Maurice Blanchot (1907-2003)
■戦後フランスを代表する批評家・思想家。
■年譜
ストラスブール大学でエマニュエル・レヴィナスと親交。ドイツ現象学、プルースト、ヴァレリーなどを共同で読む。
シャルル・モーラス系統の雑誌「コンバCombat」の政治記事主幹、「ジュルナル・デ・バjournal des debats」紙時評家となり、「テロリズム、公共の救済の方法としての」(1936)など、急進的な書記活動を行う。ジャン・ポーランの紹介で、「いかにして文学は可能か」を出版。「芸術に反対する無益で盲目的な闘争を経由してしか作家は芸術を産み出せない」とするなど、後の思想が予見されている。
1940年、バタイユと出会い、バタイユの「内的体験」の概念にたいして、「内的体験それ自体が積極的価値となり、権威となる」と批判し、バタイユの「無神学大全」構想を大きく変容させる。また、バタイユの記録によれば「精神的な生とは、救済の欠如、一切の希望の放棄のなかにしか、みずからの原理と目的を定めることができず、自己自身への異義申し立て、非ー知であることしかできない」と語ったという。
1941年、「謎の男トマ」で小説家としてデビュー。この年、レヴィナスの妻、娘をかくまう。
戦後、マラルメ、リルケ、カフカ、ニーチェ、ルネ・シャール、ヘルダーリンらの緻密な批判的読解によって、戦後文芸批評の基本枠組みを提示する。とりわけミシェル・フーコーの「外の思考」やジャック・デリダらに大きく影響を与えた。
1955年「文学空間」の出版。
ブランショは、書くことを人間の根源的体験である死と結び付け、「作品は、何の証拠もなく存在し、また何の用途もなく存在する」(「本質的孤独」)とし、作品と作家とを分離し、「非人称性」「無為」「無関心」「隔たり」「不在」といった諸概念を巡り、書くという行為の徹底した分析・探究を行った。
1958年、ド・ゴール将軍のクーデタに抵抗するディオニス・マスコロ、ロベール・アンテルム、マルグリット・デュラス、ルイ・ルネ・デ・フォレ、モーリス・ナドー、エリオ・ヴィットリ−ニらと「拒否」を発表。
1960年、マニフェスト121。Revue internationalをマスコロ、ヴィットリーニらと共に編集主幹となり、企画する。アンテルム、ビュトール、デ・フォレ、デュラス、レリス、ナド−、カルヴィーノ、パゾリーニ、バッハマン、エンツェンスベルガー、グラスらが名を列ねた。ルネ・シャールやジュネもテキストを提供した。4年後、座礁し、ブランショは絶望する。
1962年、「期待/忘却」。バタイユ没。「友愛」を亡き友に捧げる。1966年、クリティック誌ブランショ特集。ヴィットリーニ没。
1968年五月革命の際に、マルグリット・デュラス、ディオニス・マスコロ、ロベール・アンテルムらとともに、ソルボンヌで組織された「学生ー作家行動委員会」の主要構成員となる。
1983年、ジャン・リュック・ナンシー「無為の共同体」に呼応した「明かしえぬ共同体」を発表。
1990年、ロベール・アンテルム没。1994年「私の死の瞬間」出版。
1995年、レヴィナス没。1996年、デュラス没。ディオニス・マスコロ没。
1998年、ジャック・デリダ「滞留ーモーリス・ブランショ」出版。
2003年、ブランショ没。デリダ、「永遠の証人」を追悼文として発表。
■主要著作
1941「謎の男トマ」Thomas l’obscur
1942「アミナダブ」Aminadab「いかにして文学は可能か」
1943「踏みはずし」Faux pas
1948「死の宣告」l’Arret de mort「至高者」Le Tres-Haut
1949「焔の文学」Le Part de feu「ロートレアモンとサド」「白日の狂気」La Folie du jour
1951「望みのときに」Au moment voulu
1953「私について来なかった男」celui qui ne m'accompagnait pas
1955「文学空間」 L'espace litteraire
1957「最後の人」Le Dernier homme
1959「来るべき書物」 Le livre a venir
1962「期待 忘却」 L'Attente l'oubli
1969「終わりなき対話」L'Entretien infini
1971「友愛」L'Amitie
1973「彼方への歩み」 Le Pas au-dela
1980「災厄のエクリチュール」L'Ecriture du desastre
1983「明かしえぬ共同体」La Communaute inavouable
1994「私の死の瞬間」 L'instant de ma mort
「政治論集 1958〜1993」Ecrits politiques 1958-1993