第11代の天皇。 活目入彦五十狹茅天皇、伊久米伊理毘古伊佐知命とも。
御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の第三子。母皇后は御間城姫、大彦命(孝元天皇第一皇子)の女子なり。
子女には、誉津別命、五十瓊敷入彦命、景行天皇(大足彦忍代別尊)、大中姫命、倭姫命、稚城瓊入彦命、鐸石別命、膽香足姫命、磐撞別命、祖別命、池速別命、五十速日別命、五十日足彦命がある。
御伽話のかぐや姫は実は日本最古の歴史書とも言われる『古事記』で描かれる人物でもあります。それは垂仁天皇の妃に迦具夜比売命として記される人物です。物語、「竹取物語」の主人公のかぐやひめは「竹」から生まれます。『古事記』描くかぐや姫の父の、大箇木垂根王(おおつつきたりねのみこ)もまた、その名前に竹が含まれます。その名前の箇木とは、筒の木ですから竹だと想像出来ますので、香久夜姫は、まさに竹から生まれた子になります。 大箇木垂根王―迦具夜比売命(かぐや姫、垂仁天皇の妃) kodaishikoushou.com 山代之大筒木真若王はその名の通り山城国の筒城に由来を持つと想像されます。ここは現在の京田辺市…
俳振歴歩のひろです。 今日は「俳振歴歩」の中の「歴史」の話です。 8月22日に奈良県葛城市にある「けはや相撲館」を訪れました。名前の通り、相撲に関する資料館です。 相撲の歴史をたどっていくと出てくるのが、當麻蹶速と野見宿祢の二人の名前です。『日本書紀』垂仁七年条に関係する記述があります。垂仁天皇の七年七月七日に、当時無双を誇った當麻蹶速と相撲をとるために、出雲国から野見宿祢を召し、當麻蹶速と天覧試合を行った。互いに蹴り合った結果、野見宿祢が當麻蹶速の腰を踏み折って勝ち、その領地を賜わった。それ以降、野見宿祢は大和にとどまって垂仁天皇に仕えたとされています。この當麻蹶速と野見宿祢の力比べが日本最…
奈良の平城京の北の果てをてくてく🐾🐾 すまりんたちは 古墳を巡りながら歴史散策をしています 本日 「後編」です(^_-)-☆ 平城宮跡歴史公園の北辺を西へ歩いていくと 見えてきたのは復原された大極殿 他の建物の復原事業も行われているようです 平城宮跡の航空写真(photo byすまき) 佐紀神社を過ぎて… 池のほとりをめぐり… 旧い街並みを抜けて行くと… 再び古墳が現れました! ここから 佐紀盾列古墳群の西側部分のかたまりに入ります 佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)は 宮内庁により 第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の「狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)」に治定さ…
第11代・垂仁天皇を紹介し、日本書紀に秘められた謎を明らかにしていく。次の流れで紹介していく。 ・垂仁元年・山辺道上陵・垂仁二年十月・纏向の都・垂仁二年是歳・任那の国名の由来と新羅の争いの始まり・垂仁二年是歳・都怒我阿羅斯等・垂仁二年是歳・任那の国名の由来・垂仁二年是歳・阿羅斯等と比売語曽社 ■垂仁元年・山辺道上陵 日本書紀では元年・十月、御間城天皇(みまきのすめらみこと)が山辺道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)に葬られたとする。 宮内庁では渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)を山辺道上陵であるとし、その被葬者は「景行天皇」と治定している。 山辺道上陵は4世紀中頃~4世紀後半の築造と推…
