kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

力士の平均寿命

北の湖の死 - Living, Loving, Thinking, Again(2015年11月22日)より

それにしても、取的の寿命は短いなという印象はある。北の湖の62歳というのも現代人の感覚からすれば若死ということになるだろう。2010年に亡くなった初代若乃花花田勝治氏)は享年82歳だったが、その実弟貴ノ花は55歳で亡くなった。また、今年6月に亡くなった音羽山親方(元貴ノ浪)は享年43歳。その貴ノ浪を現役時代に苦しめた剣晃は1998年に僅か30歳で白血病で没している。統計学的には甚だ怪しい、取的は早死にするという印象の元になっているのは、やはり1971年に現役の横綱玉の海が27歳で急死するという事件だった。20代の現役選手が病死するというのは他のスポーツではあまりないでしょ?


ここに挙げられている玉の海と剣晃の死はショックでした。私も玉の海の急死によって「相撲取りは短命」と思うようになった一人ですし、剣晃は私が大相撲中継を見ることのあった最後の時期の力士で、私は力任せの相撲を取る貴ノ浪の取り口が憎たらしくて、その貴ノ浪を速攻で破る「悪役力士」剣晃のファンでした(同郷=相撲取りには珍しい大阪府出身=ですしね)。しかし、剣晃の場合は、

「汎(はん)血球減少症による肺出血」。白血病の一種で、日本でも剣晃さんを含め過去わずか4例、4000万人に一人という難病だった。

とのことなので*1、相撲取りであったこととは関係なさそうです。

さて、若くして病死したスポーツ選手としては、プロ野球では南海ホークス久保寺雄二(1985年心不全で死去、享年26)がまず思い浮かぶ。たまたま『ビッグコミックオリジナル』で読んだ水島新司の漫画「あぶさん」の印象が強かったせいもあるが。あと20代ではなかったし現役引退後だったが津田恒美(1993年脳腫瘍で死去、享年32)もいる。また、やはり「あぶさん」で印象深いダイエーホークス藤井将雄(2000年肺癌で死去、享年31歳)も思い出される。

しかし、プロ野球選手には長命の人も多いのに対し、長命の力士はあまり思い浮かばないのだった。

一昨年亡くなった大鵬は享年72歳だった。大鵬のライバル柏戸は1996年に58歳で亡くなった。1968年に亡くなった双葉山は享年56だった。双葉山の70連勝を阻んだ安藝ノ海は1979年に64歳で死去した。初代若乃花は82歳まで生きたけど、若乃花のライバル栃錦は64歳で死んだ。若乃花が長生きなのは、そっぷ型力士だったからかなあなどと思っていたが、同様の体型だった弟の貴ノ花は55歳で死んだ。もっとも貴ノ花はものすごいヘビースモーカーだったことが災いして横綱になれなかったばかりか寿命も縮めたのではないかとの説もある。

初代若乃花横綱としては史上2番目の長寿だったという。

http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2010/09/01/kiji/K20100901Z00001130.html(2010年9月1日)より

心身疲労で短命多い横綱…花田氏は2番目の長寿

 若いころから激しいけいこで肉体を酷使した往年の大相撲の力士は一般人と比べて寿命が短いとされている。さらに負けられないという精神的な重圧を常に背負い、土俵に立つ横綱はなおさらだ。
 1日に82歳で死去した元横綱初代若乃花花田勝治氏は、歴代横綱では明治中期に綱を張り、83歳で亡くなった初代梅ケ谷に次いで2番目の長寿記録。花田氏は晩年も毎朝の散歩をほとんど欠かさず、大好きな日本酒もたしなんでいたという。「土俵の鬼」は生命力も強靱だった。
 昭和以降に横綱に昇進した力士は、80歳まで生きた鏡里を除けばおおむね50〜60代で生涯を終えている。不滅の69連勝を誇る双葉山は56歳、花田氏と「栃若時代」を築いた栃錦は64歳。「柏鵬時代」の柏戸は58歳で、最近では3年前の8月に先代佐渡ケ嶽親方の琴桜が66歳で急死している。玉錦玉の海と現役中に他界した悲劇もあった。
 花田氏の弟子で57歳の鳴戸親方(元横綱隆の里)は最高位の重みについて「真綿で首を絞められるような苦しみ。それは横綱昇進の瞬間から引退するまで続いた」と表現した。
 存命の歴代横綱で最年長は栃ノ海の花田茂広氏と、佐田の山の市川晋松氏の72歳。史上最多の優勝32回を誇る大鵬納谷幸喜氏が70歳、解説者として活躍する北の富士の竹沢勝昭氏が68歳で続いている。

スポーツニッポン 2010年9月1日 20:04)


