Hatena::ブログ(Diary)

box96 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2111-02-28 about box96 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 世の中に 人の来るこそ うれしけれ とは云ふものの おまえではなし  内田百


このブログは「クロ箱」というWebサイトの更新状況、備忘録、身辺雑記、その他です。

頻繁に更新するWebサイトではないので、HTMLの「ホームページ」で十分なんですが、更新状況や身辺雑記はブログのほうが便利そうなので、2011年分からこちらに移行しました。コメントもトラックバックもつけられます。辞書をひくのが面倒な人のために自動生成リンクだってついてます。囲い込まれてるみたいで少々居心地が悪いですが、ともかく多機能です。


クロ箱

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/

クロ箱がどんなサイトかはこちらを

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/web_map.htm

クロ箱ファッキュー

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/faq.htm

どんなやつが書いているのかわからないと気味が悪いという方はこちらを

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/murata_hiroshi.htm

ちまちまコメントなんか書いてらんねえよという方はメールで

164box@mail.goo.ne.jp

2013-09-01

石斧を握りしめて空を見上げる


左肩の激痛で朝早くに目が覚めた。左肩が外れかかっているようだった。起き上がろうとしたら左腰と左股関節にも痛みが走る。腰もひねっているようだった。なにがあったのかわからないが満身創痍である。私は眠っている間にいったいなにと戦っていたのだろう。


授業で脳死の問題を取りあげると、毎年、数名の生徒から、「死の概念や生命観は人それぞれであり、死の定義を法律で定めることは無意味だ」という発言が出てくる。そこで十数年前におきたライフスペースミイラ事件のことを紹介する。事件は千葉県成田市にあるホテルでミイラ化した中年男性の遺体が発見されたところからはじまる。発見された遺体はすでに死後半月以上経過していた。間もなく、その部屋に長期にわたって宿泊していた30代の男性が死体遺棄の容疑で逮捕され、遺体は彼の60代の父親であること、彼がライフスペースという宗教団体の熱心な信者であることが判明した。また、遺体で発見された父親のほうは、数ヶ月前に脳梗塞で倒れ、病院の集中治療室にいたところを教組の指示を受けた息子によって強引に連れ出され、ホテルの一室に監禁されて生命エネルギーを活性化させるという「宗教的治療」を施されていたことがしだいに明らかになり、週刊誌とワイドショーはこの事件のことで持ちきりになった。父親は息子と教祖による宗教的治療の甲斐なく、間もなく心臓停止に至ったが、この宗教団体では、完全に心臓が停止した後も人間は仮死状態にあり、さらなる生命エネルギーの注入によって回復可能だと考えている。そのため、この男性と教祖は、警察の取り調べの中でミイラ化した父親が生きていると主張しつづけた。たしかに死生観は人それぞれ異なる。しかし一方で、ある程度の社会的合意の形成がなければ、人間の社会は成り立たないことも事実である。結局、この事件では、息子と教祖が殺人罪で起訴され、有罪になった。


今年五月、シベリアの永久凍土から肉片のついたマンモスの骨が発掘された。ラジオのニュース解説には、マンモスのクローン再生研究をしているという近畿大学の学者が出演し、この発見がマンモスのクローン再生においていかに重要かを喜々として語った。遺伝子の読み取りはすでに九割方完了しているという。研究者としてはクローン再生がやりたくてたまらないというのはわからなくないが、同時に氷河期に絶滅した動物をいま再生してなんになるのかという疑問もおぼえる。マンモスのクローン再生も宇宙開発も人型ロボットも高速増殖炉も、研究者たちはその夢を熱く語るが、「やりたいからやりたい」というのが本音ではないのか。現代において「科学の発展のため」は必ずしも錦の御旗ではない。授業でこのマンモスのクローン再生を取りあげると、生徒たちの賛否はほぼ半々に別れる。


モンサントの社長から生化学研究室の学生まで、バイオ産業の関係者たちはみな口をそろえて将来の食糧難にそなえて遺伝子組みかえ食品の開発は欠かせないのだと主張する。業界の合言葉になっているようだ。しかし、あきらかに詭弁である。食糧難は食糧の絶対量の不足によるものではなく、社会的要因によるものだからだ。単位面積あたりの収量をどれほど増加させても、富の偏りの問題が放置され、飢えた人々にトウモロコシを回すよりも牛に食わせて太らせたほうが儲かるという経済システムで世界が回っている限り、飢餓はなくならない。それは二十世紀の歴史によってすでに証明済みである。この先、収量を倍にするスーパーコーンや三倍の速さで成長するスーパーサーモンが市場に出回るようになったとしても、バイオ産業の懐を潤すだけで、生活のために腎臓を売らざるを得ない途上国のスラム街生活者の口に入ることはないだろう。一方、日本も含めて先進国では、生産された食料の約七割は捨てられている。生産段階で余剰分が廃棄され、流通段階では各店舗で賞味期限切れが廃棄され、家庭や飲食店では残飯が廃棄され、その結果、人々の口に入るよりも捨てられる食料の方が多くなる。どう考えてもこちらもほうが早急になんとかすべき問題じゃないの。


喫煙の問題は本質的には当人の健康問題のはずだが、なぜか道徳やマナーの問題として語られることが多い。そうした道徳的側面から語られる喫煙批判は、当人の健康を気づかってくれているわけではまったくないので、しばしば説教臭いものになる。また、本人が好きで吸ったタバコのせいで勝手に病気になって国の医療費を圧迫するのはけしからんという言いぶんを近年よく見聞きするようになったが、これはピンピンコロリ運動と同様にファシストの発想である。私たちは税金を支払うためにこの社会に生きているのではなく、日々の暮らしを楽しむために生きている。国や社会はあくまで人が生きるための装置にすぎない。たいていの楽しみは体に悪く、周囲に多少の迷惑をかける。山に登れば遭難することもあるし、甘いケーキをたらふく食べれば血糖値は上がる。運動にしても健康増進になるのはあらゆる競技において初心者レベルまでであり、上達すればするほど体には悪い。ゴルフをすれば腰を痛め、テニスをすれば肘を痛める。そもそも、プロスポーツはもちろん、高校生の部活レベルでも、健康のために体を動かしているという選手はいないだろう。また、用もないのにドライブに出かければ大気汚染と交通渋滞の原因になるし、サッカーの試合も野外ライブもサンバパレードも興味のない者にとってはただの騒音でしかない。では、体に悪いタバコや甘いケーキはもちろん、遭難して迷惑をかける登山も、渋滞の原因になる自家用車も、こどもたちのうるさい運動会も、すべて禁止し、生産性のなくなった寝たきり老人は山へ捨ててくるのか。この社会は「人に迷惑をかけない」という道徳的命題が大好きだが、他者に一切の迷惑をかけられない社会というものほど息苦しいものはない。時に体に悪いことを楽しんだりハメを外したりしながら、互いに少しずつ迷惑をかけたりかけられたりするのが人間の社会のはずである。なのでこの手の問題は「何事もまあほどほどに」というゆるい姿勢で構えるのがファシストたちに幅をきかせないための最良の対処ではないかと思う。


