夢破れて…。  2009/3



 私の記憶にある絵との付き合い、それは私が絵を描き出した頃の懐かしい思い出とともにある。
 小学校三年生の頃だったろうか、少年雑誌にのっている挿絵を模写している姿だ。愛馬の手綱をとる楠正成が描かれているものであった。馬の顔がうまく描けなくて、何度も何度も描き直し、やがて人間の顔よりも馬の顔のほうがうまく描けるようになってとても楽しかった、絵が好きになったキッカケである。また、夏休みに描いた「アカ」という我が家の愛犬とのいきさつがそれを決定的にしたのだろうと思っている。「アカ」が昼寝をしている昼下がり、青桐の木陰がよほど居心地がいいのだろう四股を大地に伸び伸びと投げ出して、こちらに背を向けて庭の片隅の青桐の根元でゆったりと全身の筋肉をほぐして寝ているその姿を私は縁側から描いている。画用紙にクレヨンでしきりに描いている。 
 私は夢中になると上唇をなめるクセをもっているが、その時もさかんになめていたにちがいない。「アカ」の頭の後ろ側からみえる耳の左上のあたりに目をつぶっている瞼があり、その先に黒い鼻があるあたりの何ともいえぬリラックスした感じを描くのが楽しかった。「アカ」は柴犬の茶色なのだが、赤っぽい茶色の中型犬でだいすきだった。私が物心がついた頃にはすでに居て友達だった。当時、私の家には猫も居てこれもかわいかったが、私はいつも「アカ」と一緒だったような気がする。尾っぽを振っていつも私の帰りを待っていてくれた。横浜市青葉区奈良町もその頃はおおらかなもので、村の中を鎖もつけずに畑や田んぼや山の中を自由に遊歩したものだ。「アカ」のことなら何でも知っていたし、とても気の合う仲だった。
 この「アカ」は長生きをした。十六年くらい一緒にいた記憶があるから、それよりも長く生きていた事になる。晩年は(犬に晩年という言葉を使っても良いものかどうかはわからないが)内蔵の病に罹り、腹が膨れていて元気が無くなった。年のせいもあると思ったがやがて衰弱して、離れに住んでいた私の家の玄関の前で横たわって息絶えていた。晩秋の朝日が斜めにアカの死体を照らしていた。
 高学年になってからは絵を描く楽しみが身について、野外の写生を盛んにやっていた。近くの神社の境内の紅葉だったり、玉川学園の校舎を描いたり、校庭から見渡せる限りの風景を描いたりしていた。特に竹やぶの竹を描くのにたいへん苦労したことなどを断片的に思い出す。今ではその時分の絵は一枚も残っていない、私の記憶の底に暖かく眠っている。
 夢中で、無心に描いていた少年の頃の私には描く対象としてのいきものや風景という意識がすくなかったような気がする。それらは私の生活と共にあるものたちであり、仲間であり友達であったような気がる。 
 長じて少しばかり絵の勉強をするようになってから、裸体のモデルだったり、石膏像だったり、風景などを描くようになった。そして、自我や有心がのこのこと頭をもたげてきたのである。他人の絵が気になったり、団体といわれるものに参加し、画壇の動向が気になったりするようになったり競争心がわいてきたり、画家として世の中に認知されることが目的化し余計なものが描く行為のなかに入り込んでしまっていた。そのために描く喜びよりも苦しみ悩みを感ずるようになってしまっていたのだった。
 三十代も終わりになろうとする頃、私はそのことに気がついた。もう一度私は、描く喜びを取り戻さねばならないと・・・深く反省したのである。
                     

 創造とは何なのだろう?
 産業革命以来、洪水のように溢れる工業製品。大量生産による物の氾濫は、農業や漁業、林業にまで波及している。そして現代社会における冷淡で非道徳な行動、強欲資本主義と呼ばれる身勝手な価値観。そう…自分さえよければという冷酷な人間関係を作り出している社会の思想形成に多大な影響を与えていると思うのは私だけだろうか?
極端な話かもしれないが、モンゴルの遊牧民の民は、身辺の道具類として七種類の物しか持っていないといわれる。一方、先進国の民は三千種類のものを持っているという。
 どちらの民も、人間としての生涯を全うし、楽しいこともあり、悲しいこともある。しかも、先進国はなおも大量消費をうながし、多くを求め得る人を裕福といい、そのことが幸福なことなのだという幻想を根強く持っているようだ。本当にそうなのだろうか?
 この星の資源は有限なのだ。大量消費をするためにどれほどの資源と労働を必要とするのか、次々と果てしなく増殖することを繁栄とする社会構造をどうするつもりなのだろうか。それもこれも創造という美名の下に繰り返し行われてきた自然破壊の行為の結果であり次の矛盾への出発点なのだ。
 芸術とてその埒外にあるわけではない。現代美術と称し大量のゴミの山を排出している事ももう片方にある。ほんの短いイベントのために大量の物資を使い自我本位の作品を飾りつけ、イベントが終れば廃棄するという。
多くは自治体主催の地域活性化イベントやビエンナーレにそのような現代美術という名の作品と称するものが垂れ流しの如くに発表されている。
 税金で主催されるこれらのイベントはその費用と、終了後に廃棄される処理とに二重の浪費が行われているのだ。そのような作者のきわめてエゴイスチックな価値観の表現のために行われる税金の無駄遣いが、創造と言う美名の下で狂ったように行われているのが現状だ。
   
 いにしえ… より伝承されてきたゆるやかな営みは、一人、人類の暴走によって急速に終止符を打たれようとしている。これらは人間を欲望の獣と化し、際限のない無知へと向う知的盲目の行為だ。増殖しすぎたねずみはみずから狂騒し海の中へ突入するという「パニック」小説を読んだ事がある。
 今人類は強欲資本主義といわれ、カネがカネを生むという妄想にはまり、突っ走ったあげくとんでもない結末を経験した。そして行く手が見えずオロオロしているように見えてならない。夢破れて山河は荒れ果てようとしている。

いにしえ…へと方向転換せねばならない。今日まで目隠しをして走ってきた私たちは、まず目隠しをはずし。虚心坦懐にその乱れた足跡を見て反省しなければならない。そして、テクノロジーによって奪われてしまった人間の心と技を取り戻す仕事に希望が持てるようにしなければ・・・・・と思う。

 「何も持たぬという人も 天地の恵みは受けている」
 百歳を過ぎても絵を描いていた小倉遊亀日本画家)さんが常々言っていたという。

はじめに・奈良町に定住

このストーリィは大正二年生まれの父石井幸夫が生前、八年間の時間をかけ明治時代から平成にかけてのわが家の歴史を記したもので、聞いていたことや自分が経験したことをノートに書き残したものを、息子である私石井照洋が整理したものです。

                 
     ま え が き

倅(せがれ)の嫁さんの美千代から「お義父さんのこれまでの人生を簡単でよいから、書いてみるようなことをしたらどうでしょうか」と提案された。妻を亡くして間もないころなので寂しい想いもし、いくらか手持ち無沙汰を感じていたときなので、時間つぶしにでも書いてみる事にした。幼い頃、祖父母や両親、近隣の人たちから聞いた話、あるいは自分自身で見たり聞いたり経験したりした事柄など、思い出とともに文字にしてみるのもまんざら悪くもないし、孫たちに書き残しておくのもいいだろうという思いも湧いてきたので、ひとつ挑戦してみるかと筆をとる気になった。
おぼろげな記憶をたどりながらの記述であるし、長い文章を書くことなど今までなかったわけであるから、果たして文章になっているのかどうかはなはだ怪しいものだが老人の独り言ゆえ、読んでもらえればそれで満足だよ。
                                昭和五十八年〜平成一年  石井幸夫




     奈良町に定住

石井家は明治十九年に当時の武州奈良村(現横浜市青葉区奈良町)に定住した。初代園吉は大正十二年三月十日の早朝に七十五歳の生涯をこの地で閉じた。二代目は仁太郎、三代目は俊雄(早逝後は幸夫)、四代目は照洋という家系である。