それでは、力士全体の平均寿命はどうなのかなあと思ってネット検索をかけると、1980〜2002年に亡くなった100人の幕内経験力士について調べたという人が「Yahoo! 知恵袋」の質問に回答しているのがみつかったくらいだった。

力士の平均寿命ってどれくらいなんですか?北天祐、剣晃、栃赤城... - Yahoo!知恵袋(2007年5月25日)より

ベストアンサーに選ばれた回答

sakataka20さん 2007/5/25 11:51:17

単純に平均値を算出してみました。昭和55年から平成14年の間に死去された100人の幕内を経験された力士の平均寿命、正確には死亡時の年齢の単純平均値は63.6才で、最短は22才、最長は91才でした。この値は昨年度(2002年)の日本人男子の平均寿命の78.07才より15才近く短命と言うことになります。

それでも以前、日本人の平均寿命より力士の平均寿命の方が長い時がありました。例えば、明治時代は男子の平均寿命43才に対して力士は56才で長生きでした。明治時代の力士は身長170cm、体重100kg程度で、引退した舞の海関クラスが平均的だったのに対して、現在の力士会所属力士の平均は184センチ、159キロですから明らかに身長の伸びに対して体重が過大になっております。これを肥満度(BMI)で比較すると、明治時代の34.6に対して47.0で明らかに差が認められます。

従って、力士の寿命が日本人の平均寿命より短くなった最大の理由は過大な体重によるものと考えても良さそうに思えます。入門時に80kgそこそこの新弟子が数年後には倍の体重になるわけですから、急激に体重を増やすためにカロリー過多の食生活により、コレステロール値400、尿酸値10になることも珍しくないと言われ、その結果当然の成り行きとして痛風になりで関節を痛める力士が後を絶ちません。

大型力士の多い現代相撲では確かに100kgでは勝負にはなりませんので、体重を増やすのもある程度は止むを得ないと思いますが、初場所で二連覇した朝青龍は、身長184cm、体重124kg、肥満度36.6 で軽量力士であることを考えると、むやみやたらに増やすのではなくコレステロール、尿酸値、血糖値とのバランスを考えてあるターゲット以内に体重をコントロールすることが大切ではないかと思います。

このところ、大関まではいくものの怪我などで休場が多く伸び悩んでいる力士の身長、体重、肥満度を調べてみると、貴ノ浪(197cm 173kg、44.6)、 武双山(184cm、178kg 、52.6)、 出島(181cm、164kg、50.1)、千代大海(182cm、162kg、48.9)、栃東(181cm、150kg 、45.8)、雅山(188cm、179kg 、50.6)といずれも肥満度は悠に44を越え超肥満傾向が目立ちます。

体重過多による内臓疾患に悩んだ貴乃花(187cm、159kg、45.5)の事例を考えると肥満度で45ぐらいが限界のように思えます。肥満は万病の源ですから病的に肥満にすることで有利になるスポーツは健全な肉体を育むというスポーツ本来の理想から逸脱するものであり、もし部屋の親方が未成年のうちから病気と引き替えに肥満を加速させるような食生活を強いるとするならばいろいろと問題が出てくるように思います。

朝青龍の活躍はこうした行き過ぎた力士の大型化競争に歯止めをかけ、相撲本来の「柔よく剛を制す」の醍醐味をファンにアピールするきっかけになるような気がしてなりません。朝青龍の今後の更なる活躍が沈滞している日本人力士たちの再生に繋がることを期待します。

明治時代の平均寿命が43歳だったというが、当時は幼時の死亡例が多かっただろうし、たとえば20歳男性の平均余命の比較ではどうなのだろうかという疑問もある。また、それこそ玉の海急死の印象が強すぎるせいかもしれないが、最近ではむしろ力士も長生きして還暦を迎える人たちが多いなあとも思っていたのだった。上記も2002年までに亡くなった力士の話だし。私が嫌いだった北の富士は存命(73歳)だし。私が子どもの頃(主に70年代)の力士で醜名を覚えている例を一覧表*2を見ながら挙げてみると、元横綱では琴櫻(2007年没、享年66)、輪島(存命、67歳)、2代目若乃花(存命、62歳)、三重ノ海(存命、67歳)、元大関では清国(存命、74歳)、前の山(存命、70歳)、大麒麟(2010年没、68歳)、大受(存命、65歳)、魁傑(2014年没、66歳)、旭国(存命、68歳)、増位山(存命、67歳)となる。こう並べてみると、最近は一概に短命ともいえないような気もしてくる。

