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2017-03-19 近代日本人の性倫理の系譜

近代日本人の性倫理系譜 日本人純愛主義男根主義 近代日本人の性倫理の系譜 日本人の純愛主義と男根主義を含むブックマーク 近代日本人の性倫理の系譜 日本人の純愛主義と男根主義のブックマークコメント

性に寛容な日本人キリスト教倫理


西洋文化は、資本主義民主主義世界拡散した訳だけど、それとともにキリスト教の性倫理という特殊文化を広めた。キリスト教の性倫理はとても厳しくて、基本的には性関係そのもの禁止する。そうすると子孫が残せないので、生涯を添い遂げる夫婦においてのみ許した。それでも厳しい戒律では性行はもちろん、自慰さえも悪として禁止した。

この厳しい性倫理は、近代西洋理性主義を結びついて、近代人なら当然守るべき倫理であり、それが守れない民族野蛮人として、対等に見なされなかった。そのために日本明治において、この厳しい性倫理社会に浸透させるのに苦労した。

そもそも農耕を中心とする文化では、性関係は作物の受精イメージして、めでたいものだった。キリスト教圏外では、性関係は大らかであることが一般的で、日本もそうだった。日本でも、江戸時代春画流行って、一般に売られていたが、当然、エロを楽しむためでもあるが、豊作を願うお守りでもあったと言われる。

江戸時代の性倫理は、儒教の厳しい武士以外は、大らかだった・農民土地に固定して生活していたので、村は生まれたときからの知り合いだし、性行は夜這いとか、盆踊りという乱交とか共同体を結びつける娯楽の一つだった。言ってしまえば、生まれたのが誰の子供かも、いわば村の子供なわけだ。

避妊はなかったが、現代妊娠して3ヶ月内はまだ人間ではないので、中絶しても殺人罪に問われないルールに対して、江戸時代は、生まれてすぐに親が育てると決めるまでは人間ではなく、労働力になる男子確認して決めるなど、間引き一般的だった。避妊術のない時代は、間引き世界的にも一般的だった。




日本人純愛主義男根主義


日本も、近代キリスト教の厳しい性倫理が求められた。特に最初女性行使された。結婚するまで処女を守る、妻は浮気をしない貞操をまもる。一生一人の男に尽くす純愛主義。そこから白馬王子様を待つ夢見る少女趣味神話生まれる。

その裏で、男には合法的売春は認められた。それが戦後売春違法になってから男子にも、純愛主義とともに運命女性を待つ少女趣味が広がる。いまでは、運営女性を求めて、童貞が増えているという。リア充というのは純愛を達成した勝ち組で、彼女ができないのは負け組さら風俗に行くのは純愛からの逃避で負け組という。西洋にもないような、屈折した性倫理に発展している。

そもそも性体験純愛から始まるなんてものは、限られたものだった。昔は村に性体験機能があって、青年になると、村の後家さんとか、誰かが相手して上げていた。都市化すると、売春商売がその機能を果たした。純愛という男女の合意は偶然に作用されて確率論的にも難しいだろう。

さらに、日本近代の性倫理では、キリスト教が導入されるとともに、儒教的禁欲主義も混ざり、男尊女卑の強い純愛主義になっている。儒教の影響から男根主義的で、男性社会的責任感が伴う面が強い。さら高度成長期終身雇用によって、男は働いて一生女性を養うという理想像が出来上がってしまう。

そして高度成長期を終えた80年代ごろから若い男性がそこから逃避し始める。オタク萌えという幼児純粋性への傾倒は、キリスト教的な純愛主義ベースにしていることが確かだが、男根主義社会的重圧からの逃避の面が強い。本来日本人の寛容な性文化としては、幼児性へ向かうことは許容されるだろうが、キリスト教の厳しい性倫理基準にするから、後ろめたくなる。




個人自由キリスト教倫理


近代西洋でもキリスト教の厳しい性倫理に対して、人権個人自由との戦いがあった。キリスト教の厳しい性倫理では、一生に一度の男女の純愛のみが許されたが、純愛の幅も広がり、一生添い遂げる、結婚まで貞操を守るなどは緩和されて、成人同士の恋愛自由度も広がる。さら同性愛犯罪者であり病気なので、法に触れて、強制的な薬物治療が行われたが、戦後闘争によって、同性愛市民権を獲得しつつある。成人が性的興奮を覚えるのは医学的にも仕方が無いので、年齢制限によって、見ることができる性表現を決めよう。売春大人男性が楽しむことは許し、場所をきちんと区切ることが求められる。

いまも厳しいのは、成人以外を性の対象とすること、子供には性欲がないので性の対象として扱うのは、大人暴力しかない。幼児性愛犯罪で、治療必要だ。親子であっても親密すぎるのは問題にされる。

から日本電車という子供もいるような公共の場で、グラビアが見られたり、オタク萌えマンガが読まれるとか、西洋人はこの異常な状況が許せない。要するに、日本人西洋では性表現日本よりオープン勘違いしているが、キリスト教の厳しい性倫理から日本よりも厳しく管理されている。個人自由との調整で、表現ランクにより、年齢や、場所時間などを管理する方法をとった。有名なものが年齢別に区切られた映画R指定だ。だから成人が個人的場所でなら、日本以上の過激表現が許されたりすることを、日本人は性関係オープン勘違いしてしまう。日本は、管理なく、日常に氾濫していることが、西洋人には許せない。

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2017-03-16 なぜ教育勅語はいまも日本人の理想なのか

なぜ教育勅語はいまも日本人理想なのか 天皇通俗道徳 なぜ教育勅語はいまも日本人の理想なのか 天皇と通俗道徳を含むブックマーク なぜ教育勅語はいまも日本人の理想なのか 天皇と通俗道徳のブックマークコメント

教育勅語 12の徳目


1. 親に孝養をつくしましょう(孝行)

2. 兄弟姉妹は仲良くしましょう(友愛

3. 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)

4. 友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)

5. 自分の言動をつつしみましょう(謙遜)