ブラックホールの構造が解明されたとしても明日のおかずが一品増えるわけではない。それは社会にどのような利益をもたらすのかではなく、我々のいるこの世界がいったいどんな所なのか明らかにしたいという根源的な欲求に由来するものである。おそらく、石斧を手にマンモスの群れを追いかけていたご先祖様も、ふとその足を止めて空を見上げ、自らが立っているこの世界の有り様に思いをめぐらしたはずである。以来綿々とつづくこの世界への問いの末端にブラックホールの究明もある。もちろん、たいていの人にとって明日のおかずのほうがずっと重要であり、いつの時代もそれを思うのはへんな人たちである。


いまどき「女性アイドル」といったらAVかグラビアなので、彼女たちに処女性を求めているのは、アニメの声優さんが大好きなアキバ系のおにいさんだけなのかと思っていた。そういう意味で、しばらく前にAKBの女の子がファンの男の子と交際していることが「スキャンダル」として報道され、すったもんだの末に地方グループへ左遷された出来事は驚きだった。AKBの女の子たちはたいてい水着グラビアもやっている。水着姿で不特定多数にセックスアピールするのはOKで、特定個人とセックスするのはダメというのもずいぶん奇妙な価値基準である。えっ、他の男とくっついたアイドルなんか応援するのがバカらしいって、でも、誰とできていようとできていまいと彼女たちはあなたのものになんかならないよ。私は彼女たちの私生活や人間性にはまったく興味がないが、彼女たちのファンがどういう人で彼女たちの偶像になにを求めているのかについては多少興味がある。モーニング娘に人気があった頃、コンサート会場でペンライトを振っているコアなファンたちは、ほとんどが中年男性だったというが、授業を受け持っている高校生たちは、AKBもモーニング娘もあまり関心がなさそうである。そういえば、ラルクのボーカルの小さい人がお天気のおねえさんとくっついたとき、彼の熱烈なファンだという若い女性が呆然とした様子で「よりによって大石恵」とぼやいていたのには、爆笑しつつも少々気の毒な感じがした。よりによってねえ。かくして偶像崇拝はすべからく信仰の道へと向かうのである。神様ならスキャンダルとは無縁だし、テレビのバラエティー番組に出演して余計なことをべらべら喋ったりもしない。ただひたすらに無限の愛でこたえてくれるのである。


19世紀の進歩史観の名残で、いまだに生命進化を劣ったものから優れたものへの「進歩」のあゆみだと勘違いしている人は多いが、進化はあくまで環境への適応である。「適者生存」という概念は、環境に適応したものが生き延びるという意味であって、優れたものが勝ち残るという意味ではない。基本的に食料が豊富で安定した環境では、生物は大型化する。体が大きいほうが縄張り争いで有利になるからだ。逆に食料にとぼしく、環境の変化が激しい場合、小さな個体のほうが小回りがきいて少ない食料でも生き延びやすいので、数を増やしていく。それはその場の環境にどういう生物が適していたのかという問題であって、結果から逆算して種の優劣を論じるのは意味がない。モグラの世界では、西日本に大型のコウベモグラ、東日本にアズマモグラが生息していて、長年、糸魚川静岡構造線が両者の生息境界になっていたが、モグラの研究者によると、近年、コウベモグラが箱根の山を越えて東日本に進出しつつあるという。森林が切り開かれて牧草地がふえたことで、開けた場所での縄張り争いに有利な大型の種が生息域を広げているということらしい。そこでコウベモグラとアズマモグラの優劣を論じるのは、モグラたちの抗争を吉本の関東進出に重ね合わせるのと同じくらいに無意味である。


ユングは人間の無意識の深層には個人を超えて人類共通のイメージが広がっていると説いた。古代からある神話にいくつもの共通点があるのはそのためだという。ユングの思想は、その領域を解き明かすことで、人間の「魂」の根源へ至ろうとするやたらと壮大で神秘主義的な性質を持っている。私たちはこの世界の有り様を直知できないので、意識の中に作りだした像から目の前に広がっている世界を類推することしかできない。目の見える者は見たとおりに目の前の世界があると思いがちだが、視覚情報はあくまで意識の中のイメージのひとつであり、実際には目の見えない者と同様に意識の中のイメージから外界を類推しているにすぎない。だから、ユングのいう集合的無意識はこの世界の成り立ちを説明するひとつのフィクションとしてはおもしろいし、実際に多くの作家がそれに惹かれて集合的無意識をモチーフにした作品を数多く創作してきたわけだけれども、でもさあ、なにを根拠にそんなこと言ってんのさ。神話や昔話に共通点が多いのは、たんに古くから人間の移動と交流が多かったっていうだけじゃないの。思想は言ったもん勝ちではないし、面白ければいいというわけでもない。なので、ユング思想もカバラも天中殺もパワースポットもB型人間も酒の肴にはちょうどいいけど、真顔で語られるとちょっとねえという感じ。


春、玄関先に自生しているエノキの若木は葉が濡れるほど大量の樹液を出す。それに惹かれて、毎年、無数のアブラムシが集まってくる。春に生まれたアブラムシは有性生殖によって卵から孵った個体なので、羽根を持ち、特定の食樹を目指して飛来してくる。うちのエノキに集まってくるのは白い綿状のアブラムシで、そのため、毎年、四月の二週目くらいになると玄関先はまるで粉雪が風に舞っているような状態になる。ところが、四月の四週目くらいになると、今度はそれをエサにするテントウムシの幼虫のほうが目立つようになり、オレンジと黒の幼虫がせっせと枝を這いまわり、アブラムシの捕食をくり返すようになる。テントウムシは成虫で冬を越し、春にアブラムシの多い樹木に産卵する。ナミテントウやナナホシテントウは成虫も幼虫もアブラムシだけを食料源にしているので、その生活サイクルもアブラムシの活動と完全に一致する。テントウムシがアブラムシの臭いに反応して飛来するのか、それとも樹液の臭いに反応して集まってくるのかはわからないが、そのへんは実験すればすぐに判明しそうなので、生物学専攻の学生さん、レポートの課題用にぜひどうぞ。もっとも、ゴキちゃんと違ってテントウムシを誘引する物質を特定しても商品化は難しそうだけど。ともかく、我が家の玄関先では、テントウムシの大群による補食の結果、五月の連休が終わる頃には、綿状のアブラムシはほぼ姿を消し、エノキの枝や葉の裏には大量のテントウムシのサナギが残って、ひと月におよぶスペクタクルに幕が下りる。我が家の春の年中行事である。


こどもの頃、雑誌掲載時に少しだけ読んで続きが気になっているけれどもそれからずっと放ってあるマンガというのがたくさんある。夜中にビールを飲みながらテレビニュースをぼんやり見ているときなどに、ふとそんなマンガの一場面がアタマの中に浮かぶことがある。それはファンタジーよりも当時の社会風俗が色濃く反映されている作品で、「釣りキチ三平」とか「がんばれ元気」とか「レース鳩アラシ」とか「サイクル野郎」とか松本零士の四畳半ものとかあのへん。結局、三平は行方不明のお父さんと再会できたのか、丸井輪太郎は日本一周を達成できたのか、時々気になることもあるけどネット検索はあえてしません。またいつか読む機会もあるだろう。


