真空亭別館/2次元雑記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-09-12

新海誠君の名は。』のSF方面における諸問題。

くどいようだがまず確認をしておきたい(検索等で間違ってきてしまった人もいるだろうから)。本稿は『君の名は。』を鑑賞した人に向けて書かれている。したがって、中盤の展開どころか終盤の内容までの一切全てがなんの警告もなく言及の対象になる。

ようごさんすか?


では。


『転校生』系列の入れ替わり青春コメディと思わせて、その実態は時間SFでもあった『君の名は。』、その感想は人によって異なるだろうが、おそらく或る一点においては万人が共有するところがあったに違いない。それは、登場人物たちによる時間の移動と歴史の改変に伴って発生する矛盾、すなわちタイムパラドックス関係の処理ーー事態のおさまりどころがよくわからない、ということ。この「わからない」という点については、なにか釈然としないがそういうものと受け入れる、というものから、矛盾だらけでSFとして落第だ許せん、と怒る向きまで様々な反応が考えられるけれど、少なくてもすっきり納得ずくであの結末を受け入れられたという人はおそらくいないはずである。もしいたとしたらそれは単に問題の存在に気づいていないというだけで、問題自体が存在しないということではないのです。

では、作中の出来事、それも時間絡みの要素について、順を追って検討していこう。

冒頭、序章的な位置づけで、主人公らしい二人の東京での暮らしが描かれ、ここからの回想的な(「的な」とわざわざいうのは本編との明確なついに関連性が示されないから)かたちで本編に入り、見る側を混乱させる以外は、さのみ意味がないジャンプカットをつかって「田舎の高校生女子・三葉の肉体に精神が入り込んだ東京の高校生男子・瀧」と「瀧の肉体に精神が入り込んだ三葉」が続けて描かれ、この二元中継で物語は始まる。そして映画のこの時点では明かされないが(手がかりも殆ど無い)この二人の属する時間にはほぼ三年のズレがあり、これが往年のビル・S・バリンジャーか折原一かという、驚きを伴った中盤の転調の仕掛けを形成するわけだけれど、ここで検討すべきは、この時点では二千十三年の三葉と二千十六年の瀧の精神の行き来は、本人たちがなぜか全くその年月のズレに気づいていないこともあって、タイムパラドックスを引き起こすような過去と未来との間でのあってはならない情報や文物の移動は、一応なされていないようにみえる、という点。時間経過がほぼ同一で、たとえるならば梯子の右の縦木を瀧が進み、左の縦木を三葉が進み、それぞれ横木の部分で意識の入れ替わりが起きるといった状態なため、梯子には歪みが一切生じていない状態といえる。

ただし、この中盤の時点ではまだ隠されている部分だが、一点だけ時間SFらしい要素もあって、それは彗星落下の日の前日、上京した三葉が、まだこの時点では入れ替わり体験をしていない瀧と逢って組紐を渡す、という梯子の喩えで言うなら、三葉の側の縦木の最先端から、瀧の縦木の末端に向かって言わば対角線上での両者の邂逅があり、組紐という物理的な時間/精神移動の証拠が残されることになり、これが来るべき混乱に向けた大きな一歩となるわけである。

言い方を変えれば、ここまでならまだよかった。

問題はここから、糸守町に何が起きたか(三葉視点では、起こるか)が明らかになってからである。

と、そこに話をすすめるまえに、時間(時空間)移動とそれに伴って発生する諸問題に対して、SF作家がどう対処してきたか、人類が如何に時空連続体の縺れと戦ってきたかという事をざっとおさらいしておきたい。時間(時空)移動という架空の概念が起こす問題に対して、まずやらなければならないのは、世界観つまり時空とはどういうものかというものを決める事から始める必要があるわけだが、それは大きく分けて三つ。

(一)歴史は時間移動者による上書きが可能である。

(二)過去は本質的に不変である。

(三)世界は一つではない。


順を追って説明していこう。

(一)は古典的な時間SFに多い考え方で、当然もっとも矛盾も多く発生する。というか、この世界観に基づいて、時間旅行者に時間旅行させてしまったがために、世界中の時間旅行もののフィクションで矛盾が猖獗を極める事態になった、といってもいい。有名なのが「親殺しのパラドックス」――時間移動者が過去改変により自分の存在の基本にかかわるもの、具体的には自分の親などを抹消してしまったら、時間移動者の存在はどうなるのか、という問題で、存在の基本をなくした時間移動者が存在しなくなったら、それにともなって過去改変も「起きなかった」ことになり、時間移動者が存在しなくなる理由もなくなるわけだから、時間移動者は存在し続けて過去改変をこころみ、その結果時間移動者の存在の基盤が揺らぎ、と無限に歴史が確定しないということになって、これは非常に厄介である。古典的作品ではそれこそ、時間移動者が自分の行為の報いを受けて消えるところでオチにするような作品もあったが、そこで終わるなら、なべて世はこともなし。しかし今時はそうはいかない。現実と違い、フィクションの世界はそんなに単純ではないのだ。読者に「時間移動者が消えて過去改変をしなくなったら」と問い詰められたらどうしようもないのである。矛盾の真骨頂といえましょう。

SF作家たちは困惑し、そして対処療法を考えた。その一つが(二)である。

これは決定論的宇宙観などと呼ばれ、たとえば、時間移動者が過去に戻って改変工作を行ったとしても、それは何らかのかたちで無効化されるとか、はじめからその時間移動者の行為自体がすでに過去の一部に含まれていたりとかで、時空は本質的に矛盾を回避する構造をもっている、とするもので、歴史の修正力、と言われたりするちょっとオカルト風の力も、基本的にはこの仲間である(厳密には、これは予定外に改変されたものを「戻す」もしくは「戻そうとする」ものなので、全く同じではないが)。この手の世界観で世界で一番有名なのは、おそらく『ターミネーター』の第一作だろう。スカイネットターミネーター派遣は起死回生の一手どころか敗着の一手だったというあれである。日本ではおそらく『ドラえもん』(但し、序盤のセワシの目的を含め、エピソードごとに揺らぎがある)だろうか。のび太はどんなに失敗をしたと思ってもそれによってしずかと結婚できるわけだし、未来の自分が助けに来てくれたから過去の自分を助けに行けたりするわけである。

この世界観は、それこそ『ターミネーター』や『ドラえもん』がそうであるように、ちりばめられた様々な伏線がクライマックスでまとまって全ての不可解な事象の真相が明らかになるといったミステリ的な面白さを生み出しやすいが、逆に、すべての事象がお釈迦様の掌の上の出来事にすぎなかったとでもいうような窮屈さもあり、これじゃあ折角過去に戻っても予定された通りのことを予定された通りにしただけで能動的にはなんにもしてないのと一緒じゃねえか、と憤る時間旅行者をたくさん生み出しもした。(尚、この世界観をもちいて、時間移動による因果の連鎖を邪悪の域まで複雑化させたのがハインライン原作スピリエッグ兄弟監督による傑作『プリデスティネーション』になります。暇な人は是非どうぞ)

というわけで(三)の登場となる。

これは「平行世界理論」といえばわかりやすいだろうか。時間移動者が過去を改変したその瞬間(過去に出現したその時点で過去が改変されているという考え方の人もいるが、その辺りは人による)、世界が分岐し、当初の時空αと改変された時空βという平行世界が出現する。端的に言って、これは大発明だった。好きほうだいに過去を改変しても、タイムパラドックスというかたちでのしっぺ返しはやってこないし、やったことは確実に世界に影響を与えて「修正力」という邪魔もなく「歴史に予め取り込まれていた」もないという、要するに(一)と(二)のいいところ取りなのだから。

代表的な作品ではこれまた『ターミネーター』の、今度は第二作。御存知ですよね? 「未来は変えられる」というあのラストのメッセージ。一作目(未来は変えられない)と世界観が違うじゃないか、とたぶん世界中のSFファンが突っ込んだと思われるが、アクション映画として圧倒的に面白かったので大きな問題にはならなかった。気を利かせて世界観の再修正を図り決定論型の世界観に再度近づけた第三作が別に人気作にならなかったあたりに、エンターテインメントというものの難しさが表れている。

ちなみにこの平行世界理論はこれで全く問題が無いわけではなく、例えばそれは「人間の個人の行為で世界をいくつも発生させるのは人間中心的思考にすぎないか?」とかあるわけだが、物語としてもっとも大きい問題は「平行世界をいくら作っても当初の世界の過去は変えられない」。

そうなのだ。先の親殺しパラドックスの例でいうと、この理論では過去に戻って自分の親を殺しても時間移動者が消滅することはなくなるが、それは改変された時空βの自分βの親になる予定だった人を殺しているだけで、当初の世界αの自分の親には手も足も出せない。そちらの時空は全く何の問題もなく存続しつづける。『ドラえもん』でそういうテーマを取り扱った大長編があったのを思い出す人もいるかもしれない。アニメにもなった『Fate/stay night』というタイプ・ムーン作のPCゲームでは、過去から未来まで無限に分岐する平行世界のそれぞれに介入し、世界を救って回っていた登場人物が最終的に発狂する、といった挿話があったが、それは残念ながら発狂するに決まっているのだ。無限に世界を救っても、救えなかった世界も無限に発生しつづけるのだから。

なので、平行世界発生型の世界観は「過去で遊ぶ」には適していても、真面目に「過去と向き合う」には実はちょっと困ったものだったりする。

ちなみに時間SFといって高確率で人が思い浮かべると思う『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三部作ですが、一作目は実質的に(一)の上書き型で「ドクの銃撃」絡みは(二)の決定論型ともいえ(上書きのおかげであのようになった、とも解釈は可能)、そして平行世界を股にかける二作目は当然のことながら(三)ですが、三作目はドクの墓の件から判る通り決定論の(二)だったりするので、ヒジョーにややこしい。というか、まとめてみると目茶苦茶、ともいえるので、シリーズ総体では時間SFとしては参考にしてはいけない作品なのかもしれない。


とまあ、フィクションの世界であっても、時間、特に過去とはかくも厄介なものなわけですが、話を『君の名は。』に戻そう。それも、本作がタイムパラドックスの映画として本性を現す「ティアマト彗星の日」の地点に。


ときに(洒落ではない)、この映画の時間SF的な意味での世界観は一体何だとお思いでしょうか。上書き型!と答える方が多数だと思うがそれは間違いである。ご案内の通り、「ティアマト彗星の日」は二度描かれている。最初は三葉の視点で彗星が落ちる直前までが描かれ、次が三葉と入れ替わった瀧の視点での落下地点からの回避工作と「黄昏時、幽世における邂逅」に至る迄。そしてここで、この映画は初めて本格的な歴史の改変を行う。妙に解り難い描き方になっているが、最初の時空(αとしよう)では、彗星の日の朝に三葉は瀧とは入れ替わっていない。糸守村の悲劇を知った二千十六年の瀧が口噛み酒を飲んで「半身」である二千十三年の彗星の日の朝の三葉と入れ替わるのは「二周目」、いわば時空βの彗星の日の朝なのである。三葉の友人たちが三葉の髪型の変化に驚くくだりが二度、状況を違えて描かれているのはそういうことだ。一回目は東京で起きたことの衝撃で落ち込んだ三葉が登校しなかったから祭りの時があの髪型のお披露目になり、二回目は中身は瀧だからあの髪型で普通に登校したというわけだ。

問題はここだ。ここが結び目ならぬ、縺れの中心である。二回目の彗星の日の朝、恐るべき悲劇の発生を知った瀧が三葉に入って、三葉を含む糸守の人々を救うべく奔走を開始したとき、一回目の彗星の日、ひいては時空αはどうなったのだろうか。

単純な上書き型の世界なら、それは既になかったことになっているだろう。だがそうではないし、そうはならない。というのも、もしなかったことになっていたら、瀧(三葉に入っている瀧)は一体何のために奔走しているのだろう。え? 時空は紳士だから悲劇の回避が確定するまで記憶の上書きを待ってくれるんだって? 残念ながらそうはいかない。既に時空αで起きていない入れ替わりをやってしまっていて、その当事者である瀧たちにしてみれば「彗星の日の朝に入れ替わりがあった」ことは疑いようのない事実であり、となれば、それを起点とする上書きの開始は避けられないはずで、少なくても瀧の中では「ティアマト彗星の悲劇」という事実はどんどん不確定なものになっていないとおかしいのだ。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』一作目の終盤を思い出していただきたい。両親の結婚の可能性が遠のくと、息子の存在が揺らぐ、あれである。上書き型ならば、変化の影響を一番受けやすいところから変わるのだ(ほんとうは、一番影響を受けないところから変わるとか、まだらとかランダムとかで変わるとか、かもしれないが、そうであるという一貫した理屈はまだ発見されていない)。

時空αが上書きされていないという証拠は他にもある。それは三葉の記憶である。三葉は既に「三年前に彗星の破片が落ちて村が壊滅し、三葉も死んでいる世界の瀧(いってみれば時空αの瀧α」と何度も入れ替わっていて、これはつまり、時空αで事実として確定している彗星の日とそれに伴う村の壊滅と三葉自身の死は、三葉にとっても、ある意味既に過去の出来事となっている、ともいえる。そしてこれが上書きされたり、不確定状態で記憶や認識がゆらいだりした気配は一切ない(もしゆらいでいたりしたら、幽世での二人の邂逅が随分としまらないものになっただろう)。ええとうーんと僕たち私たち一体ここに何しに来たのかわかるようなわからないような、みたいな。

これではしようがないので、「かたわれどき」に至るあの二度目の彗星の日の朝、つまり、瀧と三葉が入れ替わったその時に世界が分岐したのだと、時空α時空βが生まれたのだ、とこう考えるとすっきりするようにみえるのだが、これだと今度は瀧は永遠に三葉を助けられない(正確には、三葉βは助けられるが三葉αは助けられない)という、別の意味ですっきりしない話になってしまう。

おまけに、厄介な事に(αの三葉にとっては幸いな事に、かもしれないが)、平行世界型の解釈では説明のつかない現象――記憶の消去とか時空の修正波(アシモフ博士風に言えば「変化の風」)によるスマートフォンのログの消去といったものは、時空そのものの分岐はためらわなくても時空内事象の改変は好まない平行世界解釈とはあまり相性がいいとは言えず、仮説の船は行きさきを見失うのであった。

念のために付記すると、決定論的な時空に関しては、これを基準に更正すれば無矛盾な物語が構成可能だったかも、というか、思うに、物語上でも最善手はたぶんそれで、三葉が上京して瀧に渡した組紐を手掛かりに因果の連鎖を構築し、瀧は村の壊滅は情報として知ることができるが、関係者の生死は知りえない(もしくは最終的に誤報であることがわかる)とか、そういった時間差トリックとは別のプロット上の仕掛けと工夫を駆使して、あの再会まではなしを運ぶことは、おそらく無理ではなかった。ただし、それでは新海監督がやりたかったであろう「一目ぼれみたいな、運命的出会いみたいな、出会いの話」という自分に自信があるんだか無いんだかよくわからないクライマックスが構成できなくなる(ただの予定通りの再会になる)から、そもそもそういう方向性で作ることは構想外だったに違いなく、決定論的世界観は決定論的にありえなかったのだった。

では、とここで横紙破り、一本で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三本分をまとめた感じで、問題の突破を試みてみよう。

二千十六年の瀧が二千十三年の三葉の二回目の彗星の日に入れ替わりを果たして世界は時空αとβに分岐、同時に介入による時空の変化の風は、αβ両方に徐々に、しかしゆっくりと加減を見ながら吹き寄せ、両者をテキトーに改変しつつも上手いこと二人の記憶はいじらず(つまりどちらも時空αの記憶のみを保持している)、そしてかたわれどきでの邂逅をもって共に平行世界も統合され、そこから一気に改変が進む、としてみよう。二人が再び別れ、それぞれの時間に戻った瞬間から改変と修正がどんどん進み、当事者すら何が起きたかもわからないところまで進行していったのだとすると、果たしてどうなるか。

それはいってみれば時空γの出現である。そこにおいては、いうまでもなく三葉ら糸守の住人は二千十三年十月を越えても生きているが、時空αの二千十六年の瀧αと三葉γが入れ替わりを起こしようがなく(平行世界ですらない。既に存在しない時空である)、しかしひょっとすると時空γの二千十六年の瀧γとは入れ替わりをひょっとしたら起こしていたかもしれないけれど、それがどんなものだったかは観客は知るべくもない。瀧γにしてみても三年前に見知らぬ高校生から組紐を貰っているかもしれないし、二千十六年にはその高校生と入れ替わり現象を起こしているかも知れないけれど、こちらの彼女はティアマト彗星の日に死んでいたりはしないから、死んでいない彼女を死から救う必要はなく、口噛み酒を飲んで彗星の日の朝(二周目)に入れ替わって運命を変えるべく奮闘もしないし、当然、かたわれどきでのつかのまの邂逅と告白ももちろん起きないままで、貰った組紐を返して因果の輪――結び、といったほうが美しいだろうか――を完成させることもなく、おそらくは祖母たちがそうだったようにいつのまにか入れ替わり現象も消滅し、全てを「夢の中の出来事のように」忘れていっただけの二人に違いなかった。

つまり、あのエピローグで出会った二人は、それまで百分近くにわたって映画『君の名は。』が描いてきた物語=世界とはほぼまったく関係のない世界で、それぞれの人生を送ってきた二人、ということになる。

かれらの名は、いったいなんというのだろうか。

2013-12-31

[]

『夢の、世界の、底の底の底』


                         あんたは今自分が十字路に立って進むべき道を選ぼうとしていると思っている。

                         でも選ぶことなんてできない。受け入れるしかない。

                         選ぶのはもうとっくの昔にやってるんだから」

                          コーマック・マッカーシー悪の法則』(黒原敏行・訳


                         「君の十年はどうだったね?」

                          宮崎駿風立ちぬ



       一

十一月二十三日、朝、立川シネマツーにて鑑賞。なんと客の入りは七割。同じスタジオジブリ作品の『風立ちぬ』が朝から満員だったのに比べて、これは一体どういうことかと思ったが、元々高畑勲作品は宮崎駿作品に比べれば集客は弱かったのだし、実に十四年もの昔となる前作『ホーホケキョ となりの山田くん』はジブリとしても記録的といってもいい不入りだったし、評判もすこぶる悪かった(そのせいもあって、個人的にも未だ見ていない。録画したものを見ようとしたのだが、最初の五分で再生を止めてしまった)わけで、その逆境を思えばむしろこれでも大入りといえたのかもわからない。

考えてみるとこの作品は期待材料よりも不安材料が多かったのだ。まず、『竹取物語』を原作とする、という、はっきり言って何の魅力も感じない企画、さらに、鳥獣戯画的な絵柄をアニメとして動かしているらしい、という実験アニメのような、そしてそれに何の意味があるのかわからないコンセプトの噂があって、そこへ『風立ちぬ』の冒頭におかれた予告編での、あの疾走の映像である。