6. 広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)

7. 勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)

8. 知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)

9. 人格の向上につとめましょう(徳器成就

10. 広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)

11. 法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)

12. 正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)




天皇と公平な共同体


左翼過去から現在を批判し、社会を一から設計しよう、設計できるとする。それに対して、右翼社会を一から設計することは困難と考え、過去から現在を尊重した上で改善する。右翼は、日本人は、過去において公平な共同体形成してきたと考えるが、古代天皇による祭政一致に重きをおくのは明治以降である

西郷隆盛は、明治の行き過ぎた近代化による格差社会に対して、江戸時代に見習うべき公正な共同体があったと考えた。そして西南戦争を起こした。しかし敗れ、この系譜は、北一輝から青年陸軍将校による昭和維新へと引き継がれる。世界大戦敗戦により、天皇信仰とともに公に語られることはなくなったが、昭和維新後の陸軍主導による、株主より従業員重視の企業終身雇用、下請制、国家主導産業界地主から解放される土地制度などの改革は1940年体制として組み込まれ、戦後から現在まで受け継がれている。

それは戦争に向けた体制であるとともに、昭和維新企業利益より国民重視をよしとする理念により、格差抑制し公平な社会を作る国家社会主義的な面が取り入れられている。これは、戦後民主主義化においても、変わらず生き残っただけでなく、戦後高度成長期において、国家主導産業推進、従業員重視の企業体制は大きな働きをした。戦後右翼敗戦記憶と結びつき、嫌悪されてきた。しか右翼思想は日本社会の基本となり継承されてきた。

日本型企業や業者行政など 、しばしば日本特有と考えられているものは 、昔から存在していたのではなく 、総力戦遂行という特定の目的のために導入されたものだった 。金融も 、自由市場での直接金融方式から統制的な間接金融に変質した 。

財政制度もそうである税制は 、それまでの地租 、営業税中心の体系から 、直接税中心の体系に変わった 。地方財政は 、分権的なものから 、国に依存する体質に変化した 。

農村の状況も 、大きく変わった 。江戸時代から継続していた地主小作人の関係が 、食糧管理制度の導入によって本質的な変化を遂げたのである都市における地主の地位も 、 「借地法 ・借家法 」の強化によって弱体化された 。

制度だけでなく 、人々のメンタリティ ーも変わった 。官僚制度のものは 、明治以来の歴史をもつが 、官僚意識は 、新官僚革新官僚などの言葉が示すように 、従来のものとは大きく変わった 。

戦後日本社会の特徴といわれる平等主義も 、日本社会のもともとの特質はいえない 。日下 [一九九四 ]は 、それまでの日本企業では 「月給取り 」の正社員は少数で 、 「日給 」の工員や職員との間に画然とした差があったこと 、 「オ ール月給化 」は一九三八年頃からの新しい制度であること 、これが従業員モラル向上に大きく寄与したことを指摘している 。

競争制限もそうである 。例えば 、現在日本では 、食糧管理制度により 、コメの取引は政府管理下におかれている 。しかし 、江戸時代には 、日本コメ市場は 、自由市場原理の支配する市場であり 、世界最初の大規模な先物市場形成していたほどであった 。

1940年体制(増補版) 野口悠紀雄 ASIN:B00979PHW6




江戸時代の公平な共同体


では江戸時代日本人公平性とはなにか。江戸時代身分制度が厳しく、差別社会ではなかったのか。確かに江戸時代は身分による差別はあった。左翼西洋史に照らし合わせて、日本史を語る。しか士農工商制度は縦関係とともに、横関係の制度でもあった。それは職分においてである士農工商とは職の分類であり、それぞれが職を全うすることで世の中を豊かにするという役割をもつ。これは仏教の慈悲から来ている。慈悲において、我を滅して他者に奉仕すること、世界全体が救済されると考える。そこから職分は仏行であるとした職分論が生まれ、士農工商の横関係を支えた。

このような職分論が浸透した背景には、江戸幕府による寺請制がある。国民全員がどこかの寺に帰属しなければならない。これはキリシタン排除とともに戸籍役割をして、国民管理制度として機能する。しかしこの寺請制は単に江戸幕府強制的に導入したというよりも、すでに社会に広まっていた檀家制を利用した。

日本社会が大きく変化したのは戦国時代である応仁の乱後、日本社会秩序は乱れて、戦国時代に入るが、中世に農民を管理していた荘園制は統治者曖昧になり、崩れて農民たちは自力で村の自治を行うようになる。その中で豊かになり、家として継承されるようになる。それまで死者は共同墓地放置されていたが、死んだ家族を弔う、先祖供養という需要が生まれて、葬式仏教が広まる。このために村々に寺が誘致されるようになる。寺は葬式だけでなく、教育機関などの役割を果たすようになる。

天下を統一した秀吉国家統治にこれを利用する。検知を行い、家を明確にして、税を直接徴収する。また職を明確にして、農村から武士商人を分離して、農民の刀狩りにより武力を排除する。さらに徳川幕府が進めたのが、寺請制である戸籍を明確にするとともに、仏教を浸透させた。これにより士農工商は、縦横に統治技術として機能した。




職分論としての世間体


実際には職分論は現代でいう世間体として機能した。世間体と言っても、土地制度に固定され、また周りの助けなくては生きていけない時代世間体は生死を分けるものだった。 世間は、互いの職分を認め合い、助け合い、そして全うしているかを互いに監視する。それは身分を超えて働く。たとえば武士も職分が細分化されて役割をもち、武士同士だけでなく、商人や農民から監視されて、その世間体は命に関わった。

武士は支配層に関わらず、貧困に苦しんだ。享保の改革に始まり、幾度も質素倹約の改革が行われたが、幕府、藩自体が財政難に苦しんだ。年貢を財政の主としていたために、米相場以上に市場経済物価上昇が大きく、相対的収入が減ったためと言われる。当然、商人層は大儲けするわけだが、それに対して武士層は金儲けを卑しいとして、質素倹約を基本とした。世間に対して、武士の職分である徳政を自ら実践し、指導する役目を全うする姿勢がある。武士家系の体面を自らの死をかけて守ったことはよく知られるが、そこにも同様な世間体が関係する。そもそも戦争が終わった時代戦闘を職分とした彼らの存在意義、そして農民からも富を徴収できる理由を絶えず問われ続けていた。





