ヤコペッティ監督の映画とヴォルテールの『カンディード』

simmel20.hatenablog.com水林章東京外国語大学教授の『『カンディード』〈戦争〉を前にした青年』(みすず書房)は、古典的作品の読み方を各専門の学者がポイントを絞って講義する《理想の教室》シリーズの一冊である。この著者は、思想史的問題をあまりに現代に引きつけ過ぎる傾向があり、この本でもそこに引っかかるが、解読の過程は、スリリングで面白い。
 ヴォルテールのこの作品には、「オプティミズム(最善説)」という副題がついている。岩波文庫版(植田祐次訳)の巻末訳注によれば、この言葉は、「たとえ細部においてこの世の合目的性が人間の理解を超えているにせよ、あらゆる出来事は人間の善のために組織されており、したがって可能な限り最善であることになる」と説く「哲学上の立場」をさし、「ドイツのライプニッツやイギリスのポープらによって説かれた」とある。「全き言葉」の支配を暗示する「パングロス」という「最善説」の哲学者の「洗脳」から、「白さ=ナイーヴさ」を暗示する「カンディード」青年が、いかにして解放されていくかを物語った、「一風変わった教養小説(ビルドゥングス・ロマン=ロマン・ダプランティサージュ)」が、この作品なのだということになる。
 カンディードの育てられた伯父男爵の城は、ドイツのウエストファリアに位置していることから、三十年戦争の帰結としてのウエストファリア条約の記憶がこの作品には刻印され、さらに1759年発刊のこの作品の背景には、1756〜63年の最初の世界戦争といわれる七年戦争があると推察される。城を追放されたカンディードは、戦争の現実に遭遇するのである。ところが、パングロスから与えられた「最善説」の知識によって、戦争も戦場も美的な対象としてのイメージで捉えられた。やがてカンディードは、その視点から移行して、解剖学的な部分に分解された、「筆舌に尽くしがたい苦痛を強いられた身体」が死体として散乱する戦場の現実に直面することになる。彼の成長とはこのような意味においてである。
 なお戦場の場面以外にも『カンディード』には、断片化される身体のイメージが執拗に現われるが、著者は巻末に補講の頁を設けて、女性の身体が快楽の道具として、細分化・断片化されて捉えられることと、産業的効率性をめざして、「労働する身体」が分解され細分化されることとは、並行した事象であり、どちらも「18世紀以降確立しつつあった産業の世界における商品関係的論理との関係において理解」されるべきだそうである。
 ともあれ、『カンディード』とは、著者によれば、こうまとめられる。
……あるひとつの世界秩序のなか置かれている人間の意識の、当の世界秩序を正当化し存立せしめている言語的な体制に対する無自覚的な服従からの自由を描くことによって、まさに世界秩序の転換ー近代世界の誕生を告知する作品である、と。……▼

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庭のアヤメ(花あやめ)咲く

 

歴史的差別(ユダヤ人差別)と差別感情

 

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▼わがHP(09年12/10)で、中島義道氏の『差別感情の哲学』(講談社)について記述したことがある.この書には、通俗的理解や、「差別撤廃活動家」の〈専門的〉かつ〈先端的〉議論では汲み尽くせない考察がある。少し整理して再録しておきたい.

 中島義道氏の『差別感情の哲学』(講談社)は、差別の制度あるいは慣行にではなく、それらの是正の努力や必要を認めつつも、心の内なる差別、つまり差別感情に、考察をむけた書である。人の世からあらゆる差別を根絶しようとする〈狂信的〉な〈善意〉の運動は、社会から活力を奪い文化を貧しくさせるだろうし、そもそも無理な目標である。差別感情という人間にとってやっかいで困難な心の問題こそ、根源に存在するからである。『旧約聖書』の神に試されるアブラハムや『福音書』のイエスに限りなく近いところで、しかも自身の体験を踏まえながら、人間にとっての誠実性や悪の問題を、信仰の手前で徹底的に考究している。ここでもカントの徒としての氏の妥協のなさが貫かれていて、知らずもしくは知らないことにして、差別に加担してしまっている日常の〈普通〉さに埋没する倫理的な弛緩を痛打される。
 差別感情の感情とは、個々の体験を通じてあらわれるとしても、その感情は「恒久的」なもので個々の体験・意識を超越したものであり、差別感情の対象は「嫌うべき超越的対象」としてとらえられてしまっているのだと、サルトルの憎悪論を援用して説いている。
ユダヤ人差別や被差別部落など歴史的・文化的に背景をもつ差別の場合、彼らに嫌悪を覚えるにしても、かぎりなく個人的感情から離れていることが多い。われわれは、その差別感情を学ぶのであり、それを確固としたものに築き上げていくのである。』
 しかし「被差別部落など歴史的・文化的に背景をもつ差別」は、差別撤廃の運動の成果などもあり、時間の推移とともに緩和・消失していくだろう。中島氏をmysogynist(女嫌い)で、「赤裸々にすべてを語っているように見えて」「肝心なことが抜けている。だから信用できないのだ」(ブログ)と糾弾する作家・比較文学小谷野敦氏は、「鶴の巣や場所もあろうに穢多の家」と詠んだ正岡子規を嫌っているようだが、このような制度的歴史的差別は弱まってきているだろう。中島氏は、差別的感情を、「他人に対する否定的感情」である、不快・嫌悪・軽蔑・恐怖と、「自分に対する肯定的感情」である、誇り・自尊心・帰属意識・向上心とに一応分類し、それぞれ考察している。とくに現代における本質的差別の根幹に肉薄したところは首肯できる議論である。
『(西洋型)近代社会の残酷さは、「個人主義」という名のもとに、各個人の知的・肉体的能力の差異を認めたうえで、フェアな戦いを要求することである。フェアに戦えば、もともと能力の優れている者が勝つこと、能力の優れていない者が負けることは当たり前であるが、あらゆる差別に対して神経を尖らせながら、こうした能力差別については問題提起しない。』
 ここから生まれる「些細な問題」の積み重ねに、多くの人間は絶望し、ときには犯罪にまで走ることもあるかもしれない。純文学としての小説がこの問題をスルーして、「花園」での〈脱俗的〉営為で自己完結している限りでは見放されるのも仕方あるまい。中島氏は、差別してはならないとの理念を見据えて、しかし自己欺瞞的な自己肯定に収斂しない生き方として、「自己批判精神」と「繊細な精神」をもって、たえず自らの内面=心を点検することを促している。▼