確かに映像としてはものすごいインパクトであり、作り手の狂気すら感じさせる迫力だったのと同時に、「『竹取物語』ってこんな話だったけ?」という困惑をもたらす映像でもあって、その後のテレビの特集等で断片的に見せられる本編映像が、原作そのままのような翁たち、あるいは、まるで現代劇のような少女の目覚めのカット、そして、雪原に倒れ伏す少女と、総合すると一体どんな物語なのか全く想像ができないという、困惑に拍車をかけるものであったから、高畑勲という作家の偉大さ・非凡さをよくわかっている人でさえ(いや、わかっているからこそ?)、素直に期待に胸を膨らませて劇場に行った人は少なかったのではなかろうか。むしろ、何がおきても驚かないぞ、みたいな覚悟を決めていったのではないか。

そして、そんな不安が最高潮に達したのは、もしかしたら本編が始まってからだったかもしれない。具体的には、和紙の貼り混ぜ風の背景にクレジットを載せるシンプルで美しいタイトルロールから、先行公開されていた竹林における翁の竹取のシークエンスが始まり、宮本信子による原作の文章がそのまま朗読されたその瞬間である。ひょっとしてこのままずっと本編中ずっと原作朗読がついてまわるのではあるまいか、と。

そんな観客の不安を知ってか、宮本信子は言葉を現代語に改めて最低限の語りしかしなくなり、いよいよ物語が本格的に動き出すわけだが、ここで注目すべきは、この時点ではほぼ正しく「竹取物語」であることだろう。竹取の翁が子供を授かった物語、ということである。だから、カメラは基本的には翁や媼の視点に近く、ほぼ保護者のそれとしてヒメを映しだしていき、「彼らにとっての大切な授かりものであるヒメ」という気分を観客もまた味わうことになる。だから例えば蛙を追いかけて縁側から落ちる場面などでの翁の動揺も観客は我がことのように感じられるし、翁と子供のヒメ・タケノコの呼びあいでの冷静に考えるとちょっと異常とも思える翁の執着もむしろあたりまえのように思えるだろう。

しかし、この作品が竹取物語であるのは大体ここまでなのだ。ヒメが映画オリジナルキャラクターである捨丸たちと遊びだしたあたりから、映画は翁の目に映るヒメを追うことをやめて、捨丸ら子供たちの目に映るちょっと変わった子供であるタケノコを追うようになる(ヒメが捨丸たちと遊んでいることに気づかずに翁が動揺してうろうろする場面は、あとに続く「月からの仕送り」を受け取る場面へのつなぎというだけでなく、そのことを象徴的にしめしている)。このことは同時に、この作品が特定の誰かの立場に肩入れし続けるタイプの作品ではない、ということも示していて、上映開始当初の不安とは別種の不安――なにかとても観客を突き放した残酷な悲劇を見せられるのではないか――に観客を陥れることになるわけだが、その予感は一部当たりつつも、しかしそれはそれほど自覚されない。

というのも、眼前で展開される映像の美しさに見とれてしまい、野暮な予測などお門違いなぐらいのきもちになってしまうからだ。作画、スケッチがそのまま動き出したような作画のとてつもなさもさることながら、色彩がともかく華やかだ。最近のジブリの御世辞にも美しいとは言い難い色調とは一線を画した色遣いで、とくにキーカラーであるヒメの衣服の桜色の鮮やかさ、そして山の草木の緑の多彩さが素晴らしい(これもまた映画の重要なテーマである)。

極端な話、人間が一切出てこなくても、どんなドラマも存在しなくても、この映像美だけでも映画館で見る価値がある、それぐらいのものである。そして恐ろしいことに、この色彩美、映像美は映画が終わるまで途切れることなく続くのだ。

そんなこんなのうちに姫はタケノコのごとく育っていき、猪との遭遇とか、水浴びとか、瓜泥棒であるとか、雉獲りであるとか、「山」を体験していく。この物語のキーソングである「わらべ唄」の「鳥 虫 けもの 草 木 花」の世界を身をもって知っていくわけである。

その、順調に進行していたら「まわって お日さん よんでこい」となるはずだった体験の世界、ヒメの幼年の時代は、翁の都行きの決意により唐突に終了することになる。


       二

翁と媼に連れられて、ヒメの都の生活が始まり、ここでカメラは一番ヒメに近づく。といっても、あくまで客観であることは維持されるのだが、それでも、御簾を透かして屋敷の様子をうかがう場面に始まり、本編中もっともヒメに寄り添った映像が数多く展開されることになる。同時にこれは、これは必ずしも映画がヒメの物語になったことを意味しない。奇妙に平面的なデザインの指南役の相模や異様に画一的に描かれた沢山の使用人たち、そして作中で何年たっても容姿が変化しない女童などを見れば、これがある偏った視点からの世界だということは明らかなように、ヒメという人物の描写のひととおりは竹取の里ですんでいるから、ここではヒメ本人というよりはヒメの目に映った世界そのものを描こう、ということである。いうまでもなく、世界はヒメにはちっとも優しくなく、残酷ですらあり、ヒメの才能と持前の自由奔放さであってもどうにも対処しきれない醜悪な姿を現してくるようになって、映画は第一のクライマックスを迎えることになる。そう、あの疾走である。

意外にも、物語の流れの中で見たヒメの疾走は、予告編でみた時のような狂的な不気味さはなく、久石譲の、いい意味で久石譲とは思えないような鋭い音楽の効果もあって、押さえても押さえてもとめどなくあふれだす怒りと悲しみの場面となり、さらに、疾走に続くシークエンス――生家に人手に渡っていたこと、捨丸たち木地師一族は山を後にしたことを知ったヒメが、まるで安らぎの地のように雪原に倒れ伏す場面の、甘美なる死の誘惑の美しさは、動から静の転換の見事さもあって、怖ろしいほどだ。

そしてここで、映画は不思議な捻りを見せる。時間が戻るのである。

いや、正確には時間が戻ったというよりは、おそらくはあの浮遊する天人の使いによって、雪原で自暴自棄になっていたヒメだけが時間をさかのぼって(のぼらされて)、疾走する直前に戻されたというべきなのか。ともあれ、ヒメの少女の時代は肉体的にも精神的にも再び唐突に終了し、新しい時代を彼女は生きることになる。


       三

ヒメの新しい時代、それは「かぐや姫」の時代でもあり、大人の時代でもある。成人の証しとして眉毛を抜き(とはいえ、やはり絵的に見苦しいと思ったのか、後半さりげなくこの眉なし設定は消滅するが)、お歯黒もして(これもやはり、後半さりげなく消滅するが)、かぐや姫という名前にふさわしいような高貴の姫のように生き始めたヒメの視点や心情をカメラはもうほとんど代弁しない。御簾ごし掛けられる声からかぐや姫の真意をうかがう五皇子のように、凛々しくも無表情な面差しの奥に隠されたヒメの真意を観客は推し量るしかないのだ。おまけに物語は物語で大筋は『竹取物語』に従うふりをみせつつも随所で様々な変化を加えてくるから、観客は二重三重思索を強いられるしかけで、この辺を面白いととらえるか、いかにも問題を解けと示されているようでお説教くさいと思うかで、あるいは評価は変わってくるかもしれない。

でもここは楽しんだ方が勝ちだろう。例えば、五皇子が不可能な探索行に向かわられる過程のアレンジの上手さをみるといい。原作ではかぐや姫自身が探索すべき宝物の指定をするところを、ここでは五皇子が軽々と口にしてしまったことを逆手に取るというかっこうになっていて、これはヒメの臨機応変の判断力を高さを示し、口にしたことの責任を取らせるという意味で原作以上に「誠意を試す」課題だということもできる。、これだとただ嫌がらせのためだけの無理難題とも取れる原作の展開よりも五皇子に与えるプレッシャーは大きくなるわけで、ヒメの要求の強引さを緩和しつつ、その後の彼らの極端な行動に説得力が増す仕組みである。悪魔のように賢いヒメを作りだす大悪魔のような高畑勲

しかもこれは単にプロット上の小細工ではないのだ。

原作では、一種独立した五つの短編のような五皇子の探索行(とその失敗)だが、五人に与えられた課題の解決策をもう一度よく思い返していただきたい。

車持皇子が虚言とお金もないのに作らせた宝樹。

阿倍右大臣がお金を積んで買い取った偽の皮。

大伴大納言が役に立たない武力と虚勢。

石作皇子が上っ面だけの誘惑。

石上中納言が無駄な努力と無意味な死。

これ、その後ヒメが口にするキーワード「ニセモノ」が五人すべてを貫いているだけでなく、虚言でどうにかしようとする世界、お金でどうにかしようとする世界、力でどうにかしようとする世界、実態を伴わない理想が誘惑する世界、突然無意味に人が死ぬ世界、と五人で「この穢れた世界そのもの」を象徴しているのである。このあたりのアレンジのうまさと構成の確かさは、高畑勲の真骨頂といってもいいだろう(頭から「せんぐり」に話を作っていく宮崎駿には絶対できない構成である)。

そして、さらにもうひとり、御門という怖ろしくゆがんだ外見をもった、権力ですべてを従えようとする世界の象徴の出現によって、ヒメの世界はいよいよ救いがないということになり、追い詰められたヒメは、故郷と捨丸に活路を見出そうする(なお、ここでヒメが捨丸に語る、「ちゃんと生きられる世界を選べたのに選ばなかった」という告白は、偶然にも同時期に公開されたリドリー・スコットの『悪の法則』の主人公に対する「おまえはもうすでに選んでしまった世界にいるのだ」という宣告と表裏一体をなしていると思う。ヒメは選ばないことを選んだために間違った世界に生きることになり、『悪の法則』の主人公は選ぶことを選んだことで間違った世界に生きることになるのだ)。

といっても、すでに手遅れであると知っているヒメは世界を変えることを望めるわけもなく、かくして、ふたたび世界からの脱出を試みることになる。今度は捨丸と二人で、「飛翔」というかたちで。

この「飛翔」の場面はしかし、素晴らしく手間がかかっているし、とても美しくはあるのだが、不思議と「疾走」ほどはインパクトはない。疾走と異なり、はじめから現実でないことが明確であるせいもあるが、それ以上に、ここでのヒメがじつはすでに諦めてしまっていることを観客にはっきり示してしまっている、という点があるいは高畑勲にとっては誤算であったかもしれない

どんなに激しく大胆に二人が飛翔しても、必ず失墜することがわかりきっているからだ。二人がどれだけ活き活きと飛んでいても、そのクライマックス、巨大な月が監視役の如く出現した時に、これは絶対落ちるな、と思えてしまう。言いかたをかえると、月の出現に対し、ヒメがそれにも動じずに飛んでいけるのではないか、そんな期待を観客が持てるほどの強烈で確信に満ちた生のエネルギーを画面に満ち溢れさせることはできていなかった、ということである。それは、いくら若々しくても七十代後半の監督にしてみれば――これは『風立ちぬ』における宮崎駿にも言えることだが――生より死のエネルギーのほうがより身近に、力強く、もしかすると魅力的にすら感じられる、ということであるのかもしれない。

ともあれ、ヒメの大人の時代は、無難なかたちに「再配置」され、またも唐突に幕を下ろす。そしてついに、「死」がやってくる。


     四

そう、死は文字通り「やってくる」のだ。悪夢のようにのどかで華やかで軽やかで美しい「天人の音楽」(字幕版の表記によれば「楽の音」)と共に、阿弥陀如来の来迎図そっくりの姿で。

正直にいうと、最初このどこからどう見ても来迎図なビジュアルには、その音楽のいい意味でのミスマッチ感以上に面食らったことは確かである。ヒメの周辺を飛んでいた天人の使いの深海生物ふうの動きと色彩からして、なにかこう名状しがたい、海の底の都から来たような感じのおそろしいデザインの方々がやってくるか、竹取物語絵巻そのままの人々がやってくるかと思っていたからだ。テーマ的にはもちろんまったく間違っていないのだが、しかしそこまで親切に絵解きする必要はないのではないか、という気持ちは実はいまもあったりする。

しかし、この来迎のシークエンス自体はそんな欠点を些細なことにしてしまう勢いで素晴らしい。突然、慈悲なく、容赦なく、無感動にやってくる死というものの恐ろしさを、まったく恐ろしくない雰囲気のなか、死そのものを一ミリも描くことなく、なおかつこれでもかというほど強烈に描き出したアニメーション作品はかつてないのではないだろうか。実写作品だとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』あたりが、これと似たような発想と描写をやっているが、全編がブラックユーモアに満ちた同作と本作とでは受ける衝撃の度合いが違うだろう。

そしてヒメが最後にまた話し出す。ここもまた親切すぎるといえば親切すぎると思わないでもない。「わらべ歌」の詞をもう一度言わせて、そこからの立ち切りをやりたかったのはわかるけれども、もっと大胆にぶった切って終わっても観客には充分つたわったのではないか、高畑の最高傑作である『火垂るの墓』はそういう多くは語らない手法を採ることでより多くを語れていたのではないか、と。

しかし、たぶんそのことは高畑も百も承知なのだろう。だから、映画は最後にもう一つの動きを付け加える。記憶を抹消されたヒメが地球を見て、(おそらくわけもわからず)涙を流す。これは直接的には、ヒメがそもそも地球に下ろされることになった原因(罪を犯した相手)である、わらべ歌を歌っていた天女と同じ境遇になったことで、またヒメのような新しい罪人の誕生する可能性を示唆しているわけだが、もうひとつ、重要な意味があるように思う。

実は、この映画、ヒメの地球での行動は正しかったのか、間違っていたのか、記憶をなくしたヒメは幸せなのか不幸せなのか。そうした問いかけに対して、はっきりとした答えを用意していない。各種インタビューでは、高畑勲は明確に「ヒメは間違った生を生きたのだ」と言っているが、ただ間違えたというだけの話なら、その記憶が抹消されたことによって、すべては灰色に、すべては平穏になる筈なのだ。しかし、ヒメは涙を流す。

だから観客は考えなければならない。その涙の理由を。

はっきりしているのは、ある純粋な魂が穢れた世界を生れて死ぬというかたちで旅をした、ということだけ。つまりそれは人間の生そのものであり、観客の一人ひとりであり、高畑勲そのものである。考えて見ると高畑の作品はずっとそうだった。また、『火垂るの墓』や『平成狸合戦ぽんぽこ』を思い返してみるといい。それらもまた、ある種純粋な魂(必ずしも善や正義を意味しない)と、「穢れた世界」の物語だ。そして、その穢れの中で生きていくか、それを拒絶し、純粋のうちに死んでいくか。それは、どちらも正しく、どちらも間違っている。誰にとっても正しい人生などというものはなく、そこに「正解」はない。そういうことではないか。

これが例えば宮崎駿なら、ある種自分の中にある信念や願望の強さをもって一つの指針、手繰るべき糸とするのだろう。『風立ちぬ』というのはまさにそういう映画だった。だが、高畑勲はそこにすら疑問符をつける。ヒメの行為に正解がないように、翁にも、媼にも、捨丸にも、五皇子にも、御門にも、そして月の天人たちにも、正解はない。高畑勲は自分の選択の正しさを信じない。高畑勲は正解の存在を信じない。

そのどこまでも迷い続ける心のざわめきが、涙となってヒメの頬を伝うのだ。




       *

最後に、役者陣についてちょっと触れておきたい。主演の朝倉あき地井武男をはじめ、違和感のある芝居をしている人が誰ひとりいないという鮮やかなキャスティングだが、特に上川隆也の石作皇子は出色で、大真面目に目をキラキラさせているのになにかいつも胡散臭いようなこの人のキャラをここまで完璧に引き出したことはなかったのではないか。伊集院光橋爪功も本人がそのまま実写で出ても違和感のないような面白さだが、それでいて役者のネームヴァリューに頼ったつくりでないのが凄い。

しかしひとつ気になることがある。物故した地井武男の代役として一部で三宅裕司が翁の声を当てているらしいのだが(それがクレジットの「特別出演」の理由)、それと知った上での二度目の鑑賞でもどこが三宅パートなのかさっぱり判らなかった。

もっとも、それと判るような代役なら監督がOKを出さないだろう、という説もあり、言われてみるとそのとおりであって、判らないのが正しいのかもしれないが、それでもやっぱり気になります!

2013-11-12

[]『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』

『あるいは、円環を成す円環の話』

   ――革命的若者は、火山の情熱を掻き立て、怒りを目覚めさせ、

     冷静にして確実な計算により疑う心と憤る心を結びつけ、

     かくして多くの人々を反逆へと駆り立てなければならぬ。

   ――天国では、すべてがうまくいく。


上映開始二日目の日曜の夜、立川シネマツーで見た。一階のシアター前にずらりと並ぶ、列誘導のために設置された柵と、割と早い段階から待機している客の存在が、この作品の特殊な盛り上がり方を端的に表していたかもしれない。座席は既に決まっているのだし、入場特典の色紙は人数ぶん足りていないようならその旨アナウンスがあるだろうからつまり充分あるということで、中身にしてもランダム配布なのだから、先着の利点は全くない。また、早く席に着いたからといって、早く映画が始まるということも多分ないだろう。それでも、早く並びたいし、早く色紙を手にしたいし、早く席に着きたいのだ。待ち望んだ作品ならば、不合理であろうと、そういう気持ちに誰だってなるのである。待ち望む、というのはそういうことだ。

正直なところを言えば、いくら期待はしていても、うまくいくはずがない、と思っていた人が、それほど熱心でないファンでなくてもいたのではなかろうか。いや、熱心なファンであっても多かったのではないかと思う。

それどころか、熱心なファンであればあるほど、期待と同じぐらい失敗の予感を持っていたかもしれない。テレビシリーズ『魔法少女まどか☆マギカ』という作品は(いろいろ問題はあったにせよ――詳細はテレビ版感想真空亭別館/2次元雑記を参照―)、すくなくても、物語の着地、ドラマの完結性という意味では、人気が出ればいつまでも引き延ばす、あるいはそもそも人気が出たらいくらでも続きが作れるようにする、もしくは長い話の端緒だけアニメ化する(当然人気が出れば随時アニメ化する)、というような長期的な商売を見込んだ作品群が多い近年のアニメ界において、水際だった潔さであったのだから。主人公まどかは概念のみの存在と成り果てて作中の現実からは姿を消し、唯一、概念化のまえのまどかの記憶の残滓を有するほむらにしても、漠然した記憶を懐かしむ以上の何ができるわけでなく、「夢狩りの不安な歌」をうたうだけ、という物語の「先」は、普通に考えればもうありえなかったのだし、無理矢理続けた場合は、まず真っ先にその見事な完結性という美点が損なわれてしまうのである。新しいまどかほむらの物語が見たい、しかし同時にテレビシリーズのいいところは壊さないでほしい、というのは、原理的にほぼ不可能としか言いようがなかったのだ。

そんな期待と不安の中、映画はいきなりテレビシリーズ第一話の変奏曲として始まる。とてもよく似ているが違う世界。その違いは全体に(登場人物にとって)好ましい方向に調整され、テレビシリーズで起きた悲劇の大半はなかったことになっている。まどかの目覚めの場面からつたわる、あからさまな「過去をなぞっている」ことのアピールにはじまり、魔法少女もののパロディのような、これでもかという媚態に満ちた変身場面のくどさ、しつこさや、一見萌え場面のようでいて圧倒的に空々しいケーキの歌によるナイトメアの浄化場面の居心地悪さ、そういったことすべてがたった一つの真相をしめしている。

これはまちがいなく「誰かが見ている夢の世界」であり、より具体的にいうなら『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の世界だ(それが意図的なものであることは、中盤の町の外に出ようとするシークエンスでより明確に示される)。