国民とは天皇のために死ねことなり」


たとえば儒教的な縦の関係として武士がいるだけでは、それほど追い詰められることはないだろう。仏教の慈悲において、すなわち世間のための職分において、武士道は思考された。「武士とは死ねことなり」という考えは決して儒教からは出てこない。武士の究極の職分として、主君のために無我となることが職分である。もはや戦いがなくなった中でも、忘れては世間に示しがつかない。使うことがない刀を腰に下げた姿が滑稽になってしまう。

このような武士道は、明治以降に庶民に教育されていく。明治権力者たちの多くは元武士であり、富国強兵のために、一人前の国民として教育するために、彼らが持っていたもの武士道であった。そして主君に変わり、天皇が掲げられた。武士の職分として、主君への忠義が、国民の職分として、天皇への忠義と変換された。そして武士道という武士の究極の職分論は、太平洋戦争で追い込まれたとき玉砕思想を生み出す。「国民とは天皇のために死ねことなり。」




世間と通俗道徳


しかし一方で、江戸時代の職分論は、石田梅岩などの勤勉革命へと繋がっていく。特に江戸時代後期に、商人の職分論は、商人は卑しくない。商売は世間を豊かにする大切な職分であり、金が儲かるのはその結果でしかない。特に市場経済が広がる中で、実際に勤勉に働くことが豊かさにつながった。この勤勉は、二宮尊徳明治期の老農などの農業技術指導者のもと、勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍耐などの日本人としての通俗道徳として広まっていく。

世間は仏教伝来とともに伝わった古い言葉で、もともとはあの世とこの世のすべてを含めた世界全体を表す仏教用語だった。それが徐々に今のように生活圏を表すような意味として一般化していく。それでも世間に恥じないように、など倫理的な基準のとしての意味を持ち続ける。世間がネガティブ意味に変わるのは、近代化により、ソサエティ(社会)と言う言葉が入ってきてからだ。社会民主主義倫理とする言葉で、世間の倫理民主主義と対立する面があるために、徐々に世間はネガティブ言葉として使われるようになった。それでもいまも日本人社会正義より、世間の通俗道徳を優先する面がある。




天皇通俗道徳


明治以降天皇とはなんだったのかという議論がある。明治憲法を作った伊藤博文は、天皇機関説も取っていたと言われる。国家の一機関であり、立憲君主制において、決して絶対的君主ではない。しか昭和初期に天皇機関説を語った憲法学者美濃部達吉は、陸軍など右翼層により弾圧された。彼らにとって天皇は犯されざる神聖な存在であり、それを一機関と呼ぶとは不敬である

方や、昭和天皇自身は民主的な思想の持ち主で、陸軍による侵略的な思想を嫌ったと言われる。しか陸軍を中心とした政府による軍国主義的な政策に反対することはできなかった。昭和天皇明治以降天皇天皇機関説的な存在であることを良くわかっていた。基本的天皇は何らかの思想に肩入れし、自らの意見をいってはならなかった。それにより穢れてしまう。いつも清浄存在であることが望まれた。それはまた一面で通俗道徳と重なる面がある。自らの欲を滅して国民のために存在する清浄さ。教育勅語通俗道徳的であるとともに、天皇が自ら体現する姿でもあり、だから国民は少しでも近づけるように、修練しなければならない。

教育勅語天皇制と結びつけられることが多いが、多くにおいて通俗道徳を語っており、現代においても有用である。この天皇制と職分論の混同が、現代右翼思想を語ることを困難にしている。


通俗道徳 http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/4T/tu_tsuzokudotoku.html


江戸時代中後期の商品経済の展開とともに規範化されてきた勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従などの、当為の徳目としてかかげられた日常生活態度。この儒教的徳目は、18世紀末の石田梅岩石門心学19世紀初の二宮尊徳報徳社大原幽学、中村道三らの老農により唱導され、豪農商や知識人による民衆教化の徳目となることで、家や村を没落の危機から救うための実践すべき生活規範として広範な民衆日常生活に浸透していった。また通俗道徳は、幕末以降の近代転換期に創唱された丸山教大本教などの民衆宗教の教説にもつらなる。あるいは非合法闘争である百姓一揆指導者とされたもののもつ自己鍛錬という通俗道徳規範が、強訴徒党を抑制してもいた。

生活規範のもの実践目的であるにもかかわらず、その結果としていくぶんかの富が得られるという功利性や、民を保護すべき領主を恩頼するという仁政観念との相互規定性により、通俗道徳幕藩体制を支えるイデオロギーとなった。しかし他方で通俗道徳実践は、「生死も富も貧苦も何もかも、心一つ用ひやるなり」(黒住宗忠)と、心の無限の可能性をも自覚化することとなり、ここにはじまる広範な生活者主体的自己形成自己鍛錬への努力が、祭礼や遊興の制限や賭博・浪費の禁止を心がけるなど、生活や心の革新による新たな人間像を創出した。これらの通俗道徳実践日常生活における人間存在のものも変えることで、日本近代化根底から支えるエネルギーとなったが、しかし他方で社会全体性認識する思想体系には至らず、天皇制イデオロギーの土台となった」(阿部[2001:361])

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2017-03-15 日本人の右翼の系譜(テスト)

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1 葬式仏教士農工商体制/仏行職分論

2 勤勉革命/通常道徳/老農

3 西南戦争昭和維新/1940体制


1 葬式仏教士農工商体制/仏行職分論


江戸幕府寺請制という、幕府による寺の登録制とその寺への国民登録制による、庶民管理は有名であるが、これにより庶民が檀家になったわけではない。すでに庶民に広まっていた葬式仏教江戸幕府が利用した。戦国時代荘園制の解体後、自立し豊かになった農民が家系として継続することで、祖先を弔う葬式仏教が普及した。村々に寺ができ、葬式のみならず、相談や教育など広く知識機関として機能し出す。

