前代未聞の暑さだな。
 熊本でこの温度は経験したことない。こういうのは、関東平野の得意技なんじゃないの。一番暑いのが九州北部とか、間違っている。
 本気でへばる。
 まあ、エアコンが効いた部屋から一歩も出ない攻撃で乗り切っているが。出かけるにしても、日が傾いてからだな。


 とりあえず、図書館に返す本の読書ノートを急いで作成。

倉地克直『江戸の災害史:徳川日本の経験に学ぶ』

 密度の高い本だった。かつての中公新書の名著のようなレベルで。江戸時代の社会が、災害に対し、どのように対応したのかを追っている。災害の社会史というか、制度史といった趣。取り上げられたトピックは多岐にわたる。
 家・村・「公儀」といった階層で、災害の被害から命を守ろうとする。災害からの再建のコストを誰が負担するかで、時代ごとに変遷するのが明らかにされる。災害から照射される「公儀」や「地域の治者」の動向は、徳川時代の政治のあり方全般に敷衍できそうだな。
 時代ごとの災害の変遷も興味深い。17世紀から18世紀初頭には、地震災害が目立つ。18世紀になると、日本全国で新田開発が進み、河川の氾濫原の開発が進んだためか、水害と飢饉が災害のメインとして目立つようになる。さらに、18世紀末から19世紀になると、再び地震が目立ちだす。このあたり、厳密には、メディアや記録の偏りに影響されるのだろうけど。ローカルな規模の水害がどのように起き、その復興がどのように処理されたのか見たいなのが、改めて興味が出てくる。
 熊本藩の事例が多く収録されているのが興味深い。新熊本市史から引かれている事例が多いようだが。
 あと、江戸時代の災害の死者の多さ。21世紀の変わり目前後とは、全然桁が違う。昭和のころの災害とか、発展途上国の被災状況を見ると、それだけ災害対策にお金をかけたってことだよなあ。


 第1章は、17世紀中盤、1680年代あたりまで。幕藩体制の草創期。地震に飢饉。江戸や京都のような大都市の形成により、大火災の発生。そして、大規模な災害を報じるメディアの登場。あとは、「仁政」概念の形成と「撫民」。


 第2章は、17世紀末から18世紀の始め。綱吉から吉宗の時代。近世的な「公共」の姿が固まる時代。幕府が「公儀」として、災害対策の前面に出てくる時代。宝永の富士山噴火では、全国に「諸国高役金」を賦課し、富士山の火山灰による相模川の河床上昇に対策を行っている。また、領主をまたぐ広域河川の治水に関しては、御手伝普請や国役普請などを、享保の飢饉では拝借金の貸与や米の廻送などの対策を行った。
 この時代になると、村や地域で、災害を記録・記憶していこうとする動きが出てくる。
 あと、綱吉や吉宗の時代には、放火が多かったというのが驚き。「無宿」の人間が逮捕処刑されているけど、実際のところ、政治的陰謀もあったんじゃなかろうか。


 第3章は18世紀後半。飢饉の時代。また、財政難の幕府や藩が後景に退き、民間の富裕層が、災害対策の前面に出てくる。
 宝暦の飢饉で、弘前藩は食糧確保のため、米の輸出を中止。餓死者を出さなかった。一方で、現金確保のために廻米を強行した藩では大量に餓死者を出すと、対応の差が明確に出た。一方で、天明の飢饉では、余力のなくなった諸藩には、なすすべがなかった
 この時期になると、民間富裕層が重要な役割を担うようになってくる。炊き出しへの資金の拠出や村山地方郡中議定のような自主的な村落連合の出現。囲米と義倉。また、打ちこわしによって圧力をかけ、領主や富裕者の施行を引き出す「慣行」の広まり。 
 しかし、この時代の「飢饉」って、実際にはどの程度生産量が減少したのだろうか。打ちこわしで圧力をかければ、溜め込まれていた食料が出てくるわけでもあるんだよな。分配の問題の側面もありそう。