思想家には奇人変人のたぐいが多い。社会のあり方を考える最大の原動力は「いまの社会はどこかおかしい」であり、常識的で現状に満足している者は思想家になどならないからだ。しかし、二千年前の常識的な人々は、奴隷制度を社会に必要なものと見なし、残酷で非人道的だとは思わなかったろう。世の中がそういう常識的な人間ばかりだったら、二千年後の現在も奴隷制度は続いていたはずである。


校舎裏に意中の相手を呼び出し「つきあってほしい」と言う。学園もののドラマでおなじみの告白シーンである。現実にそんなことがあるのか知らないが、他の国の映画やドラマでこういうシーンを見たことがないので、もしあったとしてもおそらく日本のティーンエージャーだけの独特な慣習だろう。しかし、「つきあう」が「コンビニへガリガリ君を買いに行く」や「ダンボール八箱ぶんの可燃ごみを焼却場まで運ぶ」ではなく、「互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を継続的に共にする関係をむすぶ」である場合、それは個人的な感情をベースにした流動的なものなので、本来、契約関係とは異なり、互いの行為の結果として形成されるはずである。つまり、デートをしたりベッドを共にしたりしながら一緒にいて楽しいと感じられる中で「たぶんこれはつきあっているといえるんじゃないかあ」と後になって漠然と自覚するものである。その自覚をラーメン屋からの帰り道にふと思うか、出産直後の病院のベッドの上で実感するかは人によって異なるだろうが、行為や感情よりも先に関係性のほうを自覚するということはありえない。だから、多少でも恋愛経験があれば、「つきあおう」と関係性の構築を契約によって求めることの不自然さに気づくはずなので、恋に恋する若者以外、そんな無茶な要求はしなくなる。同じことが「友達になろう」にもいえる。友達も恋人も商取引とは異なり、契約によって成立するものではない。そもそも、それまで言葉を数回交わしただけの相手に、「これから先、互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を継続的に共にしよう」ときわめて重大な契約をせまるのは、ゲマインシャフトゲゼルシャフトが浸食してくるような不気味さをもたらすので、たいていの場合、その要求は受け入れられないだろう。とりあえず断られて気持ちをすっきりさせるための自慰行為のような儀式かも知れない。ずいぶん奇妙な慣習が定着したものである。えっ、じゃあどうすればいいのかって、本気でその相手と親しくなりたいのなら、一緒に海へ行こうでも一緒に千本ノックしようでもぶつかり稽古百連発でもいいから互いの共通体験をつくることのほうが先なんじゃないでしょうか。


あらゆる問題は信じるかどうかではなく、常に判断すべきなのだ。判断材料を示さないまま、自らを信じるか否か返答せよとせまる行為は、詐欺師の手口である。


スポーツの試合では、互いの実力が拮抗している場合、かならずどちらかが押している状況がひと試合の中で何度も行ったり来たりする。選手の心理状態や戦術的な駆け引きによってこうした押し引きの展開がつくられるらしい。日本語では「流れ」というが、英語の野球中継を聞いていたら「momentum(モメンタム=勢い)」と呼んでいた。では、スロットマシンやパチンコのようなランダムな確率のゲームに「流れ」は存在するのか。あるわけがない。スロットマシンで「いま流れが来ている」というのはどう考えても錯覚である。偶然を偶然のまま放置することができず、ランダムなパターンの中になんらかの意味を読み取ろうとするのは人間の思考の癖のようなもので、人は立った茶柱に吉事の兆しを思い、突然の春の雪に人生の転機を重ね合わせる。ギリシア悲劇から百人一首まで古今東西みなそうだ。そもそも「見立て」というのは偶然性に意味を見出すことだろう。その運命論的な解釈は確率論的解釈よりも物語としてはずっとおもしろいが、一方で事実認識をゆがめる。もし本当に賭け事が強くなりたいのなら、験かつぎをするよりも確率論を基礎から学ぶほうがずっと効果的なはずだ。ゲームで微妙なのは、麻雀やポーカーのようにランダムな確率とプレイヤーの心理的駆け引きとが組み合わされたもので、イカサマでもしないかぎり牌やカードのディールに「流れ」などあるわけがないが、プレイヤー間の駆け引きにはある。もし、はじめて入ったフリー雀荘で、小指のないおじさんがこちらに鋭い視線を向けて「リーチ」とおもむろに万札を卓に出したら、もうそれだけで自分の手が縮こまっちゃうでしょ。それは明らかに「流れ」をつかみそこねた状況といえる。これらのゲームの場合、チェスや囲碁のような複雑な推論を求められるゲームとちがい、牌やカードの取捨選択は誰でもある程度まではすぐに上達するので、そこから先の勝負事の強さというのは、心理的プレッシャーのかかる場面でどれだけ冷静に状況判断できるかによって決まる。麻雀やポーカーにしばしばお金のやり取りがともなうのも、あえて心理的負荷をかけることでゲーム性を高めようとしているのだろう。


テレビに登場する占い師たちがしばしば差別を助長する発言をくり返しているのは、あらゆる事象には意味があるとする運命論的な世界観に由来する。そこでは、大病を患ったのは「日頃の行い」のせいであり、生まれつき障害を負っているのは「前世の報い」とされる。一方、人権思想の根底には、偶然性がもたらす社会的不合理を是正しようという平等の理念があるので、この世界に偶然など存在しないとする運命論とは根本的に相容れない。占い師でありながら、同時に障害者支援や難民救済に熱心に取り組んでいる人権活動家というのは、きっと世界中探しても見つからないだろう。


趣味人への第一歩は物事を嫌うところからはじまる。朝顔の花を陰湿だと嫌い、ハリウッド映画を仰々しいと嫌い、久谷の彩色をこれ見よがしと嫌い、フランス車を脆弱と嫌い、ブラームスを凡庸だと嫌い、こどもをあざといと嫌い、犬を煩わしいと嫌う。そうして趣味人を気どる偏狭な美意識が研ぎ出されていく。