 初代の園吉は、武州榎戸の人である。現在の川崎市多摩区宿河原あたりという、家業が代々大工職人で次男か三男であったらしく若いとき各地を巡り大工修行して歩いた渡り大工と呼ばれる人のようだ。武州榎戸というと幕末の侠客として有名な清水の次郎長の子分で清水八人衆の一人といわれた法印大五郎が武州榎戸の出だといわれている。祖父の生家の姓は伊藤であり、名前は園吉である。
武州榎戸生まれの渡り職人園吉は、各地を巡った途中、恩田部落(現在の横浜市青葉区恩田町)に足をとどめた折、当時寒村であった恩田部落のある農家に気に入られ婿入りしたそうであるが、辛抱できかねたのか、しばらくしてその農家を出て隣村の奈良部落(現、横浜市青葉区奈良町)に独居していた。そこでも気に入られると婿入りの話が持ち上がり再び婿入りした、しかし、生来の気質か農業が慣れなかったか再び家を出て独居生活に戻り奈良村にいて頼まれるままにあちこちの家の大工仕事や修繕などをして暮らしていた。そのうちに六歳年上のトク(私たちの祖母)と知り合い同棲する事となった。祖母はトクという、奈良部落の農家に天保二年生まれで長じて他村の商家に嫁いだが子宝に恵まれなかった。数年するうちに夫は他に女をつくり商売や家庭を顧みなくなったのでやむを得ず話し合いの末、協議離婚をして生家に出戻っていた。しばらくして、維新後間もない横浜村に出て外国人居留地のなかにある外国人商館に女中奉公として住み込みでハウスキーパーなどをしていたというが三〜四年働きそれなりの蓄えをえて、生まれ在所の奈良部落に戻り生家からさほど遠くないところに土地を借り小さいながら家を建てた。
 その際園吉さんと知り合ったのではないかというのが私の推理である。祖母の生家は維新前より代々続いた農家で、山林、田畑を相当に所有し裕福な家柄であったという、姓は鴨志田といい当主は林造といい祖母トクの実兄である、ほかに兄弟はなく両親は早逝した、そのため若いときから大変な苦労をしながら成長した人だった。

 当時のような時代に都会ならいざ知らずこのような山間の村で、結婚に破れた出戻りであるトクと六歳年下の渡り大工の園吉との同棲は奈良部落の人々の格好なニュースネタであり、話としてはたいへん興味をそそられた事だろうことは想像に難くない。祖母トクは自分の実家の兄、林造からきつく一切の出入りを差し止められ義絶(縁切り)を申し渡されたそうである。
 そんな中でも、若い頃から習い覚えて身につけた裁縫や、糸繰り、機織り仕事で身を立てて生涯独身を通していこうと思い、再婚など考えてもいなかった祖母トクと祖父園吉は紆余曲折の人生の後、正式な夫婦として仲良く暮らすこととなった。園吉とトクの生活は周囲の認めぬままにスタートしたが、互いに仲睦まじく、園吉は大工仕事に精を出し、トクもまた裁縫の仕事に精を出し園吉さんの身の回りの面倒をよくみて、ともに働き小金を貯めるまでになって、おいおい村の人びとに信用を得るようになり、身につけた裁縫などを頼まれて近隣の娘さんなどに教えるほどになった。
 破れたとはいえ商家に嫁いだり、横浜村の外国人のもとで働いたりしたトクは現在言うところのキャリアウーマンの走りではないだろうか、教養のあった人だったのだろう失敗を努力と献身で信用にかえて一家を構えた。
 この祖父、園吉はわたしたち孫のことを大変に可愛がっていた「うちの孫たちはみんな利口者ぞろいだぞ、ヨソのガキはバカばっかりだ」と公言してはばかる事がなく、近所の人々に顰蹙(ひんしゅく)を買っていたらしく、祖母トクや母ツルは近隣にお詫びをして歩いたという。
 その頃(明治十八年)奈良町上講中の戸長(自治会長の様な人)の石井織造さんというひとが祖父、祖母の人柄や暮らしぶりを見込んで何とか力になろうといってくれて、同じ石井家の一類に当たる良三という人が一年ほど前に若死にしたがまだ独身だったので、その故人の苗目(みょうもく)すなわち跡目相続(あとめそうぞく)を継いで石井姓を名乗り上講中に土着したらどうかと申し渡してくれた。その上、上講中の人たちには異存ある者は申し出るようにといわれたそうであるが皆喜んで受け入れてくれた。かくして伊藤園吉、トクは、晴れて石井園吉、トクとして神奈川県都筑郡田奈村字奈良の住民として定住を認められた。
 明治十九年四月中旬のことだった。その恩人というべき石井織造さんとは現在の石井明さんの四代前の人である。その縁をもって、現在石井明、石井勇、石井修二、石井秀雄、と私のところは地親類として付き合いが今でも続いている。そのような経過があり、信用を取り戻した園吉、トク夫妻は、トクの生家との義絶も解け後々まで交際するようになったのである。
 祖父母、園吉とトクは屋号を杉山という井組勇吉さんの土地を借りて建てた家で暮していたが祖父母夫婦は子宝に恵まれなかった、それゆえ数え年四歳であったツルを養女とした。ツルは横浜市南区南太田から迎えられた、そのツルが私たちの母である。

