80〜00年代のプロ野球選手。
通称「ホームランアーティスト」「ミスターメイ」。
右投右打、ポジションは三塁手→外野手。背番号は71→24→1番。
1962年4月6日生まれ。熊本県出身。
八代高校時代に熊本県大会で伊東勤と対戦。根本陸夫に素質を見出される。
1981年、ドラフト外で西武ライオンズに入団。
入団5年目の1985年、三塁手の定位置を獲得。
レフトへの美しい弾道の本塁打を持ち味にして40本を打ち、球界を代表するホームランバッターとなる。
1987年、外野手にコンバート。中堅手としてチームを牽引。同年、本塁打王を獲得。
1989年には3割・30本塁打・30盗塁でトリプルスリーを達成。
メジャーに最も近い打者との異名をとる。翌1990年にも30本塁打・50盗塁を達成。
8度のリーグ優勝、6度の日本一に大きく貢献。西武ライオンズの黄金時代を支えた。
清原和博とのAK砲、オレステス・デストラーデを加えたAKD砲を形成。
1991年、正力松太郎賞、日本シリーズMVPを獲得。
「鉄人リスト」と呼ばれる強靭な腕力でレフトへ豪快な打球を飛ばし、
器械体操で培った敏捷な運動神経で、完璧な守備と走塁を見せてファンを魅了した。
鉄壁の守備といい、バック宙でホームインするような身のこなしといい、強打者にして華麗な選手である。
1994年、佐々木誠・村田勝喜・橋本武広との3対3の世紀のトレードで、
渡辺智男・内山智之と共に福岡ダイエーホークスに移籍。
以降、FA権利を一度も使わずにホークス一筋だった。
移籍して連続30本塁打以上の記録は9年で途切れるが、バッティングスタイルを変え、走攻守三拍子そろった中心打者として活躍。
1999年、福岡ダイエーホークスの初代主将となる。
1999・2000年のパ・リーグ優勝に貢献。1999年には日本シリーズMVPとなっている。
2000年8月、北九州市民球場で通算2000本安打を達成。
2002年、惜しまれながら現役を引退。引退試合は西武ドームと福岡ドームで行われた。
背番号1番を永久欠番にとの声もあったが、柴原洋が着用。
2003年、RKB毎日放送の野球解説者を務める。
2005年より、福岡ソフトバンクホークスの二軍監督に就任。茨城ゴールデンゴールズとも対戦した。
2007年、一軍総合コーチに昇格。2008年、一軍チーフコーチに名称変更。
2009年、王貞治の後継として福岡ソフトバンクホークスの監督に就任。
2011年、チームを交流戦・リーグ戦・日本シリーズの完全優勝に導き2度目の正力松太郎賞を受賞*1。
2014年、選手、監督それぞれにおいて、チームを日本一に導いたことが評価され、野球殿堂入り(プレーヤー部門)。
同年、ホークス3年ぶりの日本一を花道に監督を勇退。