いま現在の運動へつらなるラディカリズム by 小倉利丸 (『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』第1巻解説)

 シチュアシオニストは様々に語られてきた。少なくとも、欧米諸国ではそういえる。欧米の思想や運動をいち早く紹介することに長けているこの国に於いて、シチュアシオニストへの注目の少なさは、特筆すべき興味深い問題である。*1戦前戦後を通じて、この国のマルクス主義の「発達」は、国際的にもよく知られていた。アカデミズムも含めて、左翼の影響力は非常に大きなものがあった。にもかかわらず、シチュアシオニストがほとんど注目を集めなかったのには大きく3つの理由があるように思われる。1つは、シチュアシオニストの出自に関わる。ギー・ドゥボール、ラオール・ヴァネイジェム、アスガー・ヨルン、アティラ・コタンニなどの主要なメンバーのいずれもが政治活動家であったり、マルクス主義の知識人であったりしたわけではなかった。彼らは、後に述べるように戦前のダダ、シュールレアリスムの運動、戦時中のレジスタンスなどに関わってきたり、影響を受けてきたアーティストだった。従って、いわゆる政治運動やマルクス主義の文脈からは彼らの運動や存在は見えなかったに違いないということが言える。第2に、かれらの出自であるアヴァンギャルドの芸術運動のなかで、彼らが占めた位置がこれまた日本における理解の周縁部分に位置するものだったということができる。アヴァンギャルド運動の日本での捉え方によれば、戦前のダダ、シュールレアレスムの運動を戦後に媒介する最も重要な人物がアンドレ・ブルトンであったということになる。このこと自体は決して誤りとはいえないが、しかし、アヴァンギャルド運動の多様性がブルトンの名声の影にくかくされてしまった感がなくもない。シチュアシオニストたちは、特に戦後のブルトンの運動には批判的であり、ブルトンとは別の道をたどった。戦時中亡命していたブルトンと、ナチス支配地域でレジスタンスに参加していたシュールレアリストたちの間で、政治への認識の隔たりがあり、それは戦後のアヴァンギャルト芸術運動の政治との関わりに関して大きな食い違いを生ずる原因ともなった。SIの前身のひとつであるCOBRAの運動は、神秘主義に傾斜したブルトンシュールレアリスムへの反発として結成されたものであった。こうした事情が彼らの紹介を遅らせたことになる。そして、最後に、彼らの問題意識がいわゆる「芸術」の枠を超えてた社会変革への欲求に支えられていたことがあげられる。そのことが芸術プロパーからのアプローチを試みる人々にとっては、むしろ逸脱とみなされ、芸術や文化の運動というよりはむしろ政治運動とみなされた。しかし、政治運動の側から見れば、シチュアシオニストが社会変革の中心的な「場」として設定したのが、都市空間と日常生活であったことは、労働者階級と工場に拠点を築こうとしてきた伝統的な左翼やマルクス主義の問題意識と大きくずれることになった。 60年代は、都市空間の中で、文化と政治を横断し、労働と生活を横断し、更に、プロテスタンティズムも労働倫理も異化する大衆の自立的な欲望の噴出した時代であった。シチュアシオニストは、この時代の意識をもっともよく体現した運動になり得たのは、彼らが変革の拠点を日常生活と消費にかかわる商品経済とメディアに据えたからに他ならない。68年の5月革命はそのことを端的に表明する運動であった。
 シチュアシオニストの位置は、1968年のパリ5月革命をきっかけに大きく変化した。それは、5月革命だけに原因があったということではなく、60年代末くらいから資本主義のありようと反体制運動の流れがはっきりと1つの転換期を迎えたということに関係している。つまり、工場労働者を中心とする階級構成が拡散し、労働組合を中心とする運動の形態が徐々に後退し、既成の左翼政党の指導に従わない、自立した小集団が簇生し、働く権利よりも働かなくても生活できる権利を、労働の尊厳よりも労働から解放された多様な文化と生活の様式への権利を主張し始めた。こうした傾向が必然的に工場よりも都市空間そのものを反体制運動やカウンター・カルチャーの運動の主要なアリーナとすることになったのは当然のことといえた。
 ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』に見られるように、シチュアシオニストの視野に工場労働者も入っていた。しかし、工場労働者が明確に運動の主体として理解されるのは、マルクス主義の影響がはっきりする後のことだ。むしろ本分冊に収録されている初期の文章には労働者階級といった「労働」を参照点とした人々の分類はそれほど明確には現れなていない。このことは、シチュアシオニストの議論に少なからぬ矛盾を持ち込むことになったと思う。というのは、ドゥボールの『スペクタクルの社会』がルカーチマルクスに影響されたことをあまりに強調することはかえってこの本やドゥボールのおもしろさを半減させてしまうかもしれないからだ。『スペクタクルの社会』は、ドゥボールがレトリスト、コブラ、イマジニスト・バウハウスといったシチュアシオニストに先行するいくつかのアヴァンギャルドの運動のなかから継承してきた観点とマルクス主義アナルコ・サンディカリズムから受け継いだ観点が共存はしているものの両者の有機的な結びつきを実現するには至っていないからだ。とはいえ、ドゥボールのこの本の意義は、従来のマルクス主義者──多分、アンリ・ルフェーブルを例外として──が試みなかった消費社会としての資本主義批判を、アヴァンギャルド芸術運動のなかで蓄積された資本主義批判の方法と観点を継承して展開したところにある。マルクス主義やその運動史の記述は、必ずしもオーソドクスとは言えないとしても、全く斬新なものというわけでもない。この本をこうしたマルクス主義の文脈の部分で代表させるとすれば、評議会社会主義派のマルクス主義という以外に新しいものは見いだせないかもしれない。ところが、すでに今世紀はじめのロシア革命、ドイツ革命やイタリアの評議会運動のなかで繰り返し提起されてきた工場評議会の思想は、当時からひとつの大きな問題をかかえていた。それは、革命の拠点を工場におくことによって、生産的労働者の生産組織と政治的意志決定の組織を有機的に結びつけることを構想するものであった反面、工場の外で主として遂行される〈労働力〉再生産過程を労働者が自立して担い、そこに関わる政治的意志決定のための組織を、工場と同様のレベルで理解することができなかったということである。失業者や子ども、高齢者、病者、そして多くの場合、女性もこうした評議会運動の中心ではなく周辺に追いやられざるを得なかった。こうした帰結は、工場を中心とする労働運動と生産的労働に高い評価を置くマルクス主義の伝統と無関係ではなかった。この意味でも、ルフェーブルが都市という空間に注目した意義は大きいのである。そして、このルフェーブルの観点をふまえて消費社会を全面に押し立てられたのは、最初から工場労働者といった集団性からは除外されていたアーティストという立場にいたドゥボールたちの位置のもつ意義が大きかった。
 商品の生産ではなく、消費様式に着目して、スペクタクル化された社会が生み出す受動的な大衆像がマルクス主義につけ加えられたことによって-──たとえ、そのつなぎ目が必ずしも完璧ではないとしても-──、マルクス主義そのものが変わりうる可能性を示したこと、その意味で、『スペクタクルの社会』は、私には刺激的なのだった。しかもシチュアシオニストは、SIの解体にもかかわらず、イタリアのアウトノミア運動とともに、70年代以降のラディカルな思想と運動のアンダーグラウンドを支える非常にユニークな位置を占め続けた。
 
 資本主義が市場経済の「無政府性」と工場内分業における資本家の権威主義的な管理に二分されているというのは、必ずしも正しくない。経済学が長年なじんできたこの二分法は、資本主義が地理的な空間の上に配置された機構であるということをすっかり忘れている。都市計画が近代社会においてどのような意味と位置を占めているのかがこうした空間的な概念の欠如したオーソドクスな経済学──もちろんマルクス主義のそれも含めてだが──には理解できない。シチュアシオニストは、都市批判の方法と実践に関して、いくつかの重要な概念を提起した。「統一的都市計画」「心理地理学」「漂流」そしてスペクタクル批判という観点そのものがこの都市の風景とそこに込められた商品化の意識下での強制への鋭い批判だった。「1950年代末の統一的都市計画」(本書所収)に、シチュアシオニストの都市論の観点が表明されている。「統一的都市計画」は、日本語のニュアンスからすると非常に堅苦しい、計画化の発想をよりいっそう押し進めるような印象──たとえば、資本主義の無政府性を超克する社会主義的な計画経済といった印象──を与える。しかし、そうではない。統一的都市計画は、「都市計画批判」であり、学説ではないばかりでなく、「機能主義の乗り越え」「情熱的な機能的環境に到達すること」をめざす「未来都市の社会空間のための実験場を目指している」というのである。