なおこの中では、2代目若乃花の車椅子姿に驚かされたのは数年前のことだし、輪島は喉頭癌の手術で声を失ったらしい。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20151120/1448025202#c1448093988

id:carechi1964 2015/11/21 17:19
北の湖の死去に関し色々とゆかりのある人がコメントしている様がTVで放送されていますが、私は「なぜ(当時の)最大のライバルだった輪島のコメントを取らないんだろう?」と不思議に思っていたら、現在輪島さんは喉頭癌手術のために声を失ってたんですね。なんだかそれも残念です。


共同通信が輪島のコメントをとっています。下記スポニチの記事にはクレジットが記載されていないが、共同通信の配信。

http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/11/21/kiji/K20151121011553330.html

北の湖理事長と「輪湖時代」を築いた輪島氏「先に逝かれて寂しい」

 北の湖理事長と現役時代にしのぎを削り「輪湖時代」を築いた元横綱輪島大士氏(67)が21日、かつてのライバルの急死について文書でコメントを寄せた。咽頭がんの手術を受けて発声が困難なため。訃報について「最近、理事長は元気だと聞いたばかりだったので、とても驚いた。お互いに病気と闘っていたが、先に逝かれて寂しい」とした。

 対戦成績は輪島の23勝21敗だが「運動神経が抜群だった。一度掛けた技は二度は通用せず、頭のいい力士だった」と説明。思い出の対戦には1974年名古屋場所を挙げた。千秋楽の本割、優勝決定戦と輪島が得意の下手投げで2連勝して逆転優勝。この場所後に北の湖横綱に昇進した。

 輪島氏は引退後、日本相撲協会を退職した。その後はあまり付き合いがなかったというが「偶然、ホテルのサウナで会い、『裸の付き合いだね』と笑った。その後食事に行き、酒は強かった」と懐かしむ。

 その縁もあり理事長からは毎場所、番付表が送られてきた。「昔のライバルが相撲界で頑張り続けていることが、とてもうれしかった。もらった番付表は全て取ってある」。そして「俺はもう少し頑張る。(理事長には)よく頑張ったね、お疲れさまと言いたい」と弔いの言葉を贈った。

スポーツニッポン 2015年11月21日 23:33)

南原繁は「憲法第9条第2項の改正」に反対していた

南原繁について調べていたら、ノビー(池田信夫)の記事が引っかかった。ノビーは、1989年に出版された『南原繁回顧録』を引用している。


聞き書 南原繁回顧録

聞き書 南原繁回顧録


池田信夫 blog : 南原繁はなぜ憲法第9条に反対したか(2015年9月7日)より

南原繁はなぜ憲法第9条に反対したか

支離滅裂な一国平和主義を得々と語る木村草太氏や、彼に同調している国分功一郎氏をみると、彼らのような団塊ジュニアには団塊の世代の平和ボケが遺伝したんだと思う。

私の世代は極左内ゲバ連合赤軍を身近に見て、左翼がいかにおぞましいものかを知ったが、90年代以降に大学生活を過ごした世代は、その時代を美しい青春物語として聞かされ、朝日新聞を読んで日教組の「平和教育」の優等生として大人になったのだろう。

彼らも「復初の説」で、憲法の生まれたときに立ち返って、その精神を学んだほうがいい。この点で、憲法制定議会で野坂参三と並んで2人だけ第9条に反対した南原繁の証言は貴重だ。彼は当時をこう回想している。

戦争放棄はもちろん当然なさるべきことですけれども、一兵ももたない完全な武装放棄ということは日本が本当に考えたことか、ということを私は質問したわけです。つまり私の考えでは、国家としては自衛権をもたなければならない。ことに国際連合に入った場合のことを考えるならば、加入国の義務として必ずある程度の武力を寄与する義務が将来、生じるのではないか(p.350)。

つまり南原は一国平和主義をとなえたのではなく、国連中心主義の立場で第9条に反対したのだ。したがって彼は、吉田茂がなし崩しに進めた再軍備には、強硬に反対した。それには憲法の改正が不可欠だと考えたからだ。
(以後は有料記事)


この後ノビーが何を書いているか知る由もないし、また知りたくもないが、この文章だけを見ると南原繁が「9条改憲論者」であるかのように見える。しかし、私の手元には立花隆が編集して2007年に東京大学出版社から出版された『南原繁の言葉』がある。そこには、1962年に南原が「憲法問題調査会」で発表した内容に加筆した「第九条の問題」が収録されている。それを読むと、確かに1946年には共産党野坂参三とともに9条に反対した南原が、1946年及び1962年に9条をどう考えていたのかがわかる。


南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由

南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由

 

