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2016-09-12

国家/内戦/シン・ゴジラ

 

地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に造られた

                                  ――ヨブ記41.33

 

 近代国家を聖書に出てくる大怪獣リヴァイアサンに喩えたのはホッブズであった。ホッブズによれば、人間の自然状態は万人の万人に対する闘争であり、そこに安息は無い。従って人間たちは自らの権利を国家へと委譲する契約を結び、国家の保護を得る。保護と服従の関係が、国家と国民の関係を規定する。国家はその領域において唯一の主権的共同体である。

 カール・シュミットは、『政治的なものの概念』において、国際社会を複数のリヴァイアサンが競合する多元的な空間として考えている。国際間においては、国家の国民に対する保護は、他の国家からの保護でもある。むしろ国民は他の国民に対抗するために国家をつくる。国民の結集は、「政治的なもの」によって行われる。つまり、友と敵の存在論的な区別によって行われる。国家の主権者は、政治の概念に即して、国家の敵を正しく識別しなければならない。

 シュミットの最晩年の著書『パルチザンの理論』は、「政治的なものの概念の中間的論考」という副題がついでいる。国家は友と敵を区別する力を失ってしまったとき、単一の主権者としてのリヴァイアサンたることをやめてしまう。その際、国家を救うのは誰か?シュミットはその役割を土地に根ざしたパルチザンに託した。土地に根ざしたパルチザンは、侵入者を国土から追い出すという明解な目的を持つことによって、友と敵の正しい区別のもとに闘い、既存の国家にかわって国家の単一性を回復するのである。

 しかし、パルチザンは他方で、既存の権力とっては、自らを打ち倒す力ともなりうる諸刃の剣でもある。パルチザンは、国家と国民を守る潜勢力であると同時に、内戦の原動力となる潜勢力でもあるのだ。プロイセン国家は対ナポレオンのために非正規兵を招集したが、途中で解散させた。非正規兵を利用することによって、プロイセンは自らの体制が脅かされると考えたからだ、と『パルチザンの理論』の著者は述べている。

 

 国家に決断する能力を再び与え、政治的なものを回復するパルチザンと、内戦の原動力たるパルチザンは双極的な関係をもつ。それは近代科学文明における技術的なものの双極性と関連している。その双極性とは、陶酔と制御である*1。技術とは人間のために人間が制御し使役する手段である。しかしその技術が発展と改良を重ね、人間の制御不可能な地点まで極まったとき、人間はむしろ技術によって駆り立てられる。スマートフォンは「感性を疎外しない透明なメディウム」*2として、人間の生活を利便化させるために発明された。しかし、今や人間はスマートフォンに駆り立てられている。外出先でポケモンGOを楽しむのではなく、ポケモンGOを楽しむために外出する。近代技術は人間の制御を離れ、自律的に運動し、人間を陶酔のうちに巻き込んでいく。『技術への問い』の著者は、近代技術の本質をゲシュテル(総駆り立て体制)とよんだ。ゲシュテルとしての技術は、人間を道具として使役し、その本来あるべき場所を喪失させる。

 ゲシュテルとしての技術の際たるものは、原子力技術だろう。それは過去には「明るい未来のエネルギー」として、人間社会にただ幸福をもたらすものと考えられてきた。しかし実際には、人間はその技術を制御できず、電力を取り出せたとしてもその後はただ最悪のカタストロフを防ぐためだけに10万年もの間、技術を管理し続けなければいけない*3。もはやそれは原子力技術に人間が駆り立てられているといわざるをえない。そして、この原子力技術が制御を離れ、自律的に運動するようになるとどうなるか。もちろんそれは答えるまでもなく、チェルノブイリやフクシマの現状を見ればはっきりと分かるのである。制御を離れた原子力技術の暴走はカタストロフを生む。そして、そのような技術から誕生した生物がゴジラである。

 

 作中でも指摘されているように、ゴジラは水と空気さえあれば半永久的にエネルギーを取り出すことができ、文明が滅びるまで世界を破壊しつくす可能性がある「人類の敵」である。しかし、『シン・ゴジラ』の世界の中ではむしろゴジラは「国家の敵」であって「人類の敵」ではない。ゴジラを「人類の敵」とみなす国際連合は、日本国家を犠牲にゴジラを抹殺しようとする。しかし、東京もろともゴジラを核攻撃するという判断は、きわめて「政治的」である。この決定に対して、日本政府のあらゆる構成員は反発の色を隠そうとはしない。彼らは「人類」ではなく、「日本」へと結集するのである。世界を救うために一つの国(国民)を犠牲にせよという命令には、誰も従わせることはできない。

 一方、矢口はヤシオリ作戦を発動させる際、自衛隊員を前に演説を行う。彼の命令は、自衛隊員自らの命を代償に国家(国民)を救えというものである*4。『政治的なものの概念』の著者は次のように言っている。すなわち、敵を殺すために人に死を要求できるのは、「政治的なもの」つまり「国家」だけだと*5

 ゴジラという最悪の脅威に立ち向かう中で、日本「国家」は政治的なものの強度を高めていく。ゴジラの攻撃で、それまでの政府要人はほぼ全滅する。代わってゴジラ対策の主導権を握るのは、若手の政治家や官僚たちである。彼らはそれまでの世代とは異なり、ゴジラという例外状態において「決断」する能力を持っているのである。

 彼らは一体何者なのか?ゴジラは正攻法では倒すことができない。ゴジラを倒すために必要なのは、叡智と技術と「地の利」(ビルや線路も彼らの武器なのである)である。ゴジラ対策チーム及びその支援者たちには、「パルチザン」の形象を与えてもいいだろう。彼らは日本という土地に張り巡らされたネットワークを駆使して、ゴジラを倒す。そして国家に決断する能力を再び与え、新しい体制をつくりあげるのである。国家とは怪獣「リヴァイアサン」である。ゴジラという怪獣に対抗するために、日本もまた一匹の怪獣となる。国際社会の多元性の中で、戦争がリヴァイアサンの必要性を自覚させるように、ゴジラもまたリヴァイアサンの必要性を自覚させる。ゴジラは戦争の象徴であり、ゴジラ対策チームは「政治的なもの」を再興するパルチザンの象徴である。