 資本主義の都市は機能主義を追求している一方で、資本主義なりの非機能主義的な側面を常に都市の中に残す。たとえば、教会建築がそれだ。教会は、資本主義的な機能主義にとって無用のものなのではなく、教会は資本主義を、あるいはスペクタクルの受動的な参加を支える「心理的-機能的現実」を体現しているのである。資本主義が必ずしも経済的合理性や近代合理主義の枠組みにがんじがらめに縛られた制度だとはみていないこうしたシチュアシオニストの観点は、彼らの戦略的な対抗領域についての目の付け所のラディカルさと結びついている。つまり、合理主義では処理できない人々の心理的、情動的な諸要素を資本主義はそれなりの方法で──たとえば、教会、映画、ショッピング街、そして現在ならば、テレビやビデオ、そして日本ならば教会の代わりに皇室がその役割を担っているといえよう──処理しているのである。こうした資本主義の「状況」に対して、次のように、積極的、主体的な状況の構築を可能とする実践が第一の課題とされたのだ。「統一的都市計画[UU]は、住宅問題と同様、美的問題とも区別される。統一的都市計画は、われわれの文化の原理である受動的スペクタクルに対抗するものである。われわれの文化においては、人間の介入手段が増した分途方もないまでにスペクタクルの組織化が拡大している。今日、ガラス張りの観光バスで遊覧する旅行者にとっては、都市そのものが嘆かわしいスペクタクル、美術館の補足物と化している。これに対してUUは、都市環境を参加による遊びの場とみなすのである」「都市環境を参加による遊びの場」とすることを主張するシチュアシオニストの観点は、単に都市における居住環境の改善といった発想とは根本的に異なったものを持っている。多くの良心的な都市計画家が意図せざる結果として加担する事になる快適な居住環境=資本にとっての最適な〈労働力〉の再生産という結びつきが少なくとも「遊び」というキーワードによって切断されている。
 しかし、都市の遊技施設や文字どおりのスペクタクルの装置の蔓延を前にして、「遊び」という概念がはたしてどれだけの有効性を持つものなのなのかという疑問が当然生ずるだろう。シチュアシオニストたちは、資本主義の消費都市の機能としての遊びを無視していたのだろうか。彼らは、都市をもっぱら「工業都市」「生産都市」としてとらえていたのだろうか。いや、そうではない。上の引用でもわかるとおり、「ガラス張りの観光バスで遊覧する旅行者にとっては、都市そのものが嘆かわしいスペクタクル」であることを指摘している。都市がスペクタクルの機能を持つのは、それが消費と結びつく場合である。観光は、観光産業によって組織され、ショッピングと結びつけられる。盛り場で遊ぶということは、金を使うということと同義である。シチュアシオニストのいう「遊び」はこれとは正反対の性格を持つものだ。
 「漂流」はシチュアシオニストの重要な状況の構築のための実践を意味している。受動的なスペクタクルに対して、積極的に環境に関与し、環境を変える実践であり、同時に、資本主義のスペクタクルが生み出した労働や遊戯のカテゴリーを異化し、「遊戯的=創造的行動を肯定すること」であった。*2シチュアシオニストたちは、都市の持つ欲望喚起の環境の危険性をよく知っており、「漂流」の実践にいくつかのガイドラインすら設けた。「同一の認識に達した2、3人の少グループが数多く存在する」こととか、「2つの睡眠時間に挟まれた時間という意味での1日」とか、といった注意を与えている。漂流は、「たむろする」という日本語が持つある種のいかがわしさとより目的意識的な都市空間の利用を、戦略的、集団的に組み込んだものといえるかもしれない。