そういう架空の世界の解釈・理由を巡る観客と作り手の知恵比べ、それがこの「新編」前半のテーマであり、物語のテーマにもなっていく、とたいていの観客は予測するだろう。

そして、この時点で観客がまず考えるのは、おそらく、これは誰の夢か、ということにちがいないが、これに関しては実のところ、作り手にしても隠す気はないようである。というか、隠す気がないようにみえる。

それというのも、夢の世界を一番望むのはだれかというところから考えれば、すでに概念化した人ではない人に夢を見ることはできないだろうし、魔女になったがならないで円環の理に回収されてしまった人でもありえないし、魔女になったがならないで円環の理に回収されてしまった人の為に一緒に死んでしまった人は死んでしまっているので夢を見ようがないし、ソウルジェムごとむしゃむしゃ齧られてしまった人は夢を見る魂がないのだから夢は見られないし、となったら、唯一概念となった人でない人のことを漠然と憶えていて、なおかつその人にもっとも会いたいと思っていて、円環の理に回収もされていなくて、爆死もしていなくて、むしゃむしゃ齧られてもいない人しかありえないわけである。

この作品に映画として欠陥があるならまずここだ。

観客には犯人がわかっているのに、探偵がいつまでも犯人を探しつづけている。倒叙ものならば、犯人の正体以外にも動機やらその手段やら、あるいは露見や捕獲の仮定を考える楽しみがあるけれど、動機は間違いようがないし、手段は魔法だろうし、露見は本人が気づくだけである。オハヨウで終わる話である。そこに一切のサスペンスが期待できない。

あるいは、ある種のショーとして、「ありえたかもしれない五人の魔法少女チームの活躍」をたっぷり描きたかった、ということなのかもしれない。しかし、いくらなんでも長すぎるし、それが架空の世界であるという、物語の秘密の底が既に割れている以上、観客の興味はその先に移ってしまっている。結果的に、ほとんどの人にとって、ティーパーティーの場面が茶番の為の茶番(文字通りの意味だ!)になってしまうのは避けられないし、アクションとしてはおそらく前半最大の見せ場であろう、マミ対ほむらにしても、対決の中心にいるべべが、マミにとってはどうしても守らなければいけない大切な友であり、またほむらにとってはどうしても確保しなければならない存在であるという、いってみれば双方の戦う動機づけとしての存在だという描写に乏しいし、そもそも架空(と容易に予想がつく)世界での戦いであるという状況の時点で、二重三重にその戦いに迫真性があらかじめ失われている。どんなに見た目が派手で華やかであっても、どこまでも演武以上のなにものかにはなりえないのだ。

そんな長く濃厚すぎる夢の世界の描写に、いささか飽きたころに、ようやく世界のほつれが見え始め(ここでの顔だけが落書きみたいになるモブキャラの描写はいい)、それこそ『ビューティフル・ドリーマー』的な謎の核心に迫る展開が始まるわけだが、この時点でおそらくほとんどの観客は、既に夢の世界を夢見た「犯人」を見抜いているし、この夢の世界を夢見るぐらいだから現実はその正反対であるに違いないということも推測しているに違いなく、つまり、ここでもまた登場人物と物語はだいぶ観客におくれをとってしまっているということになる。

もしかすると、これは意図的なものであるのかもしれない。予測可能な設定と展開とをこの時点までにあらかじめ観客に飲み込ませておくことで、実際の謎解きの場面の負担を軽くして、その後の怒涛の新設定・新要素の数々を受け入れやすくしているのだ、と。

それはたとえば、ソウルジェム内部でのみの魔女化であるとか、「円環の理の鞄持ち」としてのさやかの本当の復活であるとか、テレビシリーズでは影も形もなかった新しい魔法少女の参入とか、そういったもろもろのことであるけれど、しかし考えてみたら、テレビシリーズラストにおいて、円環の理の誕生による宇宙原理そのものの大転換という大技をすでにやってしまった世界観においては、この程度の新設定、新要素など大した負担ではないのではないかと思う。というより、はっきりいってしまえば、既にどんな強引な追加設定・追加要素をだしても、そういうものなのだ、という程度の驚きしか与えられない世界に、『まどマギ』の世界は既になりはててしまっているのであるから、そもそも謎解き的な要素の存在自体がお門違いであったのかもしれない。

推測するに、その辺の事情はおそらくスタッフも薄々察していて、だからこそ、過剰ともいえる劇団イヌカレーの異空間演出の大活躍があり、それに伴う(はっきりいってしまえば、無くてもたいして問題はない)派手なアクションがたっぷり用意されているのだろう。

だが、これが意外に盛り上がらない。

いや、劇団イヌカレーは頑張ってるのだと思う。仮にキュウべぇやさやか達の説明がまったく理解できない人であっても、画面を所狭しと動く、魔女とその眷属(配下?)、魔法少女チームの大乱戦は非常にパワフルかつ華やかで退屈せずに見ることはできたはずだ。ただし、テレビシリーズにおいては、蒼樹うめ原案によるいかに萌えアニメらしいキャラクターデザインとの意図されたミスマッチ(キャラがアニメ三次元存在であるのに対して、徹底して二次元存在である魔女と異化作用)ゆえのイヌカレー効果だったわけだが、それはもはやそういうものとして――少なくてもこのシリーズのファンにしてみれば――しっかり定着してしまっていることであって、ミスマッチも異化作用もない、おなじみの風景でしかなく、そして、おもうに、切り絵や写真加工を画面いっぱいに平面的に配置するイヌカレーのスタイルは、本質的に劇場の大画面向きではないのではないだろうか。すくなくても、テレビと同じ方法論でやってもそれは効果的ではないのだ。いつも通りの平面魔女が大画面を埋め尽くしても、それはテレビ画面で見られたものを無闇矢鱈と大きくしただけで、巨大な紙芝居以上のなにものでもなかった、とすらいえるかもしれない。大画面をささえるには、大きなぬいぐるみだけではおそらく力が足りないのである。

もっともこれは実質的に初の劇団イヌカレー初の劇場オリジナルである。本作の続編や、あるいは別の劇場作品において劇団イヌカレーが登場することがもしあれば、もっと劇場映画らしい見せ方を提示してくれる可能性はあるだろう。

とまれ、大騒動――架空の世界での出来事であること自体は変わらないので、やはり茶番感覚は抜けないままではあるが――の果てに、夢の果てが遂に描かれ、現実が姿を現すわけだが、ここでまた例によって例のごとくインキュベーターの陰謀が語られ、これまた例によって例のごとくSF的な設定らしきものが披露されるわけだが、テレビシリーズ以上にどうでもいい感じがしてくるのは気のせいではない。既に述べたように、この作品においては、魔法という名の奇跡の存在が前提としてあり、魔法によってほぼなんでもあり得る世界であるという認識が観客にはある。使われる言葉はSF風でも起きる出来事は魔法そのものであり、提示された設定と理論を咀嚼するのではなく、提示された映像と状況を丸呑みするしかない、ということも、観客はすでに充分知ってるのだ。

だがそれでも、ここで終わっていれば問題は少なかったかもしれない。この映画が真の姿を、そして真の問題をさらけだすのはここからだからである。

甘い夢想から苦い現実に戻り、そこで昇天と再会、という終わり方は、テレビシリーズのエピローグで暗示されたほむらの未来をただ具体的かつ無難に作品化しただけという安易さはあるにせよ、絶望の果ての救済、という流れ自体は、物語としては自然なものであったのだ。

だが、この映画の作り手たち(総監督新房昭之、監督の宮本正裕、脚本の虚淵玄)はそれで良しとはしなかった。まどかとの再会を願い、まどか円環の理による救済の時を望んでいたはずのほむらが、まさに救済を拒むという大胆な路線変更が彼らの選択だったのである。

戦いに疲れた暁美ほむらは絶望の果てに魔女となり、さらに「愛によって」悪魔と化し、鹿目まどかによって浄化され円環の理に取り込まれることを拒否、まどかまどかたる記憶と実存円環の理から引きはがし、己の作りだした夢の世界に閉じ込めた――

この展開は確かに意外だ。衝撃的ともいえる。

この逆転劇、じつは、最初から計画されたものではなく、パンフレットに掲載された虚淵玄のインタビューによると、当初の構想では、その直前の、いわば偽のクライマックスが、実はそのまま真のクライマックスであったのを、監督たちから「このあと続いていくような物語にしたい」という要望をだされて、まさに登場人物の誰もが予想してなかった展開を見せることになった、ということらしいのだが、これが商業的な要請であったとしても、それ自体はおそらく間違ってはいなかったと思う。

というのも、もし、はじめの構想どおりに魔法少女の死というかたちでの救済と、ほむらの昇天によるまどかとの再会を幸福な結末として描いてしまったら、テレビシリーズの結末から一歩も出ないどころか、むしろその地点よりさらに後退してしまった状況で、この『魔法少女まどか☆マギカ』という物語が、もともと、死という救済という予定調和の「円環の理」に取り込まれて終わる物語であったものが、それこその映画で描かれた通りに、閉鎖空間での魔女化とでも言えそうな、おぞましい自家撞着の時空のうちに「真の結末」を迎えることになっていたかもしれないのだ。

念の為に書いておくと、これはテレビシリーズの結末が失敗している、という意味ではない。

テレビシリーズの結末というのは、まどかのことを憶えているほむらがしかし、思い出に内向するのでなく、あくまで前向きに生き、戦い続けようとするところで終わっているから、意味と価値があったのだ。ほむらの死と昇天、まどかとの再会はあくまで未来の可能性でしかなく、過去に後ろ髪をひかれつつも、少なくても現在をしっかり生きること。まどかの物語としてはそれほどうまくいっていないテレビシリーズも、ほむらの物語としてみれば、それなりにスマートな着地を見せていたともいえるだろう。

そして、くどいようだが、それがそのままで終わっていれば、である(だから、あの物語の続編制作は、設定的に困難であるだけでなく、主題的にも困難だった、ということもできる)。

しかし、救済を否定することの正しさは、その否定の仕方の正しさを保証するものでない。この新編で描かれたものが正しい「叛逆」であったかというと、これまた否定せざるを得ない。

いいかな。

まず単純に、設定上の伏線やそこに至る登場人物の感情の動きが一切描かれていない。だから、予想外は予想外でも、その意外は唐突とか強引という意味での予想外であって、決して心地よい逆転ではない。むしろ裏切りと称したほうが相応しいものである。それも、設定面だけならまだしも、ドラマ面で、「あなたの守った世界を私が守り続ける」と決意したテレビシリーズのエピローグのほむらの姿が脳裏に焼き付いている人ならば、なおさらそう強く裏切られたと感じるはずだ。もっとも裏切ってはいけない人たちをこの映画は裏切ってしまったのである。ほむらは結局まどかの救った世界を守り続けることができなかったのだから。

円環の理の誕生クラスの大魔法、ようするに大奇跡をまたも使うというのも知恵がない。あれは全十二話のシリーズの最後であったからこそ使ってもぎりぎり許される荒業であって、一度目は素晴らしく感動的な奇跡でも、二度目は喜劇になってしまうのが世の理なのである。大富豪で革命ばかり続いたらみんな馬鹿馬鹿しくなってしまうだろう。

だいたい、ほんの数百年ばかり愛という名の妄執を募らせたら世界の理を改変できるとするなら、長い人類史、そして無数の平行宇宙において、ありとあらゆる願いを持った「悪魔」が無数に出現して宇宙原理を改変しまくってもおかしくなく、このすでにありとあらゆる全般的ぐちゃぐちゃである宇宙が悪魔の跳梁によって、ありとあらゆる全般的さらにぐちゃぐちゃである宇宙と化してしまう可能性だって十分あるではないか。そうなったら魔女も魔獣も悪魔もない。機械仕掛けの神ならぬ魔法仕掛けの魔王が暴れているようなものである。

なにより、最大の問題は、この展開によってもたらされた「終わり」が何かの「結末」になっているのか、ということで、はっきり言ってしまえば、まったくなっていない。たとえるならば『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』程にも終わっていない。

この映画の最後に描かれる世界は、ほむらの願いによって閉じられた世界である(設定上はどうとでもあとで説明がつけられるけれど、実態としてはそういうことだ)。それは、テレビシリーズのほむらが時間を繰り返し遡行するという人為的なループ生成によっておこなっていた時空の封じ込めを、新しい夢の世界への主要人物の取り込みという、より直接的にわかりやすいかたちでおこなった、というだけのことで、つまり、テレビシリーズでほむらがやっていたループ生成をまたループしてやっているわけである。ループのループ、二重の円環生成なのである。

しかも、ほむら以外の登場人物がループの中にあるために一切変化をみせず、反面、意識だけはループから逸脱しているほむらだけがどんどん病んでいくという展開になるであろうこともまた、テレビシリーズと近似であって、さらにその先にありえる結末もまた、テレビシリーズと同じく覚醒したまどかによるほむらの精神の解放しかなく、どこまでもテレビシリーズの展開をなぞっていかざるを得ないという状況になってしまっているのだ。現在だけでなく、未来もまた閉ざされてしまっている。新房昭之虚淵玄は、救済の拒絶というかたちで円環を破壊したさきで、よりたちの悪い円環に取り込まれてしまったのだ。

映画製作当初の「真の結末」が予定調和であるとするなら、このあたらしい「真の結末」は無間地獄とでもいうべきものである。


ここに抜け道にはなかったのだろうか、というと、いくらでもあった。予定調和の結末も、、一つの抜け道である。あるいはより王道の結末もあったはずで、たとえば、ここで、またも、というか当然というべきか、『ジュエルペット てぃんくる』を思い出せれば、それでよい。あるいは『魔法のステージ ファンシーララ』でもいいし、『時をかける少女』でもいいし、『劇場版少女革命ウテナ アドゥレッセンス黙示録』(*1)でもいいし、『涼宮ハルヒの消失』でも、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』でも『銀河鉄道999』でもいいだろう。

共通するのはいうまでもなく、「子供が子供であるところから一歩踏み出す」ということだ。「少年が大人になる」ということだ。「魔法の季節から卒業」ということだ。魔法少女の物語の王道の結末は、魔法少女魔法少女でなくなって終わるのだ。『てぃんくる』のあかりや『ファンシーララ』のみほは魔法の力を一切失うし、『時かけ』の真琴はタイムリープ能力を失う。『消失』の黒幕はその願いの具現化した世界を失い、主人公に「殺され」るし、『アドゥレッセンス黙示録』の天上ウテナは文字通り裸一貫で「青春の学園」の外へと飛び出していく。そして、『ビューティフル・ドリーマー』の夢の世界を破壊した諸星あたるは「責任とってね」と宣告されるのだ(*2)。

魔法少女まどか☆マギカ』の結末も、それこそが最も自然なものであったはずなのだ。そしてそれは、すでに魔法少女でない概念になってしまったまどかにはできないことであって、ほむらだけに許されたことであったはずなのだ。

今、万感の思いを込めてカラフィナが歌う。

今、挽回の思いを込めて円環の理がゆく。

一つの旅が終わり、また新しい旅立ちが始まる。

さらばまどか

さらばインキュベーター

さらば魔法少女の日よ、と。

もっとも、これをやってしまうと、それこそほむらまどかの物語が終わってしまうだけでなく、『魔法少女まどか☆マギカ』という作品そのものが完結してしまうわけだから、あるいはほむら昇天エンド以上に商業的にありえなかったかもしれない(*3)。

個人的には、それでよかったのではないかと思う。どんな物語だっていつかは終わらせなければならないのだし、終わりどころを見失なった物語は悲惨である。客にあきれられ、飽きられて、閑古鳥の内に店じまいをしなければならない。逆に、綺麗に終わることができれば、むしろそのことで、人々の心に残る。終わることでむしろ作品としては長生きするのである。

まどマギ』はといえば、物語をきちんと終わらせるタイミングとして、最善はいうまでもなくテレビシリーズであり、その次は、今をおいてほかになかった。だってそうでしょう。今回の結末をふまえて物語を再起動しても、前述の如く、同じドラマ、同じ展開のループになってしまう。おまけに、キャラクターの非業の死、イヌカレーの映像、キュウべぇの正体、そういったこのシリーズの大きな力となってきた要素の補助を一切なしでやらなくてはならないのだ。前作より人気の出る目がまったく見えない。(その傍証として、結局ろくに見せ場のなかった百江なぎさの存在感の無さを挙げてもいいかもしれない。あの世界の物語的土壌は既に枯れつつあるのだ)。

ほむらの「悪魔」化からの、説明的な対話と独白の連鎖によって物語の落としどころを探して回るというだらだらと弛緩した展開が、シリーズの今後に横たわる大きな問題を既に先取りしているとみるのは、穿ちすぎではあるまい。もはや、望ましい「真の結末」は誰にもわからないのだ。ほむらにも、まどかにも、そして作者たちにも。

さて、この文章もそろそろ落としどころがわからずに、だらだらと弛緩してきた感があるので、ちょっと原点にたちもどって、では、この『劇場版魔法少女まどかまどか[新編]叛逆の物語』は楽しかったかどうか、ということを検討しておくと、いろいろ不満はあるけれど、決して退屈ではなかった、ということは言っておきたい。退屈さがあるとすれば、それは既に述べたストーリー上の問題と、観客として新房昭之&シャフト&劇団イヌカレーのスタイルに慣れ過ぎた故の刺激の乏しさのなせる業であって、言い方を変えれば、伝統芸能の安定感の退屈さであり、それ自体は決して悪い事ではないのだろう。映像・演出面では、前半のパートに単なるループ感におわらない濃密さを出せなかったのは惜しいとは思うけれど、『まどマギ』という枠、イメージを崩さない中での「劇場版」化にはそれなりに成功していた。すくなくても、内容的にも映像的にもどこまでも「総集編」でしかなかった[前編][後編]とは大違いだったといえる。特に中盤の廃墟的な風景は好みだ。

音楽的には、「Magia」クラスの強烈な楽曲が欲しかった気はするが(ラストのバトルにはあのレベルの激しい音が必須ではなかったか。*4)、サントラは欲しい。

それにしても[続編]は一体どうなるのだろうか。続編を想定したような作りで劇場版を作っておきながら、そのまま企画そのものが消失してしまったと思しき『涼宮ハルヒの消失』パターンになるのでなければ、間違いなくテレビシリーズ[第二期]はあると思うけれど、既に二度にわたってルールの上書きがなされ、誰が死んでいも誰が生き返ってもおかしくない世界においてて、一体どんなサスペンスある物語が作れるのか。いっそのこと、劇場版全体を誰か(というか、ほむらだな)の夢というとしてしまって、テレビシリーズのラストシーンから再度話を作り直すという手もありかもしれない。荒廃した世界で孤独に戦い続けるほむらの物語、それは『マッドマックス2』や世紀末救世主伝説にいささか似てはいるだろうけれども、すくなくてもそれなら円環に閉じられることはない。すくなくても新しい未来へ一歩踏み出すことができるはずだ。

ちなみに、あの砂漠のラストカットは、萩尾望都の『百億の夜と千億の昼』(原作は光瀬龍)のラストカットと似ていたりする。それは全てがループして、主人公が一からまたやり直す物語であるが、一からやり直して、また同じ結末に至るかは、誰にもわからない。主人公にも、作者にも。

