はせず 、恩沢を施しても見返りは求めず 、万物活動成就させても 、その功績に安住はしない 。そもそも 、安住しないから 、その功績はなくならない 。

心と身体とをしっかり持って合一させ 、分離させないままでいられるか。精気を散らさないように集中させ 、柔軟さを保ち 、赤子のような状態のままでいられるか。玄妙な心の鏡を洗い清めて 、傷をつけないままでいられるか。人民を愛し国を治めるのに 、知恵によらないままでいられるか。目や耳などの感覚器官が活動するとき女性のように静かで安らかなままでいられるか。あらゆる物事についてはっきり分かっていながら 、知恵を働かさないままでいられるか。万物を生みだし 、養い 、生育しても所有はせず 、恩沢を施しても見返りは求めず 、成長させても支配はしない 。これを奥深い徳というのだ。

心をできるかぎり空虚にし 、しっかりと静かな気持ちを守っていく。すると 、万物は 、あまねく生成変化しているが 、わたしには 、それらが道に復帰するさまが見てとれる。そもそも 、万物はさかんに生成の活動をしながら 、それぞれその根元に復帰するのだ。根元に復帰することを静といい 、それを命つまり万物活動させている根元の道に帰るという。命に帰ることを恒常的なあり方といい 、恒常的なあり方を知ることを明知という。恒常的なあり方を知らなければ 、みだりに行動して災禍をひきおこす 。恒常的なあり方を知れば 、いっさいを包容する。いっさいを包容すれば公平である 。公平であれば王者である王者であれば天と同じである。天と同じであれば道と一体である 。道と一体であれば永遠である。そうすれば 、一生 、危ういことはない。

人は地に法り 、地は天に法り 、天は道に法り 、道は自然に法る。

柔弱なるものは剛強なるものに勝つ 。

天下の物は有より生じ 、有は無より生ず。

無という道は有という一を生みだし 、一は天地という二を生みだし 、二は陰陽の気が加わって三を生みだし 、三は万物を生みだす。万物は陰の気と陽の気を内に抱き持ち 、それらの気を交流させることによって調和を保っている。

そこで聖人はいう 。わたしが何もしないと 、人民は 、おのずとよく治まる。わたしが清静を好むと 、人民は 、おのずと正しい。わたしが事を起こさないと 、人民は 、おのずと豊かになる。わたしが無欲であれば 、人民は 、おのずと素朴である 、と。

そもそも絶対的正常などはないのだ。正常はまた異常になり 、善事はまた妖(まがごと)になる。

そういうわけで聖人は 、欲を持たないということを欲とし 、珍しい財宝を尊重しない。学ばないということを学とし 、誰もが過ぎさってしまった素朴なところに復帰する。そのようにして万物本来のあり方に任せているのであって 、自分から何かをすることはないのだ。

わたしには三つの宝があり 、しっかりと保持している。第一は慈悲 、第二は倹約 、第三は世の中の人々の先頭には立たない 、ということである慈悲深いから勇敢でありうるし 、倹約であるから広くなりうるし 、世の中の人々の先頭には立たないから万人の長になりうるのだ。もし今 、慈悲をすてて勇敢であろうとし 、倹約をすてて広くしようとし 、人の後になることをすてて先頭に立とうとすれば 、死んでしまうであろう。いったい 、慈悲によって戦えば勝ち 、慈悲によって守れば堅固である 。天が人を救おうとすれば 、慈悲深い人を守るのだ。

なにごとにも進んで果敢に行動する者は殺される。なにごとにもぐずぐずと尻込みする者は生かされる。この二つの生き方には 、利益があったり損害があったり。天がなにを嫌うのか 、だれにその訳がわかろうか。そういうわけで 、聖人でさえ 、自然道理を知ることはむずかしいとしたのだ。天の道は 、争わないのにうまく勝ちを占め 、なにも言わないのにうまく応答し 、招かないのにおのずと到来し 、はてしもなく大きいのにうまく計画されている。天の法網は広々と大きく 、目はあらいが 、なにごとも見逃すことはない。

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2016-05-18 [お勉強]老荘と仏教 森三樹三郎 ISBN:4061596136

pikarrr2016-05-18

[]老荘と仏教 森三樹三郎 講談社学術文庫 ISBN:4061596136 老荘と仏教 森三樹三郎 講談社学術文庫 ISBN:4061596136を含むブックマーク 老荘と仏教 森三樹三郎 講談社学術文庫 ISBN:4061596136のブックマークコメント

老子

孔子のアンチテーゼ、無の哲学

無為、無知、無欲。道は無、無こそ万物の根源

知識が自然を見失わせる

荘子 

万物斉同・・・知識を否定し、ありままの世界、自然世界ではあらゆる対立差別は消失し、すべてが斉しく、すべてが同じ。

万物の始め、根本は有と無を同時に包み込むもの、無限

生死を斉しくする。死が恐ろしく、いとわしいのは、人間が生の立場から死を見ているからである。

運命肯定の思想は中国民族のもの。

仏教の禅宗、浄土教

いかに万物斉同の境地に至るか

唐宋以降、禅や浄土に吸収。仏教の禅宗、浄土教に引き継がれる。

中国的な色彩の強い仏教。

禅宗 無数の不自然を積み重ねなければならない

浄土教 人間の力は微弱、微弱な努力はさまたげになる。

 善導 自然は即ち弥陀国なり

 親鸞 自然法爾

ただ一つ、荘子は重大なことを言い忘れたようである。それは「どうすれば万物斉同の境地に達することができるのか」という、具体的な方法の問題であった。荘子はいきなり万物斉同の境地から物を言っているのであって、そこに到達するための方法については何も述べていない。おそらく荘子は、差別の人為にさえ放棄すれば、そのまま無差別の境地があらわれる、と簡単に考えていたのではないか。