 「一貫性に乏しい生活様式、(略)いかがわしいと見なされながらも、われわれの周りで常に人気を博してきたある種の悪ふざけ──たとえば、夜中に取り壊し中の建物に入り込んだり、交通ストの時に、でたらめな方向に車を走らせて混乱を悪化させる目的で、パリの街をひっきりなしにヒッチハイクして回ったり、侵入を禁じられているパリの地下納骨場[カタコンブ]の地下道をさまよい歩いたりすること──までもが、まさに漂流の感覚以外の何者でもない、より一般的な感覚に属する行為となりうる」
 こうなると、漂流は、ストリートのサブカルチャーと非常に近しいものとなる。パンクスや黒人の若者文化のライフスタイルに同様の傾向を見て取ることは難しくない。
 都市はパラマーケットの空間的な構築物である。市場経済なるものが流通させる商品の本体や貨幣を取りまく商品に関する情報は都市の街路や都市を行き交う人々のコミュニケイション、マスメディアという情報神経系によって初めて人々の欲望のシナプスを刺激することになる。都市はこの意味で資本主義が仕組んだ欲望の生産工場でもあるのだ。消費は、それ自体としては何も刺激的なことではない。むしろ、商品を取得するために自らの欲望を高め、貨幣を手放す瞬間を迎えるまでのプロセスが重要なのだ。まるで、セックスで絶頂期を迎えたり、射精の瞬間を迎えるために、そのプロセスを楽しむように。欲望の「絶頂期」とは、消費者が貨幣を支出する瞬間である。そして、貨幣を支出し終わった消費者は、都市の街路から姿を消してゆく。都市は、まさにこうした消費のトランス状態を提供する空間である。「漂流」は、この都市に仕組まれたコードから逸脱し、マニュアル化された欲望の高まりと貨幣と商品に集約される行為に背を向ける実践だといえる。それは、消費を制度化するパラマーケットに、対抗的な情報の回路を組み込み、あるいは自らの身体を駆使して、パラマーケットの回路図を作り替える実験でもあるのだ。
 こうしたシチュアシオニストの実践は、心理地理学とともに、ダダイズムシュールレアリスムやレトリストの試みを受け継ぐものだろう。しかし、フロイトの無意識に依拠したシュールレアリスムによる自動筆記や都市の遊歩に着想の一端を得ていたとしても、最終的にシチュアシオニストが試みようとしたのが、個人の自己変革ではなく、社会そのものの変革にあったということ、つまり、状況の構築にあったということ、この強固な社会性が芸術や文化の領域に意図的に、しかも挑戦的に持ち込まれたために、シチュアシオニストの運動は、個人主義的なアーティストとの対立を常にはらみ、また、前衛芸術も含む「芸術」のカテゴリーとは最初からずれた位相を抱え込みつつ、しかしなおかつ文化・芸術運動であり続けようともしたということ、このことがシチュアシオニストの興味深い点でもあり、戦後の前衛芸術運動の中ですら余り積極的に評価されないできた理由でもあったといえよう。そして、50年代から60年代にかけてのビート族とか実存主義カウンターカルチャーに対して、そうした都市のボヘミアン的なライスタイルをも脱構築しようとする発想を持っている。多分、こうした「漂流」はドゥルーズ=ガタリが「ノマド」に与えたラディカリズム*3やホームレスやスクウォッターによる意図的な街路の住居化とも通底するものだといえよう。
 スペクタクルとしての都市への批判が、実践的なレベルにまで高められたのが68年のパリ5月革命だとよく言われる。確かにパリの5月の運動にシチュアシオニストが果たした役割は大きかったようだ。*4だがすでに彼らは60年代のはじめに、今後の10年を見通すような分析を提示している。機関誌の7号に掲載された「不運な時代の終わり」ではスペクタクルの拡大とともに、それに抵抗する運動も拡がり、労働現場では労働の秩序そのものに対抗し、労働者を資本主義に統合する装置と成り下がった労働組合を敵に回す大衆的な労働者が出現しつつあることを、具体的ないくつかの自立した労働者たちの闘争のなかに見て取っている。しかも、労働者達の闘争を単に労働現場における労働者の闘争ではなく、工場の壁を超えた拡がりを含意した社会的な闘争と捉えていた。たとえば、1961年1月にリエージュストライキの労働者たちによる新聞『ラ・ミューゼ』の印刷機の破壊は、政府や社会主義政党労働組合の官僚が独占するメディアが山猫ストの労働者達の闘争を歪曲する情報操作が労働者の運動にとって深刻な問題になっていることを背景としたものだった。2月のナポリでの路面電車ストライキに端を発した労働者達の叛乱は、「通勤時間に対する直接的な叛乱」であると捉えられている。