出生から少年期まで・関東大震災・貧苦の中で

      出生から少年期まで
 私は大正二年七月二十三日の生まれだが翌年には第一次世界大戦が起こり、日露戦争終結後九年目の年回りだが国の財政は悪化し不景気で、わが家も小作農家でありその日その日をやっとの思いで暮らす一般の家庭と変わりはなかったが、幸い父仁太郎の終身年金と金鵄勲章の恩給とがあったので極端に困窮する事はなく何とか暮していた。そのときの家族は祖父母、両親、長女エイ、長男俊雄、生まれたばかりの私(次男幸夫)の七人だった。
 七月二十三日はとても暑い日だったというが知らせを受けたとりあげばあさんは予定日より三ヵ月も早く産気づいたお産を無事に終えたが生まれた子は七ヶ月の未熟児で胎袋のままの出産であったという。胎袋を破りとりあげた赤子はぐったりしていて、産声も上げず平手で頬をぺたぺたとたたいていたら三十分ほどしてシワだらけの小さな顔で、やっと猫の仔のような小さな産声を出したという。身体も小さく、普通の嬰児の半分くらいで片方の掌に乗るほどで、それは人間の子というよりまるで裸ネコのようだったとのことである。そのため、二歳を過ぎるまでハイハイもできず四歳を過ぎるまで自力で立ち上がる事もできなかったようでいざりのように腰を引きづって移動していたという。私が生まれてまもなくそれまで風邪ひとつひいたことがない祖母トクが二年越しのブラブラ病(婦人特有の病気だったらしい)になったため医療費がかさみ、祖父母が頑張って買い取った山林五反歩(千五百坪)を売却して医療費にした。そのうえ父仁太郎の名義で三十五円の借金をした。七人家族の貧困な小作農の若い仁太郎、ツル夫婦にとっては過分の負担となった。 
 仁太郎三十余歳、ツル二十七〜八歳のときのようだがその後も私が三歳の時の大正五年に次女カツ、大正七年に三女琴江、大正十年に三男敬敏(ゆきとし)とつぎつぎに産まれ十人家族となり、もともと蓄えとてない一家に借財が加わり極貧の家族となりながらも何とか生きていたが、そんななか仁太郎は何とか現金収入の道はないものかと考えをめぐらせていたおり同じ村の豆腐製造をして細々ながら商売をしていた屋号を四ツ谷という鴨志田四郎という人が「おれは今年中に豆腐屋をやめて百姓一本で行くことにしたが、おまえさんは豆腐屋をやってみようという気はないか」と仁太郎に持ちかけてくれたそうである。「豆腐屋は朝は早いが毎日日ゼネが入るし元手が少なくても済む、その気があるなら俺が作り方を教えよう、また少し古くはなったが道具一式は安く譲ってやろう」といってくれたので仁太郎は豆腐、油揚げ、がんもどきの製法を覚えて大正十年十一月、豆腐屋をすることになった。
 その年、長女エイは尋常小学校を六年生の途中でやめて村内にある裕福な家に子守り奉公に出された。小学四年まで優等賞を受け、副級長を何度も務めて勉強もできた姉だが貧農の子沢山の家の例に漏れず口減らしに義務教育途中で他家に奉公に出されたのである。子守り奉公に行った姉は雇い家で時々珍しい食べ物などをもらうと、自分では食べず私たち弟妹に持ち帰って食べさせてくれたりしたものだ。エイの二歳年下の長男俊雄は家業の豆腐作りに精を出すようになり豆腐作りは朝が早いが毎日四時には父母とともに起き、かまどの火をおこし父とともに石臼をまわし朝飯もソコソコに小学校に行き、放課後、急いで家に戻り家業の手伝いをする毎日であった。物覚えの良い兄は十一歳のときには豆腐、油揚げ、がんもどきなども製法を完全に覚え、父仁太郎を驚かせたという。 
 父も俊雄がよく手伝ってくれるので、生産量も多くなっていったが商いを始めた当初は近辺の人や村中の人、あるいは隣村の人までよく買ってくれたようであるが、一〜二ヵ月もするとその日の内に売り切れず翌日に持ち越すようになってきた。特に豆腐、油揚げは暖かい季節になると持ち越しはできない、その日の内に売ってしまわなければならないので、自宅売り分を残して以外のものは仁太郎が岡持ちを二個天秤棒に担いで周辺の集落を売り歩いて回った。それでもときに売れ残るようなこともあったので自家消費せざるをえない日があるので、兄俊雄は子ども心に売り上げ向上のため一計をめぐらした。大工だった祖父園吉に頼んで子供にも担げるような小さな岡持ちと三〜四尺の天秤棒を作ってもらい、赤土の坂道を登り下りして半里〜一里半の範囲にある岡上や三輪(現、川崎市麻生区岡上・三輪)の農家に行商に歩いたのである。両村の人たちも重い岡持ちを天秤で担ぎ遠い山道と赤土の坂道を越えてきた豆腐屋の行商人が、年端もいかぬ小柄な少年だったのだから驚き同情し感心もしたらしい、そんなわけなのでほかの行商の豆腐を買わず俊雄が担いでくる豆腐屋のものを買ってやれということになり、俊雄の担ぐ岡持ちの豆腐や油揚げなどを待っていて買ってくれることがしばしばだったそうだ。母は小学六年というのにけなげにも重い岡持ちを担いで家を出てゆく後姿を心配そうに見送り、八十一歳になる祖母トクは神棚に手を合わせ涙を流している姿を私は脳裏に焼き付けながらながめていた。
 その年から俊雄は小学校も一学期の五月始めまでしか通学できず欠席が続いたために学期末の七月に担任の野路東作先生が心配されて、父仁太郎に「俊雄君は学業も上位で成績も良いのでぜひ次学期からは登校させてくれるようにお願いします、ついては失礼かもしれないが学用品くらいは私が用意してもいいのですが」と申し入れてくれたそうで、そのときはさすがに頑固な仁太郎も、年若な先生の前に頭を伏せたままあげることができなかったと後年母に聞いた。しかし、その後も家業の手伝いのため欠席せざるを得なかった俊雄は、翌年(大正十二年)の小学校卒業式の当日になったが卒業証書をもらうことができなかった、出席日数が足りなかったためである。ろくに出席もできずにいても学年成績も上位で、よその人々からも頭の良い少年と見られていた俊雄も、貧困の上に兄弟の多い長男として生まれた不運が重なった故の悲しみでもあり能力の高かった人だけに後年までその劣等感を持つとともに発奮の起爆剤として精進努力をしたようだ「何しろ俺は小学校未卒だからな」と度々いっていたのを私は憶えている。
 その年、四月中ごろ同じ村の北ヶ谷戸の井組久治さんのお母さんのムラさんがうちに来て仁太郎に「東京の親戚の薪炭(しんたん)問屋で、小僧さんを二人ほど募集しているが見つけてくれないかとの頼みなのですが、おたくの俊雄さんはどうだろうか、奉公に出してみる気はありませんか」との話だった。俊雄は「夜学に通わせてくれるならいっても良い」という条件を出したがその条件で話がまとまり二十歳に満期開けになるまでという条件で三百五十円という大金を前渡し金として仁太郎は受け取った。年期間契約書、前借金証書に仁太郎が実印を押して渡し、これにより俊雄は東京の炭問屋に年季奉公(雇い主と父母が雇われる当人の意思とは関わりなく期間を決めて働かせる事、その際契約書を交わし、雇い主は契約金を前渡する制度)に出されたわけである。職人、商人、女中、など貧しい家庭の子女は幼い頃よりこうした制度の下に奉公に出るも者も多かった。特に地方の人はたくさんいた。俊雄の奉公先は太田商店という薪や炭などを扱う店だった、そこには同じ村で近所の井組粂衛門さんの四男繁蔵少年も同じように年季奉公で前渡し金を親が受け取り二十歳まで奉公する身であったが二年年長の繁蔵さんは十五歳で高等科二年も卒業していた、後年私の妹の三女琴江の夫になる人だ。
     関東大震災
 二人が奉公に行って間もない大正十二年九月一日、午前十一時五十八分、突如として大地が揺れた、後に関東大地震というまれに見る災害を及ぼした地震である。突如として関東地方の広い範囲を襲ったこの大地震は、当時の記録によれば、地震発生と同時に東京、川崎、横浜、その他市街地は家屋の倒壊が続出し、下敷きとなったり、落下物の直撃にあったり、各所から火の手が上がり火災はあっという間にひろがり、竜巻の様な風が起き、猛火が猛烈なスピードで市街を襲った。逃げ惑う人びとは道路や空き地に溢れる人たちは逃げ場を失い焼け死んでしまう、墨田川など木造の橋は、激震と火災により落ちてしまい背後から火に追われた人たちは仕方なく川に飛び込むよりほかなくほとんどの人が溺れたりやけどをおったりして亡くなった。東京、横浜の繁華街は山手を除き繁華街はそのほとんどが焼け野原になり、地震発生後、三〜四時間で約数十万人の死傷者をだした。
 私は小学校四年生(十歳)だったが、六十八歳の今にも激震の凄まじさをまざまざと思い出す。その日は、午前中で終わり近所にいる友だちのところ(井組粂衛門宅)へ遊びにいっていた、突然ゴーという地鳴りと度叔同時にぐらぐらと大地が揺れて庭で遊んでいた子供たちは足元をすくわれてその場にバタバタと倒れこんだ。粂衛門さんは大声で「大地震だぞー、家の中にいるものは早く外に出ろゥー」と叫んだので家の中にいた家族の人たちも驚き、夢中で庭から道路に通ずる急坂をころがり、よろめき、はいずりながら気がついたときは土手下の道によつんばいになっていた。
 二十〜三十秒おきに地鳴りとともに大地は大きく揺れて、立っていることさえできなかったが粂衛門さんは「土手の下にいては危ないぞー、早く新宅の竹やぶへ逃げろー」と叫んでいたので私たち子供たちはみな先を争い隣の新宅(井組信太郎さん)の竹やぶへ逃げ込んだ。午後四時ごろには余震もだいぶ小さくなり、回数も減ってきたので子供たちはそれぞれの家に戻ることができた。またいつ襲いかかって来るかわからない余震を警戒して家に中には入らず、地盤の固いところや木の下に丸太や戸板を敷きならべ、その上にむしろなどを敷き木の枝に蚊帳をつり蚊や虫をよけ一晩中寝ることもできず野宿していた。夏の暑い時期だったのでまだましであった、明けて九月二日になると余震もだいぶなくなってきたので私たちは一安心であったが、父母たちはそれぞれ子供を都会に奉公に出している身だったので心配だったが、当時のこととて電話、ラジオなどはなく交通網も寸断されていたため、次から次へと入ってくる口伝えの情報が頼りだったが絶望的なものばかりであり流言蜚語(りゅうげんひご)、デマも混じり訳がわからなくなるだけだった。
 私の家では長女エイが横浜に、長男俊雄が東京へ奉公に出ていた。姉エイは井組信太郎さんの次女ツナさん(十四歳)と、横浜市保土ヶ谷町の絹練会社に女工として住み込んでいた。兄俊雄は東京市芝区田町の薪炭問屋、太田商店に年季奉公中であるから双方の安否がきづかわしいものであった。
 九月二日午前十時ごろ三人の父親たちはまだ時々揺れる余震の中を身支度もソコソコに焼きむすびなど非常食を背負い東京横浜の二手に分かれ出発した。その後の私の家のほうでは、午後三時ごろからあちこちから火の見やぐらの半鐘が打ち鳴らされ驚いているうちに遠くから大声で叫んでいる自警団の青年たちが「朝鮮人の暴動だー、女子供は人目につかぬところに非難しろー」と怒鳴りながら走り去ってゆく、次から次と伝令は飛び交い「〇〇方面では女子供が殺されたぞー」「井戸に毒を入れられたぞー、井戸は厳重にふたをしろ」等々パニック状態になった。夜になっても半鐘や釣鐘を打つ音はなりやまず、真っ暗な林の中で父親のいないわたしたち家族はとても不安な一夜を過ごした。翌朝、三人の父親たちは夜どうし歩いて戻ってきた姉や兄たち四人はともに無事であることがわかりホッと胸をなでおろした。
 祖母トクは八十一歳になっていたがその知らせを聞くと、堰を切ったように大声で泣き出し、父母がいくらなだめてもいくら止めても泣き止まなかったのを私は不思議なほど鮮明に憶えているが、暮らしには役に立たなくなった年寄りが家にいて孫たちに苦労をかけている、その老いた身にできる精一杯の感謝の表現でもあったのだろう。姉の勤め先の会社は宿舎ともに全部倒壊し、姉たちは工場大屋根の下敷きになったものの、大屋根を支える鉄の柱によって隙間ができ、ほとんどの人が死傷を免れたそうだ。姉たちはとりあえず交通の復旧を待ってそれぞれの家に帰された。
 兄俊雄と繁蔵さんの二人は幸いにも倒壊にも火災にも免れて被害の出なかった炭問屋の太田商店にそのまま勤めたが、当初の約束だった夜学に通わせるという約束が守られていないことで、俊雄は年季奉公を拒み始めた、父仁太郎は無理押しをすることもできないのでしかたなく村の高利貸に恩給証書を抵当に金を借りて、年季奉公の前渡し金を返済して兄を連れ戻した。大正十三年になっていた。
     貧苦の中で
 翌年、俊雄は川崎市高石(現、川崎市多摩区高石)の農機具製造工場という個人経営の会社に見習い工として住み込みでつとめた。その会社では仕事が終ると夜学に通わせてくれて勉強もでき、月々の賃金も払われたので親元に送金することもできたのである。祖母トクは母のツルに手を握られながら静かに八十二年の生涯を閉じた。
天保嘉永安政、元治、慶應、明治、大正とめまぐるしく変わる波乱の世の中を生きた人だったが、祖父園吉の逝去後十ヵ月であとを追うように永眠した。