幕府が寺を利用したのは単に庶民の登録制としてだけではない。徳川家はもともと浄土系の信心深い家系であったが、家康も熱心な仏教徒であり、仏教を統治技術として利用する。士農工商は単に儒教的な縦の支配関係ではなく、庶民の職分を規定し、職分において対等であるとした。それを言葉として明確に示したのが出家前は家康の家臣だった鈴木正三の仏行職分論であるが、この本がそのまま国民に広まり機能した訳ではないが、鈴木正三の考えは家康も共有していた。すなわち国のために庶民が職分全うすることで国が豊かになる、。それは武士も例外ではない。武士権力者であるとともに、庶民のために行政、治安、政治を司る職分である武士ストイックさはこのような職分から考えないと見えない。大乗仏教は慈悲の宗教であるが、慈悲とは無我により他人のために奉仕することである。仏行職分論では、無我により世間のために職分を全うするとなる。そして無我は究極的には自らの死を賭ける。武士ストイックさは、職分のために死を捧げるところを究極とする。




2 勤勉革命/通常道徳/老農


方や、鈴木正三の仏行職分論は、ウェーバーの言う資本主義の初期のプロテスタンティズムの勤勉さと対比される。市場経済は、元禄には江戸など大都市に、そして江戸中期になると全国の都市に広がる。このころ、石田梅岩の勤勉思想は商人に広く浸透するが、そこには職分論がある。商人は金儲ける卑しさ職という偏見に対して、世間のための職分であることで、農民、武士に劣らず尊いとされる。職分の勤勉さが肯定されるとともに、市場経済の中で実際に富を得ることができた。そして、この勤勉革命明治になって、国の推奨として広がっていく。そして勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従などの通俗道徳は、老農により技術とともに広められている。

通俗道徳 http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/4T/tu_tsuzokudotoku.html


江戸時代中後期の商品経済の展開とともに規範化されてきた勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従などの、当為の徳目としてかかげられた日常生活態度。この儒教的諸徳目は、18世紀末の石田梅岩石門心学19世紀初の二宮尊徳報徳社大原幽学、中村道三らの老農により唱導され、豪農商や知識人による民衆教化の徳目となることで、家や村を没落の危機から救うための実践すべき生活規範として広範な民衆の日常生活に浸透していった。また通俗道徳は、幕末以降の近代転換期に創唱された丸山教大本教などの民衆宗教の教説にもつらなる。あるいは非合法闘争である百姓一揆指導者とされたもののもつ自己鍛錬という通俗道徳規範が、強訴徒党を抑制してもいた。

生活規範のものの実践が目的であるにもかかわらず、その結果としていくぶんかの富が得られるという功利性や、民を保護すべき領主を恩頼するという仁政観念との相互規定性により、通俗道徳幕藩体制を支えるイデオロギーとなった。しかし他方で通俗道徳の実践は、「生死も富も貧苦も何もかも、心一つ用ひやるなり」(黒住宗忠)と、心の無限の可能性をも自覚化することとなり、ここにはじまる広範な生活者主体的自己形成自己鍛錬への努力が、祭礼や遊興の制限や賭博・浪費の禁止を心がけるなど、生活や心の革新による新たな人間像を創出した。これらの通俗道徳の実践は日常生活における人間存在そのものも変えることで、日本近代化根底から支えるエネルギーとなったが、しかし他方で社会全体性認識する思想体系には至らず、天皇制イデオロギーの土台となった」(阿部[2001:361])




3 西南戦争昭和維新/1940体制


江戸時代末期には幕府は貧困に喘いでいた。市場経済が広がり物価が上がる中で、米による年貢に頼っていたからだ。米価は下がり物価はあがる。明治に入っても政府財政難は変わらない、そして土地は農民のものとなったが厳しい土地税により苦しみ、地主に集約されていく。さらに富国強兵から財閥支援に金が費やされ、労働者低賃金での過酷な労働を強いられることになる。明治を推進したのは、薩長藩閥の大久保利通伊藤博文などであるが、彼らは西洋に学び、追い越いうことに力を注ぎ、西洋においても問題となった資本主義経済による格差問題への対処をおいた。さらに西洋をよく学んだ彼らはプロレタリア革命の怖さもよく知っており、左翼を徹底的に弾圧した。

明治維新後、政府から離れた西郷隆盛の起こした西南戦争とはなんだったのか。近代化に取り残された武士による氾濫と考えられがちだが、西郷隆盛が目指したのは、明治維新に続く、第2維新だった。急速な近代化により、武士のみならず、農民など下層が貧困に陥りっていた。一部の薩長藩閥政府の独占的な運営と、財閥権力者優位の政策へ反動であった。

西郷は敗れるが、その意思は伝わっていく。たとえば昭和維新を目指した北一輝西郷を先人と考えたのはそのためである明治以降資本主義化によるむき出しの格差の時代であった。それが頂点に達したのは昭和初期の昭和恐慌であるアメリカ世界恐慌とも重なり、子供女の身売りが広がった。その時、労働争議など下層の抵抗は最高潮に達したが、政府により徹底的に弾圧された。

その中で力を持ったのが右翼運動である。そもそも農民は自営であり、左翼とは相性が良くない。そして軍部の兵隊たちの多くは農家の息子たちである右翼は、天皇のもと、格差解消、公平な社会を目指して、政治家財閥幹部へのテロを繰り返す。その究極が226事件である。彼らは北一輝国家社会主義的思想に大きく影響を受けて、軍事クーデターを実行、失敗はしたが、その後、社会陸軍主導の、国家統制的な政治運営へ変わっていく。それは1940年体制と呼ばれてる。1940年体制は、日中戦争に向けての国家総動員体制であるとともに、昭和維新よる国家社会主義的な政策でもあった。企業株主より従業員中心へ、終身雇用年功序列の普及、下請制普及。国による企業統治強化。国家のために生産性をあげる重視。地主の地位を低下させ、土地の開放など。現在までつづく日本型資本主義が生まれた。