シチュアシオニストは、都市やメディアといった従来のマルクス主義が闘争のアリーナの主題としえなかった課題をむしろ全面に据えた。そして、共産主義の構想を単なる生産様式の革命ではなく「実現されたアートの社会」「生活の諸事象の自由な構築」であるとみたのである。これは、ちょうど同じ時期に、徐々に姿を整えつつあったイタリアの非共産党系のマルクス主義者達アントニオ・ネグリセルジオボローニャ、そして共産党内にいたマリオ・トロンティなどが、党と労働組合から自立した労働者の闘争に注目し、後にアウトノミアと呼ばれるような運動へとつながってゆく思想の流れを創り出した時期と重なる。イタリアでもこの時期、労働の拒否、社会的工場といった概念へと結びついてゆくいくつかの新しい概念が提出つれ、生産的労働者主義を批判するようになっていったのである。
 「消費」というカテゴリーが資本主義の転覆と結びつくラディカルな領域を形成するということは、生産点に重点を置く既成の左翼にとってはにわかに肯定しがたい事実であったに違いない。都市の叛乱は常に工場の内部や党、組合の官僚組織によって制度化され、「生活」の革命は、「生産」の革命にとって換えられようとしてきた。この意味で、不定形な都市の路上での叛乱、暴動は、こうした組織された左翼の運動に利用できる限りで評価されたにすぎない。
 多分、シチュアシオニストが示したワッツ暴動に対する評価ほどこうした既成の左翼との立場の違いを鮮明にしたものはないかもしれない。機関誌の10号に掲載された「スペクタクル商品経済の衰退と没落」のなかで、ワッツ暴動を「労働者-消費者がヒエラルキー的に商品価値に従属させられる商品世界に反対する商品に対する叛乱である」と述べている。公民権運動の枠を超えて、都市の叛乱に向かったアメリカ合衆国の黒人の闘争の中に、シチュアシオニストは「合衆国の黒人の問題」を見いだしたばかりでなく、彼らがスペクタクルの商品経済の中に置かれた位置を通してはっきりしてきた「アメリカの問題」、つまり「階級的な叛乱」を見出そうとした。
アメリカの黒人は近代産業の産物である。ちょうどエレクトロニクス、広告、あるいはサイクロトロンのように。そして彼らはその矛盾を体現しているのである。彼らは、スペクタクル的なパラダイスが統合しなければならないと同時に排除しなければならない人々でもあるが、その結果として、スペクタクルと人間的な行動の敵対が全体的に彼らを通じて明らかにされるのである。スペクタクルは、商品と同じように普遍的である。しかし商品の世界が階級対立に基づいているので、商品そのものもヒエラルキー的なのである。商品の必要は──そして従ってその役割が商品世界を周知させるスペクタクルの必要は──同時に、至る所でヒエラルキー的に、普遍的なヒエラルキー化をたらすのである」従って、「これは、人種暴動ではない」のであって、攻撃された白人は、商品のための積極的なしもべである警官たちであり、黒人の連帯は、黒人の商店主やドライバーまで拡がらなかったと指摘している。そして、商店の略奪行為は、ある種の「ポトラッチ的破壊」であり、自然で人間的な豊かな社会ではなく、商品の豊かな社会へのごく「自然な反応」だという観点から支持を表明した。多分、こうした黒人暴動に対して、既成の左翼は「貧困」の問題として理解しようとするだろう。それに対して、シチュアシオニストはむしろ「貧困」という「欠如」の概念ではなく、「商品の拒否」「スペクタクルの拒否」という積極的な意味を与えた。合衆国の白人達がこのスペクタクル商品経済に参与し、その奴隷となっているのに対して、黒人達は最初からこのスペクタクル商品へのアクセスを拒否された存在であった。そのことをむしろ積極的に評価し、そこに生み出されるオルタナティブ生活様式の可能性を最大限に評価しようとしたのだ。ここには、「貧困」と呼ばれるネガティブなライフスタイル──たとえそれが強制されたものであれ──を商品経済の豊かさで解決するのではない、別の道への可能性を見ようとする意志が働いている。