大正十二年三月十日
本彰法薗信士(ほんしょうぼうそのしんじ)
俗名・石井園吉 (享年七十五歳)  合掌。

大正十三年一月八日
雲仙妙得真如(うんぜんみょうとくしんにょ)
俗名・石井トク (享年)八十二歳   合掌。

 私はほかの姉兄弟と異なり虚弱体質であったため、幼児より祖母にはひとかたならぬ心配や面倒をかけたので人一倍悲しい思いをしたのである。その後、姉エイは地方の個人の家に糸繰り女工として住み込みの仕事に着き、月々何がしかの賃金を親元に送金してくれるようになった。
 わが家ではあいかわらず豆腐屋をやりながら、他の家から二反歩(六百坪)の畑を借り受けて、雑穀類や野菜を作り午前中は豆腐、油揚げなどの注文つくりをし午後は畑仕事という両面をするようになっていた。私も小学校を終ると手伝いの畑仕事などしたりしていたが卒業した年の初秋の暑い日のことだ、大震災後生まれた四女寿美代(二歳)にせがまれて近くにある借地の畑すみに植えてある柿の実をもぎ取りに登った柿の木の枝が折れて私は落ちてしまって運の悪いことにふるい切り株の上に落ちてしまいスネを骨折してしまった。動けなくなってしまった私を一緒についてきていた弟の敬敏がビックリして父を呼びに飛んでいってくれ、父に背負われ家に帰りそのまま寝たきりで医者にかからずに寝てすごした。接骨医にかかれば二十円位の費用がかかる当時のその金額はわが家にとって多額だったので医者にはかかれずただ家で寝かされていたが二カ月半後、ようやく歩けるようになった時には骨折した方の右足が長くなってしまったようで軽くびっこをひいて歩くようになってしまった。
 生来の虚弱体質の上、軽斜視、鼠径ヘルニア、それに加えびっこである、姉兄弟たちがそれぞれに働きに出て家のためになっているのに、私は家にいて大した役にもたっていない己自身がはがゆくのろまだ片輪ものだ、俺など生まれてこなければ良かったのだと劣等感にさいなまれていたのである。私とて、小学校の成績は奈良分教場の四年生まで常に二番か三番であったし五年六年の本校(田奈小学校)でも、五十六人中いちばん低い時でも十五番か十六番だった、勉学はまあまあだったがゆえに身体的欠陥による劣等感はその頃の私の精神的苦痛はつらいものだった。私は青年期まで、それらのことで劣等感に悩むのであるが、その後さまざまな経験と努力をし自信を得ると同時に劣等感、絶望感、不平等感、を克服し忍耐する力は誰にも負けないという自信を身に付け充実を知ることになった。
 昭和三年三月下旬、次女カツは小学校を卒業すると、東京市西多摩郡青梅町(現、青梅市)の府是製絲工場に見習い工女として出稼ぎに出されることになったがカツはその名のとおりの勝気なこどもだった。工女募集人に連れられて働きに出る娘の中では最年少であったが、なんの屈託もなく家を出るとき一度も振り返ることなく元気な足取りで出て行き遠ざかる妹の姿がいつまでも心に残りその日はなかなか寝付くことができなかった。
 妹カツが製絲工場へ働きに家を出てから、十数日後のことである長女エイを糸繰りの経験工女として募集に来た人で、長津田の新倉五郎松という人が私をみて小僧さんを一人探して世話をしてくれという話を受けていたのでこの少年ではどうかと私を指名してくれ「どうかね」という、そのとき私は嬉しかった、こんな俺でも使ってくれる人がいるのかと。私は進んで行きたいと両親に告げた、しかし、両親はためらっていた。この子に勤まるだろうかと、しかし私は強く希望した、ヨシッ奉公に行ったなら真面目に陰日なたなく働いていけば少しの肉体的欠陥は乗り越えることができるだろうと何度も自問自答を繰り返し心を決めたつもりだったがイザ家を出るときは不安な気持はどうしようもなかった。
 それから三日後、募集された五、六人の女工さん達とともに新倉さんに連れられて奉公に出かけた、そして、森田製絲株式会社(東京市西多摩郡熊川村字熊川・現、福生市)に到着した。その会社は糸繰り工場が三棟からなり一棟に八十台の糸繰り台があり合計二百四十人の工女を擁しほかの製品製糸巻き返し工場一棟には三十人の工女がおり、ほかに煮繭場(しゃけんば)には男女工七,八人がいる合計五ヶ所の建物からなる総合工場でる。各棟には検番(監督)、下検番(監督補)、配繭係り、下働き(雑役)と、煮繭場(しゃけんば)に男女五人、計量係二人がおり、従業員の総数は三百人近い。管理職としては総検番一人。経営陣は正副社長、専務、常務、の四人だった。私は新参者の小僧なので下働きの雑役だった、先輩の小僧さんや古参の人々から教えられるいろいろな作業を一生懸命に憶え骨身を惜しまず働いていたのである。
 新参者の雑役小僧は毎朝五時に起床。作業着に着替えて洗顔、ボイラー係のおじさんを起こし、その足で工場へ入り、八十個の糸繰り鍋に八分目ほどの量の水をいれ、ボイラーから送られてくる蒸気を待つあいだに工場内の板の間を雑巾がけをする、様々な始業開始の準備を終えると午前八時の始業開始のさいれんが高々となり、各棟がいっせいに作業開始となる。
 私たち雑役の小僧連中は八時までに朝食を済ませて、休むまもなく作業に取り掛かる。午後六時の終業時間後は工場内の後片付けと翌日の作業に必要な準備を済ませてから夕食をとり、風呂に入り、自分たちの部屋に戻るのは早いときで午後八時ごろになってしまう、消灯時間後の二日に一度は汚れた作業着や下着類の洗濯をするので部屋に戻れるのは九時三十分〜十時になる。部屋は先輩たちと一緒の部屋で五〜六人の大部屋だ。先に寝ている先輩たちを起こさないようにそっと布団を敷いてやっと潜り込んで一日が終るが脳裏にはふるさとの父母、兄弟、友達の顔を思い浮かべながらこみ上げてくる涙にまかせて眠るのである。やがて慣れてくるようになると、仲間と話すことや仕事に励む日々も楽しくなるようになり精を出して働く日々が過ぎてゆく、そのうち先輩や検番なども「今度きた新入りはよく働くなー」「真面目で思ったより物覚えがいいぞ」などという声が聞くともなしに耳に入るようになるとホッと安心し楽しく仕事ができるのだった。そんな思いになった頃ここにきて二ヵ月が過ぎていた、そんなおり創業四十数年を過ぎていた森田製絲工場は経営不振のため、社長とご子息である副社長が退陣し変わって大株主の八王子の地方銀行、第三十六銀行が経営を担当することとなった。