高校生くらいの若者ふたり組が「センパイ」から小さなオートバイをゆずってもらうことになる。「センパイ」はバイト先のセンパイでもいいし、部活の卒業生でもいい。その小さなオートバイはセンパイの下宿先の軒下で雨ざらしになっていて、所々錆が浮き、エンジンもかからない。半年くらい乗らずにいたら動かなくなったのだという。センパイはもうすっかり興味を失っている様子で、邪魔だからさっさと持っていってくれとばかりにキーを放り投げ、「まあ、キャブ直せば、動くんじゃねえかなあ、動かなくてもタダなんだから文句ねえだろ」とぞんざいに言う。もっとも放置車両の場合、たいていキャブレターにトラブルを抱えているので、その言いぶんはそう的外れではない。ともかく、ふたり組はセンパイのアパートからそのポンコツを押して帰る。押して帰ったはいいが、ふたりともキャブレターのしくみどころか、2サイクルエンジンと4サイクルエンジンの違いもわからない。とりあえず近所の図書館からオートバイの修理本を何冊か借りてくるとことから、ふたりの格闘が始まる。台所の流しで腐食ガソリンのたまったキャブレターを分解して親にしかられ、タンクの中の古いガソリンを近所のガソリンスタンドで処分してもらおうとして嫌がられ、プロのアドバイスをもらおうとバイク屋の親父に相談して盗難を疑われる。でも、エンジンオイルとバッテリーと点火プラグは新しいものに交換したし、キャブレターも徹底的に分解洗浄した。チェーンに油も差したし、つぶれたタイヤに空気も入れた。そうしてのべ一ヶ月間の格闘の末、エンジン始動の日がやってくる。エンジンはすぐにはかからない。チョークを引きながら、汗だくになって何度もキックをくり返す。そうしているうちにようやくガソリンが回ってきたようで、ついにエンジンがプスプスと気の抜けた音をたてながら動き出はじめる。エンジンはすぐに止まってしまいそうに力なく回っている様子だけど、ふたりは猛烈にうれしい。笑いがこみ上げてくる。それが私のオートバイについての原風景。単純で原始的な内燃機関による簡便な乗り物。いまもオートバイと聞くとそんな少し感傷的で少しいじけたイメージが思い浮かぶ。たぶん、ひと昔前なら、似たような出来事はどこにでもあったんじゃないかと思う。


夏になると一日に何度も身体を洗うようになる。そうして自分の体臭を消していくと他人の臭いにやけに敏感になる。ちょうど風呂上がりにそれまで着ていたシャツが「汚れ物」と認識され、洗濯かごへ放り込まれるように、こうした感覚は相対的なものなんだろう。私はわりと鼻がきくので、この状態で電車に乗ると、この人は三日以上身体を洗っていない、この人の口臭キツイなあ歯周病かなりひどそう、この人の口臭は酸っぱい臭いがするのでたぶん胃腸を悪くしてるんだろう、こっちの人からは血の臭いがするのでいま生理中なんだろうといったことまで伝わってきて、もう半径二メートル以内には誰も近寄らないでちょうだいって気分になる。潔癖症まであと一歩という感じで、かなり危険な兆候である。おそらく人間を穢れと見なす思想もこの感覚が生み出したはずである。現代では洗浄用品の性能が良くなったせいで、過去の時代に数十日の水行をへて到達した感覚を一日数回のシャワーで得られるようになったわけだけれども、こういうことはあえて鈍感なくらいのほうが大らかでいいと思う……という話を先日ひさしぶりに母親から電話があった際にしたところ、「なーに言ってんだ、オマエ、それはクサイ奴が悪い、とくに口のクサイ奴は極悪人、ほらオマエの高校一年の時の担任、口臭がひどくて面談で向かいに座ってるだけで吐き気がこみ上げてきたわよ、ああいう輩は半径五メートル以内に来ないでほしいね、それにオマエだって夏場以外は時々クサイ、もうクサイ奴は全員家から一歩も出ないでほしいわ」とえんえん清潔ワンダフルワールドについて小一時間聞かされる羽目におちいった。そうか、俺はこういう親に育てられたのか。


古本屋で「げんしけん」と「海月姫」をまとめて買ってきた。どちらもオタクな若者たちの群像劇で、「げんしけん」は大学のマンガサークルを舞台に、「海月姫」は独身女性ばかりが集まった古いアパートを舞台にストーリーが展開していく。彼らは街でおしゃれな人を見かけたらそれだけで逃げ腰になり、遊び慣れた感じの若者が話しかけてきたら露骨に警戒心をあらわにする。自分がオタクであることによほどコンプレックスと強い自意識があるらしい。だから、自分たちに居心地のいい場所をつくろうと閉じた同質集団を求める。ただ、この時期って自意識の鎧をもてあますのと同時に自分の知らない世界の住人に心惹かれたりするものではないのか。自分がティーンエージャーだった頃を振り返っても、中学の同級生だった暴走族に入って暴れていた女の子のことと高校の同級生だった放課後の図書室でひとりドストエフスキーやヘッセを読みふけっていた文学少女のことはやけに印象に残っている。どちらも陰気なロック少年だった私とは話をしたって噛みあうことなんかなかったが、身近にいる異邦人ということで妙に気になる存在だった。なぜ、マンガの中の若者たちはあれほど同質性に執着するんだろう。社会の細分化がすすんだ結果、小集団間の断絶をアプリオリのものとして受け入れるようになっているんだろうか。その村社会のような排他性はゼノフォビアと根を同じくするものではないのか。そんなもやもやした疑問が読みながら浮かんだ。


たしか1990年代はじめ頃の夏だったと思う。バイトの面接でお茶の水まで行ったところ、早く着きすぎてしまい、近くにあった鉄道博物館で時間をつぶすことにした。冷房にあたってひと息つき、ベンチに座ってタバコを吸いながら古い機関車をぼんやりながめていたら、すぐ隣に痩せて銀縁メガネをかけた青年が腰掛け、「おたくさぁーこんな中途半端な展示で満足しているんだとしたらまったくもってわかっていないね88系の形式は……」となにやらよくわからない講釈を甲高い声でまくしたてはじめた。やけに挑発的である。彼はこちらとまったく目を合わせず、宙に向かって独り言のように語っているが、平日昼間の博物館には彼と私しか入館者はいない。これ、俺に話しかけているんだよね。「えーっと、鉄道、お詳しいんですか、ぼくはバイトの面接までの時間つぶしに入っただけなので」と意図してやんわりと常識的な言葉を返したところ、その青年は拍子抜けした様子で「あっいや勘違いしてごめんね、こんな場所にひとりで来ているのを見かけたもんだから、ついさあ、いやそのなんだ、カタギさんでしたか、ははは」ととたんに温和な調子になり、独り相撲をとったことに顔を赤くしながらそそくさと去って行った。そうか、おにいさんはマニア同士で蘊蓄のせめぎ合いがしたかったんだね、相手になれなくってごめんよ、なーんてことは当時の私はまったく思わず、後日、彼の滑稽さをネタに友人と笑いあった。我ながら嫌な奴である。というわけでバイトの面接のほうはもはやまったくおぼえていないが、この青年のことはやけに印象に残っている。ちょうど「オタク」という言葉が日本語として定着しはじめた時期のことで、彼の風貌と言動は「げんしけん」の斑目くんにそっくりだった。


朝、目が覚めたら、顔のかたちが変わるくらい口のまわりが腫れていた。前日にボクシングの試合をしたおぼえはない。半年ほど前から蕁麻疹が出るようになったので、どうやらアレルギーによるアナフィラキシー反応のようだった。たいていのアレルギーがそうであるように原因は不明。夢の中で寿司屋のはしごをしたのが悪かったんだろうか。一時間もすると腫れが収まってきたので、出勤して授業もする。生きていくのは色々大変である。