なんにしても、こんどこそ、ほむらの戦いが終わりますように。そして魔法少女たちが魔法少女という呪いから解放されますように。


   ――天国では、全てがうまくいく。

     あなたはあなたの良きものを得て、あなたは私のものを手に入れる。 

     天国では、全てがうまくいく。

     あなたはあなたの良きものを得て、私は私のものを取り戻す。

 


(*1)内容面だけでなく、演出的にも[新編]中盤のバスの場面などには、本作のエコーがあるように思う。ラスボスが平面的な巨大物、というのも似ていると言えないこともない。

(*2)このあたるが責任をとらないで逃げようとしたら、怒って追っかけてきて「恨みはらさでおくべきか」「さてもおそろしき執念じゃあ」となるのが、『天使のたまご』、責任とって子育てにいそしんでいるのが『迷宮物件』、という話は有名である。

(*3)完璧終わっている物語を無理矢理続けた『さよなら銀河鉄道999』や原作漫画『銀河鉄道999』がどういう結果となったか、という話でもある。そしてそれは、まさにこの[新編]のことでもあるかもしれない。

(*4)ところで、カラフィナのあの曲のモチーフは後期ミランダ・セックス・ガーデンのハード系の楽曲、具体的には「Cut」「Cover My Face」あたりだったりするのだろうか。

〔13/11/22追記〕

テレビシリーズ(および[前編][後編])と、[新編]の内容を「親友を事故や災害で失った人の物語」という観点から見てみると、あるいは問題がわかりやすいかもしれない。

友人を失ったという事実を受け入れられずに、脳内で何度も事件の時を思い返していた人が、ついにその死を受け入れたのがテレビシリーズ(および[前編][後編])で、やはりその死を受け入れられず、自分が作り上げた親友の幻と妄想の中で暮らそうというのが[新編]。

2013-08-10

宮崎駿風立ちぬ

 吾らは夢と同じ糸によって織られているのだ

 ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる

 ――シェイクスピア『あらし』


奇妙な作品だった。劇場公開初日、吉祥寺オデヲンでの午前の第一回に赴き(上映四十分以上前に劇場に辿り着いたのにも関わらず、既に八割の入りという異常な盛況だった)、さらに同じ劇場で翌週金曜日のレイトショーをもう一度見て(こちらもほぼ八分の入り)、そうした結果、この作品を端的に表現するとしたら、それが一番ふさわしいのではないかと感じた。個人的な作品だ、といってもいいような気もするのだが、そういうのには、いささか開かれてすぎているような気がするし、実はそこまで個人的な内容ではないような気もするのである。

そもそもこれは、なんの映画なのか、そこからして言いにくい。

退屈な内容ではないが、ではハラハラドキドキのエンターテインメントかというとそうではない。重厚でシリアスな文芸映画かというとやはり違う。もっとフットワークは軽い。サスペンスは限りなくゼロなのに、不思議なテンションが終始漲っていて、見ていて全く気が抜けない。

零戦の開発者として知られる堀越二郎の生涯に取材したというふれこみなのだから、偉人伝の一種のようにみえるがそうではない。もっと断片的なものだ。零戦開発に至る設計開発史を精緻に描いているわけでもない。それなりに専門的な描写はあるが、主眼ではない。堀越二郎の生涯と並ぶもう一つの原案である堀辰雄の『風立ちぬ』にちなんだ悲恋物語の要素もあるが、この糸を辿っていくと最後に待つのは奈落である。

あるいはこれは映画とすら言ってはいけないのかもしれない。映画といえるほどまとまりのあるものではないかもしれない。ただし、この作品に奇妙な何かが満ちていることだけは間違いない。だから、奇妙な作品であると、これだけは言えるのだ。

  *

この作品の奇妙さは、その冒頭の場面からもみてとることができる。蚊帳の中で眠る少年時代の二郎にカメラが寄っていき、次の瞬間、屋根を上る二郎少年のカットになるくだりで、ああこれは少年の見ている夢だな、と即座に分かった人はどれくらいいるのだろう。不自然な場面の飛躍(いわゆるジャンプカット)だ、という違和感からくる認識がまずあって、ついで違和感があるからこれはもしかすると夢かもしれない、と考え、その推測が、続く場面に登場する鳥のような翼端をもつ創作飛行機によって裏付けられる、という思考経過をたどった人がほとんどなのではないだろうか。そして、こうも考えたはずだ、宮崎駿はこんなに不親切で独りよがりな描写をする作家だったろうか、と。

 もちろん、そういった軽い混乱と違和感は、その鳥型飛行機による二郎のフライトのシークエンスの如何にも宮崎アニメといいたくなるような爽快感、そして、あの素晴らしく不気味な動きで宙に浮いている爆弾らしきものの群や、雲の中から姿を現す空中戦艦の異様で不気味なデザインの感動にのまれて、頭の片隅に追いやられてしまうのだが、まったく消えてしまうわけでもない。その夢の場面でさえ、何でもない風景とそこに暮らす日常の人物のはずが、二郎の飛行機への妙に誇張された反応を見せることによって、ただの願望充足の夢でないことを暗示していて、いかにも宮崎アニメらしい爽快さを完全には楽しませてはくれない仕掛けにはなっているのだ。この素晴らしく爽快で、素敵に不気味で、すこぶる楽しい夢のシークエンスは、墜落というギリシャ神話伝来ともいえるごく古典的な結末に到達し、(この監督のやりかたとしては)凡庸な演出をもって終わる。感動とかすかな違和感を観客に残して。

 奇妙なのはそこだけではない。例えば、時間の進みを示す描写も奇妙である。正確には、時間の進みを示す描写の不在が奇妙である、といった方がいいだろうか。小学生の二郎が大学生の二郎になる場面は、大きな時間の経過を示すカットもなくあっさりと変わる。その後も、パンフレット掲載の年表によれば、震災の場面から復興した東京での学生生活の場面までが二年、そこから名古屋の工場に行くのにまた二年、ドイツ行までまた二年、帰国して試作機の設計主任に選ばれるまでに三年、菜穂子に再開するのがその翌年(七試単戦の制作とその失敗、休養と失敗のリハビリを兼ねての軽井沢行、そして再会、という流れを原作未読でわかった人がはたしてどれくらいいるのだろうか? 軽井沢の旅館のベッドで二郎が夢とも空想ともつかぬかたちで見る七試単戦――のちに醜い家鴨の子といわれてしまう――の墜落場面、あれが失敗の場面の「回想」なのである)、本編における「現実」パートの最後である九試単戦の試験飛行までまた二年、とものすごい速度で時間が進んでいるのに、そういった時間の流れの速さを感じさせるカットはほとんど入れられず、すべては一年の間の出来事ですといっても通用しそうなぐらいに、本来離れている時間が余白を作らずに並べられていく。

 空間についても同じことがいえて、東京から名古屋名古屋からドイツドイツから西欧諸国と、まさに世界を股にかけた展開をみせているのに、その長い移動の描写はほとんどなく、たとえば『もののけ姫』で北の地を追放されたアシタカが西の山にやってくるまでをあれだけ長々と(時に恥ずかしくなるほど)時間をかけて見せた監督と同一人物かと思うほどだが、つまりここでも余白を作らないという方針が徹底されているとみるべきなのだろう。

 そして、夢と現実に至っては、余白がないどころではなく、お互いにゆるやかにまじりあい、あるいは、侵食し、もはや不可分の関係になっている。現実と対置するものとして夢があるのではなく、現実の延長に夢があるのであり、夢の果てに現実があるのだ。それはちょうど、二郎の読んだ英語の本の内容がカプローニ伯爵の夢というかたちで二郎の前にあらわれ、その夢に鼓舞された二郎がカプローニ伯爵のような設計家を現実に目指すという作品の構造とも一致して、映画全体の主題にも大きくかかわっていく。

 かくして映画は定型の持つ安心感と過去作に基づく作家への期待をそれとなく、だが確実に裏切り続ける。だから、むしろ積極的なファンほど緊張を強いられる可能性すらあるだろう。見慣れた、そしてよく知った、さらには愛していたかもしれない、「宮崎アニメのルール」とは異なる、新しいルールを見つけ出さなければならないのだ。

 このあたりの「新しさ」は、喫煙の描写などにもあらわれている。従来の宮崎アニメにおける喫煙シーンはルパン三世やポルコ・ロッソのそれを思い出してみればわかるとおり、古典的なハリウッドスタイルといったらいいのか、ようするにハンフリー・ボガートごっこの延長としての、かっこいいとはこういうことであるというアピールの場面でしかなかったわけだが、この作品においては、喫煙者をかっこよくみせるための小道具というよりは、喫煙者の自制心の弱さやその耽溺の異常性を示すそれに代わっていて、だから、あの作中で一番といっていいような好漢たる本庄がこと煙草の件になると誰彼かまわずそれをねだり、それでも無いとなるとシケモクでも吸うという、非常にみっともない姿を晒すのだ。そういったやや引いた姿勢こそが、終盤の二郎が菜穂子のいる部屋で煙草を吸う印象的な(そして、引き気味のカメラが示すように必ずしも作者も肩入れをしていない)場面を生み、あるいは宮崎アニメ史上最もシニカルでクールなユーモアに満ちた場面、すなわち、大震災による火災の真っ最中に火をねだって煙草をぞんぶんに吸う場面に結実するのである。

    *

少し話をもどそう。冒頭の二郎の飛行の夢についてである。

 この夢は、もちろん第一義的には、二郎の願望と恐怖と不安の集成であり、鳥のように空を飛びたい、鳥のように空を飛ぶ機械を作りたい、あるいは空を飛ぶことで見知らぬ人にも(出来れば男性より女性に)ちょっと騒がれてみたい、そんな数々の願望と、まだ直接戦火を体験していないとはいえ、人一倍海外についての知識が豊富で、当然そのころ勃発中の世界大戦についてもそれなりの知識があったであろう少年の戦争への恐怖心、さらに加えて、近眼によってパイロットになれないのではないか(これはホラー映画的に強調されるゴーグルをしたときの眼球の描写でもそれとなく示される)という、より直接的な不安、そういった、まあだいたい年頃の少年らしい内面を、ある種観客サービス的なものも込みでひとまとめに見せてくれたものであるけれど、これは、『アラビアのロレンス』の冒頭部、トーマス・エドワード・ロレンスの交通事故に終わる最後のドライブのシークエンスと同じく、映画全体の展開の暗示にもなっていて、具体的には、順風満帆の飛行開始から、ひとびとにもてはやされる中盤、戦争という悪夢に巻き込まれ、容赦ない墜落に終わる。『アラビアのロレンス』が英雄ともてはやされた人物の特異な生涯を辿る作品であったことと、『風立ちぬ』が天才ともてはやされた人物の特異な生涯を辿る作品であることはおそらく無関係ではない。ロレンスの最後のドライブがたった一人のドライブであったように、二郎の最初の飛行もまた、たった一人の飛行であった。

 また、ここで「墜落」した二郎がその後二度と自ら飛行機の操縦席に乗らない、というのも重要で、それは夢のなかでさえ一貫している。カプローニ伯爵の飛行機に乗るときは常に客分であって、パイロットを夢見ることさえない。ただの夢が二郎の未来をすでに決め始めているのだ。

 ただし、このあたりは、見ていてすぐにピンと来たわけではない、ということは告白しなければならない。見終わって内容を反芻して初めてああそういうことだったに違いない、と思ったことばかりである。カンが悪いと言われてしまえばそれまでだが、正直、濃厚な作画と、これから述べる、奇妙な話のつくりに翻弄されて、全体の構造を考えたりする余裕はまるでなかったというのが実情である。

    *

いや、奇妙、というよりは、雑、といった方が、もしかしたら相応しいかもしれない。ここについては、実際のところ真意がよく解らないところも多い。だから、公開直後の感想では「脚本の出来は良くない」というようなことを呟いたし、基本的には今でもまだそう思っていて、幼少期が冒頭の夢や、不正を見逃せない二郎の性格描写、妹や母との関係(父親との無関係、その代理的な意味でのカプローニ)といった今後の展開に必要な情報を提示するだけに終わってしまい、妹とは結局笹取りにいったのかとか、あのいじめられていた少年とのその後の関わりはとか、飛ぶ夢は以後見たのかとか、そういうエピソードが膨らまないままに青年期に移行してしまうのは、そこがプロローグだから仕方ないということもできるが、その後のどの時代でも、基本的に同じ調子で話が進んでいくのは、やはりまずいのではないか。

 特に惜しいと思うのは、少女時代の菜穂子と学生時代の二郎の出会いから震災に巻き込まれるあたりの展開で、四分間の予告編でももっとも印象的に使われていた、雑踏の中を二人が手を繋いで掛けるシークエンスがそこから何か二人の関係を深める挿話があるでもなくあっさり里見邸に到着してしまう。テレビで見ていたら、なにかカットされたんじゃないかと思ってしまったに違いない。そしてその場面で二郎の菜穂子に対する印象をきちんと描いていないことが、次の服と計算尺を菜穂子の御付の女性(名前失念)が送り届けに来る場面のわかりにくさにつながってしまう。二郎が何をあわてて女性を探しに行ったのかというと、御付の女性に会えば菜穂子の様子がわかるからだ、という確かな理解が観客に訪れるのは、だいぶあと、「帽子を拾ってくれた頃から君のことが好きだった」という台詞を聞いてからだろう。

 また、ドイツでのスパイらしき人物とその追跡者のくだりのようにまったくエピソードが膨らまず、なおかつ、それ単体でもほとんど意味もなしてないように思えるところも散見される。ゾルゲ事件を連想させる、謎のドイツ人カストルプの食事のエピソードもそうだ。彼がむしゃむしゃ食べているクレソンはとてもおいしそうだが、それは本編には全く関係がない。

 一体にどのエピソードも実利優先というか、効率優先なのだ。話を展開するのに必要な情報を提示したら、至極あっさり次のエピソードにいってしまう(クレソンは悪い意味で例外といえる)。

 もちろんそういうやりかたが効果をあげているところもあって、名古屋に向かう汽車の行く手に広がる職を求める人々の群や銀行の取りつけ騒ぎの暴徒を、二郎が窓越しに見つめる場面は、『千と千尋の神隠し』の千尋の「沼の駅」への旅の場面の思わせるが、千尋の旅が、はじめての死の世界との邂逅であったように、二郎にとってもそれまでの順風満帆の世界と窓を隔てた向こう側にすぐ存在する怒りと困窮の世界とのほとんど初めての邂逅であって、それをさらりと、しかし印象的に点描することで、その後の「シベリア」のエピソードへつなげ、本庄の口から「偽善」というキーワードを導き出すあたりは、まるで宮崎駿ではなく高畑勲が脚本を書いたようですらある。

 とはいえ、やはり全体としては、踏み込みが浅く、潤いのない脚本(といっても絵コンテが初稿というスタイルだから、厳密に本そのものは存在しないわけだが)であることは否定しがたく、こういうところでそれこそ高畑勲が監修なり助言なりをする役回りを演じてほしかったようには思う。もっとも今回、予告編として流れた『かぐや姫の物語』の異様で狂的な迫力に満ちた映像を見る限り、他人の映画に関わっている余裕はおそらく高畑氏にはなかったに違いないのだが。

 そんな踏み込みが浅く、潤いがなく、同時にそれゆえに上澄みだけをすくいとったような小綺麗さも兼ね備えた本作の傾向を最も象徴するキャラクターとしてあるのが、そう、菜穂子である。

    *

周知のようにこの作品の里見菜穂子、のちの堀越菜穂子は、宮崎が漫画版『風立ちぬ』を描いた際に、堀辰雄の「風立ちぬ」の節子をもとに「菜穂子」の黒川(!)菜穂子のキャラクターを若干加味して作りだしたもので、彼女の辿る運命は「風立ちぬ」の節子ではあるけれど、自らの意志で病院を抜け出してくる現代女性的な(当時の堀的な意味合いで)精神的な強さは「菜穂子」の菜穂子によっている。彼女の名前が節子でなくて菜穂子であるのは、それが『火垂るの墓』の主人公の妹と重なってしまうというだけでなく、芯の、そして、真のところでは菜穂子は節子でなくて菜穂子の菜穂子なのだ(ああややこしい)という想いがあるのだろう。

 この菜穂子は、菜穂子の菜穂子以上に、ヒーロー的な精神の逞しさをもちつつもあくまで「塔の中の姫君」であるという、『魔女の宅急便』以降意識的に封じてきた感のある、宮崎駿にとっての理想的なヒロイン像の再現でもあって、もう一人のクラリスでありシータでありサツキであり、しかしナウシカではなく(彼女は完全にヒーローでもあるからだ)、それ故、彼女は遂に襲いくる不幸に勝利することができずに終わり、それはまるで、主人公にとって都合のいい悲劇を提供するだけの作り手のご都合的な要員のようにみえないこともない。特に終盤の菜穂子の出立のあたりの黒川の奥さんによる説明的過ぎる台詞(あれはエンターテイナーの優しさが裏目に出た瞬間で、明らかに言わせすぎだった。場面の奥行きがなくなってしまうし、その動機が単純化され過ぎてしまう。)は、そんな印象をより強化してしまうようなところもあるのだが、彼女の役割はもっと別のところにあって、そういう意味では宮崎のこれまでのどのヒロインとも似ていないし、堀辰雄の二人のヒロインとも似てはいない。さらにいうなら、漫画版『風立ちぬ』の菜穂子とも違うヒロインなのである。

 よく本編の内容を思い返していただきたい。この作品の菜穂子が二郎の生きがいである飛行機とその設計について、どう接したか。じつに最後までそれにはまったく興味を示していないのだ。「仕事をしているあなたの顏が好き」と甘い声で囁いても、「あなたの作った飛行機が好き」とか「あなたの飛行機が飛んでいるところを見たい」というようなことはいっさい言わないのだ。漫画版の菜穂子はそうではなく、二郎が軽井沢で作った紙飛行機をお守りにしてみたり、あるいは療養所に送られてきた二郎の手紙に仕事の話ばかりであることに苛立って(苛立ちはそれに無関心でないからこそ発生する)みたりと、なんだかんだで二郎と同じ夢を見ようとするし、二郎のほうでも、美しい飛行機を設計する大きな動機として「菜穂子に見せたい」があり、「見せたい人はただひとり」とまで思っていて、念願の九試単戦の飛行実験の成功の場では「見せたい人はもういない」と嘆くのだ。つまり漫画版の二人は、夢の共有を果たしていて、これは『ルパン三世 カリオストロの城』を作った頃に宮崎が言っていた「二人が並んで同じ風景を見る関係」のまさに具現化であって、それゆえに悲恋の、悲劇の結末、となるわけだが、驚くべきことに、映画においてはその要素は完全に排除されている。

 二郎の飛ばした飛行機を拾った菜穂子がその飛行機を再度飛ばす場面を見よ。菜穂子の投げ方のなんと粗雑で、「飛行機」というものへの関心の感じられないことか(あの投げ方は、もしあの飛行機が二郎制作のものでなかったら、そのまま丸めてゴミ箱に捨てる人間の投げ方である)。また、二郎のほうも、菜穂子の為に飛行機を設計しようという動機は持たない。設計中に彼女のことを思い浮かべることもない。むしろ、彼女の容体の急変を聞いて東京へ向かう車中、不安と恐怖を忘れるために必死に計算をし、設計作業を続ける場面に示されているように、飛行機も設計も彼女とはまったく異なる世界のものとしてある。