 しかし我々は、ここで考察の歩みを止めるわけにはいかない。ゴジラが単に「外敵」の象徴であるならば、この物語が2011年の大地震および原発事故を反復しようとしていることの説明はつかない。ゴジラが、震災の被害者のみならず東京の犠牲となった地方の怨念をあからさまに体現しており、実際にそのような観点からゴジラを支持する人もいることを考えなければならぬ。

 

 ゴジラを東京の権力に対する地方の反乱(荒ぶる神)として考えるなら。ゴジラは「内敵」ということになろう。「外敵」と「内敵」、双極的な概念をゴジラが一匹で体現していることに驚きはない。シュミットにとって、「外敵」がリヴァイアサンたる国家に必要であったのと同様に、ジョルジョ・アガンベンによれば、「内敵」(内戦)もリヴァイアサンたる国家には必要だったのである。

アガンベンの著作『スタシス』には、古代ギリシアにおいて内戦は国家がポリス(都市)からオイコス(家族)へと成長するために必要な過程であったことが書かれている。当時のギリシア人にとって、内戦は近代人がそう考えるようにけして忌み嫌われるべきものではなかった。結果に対する訴訟や復讐は許されないにせよ、内戦の記憶自体は将来にわたって想起されるものだったのである。

 アガンベンは、『リヴァイアサン』の著者にとっても、新たな主権を打ち立てるためには内戦は必要だったとしている。ホッブズによれば、個々の人間ひとりひとりの「群がり」は「人民」ではない。「人民」とは単一の概念であり、けしてそれ自体を可視化することはできず、代表されることによってのみ可視化されうる。社会契約を結び、単一の人民となれるのは「統一されてないない群がり(disunited multitude)」である。それに対して、社会契約を結んだはいいが単一の人民たる力を失ってしまった群がりは「解体された群がり(disunita multitudo)」である。このふたつの群がりは違うものであり、後者がまた新たな主権契約を結ぶためには、いったんまた前者に戻る必要がある。しかし「解体された群がり」の一度結んでしまった主権契約は変更できないので、それを破壊するために必要な作業が内戦なのである。

 内戦の勝者が主権者として新たな国家をつくる。『シン・ゴジラ』において勝者は「外敵」であると同時に地方人の怨念としての「内敵」たるゴジラではなく、下っ端とはいえ東京の政府の一員であった矢口たちであった。彼らはパルチザンとしてこの戦いを戦った。そして「解体された群がり」からゴジラ=内戦によって「統一されていない群がり」となった日本の人々を再び「人民」へと高め、選挙に勝利するよって主権契約を結ぶのだろう*6。だが一方で、内戦の敗者たるゴジラは用済みとなってしまったのか?そうではない。ゴジラは冷却されただけで死んではいない。怪物はその姿を保ったまま眠っている。人々がいなくなった東京の中心部で。

 

 『リヴァイアサン』の有名な表紙*7――人間たちがひとつの人格を構成している――で、描かれている都市に人々がいないことについて、『スタシス』の著者は、次のように解釈している。すなわち、統一された「人民」は都市に住む群衆とは違う。群衆はいったん「人民」として代表されてしまうやいなや、いなくなってしまう。逆に「人民」は都市には住まず、君臨するだけなのである。

 『シン・ゴジラ』の群衆は、序盤から中盤にかけて描写されている。ゴジラから逃げ惑う人々であったり、野次馬としてスマホ撮影やSNSの書き込みをする人々であったり、脅威が一度鎮静化すればすぐに忘れ去る人々であったりする。だが、旧政府の指導者たちが死に、日本が次第にひとつの「人民」=リヴァイアサンとして立ち上がっていくにつれて、その描写は少なくなっていく。そしてゴジラがついにその活動をやめたとき、もはや群衆の姿は無い。

 群衆はどこへ行ったのか?もちろん作中では疎開が完了している設定なので、彼らはきっと地方のどこかの避難所に分散して避難しているのだろう。だが、この問いはより根源的に考えられるべきだ。「群衆」はどこへ行ったのか?「解体された群衆」は「統一されていない群衆」を経て、「人民」となる。かの冊子の表紙を思い出してほしい。「人民」となった群衆はリヴァイアサンの中へと入るのである。ホッブズがその著書において国家をひとつの神話的形象によって象徴したように、群衆がいない東京の中心にもリヴァイアサンに並び立つ神話的象徴がある。「呉爾羅」と言う名の。

 ここで、ゴジラという存在をもう一度整理してみる必要がある。ゴジラは「外敵」であり、日本というリヴァイアサンと戦う。しかし、そこには二匹の怪獣がいるのだろうか?ゴジラは「外敵」であると同時に「内敵」でもある。そしてそれは日本国家がリヴァイアサンたるためには必要な存在である。この意味で、ゴジラは日本国家に対する単なる「対手」ということはできない。むしろそれは日本国家に対する影のような存在である。ゴジラの成長に合わせて、日本国家もまた「成長」していく、という劇中での言及を考慮すると、むしろ「鏡」というのが良いのかもしれない。日本国家はゴジラを敵として見ることによって、自らの姿を顧みるのである。

 

 いまや我々は、『シン・ゴジラ』に天皇が登場しない真の理由を理解することができる。日本国憲法下の天皇制に制度体保障*8以上の法的意味を求めるとするなら、ノモス(法)としての天皇という以外にない。『天皇制と国民主権』の著者は、真の主権は国民にではなく国民がより良き政治を志向するというノモス(法)にあり、その象徴が天皇だとして、宮沢俊義の八月革命説に対抗しようとした。国民が天皇をよりよき政治の鏡として仰ぎ見ることによって*9、天皇制の国民統合機能は保たれる*10