 この観点が重要なのは、このワッツの叛乱から四半世紀以上たって再び引き起こされた同じロサンゼルスにおける黒人の暴動の分析にもそのまま通用するからである。マイノリティの黒人がマイノリテイのコリアンと敵対したということが暴動の本質なのではない。この暴動の背後にスペクタクル商品経済の構造を見出すこと、あるいは「消費という麻薬」を見出すことが必要であり、シチュアシオニストのこの観点はそのための重要な問題提起となっている。そしてさらに重要なのは、スペクタクル商品経済のヒエラルキーの最底辺に位置するすべての人々を、人種や性別を超えて連帯しうる観点を提供したことだろう。都市の暴動が必ず商店の略奪、車への放火といったきまりきったパターンをたどるのは、何もそこに商店があり、車があるからではない。いや、都市という空間が商店や車によって支配されていること、人々の生活の空間が、商品と〈労働力〉や消費者の移動の機械によって占領されているということ、普段は意識すらされないこのごく当たり前の風景を都市の暴動は自覚化させるのである。そしてここにも、アウトノミア運動のなかでの集団万引き(インフレによる実質賃金の低下に対して、生活手段価格を「ゼロ」にすることで対抗しようとしたもの)の発想との共通性を見出すことができる。そして、また、生活の基本的な基盤である住宅の商品化に対して、スクウォッターの運動が世界中の大都市で現在まで大量に引き起こされていることのなかにもこのシチュアシオニストのスペクタクル商品経済批判の観点から見いだせる意義は非常に大きいといえる。
 こうした労働者たちは、既成の政治的な文脈からすれば、明らかに脱政治化され、あるいは犯罪的な集団であった。シチュアシオニストは、こうした労働者の「犯罪化」を18世紀末から19世紀はじめに出現したラダイトたちが当時被った批判に近しいものがあるとみている。ただし、かれらが「人々から仕事を奪う生産機械を破壊することを目的としていた」とすれば、現代の運動は「我々から確実に我々の生活を奪う消費の機械に対する破壊の最初の波」であると捉えられている。
 シチュアシオニストの思想的な起源として繰り返し指摘されるのは、ダダ、シュールレアリスムの流れをくむアヴァンギャルド芸術運動、ルフェーブルによる日常生活批判としての資本主義批判、そして「社会主義か野蛮か」のグループによるスターリン主義的な官僚主義社会主義批判と評議会社会主義の思想であろう。これらの異なる出自がシチュアシオニストの運動の中で最初から矛盾なく共存したわけではないし、ルフェーブルや「社会主義が野蛮か」のグループとの関係も決して友好的なものではなかったようだ。遊戯や漂流といったリバタリアン的なイメージの強い概念を掲げながらもシチュアシオニストは必ずしもこの運動に参加する人々を自由なままにしていたわけではなく、商品経済に荷担したと思われる者や、個人主義的でアートの実践を優先させ、状況の構築という課題に必ずしも積極的でなかったとみなされるアーティストたちを次々に除名していった。この過程でドゥボールがふるった指導力──あるいはもしかたらそれは文字どおり「権力」といっていいのかもしれない──は非常に大きなものであったように思われる。
 私が興味深く思うのは、こうしたどの運動、組織にもある除名や内部抗争、そしてそれが敵対的な感情を喚起するという決定的な段階に到るという政治的な内ゲバ状態が、シチュアシオニストたちの運動の中には比較的希薄であるように見える点である。私が接する情報が一面的なせいもあるのだろうが、批判され除名された人々は、そのことによってシチュアシオニストであることをやめようとはしなかったばかりでなく、本家争いをするわけでもなく、自分なりのシチュアシオニストの道を選択しているのがおもしろいのだ。そして、ドゥボールらによるシチュアシオニストの運動が最も盛んであったと思われるフランスでは、SIの解散にともなって、運動としては70年代の前半で終止符を打ったにもかかわらず、それ以外の除名者を出した諸国では、多様な「状況の構築」を試みる自律的な運動が継続する。最も有名なのが、イギリスのパンク・ムーブメントだろう。すでにセックス・ピストルズ仕掛人であったマルコム・マクラレンとシチュアシオニストとの関わりについては幾つかの言及があるので、ここでは詳しいことはのべない*5が、イギリスのシチュアシオニストの運動を理解するためには、60年代の前半からすでに形成されているキングモブなどの除名者たちによる独自のシチュアシオニストの運動の流れがあったこと、その結果、SIの解体の影響を受けることなく、イギリスでは独自の運動としてその後も影響力を行使しえたということをふまえておく必要があろう。イギリスの70年代アヴァンギャルド文化運動は、独自のシチュアシオニストの影響だけでなく、ダダ、未来派フルクサスからの影響も深く受けていた。パンクムーブメントの中心をなすアーティストたちがおしなべてアートスクールの出身であることの意味は、実はこうした背景と結びついたものだったのだ。*6