母の生家と父・二百三高地、白襷隊

    母の生家と父
 母ツルの実家の父、加藤定蔵と言う人は文久終わりか天保の初めに生まれた人のようで明治維新のときは二十二〜二十三歳だったろうということである、故郷は越後の新発田で五万三千石の大名、溝口藩主の家臣の子弟であった。姓は赤松氏ということだが長男ではなかったので、同じ藩の加藤氏に相続人がないこともあり養子縁組をして加藤姓になったようである。加藤氏の禄高は百二十石の知行取りだったそうで、禄高五万三千石の田舎大名の家臣で百二十石取りの家柄といえば中くらいの格式の武家であったのだろうと思われる。加藤定蔵となった元赤松定蔵は剣術の腕は相当に優れていたといわれる。
 年号が明治とあらたまった。三百年余の徳川幕府も終焉を向かえ、明治新政府が発足、廃藩置県廃刀令発布、士農工商身分制度の廃止、とたてつづけに新制度が動き出すと武士階級の解体が進んだ。 旗本、大名とその家臣たちは一時に家禄を失い、不安な政情の世間に投げ出されるという事態になったのであるがツルの父、加藤定蔵も奉還金という明治新政府から支払われた武士の退職金の様なもの六拾円也を支給され越後新発田をあとに維新後首都ととなった江戸改め東京に出てきた。そして、少年の時から修行に明け暮れていた剣術の腕を生かして、東京の華族邸へ別当職として採用された。別当職とは主家の用心棒あるいは私設ガードマンのようなものだったようだ。さる華族別当職を得た加藤定蔵は二十四歳になった頃、同じ華族邸に花嫁修業(行儀作法見習い)のために武州奈良村(現、横浜市青葉区奈良町)から上女中(上女中とはお座敷女中、下女中とは勝手働き女中をいう)として奉公に来ていた関根カネと好意を通じる仲となりやがて人目を忍ぶ仲となり相思相愛となったようだ。
 時にカネ女、十九か二十歳だった。関根カネの生家は神戸(ごうど)の上という屋号の関根姓の農家であり中くらいの地主だった、定蔵とカネは周囲の人の心配や忠告にもかかわらず手に手をとって新興の地、横浜に移り結婚した。横浜での二人の暮らしぶりは仲睦まじくともに働き助け合っていたという。夫、定蔵は武家上がりの身であったが、奉還金とその後貯えた資金を元手に古物商として居留地の外国人の商館にも出入りして商売を広げて生活にもゆとりが出来るまでになった。近隣や町内の信用を得るようになり、商いの合間には近隣の若い衆に剣術の稽古をつけるようになるほど心身の余裕をえた。
 横浜に移り住んで十二〜十三年が過ぎる頃には二男一女(男・勇之助、次男・忠蔵、長女・ツル)の親となっていた。妻のカネの末の妹夫婦、奈良村にいる石井弥三郎(仕事は経具師)、ムメ夫妻とも親密に交際をしていたようである。華族屋敷から駆け落ちのように横浜にいく際に、里方の兄、石井市次郎の怒りを買ったが、その後の精進がみとめられ、再び里方とも親交を温めるようにもなるのもさして遠くはないという矢先だった。順調に家庭をはぐくみ楽しい日々はつづくと思われたが、妻カネが突然の病に倒れたのである。夫定蔵の懸命の看病、医師の努力も空しく結婚以来、十三年間ともに苦労を分け合って助け合い、励ましあった若い夫婦の願いも空しく、妻カネは明治二十年七月二十日早世した享年三十四歳だった。残されたのは夫定蔵、長男・勇之助、次男・忠蔵、長女ツル、の四人だった。
 明治二十二年三月、石井の地親類の本家石井織造さんの肝いりで早世したカネの三番目の妹夫婦石井弥三郎、ムメが保証人となって加藤ツル(四歳)は祖父母、石井園吉、トク夫妻の養女に迎え入れられたのである。 その九年後、明治三十年、祖母トクは実兄の鴨志田林造さんから通称、金左衛門畑と呼ばれていた土地を買い受けて家を建て定住して現在に至っている。(横浜市緑区奈良町一八九六・昭和五十八年現在)それから二年後、明治三十二年、新潟県新発田郡、士族、加藤定蔵長女、加藤ツル(十五歳)は神奈川県都筑郡、平民、石井園吉、トク夫妻の養女として入籍、晴れて石井ツルとなったわけである。比較的恵まれた環境で育てられたようで、当時の貧しい山村部落の子女、ことに貧農の女子は無学文盲の人もおおかったが貧しくてまともな教育を受けられなかった事情による。
 明治五年に新政府の法令により学制が敷かれ義務教育制度が発令された。それまで富裕な家庭の子弟のみが学ぶ事ができた寺子屋制度が廃止されたのであるが、男子は別として女子はその多くの子は小学校を途中でやめてしまうか、入学すらしなかったというのが貧農地域の実態であった。そんななか母ツルは尋常小学校を卒業させてもらっている。ツルはまた行儀作法など義母トクより習い裁縫なども他家に通わせてもらい習得し、当時、先進的技術といわれた糸繰りの技術まで習得させてもらっていたといい他家の娘さんに教えるまでになっていたという。 
 ツル十九歳の春二年間の約束で、お下女中(勝手働き)ではあるが華族の屋敷に奉公に行く事になった。明治三十七年、日露戦争開戦の年である。その華族は当時の台湾総督で後、勲功により大勲位・勲一等・功一級子爵、陸軍大将、西完次郎のお屋敷であった。後年、アメリカ、ロスアンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを獲った西武一(にしたけいち)騎兵中尉は西完次郎氏の子息である。
 そんな折、養母トクより至急電報が届く生家の横浜市大田の長兄勇之助に召集令状が届き東京の第一師団歩兵第一聯隊に入隊したという、すぐお屋敷に申し出て許しを得て横浜の生家に急ぎかえったが長兄は既に入隊の後だったので父定蔵に連れられ東京麻布の歩兵第一聯帯をたずね、四歳のときに別れ別れになった兄に再会した。それが兄との最後となった。その四ヶ月後、長兄勇之助は中国旅順の二百三高地の白兵戦で戦死をしてしまった。日露戦争開戦で横浜市出身者の最初の犠牲者だったといわれているが、のちのちツルは自身の子供たちにそのときの別れのことを折に触れ涙を浮かべ声を詰まらせながら話して聞かせた。
 ツルの父加藤定蔵は日露戦争が終った翌年、十三歳の連れ子を持つ年若い女性と再婚したが定蔵の次男忠蔵との折り合いが悪くなり、忠蔵は突然失踪しそのまま行方不明になった。また定蔵も再婚の妻子ともうまく行かず離縁をし晩年は、旧藩時代の親友であった池上市次郎の家で独り寂しく死んでいったとの知らせを受けたため父仁太郎が遺骨を引き取りに行ったというが、ツルの父定蔵も不運の人だった。
     二百三高地、白襷隊
 いままで母ツルの周辺といきさつを追っていたが、そろそろ伴侶となる父石井仁太郎の周辺を追ってみよう。父、石井仁太郎の旧姓は加藤であり田奈村(現奈良町)に生まれ育った。加藤家は代々の農家で半自作、半小作で父は多一郎といい母はイマといった、姉兄弟は長女イネ、長男兼吉、次男仁太郎、三男増五郎、の三男一女だった。仁太郎四歳のときその母イマが早逝した、その後シマという人が後妻にはいったが継母シマさんは質素で温順で好人物であったようだ、シマは八歳を頭にまだ幼い四人の子供たちを家事をこなしながらも過不足なく養育したようで親子よく和合して協力しながら義母シマの温かい人柄に包まれて、みな成人したようである。
 次男仁太郎は二十歳を迎えた明治三十六年度の徴兵検査で甲種合格して、翌年、明治三十七年勃発した日露戦争に向け現役兵として東京麻布の第一師団、歩兵第一聯隊・第二中隊に配属されて、第一期の検閲である三ヶ月の初年兵教育を終了後、ただちに出征の命令が出され、宇品(うじた)港より出港し、朝鮮半島の鎮南甫港(ちんなんぽこう)に上陸した。そのまま、満州旅順の戦線に参加し第三軍団長、乃木大将指揮下の一平卒として旅順要塞の前衛陣地である鉢の木山の敵陣攻撃に初年兵ながら始めての決死隊の一員として参加した。その後、日露戦争史上に残る悲惨な戦いの末、陣地を勝ち取ったといわれ後年映画にもなった二百三高地に参戦し膨大な死者を出したその戦いで貴重な生還者となった。
 戦後、そのときのことを子供たちに話したところによると、二百三高地の戦闘でのことで後年語り継がれた白襷(しろだすき)決死隊なるものは、後年の人びとによる作り話であったようであり二百三高地にある敵陣は小高い丘の様な裸山で木もなく平凡な丘だった。第一次攻撃隊の主力は大迫尚弘陸軍中将の指揮下にある北海道第七師団の精鋭でこの部隊は高地の中腹まで匍匐前進(ほふくぜんしん)し、中腹より、突撃ラッパを吹き鳴らし肉迫攻撃に移ったときに、山上の敵陣地から突然ロシアの新兵器である機関銃の一斉放射を浴びて日本の兵士はバタバタと倒れて死傷者の山となった。仁太郎は第二次攻撃隊の第一師団歩兵第一聯隊の枝吉宇太五郎中佐の指揮の元、敵陣北側の背面の斜面をよじ登り敵の背後から肉迫して白兵戦を展開し、やっとのことで高地頂上の陣地を奪い聯隊旗を立てて万歳三唱をしたのだという。この戦闘により、日本とロシアの兵士の戦死者は二万数千人に及んだという。
 戦闘が静まった後、日本、ロシアの兵士たちはたがいに軍使を交換し白旗をかかげて戦死者の遺体を収容したのだったが、日本側の戦死者だけでも千坪を越えるところに収容し切れなかったという事である。その後、旅順戦線における最後の戦闘は、ロシア軍が四年の歳月をかけたといわれる難攻不落の要塞といわれた松樹山保備砲隊(しょうじゅさんほびほうだい)の攻撃に決死隊中の決死隊と後々まで呼ばれた特別編成聯隊があった。それは志願ではなく第三軍団の各師団の歩兵聯隊のなかから、特に選抜された決死の攻撃隊員として参加し夜襲をかけての白兵戦のために日本軍同士の相打ちを避けるために目印として、三尺五寸〜四尺の白い晒しの布を右の肩口から、左のわきのしたにかけて結び敵の前衛陣地に突入して白兵戦を挑んだ。
 仁太郎は白兵戦の最中敵の手留弾をうけて重傷(右目失明、全身に八箇所の傷を負う)を負い野戦病院に収容されたのである。そのような激しい戦闘で負傷を負いながらも生き残り帰国し東京の陸軍第一病院、氷川町分院で療養中、皇后陛下の行啓を賜り、その際一兵卒の身でありながら、特別個人御下問(お言葉)を親しく賜るという破格の待遇を受けた、そのことはたびたび子供たちにはなして聞かせたが私もはっきりと憶えている。
明治三十八年、日露戦争は日本の勝利で終焉を迎えた。
 加藤仁太郎は戦功により歩兵二等兵から二段飛び特進の歩兵上等兵の栄誉を受け、勲八等桐葉章および功七級金鵄勲章(きんしくんしょう)を賜り、兵役免除、傷痍軍人として終身特別恩給、ならびに金鵄勲章の年金を受ける身となったのである。
そしてその翌年、明治四十年、加藤仁太郎は石井ツルとの縁談がめでたく整い、これという財産もないが評判の良い石井定蔵、トクのもとに婿入りという形で結婚したのである。