 この法哲学者の天皇論は当然ながら主流派憲法学によって一蹴された。しかしそれは、「イン・エゴイストス」の著者の言を借りれば、「我々の法学の中に、いわば「不発弾」として埋め込まれている」*11。『シン・ゴジラ』の世界には天皇の姿はなく、代わりにゴジラがいる。

 ゴジラは「人民」となった日本国民の象徴であり、鏡である。そしてまたパルチザンの神話的な拠り所となる「大地のノモス」でもある。ゴジラの尻尾にはグロテスクな人間の姿が浮き出ている。それが単一化され代表された「人民」の姿なのか、内戦の敗者の姿なのかは問題ではない。いずれにせよ、それらはゴジラの中に統合されている。ゴジラがそれを象徴していることが決定的に重要なのである。「統合理論(R・スメント)」*12を引き合いに出せば、解釈が何であれ、皆がゴジラを鏡として見ているということが重要なのであるから。ゴジラがいることにより、日本国民は「内敵」の可能性と「外敵」の可能性を忘れない。ゴジラは国家と人民を仲介する。それがある限り、日本というリヴァイアサンの政治的なものの強度は高いままに保たれるであろう。

 

 いずれにせよ、『シン・ゴジラ』はヒットした。驚くようなことではないだろう。少なくともここ20年、日本のオタクの多くは「強い国家」を希求してきた。この映画はその欲求にこたえる力がある。それは『リヴァイアサン』の表象そのものがもつ力と同じような「神話的な力」といえるだろう。

 ところで、政治的なものの強度の高い国家は何ができるのか?いまいちど、『政治的なものの概念』の著者の述べるところをおさらいしておこう。それは決断できるのである。危急の場合には自らの生命を犠牲にして、他国民を殺せと構成員に命令できる決断を。

 さらに付け加えると、そのような強度の高い国家を、いつまでも「冷却」して「制御」し続けることができるとは限らないのではないだろうか。いかなる方向性での統合であれ、「陶酔」へと至る道は内容の問題ではなく強度の問題なのであるから。

 

参考

*1:G・シュトゥンプ「陶酔と制御」(鍛治哲郎・竹峰義和編著『陶酔とテクノロジーの美学』青土社、二〇一四年 参照。

*2http://d.hatena.ne.jp/kanose/20080820/sensibility

*3http://www.asahi.com/articles/ASJ807DWVJ80ULBJ017.html

*4:確かに犠牲を最小限にする努力は行われているが、それでも薬品の注入は彼らに死を覚悟させねばならない代物だし、実際に犠牲も出ている。

*5:Carl Schmitt, Der Begriff des Politischen, Berlin, 2009, S.43

*6:赤坂はこれから総選挙だと言っていたが、与党が圧勝するにきまっている。

*7https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a1/Leviathan_by_Thomas_Hobbes.jpg

*8:制度体保障については、石川健治『自由と特権の距離―カール・シュミット「制度体保障」論・再考』日本評論社、二〇〇七年 参照。

*9:大御心!

*10:別儀ではあるが、憲法に定められた国事行為以外のグレーゾーンをこなすことこそがむしろ天皇の本来の仕事であると天皇自身が信じており、それをゆゆしきことだと思わない日本国民の多さも想起されたし。

*11:石川健治「イン・エゴイストス」長谷部恭男・金泰昌編『法律から考える公共性』東京大学出版会、二〇〇四年、一九四頁

*12:シュミットが政治的なものをはかる尺度に「強度」を選んだのは、スメントの動態として国家を捉える国法理論の影響があるといわれている。

2015-06-01

弾圧と大衆運動

 5月28日、経済産業省の前で抗議行動を行っていた3名が、警察によって不当にも逮捕された。ある公官庁が関わる社会問題に対して市民が当該官庁の前で直接抗議を行うことは、憲法により保障された市民的権利の一部であるし、その際、抗議者が敷地の境界線を超えたかどうかという些細な事実は*1、市民の身体的自由を侵害するに足る正当な理由にはあたらないことは明白である。これは政治弾圧である。

 したがって、このような極めて深刻な市民的権利の侵害に対して、救援会を中心に多くの人々が不当な逮捕を行った当局に対して抗議を行い、逮捕された3名の支援に尽力しているのは当然である。ところが、それにも関わらず、あろうことか弾圧の被害者である逮捕された3名に対してバッシングを行う市民も一定数いるのである。当局がやることなすことすべて正当化し、政治的な抵抗者を嘲笑する権力の犬と呼ぶしかない人々についてはもはや論ずることはない。問題は、平和や人権、環境といったテーマにおいて積極的に政府を批判する運動を行っている者たちの中に、そのような人々がいることである。

 彼らの主張はすなわち、以下のようなものである。運動とは逮捕されないことがもっとも重要である。なぜなら、逮捕されることによって運動に負のレッテルをはられてしまい、一般の人々は怖くて参加できなくなるのだから。一般の人々も参加できるような大衆運動が組織できてこそ政治的目的は達成可能なのであって、不用意に逮捕されるような行為をする者はそのような運動の形成を阻害している。そのような者は運動に政治的目的の実現ではなく自己実現を求めているとみなされ、大いに批難されなければいけない。

 しかし、このような主張の妥当性は検証されるべきである。まず、警察によって逮捕されるような行動とそうでない行動を明確に峻別できるのだろうか?運動の現場に置いてなされる逮捕とは、ある不法行為の事実があってそれに対して行われるのではなく、警察(公安)が、ある行為が不法であるかどうかを恣意的に決めることによって行われるのである。法に従って逮捕が行われるのではなく、いわば警察が法をつくる。そのような条件下で、何が逮捕に値する行為であるのか、市民があらかじめ判断することはできない*2。せいぜい警察が不法だと考えるであろう行為について予期することができるだけであり、そのような予期は市民的自由を最小限の領域に制約しようとする当局の思想を内面化することに他ならないから、予期に基づいた自己制約は、運動の自由を極めて小さい範囲に狭めることになるだろう。