 アメリカ合衆国では、シチュアシオニストの運動がある種のオカルティズムと結びついているということが当時から批判されていた。これは、アメリカ合衆国カウンターカルチャー全体がもつ「伝統」のようなものと関係があるかもしれない。ビート・ジェネレーションからヒッピー・ムーブメントといった流れの中に常に見えかくれするアメリカニズムの極端な合理主義への反発、都市と自然の極端な対立の構図のなかで揺れる社会観、プロテスタンティズムに対するマイノリティの民族が持ち込む多様なキリスト教イスラム教、仏教などの諸宗派。オカルティズムや黒魔術といった非合理主義への隠れた欲望は、個人主義的なアナキズム(それは、日本におけるアジア主義のように、極右と極左に共通する反エスタブリッシュメントの土壌である)とともに合衆国のカウンターカルチャーの不可欠なエネルギー源なのだ。合衆国のシチュアシオニストの系譜は、こうしたカウンターカルチャーの環境のなかで理解すべきである。*7
 イギリスも合衆国も、シチュアシオニストの運動は、確実に現在でも一定の影響力を持ちつづけている。イギリスでは90年前後のネオイストやアートストライキの運動で主要な発言者でありつづけたスチュアート・ホームや、『スペクタキュラー・タイムズ』をだし続けてきたラリー・ロウらは明らかにシチュアシオニストの立場をとっている。合衆国では、SIの機関誌のアンソロジーなどを英訳したケン・クナッブのビューロー・オブ・パブリック・シークレット湾岸戦争に反対する声明を発表したし、労働の拒否、投票の拒否、あるいはアナキストであり、エゴイストを主張するボブ・ブラックはまた、シュアシオニストの積極的な支持者でもある。*8また、アウトノミア運動の紹介でも積極的な役割を果たしているニューヨークの出版社、オートノメディアが積極的にシチュアシオニストの運動を紹介し続けているし、たいていのカウンターカルチャー系の半合法的な書籍、ビデオなどのディストリビューターのカタログには必ずと言っていいほど「シチュアシオニスト」が独立の項目で扱われている。それは、目に見える潮流となっているというよりは、合衆国のカウンターカルチャーの活動家や読者たちにとっては共通の「伝統」として浸透しているといったほうがいいだろう。それは、多分、もはやドゥボールが納得する形のものではないだろう。しかし、それが合衆国の「状況の構築」に有効な力を発揮するのであれば、その正統性の是非などという問題はどうでもいいことである。
 もう1つ、シチュアシオニストの影響として欠かせないのが、アーティストたちへの影響である。皮肉なことに、68年のパリ、5月革命から20年を経た80年代末には、SIの回顧展がフランスはじめ各国で行われた。*9芸術を「状況の構築」のなかに解体しようとしたシチュアシオニストは結局美術館の制度の中に呑み込まれてしまったのだろうか。そうともいえるし、そうではないともいえる。多分、今、そのきわどい綱引きのなかにシチュアシオニストの問題意識を受けとめようとしているアーティスト達は置かれているといえる。ビルボードを用いる政治的、社会的なメッセージアートのバーバラ・クルーガー、ジェニー・ホルツァーやアート・アタックの運動を展開したロビー・コナルなど、美術の制度を超えて、都市の環境そのものを変える実験に取り組むアーティストたちは、彼ら、彼女らの主観とは別に明らかにシチュアシオニストの問題意識の延長線上に位置づけることができる。