そういう意味で、菜穂子は宮崎アニメのヒロインとしてまったく違う地平に立っているし、それは二郎にとってもそうだ。いやもしかするとヒロインすらではないのかもしれない。

では、菜穂子とは何だろう。その手掛かりになるのかもしれないのが、婚礼の儀の場面である。二郎と菜穂子の登場する場面では、震災のなか群集をかきわけ二人で走るところ、その対比となる駅での再会、それらに次ぐ名場面といえるけれど、ここで流れる音楽――サウンドトラックでは「旅路(結婚)」と名付けられた曲は、冒頭の夢でも流れる曲(トラック1「旅路(夢中飛行)」)の変奏である。菜穂子との婚礼なのに菜穂子のテーマ(ちょっとラピュタのテーマを思わせるあれである)ではないのは、この婚礼の菜穂子が菜穂子ではなく夢の菜穂子である、ということではなくて、この婚礼が夢と限りなく近い瞬間、いや、ほとんど夢そのものであったからだろう。既に述べたように、この作品において夢と現がほぼ地続きなのである。飛行機とカプローニしかいない夢中飛行の草原の先に、このときは確かに、婚礼の衣装を身にまとった美しい菜穂子がいたのだ。

 だが、それは同時に、このときだけだった、ともいえるのだ。それがはっきりするのが最後の夢の場面である。

    *

風立ちぬ』の最後の場面は、冒頭の場面と同じく、二郎のみる夢だ。戦火に包まれる東京の街の情景から例によって明確な区別なく、無数の飛行機の廃墟の横たわる夢の草原へとつながっていく。優雅な飛翔から不吉な失墜へと展開した冒頭の場面とは対照的に、破壊の情景の先にいつも通りの優雅な佇まいのカプローニが待っている。ここで語られるすべては、この『風立ちぬ』という作品の総括であり、種明かしであり、最も残酷な死と破壊でもあるのだが、最初にこの場面を見てそう思う人はほとんどいないに違いない。というか、そもそもこの場面が、映画の最後の場面だと思う人すらほとんどいないに違いない。駅での再会から婚礼への盛り上がりを最後に、そのまま淡々と展開してしずかに終わり、は宮崎映画にはありえない、ナチュラルボーンエンターテイナー宮崎駿が最後に何らかの大立ち回り(『魔女の宅急便』のアニメオリジナルのラストの活劇についての宮崎の言葉を使うなら最後の打ち上げ花火)が、用意されいないはずがない、と思うのはごく自然なことだし、個人的にも、戦後の二郎がエピローグ的に描かれるか、夢の中でまたあの鳥型飛行機が飛ぶか、つまりなにかもうひと場面、それも華やかな場面がはあると思ってみていたので、ごくあっさり堀越二郎堀辰雄へのクレジットが出てそのまま荒井由美の歌が始まったときには、その驚きのない展開に驚いてしまい、これはきっと全クレジット終了後に、『紅の豚』のようなワンショットのおまけがあるのだろうと、これまた無駄な期待をして、それがないことにまた無駄に驚いてしまったのであった。

 この辺もやっぱり脚本の雑さというほかはない。最後の場面だとわからず見ている観客と最後の場面だと思って描いている作り手では、間違いなくイメージの共有に齟齬が生じるからである。

 さて、しかしここは正しく最後の夢を最後の場面として考えていこう。

この何度も来た草原について、二郎は言う「地獄かと思いました」

カプローニは答える「地獄ではないが、似たようなものだ」

 考えてみるととんでもない発言で、今までここで語られた希望や、この場所が出るたびに流れたのどかで安らぎに満ちた音楽(「旅路」である)は一体なんだったのか、地獄のような場所で希望を語り、地獄のような場所のテーマ曲があののどかなメロディだったというのか。

 あるいは、二郎が手塩にかけて作り上げた飛行機の廃墟をさしていったのだろうか、無論、そうではない。そこも含めて、全てをさしている。それは続くカプローニの台詞が示している。

「飛行機づくりは呪われた夢だ」

 夢自体が呪われているのである。この場所そのもの、この場所の全てが呪われた場所なのだ。どこまでも続く草原と青空、それが『千と千尋の神隠し』の人の世界と神々の世界を繋ぐ場所と地続きのようにみえるのも偶然でないのだ。そこは安らぎの地ではなく、地獄への入り口なのだ。だからこそ、カプローニが美しいと絶賛した零戦が飛び立っていったさきに、あのマルコ・パゴット中尉の見た死の空の夢そのままの光景がそのままでそこにあるのだ。

その空をマルコはなんと評していたか、というと、こうである。

「あそこは地獄かもしれねえ」

 おそらく、その推測は正しいのだ。

 先にこの映画は二度見たと書いたが、二度見て印象が一番変わったのがこの場面だった。そして二度目に見た時、一度目の「最後の打ち上げ花火」不足の気分は、作者の意図通りではないのかもしれない、と思えるようになった。それどころか、誤解していたのはこちらで、つまり、この「呪われた空に飲まれていく零戦とそこに展開している何白何千の飛行機(の幽霊)」こそが、作者にしてみれば最大最悪の打ち上げ花火であり、まさに地獄のような光景のつもりであったかもしれないのだ、と。

 ただし、正直にいってこの場面には人にそう思わせるだけの力はない。そのインパクトのなさは、宮崎執筆の企画文における「美しい映画を作りたい」というフレーズでも糊塗できないような作家の衰弱があって、それでも好意的に推測するなら、最後の最後にコンテを切ったために、疲労困憊、文字通りの衰弱状態で描かれたのだから、仕方のないことであるのかもしれないが、そういうペース配分のミスも含めて、やはりここは失敗しているといわないとならないだろう。この場面が『紅の豚』のあの場面なみの、壮麗で幽玄ながらなおかつ壮絶で恐ろしい大量死の風景として描かれていたのなら、この最後の夢が最後の場面でないなどと勘違いする人もいなかっただろうし、なによりそんな批評家的理屈にもとづく見方などどうでもいいレベルで、観客を圧倒していたに違いないのだ。なんと勿体ないことだろう。最後がズタボロでいいのは登場人物だけだ。

 そして、また、菜穂子である。飛行機と並んで、二郎の人生において重要な「夢」であった菜穂子である。しかし、彼女はあらわれて一言二言いってすぐに消えてしまう。このくだり、庵野秀明の決してうまくはないが、独特の朴訥さとある種の迫真性のある呟きのような「ありがとう」という台詞によって、なにがしかの感動的な風情はあるのだが、正直ここが最も衝撃的だった。感動するどころではなかった。

 だって、あれほど大切な存在だった菜穂子すら、二郎の夢の世界に居続けられないのだ。なんという夢だろう。なんという恐ろしい世界だろう。そんな地獄のような、草木と空と妄想の存在と廃物しかない世界でしか生きられない二郎とは、なんというかなしい人間だろう。

 ことここに至って、ようやく、この『風立ちぬ』というフィルムがどういう作品かが明らかになるのだ。

二郎が何に突き動かされて生きてきたのかといえば、それは夢である。夢の中で生きる目標を定め、夢のように美しい飛行機を作り出すことに心血を注ぎ、夢のように素敵な女性と出会い、夢のように美しい婚礼をし、夢のように彼女は去り、夢の中でまた出会い、また別れ、その夢を抱えてまた生きる。そして彼は知っている。その夢とはしかし呪われた、地獄のような場所なのだと。

風立ちぬ、いざ生きめやも」

 ここでいう風とは、世界の、社会の、人生の、歴史の動きであり、その動きに巻き込まれている以上、人は生きていかなければならない。最愛の人をなくしても、それでも時間は進み、残されたものは生きていくのだ。ヴァレリーは、そしてそれを引用した堀辰雄はそういっている。そこに宮崎は、新しい意味をつけくわえたのではないか。風とは夢である。夢が人を動かし、人を生かし、夢を持った者だけが生きていくのだ。二郎とはそういう男であり、そういう男のまえでは全ては夢の糧にすぎない。零戦に乗って死んでいった沢山の兵士も、戦火に消えていった人々も、友人や同僚や、菜穂子でさえも。

 そんな男の人生を描くにあたって、通常の時空間描写は必要なかった。ふさわしくなかった、といってもいい。過去も未来も、西も東も、実在も非実在も全てが等価に進行する世界、そして、現実音もあれば、明らかに現実のそれとは異なる唸り声のような掛け声のような(頭の中で妄想されているだけのような)機械の響きもある世界、それはまさに夢そのものであり、夢に生きる男を描くのにこれほど相応しいキャンバスはほかになかったのであり、まさにそのようなものになるべくこの『風立ちぬ』というフィルムは作り上げられたのだ。

二郎の声に本職の声優でも俳優でもなく、弟子にして監督でもある庵野秀明が起用されたとき、誰もが驚いたものだが、実際に本編で見ていると、第一声と詩の朗読以外は大きな違和感がないことに気づく。というより、違和感自体はずっとあるが、彼が、プロのそれとは異なる口調で終始することによって、いわば違和感を個性に変えている、という構図はつまり、二郎という人物が終始作品世界とは違うステージにいる、ということでもあって、それはちょうど、夢と夢を見ているものの関係なのである。

当然、それはさらなる連想を容易にする。このフィルムが二郎の夢そのものであるとしたら、それは同時にこのフィルムの作り手である宮崎駿の夢であり、夢が二郎という人間の肖像であるとしたら、同時これは宮崎駿という人間の肖像であるのではないか。いうまでもなく、そうに決まっている。もし、宮崎駿がもっと自分自身の声や演技力に自信があり、さらには自分というキャラクターに愛着があって、自画像を豚人間になどしないような人間であったなら、二郎の声は宮崎自身がやっていたに違いない。もっとも、そういう人物であったなら、そもそもこういう映画を作ろうと考えなかっただろうし、作られもしない映画の主演などをするはずもなかっただろうけれど。

    *

さて、最後にざっと映画のスタッフ等について。

 まず、役者陣。前述の庵野秀明の特異性を生かすためか、それまでのジブリ作品と比べても非常に水準が高いように思う。単に技術的な面以上に、うまく映画になじむ人選という気がする。過去にジブリ作品に出ている人の再起用が多いというのもこの馴染み方の良さに影響しているのかもしれない。なかでは黒川という口うるさいが誠実で公平で人情家ですらあるという、外見も含めて完全に漫画のようなキャラを当たり前にそこにいるように演じた西村雅彦と、いつもどおりの大芝居なのに、この世のものではないような優雅さと豪快さを兼ね備えたカプローニを第一声から表現しきった野村萬斎が双璧だろうか。菜穂子の滝本美緒は悪くないが、少女時代の菜穂子の飯野茉優のほうが達者なぶん、割を食っているようにも思う。

 一方、久石譲の音楽は正直もうすこしバリエーションが欲しかった気がする。大半が「旅路」と「菜穂子」のテーマの変奏で構成されているのはいいのだが、肝心のテーマ自体がよわい。『千と千尋の神隠し』の例の「6番目の駅」のような強力な楽曲があれば、映画全体にピシッと背骨が通ったにちがいない。

 その背骨代わりにあったのがあるいは荒井由美の「ひこうき雲」だったのかもしれない。素晴らしい曲だし、再三触れている四分間の予告編での使われ方も素晴らしかったのだが、それに比べると本編での使い方は通り一遍で、曲のポテンシャルを出しきれていなかったように思う。というより、じつは微妙に映画とはあっていない曲だったのかもしれない。この作品は「はかなくこの世を去ったあの子」の映画でなかったのだから。

それにしても、この映画全体に漂う死の気配と、それにもかかわらず漲る若さは一体どうしたことだろう。全然老境の作家の作品のようではなく、とてつもなく老成した青年、それも未完の大器による作品のようだ。『崖の上のポニョ』にあった、これが遺作となっても仕方ない、というような老人の我が儘一杯の作劇とは違う、自分の好きなものを詰め込んではいるが、詰め込んだもので好き放題に遊ぶのではない確かな意志の存在と自制心の強さを感じる。

次回作を作る気があるのか、あるとしたらそれがいつのことになるのか、現時点では皆目わからないが、想像するだけもわくわくしてしまう(以前語っていた青年芥川と老人漱石の話だろうか?)。末恐ろしい七十二歳である。


 夢こそは我が嘘のいやはての砦

 あまたの空の出入りする

 そして俺は番兵

 空をまとめて串刺しだ

 青い血を彼等のために流そうよ

 ――谷川俊太郎「俺は番兵」

2012-06-02 03:12

[]第六話「大罪を犯す」

あるいは

「退職刑事と『古典部』」


       1 

「おまえ、今週の『氷菓』は見たか」

 硬骨の刑事だった父が恍惚の刑事になってからずいぶんと経つが、世俗への関心は衰えないらしく、最近では、孫娘とはなしをあわせるため、と称して、いつのまに修得したのか、我が家の居間にあるブルーレイ・ディスク・レコーダーの録画機能を駆使して、深夜のアニメなどを熱心に見るようになった。といっても、せっかくの知識は、孫娘と会話の話題につかうよりも、息子の私をつかまえて、脚本の欠陥を難じたり、父が日常では知りようがない文化や若者言葉の意味を理解していることの自慢に使われることのほうが、多いような気がするが。おかげで、ずいぶんといろいろなアニメーションを、私は、年の割に知っている。

 そんな父の最近のお気に入りらしいのが件の『氷菓』という作品で、その今週分を父はとっくに見終えているらしい。仕事を終えて帰宅した私に、いきなりそうたずねてきた。

「昨晩、放映されたばかりの話でしょう。見ているわけが、ないじゃないですか」

「そういえば、そうだな。じゃあさっさと、見るんだ」

「別にあわてる必要も、ないでしょう。ブルーレイ・ディスク・レコーダーの現場保存力は、完璧ですよ」

「たしかに、現実と違って、物語の現場は時間によって証拠が失われることは、ないがね。見た私の記憶は時間によってどんどん、失われてしまう」

 口が減らない老人を父に持つと、息子は苦労するのである。夕食もそこそこに、『氷菓』の第六話「大罪を犯す」を鑑賞したが、父が何をそんなに急かしていたのかは、よくわからない。たしかに、主人公の探偵役、折木奉太郎の推理には、やや無理がある。それに、解かれずに終わった疑問点も、ないわけではない。しかしそれは騒ぐようなものとは、思われないのだ。そう伝えると、父は微笑みながら言った。

「現職刑事は、仕事をしていなくても、その観察力と推理力はやすませてはいけないぞ。事件の手がかりが、いつ、めのまえに出現するか、わからないんだ」

 その眼の輝きには、稚気だけでなく、鋭さもあらわれていた。恍惚の刑事の中で、すこしばかりかもしれないけれど、硬骨の刑事が目覚めているに違いない。


       2

「まずは、お前が気になった点を言ってみなさい」

 すっかり、部下相手のブリーフィング――といっても、父が現職だったころは、こんな言葉はなかっただろうが――をするような口調になって、父が言った。

 「事件」のあらましは簡単なものだ。主人公・折木奉太郎が隣のクラス、二年A組の授業中に教師が大声を上げて「キレる」のを耳にし、さらに抗弁する声の主が折木が所属する古典部の仲間である千反田えるであることに気付く。放課後、古典部の集まりで、当然のことながらその時のことが話題になり、どうやら教師が勝手に授業範囲を勘違いして、そのことに気付かず生徒を叱責したらしいこと、教師に意見した千反田がその教師の怒りに対して怒りを覚えたこと、さらに、千反田本人がなぜ自分が怒りを覚えたのか、思い出せないこと、を知る。そして、古典部の面々は様々な可能性を検討して、教師が授業用の教科書に記した各クラスごとの進度の記述を、すでに教えているD組とそうでないA組とをとりちがえた、そうなったのは、アルファベットの大文字を小文字に変換して書いていたため、aとdの縦棒の長さが紛らわしくなっていたからに違いない……というわけなのだが、

「まず、数学の教師だから、大文字を小文字に変換して書くだろう、というのは苦しい気がしますね。ロボットのイメージ映像とつかっているところや、福部の『生徒にも厳しいが、自分にも厳しい』という発言からしても几帳面な性格と推測できるから、大文字で書かれているものを、必然性なく小文字に変換する可能性は低いでしょう。また、そういう性格なら、かりに変換して書く習慣になっていても、見間違いようがないぐらいにきっちりとaとbを書きわけるのではないでしょうか」

「そうだな。さらにいうなら、普段から見わけられないような書きかたをしているとすると、間違いが今回初めてという可能性は低くなる。自分に厳しいという性格で、教師生活二十年、四十台になる御仁が、そういった間違いに対する対処が今更できていないという可能性は限りなくゼロといってもいい」

「四十台?」

「クラスの表示板を見てかつらがずれる、というハプニングについて、よくあることだ、というくだりがあっただろう。頭髪の減退について、徹底的に隠したくなるほど、悩むのは三十台までだ、かといって完全にあきらめがつくほど、年相応の禿げ方でもないから、大きなかつらを使わざるをえない、というと、五十台を越えてはいないだろう、ということだな。まあこれは単なる推測だ。すくなくとも、わざわざつけているかつらが外れて、動揺するほどの若僧ではないわけだ。ともかく、数学教師が自分の書き込みを見間違えたという線はない、ということだ。付箋やしおりの位置が、何らかのはずみで変わっていたり、外れていたり、といったことでもないよ」

「そのあたりは見当もされてすらいなかったですが」

「いや、そういったものは、本の小口や天から見えていないと用をなさない。生徒のまえでつかう教科書にそれがつかわれていたら、生徒はそれにかならずきづく。古典部の面々がその可能性を検討しなかったということは、はじめからその可能性があり得ない、つまり教科書にはそういうものを使用している形跡が全くないと、彼らが『見て』知っていたから、ということになる」

「これでは古典部の高校生たちと同じ袋小路じゃないですか。数学教師は授業進度を勘違いしようがなくなくなってしまいますよ」

「おいおい。高校生と同じ勘違いをしてどうするんだ」

「というと?」

「まずは、古典部の子たちは、数学教師が授業の範囲を間違えた理由を探ったわけだが、この時点で実はもう勘違いをしているんだよ」


       3

数学教師が数学の教師であることは間違いではないでしょうし、探究心をもつことも間違いではないでしょうから、『授業を勘違いした理由を探る』ことが間違いだったということですか」

「もうすこし、範囲を、絞れるだろう。「理由を探る」ことが間違い、だけで十分だ」

 それではなにもやることがないのではないだろうか。

「なにか、言いたそうな顔をしているな。まあ、最後まで、聞きなさい」

 そういって、お茶を軽くすすると

「ある行動の理由を探るには、その行動が存在しなくては意味がないだろう。落語家が高座でエレクトリックギターを弾いた、その理由は、と聞かれたって、実際にそういうことをした落語家がいなければ、問題としては、不完全だ。どういう理由だって考えられるし、どういう答えだって間違いになる」