2013-06-06

くじ引きとしての生


この冬、大学入試の小論文対策用の副読本を書くアルバイトをした。私が担当したのは、ジョン・ロールズの「正義論」についての項目で、一昨年にNHKでやっていたハーバードの授業の影響なのか、入試の小論文課題にまでロールズの「公正としての正義」が出題されているらしい。他の項目が「生涯学習」「グローバル経済」といった社会現象のほうを中心にそれを取り巻く状況をざっくりと俯瞰していく内容なのに対し、なぜかこの項目は、ロールズの「正義論」の解説だけで見開き2ページを構成してほしいという注文だった。ここだけやけに専門性が高くてバランスが悪いように見えるんだけど、版元からの注文なので、ともかく「正義論」を読まないことにははじまらない。ひと冬まるまるついやして全800ページの大著にあたる。大仕事である。20世紀の大思想家が生涯を通して書きつづけた大著なんていまどき受験生は誰も読まないだろうから、彼らの代わりに読んでその内容を2ページぶんに要約しろというのが版元側の要望のようだった。安請け合いするんじゃなかったよ。


ロールズは人間の「生まれ」に基づいた社会のあり方を否定する。内戦の最中に難民キャンプで生まれたこどもも、大金持ちの家の跡継ぎとして期待されて生まれたこどもも、新宿の地下街でホームレスの親から生まれたこどもも、黒い肌に生まれてきたこどもも、白い肌に生まれてきたこどもも、男の子も女の子も、生まれつき目が見えないこどもも、生まれつき耳が聞こえないこどもも、本人がそういう生を選択してこの世界に生まれてきたわけではない。言わば自らの生涯を賭けた大がかりなくじ引きの結果として人間はこの世界に誕生し、生きていく。自ら意図しないところで決まるそうした生のあり方をそのまま放置するのは、フェアな社会ではないと彼は考える。スタートラインが人によって異なり、さらにある者は片足で走ることを余儀なくされ、またある者は乗り物に乗ることが許されている中で参加者は競わされ、個々の過程は一切考慮されないまま結果のみで評価され、その報酬がもたらされるとしたら、それは「競争」とは名ばかりの「搾取」にすぎない。そのため、フェアネスの実現した社会というのは、どんなくじを引き、どんな立場に生まれたかを問わず、誰もが機会均等を等しく配分され、同じスタートラインに立てることが条件になる。したがって、ロールズは、生まれの違いがもたらす格差は富の再配分と公的支援によって絶えず補正されねばならないという徹底した平等主義の立場をとる。


彼は興味深い思考実験を展開する。そこでは、あの世の住人たちがこれから自分たちが生まれ変わることになっている世界をめぐって、どういう社会にすれば自分たちが生まれ変わった世界でより良く生きられるかを議論している。その会議では、あの世の住人たちの出した結論どおりにこれから生まれ変わる世界の社会のあり方が設定される。ただし、あくまで決められるのは社会のあり方だけで、ひとりひとりが社会のどういう立場に生まれるかは選択できない。男に生まれてくるのか、女に生まれてくるのか、白い肌に生まれてくるのか、黒い肌に生まれてくるのか、障害を持って生まれてくるのか、いっさい本人はコントロールできない。なんだか、フランク・キャプラの「素晴らしき哉、人生!」みたいなシチュエーションだけど、もしもそういう状況に立たされたら、生まれに関係なく平等に扱われる社会のあり方を誰もが望むだろうとロールズはいう。たしかにどういう立場に生まれるのかコントロールできない以上、奴隷制社会や貧乏農場のある人生ゲームのような社会はリスクが大きすぎる。人生ゲームでは誰もが同じスタート地点から同じ条件で出発し、行為の結果として億万長者か貧乏農場か行き先が別れるが、現実の社会では、はじめから異なるスタート地点と異なるルールが割り振られることになる。


私たちは多くの場面で自らの立場に基づいて物事を判断する。たとえば、資産家にとって生産手段の国有化をとなえる共産主義は、自らの不動産や株式を失うことになるので、彼らには危険思想だと映るだろう。逆に小作農やスラム街の住人にとっては、共産主義のとなえる誰もが労働者として平等に働く社会のあり方に高い理想を見いだすだろう。あるいはアメリカ南部の白人たちの中にいまだに奴隷制度を擁護する者がいるが、それは奴隷を使う側の発想でしかなく、彼らは自らが黒い肌に生まれてきたらとは考えない。それらはいずれも自らにとって損か得かという判断でしかなく、ロールズは損得勘定に基づく功利主義的判断に社会正義はないと説く。あの世の住人たちの議論という状況設定は、そうした損得勘定を廃するための思考実験といえる。


ロールズは、フェアネスの実現した社会のあり方として、ふたつの基本原理を示している。ひとつめは基本的自由がすべての者に等しく保障されている状態であり、これは基本的人権の保障といえる。しかし、基本的人権が保障され、法の下の平等という形式的平等が実現している社会でも、様々な要因から社会的格差は生じる。例えば、貧困家庭に生まれ、十分な教育を受けられず、低賃金労働を強いられている人がいたとする。この人の場合、競争に参加する機会がはじめからなく、生き方の自由があらかじめうばわれているといえる。もしこの人が生活に困って片方の腎臓を売ることにしたとしても、その決断を「自由な選択」とはいえないだろう。


そこでロールズは、実質的平等の実現のための第二原理を提示する。こちらは公正な機会均等の保障と格差の是正のふたつからなり、社会的に不利な立場におかれている人々への積極的な支援の必要性をとなえている。彼のいう公正な機会均等とは、法の下の平等が保障する形式的な機会均等とは異なり、すべての人が同じスタートラインに立ち、能力のみで競う社会のあり方を意味する。そのためには、人種・民族・性別・家柄などがもたらす社会的格差は、富の再分配と公的支援によって補正され、誰もがイコールの状態でスタートラインに立てるようにしなければならないというわけである。


では、公正な機会均等が実現したとする。すべての参加者が同じスタートラインから同時に走り出し、みな同じ条件の下に公正な競争が行われ、運動会のかけっこと同様に足の速い者が一等になり、遅い者がビリになった。ふつうフェアな競争の下で生じた結果の差は尊重されるのが基本ルールのはずである。しかし、純粋に能力のみで競う成果主義の社会においても、個人の能力差によって格差は生まれ、とくに障害を持った人々は社会の中で不遇な立場のまま留めおかれることになってしまう。そこでロールズは、能力に応じた成果報酬の差や社会的地位の差を受け入れつつも、同時にその差は社会の中でもっとも不遇な立場の者たちの状況を改善するために用いられねばならないとして、公正な機会均等の下で生じた格差であっても、さらなる是正をとなえる。うーむ、ロールズ先生、そこまで言うか。その考え方の根底にあるのは、高い能力を持っている者も、障害を持っている者も、あくまで生まれや育ちといった偶然性の産物であって、本人の能力差は格差を肯定する絶対的な根拠にはならないという立場である。