それは荘子のような達人か、それとも老子のいう無知の農民のようなものであれば、あるいは可能であったかもしれない。なまじ知恵の実の味を知った凡人にとっては、万物斉同の理を「知る」ことは可能であるにしても、その境地に「なる」ことは至難のわざである。自然に帰れと簡単に言うけれども、すでに深く不自然に陥っている凡人にとっては、それはたいへん努力を必要とすることなのである。自然になるためには、多くの努力という不自然を積み重ねなければならない。このことに荘子が気づかなかったとはいわないが、しかしきわめて不親切であったことは事実である。

この荘子の残した課題をとりあげ、その解決にあたったのは、道家の後継者よりも、むしろ仏教の禅宗であり、浄土教であったといってよい。禅と浄土は、中国仏教のうちでも特に中国的な色彩の強い仏教だといわれている。それは宋元明清の時代に残った仏教が禅と浄土だけに限られているという、歴史的な事実によっても証明されている。その場合、禅と浄土の「中国的」な要素とはなんであるのか。ひとくちでいえば、それは荘子の思想である。禅と浄土は、インドの仏教に起源をもちながら、中国の荘子の哲学から深い影響を受けとった、いわば混血児の仏教である。この禅と浄土が解決しようとしたのは、荘子が言い忘れた「いかにして万物斉同の境地を実現することができるか」という、方法論の問題であり、実践の問題であった。

禅宗の場合は、自然になるためには無数の不自然を積み重ねなければならないことに気づいた。つまり自然の境地に達するためには、精進努力という不自然が必要だというのである。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)を仏法とし、坐禅を仏を行ずる道であるとするのは、この考え方のあらわれであろう。しかし、このような自力の道に絶望するところに浄土教が生まれた。人間の力は、しょせん微弱なものでしかない。その微弱な努力が、かえって自然境地に達することの妨げとなる。弥陀(みだ)の常寂光土(じょうじゃっこうど)は――万物斉同の自然の境地は、ただそれへの思慕の念を強めることによってのみ得られる。「自然は即ちこれ弥陀国なり」といった善導、自然法爾(じねんほうに)を説き「無上仏とまうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに自然とはまうすなり」「かたちもましまさぬようをしらせむとて、はじめて弥陀仏とまうすとぞききならひて候。みだ仏は自然のようをしらせむれう(料)なり」と語った親鸞など、浄土教の極地を説いたものは、そのまま荘子の道に通ずることをしめしている。P36-38




前三、四世紀 春秋時代

・民間信仰、神仙説

・政治闘争に職能をもつ知識階級 孔子、儒学の道は仁義忠孝

・職能的地位に望みを絶っ、超越した批判的態度 老子

 老荘思想、死を憎まないので神仙説ではない

前二世紀 前漢

・自由放任政策、道家全盛

後漢

・儒教全盛、黄老説廃れる

・仏教伝わる

後漢末 

・道教へ脱皮、五斗米道の反乱 、太平道

四世紀初 東晋、永嘉の乱

・仏教が爆発的に広がる

・格義仏教、老荘思想と結びつけて理解

 心無義 

 即色義 支遁

 本無義 道安

五世紀 

・鳩摩羅什の訳経、格義仏教は後退、真の仏教理解

六朝隋唐

・仏教はめざましい発展、すべての宗派が出揃う

・禅宗 文字言語を媒介とした理論を退ける、真理の体験的直感を重視

・浄土教盛ん 曇鸞、道綽しゃく、善導

唐末

・会昌の排仏 仏教致命的な打撃、禅宗だけ隆盛

十二世紀 宋代

・仏教は禅宗の独断場、民衆の信仰のために、念仏を取り入れる

・三教一致の思想、全真教 禅宗の採用

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2016-05-03 日本史表

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律令国家創世

6世紀 継体天皇、<飛鳥時代>、聖徳太子 十七条憲法

7世紀 (唐建国)、大化の改新白山江の戦い、天武・天智、大宝律令、<奈良時代

8世紀 平城京遷都古事記日本書紀大仏完成、<平安時代>、坂上田村麻呂平安京

貴族武士

9世紀 最澄空海藤原摂関、菅原道真

10世紀 平将門藤原純友の乱空也藤原道長、(宋建国)

11世紀 藤原頼通前九年の役後三年の役院政

12世紀 保元の乱平治の乱鎌倉幕府

地方創世

13世紀 元寇

14世紀 建武の新政南北朝、(明建国)、義満 

15世紀 応仁の乱

16世紀 室町幕府終焉川中島の決戦、桶狭間の戦い文禄の役

成熟から近代

17世紀 関ヶ原の戦い大阪の陣、武家諸法度元禄時代、(清建国)

18世紀 享保の改革田沼意次寛政の改革

19世紀 天保の改革下田条約大政奉還明治維新日清戦争

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