「でも、この場合は、その数学の教師は確かに存在しますし、勘違いされて予定より早く教えられようとした授業内容も存在しているでしょう」

数学の教師は、確かに存在するだろう。予定より早く教えられようとした授業も確かに存在する。しかし、勘違い、はどうだろうか。古典部での検討をよく思い返してみなさい。教師が授業の進度を勘違いしていた、というのは千反田のお嬢さんの推測でしかないんだ。そしてすでに検討した通り、数学教師は授業の進度を間違える隙はなかった。そのことが意味するのはつまり、数学教師は授業の進度を間違えてなんかいなかった、ということだ。いいかね、彼は、クラス表示をかつらが落ちるほどしっかり頭を上げて目視し、教科書に記した情報ときっちり照らし合わせて進度を確認したうえで、確信的に、まだ教えていない内容だと確実であることをすでに教えたと勘違いしているようなふりをして、授業をおこなったんだ」


       4

「あえて教えていない範囲を教えたふりをしていたのだと考えると、つじつまの合う点がたくさんある」

 反論しようとする私を視線でおさえて、父はつづけた。

「たとえば、最初に、『川崎さん』を指名して、彼が解答できず、二人目『数学の得意な田村さん』にあてて、彼も答えられず、誰も答えられなくなり、激怒した、という展開があっただろう。一見自然な流れのように見えるが、そうではない。おそらく『数学が得意な田村さん』が予習をよくするタイプではなかったということなのだが、これは逆に言うと、かれが予習の必要がないほど、のみこみのはやい生徒だった、ということでもある。そして、彼のそういう特性は、よほど無能な教師でもなければ、とっくに、わかっているはずだろう。このクラスになって数か月、最初の中間考査だって終わっているんだ、どの生徒がどれくらい授業熱心であり、逆にどの生徒がどのくらいやる気がないのかもわかってくるだろう。もちろん、予習復習をちゃんとやってくる生徒と宿題すらろくにやってこない生徒の区別だってつくように、なっている。そのなかで、予習はしていなくとも、のみこみははやい生徒が、前回の授業の内容を覚えてない、という事態は、腹立たしいというよりは、なんらかの事情があると疑うと思うのが自然だ」

「病欠で、前回の授業を受けていなかった、とかですね」

「そうだ。しかしそれを一足飛びに省略して、おそらく怠惰であるとか傲慢であるとかを理由に叱責をした。しかも、『田村さん』は二度指名している」

「生徒に厳しいにしても、確かにしつこすぎる感はありますね。しかし、溺れる者は藁でもつかむ、ではないですが、怒髪天を衝いて、理性が吹っ飛び、冷静な判断ができなくなっていたと、考えることもできませんか。」

「溺れる者は藁でもつかむ、というのは、溺れているような人でも、何かをつかまないと溺れ続けるということだけは判断できる、という教訓だ、と考えることもできるよ。普通に授業をしていて、答えられてしかるべき問いを答えられない人間が次々に出たとしよう。教えたことに確信がある教師がするのは、確実に教えたことを覚えている生徒を探すことだろう。そこであわてたとしても、理性がなくなればなくなるほど、次こそは、と答えられそうな人間を探すはずだ。そうやって、クラスの生徒全員を指名したあとに最初に戻るなら、わからないでもない。一歩ゆずって、最初に答えられなかった相手を集中砲火する可能性というのも、印象の問題からすると起こりえないでもないが、二度指名された『田村さん』は二人目の解答者だ。しかも、この先生は、授業熱心なほうで、当然、生徒が答えられないことに喜びを見出すタイプの教師でもなかったようだから、クラスの生徒から解答をひきだす目的であるのに、既に答えられなかった相手をわざわざえらんで再度指名する理由はどこにもないよ」

「授業熱心な教師が、教えてないことを教えたふりをして授業をし、あまつさえ、激怒すらしてみせる、という理由もどこにもないように思えますが」

「この『事件』の面白いところはそこだ」

 退職刑事はにやりと笑って、またお茶を啜った。


       5

「おまえも気づいていたと思うが、アニメーションの本編ではまったく解決されずに放置された謎がひとつあるな」

「ありますね。千反田さんは何に怒ったのか、ですね」

「それが、大きなヒントなんだ。彼女が感情的に大きく揺れ動くのは、合理不合理の問題の時が多いだろう。」

「叔父さんの件で泣いたり、折木君の謎解きに感動したり、天使とからかわれて怒ったりは、確かに、理不尽さへの怒りや嘆き、あるいは、合理性への賛美ですね」

「そうだ。しかもそれは、彼女の中で必ずしも言語化されて認識されていない、というのが重要だ。おそらくは無意識な判断が感情の揺らぎとしてあらわれてくるんだろう」

「そんな彼女が腹を立てた、というのはつまり、そこに不合理があった、と。でもそれは『勘違いから生まれた理不尽』にむけられたものなのでは、ないですか」

「違うな。折木少年の謎解きを聞いて、彼女は『勘違いは責められない』といっているだろう。彼女にしてみれば、誰にでもあるミスなら理不尽のうちに、はいらないんだ。つまり、あの場にあった『理不尽』は誰にでもあるミスではなかった、ということを、彼女が無意識に判断したのだ、という推測が成り立つ。そこにミスではない理不尽の存在を、彼女は感じ取ったんだ」

「しかし、彼女の直感が正しいとしても、意識的に授業内容を間違えることによるメリットは、やはり教師にあるようには思えませんね」

「メリットなら、いくらでも、あるだろう。プラスであれ、マイナスであれ、ああいう授業をしたことで起きたことがすべて、メリットだ」

「それは屁理屈ですよ。動機として考えられるものはない。マイナスのメリットはデメリットでしかない。それに、かりになんらかの目的があって、間違えた内容の授業を始めたとしましょう。そこで、気の利いた生徒がすぐさま『先生、そこはまだ習っていません』といったら、どうなるんです?」


       6

「異変の理由に気づいた生徒がいくらいても、すぐに言うことは、できないよ。黒板に式を書き、問いかけをする。このあたりまでは、どんなに賢い生徒であっても教師の行動の真意は、つかめない。黙って話を聞いているはずだ」

「でも、そのあとには気づくはずでしょう」

「そこでおそらくはそれほど数学が得意ではない『川崎さん』の出番になる、としたらどうだ」

 なるほど。教師は生徒の能力と態度をすでに把握できている季節なのだ。「川崎さん」がそういう狙い通りの生徒であるなら、問題の授業範囲を予習してあって、教えていないことでも答えてしまうおそれもないし、その解答できないというトラブルが、自分が本当に習ってないことであるのか、あるいは、うっかり教わったことを思い出せていないのか、その区別ができずに当惑することも、数学教師の予想の範疇だった、ということになる。

「そうして、一人目が混乱して沈黙して、二人目も答えられない。それを口実に激怒すれば、クラス全体に解答できないような雰囲気を作り出せる、というわけですか」

「そこまで計算するかはわからないがな。少なくても、最初の一人の反応だけは、予測できていたはずだ。いくら激怒して見せても、二人目の「数学な得意な」生徒が解答できなかったことと、自分たちの前回の授業の記憶から、教師の間違いに気づく生徒は一気に増えるはずだし、千反田のお嬢さんのようにその抑圧から脱して反発する生徒が出てくるのは時間の問題だ」

「うまく間違いを指摘できない生徒の存在を把握できているなら、おなじように、そういう物怖じしない生徒の存在だって把握できているはずですからね」

 しかし、それでも間違える理由づけにはならないが――

「まだわからないか。数学教師の『間違い』を最初から考えてみてごらん。授業範囲を間違い、まだ解法を教えていない問題を板書し、答えられない生徒を当てた。この中で、教師の自由になることはなんだろう」

「授業範囲の間違い自体は勘違いで済まされる範囲はたいして広くないでしょうし、すでに教えた部分では間違う意味がない。自由度は少ないですね。問題は、例題のかたちをとる以上特殊なものにはできない。すると生徒を選ぶことぐらいしかない」

「そうだ。状況を掌握するために、どの生徒を選ぶかは、教師の選択次第だ。あるいは、その最初のひとりふたりが目的であったら、これはもう失敗のしようが、ないだろう」

「つまり『川崎さん』と『田村さん』を当てることに意味があった、ということですか」

「おそらくは『田村さん』だな。二度指名しているところも、彼への執着を感じさせる。『単なる勘違い』を偽装するだけなら、二度目は絶対避けるはずだ」

「でも、長続きさせるつもりはなかったのでしょう? それこそいつ千反田さんが割り込んできてもおかしくなかった」

「いやむしろ、割り込んできてほしかったのはないかな。最初に「川崎さん」を当てて、彼の動揺が『田村さん』に波及し、もとより予習をしていない彼が、自分が解答できない原因を自分のせいではないと推察できない状態に陥れたところで、目的はおおむね果たされたとみるべきだろう。あとは誰かが指摘するまで芝居を続けることにして、単なる勘違いとして、あっさり幕を引く。自分で間違えて自分で気づくという完全な独り芝居を演じきれる、と算段して、実行できるような心の余裕や肝の太さとは、あまり縁があるタイプとは思えない。「また尾道だよ」という生徒たちの感慨は、彼はむしろ短気でその場の感情に流されやすいタイプだったことをしめしている。自分の『勘違いによる』怒りを引っ込めるにも、生徒の意図せざる協力を得るためにも、極端な怒りや理不尽を演じる必要があったはずだ。おそらく、当初の予定では『川崎さん』を叱っているところで誰かが言い出すだろうとふんでいたが、予想外に皆が委縮してしまい、黙ってしまった。仕方ないから、混乱している『川崎さん』を再度指名して、状況の異常性、理不尽性をアピールして見せた」

 内心、最も焦っていたのは数学教師本人だったかもしれない

「その意図的な理不尽さを千反田のお嬢さんがぴたりと嗅ぎつけた、という流れですか」


       7

「しかし、そこまでして問題の生徒を困らせる理由はどこにあったんです?」

「そのヒントは、数学教師が、数学の教師であるところにあるんだろう」

 禅問答のようなことをいいながら、新しく淹れてもらったお茶をうまそうにすすって、

「彼は数学専門家であっても、それ以外のジャンルではそうではないかもしれない。そして、『川崎さんは数学が得意なだけではなく、それ以外のジャンルも得意かもしれない。そんな二人が、一方にとっては短所、他方にとってはそうでもないこと、それも、授業中にはっきりその事実が確認できること、といったら、考えられるのは、数字やローマ字の問題ではなく、漢字やひらがなの問題だろう。刑事をやっていた頃も、大学でトップクラスの成績を収め、第一線で研究をしているような学者や医者が、小学生でもしないような誤字や誤読をしていたのを、嫌というほど見たよ。ほかの生徒が気づかなかった、数学教師の誤りをひとりだけが、気が付いた、あるいは、気づいたことを彼だけが表明した。そしてそれをどこかで揶揄し、おそらく本人が気づかないうちに、そのことが数学教師の耳に入ったんじゃないのかな」

「その報復、というわけですか。生徒に厳しく自分にも厳しい教師にしては、子供っぽいな」

「授業の内容そのものへの批判だったら、違っていたかもしれないぞ。授業の内容そのものへの批判でないからこそ、無防備な急所を突かれた気分で、カーッとなってしまった、ということは、十分ありえるよ。いってみれば、そこはプライベートだった。子供っぽい怒りは、子供っぽい報復を呼ぶ」

「それが、絶対答えられない問題をぶつけて、立ち往生させるといういやがらせになる、と」

「ああ。不得意なことで恥をかくことの辛さが、おまえにわかるか、といったところだろう。でも、このあたりになると、あまりにデータが少ないから、推測の域を出ないし、仮に本人たちに話を聞けたとしても、推測通りの答えが返ってくることは絶対、ないだろう。教師は勘違いで押し通すだろうし、生徒はそもそもなんでそういう目にあったか、はっきりとはわからない」

たしかに、どうやっても真相は永久に藪の中だろう。

「それに、これらの推理だって、なんら確証があるわけじゃない。もしかすると、数学教師と『川崎さん』がどこかの組織の一員で、不可解な状況を作り出すことによって千反田のお嬢さんを立腹させ、必然の流れとして古典部の放課後の活動を長引かせることによって、優れた探偵能力を持つ折木奉太郎少年を一定時間構内に出すことを阻止し、その時間帯に遂行される組織による巨大計画犯罪を邪魔させない、という、遠大な仕掛けの一端であったかもしれないし、たまたま、曲線をもたせず三角形のように書いてしまったDの字を、ついうっかり、片足をのばしそこねたAの字と誤解して、しかもその日は朝食の目刺しを、飼い猫のタマに略奪されておなかがすいており、虫の居所がことさら悪かった、というだけの一幕狂言だったのかもしれないよ。ああ、そういう意味では、折木少年の解答でも問題は別になかったともいえるのかもしれないな」

「しかし、間違っている可能性は高いですよ」

「間違っているか、間違っていないかは、重要じゃないんだ。古典部の謎解きというのは、あくまで、千反田のお嬢さんが気になるといったことに、答のようにみえるものを与えることが目的なんだ。それが嘘でも本当でも、かまわない。彼女が気が済んだ、といってくれれば、それでいいんだ」

「じゃあ、折木くんは僕らが考えたようなことを考察したのちに、より簡単で千反田さんが腹を立てないで済む、悪意不在の解答を考えついた、という解釈も可能ですね」

「いや、それはないだろう。あれが折木少年の考えうる最高の解答だったに違いないよ。あれ以上の解答を彼には思いつけなかったんだ」

 恍惚の刑事はにやりと笑って

「考えてもみろ。おまえにはもう想像がつかないかもしれないが、思春期真っ盛りの少年が、かわいいお嬢さんに、吐息のかかる距離まで接近されて、おまけにきらきらした目で凝視されているんだ。彼がどんな天才的探偵であっても、七つの大罪のひとつ――「色欲」に惑わされずにはいられなかったはずさ。あれぐらい考えられただけでも、上出来、といえるんじゃないかな」

               (20120531-20120602)

お断り

この作品はフィクションです。実在の、都筑道夫安楽椅子探偵の名作シリーズ、京都アニメーション製作の青春は甘いだけではないミステリーアニメシリーズとは関係のないところは一切関係がありません。また、アイザック・アシモフ安楽椅子探偵シリーズの名作がアメリカンコミックスの蝙蝠憑きの闇の探偵シリーズと競演したときのタイトルとも関係のないところは一切関係がありません。

2011-12-13 11:33

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立川はシネマ・ツーにてレイト・ショーを鑑賞。正直な話、前日譚にあたる番外編のパスポートをとる話が、番外編のなかでも、というか『けいおん!』『けいおん!!』すべてのエピソードのなかでも、最低ランクの出来だったので期待度はダダ下がりだったし、おまけに大ヒットしているという話もあり、さらに行く気が失せていたのだが、自由に再生停止ができたり、途中で寝てもまったく問題のないテレビ放送やソフトで見るとはまったく異なる緊張感とともに見る「けいおん!」というのも今後二度と体験できないかもしれないし、最近劇場行ってないし、イベント的な状況は乗り遅れたら追体験不可能だし、レイト・ショー料金なら前売券よりも安いし、大画面で憂を見られるのはそう悪くないかもしれないし、といった感じで、最終的には、まあいろいろ問題はあるだろうが見ても損はないかもという判断になったのであった。

 劇場は日曜の夜八時という時間のせいもあるのか、六、七分の入り。ほとんど男性、年齢的には三十代ぐらいまで、という典型的なアニメファン向けアニメの客層。一般層がほぼいなくても「大ヒット」は可能ということなのか。あるいは昼間はもっと「一般的な」客もいたのかしら。


それはさておき『映画 けいおん!』である。テレビシリーズの第一話を想起させるイントロから、これはフェイクですとクレジットが出ているに等しいフェイクオープニングにこれは猿芝居ですとクレジットが出ているに等しい、メンバー抗争猿芝居、そして本当のオープニングにいたる流れは、好調とも軽快とも言えないけれども、このシリーズらしい「ゆるさ」が炸裂していて、本作の「映画」という角書きのいかめしさをあっさり解消する。テレビ版と同じく、なんのこだわりも感じられないスタッフクレジットの出し方にも、そういう解消効果がある。そして見る人は皆思うだろう。ああ、画面と音声の大きなテレビだ。

そう、これはいい意味でも悪い意味で、画面と音量の大きいテレビアニメにすぎないのだ。以前、同じ京都アニメーション制作の『劇場版・涼宮ハルヒの消失』もテレビアニメを数話分つないだようだと評したが、これも同じことが言えると思う。番外編を四話つなぐと、はい『映画 けいおん!』の出来上がり、といったような。

たとえば、テレビのコマーシャルだとまるでメインのエピソードのように扱われている軽音部のロンドン珍道中、つまりは卒業旅行の話が、時間的にも内容的にも結構適当な扱いだったりするのだが、これはこの映画の本筋が「放課後ティータイムがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」でもなければ、旅先での異文化交流でもないからで、そのようないかにも映画っぽい大きなネタをやるつもりなど、スタッフ的にはハナからないということの表れでもある。「外国」に行っているというのに、言葉の違いぐらいしか文化の壁が存在しないかのような(このメンバーならおやつと食事関係でいくらでも話を作れそうなものだが)、隣町感あふれる英国描写も、三泊五日の旅行が二時間ぐらいの短期滞在にしか見えないとしても、それはいたしかたないのだ。

また、いちおうはバンドマンロンドン訪問なのに、最初に行くのがベーカー街二二一Bだったり(メンバーのだれがシャーロッキアンだったのだろう?)、ヒースロー空港に着いたときに流れるBGMが、スコットランドバグパイプサウンドだったり、続けて流れるのがアイルランドなU2風味だったり(ロック風を流してアピールするならXTCかローリングストーンズにしてほしかった)、アビーロードごっこもやらずに、二泊目の夜というとくに意味もなく半端なところでビートルズ風の曲を流したり、「アールズコート」にだれも反応しなかったり、というはあたりは、いい意味でも悪い意味でも「けいおん!」らしいところで、このアニメのメインスタッフが、映画を作るに際して、今までより洋楽の知識を深めたりをまったくしなかった感じがよく出ていて、むしろ微笑ましいといえる。


とはいえ、これがまったく無内容、構成をろくにしてない作品化というと、そうでもなく、作り手たちにも二時間弱でひとまとまり作品を提示するという意識そのものはあったようで、映画全体を貫くテーマらしきものもないわけでもない。テレビシリーズ最終回(番外編を除く)で、唯たちによって梓のために歌われた「天使にふれたよ!」の制作過程、特に唯の詞作の苦労が物語の縦糸になっている――と、まとめるといかにも映画の主筋としては脆弱だが、実際脆弱なのである。もちろんただ作詞するだけでなく、作詞を通して、唯たち軽音部三年生にとっての梓とはなにかという話に発展してはいくわけだが、最終的に完成する詞自体が感謝の気持ちをうたったごく素朴なものなので、梓の加わった軽音部の二年間を総括できるような内容にもならない。結局は「いかにして天使というキーワードが生まれたか」だけになってしまう。というか、この命題をひねり出すだけでも脚本家はけっこう苦労したのではないかと思う。