たしかに、障害を持った人々がまともな職に就くことができず、社会の中で不遇な立場におかれている状況を「しかたないよ」のひとことで片付けてしまう発想には、「もしかしたら自分がそう生まれてきたかも知れない」という視点が抜け落ちているように見える。そのため、こうした社会格差の問題を論じる際には、その人が社会の中でどういう立場にいるかによって見解がしばしば大きく異なってくる。たとえば、インドの不可触民たちはいまもインド社会には深刻な差別があるというが、その一方で、外交官や大学教授といった上流階級の者たちは、カースト差別はすでに過去のものになったと主張する。先にあげたあの世の会議というロールズの思考実験は、自分がどう生まれ変わるかわからないという状況を設定することで、自らの社会的立場に基づく分け前の確保という功利主義的な発想を否定する。ロールズの示した社会の三つの段階を図にすると次のようになる。


f:id:box96:20130606192802p:image


本を読みながら、去年テレビ放送されていた「輪るピングドラム」のことを思い出した。あの物語では、毎回、運命をめぐる主人公のこんなモノローグからはじまる。


「ぼくは運命って言葉が嫌いだ。生まれ、出会い、別れ、成功と失敗、人生の幸不幸、それらがあらかじめ運命によって決められているのなら、ぼくたちはなんのために生まれてくるのだろう。裕福な家庭に生まれる人、美しい母親から生まれる人、飢餓や戦争のまっただ中に生まれる人、それらがすべて運命だとすれば、神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。あの時からぼくたちには未来なんてなく、ただきっと何者にもなれないってことだけは、はっきりしてたんだから。」


そこでは人間の生は、偶然の産物としてではなく、運命として解釈され、あらゆる社会的格差は個人の生き方の問題へと還元されていく。どんな境遇に置かれても本人の心持ちしだいで幸福にも不幸にもなるというわけだ。社会のあり方へ目を向けようとしないその閉塞した発想は、私にはまるで八墓村の住人たちが語る人生訓のように思えて非常に気持ち悪かったが、日本の場合、「世の中そういうものだ」式の発言をあちらこちらで耳にするので、社会原理はどこからか輸入するもので自らのアタマで判断するものではないと思っている八墓村出身者は、案外多いのではないかという気がする。

2013-05-25

軍事オタクによる軍事オタクのための嬉遊曲


半年ほど前、夜中にテレビをつけるとセーラー服姿の女の子たちがドイツの四号戦車に乗って戦車戦をしているアニメをやっていた。


「次の一発で決めます、丘の上から狙えますか?」

「稜線射撃は敵の標的になるから、ファイアフライが次を撃ってくるまでの間が勝負です、華さん、お願いします」

「次弾、装填完了です!」


って、なにこれ、世の中いったいなにがおきているんだろう。物語の世界では、古い戦車に乗って模擬戦をすることが女性の武道として成り立っていて、甲子園の高校野球大会のように高校生たちの戦車戦大会が行われているというということになっているらしい。戦車には通常装甲の内側にさらに特殊装甲が施されていて、乗員の安全性を確保しながら実弾を使った模擬戦を可能にしているという設定で、そんなスポーツとしての戦車戦が草野球の試合のように日常的に行われている不思議世界。たぶん、街道沿いの中古車ディーラーには、軍の放出品のシャーマンやT34が「試乗歓迎」ののぼりとともにずらっとならんでいるんだろう。物語は主人公の女の子が転校先の学校で親しくなった仲間たちと仲良し五人組のチームを作り、戦車初心者の彼女たちを率いて高校生の全国大会を勝ち上がっていく。その荒唐無稽なストーリーに反して、CGで組まれた戦車の描写に関しては異様に力が入っていて、加速時には車体前部が上がり、減速時には前が下がるのはもちろん、射撃の際には衝撃で車体が揺れ、路面の起伏にあわせて転輪が上下し、フロントドライブの車両については加速時にちゃんとキャタピラ上部のたるみが張るのである。おまけに手動式の旋回砲塔の場合、砲塔内部で砲手の女の子がせっせとハンドルを回しながら照準を定めている様子まで描かれている。そんな作り手である戦車マニアのおじさんたちの夢と希望とオタク魂がてんこもり詰まったアニメ。でも、こんなの誰が見てるんだろう、夜中にさあ。


と思っていたら、なぜか評判がよかったらしく、続編の映画版がつくられることになったという。ますますもって誰が見ているのか不思議な作品である。もっとも、こういう話が映画化されること自体が荒唐無稽なコメディのようでなんだか可笑しい。スケールモデルを取り巻く状況は、小学生の男の子たちがこぞってタミヤのタイガー戦車やハセガワの零戦をつくっていた40年前とはすっかり様変わりし、いまやひとにぎりの熱心な愛好家のものになっている。私自身にしても、クルマやバイクのプラモデルをつくるのなら、より手間はかかっても、実物のポンコツを手に入れてレストアするほうを選ぶ。まあ、四号戦車は無理だけど。そういう意味でこの戦車アニメ、完全に特定の視聴者をピンポイントに狙った閉じた小宇宙のはずなんだけど、作り手の情熱がその一点で突き抜けているだけにかえって戦車マニア以外にも訴求力があったりするんだろうか。15年前、戦車模型専門の雑誌が創刊されたのを本屋で見かけた時も我が目を疑ったが、あれ以来の衝撃である。その戦車模型雑誌は出版不況にもかかわらず、驚いたことに現在も発行をつづけており、今月号の特集はこのアニメ。ああやっぱり小さい世界である。その閉じた小さな宇宙は深入りすると出口がない気がする。


去年、職場で話題になった入試問題がある。「これ、どう思いますか?」と入試問題の分析をしている世界史担当の人からわたされたのは、慶応の法学部の入試問題。1970年代末の兵器の輸出入から国名を答える問題で、表には兵器の名前がずらっと並んでいる。

「なんですか、これ」

「うん、今年、一番へんな現代史の問題」

と、そのセンセー、こちらを見てニヤニヤ笑っている。

(ネット上でもそれなりに話題になったみたいで、問題の画像もありました。世の中には受験産業の関係者でもないのに、毎年、大学の入試問題を解いてる人っているんですね。画像はそんな物好きな人のサイトから拝借。http://twitpic.com/c21g53

f:id:box96:20130525171451j:image


「アはアルゼンチンとイラクに武器輸出している国で、それぞれミラージュ戦闘機を輸出……ミラージュってフランスの戦闘機でしたっけ」

「そうそう」

「えーっと、ミラージュが三菱のクルマじゃなくてフランスの戦闘機だっていうのは、高校生にもわかる知識なんでしょうか?」

「まあ、武器輸出の外交関係から国を判断することもいちおう可能という設問にはなっているけどねえ」

「うーん、1977年にアルゼンチンとイラクにもっとも武器輸出をしていたっていうヒントだけでフランスだと特定するのは、外交の専門家でも不可能じゃないでしょうか、兵器の名前から生産国がわからないと特定することはできないと思いますよ、まあ、逆にそれがわかれば一発で解ける問題ですけど」

「やっぱりそうだよねえ」

「で、イはインドとイラクに二番目に武器輸出している国で、T72戦車とカシン級駆逐艦、あと、ミグ戦闘機……これはソ連ですね」

「うん」

「ウはパキスタンに武器輸出している国で、ハイナン級FPB……名前からして中国の軍艦ですかねえ、FPBってなんだろ」

「さあ、小型の哨戒艇かなんかでしょうか、パキスタン、大型艦を買うほどお金ないだろうし」

「で、エはアルゼンチン・イラン・パキスタン・フィリピンに武器輸出している国で、ベル212ヘリコプターとCH47ヘリコプター、これ、ベトナム戦争で使われたアメリカの軍用ヘリでしたっけ」