以下抜粋して引用する。

 私が当時、貴族院で第九条を問題としたのは、戦争放棄も軍備廃止も賛成であるが、それが一兵の武力も持たぬことを意味するとすれば、国家としての自衛権との関係をいかに考えるかという点であった。特に説明に当たった幣原国務相の言によれば、たとい自衛のためとはいえ、なまじ日本が僅少の武力を備えても、それが火を呼ぶことになるから、結局、一兵もおかない方が安全であると、それは本会議ならびに委員会において、吉田首相によっても同様くり返し答弁されたところである。そして、そのことは、第九条第二項に、例の「前項の目的を達するため」という修正が衆議院で加えられた後も変りはなく、完全非武装を意味するということであった。(301-302頁)

(中略)

 ただ、当初から今に至るまで抱いている一つの疑問――それを今日提出して、批判を請いたい問題――は、以上述べて来たった関係において、何らかの意味で最小限度の武力を持ち、将来もし不法の侵入または不測の緊急事態が生じたとき、その防止に備える必要はないか。ことに将来、国際連合との関係において、国際的警察力の組織される場合、それに参加するためにも、それは必要ではないのか。それが憲法にかかげる非武装の原則と矛盾せずに、いかにして可能であるかが問題であると思う。(304頁)


     

 そこで、私は率直に一つの提案を試みたいが、およそ、第九条に関しては、(戦力を認めようとする論者の間に=引用者註)現在二つの考えがあるようである。第一は、いわば極右的意見で、主権国家として日本が軍備を持つのは当然であって、国権の発動としての交戦権はもとより、国際紛争解決の最後の手段のためにも必要とするというのである。彼らは、そのために憲法第九条の全面的改正を要求する。この考えを持つ人は国会の中にも相当数あり、憲法調査会の中にも若干あると伝えられる。第二は、とくに自衛権のための軍備を認めようとするもので、その方法に二種の考え方がある。その一つは自衛権行使のための軍備ということを憲法第九条に除外例を設けて明文化しようとするものであり、その二は現在のごとき軍備が自衛権の名のもとに、現行規定においても解釈上可能であるならば、とくに憲法を改正する必要がないとするものである。

 そこで、私の意見は、新憲法における戦争否定と軍備廃止の精神はあくまで維持すると同時に、憲法制定のとき以来問題になっている厳密な意味の自衛のための最小限の武力の保持は警察という名分と機能において認めることである。すなわち、それはあくまで、いわゆる戦争のための軍備でないことが重要である。言いかえれば、単に名義だけでなく、警察的目的と機能から来たる必然の限界と程度がその行動と装備の上にもある筈である。

 新憲法のもとにおいては、周知のごとく、この問題に関し、わが国の辿った過程に三段階あった。最初は終戦後間もなく「警察予備隊」の名によって発足し、次は「保安隊」、そして現在の「自衛隊」に発展したのである。それぞれ法律によって、各段階に応じて、目的ならびに装備が定められている筈である。問題の解決は、将来の「国際警察」の観念につながる警察を前提として、警察の目的及び機能の範囲において考えてはどうか。具体的には、以上の最初の段階の警察予備隊、せいぜい保安隊のある程度にとどめてはどうか。人員についていえば、現在のごとき二十数万にも及ぶ兵力ではなく、十万前後が適当ではないのか。

 以上のごとき範囲と程度においては、日本国憲法における戦争否定と非武装の宣言と矛盾せず、したがって憲法を改正しないで可能であろう。最も重要なことはこの宣言を変更しないことである。(後略)(304-307頁)

(中略)

 かようにして、戦争放棄と完全軍縮は、まさに現実政治の綱領(プログラム*1)となっている。もとよりその達成には時を要するであろうが、何人もこの歴史の動向を変えることは出来ないであろう。そのとき、あたかも同じ綱領と理想を憲法にかかげた日本は、いかなる意味においても憲法を改正し、公然と再軍備する必要はないと思う。憲法第九条第二項に禁止する近代戦における戦力と区別して、狭義の自衛のための最小限の武力は、現行規定のもとにおいても可能であることは、前に述べた。

 第九条を中心とする憲法改正について、何よりも考慮すべきことは、それが海外に与える反響である。現在の時点において、この世界に宣言した不戦・非武装に関する条項の修正は、いかなる形においてであろうと、日本における反動勢力の支配と好戦的思想の擡頭として解釈される恐れが多分にある。殊に、それが東南アジア諸国に与える印象は、決して軽視されてはならないだろう。(307-308頁)


つまり南原繁は、自衛隊が「保安隊のある程度」を持ち、かつ将来的な「国連警察」への参加を見据えた「警察の目的及び機能の範囲において」であれば合憲であるとの解釈に立った上で*2憲法9条2項の改正に反対している。