 千歩譲って、逮捕されるような行為とそうでない行為をあらかじめ弁別できたとしよう。しかし、そもそも逮捕を注意深く避けることによって運動が大衆運動へと発展し、それによって政治的目的が達成されるという仮定は正しいのだろうか。救援会のブログにもあるとおり、逮捕された3人は特段に過激な行為をしていたわけではない。一方、世界各国、たとえばドイツでは市民運動においてより過激な行為も珍しくはない。警察と殴り合いになったり、発煙筒をたいたり、物を破壊したり、それで逮捕されたりといったことも普通にある。上記の仮定が正しければ、ドイツでは大衆運動は成立しえないことになる。しかし周知のとおり、ドイツは原発ゼロを明言しており、また社会的差別の取り組みに関しても少なくとも日本よりはマシな国のひとつである。これは日本よりも反原発や反差別の大衆運動が成立している証拠ではないだろうか?もちろん、かかる政治的進歩が大衆運動の結果ではなく別の要因に基づくと言うことも可能であろう。しかしその場合、大衆運動自体が無意味ということになってしまう。

 予想される反論は、ドイツのような欧米諸国と日本では逮捕の重みが違う、というものであろう。確かに日本の刑事司法は「中世並み」であると評され、逮捕は一瞬でその人の生活を破壊する事態になりうる。だが、日本よりもより刑事司法が過酷な国、たとえば軍事政権によって支配されている国でも、民主化のための大衆的な運動が存在するし、実際にそのような運動の力は政権を打倒し民主化を実現させてきた。人は次のように言うかもしれない。いかなるものを失ってでも手に入れるべきものがそうした国々にはあるが、日本は「ほどよく」満たされているから、大衆運動が生じないのだ、と。だがそのように適度な恩恵と適度な弾圧が日本における大衆運動を阻害していると結論づけるならば、大衆運動が発展するかどうかは運動の問題ではなく当局の統治の問題になってしまう。当局が統治に失敗したときのみ、恩恵と弾圧のバランスが崩れ、大衆運動が発展するのである。そうなると、社会を変えるために活動家にできることは唯一、少人数による英雄的行為(管理社会SF物でよくあるストーリーのような)しかない。しかしそれはむしろより過激な行為を正当化することになるだろう。

 逮捕によって政治運動が負のレッテルをはられる、という点についてはどうだろうか。確かに日本は逮捕に対するスティグマ化が強い。しかしこの点については、そのスティグマ化を追認するのではなく、人民を信頼して、逮捕に対する認識を地道にでも変えていくしかないだろう。どんな正当な市民的権利でも、逮捕によって遡及的に悪しきものとされ続けるならば、当局にとって運動を社会に受け入れさせないためのコストは無限に安くなり、運動にとっては無限に高くなるのだから。もちろん逮捕された者への批難は、かかる現状を変える力になるどころかそれを強化することに寄与する。

 逮捕された者への人物批判に至っては、目も当てられない頽廃であるというしかない。行為者の意図ではなく現象を見るべきである。冒頭に書いた通り、この件が政治弾圧であることに議論の余地はない。逮捕された者がどのような動機に基づいていたか、あるいは過去にどのような言動・振る舞いをしたかによって、当局による市民的権利の不当な侵害がそうでなくなるわけではないのである。

 このように、簡単に考察してみただけでも、逮捕されるような人物を切り離し、逮捕されない運動をつくることで大衆運動は発展するという仮定には無理があることがわかる。むろん、私はどんどん逮捕される運動がよい運動だと言っているわけではない。不当逮捕はされた当人に対して大きな苦痛と被害を与える。また、逮捕救援はそれ自体コストがかかり、関わっている者たちを消耗させる。その消耗は、様々な政治的課題に対する運動の機動力も奪うだろう。不当逮捕をさせないような努力は運動にとって必要である。しかしそれは、運動の自己制約によってではなく、市民的自由の拡大のために人々が団結し、かかる不当弾圧に対してしっかりと抗議し、仲間を取り戻す意思表示をしめすことによって実現させていくしかないだろう。

*1:事実関係については救援ブログを参照https://528kyuen.wordpress.com/2015/05/31/statement/

*2:もし、実際にあらかじめ判断したことによって防げた、と思っている者がいたとしたら、それは大きな思い上がりである。外見的にそう見える状況に遭遇することもあるので勘違いしやすいのだが。運動側は当然ながら不当な逮捕に対して一定の警戒を行う。だが、いかなる警戒をしたとしても、そこで逮捕を強行するかどうかの判断は当局の手の中にある。

2013-12-24

2013年ベストイレブン

バイエルン型4−1−2−3

               早見沙織(雪乃)

       赤崎千夏(マキ)         阿澄佳奈(こまちゃん)

           茅野愛衣(愛衣) 大久保瑠美(神月) 

               悠木碧(小町) 

種田梨沙(縁) 日高のり子(理事長) 名塚佳織(一穂) ことり(れんげ)

              小松未可子(戸塚)

恒例なので。

2013-12-08

円環と双極性――暁美ほむらの「叛逆」についての試論

―女は聖母になる。そして同時に魔女にも。                        

 

 魔法少女の運命、すなわち罪と罰のエコノミーに対して、純粋なる暴力がふるわれた。罪はまどかによって引き受けられた(annehmen)。それによってあらゆる罪は贖われた。つまり、あらゆる時間の魔法少女は、常にすでに救済されることになったのである――しかし、ほむらは自身のソウル・ジェムを自ら砕き、魔女となる。彼女は救済を拒む。「円環の理」の救済を。