命題そのものに発展性がないだけでなく、命題設定そのものにも発展性がない、という問題もあって、作詞をしているのは唯だけ、そして当然のことながら梓には秘密(プレゼントだからね)という構図なので、どうしたって唯の独り相撲で終わってしまうという構造的な欠陥もある。実際、本編でも、唯が呻吟するのを訝しむ梓、という状況が反復されるばかりで、そこからはコント的な勘違い(というか妄想)以外は何も生まれないうえ、さらには唯と梓以外の軽音部メンバーが完全に蚊帳の外になってしまう。梓の友達にして唯の妹でもある憂のほうがむしろドラマ的に関わっているぐらいである。だから終わってみると、唯と梓(と憂)ばかりが記憶に残るつくりになっている。いくら「けいおん!」的適当さといっても、軽音部が五人である以上、五人均等にエピソードがあるようなバランス感覚はあってもいいかなと思うし、そういう構成ができるような題材選びをするべきだったのではないだろうか。


構成といえば、ロンドン旅行でのライブシーンは、その前段階といえる楽器の持ち込みの動機自体が随分と苦しいのはまあいいとしても、肝心のライブが、親日的な回転寿司屋であったり、日本がテーマのフェスティヴァルであったり、最初から唯たちにやさしいことが見えている場所なのはつまらない。もともと大きな事件の起こりようのない「けいおん!」世界において、見知らぬ土地で、見知らぬ人の前でライブするドキドキ感ぐらい、「映画らしい」スケールと緊張を生かせるポイントはないような気がするのだが。

 もっとも、考えようによってはそれこそ「けいおん!」らしさであるかもしれない。テレビシリーズの時にも書いたとおり、「けいおん!」に描かれる「現実らしさ」とか「日常性」というのは画面のこちら側の現実感に奉仕するのではなく、あくまで画面の向こう側の世界の(ひいては軽音部の五人の)居心地の良さに奉仕しているのだから、ご都合主義でないほうがむしろおかしいのだ。

そんなご都合主義以上に、回転寿司屋でのエピソードは全体にシュールすぎてちょっとどうしようかと思う。そもそも演奏を頼んだ相手には何らかの謝礼を用意していそうなものだが、唯たちのセリフからするとラブクライシスのメンバーが来るまでは誤解がとけてない、ということは、実はラブクライシスにすら初めから謝礼をする気がなかったのだろうか。笑顔なヤクザ

 ポップジャパンフェスティヴァル(だっけ?)のほうは、演奏開始シーンすらもなくさらっと進行すること以上に、四時に開演、四時二十分に終演、五時に飛行機が離陸という恐ろしいスケジュールのほうが気になった。撤収と移動が四十分で済むのだろうか。超都合の良い助っ人の登場自体は、まあお約束なので良しとする。

 また、撤収と移動は気になるにせよ、そこからのタクシーでの場面はなかなかいい。日本という日常へ戻ろうとする途上で雪というある意味非日常のものが舞い降りてくる。それは天使ともイメージが重ねられるし、その一番美しい瞬間に、梓が眠っていて、残りの四人がそれをやさしく見守っているというのも象徴的だ。『映画 けいおん!』において、最も映画的な情景に近づいた瞬間といえる。見ていても、ここがクライマックスなのかな、と思ったぐらいだ。

 

本作の一番の疑問点はおそらくはロンドン旅行以後の展開で、一応初登場の登校日ライブがあるにせよ、とってつけたような印象は免れえないし、ロンドンでのライブシーンの印象を減ずる効果しか果たしていない。ドラマ的には、ここではようするにテレビシリーズ終盤をより大雑把になぞっただけで終わってしまう。映画版のメインテーマでもあり、テレビシリーズではそれなりに感動的でもあった歌の披露も、テレビの大雑把なダイジェストにすぎないので、なんの盛り上がりもないし、さすがに作画と演出は変えているにしても、やってることはただの繰り返しである。はっきり言ってかなりだれる。どうせ、テレビを見てない人はほぼいないのだし、いたとしても、それこそこんな雑なダイジェストではなく、テレビシリーズで完全な形を見てもらえばよいのだ。そこからの、ものすごく適当な締めも、らしいといえばらしいが、二時間弱の映画が一時間ぐらいのテレビスペシャルに思えてしまうような邪悪な効果もあって、あまり意味があるとは思えない。


なんでこういう中途半端なことになってしまったかというと、すでに書いたように、唯から見た梓の詩を作る、というメインのコンセプトに無理があったせいだろう。舞台をロンドンに限定すればまだ消化不良感は少なかったかもしれないが、異文化交流とかそういうものと一番縁のなさそうな(違いが分からなそうな)唯がドラマの中心にいる以上、異邦の滞在だけで話がふくらませる自信がなかったのかもしれない。

 逆に言えば、ドラマの中心にいるのが唯でなければ、そして、ロンドン編と日本編を特盛にしなければ、もっとなんとかなったかもしれない、ということでもある。具体的には、梓視点にすれば、ロンドン編をメインにすれば、きっとたぶんもっとなんとかなったのだ。

実際、このロンドン行のメインコンダクターは梓なわけである。名所をチェックして、スケジュールを管理し、予約の手配もする。唯たちにとっての卒業旅行は、梓にとっても軽音部の三年生たちとの二年間の総括でもあったはずなのだ。それはさらに、映画版が、テレビ版とは違う観点で「けいおん!」という物語と作品世界をとらえなおす、最大にして最高の機会でもあったはずだった、ということでもある。

 このラインで話を構成すれば、先ほどから何度も言っている天使の歌の制作というコンセプトのドラマ的な広がりの難しさも解決できる。「唯から梓」だとそこから広がりはないが、「梓から唯たち」だと、単純にいってもドラマの焦点は四倍になるのだから。ロンドンの名所を巡りつつ、何かを隠している三年生を訝しむ梓という構図は、四人と梓のかかわりの回想にもなるし、新しい関係性への布石にもなるし、話をふくらませ放題だろう。そしてなによりそれは「けいおん!」の総括という「映画らしい」コンセプトともぴったり一致するのだ。

そしてクライマックスに位置するのがあの雪の降る情景、ということになる。

あとは、屋上のシーンにさくっと話を飛ばして、詞の完成と、曲のさわりをうたわせて、彼女らが屋上から部室に向かい「天使にふれたよ!」を歌いにいく、そして画面からも退場していく、『太陽がいっぱい』式の結末でよいではないか。


くどいようだが、そういう水際立った完成度や、隙のない構築性をみせないのがあるいは「けいおん!」らしさであるのかもしれないし、今回のようなどこまでも、中途半端なものがコアなファンの求めるものであったのかもしれないから、このつくりが悪いとは一概にいうことはできない。でも、やっぱり(これは『劇場版・涼宮ハルヒの消失』でも言ったことだが)、映画を映画として劇場にかけるなら、やはり映画らしいものを劇場でみたいわけである。テレビとまったく同じクオリティ(良くも悪くも)を「それがファンの求めているものだから」とやってしまうのは、あまりに機会と環境と資金を無駄にしすぎてはいないか。テレビと同じものをやりたいのなら、OVAをずるずるたくさん出すとか、テレビ第三期をやればいいのだ。単なる集金イベントのようになってしまっては、「けいおん!」というコンテンツ自体の寿命をかえって縮めかねない。

 もっとも、この映画が、水際立った完成度や、隙のない構築性をみせて、「けいおん!」という作品の完璧な総括になってしまったら、それこそそこで終わってしまう可能性もある(「ルパン三世」における『カリオストロの城』のように)ので、やっぱりこのゆるさでいいのかな? うーむ。


最後に。ティーカップを亀のトンちゃんの水槽に沈めるのはやめよう。これからもそのカップを使うつもりならとくに。

2011-04-22 22:45

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地震その他大災害による中断より一ヶ月、最終三話一挙放送である。寝不足になった人も多いのではないだろうか。個人的には三時四時に寝るのはよくあることとはいえ、眠いときには二時だろうが一時だろうが寝てしまう性質なうえ、退屈なアニメだったら椅子に座ったまま寝入りかねない(実際、先週は『緋弾のアリア』の次回予告あたりから『電波女と青春男』のAパートの記憶がない。おまけにアニメ銀座どころかアニメ九龍城砦とでもいいたくなるような未曾有のアニメ混雑時間帯なので録画もしておらず、BS放送まで何を見なかったのか確認ができない)。そこに、三時スタート四時半終了、のこれである。もちろん録画予約はしてあるので寝オチしたっていいのだが、せっかくだからリアルタイムで見たい。よくわからない意地である。

そういうわけで、いざ当夜、『アリア』と『電波女』を今回は眠らずに見て、『そふてにっ』は明日以降に回すことに決め、お茶なんぞを淹れて支度をした後、再度テレビの前に座って待っていると猫が早速やってきてひざに乗るや、ごろごろうなりながらいつしか眠ってしまうのを感じながら、時間になったらスイッチをいれ、画面からは一ヶ月ぶりの『まどか』が流れ始めたのでありました。

四時半になって番組が終わり、しかし全然眠くなってはいなかった。


さて、テレビを消してパソコンに向かい(膝上で寝ていた猫は起こされて若干不満げ)、とりあえずメモ代わりに、ツイッターのサイトを開いてこう書いた。

まどかマギカ』 みためキレイ 音楽ステキ はなしフツウ せっていビミョウ てんかいゴーイン てーまキホン まとめアリガチ つまり よくあるモノガタリ (http://twitter.com/#!/sinkuutei

最終三話について、というのではなく、総論的な書き方で、いくら深夜のボケボケの頭であったとしても、もうちょっと気の利いたことを書けよと思わないでもないが、その程度の知恵しかないのだから仕方ない。とりあえずはこの短文を解説するかたちで『魔法少女まどか☆マギカ』という作品について語ることにしたい。


まず「みためキレイ」「音楽ステキ」であるが、これはわかりやすい。シャフトの総力を使ったのではないかと思われるようなクオリティの作画、まばたきをしないきゅうべえや薄暗かったり空虚に広かったりするまどかの家や、不安感を煽る「太い柱のない」学校の校舎のデザインに代表されるような単なるおしゃれ趣味ではない美術設計(作中で数少ない和める場面の舞台となるハンバーガー店にはちゃんと太い柱がある)、トリッキーな構図やカット挿入をしても、常に明快さを失わない演出、とくに、蒼樹うめの原案を活かしながら痛みを伴うアクション描写に不可欠な肉感的な身体描写を兼ね備えた岸田隆弘のキャラクターデザインは出色で、人物のパーツでもっとも蒼樹うめ的な顔のデザインを、その輪郭線を二重にとることで比較的リアルな身体との整合感を失わないように按配するあたりは匠の技といえるし、絶望先生でも腕を振るっていた劇団イヌカレーの異空間描写も素敵だ。梶原由記による音楽も、是永功一による圧迫感のあるギターリフを従えた重厚なテーマ曲が特に素晴らしく(だがしかし相変わらずシングルのジャケットセンスは悪い。本編には関係ないことだけど)、物語の悲劇的なトーンを強烈にサポートする。まだ半年以上残っているが今年一年で本作を超えるクオリティアニメはなかなかみられないのではなかろうか。

ただし、これはあくまで「映像」と「音楽」の評価であって、作品全体の評価ではない。音楽と映像が素晴らしければ傑作になるなら、この世の傑作はもっと数が増えている。『もののけ姫』や『イノセンス』の話をこれからするつもりはもちろんない。


では『まどか☆マギカ』の物語について、みていこう。物語ははたしてビジュアルに見合う内容だったか? 端的にいってしまうと、それはずいぶんと見劣りのするものだった。物語が終わって思ったのは物語が終わったということだけで、感動はまるでなかった。キュゥべえ(打ちづらい名前だな)の、いや、脚本家虚淵玄の誤算はいったいどこにあったのか。

本作の物語は、実は――というか、かなり露骨に――王道である。次から次へとメインキャラが死んだり、残酷な展開が目白押しだったりと横紙破り風の意匠が目立つけども、本質的には「最強の魔法少女となることを運命づけられた主人公が、葛藤や悲劇をのりこえて最強の魔法少女となるまで」という普通に土日の朝に小学生向けにやっているお話のフォーマットだし、結末における「主人公の受難による世界の復活と再生」も英雄譚の基本的な展開のひとつであって、神話の代から最近のアニメに至るまで類型を探すのはとても簡単だ(三大宗教のひとつにもこれのとても有名なバリエーションがある。ゴルゴタの丘とかが出てくるやつである)。

そういう、王道にして、単純ともいえるプロットラインにエントロピーの凌駕やらなにやらの擬似SF的な設定――といっても、これも王道のバリエーション(宇宙規模の管理システムと人類との齟齬というテーマは古典SFから近年ではアレステア・レナルズの〈レヴェレーション・スペース〉シリーズなどまで、多々あるし、アニメでもたとえば『グレンラガン』の敵がまさにこのタイプの設定だった)で、正直、新味は乏しいし、インキュベーターの「異質」さについてはSFファンならグレゴリイ・ベンフォードの有名なシリーズでの格言「異質なものについて重要なことは、それが異質であるということだ」を思い出すかもしれない。第十話で明らかにされるタイプリープによる世界改変の試みと、その最終的な解決策についても、萩尾望都の名作『銀の三角』を連想する向きもすくなくないだろう(*1)。

こういったことから判るのは、本作はテーマや展開のみならず、設定的にも、独創性よりも王道の集積が重視されているということだ(唯一、本作の、つまり虚淵玄のオリジナルといえそうな時間移動で平行世界の因果の糸が云々の、言葉遊びにもならない寝言に関しては、カウントしないほうが作家の名誉を守ることになりそうである)。

さて、王道であるものについて重要なことは、それが王道であるということだ、とは誰もいっていないとおもうが、王道の物語に関しては、ほぼ間違いのない真理がある。それは、王道は王道らしく、躊躇わず、余所見せず、堂々といくと成功する、ということ(変に躊躇ったり余所見をしたりするとたとえばそれは『フラクタル』というアニメになる)。

まどか☆マギカ』はどうだっただろうか。

というところで唐突に思い出すのが、『ジュエルペットてぃんくる』である。世が世なら、『まどか』とほぼ同時に終わっていたと思われる、完全無欠の魔法少女アニメの傑作である。未見の方は全五十二話をぜひ最初から順番に見てほしいものだが、終盤一二ヶ月のエピソード群の出来の良さはもう舌を巻くほかのないレベルで、とくに主人公・あかりが親友と戦い(あくまで競技の枠内ではあるが)ながら「ずっと一緒にこうしていたいね」というあたりは、物語における人物描写の積み重ねがどれだけ重要かを強烈な感動とともに伝えてくる。最終回の歌のあたりではじーんとなりすぎて、もうなにもいう気にならない。

この『ジュエルペットてぃんくる』、作品のトーンはかけ離れているものの、最終的な障害が具体的な悪役ではなく、人の負の感情の集積であったり、結末は「魔法少女の最後の魔法による世界の救済」であったり、魔法の国との別れというかたちで「魔法少女の死」が描かれたり、そしてなにより最高の魔法の源は信じる心とユメとキボーであるという主題がまったく同じわけである。これらは偶然でもないし、意図的にどちらかが似せたというのものでもなく、単純にどちらも王道の魔法少女ものである以上、同じ要素をそなえている、というだけのはなしで、そこにはべつに問題視するようなことはない。とはいえ、『ジュエルペットてぃんくる』が与えられた感動を、類似のテーマの『魔法少女まどか☆マギカ』ではまるで与えられていないというところはやはり看過できないだろう。


それは作品の時間の問題であるかもしれない。全十二話では一年番組の蓄積には到底勝てないからだ。しかしそもそも全十二話で描ききれる分量の物語とキャラクターであったのかどうか? 主人公を含む五人の魔法少女、その家族、クラスメイト、これはどう考えたって多すぎる。五十二話とはいわないまでも最低でも倍の二十四話は必要だったのではないか。エピソードにしてもたとえばさやかの魔法少女から魔女への変遷にいたる展開などは、その展開そのもののベタさ加減(繰り返すようだが、ベタつまり王道であること自体は悪いことではない)以上に、拙速としかいいようがない流れで説得力もなければ共感性もなかった。進行係のキューサインばかりちらつくのである。

ほむらの正体を終盤近くまで伏せる構成も、それは確かに先の展開が見透かせないという緊張感を生み、映像の力とあいまって作品そのものに強力な求心力を持たせたが、いざ正体が割れてみると、求心力と引き換えるだけの面白さがあったかというと難しい。先に述べたように、それはSFなどでは珍しくないオチなのだ。

なにより問題なのは、主人公の描写である。『ジュエルペット』のあかりはことあるごとにその精神的な強さを示すイベントが描かれ、みなが彼女に心酔していく展開が説得力をもっていたが(これはいうまでもなく少女漫画などでは基本的な構成である)、まどかはどうだろう。どうも、優柔不断にうろたえている場面ばかり印象的で、クライマックスにおいて彼女が発露する「世界の母」的な資質の片鱗はどこにもみあたらない。

終盤で重要な鍵となるほむらとの関係性の描写も薄い。特に第十話(正式なサブタイトルは「わたくし、眼鏡をかけて髪をおさげを結った明美ほむらは、いかにして悩むことを止めて、眼鏡をはずし髪をおさげに結うことをやめた明美ほむらになったか」)は、ほむら視点であるとはいえ、ほむらまどかに心酔する理由をもっともアピールできる機会であったはずで、広域指定暴力団的な人たちのところから銃器をガメたり、爆弾を製造する場面を描写するひまがあったら、ほむらまどかの描写をもっと増やして、クライマックスに必要な「感情の蓄積」をおこなっておく必要があったのではないだろうか。蓄積された感情の噴出は、最終決戦のただなかにあっては、それはどんな爆発描写よりも鮮烈に視聴者の心を打ったはずである。英雄が英雄なのは、かれがただ強いからではない。かれの強さは人に支持される強さだからだ。英国王が英国王になれたのは、ただスピーチをしたからではない。人々の心に届くスピーチをしたからだ。いくらほむらが対使徒用最大火力でワルプルギスの夜を迎撃しても、そこには心に届くものがない以上、ただの火力の(そして作画力の)無駄づかいだし、なにより設定以前の段階で、勝てるわけないのだ。さらに、無駄づかいをして死にかけてるほむらを、まどかが助けにはいっても、そこにはいかなる感動もなく、空しいお約束の展開を確認する作業しか視聴者には許されないのである。はなしフツウ。せっていビミョウ。てんかいゴーイン。てーまキホン。まとめアリガチ。となるわけだ。

こうやってみていくと、最前、誤算の主はキュゥべえではなく虚淵と書いたのは、正確ではなかったのかもしれないと思えてくる。感情を理解できないのはもしかするとキュゥべえだけではなかったのではないのか、と。

(というか、キュゥべえに関していえば、人に神経に触るような表現を狙って使ってる節があるし、契約の前には相手が不審を抱くようなデータをできるだけ洩らさないとか、感情をよほど理解しているとしか思えない描写もある……)

文句ばかり書いているようだが、決してつまらない作品ではない。見てくれも悪くなく、退屈もせず、しかし傑作というには何かいろいろ足りない。そういう「よくあるモノガタリ」であるだけのはなしである。そして「よくあるモノガタリ」の中では、よくできたほうではあることもまた、間違いはないだろう。

ところで、終盤のインナースペース的描写におけるまどかほむらの体を覆っていた黒いキラキラしたものは、BD/DVDではどうなるんだろう。さっぱりわからないよ。






(*1)未読の人はぜひぜひ読んでいただきたい。実に三十年近く前の作品(千九百八十年から八十二年までの連載)だが、今でもまったく古びていない。

(*2)ちなみに、本作が王道どころか完全に異端の道を爆走して傑作となるルートもあった。千九百八十年代のアメリカンコミックでヒーロー物について試みられたように、「魔法少女もの」を徹底的にシビアかつリアルに再構築し、魔法少女の現実を容赦なく提示するのである。この場合、かなり高い確立でバッドエンドや魔法少女否定になり、本作のような、最終的には魔法少女賛歌となるような展開は難しい。『フェイト/ゼロ』のあとがきを読むかぎり(本編は未読)、虚淵氏にはそういうほうが作風としては合ってるのではないかという気もしないでもない。ただし、この路線で成功するには相当の技量とセンスが要求される。

2010-12-15 07:51

NOといえる都民

為政者のさじ加減でいくらでも規制が出来る条例案にNOといえる都民

以前より適用範囲が拡大、曖昧化しているのに

「以前より範囲が限定された」と虚報を流すマスコミにNOといえる都民

これは表現規制の問題ではなく単なる区分配列の問題だとうそぶく副都知事にNOといえる都民

同性愛者などのマイノリティを公然と愚弄して恥じない都知事にNOといえる都民

反対した前回とほぼ同じ内容であるのに賛成しようとする民主党にNOといえる都民

単なる区分指導でなく

単なる表現規制でなく

緩慢な弾圧であり

文化の扼殺である

おろかな思想にNOといえる都民

・・・・・・・・

ぐーたらモードから復帰しようとして最初に書くのが、こういう文面であるというのはいささか考えてしまうのだけど、しかしこれはやはり大切なことである。(ほんとうはエンジェルビーツけいおんのまとめや、薄桜鬼の第二期、いいじゃなイカとか、俺の妹がどうしたこうしたとか、神のみが知ってるどうしたこうしたについても書きたいのだ)

この条例案に賛成しようとする人たちは、これが一体どういう意味を持っているのか本当に考えているのか。子供達のため、という美名の元に何を許そうとしているのかわかってるのか。

目先の利益や政治的判断(民主党に関しては政治的にもこれが得策なのか、とは思うが)やらで、

文化的絞首台の作動スイッチを押すのに加担していいのか

そんなに将来に禍根を残したいのか。

恐怖政治は大義名分を掲げてやってくる。

治安を維持しようとか、退廃芸術を撤去しようとか、文化の大革命だ、とか。

あとには悲劇しか待っていない。

そういうことをわかったうえで賛成票を入れたいというのなら、入れるがいい。

そういうことをした政治家であると、みなに知らせたいというのなら。

本日投票のようである。本当に考えていただきたい。

それでいいのか?