しかし、ノビーの記事からはそれが読み取れない。ノビーは安保法に賛成する人間だから、意識的に「南原繁=9条改憲論者」の図式を読者に印象づけたいのであろう。

なお、南原繁と同様の主張をした人として石橋湛山がいる。以下、『石橋湛山評論集』(岩波文庫,1984)より。


石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)

(前略)世界の実情から判断して、国の独立安全を保つのに必要な最小限の防衛力はこれを備える国際義務を日本国民は負うものと信じます。(266頁,「プレスクラブ演説草稿」1957年1月25日)

しかし、それだからとて私は俗に向米一辺倒というがごとき、自主性なき態度をいかなる国に対しても取ることは絶対にいたしません。(同前)

(前略)世界に対しては、国連を強化し、国際警察軍の創設によって世界の平和を守るという世界連邦の思想を大いに宣伝し、みんながそれに向かって足なみをそろえるよう努力する。これ以外に方法はない。(282頁,「日本防衛論」、1968年10月5日号「時言」)


上記の南原繁石橋湛山も、私は2007年に読んだ。そのすぐあとに、小沢一郎が例のISAFへの自衛隊派遣論を唱える「論文」を『世界』に発表した。私はまだ「反小沢」を打ち出す前だったし、本心を言えば自民党時代や新生党新進党時代の小沢の悪行を忘れてはいなかったものの、同年の参院選民主党を圧勝させて安倍晋三を総理大臣辞任に追い込んだ実績と「変わらなければいけない」という小沢の言葉をある程度あてにしていたので、価値中立的に小沢の「論文」を読んだが、残念ながら南原、石橋の二者と小沢とでは、その思想は似て非なるものだと思った。「文は人なり」というが、その「人」について、南原や石橋からは誠実さが感じられたが、小沢の文章から感じたのは、何としても自衛隊を海外派遣したいという強い執念が先に立っていて、それに基づいて理屈を組み立てているな、ということであり、「小沢は本当に心から平和を求めているのだろうか」という疑念だった。当時持った感覚で覚えているのは、「これはとても硬質な文章だな、南原繁石橋湛山の文章とは肌触りがずいぶん違うな」ということだ。もっとも、一応は小沢にも「対米自立」の名目はあった。小沢と南原の関連については、前述の立花隆編集の『南原繁の言葉』に姜尚中が書いた「南原繁憲法九条」に指摘がある(197頁)。しかし、小沢の論文をめぐる議論はすぐに中断された。『世界』に「小沢論文」が発表されてから1か月も経たないうちに、小沢と福田康夫の「大連立構想」が露見し、小沢は民主党代表辞任に追い込まれている。この時、ブログ開設後としては初めて、私は小沢支持派(当時はまだ「小沢信者」といえるほど凝り固まっておらず、対話も可能だった)と意見を異にして、小沢論文ではなく「大連立」の是非についてだが議論を交わした。もちろん私は小沢を批判し、小沢の民主党代表辞任を求める記事を書いた。

例によって話がそれた。一言書いておかなければいけないのは、南原繁加藤典洋の『戦後入門』との関係である。


戦後入門 (ちくま新書)

戦後入門 (ちくま新書)


加藤の言うところの「左折の改憲」の提言は、南原の思想をベースにして、ロナルド・ドーアの2冊の本(『「こうしよう」と言える日本』1993,朝日新聞社、『日本の転機――米中の狭間でどう生き残るか』2012,ちくま新書)と矢部宏治の『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』2014,集英社インターナショナル)の計3冊の本に刺激を受けたものだという。


「こうしよう」と言える日本

「こうしよう」と言える日本


日本の転機―米中の狭間でどう生き残るか (ちくま新書)

日本の転機―米中の狭間でどう生き残るか (ちくま新書)



このうちドーアの2冊は未読だが、矢部宏治の本は読んだものの全く感心しなかった。矢部の本は特に原発について書いた章がひどくて、アメリカの圧力で日本が脱原発に踏み切れないのだと矢部は書くのだが、日本の原発維持とは日本の核武装へのポテンシャルを保つものであることにほかならないから、それを好まないに違いないアメリカが日本の「脱原発」を阻んでいると矢部が考える理由が私には理解できなかったのだった。原発論への違和感ばかりが印象に残っていてそれ以外の内容は実はよく覚えていないのだが、加藤の本によると、矢部は憲法9条2項の改正によって個別的自衛権を認めることを提言していたとのことだ。加藤はこれに南原繁の思想に基づく歯止めをかけ、将来の国連軍への参加(国際連合待機軍)を新第二項に、国連軍に参加する部分を除き、治安出動を禁じる「国土防衛隊」を第三項に、非核三原則を第四項に、外国の軍事基地の禁止を第五項に盛り込むとしている。つまり、矢部案が認める新第2項に歯止めをかけるとともに、南原繁(や石橋湛山)の理想に近づくというものだ。