国体論及び純正社会主義  北一輝  「北一輝 渡辺 京二 ちくま学芸文庫 ISBN:4480090460


明治維新革命

 1)帝国憲法の水準では社会主義国家

 2)藩閥政府教育勅語の水準では天皇制専制国家

 3)現実経済制度の水準ではブルジョワジー地主の支配する資本国家

  ・明治維新革命明治憲法までの民主主義革命

  ・神権主義的な天皇像は君侯の「忠順の義務」を解除するために作られたもの。

   歴史学的にも天皇古代からの神聖な支配者ではなかった。

  ・天皇国民の支配者ではなく、国家の一機関。

  ・ブルジョワ市民社会個人主義ではなく、献身的道徳による国家社会主義を実現すべき。

   国家は支配者の権力装置ではなく、国民の平等な政治的団結を示す社会


来たるべき第二維新革命・・・科学的社会主義革命

 1)問題なし

 2)天皇制専制国家を反国体憲法違反として無化

 3)ブルジョワジー地主経済的階級支配を廃絶する

右翼は、北一輝天皇機関説はおいて、ブルジョワジー地主経済的階級支配を管理して、献身的道徳による国家社会主義を実現しようとする。陸軍を中心とした右翼が考える献身的道徳とはなにか。国のために、そして世間のために献身的に役割を全うする。北一輝社会主義と言っても、共産主義を目指したわけではない。資本主義は肯定し、そして行き過ぎた利益重視や、権力の独占による格差を生まないような、計画経済を目指した。

自由主義、すなわち経済的右翼と、共産主義、すなわち経済的左翼、平等の軸と言ってもよい。自由競争経済により平等を実現するか、富の分配により平等を実現するか、そこに日本人伝統的な道徳という軸を入れる。すなわち公平性の軸である。いかに公平性を実現するか。みなが道徳的であることによってである。これは曖昧であるが、日本人なら可能である。すなわち道徳とは文化によって異なるが、日本人ハイコンテクストによって、共有している部分が多い。これは昭和維新から現代まで続く日本人近代システムだ。

Wiki 教育勅語 12の徳目


1 .親に孝養をつくしましょう(孝行)

2. 兄弟・姉妹は仲良くしましょう(友愛)

3. 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)

4. 友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)

5. 自分の言動をつつしみましょう(謙遜)

6. 広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛)

7. 勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)

8. 知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)

9. 人格の向上につとめましょう(徳器成就

10. 広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)

11. 法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)

12. 正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)

1940年体制  「1940年体制(増補版) 野口悠紀雄 ASIN:B00979PHW6


1 「日本型」の企業構造

<体制前> 

株主のための利潤追求の組織よりも、従業員の共同利益のための組織

戦前期において、日本でも経営者会社大株主であり、企業株主の利潤追求のための組織だった。

<体制後>

・1937年「国家総動員法」により、配当が制限され、株主の権利制約され、従業員中心の組織へ。従業員共同体としての企業形成

終身雇用制や年功序列賃金体系は戦時期に賃金統制が行われ、全国的に普及。

先進諸国では産業別組合日本では企業労働組合

・下請制度も、軍需産業の増産のための緊急措置として導入


2 金融システム

<体制前>

・1930年代ごろまで日本金融システムは、直接金融、とりわけ株式による資金調達比重が占めていた。

<体制後>

・戦時期に間接金融へ。資源軍需産業に傾斜配分させることを目的とした。

・配当が制限されれば、株価は低下し、株式市場からの資金調達が困難になる。企業形態株式中心のものから従業員中心のものへ。


3 官僚体制

<体制前>

官僚が民間の経済活動に直接介入することは少なかった。

<体制後>

・1930年代の中頃から、多くの業界に関して「事業法」が作られ、事業活動への介入が強まった。

業界団体営団、金庫などは、形を変えながら現在の生き残り、経済活動に対する官僚統制や行政指導の道具として、あるいは官僚天下りとして、重要な役割を果たしている。

革新官僚の登場。企業は利潤を追求するのではなく、国家目的のために生産性をあげるべき。現在に至るまで、官僚意識に大きな影響を与えている。


4 財政制度

<体制前>

戦前期の日本の税体系は、地租や営業税など、伝統的な産業分野に対する外形標準的な課税を中心とする。地方財政自主権をもっていた。

<体制後>

・1940年の税制改革で、世界ではじめて給与所得の源泉徴収制度が導入。また法人税が導入され、直接税中心の税制が確立された。税財源が中央集中化され、特定補助金として地方に配る仕組みが確立現在にいたるまで日本財政基本的性格


5 土地制度

<体制後>

経済的社会的弱者に対する保護制度が社会政策的な観点から導入された。

・1942年に制定された農業政策の「食糧管理法」。単なる食糧管理にとどまらず、江戸時代から続いた地主小作人の関係を大きく変え、地主の地位を大きく低下させた。

・1941年「借地法・借家法」の改正。契約期間が終了した後でも契約が解除しにくくなった。戦後むしと強化され日本社会基本的性格を規定した。地主がいない社会大衆社会を作った。経済成長や産業化が社会全体の目的とされた。大多数の世帯不動産の所有者である状態を作り出す。

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2017-03-11 日本人の右翼思想のパラドクス

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■古くはプラトン以前とプラトンとの違い、あるいはプラトンアリストテレスの違いにまで遡り、スコラ神学者においては神の存在弁証可能性をめぐる対立として再燃した、「主意主義主知主義」の対立がある。厳密に、前者が右翼後者左翼である

■色々な規定可能だが、主知主義とは〈世界〉を知識で覆える(神を合理的弁証できる)とする立場主意主義とはそれを否定する立場だと考えるといい。主意主義がそれを否定するのは、意思知識還元できない端的なものだと見做すからである