 最後は、寛政期(1790年代)以降。徳川幕府の体制が揺らぎ、崩壊していく時代。ヨーロッパ諸国の進出に対して、軍備強化を強いられ、災害救護のリソースを失う幕府や諸藩。地域の行政・開発は、在地の富裕者層を、武士身分に取り込むかたちで丸投げ。被災者の救援も、在地主導となっていくが、度重なる災害に、民間社会も疲弊していく。
 熊本藩の「在御家人」が、けっこう長く採り上げられているのが興味深い。また、19世紀初頭以降、大規模な地震が頻発するようになる。数十年くらいのスパンでの、活動期・静穏期ってのがあるのだな。
 最終的に、天保の改革や幕末の混乱の中で、徳川幕府は解体していく。


 以下、メモ:

 寛永一六年から一八年(一六三九〜四一)にかけて、西日本で牛疫病が流行する。西日本では牛は耕作や運送に欠かせないものであったから、農業生産に打撃となった。
 たとえば現在の熊本県にあたる肥後国地方の様子は、次のようであった。
 この地に五四万石の領知を持つ熊本藩では、寛永一二年七月・八月と続く大風で凶作となり、寛永一三年には長雨と虫害で引き続き凶作となった。翌一四年も再び虫害に見まわれ、事態が深刻化するなかで隣接する島原・天草で一揆が起きる。牛疫病がこれに追い打ちをかけた。同国蘆北郡津奈木手永では寛永一〇年に二二四疋であった牛が寛永一八年には九疋に激減したという〔新熊本市史編纂委員会 2001〕。「手永」は二〇か村ほどからなる熊本藩の行政単位で「惣庄屋」が管轄した。藩主の細川忠利は九州全体では二万疋から三万疋の牛が病死したと幕府に伝えている〔藤田 1982・83〕。p.37-8

 メモ。へえ。江戸時代前半でも、そういう飢饉があったのか。しかし、牛のイメージはあまりないな…
 藤田覚寛永飢饉と幕政」『歴史』59号、60号、1982・1983年

 上から社会を統合しようとする動きは、下々に緊張を強いるものだ。厳格な統制政治のもとでは不満がさまざまなかたちで蓄積する。
 「天譴」論には先にも触れた。古くは中国から伝わったもので、日本列島の人びとにも広く受け容れられていた。「天譴」論では、災害を悪政の結果であり大乱の兆しだと考える。その証拠は、災害にともなってさまざまな「怪異」現象が起きることでもわかる。だから、ことさらに「怪異」を語ることは、悪政を批判することであった。
 戸田茂睡の『御当代記』は将軍綱吉一代の出来事を記したものだが、全編が災害と「怪異」の記述にみちている〔塚本 1998〕。最初は、綱吉襲職直後の延宝八年(一六八〇)閏八月六日の大風洪水だ。この年には、「ほうき星出、大風吹き、黄蝶数十万飛びあるき」と「怪異」が続く。「黄蝶は乱世の兆し」と噂された。その後、天和二年(一六八二)までの三年間は、長雨や大雨風・洪水が列島各地を襲い、諸国で飢饉が続いた。これも先に触れたように、長崎や京都・大坂で黄檗僧たちによる施粥が行われ、窮民はようやく飢えをしのいだ。
  (中略)
『御当代記』は、それ以降天和三年二月までのニか月あまりに、毎日昼夜五、六度、多いときには八、九度も火事があったと記す。しかも、そのすべてが放火だったという。それを取り締まるために幕府は、中山勘解由直守を火付改に任じた。町々には、火の見櫓を設けて、付け火を監視するように命じている。p.67-8

 綱吉といい、吉宗といい、外から将軍が入ってくるときには、相当な反発があったようだな。まとまった政治的陰謀があっても不思議ではないが…

 どんなに災害で破壊されても、生まれ故郷に帰ろうとするのは、人の「帰巣本能」だろうか。避難が長期化すれば、意思も挫けるだろう。それを乗り超えて帰還を実現させたのは、島民の熱意とリーダーの不屈の指導力であったに違いない。他方、避難先にもさまざまな事情があったろう。帰らないという選択の余地はほとんどなかったかもしれない。南の島の小さな帰還劇にも、災害をめぐって考えるべき問題が多くあるだろう。p.145