 なぜ?我々は今や新たな考察をくわえる必要に迫られている。ほむらの「叛逆」とは何か。そのためには、「叛逆」の対象、「円環の理」とは何かを明らかにしなければならない。過去と未来を超越する”Jetztzeit”の概念も、時間(Zeit)の概念、すなわち過去と未来の概念を、その語の内に指示している。だが、今や時間は消失した。なんとなれば、時間の両端が結ばれてしまったのである。つまり、「円環」として*1

Um sie kein Ort noch weniger eine Zeit

彼女たちの周りには空間はなく、まして時間もない*2

罪と罰のエコノミーを記述する神話的な法の仮面が剥ぎ取られ、神話以前の原初的世界が「現在」として顕現したとき、「始まり」の物語は「永遠」の物語となった。何によって?「円環の理」によって。世界は始まりもなければ終わりもない、閉じられた円環によって統治される。「円環の理」――その紋章には、とても意味深長な一文が魔女文字で書かれている。“Das Ewig Weibliche“すなわち「永遠に女性的なるもの」と*3

「永遠に女性的なるもの」この有名なゲーテファウスト」第二部最終節からの引用(ちなみにこの後は“ Zieht uns hinan“つまり「我々を引き上げる」と続く)は、「円環の理」による「救済」力の在り処を示しているはずである。この言葉によって、TV版ではどの程度の真剣さがあるのか測りかねた「円環の理」という概念に、初めて具体的な意味が加わった。だが、なぜ「円環の理」の「救済」の力は、「永遠に女性的なるもの」と呼ばれなければならないのか?このふたつの表徴を結びつけている体系は何なのだろうか?

 「円環の理」は魔法少女が消滅するとき、その魂を救い上げる。魔法少女は「願い」によって誕生し、その願いが絶望へと変わる瞬間に、死ぬ。「円環の理」が祝福し、救済するのはまさに願いが絶望へと昇華する瞬間なのである。けして願いが願われ、魔法少女が誕生した瞬間ではない。魔法少女の魂はその最後の瞬間において、天上へと引き上げられる。しかし天上のどこへ?映画を見た我々は、もうその答を知っている。画面の中で何度も繰り返し象徴的に登場していた、あの天上にある円環――月へ、である。「円環の理」とは、月という象徴を解読することで明らかになるのだ。

 

 19世紀の法学者でロマニストであったヨハン・ヤコブ・バッハオーフェンは、父権制の前段階としての太古の母権制の存在を文化人類学的な研究によって明らかにし、それによって法の歴史にオルタナティブな解釈を与えようとした。彼はその大著『母権論』において、月について古代の歴史において存在したデーメーテール的母性を象徴する天体と解釈する。月は、太陽と大地の境界にあってそれらを仲介する、デーメーテール=大地母神的な属性をもつ“天なる大地“なのである。

 ヴァルター・ベンヤミンフランツ・カフカの作品世界を(ベンヤミンカフカ論は、TV版まどマギ解釈にあたって*4、贖罪としての魔法少女を論じるさい補助線にしたものでもあるのだが)*5、バッハオーフェンの神話的世界に結び付けているのは驚くべきことではない。もちろんバッハオーフェンがロマニストとして太古の母権制への考察をすすめた時局的な意義は、19世紀的なものだったかもしれない。『母権論』は、21世紀の今日では、20世紀初めにはまだ存在していた実証的な力や政治的武器としての力を今やもたない*6。だが、この非常に読みにくく衒学的な印象さえ与える著作は、ルートヴィヒ・クラーゲスらミュンヘン宇宙論サークルによって“再発見“されて以降、左右の区別を超えて多くの作家・思想家に影響を与えてきたことも忘れられてはならない。バッハオーフェンにとって太古の神話的世界は、単なる歴史でも物語でもなく、言語によって尽くすことのできない秘儀的な宗教的体系の「解釈」として現前している。そのような神話的世界と対峙するために、彼は膨大な量の資料群を用いて、より古層的な生の現実の表れである象徴を逆撫でに読む。そして彼はそのような読解こそが、現代にも続く人類の生の歴史を――運命としての歴史を――逆照射できると信じているのである。この理念はベンヤミンのカフカ解釈に(そしてベンヤミンのアレゴリー概念全般に)大きな影響を与えている。ベンヤミンによれば、神話・法の読み方が現在において忘却されているために、カフカ的世界では、神話以前の太古の世界が運命として現出するのである。

 TV版まどマギにおいて魔法少女の運命とは、ベンヤミンが述べるカフカ的世界のごとく、その世界の法を何も知らぬままに侵すことによって少女に対して降りかかるのであった。だが、その法を存在づける世界の始源とはいかなるものであるか。それ自体については十分に明らかにはされなかった。「叛逆の物語」において、その始源は、何らかのある図像解釈の体系に従って配置された象徴群によって開示されている。我々は、映画「叛逆の物語」を正しく解釈し、まどマギ論を一段階高い次元に引き上げるためにも、世界の始源であるもの、「円環の理」について、その象徴構造の解読を試みなければならない。そのためには、バッハオーフェンとその受容において蓄積されてきた図像解釈学の力を借りる必要があるだろう。

 

 「叛逆の物語」は、まどかの救済に対してほむらの堕落を対置することによって、ほむらによる「円環の理」=まどかに対する「叛逆」の物語であったと通俗的には解釈されている。そしてこの解釈は、救済を嫌うキモヲタたちによって支持されている。だが、ほむらは本当にまどかの母権制に対して「叛逆」したのだろうか?「円環の理」=月=母権制の象徴構造は、この解釈に対して真っ向から対立している。バッハオーフェンによれば、月とは母権の象徴である。月の満ち欠けは生成と消滅を表し、その円環は永劫回帰を表す。「円環の理」は「永遠に女性的なるもの」とともに、月=母権制を顕示しているのである。月は夜を支配し、夜は死を象徴する。だが死は新たなる誕生=朝を告知している*7。したがって、月は生の円環そのものでもあるのである。「叛逆の物語」ではこの円環と月との関係が様々な形で示唆されている。たとえば閉鎖空間の中の見滝原において、ほむらと杏子が乗ったバスの表示は「見31見滝原循環」であり、31とは31日=1ヶ月のことであるという。31日=1ヶ月とは月の公転周期にほぼ等しく、それに従って定められたひとつの円環なのである。