「さあ、さっぱりわかりません、あははは」

「あとはマーク46トーピードーズ……魚雷でしたっけ、魚雷40発とF8戦闘機、まあ、アメリカでしょうねえ、79年のイラン革命前だがら、イランにも武器輸出してたんですね」

「うん、パーレビは実質アメリカの傀儡だったからね」

「で、オがインドとイランに輸出している国で、シーキング・ヘリコプターとシーハリアー戦闘機、ハリアーは小学生のころプラモデルをつくりましたよ、これはイギリスです」

「おっ、ぜんぶ解けたじゃない、ぼくはミラージュがフランスでミグがソ連の戦闘機ってことしかわからなかったよ、あははは」

「まあ、冷戦をリアルタイムで経験してきた世代にとっては、ミグやミラージュは当時ずいぶんニュースにもなったし、それがソ連やフランスの戦闘機だっていうのも常識の範囲内だと思いますけど、そういう知識を高校生に要求するのは無茶な話だし、こういうのって現代史の授業でもやるんですか?」

「やるわけないじゃない、兵器の名前なんて」

「これ、防衛問題が専門の人が出題したんでしょうかねえ」

「さあ、趣味だと思いますよ、自分の専門分野をこんなオタク・クイズみたいなかたちで出題するとは考えにくいし」

「大学のセンセー、ずいぶんフリーダムですね」

「ねえ、慶応の法学部が軍事オタクの若者を採りたがってるとしか思えないよね」


そういえば慶応といえば、以前、教えていた生徒が受験で学校説明会へ行ったときのこと、会場で大学の人間が「私たちは勝ち組になる若者を育てています」「私たちといっしょに勝ち組になりましょう」と言いだした。さらに、「さあ、みなさんもご一緒に」とシュプレヒコールをあげはじめ、説明会会場には入学希望者とその親たちによる「勝ち組になるぞぉ!」の連呼が響きわたったという。まるでインチキ投資会社による株主説明会である。「でも、うちのお母さん、全共闘世代でそういうの大嫌いだから、もう、かんかんに怒っちゃって、途中でイス蹴っ飛ばして出てきちゃって大変でした、おまえ、あんな大学、絶〜対に行くなって、絶〜対に受験するな、もし、おまえがあんなろくでもない大学へ行きたいっていうなら、今後いっさいの親子の縁を切る、受験料も学費もいっさい出さないってもうすごい剣幕で、だから、慶応は受験できなかったんです」と話していた。私は彼女の話を聞きながら、説明会参加者たちが「勝ち組になるぞぉ!」のシュプレヒコールをあげている間抜けな情景を思い浮かべ、腹を抱えて笑ったが、「で、その勝ち組大学、行きたかったの?」と笑いをこらえて聞くと「う〜ん、ちょっと」と彼女も苦笑していた。以来、個人的に慶応のことは「勝ち組大学(笑)」と呼んでいる。

2013-05-21

猫をなでる


勤務先に隣接している看護学校には、玄関先に猫小屋がふたつならんでいて、有志の職員や学生によって野良猫が保護されている。猫小屋のわきには連絡帳が置かれていて、猫の体調や補充したエサについて詳細に記されている。ずいぶん大事にされている様子で、そのため片目のないおばあさん猫のほうはすっかり人慣れしており、日中、のそのそと猫小屋を出てきては、看護学校に出入りする人間たちをものともせず玄関マットに長々と寝そべっている。昼休みに彼女のアタマを撫でるのがすっかり日課になっている。


猫が街角で昼寝をしている風景というのは、自分とは違う時間を生きている存在を身近に感じられていいと思うのだが、人間様の論理がすべてだと思っている人には目障りに映るらしい。路地裏をうろうろしている野良猫を見かける機会が減ってきているにもかかわらず、役所に寄せられる猫の苦情件数は増加傾向にあるという。20世紀なかば、ドイツの思想家たちはこうした発想を「道具的理性」と呼び、近代的理性への批判を展開した。彼らによると、近代的理性は先入観を捨て公正で客観的なまなざしによる論理的判断と見なされてきたが、実際には、人間がいかに利用するかという発想に基づいて自然を道具化する思考様式だという。例えば、目の前に樹齢千年の巨木があるとする。近代的理性は、その巨木に生命の神秘や畏敬の念を感じるのではなく、切り倒して丸太にしたら一本いくらで売れるのか、引っこ抜いて跡地を駐車場にしたら月々どのくらいの収益が見込めるのかという考え方をする。身も蓋もない言い方だが、それが近代人の「理性」の正体であり、同時にこの思考様式が近代人の孤独感の原因になっていると指摘する。そこでは、30年ローンで買った建て売り住宅の玄関先には、「一歩たりとも」の意志表示として水の入ったペットボトルがずらっと並べられ、逆に観光地の客寄せに利用できる場合には動くキャラクターグッズとして持ち上げられる。排除も愛玩も、自然を人間から切り離された存在として対象化し、人間が利用するための道具と見なしている点では共通している。


野良猫への風当たりがきびしくなる一方で、猫好きの間では「完全室内飼い」がさかんに推奨されている。ネットのコミュニティは同調圧力の強い閉じた小宇宙になりやすいため、愛護をとなえる人たちも駆除をとなえる人たちも同じような考え方の人たちばかりが集まって、そこでのコンセンサスも極端な方向へ転がっていく。完全室内飼いを推奨している人たちによると、猫を屋外に出すことで、病気感染や交通事故のリスクが飛躍的に大きくなり、屋内で飼育されている猫が十数年生きるのに対し、野良猫の平均寿命は三年だという。極端な人になると、「猫を外に出すなんて虐待と同じ」「完全室内飼いできない人には猫を飼う資格がない」と主張している。ただ、野良猫の平均寿命が三年というのは一種の数字のトリックで、野良猫の場合、一歳未満の仔猫の死亡率がやたらと高いために平均すると三年になるという意味である。私がこどもの頃、隣家の床下になかば野生化した野良猫が住みついていたが、毎年、春と秋に五匹くらいの仔猫を産み、彼女の懸命の子育てにもかかわらず、そのほとんどは一歳まで生きられなかった。「野良猫の平均寿命が三年」というのは、ちょうど「江戸時代の平均寿命が四十歳」というのと同じで、乳児死亡率の高さを意味している。江戸時代の人間が四十前後でよぼよぼになって寿命を迎えたわけではないように、多くの野良猫が三年程度しか生きられないという意味ではない。また、猫の感染症としてしばしば指摘されているのはネコエイズ(FIV)だが、ヒトのエイズ(HIV)とは性質が異なり、近年急激に感染が広がったというものではなく、死亡率もHIVのようには高くない。むかしからネコ科の動物の感染症としてあったものが、近年のウィルス研究によってしだいにそのしくみが解明されてきたというだけなので、あまり神経質にならなくてもいいのではないかと思う。