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日本人自分たちのことを世界的に標準的人間だと考えている


日本人面白い特徴に、自分たちのことを世界的に標準的人間だと考えていることがある。日本人が考える標準的人間とは、どこかに偏った信念、信仰思想、考え方を持たない人間ということだ。この日本人が考える標準的人間イメージは、無色透明だ。

これは何重にも間違っている。まず世界的に標準的人間などいない。あえて世界的に標準的人間を上げるとすれば、他者に対して、自らが帰属する文化信仰などを自信をもって主張することができる人ということだろうか。日本人が考える偏った信念、信仰思想、考え方を持たない人間とは逆である世界的には、無色透明人間はとても無気味な存在と考えられるだろう。




日本人古代より清浄性を重視してきた


この無色透明イメージは、日本人古代より理想としてきた人間である日本人古代より、人間理想として清浄性を重視してきた。偏った信念、信仰思想、考え方、自己中心的私利私欲、強い欲望を、持たない存在。その象徴天皇である日本天皇古代より頂点に存在しきた世界的にも希有な存在であるが、それを可能にした一つの理由がこの清浄性にある。その時代時代に真に実力をもつ権力者がいたが、天皇が生き延びてこれたのは、権力闘争を超越した清浄存在という位置を、日本人が尊んできたからだ。

たとえば戦前軍国主義は、無色透明イメージとはほど遠い。日本人悲惨戦争へ導いた汚れたイメージであるしか軍国主義へ導いた満州事変や226事件などの青年将校たちによる「昭和維新」は、まさに清明性によって行われた。昭和恐慌もあり国民が苦しむ中で、権力や富を独占する政治家財閥という汚れを、天皇清浄性に基づく公平な国民国家を作るために、排除しようとした。この青年将校たちの清明性を国民英雄視した。そして軍国主義国民国家を上げて進められた。




右翼でなかろうとするほど右翼になる日本人パラドクス


最近教育勅語問題になっているが、ここにも清浄性が働いている。現代では教育勅語過去戦争イメージする、日本人清明性にとっては汚れでしかない。だから嫌悪する。戦争へ導いたのは教育勅語ではなく、日本人の多様な価値を認めない清浄である。そしていまも日本人基本的には変わっていない。きっかけがあれば、清浄性はまた聖戦へ向かうだろう。

日本人が考える標準的人間、どこかに偏った信念、信仰思想、考え方を持たない人間は、世界的な標準ではなく、日本人に偏った考え方である。そして日本人世界的に標準的人間ではなく、とても独特な文化をもった人間である。その清浄性によって日本人右翼である

右翼左翼ではなく無思想であろうとする日本人に独特な古来から伝統的な美学を、右翼という。右翼でなかろうとするほど、右翼になる日本人パラドクス日本人が目指す無思想世間に支えられている。無思想とは島国日本人にみんなと同じであるということ。


Wiki 教育勅語

12徳目

1 .親に孝養をつくしましょう(孝行)

2. 兄弟姉妹は仲良くしましょう(友愛

3. 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう(夫婦の和)

4. 友だちはお互いに信じあって付き合いましょう(朋友の信)

5. 自分言動をつつしみましょう(謙遜)

6. 広く全ての人に愛の手をさしのべましょう(博愛

7. 勉学に励み職業を身につけましょう(修業習学)

8. 知識を養い才能を伸ばしましょう(知能啓発)

9. 人格の向上につとめましょう(徳器成就

10 .広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう(公益世務)

11. 法律規則を守り社会の秩序に従いましょう(遵法)

12. 正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう(義勇)

以上のごとく見れば、利福禍害を意味するヨシ・アシから進んで利福禍害を越えた善悪価値を把捉していた上代人が、その同じ価値を清さ穢さの価値として一層に確実に把捉(はそく)していたゆえんが明らかとなるであろう。彼らは行為祭事的団結において自覚したのである天皇神聖権威への帰依が彼らにとって清明心であった。「私」を捨てて「公」に奉ずるところに、清さの価値は見いだされた。その同じ態度心構えが同時にまたヨシ心として是認賞讃せられるのであるが、しかしそこ自覚地盤天皇尊崇であったという理由によって、それは「善心」としてよりも一層明白に「清明心」として把捉されたのである

かくして「清き心」の伝統は、天皇尊崇立場の一つの顕著な特徴として、この後の倫理思想の潮流の中に力強く生きている。

日本倫理思想史(一) 和辻哲郎 P124-128 ISBN:4003811054

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2017-03-04 なぜ現代哲学史は哲学史の半分を隠蔽したのか

なぜ現代哲学史哲学史の半分を隠蔽したのか マクロコンテクストの時代 なぜ現代哲学史は哲学史の半分を隠蔽したのか マクロコンテクストの時代を含むブックマーク なぜ現代哲学史は哲学史の半分を隠蔽したのか マクロコンテクストの時代のブックマークコメント

現代哲学史哲学の半分を隠蔽する


啓蒙主義による理性主義の挫折のあと、正義は二つに分裂した。マクロコンテクストミクロコンテクストマクロとは、統計的正義ミクロとは、理性主義の継承

哲学史で言えば、ここで社会科学哲学が分離した。マクロは、人間社会科学的に扱う方法、すなわち統計学的発見した。経済学社会学心理学など。そして哲学ミクロを扱う分野として、限定される。いかに理性を救うか。マクロが主流になり、ミクロマクロ監視という倫理学が役割となる。

ここがすごく重要で、現代哲学好きの多くはこれがわかっていない。ようするに、いま哲学史を語るときに、カントから現代までの哲学は、すでに切り離されたミクロという片側しか語っていないということ。マクロ社会科学であり、哲学とは異なる分野と考える。

哲学はすべての学問の源と言われた。せめて人間を扱う学問の源と考えても、現代哲学はその半分も担っていない。現代哲学ミクロしか語らないと言うことを知らないといけない。