屈辱と謝罪・自信・決意・

     屈辱と謝罪
 やがて第三十六銀行の頭取石田某なるひとが工場へ乗り込んできた。氏は専務取締りとして工場の経営その他一切の権限を収め、会社再建を全株主(創業時からの総支配人及び相談役等)に申し渡すとともに、男子従業員全員及び主だった古参工女、養成工女に技能教育をほどこす教婦等を一堂に集合させ引見し手歩いたのであるが、私の前で足を止め「君は目が悪いのか、それに右足も少し悪いようだが、それで作業ができるのか」と質問されたので、私ははっきりと「ハイッ大丈夫です、できます」とこたえると、少し通り過ぎてから振り返り、頭のてっぺんから足の先までじろりと見て何も言わずにそのまま遠ざかっていった、私は何か不吉な予感がした。
 翌朝の始業時間直前になって、総検番である浅野某なるひとを通して解雇を申し渡されたのである。浅野という人も銀行から来た新しい責任者の一人である、すぐさま宇都木周作という事務員を呼び寄せて一通の封書を手渡して「理由はこの中の書状にしたためてあるので君は午後になったら石井君の荷物をまとめて人力車で拝島駅まで行き、そこから列車で横浜線長津田の新倉募集員宅まで石井君を送り届け一緒に自宅まで送り届けてほしい」と指示したのである。
 私は傍らで聞いていたが、うすうす覚悟はしていたものの目の前がボーとかすみ頭から血の気がスーと下がったし涙も出ないほどショックをうけた。その日の午後、宇都木氏とともに二か月の間にやっと慣れ始めていた工場の門を出ようとしたとき雑役仲間の少年、先輩たち、古参の工女、検番の人たちまでが見送ってくれて「石田という奴はひどい奴だ、お前は覚えもよく陰日向なく真面目に働いていたのになあ」と口々に慰められて初めて大粒の涙が頬を流れ落ちた。
 その晩は長津田の新倉宅に泊まり翌朝、自宅に送り届けられた。二カ月分の給料十円也と解雇手当とも思われるいくばくかの金銭と石田重役からの添え状を受け取り読み終わった父は「よく解りました、やむをえません」と答えたのみで後は押し黙ったままだった。宇都木氏が帰った後、母は「かわいそうに辛かったろう、おまんまでも食えヨ」といわれて張り詰めていた気持がいっぺんに崩れ、母の膝にすがり肩を揺らして泣き止まなかった。当時、世間一般では十五歳にでもなれば、男も女も世間に出て他人の中で充分働いていけるものだという意識であり、それができぬものは知恵遅れか不具者であると言われた時代である。わたしもそうした人たちの仲間入りかという絶望感が心に宿ったが、二〜三日過ぎると心も平常に戻り家業の豆腐製造や野良仕事に精を出した。
 それから七日目の昼頃だった、六月下旬のことだったが森田製糸工場の揚糸巻き返し工場の検番の谷治金治さんが、突然訪ねてこられて父に深々と頭を下げて「お父さん、お母さん、お怒り、お叱りは重々覚悟の上でお伺いいたしました、はなはだ身勝手なお願いで恐縮でございますが幸夫君をあらためてお貸しいただけませんでしょうか」という申し込みであった。
 谷治氏によると、私が解雇された日から四日後の朝、工場の始業時間前、主だった従業員、検番、古参の工女たちが集合して「陰日向なく真面目に働く年少の従業員を何のこれという理由もなく、単なる外見で首切りをするような雇用主の元では将来が案じられて安心して働けぬ」と朝の総検番を通して石田専務取締役に抗議したとのことであった。石田氏もことの成り行きに驚いて「それでは石井君の再雇用をお願いして、君たちの顔の立つようにするから」ということになり、こちらの方に馴染みがある谷治氏に頼み訪問させたのだという、谷治氏は「幸夫君、どうだろう今もお父さんお母さんにお願いしたが、君もさぞくやしいだろうが工場へ戻ってはくれないだろうか、今後はどんなことがあっても私が責任を持つから」といってくれたのである。父は「俺にはなんともいえない、おまえが自分で決めることだな」と、母は「さちや無理に行かなくてもいいよ」と言ってくれた。
 私はしばらく考えて「行くよ」と答えた。
 私が工場へ戻る決心をしたのは元同僚の人々が不慣れな新参者の私が誠意を持って、真面目にできるかぎりの努力をしていたのを見ていてくれたのだということと、新しい上司の独断的な対応に見せてくれた先輩たちのことを信頼したからで誠意を持って自分も応えようとしたからであった。そのとき私は十五歳で、知ることのできた世間の人々の人情でもあったからである。かくして私は喜びと緊張を抱えて谷治氏と連れ立って、再び森田製糸工場の門をくぐったのである。皆さんは門前まで迎えてくれて、口々に「よかったよかった」と我がことのように喜んでくれた。
 翌朝から以前のように受け持ちの第一工場の作業に精を出した、そして二日目の昼休みのことだ、浅野総検番がニコニコと顔をほころばせながら「石井君事務所の専務室で石田重役が君に会いたいと待っておられるから行ってくれたまえ、いやいや、何も心配することはないよ、何か良い話のようだからな」と伝えてくれた。私は一瞬、緊張したが「はい参ります」と答えすぐさま石田重役の部屋に行くと、石田重役は部屋の扉を開けていて「アー石井君か、さあコチラへ来て椅子にかけたまえ、いやーよく帰ってきてくれたネ、ありがとう、悪かった悪かった。君が人一倍よく働く優秀な小僧さんとも知らずあのようなことをしてしまって、ぼくは皆に叱られて吊るし上げられてしまったよ、本当にすまなかった」「サアサア君、そんなに固くならんで菓子でも食べなさい。あーそうかここでは食べづらいか、では、もって帰って皆で食べたまえ」と、次に周囲を見回して「これは皆には内緒だが、ぼくから君へ今までの謝罪を兼ねた報奨金だ、少ないが取っておいてくれたまえと遠慮する私の手に無理やりに、私にとっては多額と思える一円札五枚を握らせ、サアもう下がってもいいよ、身体に気をつけてこれからも会社のために働いてくれたまえ」と、私は丁寧に一礼をして専務室を後にした。それまで心の中でくすぶっていたモヤモヤしたものがスーと消えていった『人の性は善なり』との世の中の諺どうり石田氏の好意を感じその後の私にとって大切な何かを学んだように思う、それ以来私は仕事も人付き合いも会社の環境にもスッカリ安心してのぞめるようになりそれまで付きまとっていた不安感、劣等感を克服したように思えた。先輩や同僚などからも「おまえはこの頃だいぶ明るくなったなあ」といわれるようになった