まず第一に、これを「左折の改憲」というのはおかしいだろう。南原繁石橋湛山もともに、保守の中ではもっとも良質な人たちだとは思うが、明確に「保守」の範疇に属し、「左」とはいえない。加藤の提言は「保守」である南原の思想の上に立つものだ。

それに何よりも、加藤の9条改憲案は、前述の南原繁の指摘(下記に再掲)に抵触する。

現在の時点において、この世界に宣言した不戦・非武装に関する条項の修正は、いかなる形においてであろうと、日本における反動勢力の支配と好戦的思想の擡頭として解釈される恐れが多分にある。


南原繁が言う「現在」とは1962年であり、半世紀以上前のことではある。しかし、当時と比較しても今は「日本における反動勢力の支配と好戦的思想の擡頭」が世界から懸念されている。

そんな時に加藤典洋が提言する「左折の改憲」は、改憲を提言すること自体によって「反動勢力(安倍政権、自民党日本会議など)が主導する反動的な改憲」に手を貸す以外の結果は何ももたらさないと私は考えるのである。

よって、加藤が提言する「左折の改憲」に、私は反対である。

*1:原文では「綱領」にルビ=引用者註

*2:南原の影響を多分に受けたという立花隆も、「自衛隊合憲論に基づく護憲派」である。「立憲主義」を唱える憲法学者でも長谷部恭男は自衛隊合憲論をとる。しかし、樋口陽一自衛隊合憲論はとらないようである。

7年前、橋下徹に恫喝されたあの“女子高生”が声をあげた! 橋下が放った冷酷な言葉、そして今、大阪に起きていること(リテラ)

橋下が大阪の市立女子高生を「恫喝」した件は、私もよく覚えている。橋下の人間性を象徴する出来事だと思った。その後、「脱原発に頑張る橋下市長を応援しよう」と言い出した「左翼人士」やら、大阪府市特別顧問に就任した「脱原発人士」やら、「立憲主義を理解している橋下くんを自民党のアブナイ改憲論に対抗する勢力として活用したい」と言い張った「リベラル」ブロガーやらが現れる度に、橋下の正体も知らずに何甘っちょろいことを言ってる(やってる)んだ、と呆れ返ったものだ。

7年前、橋下徹に恫喝されたあの“女子高生”が声をあげた! 橋下が放った冷酷な言葉、そして今、大阪に起きていること|LITERA/リテラ(2015年11月21日)より

7年前、橋下徹に恫喝されたあの“女子高生”が声をあげた! 橋下が放った冷酷な言葉、そして今、大阪に起きていること
【この記事のキーワード】インタビュー, 大黒仙介, 女子高生, 橋下徹
2015.11.21

「今日は、維新政治への怒りの気持ちと思いをスピーチしに来ました。正直言って、こんな人前には立ちたくないし、当時、たくさんの人から誹謗中傷を浴びたので、ここに立つのがすごく怖いです。でも、ほんとうに今回のダブル選挙で維新政治を終わらせたくて、今日ここに立っています」

 府知事・市長のダブル選挙を11月22日に控えた大阪・梅田で先日、SEALDs KANSAIが行った街頭演説で、一人の女性のスピーチが大きな注目を集めた。7年あまり前、大阪府内の私立高校2年生だった彼女は、私学助成予算の大幅な削減を打ち出した当時の橋下徹府知事(現・大阪市長)に仲間とともに面会し、計画の撤回を求めた。しかし、その場で橋下は言い放った。「日本は自己責任が原則。それが嫌なら、あなたが政治家になって国を変えるか、日本から出て行くしかない」。府民・市民の反対を押し切って強行され、マスメディアも持て囃した橋下の「改革」が大阪の教育現場をどれほど疲弊させ、破壊したか、彼女は身をもって知っている。だからこそ、勇気を持ってこう訴えるのだ。

「私は絶対に、これまでの維新の会の政治をやめさせます。そして、ここ大阪でも、民主主義を始めるのです」

 彼女の名は織原花子さん(24)。投票日直前の大阪で、その思いをあらためて聞いた。

●必死の訴えを「自己責任」で一蹴、心の傷をえぐるような言葉を…

大阪府堺市で生まれ育った織原さんは中学1年で母親を亡くし、父、兄との父子家庭になった。父親が突然会社を辞めることになり、そのほかさまざまな悪条件が重なって、中学の時は「とにかく目の前の一日を生きていくのに必死だった」という。