 クラーゲスがバッハオーフェンを受容する際に自らの議論に取り込んだのは、「双極性」の概念であった。クラーゲスによれば、夜と昼、明と暗、死と誕生、水と火、などのリズム的交代に従って、宇宙は生起する。彼の着想もまた、象徴の考古学的考察から成り立っている。月は満ち欠けを持ち、生と死の双極性を持つ円環として見られてきた。またその楕円軌道は、ひとつの中心ではなく、ふたつの中心をもつ。双極性の概念に着目すれば、月はあらかじめアンチテーゼをその中に内包しているといえるのである。既に述べたように、月は仲介者であった。天と地、男と女、昼と夜、北と南、あらゆる対立物の、ふたつの極の間を揺れ動く。父権制の原理が単一性であるのに対し、母権制は、世界を双極性によって把握するのである。まどかの救済とほむらの堕落は、こうした母権的なアンチテーゼのそれぞれの側面にすぎない。後者は前者に対する対抗者であり、それによって二元性が生じているというわけではない。両者の起源は同じ「永遠に女性的なるもの」である。まどかは「聖母」になり、ほむらは「魔女」になったのである。

 ほむらの「叛逆」によって、見滝原の空に輝いていた満月は弦月となった。だが弦月は月の消滅ではなく、失われた正円の記憶を保持しているのである。弦月には今は消えているもう半分があることは明らかであり、逆撫でに読まれることによって、いまだ ἀρχήを象徴するのでる。ゆえに「円環の理」は、終盤でのほむらとさやかの会話からも示唆されているように、なおも天空において君臨しているのである。むしろ弦月の上下にできた角の存在は、月に双極があることも明らかにしてもいる。ほむらの「叛逆」によってむしろ、「円環の理」はその本性を表すのである。

 月がまだ輝いている限り(月自体が支配するのではなく、月によって象徴されているものが支配するのである)、「叛逆の物語」を神=まどかの救済の失敗と堕落したほむらの勝利として読むことはできない。ほむらは自身が証言しているところによれば、「円環の理」の一部(つまり、まどかである)を切り取り、肉体をあたえたのである。しかしこの受肉する力、物質(Materiell)的な力こそまさに、大地母神マーテル・マトゥータ(Mater Matuta)として顕現する母権的な力なのである。真の根源は月=母権にあり、まどかとほむらの関係は、いま現在どちらの極が優勢であるかという問題にすぎない。

 このような考察のもとで、ほむらがソウル・ジェムを噛み砕く*8その真の意味が明らかになる。ソウル・ジェムは楕円形をしている。月の楕円軌道については既に触れた。楕円とは歪んだ円であり、失われた原初的正円の象形文字である。楕円たるソウル・ジェムはまた卵の隠喩である。キュゥべえの真名が孵卵器であることからもそれは明らかである。この卵こそ、『母権論』の著者が創造の始源の象徴として繰り返し言及する「世界卵」である。日本の読者にとっては、クラーゲスを経由して世界卵の表象を取り入れたヘルマン・ヘッセの『デミアン』における一節が最も有名であろう。

Der Vogel kämpft sich aus dem Ei. Das Ei ist die Welt. Wer geboren werden will, muß eine Welt zerstören.

鳥は卵の中から抜け出ようとたたかう。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、ひとつの世界を破壊しなければならない。*9

卵は月と同じく破壊と生成を象徴する円環なのだ。楕円=卵の重要性は、飛行船や風船などの隠喩を通して、この映画において繰り返し強調されている。世界の破壊のためにソウル・ジェムを噛み砕くほむらは、別の見方をすれば、世界卵の破壊の再演という、これもまた母権的である祭儀にのっとって、それを行っているのである。

 したがって「叛逆の物語」のほむらの試みを、「円環の理」そのものの破壊の試みとして読むならば(そのように読む意義も疑わしいが)、その試みは失敗していると言わざるをえない。せいぜい、母権的支配の別のヴァージョン(アンチテーゼ)といったところであろう。ひとつの世界が破壊されても、また別の世界が立ち上がる。楕円も欠けた月も、その根源からは逃れられないのだ。すなわち、「Das Ewig Weibliche――永遠に女性的なるもの」の円環からは。

 

 生成と消滅の円環こそが「円環の理」である。閉じた輪の中で、魔法少女は踊り続ける。舞踏はディオニソス的芸術であり、母権的な芸術でもある。そのステップは楕円軌道を描き、ふたつの極を揺れ動く。楕円軌道であるからこそ、彼女たちは一定の距離を保つのではなく、近づきあい、離れあう*10。過去と未来はなく、運命としての現在だけがあるのである。

 空と地面は遠く、人と人とは近く――この舞踏は永遠に続くのか、それとも何らかの終着点があるのか。われわれはその答えを導き出すだけの材料は未だ持たない*11。その答えは次回作――もしあるとすればだが――に委ねるとしよう。

 

*参考

「約束された救済――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論」

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110223/p1

「まどかの救済、あるいは背中のまがったこびとの話」

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110425/p1

 

*1:カール・レーヴィットは、円環的な時間のなかでは歴史概念は成立しなかったといい、歴史概念は直線的な―つまり神学的な―時間概念の成立と同時に開始されたと述べている(『歴史における意味』)。

*2:Johann Wolfgang Goethe, Faust. Der Tragödie Zweiter Teil, 6215

*3http://dic.pixiv.net/a/%E5%86%86%E7%92%B0%E3%81%AE%E7%90%86

*4http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110223/p1

*5http://hhasegawa84.tumblr.com/post/67084214405/gesetze-und-umschriebene-normen-bleiben-in-der