ポストモダンの真の意味


こう考えると、ポストモダンの熱狂とは何かの意味も大きく変わる。ミクロ哲学史に限定すれば、マルクス主義現象学など主体論、すなわち理性主義のカウンターとしての、関係の哲学である構造主義理性的であれ!という閉塞から解放。人は関係性の構造の一部でしかない。無意識構造化されている。理性的であれ!と言うことは根性論しかない。

しかマクロも見据えて考えると、もっと複雑な様相がある。マクロ、すなわち哲学を排除して、人間社会学の主流となった統計学的分野とは、たとえばしらーと科学のふりをして無思想を装う経済学という哲学思想。フーコーは「生権力」と呼ぶことでこの化けの皮をはがす。たとえば、ラカン精神分析で、徹底的に心理学を批判する。人は一人一人が幼少から経験という一回性を持ち異なる。心理学というように確率論的に分析はできない。しらーと科学のふりをして無思想を装う心理学の思想性を暴く。

からミクロとしての哲学史に閉塞しないでほしいわけです。プラグマティズムも、ちゃんとミクロとの関係で考えてほしい。特に日本では哲学青春小説から哲学史本はミクロ歴史のみを美しく語る。哲学カントマクロに移行しマイナーになった。主流を人間社会学に取られた。カントヒュームを乗り越えたんじゃない。ヒュームからアダムスミスと続くマクロ本流から逃げて、自閉しただけだ。マルクスはなぜ資本論という経済書を書いたのか。いろいろ批判はありつつ、科学的であろうとした。それはマクロに立ち向かうために、自らも新たな科学的な記述を試みた。




アメリカ人哲学者 VS ラカンデリダ


経済学社会学心理学経営学など人間社会学は、しらーと無思想のふりをしているが、れっきとした哲学思想なんだよ。なぜそれを語らないのかね。現代は、哲学よりも、人間社会学の方が思想としてずっと大きく働いているだろう。

いまはしらーと無思想のふりをする人間社会学の思想性がむき出しになるのが、まさに第二次科学革命の時期なんだよ。社会進化論優生学など、いまは封印されたこれらグロの子孫として、いまの経済学社会学心理学経営学など人間社会学はあるんだよ。哲学青春小説と楽しむならいいが、現実生活の問題とするには、これは避けては通れない。いままさにマクロの思想の中を生きているわけだから

ラカンアメリカを訪問したときの話は伝説だ。マクロの中で生きているアメリカ知識人たちの前に、マクロを批判する。しかラカンは直接的な批判をしない。いつものあのパフォーマンティブ(行為遂行的)な方法をとる。すなわち講演自体が批判演劇として演じる。だからアメリカ知識人たちは????となる。あるいはデリダとサールの論争。パフォーマンティブ(行為遂行的)とコンスタティブ(事実確認的)は判別できるか?

ラカンにしろ、デリダにしろ、ようするにコンスタティブ批判なわけだ。簡単に言えば論理学批判。論理学なんて存在しない。それは、無思想科学なんて存在しないと言うこと。無思想科学もっとも楽観的な信じるアメリカ人たちを批判したわけ。それは、無思想科学信仰がまさに世界を作っているからそしてアメリカ人が楽観的にそれを推進している。




左翼右翼の系譜


古くはプラトン以前とプラトンとの違い、あるいはプラトンアリストテレスの違いにまで遡り、スコラ神学者においては神の存在弁証可能性をめぐる対立として再燃した、「主意主義主知主義」の対立がある。厳密に、前者が右翼後者左翼である

色々な規定が可能だが、主知主義とは〈世界〉を知識で覆える(神を合理的弁証できる)とする立場、主意主義とはそれを否定する立場だと考えるといい。主意主義がそれを否定するのは、意思を知識に還元できない端的なものだと見做すからである


宮台真司 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=259

左翼とは合理性を求めて、コンスタティブに世界が成立しているという美学に魅了される、コンスタティブに世界設計できるという欲望に取り付かれている。対して、右翼はこの世界の成立しているありのままを受け入れて、コンスタティブに理解できない限界を知り、宙づりを生きる。確かに多くは宙づりに耐えられず、そこに神性見る。神の手ナショナリズム国家神道など。そして神性へと傾倒が行き過ぎることもある。宣伝カーから宇宙戦艦ヤマトを轟音で流し徘徊するのは、ネタとしても。

主知主義左翼の一つの起源は、プラトンまでさかのぼれる。プラトン合理主義世界合理的設計されているという美しさは、人類を魅了しつつけた。これは、師匠ピタゴラスの数理神学ピタゴラス教にさかのぼれる。ピタゴラスはこの世界数学的な美しさで設計されているという考え、その数式を探し続けた。それが今の左翼まで繋がっている。対して、主意主義は、アリストテレスなど、世界合理性を放棄して、成立している現実そのものを重視した。

プラトン主義が再び息を吹き返すのは、ルネサンス期だろう。この世界は神の力を借りなくても、合理的記述できる。その頂点がニュートン古典物理学、そして啓蒙主義である啓蒙主義による理性主義の挫折のあと、正義は二つに分裂した。マクロコンテクストミクロコンテクストマクロとは統計的正義ミクロは理性主義の継承




マクロの飛翔


マクロは、統計学ベースに全体において、秩序は現れるという正規分布中心主義。代表的なものが、自由主義経済学だ。ここでは個は全体の一単位になります。個のかけがえのない人権がないがしろにされがちだ。ミクロとは、理性という人権を尊重したもの。代表的なものが、社会主義社会設計主義、共産主義だ。個のかけがえのない人権を尊重しつつ、合理的社会設計しえるという考える。

近代化で、マクロを大々的に取り入れました。このために重要なことは、人々を国民として整流する必要があります。それに大きな役割をしたのが、義務教育です。そして教えるための、国語など国家標準の作成です。近代国家形成では、国民への整流により、国民国家意識の目覚め、ナショナリズムが生まれます