とても落ち着いて勉強できる環境じゃなかったんです。当然成績も良くなく、進学先も選べない。「底辺校」と言われる私立高校に入るしかなかった。そこは学力的に「底辺」というだけじゃなく、私と同じように経済的に困窮していたり、いじめで不登校になったり、いろんな理由で生きづらさを抱える子が集まっていた。私たち世代は幼い頃から自己責任論を刷り込まれていますから、みんな自分を責め、劣等感の塊でした。私も、自分が私立にしか行けなかったせいで、父に無理をさせているという負い目を感じていた。だけど、その学校の授業や出会った先生のおかげで、教育制度や社会にも大きな矛盾があることに気づいたんです。子供の貧困問題、公立と私立の学費格差、過当な学力競争……。決して自己責任だけでは片付けられない現実があることを知り、自分も生きていていいんだと自信が持てた。
 橋下さんが知事になったのはそんな頃、私が高校1年の冬(2008年2月)でした。直後に府の財政改革PT案というのが出て、そこに私学助成の大幅削減も入っていた。私は当初、政治なんかに全く興味はなかったけど、これが通れば学費が値上げされるかもしれないと聞き、先生の勧めもあって、08年の春に学校の先輩や他校の生徒たちで発足した「大阪の高校生に笑顔をくださいの会」に半年ほど遅れて参加するようになったんです。

府内の私立・公立高校の生徒たちが学校の垣根を越えて集まった同会は、年収288万円から430万円以下の家庭でも7万円もの学費値上げとなる私学助成削減の撤回を求め、さまざまな運動を展開した。そして08年10月、織原さんを含む12人のメンバーが府庁で橋下と面会し、窮状を直接訴えることになった。その時の模様を彼女はこう語る。

 広い部屋に入って行くと、周りを大勢の記者やカメラマンが取り囲んでいて、すごく緊張しました。橋下さんが入ってくると、一斉にフラッシュが光り、「なんでこんなところに来てしまったんやろ。早く帰りたい」と思った。橋下さんは最初にこう言いました。「君たちもいい大人なんだから、今日は子供のたわごとにならないように」って、威圧的な感じで。当時すごい人気のあった知事にいきなりそんなことを言われたらひるみますよね。だけど、メンバーは一人一人順番に、自分のしんどい状況や思いをしっかり訴えました。20分の予定だったのが、1時間半近くになったと思う。
 私の学校の先輩は、「いじめで不登校になって勉強が遅れ、内申点も付かないので私立に行くしかなかった。父親は病気で働けず、学費が大きな負担になっている」と、自分の傷も隠さず、思いきって話しました。でも、その先輩に向かって橋下さんは言ったんです。「いじめられた時になんで転校しなかったんですか?  転校すればよかったじゃないですか」と。その突き放すような冷たい言い方に、先輩は泣いてしまいました。私たちが抱えてきた傷や、どうしても拭えない劣等感を、彼はえぐるような言い方をするんです。徹底的に自己責任論で押してくる。
橋下知事は『子供が笑う』を公約に当選されましたが、私たちは笑えません」という意見に対しては「『子供が笑う』とはみなさんが笑うためではない」と突っぱね、「高校は訓練の場です。社会に出るまでの通過点でしかないんだから、そんな訴えには意味がない」と、教育の意義を全否定するような言葉もあった。そして、「それが嫌なら、いまの政治家を選挙で落とせばいい」「自分が政治家になってこの国を変えるか、日本を出て行くしかない」です。橋下さんは、自分が(母子家庭という)しんどい環境から公立の進学校に入り、弁護士になったという自信があるせいでしょう、困っている人に対してすごく厳しい。貧困家庭に生まれたのも、勉強してそこから抜け出せないのも自己責任だという考え方です。でも、ほんとうは教育って学力競争だけじゃない。生きづらさを抱えている子に、生きる希望を与えるものでしょう。横で聞いていて、悲しかったし、許せないと思った。

このほかにも、橋下は「努力して公立に行けばいいだけ」「学校に行かなくても学ぶ機会はある」「府の財政はギリギリ。学校だけのことを考えるわけにはいかない」など、勇気を振り絞って訴えた高校生たちの声をことごとく一蹴した。織原さんは、ちょうど一人手前で時間切れとなり、直接訴えることはなかったが、橋下の言葉に深く傷ついたという。それは、この面会を報じるマスメディアの報道に対しても同じだった。