*6エンゲルスは、バッハオーフェンの母権論を資本主義的=父権的家族制に対するオルタナティブとして読んだ(『家族・私有財産・国家の起源』)。この方法は19世紀においては画期的だったかもしれないが、現代におけるジェンダー論の批判に耐えうるものではないだろう。

*7:夕暮れ以降において戦う魔法少女を夜の女神ニュクスが生んだともいわれる、「夕べの国」ヘスペリアに住むニュンペーたちになぞらえることも可能であろう。魔法少女と夜というモチーフは、ギンズブルグがベナンダンディの研究によって明らかにしたような、太古の基層的文化との接続も想起させもする。

*8

*9:この一節は「少女革命ウテナ」によって有名となった。「叛逆の物語」とウテナの類似関係を指摘する者がいるのは理解できる。だが「叛逆の物語」は、その象徴体系を解読する限り、ウテナにおいて参照されたであろうヘッセではなくより古い起源を指し示している。ウテナとの類似でいえば、ネオプラトニズム=グノーシス的なモチーフが共通して用いられていることもあげられるが、グノーシスとは父権的な世界観を特徴するのであって、母権的象徴がちりばめられている「叛逆の物語」にそのまま当てはめることはできない。

*10:クラーゲスは、双極性は依存関係を持つと述べている(『リズムの本質』)。

*11:たとえば今後の展開において弁証法("3"の領域。すなわち1+2としての)が想定されているのか否かは注目に値するだろう

2013-12-03

「長期的持続」のスペクタクル ――漫画版『ARIA』の風景について

(初出は2003年、某サークル正会誌)

 19世紀全般を通して、ヨーロッパにおける都市の景観は大きく変容した。産業革命は都市人口の急増と生活スタイルの変化をもたらし、技術革新が近代的な建築物を登場させた。そして、海外貿易の発展が世界中から様々な珍しいものを都市に持ち込んだ。都市には美術館や博物館、劇場や動物園などが乱立し、パリやロンドンでは万国博覧会なども開催されるようになった。いわば、都市全体が一種の「スペクタクル」空間化したのである。近隣の地方や遠く外国からきた観光客たちは、その目の覚めるような景観に圧倒されることになる。

 19世紀ヨーロッパの演劇的スペクタクル都市を、一方の極として完成させたのはヴェネツィアであろう。18世紀にはヴェネツィアはすでに享楽都市として有名であった。ナポレオンの占領によっておよそ1000年にも及ぶ政治的独立に終止符が打たれてからは、その傾向がさらに顕著になっていく。

 ヴェネツィアは、文化的に他の西欧の都市とは異なる部分が多い。東方貿易の繁栄、そして(形式的だが)ビザンツ帝国への政治的従属が、ヴェネツィアの東欧世界化、アジア世界化を促したのだ。19世紀ヴェネツィアは、その文化的特徴を最大限に利用する。都市空間の作り方から、文化的行事、食事、市民の服装に至るまで、あらゆるものを一切―ある意味ではカリカチュアとして―オリエンタル化することで、都市全体を「演劇」化、「祝祭空間」化することに成功したのである。

 『ARIA』におけるネオ・ヴェネツィアは、この18世紀、19世紀にスペクタクル化したヴェネツィアをモデルとして作られていることには疑いがない。しかし、両者のスペクタクル性は果たして同じものなのだろうか?

 決定的に異なると思われるのは「時間」である。19世紀スペクタクルの特徴は、その時間の速さである。壮大な景観、壮大な場面が、目にも止まらぬ速さで駆け抜けていく。人々は、自分たちを驚かせてくれるものが絶えず更新されることを望む。更新のスピードは速ければ速いほどよい。それは近代的な産業様式、生活様式が大きく反映している。鉄道の影響は言うまでもない。だが、ネオ・ヴェネツィアにおいては、時間はむしろゆっくりと流れる。ネオ・ヴェネツィアの風景は永遠性を人々に想起させる。言わば、街全体が「のんびり」しているのである。この相違性とネオ・ヴェネツィアの可能性について、19世紀のスペクタクルの特徴と『ARIA』におけるスペクタクルの特徴を分析し腑分けすることによって明らかにしていきたい。

 19世紀、世界は西欧中心の「世界システム」に組み込まれつつあった。世界システムの中核―西欧各国が工業化を進めていくのに対し、世界システムの周辺―アジアやアフリカはますますその資源供給地に過ぎなくなっていった。西欧の産業構造に従属する形でアジア・アフリカのモノカルチャー経済化が進められ、その一次産品の違いによって世界は再編成される。

 都市のスペクタクル化は、この世界のありようを反映していた。美術館や動物園、博覧会などは、帝国主義の論理で色分けられた世界を表象する。たとえば1867年のフランス万博。周辺には、西欧の資本主義経済に組み込まれることによって生産が開始された一次産品や、その地域の珍しい品物を展示した各植民地のパビリオンが配置されていた。そしてその中心には、「進歩」や「帝国」の概念を誇示するかのように、西欧先進国の工場によって生成された品々が高らかと展示されていたのである。また、大英博物館はまさにアジアやアフリカに対する西欧「文明」の勝利という意識の産物に他ならない。万博を訪れた植民地からの旅人たちは、自分たちの自己イメージと展示されているそれのギャップに困惑することになった。 当然、それを見る西欧の人々たちの視線は、オリエンタリズム的なものにならざるを得ない。帝国主義的なまなざしによって異化されたオリエンタルな世界に対する好奇心が、彼らを美術館や博覧会へと向ける動機付けになっていたのである。