イギリス啓蒙主義ヒュームにしろ、アダムスミスにしろ、まだ合理性を信じていた。彼らは主体の理性は限界であるが、主体間の共感原理として関係性により合理性を担保しようとする。共感において正義は維持される。それはあまりにも楽観的すぎる。アダムスミス国富論では、主体の利己性が集団全体において秩序をもたらすという、マクロへと飛躍する。そこに自由主義経済学生まれる。リカードマルクス、そしてベンサム功利主義。最大多数の最大幸福

たとえば、ダーウィン発明進化論ではなく、突然変異自然淘汰である。すなわち正規分布進化論を作っているという発見であり、これはマルサス人口論からヒントを得たと言われる。人口は、食料の増加に対して、人口が急激に増えることのバランスにより、淘汰により、調整される。これは近代西洋人発見したマクロの成果である。それらの先に、社会進化論が出てくる。たとえば格差マクロ自然な淘汰の結果であり、悪くない。さらに社会進化論優生学、すなわち人類進化論に繋がる。

近代思想のもっと面白い時期が、第一次科学革命と第二次科学革命の過渡期で、まさに混沌として様々な思想が生まれる。まだ科学哲学思想が未分化でトンでもだった時代、そこから現代社会科学の多くが生まれた。


18、19世紀の双方において、数学確率論社会についての真の科学たらんとする希望と固く結びついていた。とはいえ、コンドルセーの「社会数学」とケトレーの「社会物理学」とでは、数学確率社会科学の双方にかんして、それぞれの考えにはっきりとした違いがあった。

18世紀の数学確率合理的人間のなかの1人のエリートの判断と決定とをその主題にとりあげた。また18世紀の道徳科学も行動や信念にたいする合理的根拠を示すことをめざした。いずれもそのアプローチの点では個人主義的、心理学的、かつ規範的であった。

19世紀の確率論者たちは自分たち理論統計的頻度を用いて理解した。19世紀の社会科学者たちは規則性を探究したが、それは個人行動というミクロのレベルではなく、むしろ社会全体というマクロのレベルでの規則性であった。18世紀の思想家にとり社会法則に支配されたものであったが、それは社会合理的個人の総計であったからである。19世紀の反対者たちにとっては、社会はその構成員が非合理的な個人であるにもかかわらず、法則に支配されていた。P200


確率革命」 第6章 合理的個人と社会法則の対立 L.J.ダーストン (ISBN:4900071692

ケトレーはこれらの初期の著作において、何よりも次の事実に関心を向けた。すなわち身長的特徴の平均や非身長的特徴、たとえば犯罪婚姻の比率は、長期をつうじてまた国もいかんを問わず、年齢その他の人口学的変数と驚くべき安定的関係を示すということである。彼が社会的世界の「法則」とよんだのはこれらの関係である。平均人という考え方は、1835年の彼の最初の本で最大の役割を果たしている。しかし彼は1840年以降になると、平均や比率の安定性だけではなく、それ以上にこれらの特性の分布に関心を示した。彼は人間身長体重分布グラフに描いてみると、今世紀初めから研究されていた観測誤差の分布と非常に似ていることに気づいた。そこで彼は、身長属性分布正規分布であるかのごとくみなせるという固い信念を持つようになった。・・・彼の確信によると、十分な観察ができれば、身長的特性の分布のみならず、身体的でない特性の分布もつねに正規分布になる。P234-235


確率革命」 第8章 生命社会統計確率 ベルナール=ピュール=レクイエ  (ISBN:4900071692

 wiki優生学

 1860年代から1870年代にかけて、フランシス・ゴルトンは従兄弟チャールズ・ダーウィンの『種の起源』におけるヒトと動物進化に関する新たな理論に影響を受けて、独自に解釈した。ゴルトンは“自然選択のメカニズムはいかにして人間文明によって潜在的に妨げられているか”という文脈において、ダーウィン研究解釈し、「多くの人間社会経済的に恵まれない人々と弱者保護に努めてきた。それゆえにそれらの社会は、弱者をこの世から廃絶するはずの自然選択と齟齬を来してきた」と論じた。

 ゴルトンは、これらの社会政策を変えることによってのみ、社会は「月並みな状態への逆戻り(reversiontowardsmediocrity)」(統計学において彼が最初に作った造語であるから救出することが可能であると考えた。この語は、現在では一般に「平均への回帰(regressiontowardsthemean)」という用語に置き換わっている。ゴルトンは1865年論文「遺伝・才能・性格」において始めて自説を開陳し、1869年の『遺伝的天才』において、「天才」と「才能」は人間において遺伝するとした。また、「人間動物に対して様々な形質を際立たせるために人為選択の手段を用いることが可能であり、そのようなモデル人間に対して応用するなら、同様の結果を期待することが出来る」として、次のように述べた。

 人間の本性の持つ才能はあらゆる有機体世界の形質と身体的特徴がそうであるのと全く同じ制約を受けて、遺伝によってもたらされる。こうした様々な制約にも拘らず、注意深い選択交配により、速く走ったり何か他の特別の才能を持つ犬や馬を永続的に繁殖させることが現実には簡単に行われている。従って、数世代に亘って賢明結婚を重ねることで、人類についても高い才能を作り出しうることは疑いない。

 --ゴルトン『遺伝的天才』(1869)序文

 優生学20世紀初頭に大きな支持を集めたが、その最たるものが生物学者オイゲン・フィッシャーらの理論に従って行われたナチス政権による人種政策である。他にナチス政権はオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアー(OtmarFreiherrvonVerschuer)による双生児研究双生児研究ナチス))など数多くの優生学上の研究を行っている。

 ナチとの繋がりで研究理論が具体化する一方、公での支持は次第に失われていった。ナチス人種政策という蛮行が多くの倫理的問題を引き起こした事から優生学人権上の問題として取り上げられ次第にタブー化していった。

 しかし近年の遺伝子研究進歩優生学者が説いた「生物の遺伝改良」が現実化できるという可能性を結果として示す事になった。遺伝改良が社会上有益かどうか、また仮に有益だとしても倫理上許されるのかどうかなど、優生学的な研究の是非が問い直されつつある。

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