     自 信
 私が森田製絲工場に勤めて二年半が過ぎた頃、下検番の見習いに抜擢された。月給も今までの二倍半余の十三円をもらえるようになり、盆の手当も八円、暮れの手当も十五円をもらえるようになり、まずまずこれで一安心と思った。そんな矢先、森田製絲株式会社は資金繰りに行き詰まり倒産してしまった。しかし、私たちは幸いに製絲工場の経験を買われて、再就職することができたのである、関口製絲合資会社という工場に糸繰り経験工女、百六十名とともに迎え入れられた。この工場は神奈川県鎌倉郡(現、藤沢市)中和田村字上飯田にあった。
 月給はたしか十六円だった、昭和五年六月ごろで私は十七歳になっていた、十八歳になったときは月給も十八円になり待望の下検番(見習い監督)に昇進したのである。下検番は監督補佐であるためいままでのように、単に作業だけしていれば良いというわけにはいかなく、簡単な帳簿の記入など計算が必要になる、そのため珠算ができなければ仕事にならないので、書店でそろばん初歩練習書を買い求め、暇を作って独習を始めたのだがなかなか会得できず閉口していた。第一〜第三工場での工女の作業実績を集計している事務員で神奈川県高座郡座間村字新道から住み込みで来ている高橋たけ子(十九歳)という人がいた。私が珠算の独習をしていることを知ったようで「幸夫さん、本で習うのは大変じゃないの、私でよかったら教えてあげますよ」といってくれた。私は大いに助かったので、渡りに船とばかりに見取り算、二桁までの掛け算、割り算を教えてもらいどうやら下検番としての任務をまっとうできるまでになった。
 下検番となると、男子従業員の中堅になるので持ち場に業務を完了すれば決められた休憩時間でなくとも、案外自由行動が認められていた。業務時間後は九時の消灯時間までは届出を出しておけば、夜間が異質も単独行動もできたが工女は古参の室長以外は単独外出はできなかった。室長とは大部屋一室に工女二十五〜二十六人を収容し、日常の寝起きその他の面倒をまかされている二十五歳以上の女性をいう、一般工女は週に一度の外出だけで単独外出はできなかった、七人一組での外出以外は許可が出なかった、そのような厳しい制度は工女だけでなく、年少な女子事務員、新参の男子雑役にも課せられていたのである。もちろん高橋たけ子も同様にまだ外出のできない身だったので、私は外出の際に感謝のお礼を兼ねて簡単な日用品などを買い求めて差し上げたのだが、彼女は最初遠慮して受け取らなかったがしまいには快く受け取ってくれたので私は親近感を持つに至った。彼女も貧農の家の次女であり兄弟姉妹も多く、生まれ在所の高等小学校の高等科卒業すると同時に関口製絲工場に雇われたのである。珠算が得意で三級の資格があったので、工女ではなく簡単な事務を任されていた。月給も十二円くらいでそのうちから八円を父親が取りに来て、残りの四円で身の回りをまかなっていたようだ、私は妹のような思いを持つようになっていた。彼女は年長の女学校を卒業した二人の女子事務員と十畳の部屋に寝起きしていた、工場の宿舎は一部の男子従業員や独身の検番、下検番が十畳一間に二人づつの合部屋であり、それに三人の女子事務員、工場食堂の主任料理人夫婦と炊事婦四人の部屋があり、右隣は目付け役を兼ねた相談役ともいえる総検番の霜島近次郎夫妻家族の社宅であり、全体に宿舎というより大家族の住居のようで和やかな空気が流れていた、私たちの部屋は主任検番で、倒産した森田製絲からともに転職した上條信次さんと一緒だった。廊下を隔てて三部屋ほど向こうが三人の女子事務員の部屋になっていた。
 同室の上條さんは長野県諏訪の人で、私と同じように少年の頃から貧しい農家の次男で大変苦労をして成長しただけあり周囲の誰彼という差別なく理解と温かみの深い人で、年は三十五歳だったが私のみでなく先輩の検番、同僚はもとよりたくさんの工女の身の上などの相談を受けて関口社長からも厚い信頼を受けていた。
故郷の諏訪に妻子を残して単身住み込みで二ヵ月に一回妻子にもとに帰り生活費などを渡し、翌日は愛妻の手造りのそばや山菜の漬物などを持ち帰り、炊事係のおばさんに頼んで料理してもらい、皆を部屋に呼んで食べさせながらわが子の自慢話をするのだった。「ホラホラ、また上條さんの子供自慢が出たぞ」などと冷やかされ頭をかいて大笑いするような人情深い人だったのでそんな上條さんの所へは皆、故郷から送られてきた珍しい食べ物や、外出した時町で買ってきた菓子などを持ち寄り度々茶話会などをしていたが、そんな折、上條さんは私を指して言った。
「俺はこのサッちゃんが好きだ、二年前に森田製絲から関口製絲にお世話になって以来、受け持ち工場は違うがずっと同じ部屋に寝泊りして良いも悪いも俺が一番知っているからさ、それに霜島さんも石井君は素直でよく働くし目下のものの面倒もよくみて今までに大きな声で叱ったり仲間同士で争ったりしたことはただの一度も聞いたことがないので感心だといっておられたよ、だが俺の目から見ても男振りはどう贔屓目に見ても男子従業員中下から一番だなー」といってみんなを笑わせたりしたが「だが石井君は我々の仲間では算盤が一番よくできるから大したものだよ」と同僚が言うと「そうかもしれん、サッちゃんは算盤は高橋が直接手をとって教えたので、そのとうりかもしれんなー」と言うと、周りのものはお互いに顔を見合わせて、意味ありげに頷いていたが、私には何のことかそのときには解らなかった。
 高橋たけ子は本を読むのが好きな子だった、私たちは時々自分で読み終わった雑誌、大衆文学全集、単行本などを貸し借りしていたので、互いに読後感などを話し合うようになっていたある日、同僚の下検番が「おまえと高橋は、目下恋愛中で相当にお熱い仲だと工女雀の噂になっているぞ」といわれ以外だった。その後、彼女に会った時に「ありもしない無責任な噂を立てられて、君に迷惑をかけてすまなかったなあー、これからは俺もあまり馴れ馴れしくしないように気をつけるから、今までのことは勘弁してほしい」と謝ると、かの女は私の顔をじっと見て「他人がなんといったって私は構わないけれどサッちゃんは私が嫌いなのそれとも好きなの、私だってもう子供ではないのよ」と言うのである私は慌てた、胸の中を見透かされたように思った。「そりゃあ好きだよ、でも俺は工場では一番の不男だし、足も悪いからなあー、それに仕事も半人前で未だ十八だしなー」と言うと「ああー、良かった私だって太っちょで色黒で、顔は悪いし不器量だからちょうどいいじゃない」というのである。まあそのとうりで三百人近い工女の中でも不器量なたけ子ではあるが、丸顔で額が広く口元はしまり利発な子である。たけ子は私の顔にちかづけて小さな声で、「私は、幸夫さんは素直で真面目だから、きっと二十一歳(徴兵検査後)になれば検番さんになれるわよ、その日の来るのを私は楽しみに待ってるわ」というのであった、二人は互いに身体を寄せ合い、固く手を握り合ったのであるがそれ以上のことはなかった。そのような交際は順調に翌年まで続いていた。
 昭和六年、兄俊雄が徴兵検査で甲種合格となり、現役兵として東京赤羽の第一師団工兵第一大隊に入隊することになった。私はそのために生家の農業を手伝うことになったので止むを得ず二年数ヶ月勤めて住み馴れた関口製糸工場を退職した、昭和七年二月私は二十歳になった、高橋女史との交際は自然消滅ということになった。そんなわけで自宅に戻り農作業をしていく事になったがそれまで本格的に農業をしていたことがなく手伝い程度の農作業の経験しかなかった私にとって本格的な農業は想像をはるかに越えた重労働であった。私の体力からすれば普通の農家青年が一日で終る作業も、二日かかってもやっとのことで、農繁期の六〜七月ともなると酷暑や重い農作物の運搬など初めて経験するのでとても辛いもので苦業でもあった。それでも半年もするとどうやら鍬、鎌などのあつかいにも馴れて、施肥料や種蒔きなど農作業のコツもわかりかけたが、途中からの農家なので耕作地も少なく家族に年間の食糧をまかなうほどの収穫はなく半年間の米は他家から買わなくてはならなかった。