 青ヶ島の1785年噴火と、避難した島民の40年越しの帰還。避難先の八丈島にも、避難者を受け容れ続ける余地がなかったんだろうな。トルコ辺りから押し出されているシリア難民と同様に。

 麻疹と並んで幼児の死亡率を高めていたのは疱瘡(天然痘)であった。イギリスのジェンナーが牛痘を使用した予防接種法を発見したのは一七九六年のことだが、それが長崎に伝えられたのは嘉永二年(一八四九)であった。その後ただちに江戸の以東玄朴、京都の日野鼎哉、大坂の緒方洪庵が種痘を実施した。安政五年(一八五八)大坂に除痘館、江戸に種痘所が幕府の援助で開設され、地方でも在村の開明的な医師たちの努力によって急速に普及した〔田崎 1985〕。p.214

 ある意味、流行病に確実に有効な医療手段って、これが最初だったんじゃなかろうか。

山下昌也『わずか五千石、小さな大大名の遣り繰り算段』

 古河公方の末裔、足利家の家として10万石の格を持ち、徳川の幕藩体制からも微妙に外れた位置にいた喜連川家のお話。「遣り繰り算段」といいながら、数字の話はあまり出てこず、エピソード集といった趣の本。「やさしい」がキーワードだけど、どうなんだろうな。たしかに、領内で一揆を起こさなかったのは、すごいと思うが。5000石程度で、一揆起こされたら、あっという間に吹き飛ぶだけ。規模が小さいから目配りが聞いたにすぎないのでは。一方で、金に困ると、喜連川宿の本陣の権利を取り上げて、競売にかけるみたいなえげつないこともやっているしな。
 5000石の領地で、10万石の格式というと、財政破綻不可避のようだが、実際には領地に引っ込んで江戸に出てこない。幕府の役職につかないというだけで、ずいぶん楽なような。猟官工作に金がかかるし、仕事にかかる費用は自己負担だし、ずっと江戸に居る必要があるし。江戸藩邸の維持費や大名間の交際費なんかの負担がない。毎年の年賀の挨拶は、負担だったと思うけど。
 メインの収入源が、宿場の運営とそれからの運上ってのが、おもしろいな。で、上客の伊達藩なんかには、いちいちお出迎え。
 藩政改革もおもしろいな。10代熙氏の「共産主義」っぽい、地主排除を目論んだ検地。ついでに家中の風紀を正すために、上士と下士の区別を厳格にしたが、それが逆に出世が見込めない下士層のやる気を奪い、幕末に到る上下対立の火種を撒いた。
 あとは、吉良上野介が領地拡大のために尽力してくれて、ほぼ実現しかかっていたが、赤穂浪士の討ち入りで沙汰止みになった話とか。知られざる被害者w


 前半は、幕府から小大名のやりくりのお話。国持ち大名の領国だった場所の人間からすると、1万石クラスの大名の所領管理ってどうなっていたのか興味があるな。
 あるいは、水戸藩の「悪政」とか。

小林丈広他『京都の歴史を歩く』

京都の歴史を歩く (岩波新書)

京都の歴史を歩く (岩波新書)

 京都を歴史の観点から歩く本。地図と首っ引きだから、この手の本は読むのが時間かかる。
 先日読んだ『歴史家の案内する京都』と比べると、取り上げられている時代が新しい感じがする。あと、イメージ形成に筆を割いているのが興味深い。舞妓が伝統芸能の継承者としてイメージ形成されていく過程。嵐山が女性の隠遁場所というイメージが作られる過程。つーか、祇王寺とか、滝口寺って、割合最近、再興された寺なんだな。宇治が、平安文化を象徴する街になっていく過程。江戸時代には、平家物語の先陣争いや源頼政の自刃場所として知られていて、「頼政の遺物」と称するものが有料で見せられていた。それが、平等院鳳凰堂の美術史的な再評価から、平安文化を象徴する街と読みかえられていく。あからさまに、作られたイメージなんだな。これが観光開発か。