ギロチンの日:ブーランク作曲、ジョン・デクスター演出、ヤネック・ネゼ=セガン指揮『カルメル会修道女の対話』

www.y-history.net  本日は、「ギロチンの日」とのことである。フランス革命の最中、1792年4/25最初のギロチン処刑が執行されたことを記念している。ギロチン処刑といえば、WOWOW のオンライン配信で視聴した、METオペラ、ブーランク作曲『カルメル会修道女の対話』を思い起こす。

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▼10/3(土)午後2:30〜WOWOWライブで、ニューヨークのメトロポリタンオペラ(MET)公演(2019年5月11日)、ブーランク作曲『カルメル会修道女の対話』を視聴。魅了された。ジョン・デクスター演出、ヤネック・ネゼ=セガン(MET音楽監督)指揮のこの舞台は、抽象的でシンプルな舞台装置で構成され、ラスト第3幕のひとりひとりの修道女たちのギロチンによる処刑場面で、「金属の塊が木に落下して衝突する一瞬の音」を生々しく再現している。中心となるのは侯爵家の娘ブランシュで、美形のイザベル・レナード(メゾ・ソプラノ)が歌う。

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               (イザベル・レナード)
 ブランシュがなぜ修道院に入らねばならなかったのか、そこのところは深くは理解しかねたが、カルメル会修道院長(カリタ・マッテラ)が「厳しい戒律のなかに逃避するということではないのでしょうか」とブランシュを試す言葉があって、軽率な選択ではないことを暗示している。バルザックの『ランジェ公爵夫人』では、ランジェ公爵夫人は愛の絶望ゆえに修道院に入るが、この場合は理由がわかりやすい。

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 感動的だったのは、修道院長クロワシー夫人が臨終間際に、その身体的苦痛と死の恐怖に耐えきれず、「自分のこれまでの長い修行は何だったのか」と激しく自問の言葉を発するところ。「窓を閉めなさい」とマリー修道女長(カレン・カーギル)が修道女に命じる。「外部の人に聞かれてはまずい」と。全体として「祈り」がテーマであり、この作品じたいがひとつの祈りであるとすれば、このメタ批評こそ作品の深さを保証するものだろう。▼

千葉県市川市の山本書店閉店

 昔当時の書店主自ら拙宅に買取り出張にきていただいた。大江健三郎三島由紀夫ほか高校時代から愛読していた小説単行本の多くと、美術雑誌みずゑ数十冊など処分。
 東京創元社発刊限定本『犯罪幻想』の江戸川乱歩直筆署名について鑑定し「間違いないです、これは江戸川乱歩の直筆」と。買取り対象ではないとわかると少しがっかりさせてしまったのを、記憶している。




カント生誕300年(1724年4/22誕生)

simmel20.hatenablog.com▼小島准教授の「陽明学的心性」は、マックス・ウェーバー風にいえば、「結果倫理」ではなく「心情倫理」にあたるものであろう。明治になって、この「陽明学的心性」は、キリスト教プロテスタンティズム)やカント哲学そして社会主義思想の受容まで基層で支えていたのではないかと分析している。見事な考察である。
『彼らが信じた「陽明学」を「陽明学ではない」と断言的に否定する権利は、わたしにはない。彼らが求めていたのは、王陽明その人の教説に原理的に忠実に生きていくことではなかった。彼らが置かれた時代背景の中で、生活指針となりうる過去の思想的遺産であった。それは「彼らの陽明学」であった。ここで私に言えることは、「彼らの陽明学は、王陽明陽明学ではない」ということだけである。』▼