邪馬台国の謎の女王「卑弥呼」 日本史の教科書に出てきますが、謎に包まれており、邪馬台国の場所さえも九州なのか、奈良なのか未だに論争が繰り広げられています。 そんな謎に包まれた人であるにも関わらず、日本人なら誰でも知っていると言っても過言ではない知名度を誇っているお方です。 今回はそんな卑弥呼の正体について考察していきます。
はじめに 学術論文のようなテーマになってしまいましたね😀日本書紀 #垂仁天皇 #野見宿禰 のよく知られた話から、#宝来山古墳 が垂仁天皇陵ならば、太陽方位を共有する#富雄丸山古墳 の被葬者は!? 目次 奈良盆地北西の「トミ」伝承地エリア 「トミ」に関連する史跡 野見宿禰と垂仁天皇 富雄丸山古墳と宝来山古墳(垂仁天皇陵)の太陽方位の共有(同伴性) 2月16日追記 本文 奈良盆地北西の「トミ」伝承地エリア 富雄丸山古墳(古墳時代前期末、西暦紀元四百年前後)から、大陸も含めて他に類例がなく銅鏡としては世界最大の盾形銅鏡と、同じく世界最大2.37㍍の蛇行剣が出土したニュースに触れて、 ヤマトの古代豪族…
マロ様🐱のお姿は、何をしていても可愛い٩(๑❛ᴗ❛๑)۶💖 少納言👩は、隙を見て強制スキンシップを仕掛けては、するりと逃げられます💦 ああ、「古事記」垂仁天皇の后サホビメのよう‥ 上リンクより引用🌸 第11代・垂仁すいにん天皇にはサホビメという后がいました。 ある日、兄のサホビコに「夫と兄とどちらが愛しいか」と尋ねられ、サホビメは「兄」と答えました。 すると、サホビコは小刀を渡し、天皇が寝入った隙に刺し殺すよう告げました。 サホビメは、自分の膝枕で昼寝をしている天皇を刺し殺そうとしましたが、どうしてもできませんでした。 3度目に小刀をかざしたとき、溢れ出る涙が天皇の顔に落ちました。驚いて起きた…
殉死の廃止と埴輪の起源 垂仁紀略年表 殉死の廃止と埴輪の起源 垂仁帝の有名な治績の一つに、殉死の廃止と埴輪の起源に関する話がある。『日本書紀』に伝えるところでは、天皇の同母帝倭彦命が亡くなった時、その近習者を集めて、尽く生きたまま陵域に埋め立てた。日を経ても死なずに昼夜泣き呻き、遂に死んで腐ると犬鳥が集まってこれを食った。天皇はこれに心を痛めて、群卿に詔して言うには、「主人が亡くなった時に、生前愛しんだ人々を殉じさせるのは、甚だ傷ましいことである。古よりの風であるといっても、良くないのであれば従うことはあるまい。今より以後は、議って殉死を止めるように」と。 その数年後、後皇后の日葉酢媛が天皇よ…
日本書紀に見る狭穂彦の変 古事記に見る沙本毘売の変 物言わぬ皇子 丹波の姉妹 日本書紀に見る狭穂彦の変 続いて『日本書紀』本文では、皇后の兄の狭穂彦王が謀反を企てた話を伝える。皇后が休息して家にいるときを伺い、狭穂彦は妹に語って「汝は兄と夫と孰れか愛しき」と問うた。皇后がその意趣を知らずに、「兄ぞ愛しき」と答えると、狭穂彦が誂えて言うには、「色を以て人に仕えるは、色衰えて寵緩む。今天下に佳人は多し。各々進んで寵を求む。豈永に色を恃むことを得ん。これを以て冀わくは、吾皇祚に登れば、必ず汝と天下に臨まん。則ち枕を高くして百年を終えんこと、また快からずや。願わくは我が為に天皇を殺しまつれ」と。そして…
垂仁紀と垂仁記 垂仁紀に見る朝鮮外交 天之日矛の帰化 新羅王室と天之日矛 但馬氏の祖としての天之日矛 新羅の王子としての天之日矛 垂仁紀と垂仁記 崇神天皇が崩ずると太子の活目尊が即位した。垂仁天皇である。初めに記紀両書に録された主な治績を挙げておくと、『日本書紀』の垂仁紀は、任那・新羅両国との関係に始まり、次いで皇后の兄狭穂彦王の謀反、野見宿祢と角力、丹波の姉妹、皇子誉津別命、伊勢の祭祀、殉死の禁止と埴輪、石上神宮と神宝、新羅の王子天日槍の神宝と続き、田道間守を常世の国へ遣わした話を記して終る。一方『古事記』の方は、まず王宮の場所と后妃皇子女を詳細に書き連ねた後、皇后の兄沙本毘古王の謀反、皇子…