 京都市中心部、四条河原町から祇園方面の記述が厚いのも特徴。室町通りを中心とした祇園祭を支えた町衆たち。近代に入って、芸能の街として再開発された新京極通り。祇園祇園社関連の塔頭が、近代にはホテルの変わっていくというのがおもしろい。清水坂の被差別民。近代に文教地区として再開発された岡崎。京都御苑に公家町のよすがを探す。京都御苑は、よく行っていたけど、閑院宮邸跡が、わりと保存状態よく残っているというのは、知らなかった。あとは、高瀬川沿いの木屋町通りとか。
 あるいは、「学都」京都と公家社会の関わり。


 郊外だと、北野から金閣寺にかけての「北山新都心」、大津から蹴上までの旧東海道、岩倉の実相院周りの病院集中地域が興味深い。
 足利義満が深く関与した北野天満宮金閣寺の邸など。あのあたり、有力者が集まる権力中枢だったのだな。今は、あまり痕跡が残っていないみたいだけど。
 牛馬が行きかった逢坂山をはじめとする東海道。山越えは意外と短そうだな。自転車では、山越えがきつそうだったので、学生時代には行ったことないけど。せいぜい蹴上までだった。車石は、他の本で読んだことがあるな。日岡峠の旧道がおもしろそう。
 あと、岩倉実相院周辺がものすごく興味深い。眼病や狂気を癒す霊験が謳われた大雲寺。地元の百姓が養生ための茶屋を設置。その経営者が、近代医療をキャッチアップして、病院を建設していく。地図を見ると、病院が3つ、老人介護施設が2つくらい、集中していて、なんかすごい。


 京都は小規模な博物館がたくさんあるのが興味深い。本書で、知ったものとしては「眼科・外科医療歴史博物館」京都市:柳原銀行記念資料館、城守保養所資料館。うち、最初と最後のは、要予約。


 昭和10年の水害も、京都の水路を考えると、重要だな。

 一方、経堂と関わりの深い輪蔵については、現在、愛媛県新居浜市にある曹洞宗の寺院・佛國山瑞應寺が所蔵している。輪蔵とは、仏典を納めた回転式の蔵をさし、これを回転させることにより、仏典読誦と同等の功徳が得られると考えられていた。大塚紀弘氏の研究によれば、輪蔵はまず唐代・宋代の中国で造られるようになり、その後鎌倉中期に日本においても造られるようになったといい、時代を下るにつれ、京都・鎌倉から諸国へと建立地が拡大していったという。このような流れの中で、北野天満宮においても、応永一九年(一四一二)覚蔵房増範の勧進により一切経の書写が始められ、その翌年にこれを納める輪蔵が建立されたと伝えられている(『大日本史料』七編之十六「洛北千本大報恩寺縁起」)。一切経書写の勧進にあたった覚蔵房増範は、以後、一切経の管理と経堂の管理を担うとともに、万部経会の経奉行となった。p.127

 おお、マニ車の巨大版があったのだな。これ、下にモーター入れて回せば、国家鎮護に霊験あらたかじゃね。
 しかし、神社の仏教関係の施設は本当に弾圧されまくったのだな。この輪蔵も、有志が保存しようと思わなかったら、破壊されていただろうし。

京都大学総合博物館編『日本の動物はいつどこからきたのか:動物地理学の挑戦』

 タイトルの通り、現在日本に見られる動物相が、どのように形成されてきたのか。ゲノム分析をメインに、明らかにする。ゲノムの変異の蓄積を統計的に処理するでいいのかな。万能ではなく、化石や地質学的痕跡で絶対年代を調整する必要があるそうだが。
 日本列島形成の地殻変動や気候変動による海水準の上下、それによる地理的隔離が大きな影響を及ぼしているのがわかる。海水面の低下による陸橋形成で、動物が流入。その後の地理的隔離で、個体群の変化が起きる。
 短いし、サクサクと読める本。