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simmel20.hatenablog.com 中島義道電気通信大学教授の『悪について』(岩波新書)は、悪一般について考察した書ではなく、カントの倫理学の紹介でこれまで素通りしてきた問題を掘り下げて取り上げている。あいまいな理解であったところに光があてられてありがたい。
「きみ自身の人格における、またほかのすべての人格における人間性を、常に同時に目的として使い、けっして単に手段として使わないようにせよ」という定言命法の第2式は、カントの「人間は創造の究極目的である」との、広い意味でのキリスト教的人間観を前提としなければ「到底理解できないもの」だということに、鈍感であってはならないだろう。さらに、この場合の「単に手段として使わない」とは、非適法的行為にむけて使わないという意味であることにも注意したい。
 カントの定言命法とは、「いかなる条件にも限定されない命法なのではなくて、実は自己愛という条件に限定されない命法にすぎない」のであり、いっぽう仮言命法とは、「自己愛の動機に条件づけられた命法」ということになる。なるほどすっきりする解説である。そしてこの「自己愛=Selbstliebe」は、「自己偏愛=philautria」と「うぬぼれ=arrogantia」の二つに分けられる。前者の「自己偏愛」は、誰もが幼児のころからもつ自己に対する自然な愛着のことで、実践理性によって道徳法則との一致に制限可能であるが、後者の「うぬぼれ」は表面的、対外的には善人としての振る舞いに隠されてしまうので、「たたきのめす」しかないものである。(なお後半で、定言命法とは、自己愛および、外的完全性や神の意志に盲目的に従う「意志の他律」の条件に限定されない命法と修正している。)
 自殺についてのカントの論証は不十分であると、著者は考える。自殺は、自己愛に基づいているからすべきではないとするが、自己愛から自殺をしない場合は、適法的行為であっても、動機が自己愛に基づくから道徳的に善くないという論証も必要になってくるのに、そういう展開にはなっていない。そもそも自殺の動機が自己愛に限定できるか疑わしい。「ふっと死にたくなって」自殺することもあるだろうから。
『カントは、適法的行為の普遍妥当性を確信していたのではない。疑っていたのではない。彼はおよそ適法的行為の普遍妥当性に対して、興味を示さないのだ。彼が確信していたのは、「道徳的に善い行為」の普遍妥当性だけである。』
 有名な、刺客に追われた友人の逃げ込んだ居場所を「嘘」をついて教えないことは、自己愛の動機による非適法的行為であるとするカント倫理学の厳格主義も、「根本悪」としての「たたきのめし」難い人間の自己愛をいっぽうに見据えて、あくまでも「道徳的に善い行為」の普遍妥当性を堅持するためであろう。(批判に晒されて、友人が助からないとは限らないなどと弁解しているところは、カントも可愛いものだ。)
『こういう事態は、日常的にもいたるところに転がっている。あなたが、非適法的行為(嘘)を実行して「しかたがなかったんだ」と呟いてはならないように、たとえあなたが道徳的に善い行為を実現したとしても、その結果他人に禍を及ぼした場合、やはり「しかたがなかったんだ」と呟いてはならないように思う。自分を守ってはならないように思う。
 では、あなたはどうすればよかったのか。正解はない。あなたが道徳的人間なら、あなたはどちらを選ぼうと「しかたがなかった」と呟いてそれから眼を逸らせてならないことだけは確かである。あなたは、どこまでも「自分はどうすればよかったのか?」と問いつづけなければならない。たとえその答えが永遠に与えられなくとも。』
 素人には窺い知れない深い蓄積を土台にカントをいじくり回して、出てくる結論は、案外に常識的なことではある。あるいは、パリサイ派と対決したイエスと重ねても間違ってはいないだろう。むろんどこかですでに聞かされたことだからといってたやすく実行できる生き方ではなく、重く受けとめなければならないのはいうまでもない。▼

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         庭のハナミズキ満開

物語のなかの小道具の存在

 

 バルザックの中篇『あら皮』は、骨董屋で売られていたあら皮が、これを手にした所有者の人生を動かしそして破滅させるという物語、好きな作品である。ここでは、あら皮がまるで「利己的な遺伝子」のように所有者の人生を支配するが、そこまで主役級のはたらきをせずとも、物語(小説・映画・演劇)のなかで小物(小道具)が存在感をそれとなく示している場合が多いのである。

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映画館と映画へのオマージュということでは、とうぜんジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』がある。成功した映画プロデューサーになった主人公のサルヴァトーレが終幕で、映画のキスシーンばかりを編集したフィルムを観るが、そこには女性同士のものはなかったと記憶する。この接吻のエピソードは、樋口尚文監督がそっと追加したかったのであろう。拍手。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110414/1302760815(「Merci Beaucoup Birkin!」)
 映画パンフレットの記事によれば、第12のエピソードの白いボールは、ロジェ・ヴァディム監督ほかの『世にも怪奇な物語』に出てくるのだとのこと。さっそくこの映画のパンフレットにあたると、第3部(現代篇)「悪魔の首飾り」の小道具と判明。第13での「それは暁というのです。お客さま」とヒナコ=佐伯日菜子が言う台詞は、ゴダール監督『カルメンという名の女』のものだそうだ。後で確かめてみたい。