“また、だらりと吊り下げられる新しい首

 ゆっくりと連れ去られていく子供たち

 暴力は沈黙をはぐくみ

 誤認されつづけるわたしたち

 わたしでなく、わたしの家族でなく

 あなたの頭の中に、生ける屍“

  ――クランベリーズゾンビ

2010-06-23 05:40:40

[]第十二話「夏フェス!」

冒頭で夏期講習だとか受験生とかいろいろ視聴者からのつっこみがありそうな部分を前面に出したうえで「ちょっとした息抜き」と唯たちに言わせて押し切るという力技が印象的な第十二話。二年生のときにやっておけばもっと簡単に進められた話じゃないかという気もするが、以前も書いたとおり、これはどうにもならないことなのだろう。

どうにもならないこと、といえば、日ごろとくにバンドのライブに行ってる様子も、音楽を熱心に聴いてる描写もなく、あまつさえロックの話すらほとんどしていないひとたちがフジロックフェスティバルがモデルとおぼしき「夏フェス」に行って楽しめるのか、という根本的な疑問が、ロックファン視点とか、揚げ足取り目的とか、そういう偏った視座に立たなくても、夏の終わりの雲のようにもくもくと沸いてでてきてしまうのは、これまたどうにもならないことである。

こういう違和感が生じるのは誰にでもわかることなのだから、、期末試験のはなしをやる余裕があるのだから、けいおんメンバー(まあ主に澪と梓だろうか)の音楽ファンとしての側面を描いたエピソードをこまめに織り込んでおくなり、一話丸々使ってやるなりしておけばいいのである。このシリーズの特徴に「細部の適当さ」だけでなく「段取りの悪さ」まで加わえてしまっていったいなにがしたいのであろうか。

まえふりさえきちんとしておけば、「音楽まみれの二日間」に浮き足だつ澪の心理にもおおきな説得力が生まれたはずで、それを呼び水にほかの四人もまたバンドマンであると同時に音楽ファンでもある、視聴者に納得させるのも現状よりはるかに容易だったろうから、終盤の五人で寝転がって語らう場面のいささか唐突なように思える唯の台詞も、好きな音楽をあびるように聴いた高揚した気分のなかで、それはつかのまかもしれないし、根拠だってあるかは怪しいけれど、幸せな全能感と可能性に満ちた未来への期待――といういわば「僕らの夏の夢」から生まれた言葉だと、見る者も素直にうけとめることができ、「楡の木の上、君は笑う」と歌いたくなるような、かなり印象的な情景になったのではなかろうかとおもわれるだけど、残念ながら、実際に視聴者が目にしたものはといえば、極端でめちゃくちゃな自画自賛にしかみえないという、悪い意味での印象的でしかない場面にすらなっていたように思う。

 いや、それは音楽フェスティバルに来ているのに音楽以外のことに夢中だったりする一連のコントが描くためには仕方ないことじゃないか、とおっしゃる向きもあるだろう。紬の焼きそばへの偏愛(この人のわたし富裕層なので庶民のことは知りませんアピールはさすがにもうしつこいと思う)とか、唯が水遊び用にサンダル持ってきているとか、澪がベーシストのベースプレイよりレフティであることに共感しているとかそういうのがメインなのだから、と。

 あるいは原作ではそういうのがメインなのかもしれない。原作ではこの話がどういう扱いになっているのか知らないし、そもそもどれくらいがアニメオリジナルなのかすら知らないのだが、結論から言ってしまうと、そういう方向でやれるような作品ではもうなくなっていると思う。

 たしかにさわ子先生と唯の「あたしロックだから」「なにそれわからない」のやり取りなんかは面白かったから、ああいうのをもれなく削ってしまったらさびしくなると思うけど、それをメインにするなら終盤にああいうエピソードをやるべきではなかった。爆音の演奏のなか音楽以外のことに気をとられる人が「自分たちも同じレベルかそれ以上の演奏ができる」と思ってしまうなら、それは単に人の音を聞かない無礼者か、人の音を聞けない愚か者でしかないだろう。そういう人がなにを語ったところでそこにはどんな種類の説得力も生まれない。あのシーンの不自然さの理由はそこにあるのだ。唯が普段はいい加減でおっちょこちょいであっても、音楽に関しては俄然夢中になる(弾くことだけでなく聴くことも)と描写できていれば、事情は全然違ったはずなのである。

結果、テーマと内容のわりに、「僕らの夏の夢」とはどうにも言いにくい場面になった。

これを、サマーウォーズ現象という。いま、命名しました。

フジロックもといナツロックの描写については、実地には行ったことがなく、テレビのドキュメントといったことのある人の話で聞いただけなので、あの描写がどれぐらい正確なのかはわからないが、すくなくともいろいろと綺麗過ぎるような気はする。もっと足とかドロドロになりそうなイメージであるし、雨が降ると意外なぐらい寒かったりもするようだ。ただ、このあたりは過剰な美化とそしるよりは、たとえばコミケを描写した漫画やアニメが実態よりだいぶ綺麗目になっていることが多いように、フィクションとして描く際のブラッシュアップと見たほうがいいのかもしれないし、そもそもが「大変ことは最大限に避けて通る」アニメの描写なのだから(とはいえ、あの用意周到そうな梓が「会場は広いらしいですね」みたいな半端な知識しかなさそうだったりという、得意技ともいえる詰めの甘さは気にならないでもないのだが……)。

あと、野外ライブはあまり行かないので確かなことはいえないのだがライブハウスの音より野外のほうが音がびっくりするほど大きい、ということはあるのだろうか。あるいは、唯たちが行ったことのあるライブハウスは特別音が大きくなかったということなのか。まあこれもまたいつもの詰めの甘さのなせる業なのかもしれない。

次は憂チームがメインか? 「未来」とか「バンド」とか面倒な要素がないぶん、あちらのほうがシリーズ本来の持ち味を獲得できているような気もしないでもない今日この頃である。

2010-06-19 17:36:36

[]第十二話「Knockin' on Heaven's Door」

〜天使をめぐる冒険〜

私がはじめて『Angel Beats!』を見たとき、このアニメKEYのゲームのテンプレートと既視感あふれる情景のなかで酔いつぶれていた。年季の入ったアニメファンもそうでないねんねのファンも、ヒロインを見たらSOS団の団長の親戚と思うことをやめることはできなかった。テレビの番組リストに載っている作品タイトルには新番組マークがつけられていたが、それは誤植であるようにしか見えなかった。有名クリエーターが脚本を手がけ、作品を周知させるために多額の広告料が使われているというだけで、ほかにとくに変ったところはないあたりまえの深夜アニメだった。革新性や独創性がそれほど重視されない世界で、革新性や独創性をまるで重視しなかっただけのことだった。

このアニメはどこかに私の心をとらえるものを持っていた。それがなんであるかはわからなかった。わかっているのはこのアニメがしょっぱなから支離滅裂を極めていたということだった。それでいいのかもしれなかった。

十二回目にこのアニメを見たとき、二千十年は半ばを過ぎようとしていた。既に七月からスタートするアニメの宣伝が各所で始まっていた。前期のアニメを早く片付けないとHDDが混雑すると叫びつづけていた。どうせ混雑するのだ。毎度のことなのだ。

テレビの中では、バンドメンバーがほとんど出番がなかったことを悔いもしないで勝手に成仏していた。ほかのほとんど出番のなかった、SSS団の団員も一緒だった。番組もそろそろ終わるのだ。いちいち成仏イベントをやるひまなどなかった。この時点では正解ということになっていたはずの「満足したら成仏」という法則がろくに守れてないことなど誰も気にすることはなかった。

一方地下へもぐったヒロインは「ギルド」のリーダーと語らっていた。体育館での音無の演説は、ギルドの地下深くまで響いていたらしい。盗聴装置でも仕掛けてでもいなければ無理な話だが、ここでは人間の世界の法則は関係ないのだった。リーダーによれば、ほかのメンバーはみな上層を目指したようだがゆりっぺが独りもすれ違いもしなかったところをみると、すべて成仏したか影にとりこまれたかしたらしかった。誰もそれを気にとめはしなかった。リーダーもなにに満足したのかわからないが成仏していった。もう誰もその成仏の条件がわからなかった。

影に取り込まそうになったゆりは「幸せな人生、青春を謳歌する学園生活」の幻想を見る。しかしそれでは駄目なのだとゆりはいう。ゆり自身が生きてきた時間を改変して生きるのは本当の自分の人生ではない、悲惨で理不尽な運命も受け入れて生きるべきなのだと。ならば神に復讐する必要などないではないかと思ったりもするけれど、それとこれとはきっと別のことなのだろう。ジョン・コルトレーンレコードと今朝食べたセロリのサラダにあまり関係性が見つけられないのとおなじように。

そしてついに「エンジニア」とヒロインが対峙する。最後のシ者のような声でしゃべる「エンジニア」は中有の世界の秘密を語ってくれる。土くれからパソコンが作れる世界で、一人でパソコン室から大きくて重いパソコンを一台一台ぬすんで基地に運びこみ秘密基地を作った彼によれば、彼もまたプログラムであり、本当のことはわからないのだという。つまり、これもまた仮説に過ぎないのだ。

本来来るべきではないものが記憶をなくすとこの世界にくることができるようになるらしい。「記憶がない」と「満たされない青春を送った」にはそれこそコルトレーンセロリ並の関係性しかないが、しかしこの世界のシステムはその二つを誤認して同じように受け入れるのだという。そういうバグなのだと彼が言うのだからそういうバグなのだ。

そのバグにより更なるバグがおきるのだという。「愛」が生まれてしまうのだ。来るべきではないものが来ることと、愛が生まれることにはこれまたコルトレーンセロリの関係性しかないが、彼がそうなるというのだから彼の仮説の上ではそうなのだ。ゆいと日向の関係などはきっと愛ではなく、SSS団もバグとは関係なく発足している以上、愛とは関係ないのだ。

そして愛とは関係のないものであってもバグ除去装置である「影」はSSS団を襲うのだった。

「もう、なにがただしいのかわからない」ゆりは言った。

「ああ、なにがただしいのかわからない」相手は言った。

「神になれる」と彼は誘った。

ゆりは「第二コンピュータ室」を破壊しつくした。

あとには天井に頭から突っ込む時のテーマ曲だけが残った。

ゆりはまた幻を見る。妹たちが口々に「おめでとう」「おめでとう」といってくれるのだ。

さようなら。ありがとう。

そしてまた目を覚ます。

この気持ちをなんと呼ぼう。

この、テレビでエヴァンゲリオンの最終回を見たときに似た、置いてけぼり感を。

〜次回〜

「この支配からの卒業」


とりあえず物語の設定の底らしきものは見えた十二話。が、その底がどうも本当の底でなさそうにみえるあたりがこのアニメのすごいところである。嫌味でなく。カヲル君も認めているように、あの世界がなぜできたか、どういうロジックでつくられているのか、といった点はあくまでキャラクターの推測でしかないのだし、「人間」に対してパソコンで改変を加えられたりすることについてなどは「開発者にしかわからないが開発者はもういないのでわからない」「そういうことを出来るようにした人がいた」という説明以前の説明しかなされていない。

これはもう説明する気も、説明させる気もなく、設定はある種の観念を表現するための舞台設定に過ぎない。カヲル君の言葉を使えば「卒業していくべき場所」に囚われてしまった人々の物語というような寓話と見るべきなのかもしれない。

だがしかし、ことはそんなに簡単ではない。

だって、カヲル君の説も単なる仮説に過ぎないからだ。あらすじのところでも触れたように、天使が言っていた成仏へいたるプロセスもその通りに進行した例はほとんどないことからもわかるようにあの世界が「卒業していくべき場所」であるという保証などないのだ。

すべてが音無たちの勘違いだとしたら? 視聴者の脳裏からそういう疑問を拭い去らないかぎり、この作品は寓話性すら持ちえないのである。

これが、疑い深すぎるという人はむしろ信じ易すぎると思う。これまでどれだけ「実は勘違いでした」があったか、思い返してほしい。

もちろんすべては最終回次第、という言い方もできるが……。


ところであらすじを書くために久しぶりに『羊をめぐる冒険』を本棚から取り出してパラパラ見ていたら、いい台詞を見つけた。


“ボールを持ったからにはゴールまで走るしかないのさ。たとえゴールがなかったとしてもね”


果たしてこのアニメにゴールはあるだろうか。

[]最終話「おしまいは完璧?」まで

うーむ。結局タイトルの意味は本当に序盤のネタだけだったのだな。まあもともと第一巻の内容に特化したタイトルだったのだろうし、それはべつに悪いことでもないが、終わってみるとやっぱり第一巻の内容(であろう)ところまでしか面白くなかった、というのはあまり悪くないとはいいにくいぐらいの出来でしかないのでした。

 いろいろ引っかかることはあるのだけど、何より困ったのは、学園ものプラス魔法ものと見せかけて『都市と星』とか『地球ヘ』とか『マトリックス』とかと同じ「完璧な管理社会と異分子の話」、ようするにSFだったというツイストを利かせる手際の悪さである。まず最初の「見せかけ」の部分の世界設定がうまく説明されずにはなしが進むのが問題で、ここをきっちり説明しておかないと、ひっくり返したときになにがひっくり返ったのかよくわからないわけである。とくにわかりやすく、わかりにくいのは(わかりにくい文章ですみません)、中盤以降の最重要要素であるこの世界における「神」という概念の位置づけというやつで、最初のほうで「私はなんとか神に使える〜」とか言ってはいてもそれが今日的な意味での「教徒」なのか、ギリシャ神話の世界のような教徒なのかが、明確に説明されないままだから、実際に「神の指令で暗殺をおこなう教団関係者」なるものが出てきたときにこれは悪いのは「神」なのか「神の指令を代行していると称する教団」が悪いのかの判断がつかない。これが判断つかないと、その後の主人公の「神に反旗を翻す」の対象が何なのかもわからないわけだ。譬えとしていってるのか、具体的な存在をやっつけるつもりなのか、わからない、ということである。そうしてどうにもはっきりしないまま、『神なんてものはいない、それはただのシステムだ』とか力説されても視聴者は『そうか神はいなかったのか』と驚くよりもまず『そうか、神はいるという世界観だったのか』と驚いてしまうわけである。これでは盛り上がりようがない。同じようなことはタイトルになっている「大魔王」という概念についてもいえる。魔法はみんな使えるのでことさら魔力が強くて性格の悪い人の喩え、なのかと思いきや、どうもそうではなくて、隔世遺伝で出現する文字どおりの魔族の支配者の転生体、とおもったら、ネオとかミュウとかユニークの同類でした、とかどんでん返しが一人くるくる回っているを見せられるようなむなしさがある。

 そのうえ主人公のキャラクターがどうにも微妙で、いきなり不良の足をベキベキ折ったりするだけでなく、「魔王」になってからは、序盤の愚直善人キャラはカモフラージュだったのではと思えるぐらい腹のそこがよくわからないキャラになり、ある意味設定以上にドラマが視聴者を置き去りにした原因はこいつのせいであるともいえるかもしれない。これくらい見ていてその去就がどうでもよくなる主人公ってそうそういない気がする。

ヒロインズはそれなりに描けているし、なかでもゴムゴムの実の力を持っているファンタスティックな生徒会長さんはかっこいいと思うのだが、よくみるとこのひと、ほとんど主人公とは関係のないところで活躍しているのである。エンディングの画像みたいに、主人公に積極的にモーションをかけるようなこともなかったし。

 男性陣で視聴者が一番理解できたのはやんすのブレイブだとは思うが、彼の正体を魔王が知ってるのかどうか、また、やんすのほうでも知られていると思っているのかいないのかがよくわからないとか、肝心要の部分の説明がへたっぴなので、結局魔王を食うほどの存在感はもてていない。

 悪役も残念なのばかりで、大ボスはアスラクラインでも見た気がする、やたらと世界に迷惑をかけるが根底の動機は個人的な恋心、という傍迷惑なかわいそうな人で、本作では終盤ねじりんぼうみたいになって倒れている姿が最後という設定以上に扱いのかわいそうなキャラではあったし、あとはこれまたよくあるやたらとテンションの高い変態(これはシャナとかにも出張しててもおかしくない)とかあからさまに悪いバカですみたいなつまらなさいっぱいの敵しかいないのはさびしいかぎり。バトル漫画の三分の二は悪役の魅力でできている、気がする。

 最後の最後、ループ的にまた序盤のハーレムラブコメに回帰する流れだったのは、まあ良かった。とはいえ続きをつくることになったとしたら、どうせまた新しい敵が出てきてシリアスぶって残念な感じになるのだろうから、すっきり終わっただけでも誉れとして欲しいような気がする。