 西欧の人々が世界を帝国主義的、オリエンタリズム的に表象化していくとき、重要なのは彼らと対象との距離である。彼らは対象を、自分たちとは異なる「他者」として切り離していた。スペクタクルの中心には必ず「観客席」が置かれており、まなざす主体とまなざされる「他者」は厳然と区別されていたのである。植民地からの旅行者たちと同様、19世紀のヨーロッパ人旅行者たちもまた、現実のエジプトが、インドが、中国が、彼らの自己イメージと異なっていることに困惑することになった。現地にはまなざすための中心がなく、あるのは実生活に根ざした混沌だけだからだ。仕方なく、彼らはピラミッドや万里の頂上に上ることによって、パノラマ的な展望を手に入れようとする。

 18〜19世紀における「観光都市」ヴェネツィアも例外ではなく、このような構造の上に成り立っていた。観光客は前述したようなヴェネツィアの「オリエント性」、すなわち、自らとは異なる「他者」を見にやって来るのだ。彼らはあくまでも「観察者」の立場であり、都市自体もそのような構造を反映して整備されていた。

 しかし、ネオ・ヴェネツィアという街はこうした構造の上に成り立っているわけではない。その根拠は、「ウンディーネ(水先案内人)」の存在である。「観光客専門のゴンドラ漕ぎ」である彼女たちは、同時に観光客の「視線」を決定付ける役割を持つ。ネオ・ヴェネツィアに住み、誰よりもその街を知っている「ウンディーネ」が見たものを見ることによって、観光客たちは自らを対象の外部に置くことなく、対象の中に入り込んでネオ・ヴェネツィアの風景をまなざすことが出来るのである。

 しかし、「ウンディーネ」によって視線を規定されてしまうならば、それは観光客にとって窮屈なことなのではないか?当然そのような疑問が生じてくるだろう。だが、「ウンディーネ」が見たものを見るということは、風景を見るフレームが彼女たちによってあらかじめ与えられるということではない(それならば確かに窮屈であろう)。むしろ「ウンディーネ」が見たものを見る、つまり彼女たちを媒介とすることによって、フレームは崩壊する。まなざす者にとって異化されるのではなく、まなざす者と風景との同質性が顕現するのだ。

 要するに、ネオ・ヴェネツィアの風景は、「ウンディーネ」を通して、19世紀スペクタクルのようなフレームによって切り取られた個性的・珍奇的なものではなくて、歴史性と時局性をともなう内在的・性格的なものとなるのである。それこそが「6時間同じ風景を見ていても飽きさせないような(第3話「ため息橋」)」風景であり、その風景をまなざす者は「どんな囚人さんも/橋を渡る途中に/一度は足を止めて/あの小さな窓から/美しいヴェネツィアの/街並みを見つめて/思わず/嘆きの/ため息を/漏らしたそうです」「…私達は今/その美しい景色の中で/こーして のんびり/過ごせるんですもん/ため息もんですよねぇ」(第3話「ため息橋」)と、現在と繋がる連続性の中で、偶有的な「今」を再確認できるのである。かつてあったもので、現在もあるものの再発見。それがネオ・ヴェネツィアのスペクタクルなのである。

 さらにネオ・ヴェネツィアにおける「偶有性」は、この都市の基層的な構造において潜勢的に存在していることが明らかにされる。「どこまでも/規則正しく/繰り返される/風景が/この街を/歩く人に/一定のリズムを/与えてくれるのです」(第13話「街の宝物」)フェルナン・ブローデルは、歴史の中に政治的・経済的な変化では動かない、比較的ゆるやかに流れる「時間」があることを発見した。ネオ・ヴェネツィアの中で人々が感じる「一定のリズム」とは、この「ゆっくり流れる時間」―ブローデルは「長期的持続」と呼んだ―に他ならない。長期的持続は、歴史的な偶有性によって顕在化される。そしてそれは、ネオ・ヴェネツィアの風景と、それを見るまなざしを形成する。ネオ・ヴェネツィアという街自体にもまた、観光客に、他者としてではなく、「偶有的に」自己とかかわりがあるものとして対象をまなざさせる作用力があるのである。

 そう。ネオ・ヴェネツィアにおける風景とはつねに”再”発見される対象である。それは、ロマン主義のように風景を自己の一部として発見することもゆるさない。風景自体が即自的に現実化しうる可能態であり、ネオ・ヴェネツィアにおける奇跡の過剰はこの意味で解釈される。あらゆる風景は実在可能であり、ゆえにこの世界は奇跡で満ちている。これは、経済という、「中期的持続」の範疇に属するものに根ざした19世紀「スペクタクル」においては生じえないものであり、「長期的持続」の時間のリズム、そして過去と現在の両極を揺れ動くリズムに根ざしたネオ・ヴェネツィアの「スペクタクル」だからこそ可能になったのだ。

 19世紀以降近代化する世界の中で、我々はいつしか「中期的持続」的なスペクタクルこそが唯一のスペクタクルであると思ってきた。しかし、それ以前にもこうしたゆるやかに流れる時間に根ざした「スペクタクル」はあったはずである。近年、そうした「スペクタクル」の再発見がさかんに行われているという。しかしそれらは「近代」によって失われたものとして、ノスタルジアの中で懐古されるのみである。結局、人々は地理的な外部に変わって、過去に対して「オリエンタル」なものを見出しているだけなのだ。

 SFというジャンルにおいても、作家たちはその「スペクタクル」を、宇宙時代における地球―マンホーム―への郷愁というモチーフで表現しようとしてきた。しかし、そこには「進歩」という、作品によって程度の差はあれ、一貫してSFというジャンルを支えてきた概念と対立せざるを得ないというジレンマがあった。一方、ネオ・ヴェネツィアは、「オリエンタル」的ではない、歴史的偶有性に根ざした長期的持続を基層に置いているが、他方で近代性を完全に捨て去ったわけではない。(なにせ、火星に造られた人工都市なのだから。)進歩と偶有性の共存。『ARIA』という作品が持つ、SF的可能性ではあるだろう*1

 

*1:一方、アニメ版『ARIA』は人間中心的に話が進んでおり、漫画版にあるような灯里の内面が窺い知れなくなるような圧倒的な風景の現実性が描き切れているとはいえず、残念に思う