 第2部は、島嶼で隔離された爬虫類や両生類の分化。トカラ構造海峡とケラマギャップで、台湾と先島、沖縄本島奄美トカラ列島南部で分かれるハブ。小さなトカラ列島宝島で、猛烈な競争を勝ち抜き、他のハブとずいぶん違う形態を身につけたトカラハブ。それに対して、予想外の変異を見せるカエル。
 伊豆半島や伊豆諸島で独自に分化し、伊豆半島の列島との合体にもかかわらず、いまだに遺伝子上では明確に境界線が描けるニホントカゲも興味深い。他の地域の「ニホントカゲ」と外見では区別できないというのが曲者だな。今さら遺伝子を調べるのは不可能だろうけど、タイプ標本は伊豆半島のものなら、「オカダトカゲ」が「ニホントカゲ」に統合されて、日本本土に広く分布する現「ニホントカゲ」は別の名前をつける必要が出てくるのではなかろうか。


 第3部は、列島本体での種の分化。小型のサンショウウオや哺乳類、ビワコオオナマズが紹介される。
 流水産卵性のサンショウウオでは地域でのすみわけが見られるが、止水産卵性のものでは、明確な地形的障害が見られない。
 哺乳類では、ニホンザルニホンジカ、ヒグマが取り上げられている。サル・シカは、氷河期に西日本に押し込められ、関西以東は空白域になっていた。それが、温暖化で一部の個体群が急速に拡散した。氷河期が生物分布に与えた影響の大きさ。ヒグマは、北海道に三グループに分かれて進入。西部・中部・東部で分かれているという。そういうこともわかるのか。
 最後は、ビワコオオナマズ。系統の近い種類が近隣に見られないが、長江やアムール川に近縁種が存在するそうだ。ビワコオオナマズは、より広い範囲にいたオオナマズが取り残され、琵琶湖のみに生き残ったと。


 第4部は昆虫。
 海浜性ハンミョウが大きさによって利用できる資源を食い分け、その上で同じ大きさの種は地域的に住み分けている。
 ネクイハムシは湿地性の昆虫で、例外的に種類まで分類できる化石が入手でき、それをもとに通時的な分布の変動を明らかにできる。何度も入ってきたとか、更新世の変わり目で絶滅した種があるとか。


 第5部は海洋生物。
 メジナをはじめとする磯の魚が、黒潮に遮られて、琉球列島に進出できていない。台湾・中国南部と西日本と生息域が分断されている。逆に、沖縄のサンゴ礁の魚が、台湾や九州に進出できていない。黒潮のパワーがすごい。あと、北限のほうに神経が集中して、南限が明確にわかってきたのが世紀の変わり目だったってのが、おもしろいな。
 貝類の生物群集の変遷。アサリやハマグリは比較的最近成立した種類であること。日本列島と日本海の形成期、1500万年前あたりには熱帯性の種類がメインだった。その時代には、大陸沿岸の群島だったとか。いろいろ。


 最後は、絶滅した動物に関して。
 日本列島に存在したニホンオオカミエゾオオカミの話。エゾオオカミは積極的に駆除されて絶滅したわけだけど、明治10年からの10年で捕獲実績が1578頭ってことは、その時点で生息数は相当減っていたと言えそう。それでも、エゾオオカミは積極的駆除で絶滅した感じだけど、ニホンオオカミはいつの間にか絶滅してたという感じが。人口増加による生息環境の破壊が指摘されているけど、実際、なにが起きたんだろうな。大型草食獣の狩猟圧が高まっていたようだし、餌がなくなったというのはありえそうだけど。
 小笠原のカタツムリの話も興味深い。孤島で、捕食生物が少ない環境で、適応放散で多数の種に分化。しかし、人間の開発が始まると、あっという間に絶滅してしまった。捕食生物の導入と森林の破壊。で、その直前に在野の貝類研究者平瀬与一郎が、採集者を派遣して、標本を遺していたから、そういう種が存在していたことがわかると。平瀬コレクションは兄弟の総合博物館に収蔵されているらしい。

NEW GAME! 第5話「そんなに泊まり込むんですか?」


 今回は、はじめの尻押しなのか。露出度多くていいよねw
 ペンタブのお使いに行ったり、空調の温度バトルとか、「キャラクターデザイナー青葉」とか。イメチェンしたいひふみんがかわいい。Cパートの、作者、もといペットのハリネズミに食べ物で答えを強要するひふみんが。


 はじめさん。ショートパンツキャラだけど、こう、脚フェチ的に良い感じのカットは意外とないな。




 今週のひふみん。