 自分の苦しさを必死で訴える高校生に、橋下さんは「府財政の現状をわかってますか?」「日本のGDPはどれぐらいだと思います?」などと逆質問をぶつけてくるんです。こちら側は答えられず言葉に詰まる。さっき言ったように泣いてしまう人もいる。テレビはそういうところだけを切り取って流すんです。ほんとうは、私たちの側も「自己責任だけで語ってほしくない」「教育は学力だけが目的じゃないはず」と、言うべきことも主張した。それなのに、「わがままな高校生たちが自分勝手な甘えた主張をして、橋下さんに論破された」という印象のニュースに仕立てられる。『ミヤネ屋』のアナウンサーや、フジテレビのニュースの木村太郎さんなんかは「私学助成は憲法違反だ」と言っていたのを覚えています。
 そういう報道を見た人たちから、学校に抗議や嫌がらせが相次いだそうです。「甘えたことを言うな」「どんな教育をしてるんだ」って。私の卒業後には、「あの学校は日の丸を掲げてないらしい」「授業で貧困問題など余計なことを教えているようだ」という話に広がっていったとも聞いています。私が今回、SEALDs KANSAIでスピーチしたことに対しても、動画がネット上に出ると、誹謗中傷の書き込みが拡散されました。写真と名前、職場名とともに「共産党の手先」などと書いたコラ画像などがいくつも出回っているのを確認しています。ネットの反応などを見てると、私のような主張をする人間が許せないんだそうです。多くが維新の支持者のようですが、それだけじゃない。橋下さんのような考え方に世の中の多くの人が染まっているような気がします。

●荒廃する大阪の教育現場、今ここで橋下改革を終わらせておかないと……

高校生たちの必死の訴えは、橋下が声高に唱える自己責任論と、それに無批判に追随するマスメディアや世論によって蹂躙され、私学助成の削減も強行された。しかし、織原さんはくじけなかった。高校3年になると、「大阪の高校生に笑顔をくださいの会」の代表となり、一方で猛勉強して立命館大学へ入学。教職免許の取得を目指しながら、「教師の卵」というサークルを立ち上げ、真にあるべき教育とは何かを考え、実践し続けた。

 うちの家は経済的余裕がなかったので、とにかく早く自立しないといけなかった。大学の学費は奨学金頼み、生活費はすべてアルバイトでまかないました。深夜の居酒屋で時給800〜1000円程度で働いて。それに授業があって、サークルがあって。大学時代は忙しすぎて大変でした。正直もう二度と戻りたくないです(笑)。
 サークルを立ち上げたのは、周りで教職を目指す子たちの教育観にすごく違和感を覚えたからです。いかに効率よく資格を取るか、模擬授業のハウツーをいかに身に付けるかといったような話ばっかりしていて、本来の教育のあるべき姿はなんだろうと考えない。私は、教師というのは生徒たち一人一人に寄り添う伴走者であるべきだと思います。橋下さんの言うような競争偏重、一部のエリートだけを育てる教育では子供たちを救えない。むしろ、そこからこぼれ落ちた子たちに孤独を感じさせ、学校現場を荒れさせるだけです。それは、生きづらさを抱え、自己責任論と劣等感にさいなまれた自分だからこそ確信できます。私は、あの高校の先生たちに出会ったことで救われたんです。
 大学1年の終わり頃に東日本大震災があり、卒業までの約3年間に被災地へ何度も行きました。ただでさえ今の教育に疲れている子供たちが、被災し、親を亡くして傷ついているのに授業再開を急ぎ、子供の減った学校を簡単に統廃合してしまうことに違和感がありました。だから、私はできるだけ子供に寄り添いたいと思った。
 教員免許は取得しましたが、今は教職には就いていません。奨学金の返済額が800万円近くに上っているので、夢よりもまず、お金を稼がないといけない。働きながら教員採用試験の勉強をするのはかなり大変なので、現時点では考えていません。でもいつかチャンスがあれば、自分の理想とする教師になりたいという夢はあります。

こうした経験をしてきたからこそ、織原さんは橋下維新にノーを突きつける。「教育改革」という名の破壊によって、大阪の教育現場はすっかり荒廃してしまっている、と。

 橋下さんと維新の議員によって、教育基本条例が府と市で定められました。教員を評価と処罰で徹底的に管理し、締め上げる内容です。また、彼らは教員に対し、国歌の起立・斉唱を強制する条例も作った。誰のための教育かという視点が全くなく、すべてにおいて上から管理して従わせる発想なんです。これを安倍首相も評価している。つまり、大阪の「教育改革」は、国の先を行ってるんです。もちろん、悪い方向へ。
 その結果、大阪の学校現場では荒れる生徒が増え、不登校も増加している。何より深刻なのは、そういう状況だというのに、「大阪でだけは教師になりたくない」と志願者数が減っていること。今ここで維新政治を終わらせておかないと、大阪の教育現場はこれからもますます荒廃し、子供たちが生きづらくなっていくばかりです。そして、それはいずれ全国に広がっていくでしょう。ほんとうにそんなことでいいんですか。大阪の実情を有権者に知ってもらい、真剣に考えてほしいと私は願っています。
(大黒仙介)

(リテラより)