私は生き物といっしょに暮らすことを生きたぬいぐるみとして愛玩する行為ではなく、彼らを通して自然をのぞき見ることだと考えている。なので、猫を室内飼いにするのか屋外に出すのかも、生活状況や周囲の環境に応じてそれぞれ飼い主が判断すればいいのではないかと考えている。アニミズム信仰の根強かった日本では、古来、猫も狸も狼も山の神のたぐいと見なされてきたが、私の彼らへのまなざしもそれに近い。昔、我が家に住みついていた大きな猫も隣家の床下に住みついていた母猫も、みな生きる術に長けていて、連中を見ているとなんだか自分がこの世界のことをなにも知らないひ弱な赤ん坊のように思えた。何年か前、ヤフーの掲示板を見ていたら、完全室内飼いを推奨していると思われる人から「なぜいまだに猫を屋外に出す人がいるんでしょうか?」という少々批判めいた質問があったので、こんな文章を書いたことがある。わりとうまく書けたような気がするので、少し手直しして、ここに載せておきます。


 現代では猫にネズミ取りの役割が求められなくなってきたため、外猫や野良猫への風当たりはしだいにきびしくなってきました。ただ、猫は本来屋外で生活する動物ですし、日本のように外猫や野良猫に神経質になっている社会というのはかなり特殊な状況です。世界中どこでも人間の暮らす土地ならば猫たちは屋外をうろうろしていますし、南欧や東南アジアでは、屋台や安食堂にもよく猫がやってきて、じっと客の顔を見つめ、ちょうだいと無言の圧力をかけたりしています。もちろん、しょうがないなあと食べ物をわけてあげる人もいれば、あっちへ行けと追い払う人もいるわけですが、たいていの店主はそれを黙認していて、あえて猫を閉めだすようなことはしません。人と猫の関係はそれくらいがちょうどいいのではないか、声高に排除をとなえるのも高価なアクセサリーのようにペットを溺愛するのも同じように自然を道具化する行為ではないか、と思っています。


 猫が古代エジプトで家畜化されて数千年になりますが、その間、猫たちはネズミ取りのためにただ放し飼いにされてきた存在です。家畜といっても、犬やウシやブタとちがって、ほとんど品種改良されていないので、姿形も習性も原種のヤマネコと変わりません。人間の暮らしのまわりで放し飼いにされ、エサをもらったり追い払われたりしながら、数千年にわたって人とつかず離れずの関係で共生してきた「半野生動物」というのが彼らの生態ではないでしょうか。その暮らしぶりをいまふうにいうと「野良猫」ということになりますので、私はむしろ野良猫や外猫の暮らしこそ、猫本来の姿ではないかと思っています。猫を「ペット」として室内のみで飼育するのは、わずかここ十数年の習慣にすぎませんし、猫と人間とのかかわりの歴史という点では、むしろこちらのほうが特殊なケースのように見えます。そういう意味で、完全室内飼いこそが「正しい猫の飼い方」で、猫を外に出すのは「おくれた考えかた」という発想は、少々視野が狭いのではないかと思います。


 ただ、日本の多くの地域では、都市化が進行したために、しだいに猫を外に出しにくくなっていることも事実です。高層住宅で猫を飼っていたり、家のすぐ前を四車線の国道が通っていたりする場合には、猫を外に出すのは非現実的です。逆に、古い家に住んでいて、家のまわりには里山や雑木林があるという環境の場合、猫を室内だけで飼うのはやはり非現実的ではないでしょうか。とくに縁側があるような解放構造の日本家屋の場合、猫を外に出さずにいるためには、暖かい季節になっても縁側を締め切ってエアコンで暮らさねばならないので、完全室内飼いにするのは無理があるように思います。なので、暮らしている環境に応じて、猫を外に出すか、室内で飼育するかを判断すればいいのではないかと思います。そもそも猫が屋外で暮らしにくい環境というのは、人間にとっても暮らしにくい環境ではないかと思います。


 また、野良猫をひきとった場合、仔猫のときから室内飼いにされてきた猫とちがって、完全な室内飼いにするのはかなりの困難がともないます。多くの場合、猫はストレスのためにカーテンに飛びついたり広げた新聞紙を引き裂いたりして、外に出せとアピールします。そういう場合でも根気よくしつけていけば、野良猫を室内飼いにすることは可能ですが、住んでいる地域がよほど猫が暮らすのに向いていないのでない限り、あえてそこまでして室内飼いを強いることには疑問を感じます。


 生き物といっしょに暮らすことは、ペットとしてただ可愛がるだけでなく、彼らを通して自然をのぞき見る窓を手に入れることでもあります。たしかに猫を外に出すことで、事故や病気感染や心ない人による虐待の心配があるのも事実ですが、その一方で外に出ることで猫が学ぶこともたくさんあります。他の猫たちとのつきあいかたを学び、狩りの方法を学び、犬やカラスのような危険な存在への対処方法を身につけ、自然環境の中で生きていくすべを身につけていきます。とくに里山や雑木林のある地域では、本来の生き物としての姿を見せるようになります。そうした彼らの様子に触れることで、身近な自然への理解も深まっていくのではないかと思います。彼らといっしょに暮らす意義は、人間の側に引き寄せて擬人化することではなく、人間の論理や尺度が通じない存在と身近に接することで、気持ちが通じたり通じなかったりしながら、自らのまなざしを相対化できることにあるのではないでしょうか。なので、地域の環境や住環境が許すならば、猫を外に出したほうが彼らにとっても人間にとってもメリットが大きいのではないかと考えています。


f:id:box96:20090306192422j:image

昔、我が家に住みついていた大きな野良猫。オス。長いことうちの界隈のヌシのような存在で、我が家ではクロと呼んでいたが、方々で別の名前で呼ばれていた。じゃれたり鳴いたりすることは一切なく、呼びかけるとこちらをじっと見据えて意図を読み取ろうとしている様子だった。そうやって人間をよく観察することで彼は生き抜いてきたんだろう。私はこのゴジラみたいな顔をした無口な猫のことが大好きで、縄張り巡回中のところを見かけるとよく一緒にならんで帰った。年齢不詳。得意技は頭突き。ヌシ殿は機嫌が良いと大きな頭をぐりぐりと押しつけてきた。晩年はげっそりと痩せてしまい、西日の当たる窓辺でいつも寝ていたが、写真はまだ元気だった頃のもの。私はいまもこの猫のことを我が家の軒下にひとときのあいだ間借りしていた山神のたぐいだと思っている。左端の金盥みたいなのは大食いのヌシ殿へのお供え物用。


f:id:box96:20090306233830j:image

隣家の床下に住みついていた野良猫の息子。秋に生まれた仔猫の生存率はとくに低く、五匹生まれて冬を越せたのはこいつだけだった。翌春、子別れで母猫に追い払われてからは我が家のほうにやってくるようになり、結局、そのままうちの猫になった。逆三角形の神経質そうな顔と用心深い性格は母猫にそっくり。母猫のほうは夕暮れ時になると「ギャーローン」と化け猫のような声で鳴いて周囲の住民を陰気な気分にさせていたが、そこは幸い似なかった。私の母は自分を頼ってくる無力な存在というのが大好きなので、唯一生き残ったこいつを溺愛していて、猫のほうも母にしかなつかなかった。写真でもこちらをまったく信用していない目つきでにらんでいる。まあ、猫も色々います。1999年、13歳で母の引っ越し先の家で死んだ。