 こうしてみたとき、シチュアシオニストの影響力は、ポストモダニズムの消費社会批判の言説の世界よりもむしろ、パンクロックやパブリック・アートといった文化的な実践や、意図すると否とにかかわらず、労働の尊厳を支える仕組みに背を向ける人々の生活様式や欲望、スクウォッターや海賊放送、ハッカーアンダーグラウンドなメディア・ネットワークといった中に見いだせそうである。日本の70年代以降の運動がシチュアシオニストやあるいはイタリアのアウトノミア運動の影響を受けることが少なかったということは、日本における「68年」の総括が、文化運動の側においてなされておらず、逆に、政治運動は60年の全学連運動にまでさかのぼる「新左翼」という名のマルクス主義エスタブリッシュメントが引き起こしたスターリニスト顔負けの内ゲバによって、政治と社会の接点を再検討するエネルギーを奪われてしまった。今、シチュアシオニストを紹介する意味があるとすれば、それは、過去の埋もれた運動の「発見」のためではなく、今現在の運動へと連なるラディカリズムの手がかりとしてである。このことは、都市の運動としてのラディカリズムをこの国で展開する上で決して無駄なことではない。

*1:シチュアシオニストに注目したいくつかの文献として、次のものがある。江口幹『評議会社会主義の思想』三一書房、1977年157ページ以下、海老坂武「〈5月革命〉における表現の問題」『講座20世紀の芸術6 政治と芸術』岩波書店、1989年

*2:ドゥボール漂流の理論」(本書所収)

*3:『ミル・プラトー』第12章参照

*4:たとえば、次の文献を参照。Rene Vienet, Enrages and Situationists in the Occupation Movement, France, May '68, Autonomedia, 1992.

*5:たとえば、次の文献を参照。クレイグ・グローンバーグ『セックス・ピストルズを操った男--マルコム・マクラーレンのねじけた人生』林ひめじ訳、ソニー・マガジンズ、Greal Marcus, Lipstick Traces, Harverd University Press, John Savage, England Dreaming, Sex Pistols and Punk Rock, Fiber & Fiber.

*6:次の文献を参照のこと。STEWART HOME, THE ASSAULT ON CULTURE, AK PRESS, 1991. JON SAVAGE, ENGLAND' DREAMING, FABER AND FABER, 1991.

*7:多分、合衆国には正統派のSIといえるグループがあるのかどうかはっきりしない。シチュアシオニストの機関誌のアンソロジーをいち早く出版したケン・クナップのビューロー・オブ・パブリック・シークレットが最も正統派に近いように見えるが、ドゥボールの主著『スペクタクルの社会』やよく読まれているパンフレット『学生生活の貧困』はデトロイトの非常に小さな出版社ブラック・アンド・レッドから出版されている。ブラック・アンド・レッドはアナルコ・サンディカリズム的な色合いの濃い出版物やイタリアのボルディーガ主義者のものなどを出しており、シチュアシオニストというよりはアナキズムに近く、文化、芸術運動よりも労働運動の比重の大きい出版社である。合衆国で最も興味深いのは、出版社オートノメディアの存在だろう。日本でも『GS』のネタ本として知られた『セミオ・テクスト』の発行元であり、イタリアのアウトノミア運動の支援グループや「家事労働に賃金を」のアメリカのグループとも重なる人間関係を持ち、ボードリヤールネグリらのテクストの翻訳でも知られている。同時にオートノメディアは、シチュアシオニストの文献のひとつルネ・ヴェネットの『68年フランス、5月運動』や合衆国のシチュアシオニスト(?)ボブ・ブラックの著作などを出版している。なかでもハキム・ベイのテンポラル・アナキズム・ゾーン(T.A.Z.)はアウトノミア、シチュアシオニストそしてアナキストの考え方をカウンターカルチャーの運動として提起しており、興味深い。Hakim Bay, T.A.Z, Autonomedia, 1985参照

*8:Bob Black, The Right To Be Greedy, Theses On The Practical Necessity Of Demanding Everything, Loompanic Unlimitted.

*9:On the Passage of a Few People Through a Rather Brief Moment in Time. MIT Press, 1991参照。