 そんな折、ツルの亡くなった母の生家(屋号、神戸の関根揮章さん)の従弟(いとこ)が来て話すのには、以前から雇っていた作男がよそへ養子に行くことになったので程なくやめてしまう、代わりに私に来てくれないかという話だった、私は本格的に農作業などを教えてもらうにはちょうどいいと思って、三日に一度、一ヵ月に十日、一年に百二十日という約束で話がまとまり、三日ごとに関根家の日雇い作男として働くことになった。三食とも雇い主が賄うのが当時の習わしで春夏は早朝五時までに先方に着き、朝草刈りまたは家の周りの清掃などをし雨降りの日は縄ない納屋の中の片付け米俵あみなどの仕事をし、日当は一人前に人は六十銭だが、私はまだ不慣れなので四十五銭と言うことで働いた、それもお金ではなく米や麦を先取りして仁太郎が受け取っていたのである。そんな暮らしが一年半くらい続いた頃、兄俊雄が軍隊を満期除隊した時には誰の手もわずらわせなくともまずまずひととうりの農作業とそれに付随する炭焼きまでできるように体力がつくようになっていた。昭和八年、その年は私の徴兵検査がある年で検査を受けたが私は丙種合格、兵役免除だったためそのまま関根家に作男として通い兄は自家農業に専念すると言うことになる。
     決 意
 翌昭和九年三月下旬のある日、兄俊雄が何か深く思いつめたような顔で私に向って言った「俺は近いうちに家を出ようと思い決心したのだが、家のものに何も言わずに黙っているようなことはしたくないのでおまえにできは話しておくが、お前も十五の歳から足掛け六年間も他人の中で苦労して働いた賃金を、わが家のために出してくれ俺が兵隊に行っている間、うちの百姓をしながら作男にまで通い慣れない仕事をして苦労をしてきたが我家はもう駄目なんだ、俺やお前やカツ(二女・十八歳)琴江(三女・十六歳)の四人が飲まず食わずで働いても、我が家の借金は払いきれるもんではない、それほど借金が溜まっていることがわかったんだよ」「野川孫太郎(高利貸)さんの分だけでも、親父に内緒で調べてみたら、二千六百円にもなっている、ほかにも三軒からの借金があり合計すると三千円近くなる、野川さんの以外だったら俺たち兄弟妹が協力すれば何とかなるだろうが野川さんの分は親父の恩給や年金の証書が抵当に入っているからいつ返済が終るのかすらわからない状態だ、それに姉エイも今年は二十六になる、この頃では嫁入り話をもってきてくれる人が二,三にんいるというのに、うちの借金があるためにいまだにたけで苦労して働いている姉がかわいそうだ、多少の借金ならいざ知らず、まさかこんなに借金があるとは、いまのいままで夢にも思わなかった、このごろは野良仕事をしていても、借金のことがあたまからはなれないので家を出る前に、今日か明日にでも川和警察署に行って人事相談部で事情を打ち明けて解決方法を確かめてくるからな」と思い詰めた顔で私に言った。
 私は兄お言葉を聴き終わると、そうだったのか、俺も故郷を離れて五年間いろいろ仕事をして給料の七、八割を仕送りしたりしていたのに、親父は「お前たちが後三年間働いてくれれば、借金は払い終わる、その時は俺の恩給と年金が入ってくるから、俺は田畑を買って自作農になれるからな、何しろ俺は恩給と年金があるからなそのときはお前たち兄弟も楽になるだろう」と得意げに話したものであったが、借金は全然減ってなかった。
 私も大変驚いたが、しばらく考えて「だけれど警察の人事相談部へ行っても多分無駄だと思う、法外な利息を承知の上の借り入れなんだから裁判沙汰なんかになっても弁護士の費用もないし、相手方には顧問弁護士がついていると言う話だし」というと、兄は「だが今のところではほかに方法がないだろう」というので「いやそれは無いことはないだろう」と言うと、兄はムッとした顔をし顔色を変えた。「ではお前には何か方法があるというのかッ」とイライラした様子だったので、私は兄の気持を静めるように「ちょっと待ってくれよヨ、必ずあるとは言い切れないが無いこともないよ」と言いながら急いで押入れから自分の古びた布張りのトランクから取り出した雑誌の最後のページを指して「読めば解るよ」と兄に渡した。
 兄は急いで雑誌を受け取るとむさぼるように読み始めた。次の瞬間、目を輝かせながら「ヨシッこれだ、これだよ」と言いながら私の顔をじっと見て、肩の力を抜いた穏やかな表情に戻り、「よくお前はこんな記事に気がついたなー、俺も度々この本は目をとおしたが気づかなかった」と言いながら確かめるように、二度三度と読み返しているのだった。「高利の借財等に苦しむ全国の会員諸氏は、勇気を以って本会本部にきたれ、必ず解決の道あり」というもので、[やしま報]という雑誌で大日本傷痍軍人会発行となっていた、それは三月に一度我が家に送られてくる機関紙だった。
 兄はにわかに元気付き「よーし俺は今からすぐに東京・巣鴨傷痍軍人会本部に言ってくる、なーに俺は赤羽の工兵大隊に一年半以上いたのだから、東京の地理には明るいからな、お袋には余計な心配をするといけないから、お前からそれとなく話しておいてくれ」「だが親父さんには内緒にしておいてくれ」というと、こざっぱりした野良着に着替えると午後一時頃家を出て行った。そしてその日の夕方、心配している私たちの前に晴れ晴れとした顔をした兄が帰宅した。「結果は上々だ。債務返済の方法や法的手続きも一切軍人会が当たってくれるというのだ」債権者(野川孫太郎さん)が最初に取り決めた年利一割二分(十二パーセント)を守らずに倍以上の暴利をむさぼりとおすなら、また是正交渉に相手方が応じない場合は大日本傷痍軍人会が原告に成り代わり訴訟その他一切の解決に当たるとの確約を取ってきたのだ。
 翌日兄は、石井本家の泰助(当時二十七歳)さんと連れ立って、一切の事情を父に次のような計画を知らせた。それは違法な利息を要求する野川氏との関係を絶つことであり、そのためには残債務全額を正当なものに直し返済してしまうことであり、その返済は三澤藤太氏から借りて返済しようというものだった。
 このことを父に承諾を受ける前に話を進めたことに、父は顔をつぶされたと思いたいそう怒ったが、違法な利息を取られている事実を話し、傷痍軍人会の対応も話するうちに父も全容が理解できたとみえて若い二人の意見に任せると言うことになった。幸い三澤藤太氏は平素から兄の真面目で誠実な人柄を知っていたので通常金利を下回る年利八分という条件で肩代わり融資をしてくれた。野川氏側も傷痍軍人会が相手ではこちら側の条件を承諾せざるを得なかった。かくして悪徳ともいえる野川氏との縁もやっと切れた、肩代わり融資をしてくれた三澤氏との条件はつぎのようなものであった。
一、仁太郎の恩給、年金のうち恩給を返済に当てる、年金は生活費に当てる、利子は年利八分(八%)とする。
二、 仁太郎の死亡に備えて終身生命保険に加入する(保険金額は二千円とする)
三、 恩給及び生命保険金は受取人は、債務返済が済むまでは三澤藤太氏とする。
以上の条件で取りまとめられた。
 三年五ヶ月後には返済が可能になるとの確証を得たのである。ちなみに恩給は年額五百五十円、年金は年額百二十円である、父もこれで一安心というところだったと思われるが、しかし、どうしてこのような多額な借財がたまってしまったのだろうか?大家族とはいえみんな働いて仕送りりはしていたのだし借地とはいえ作物も作り、豆腐も作り売っていたのだ、当時では、田畑を相当持つ自作農家でさえ現金収入は乏しかったが、わが家では年金も、恩給ももらっていたのに不思議に思い母に尋ねた。当時としては数少ない年金・恩給受給による現金収入があったがために、平素から親交のある知人、友人から頼み込まれお人好しの父は断りきれずに保証人になってしまった。返済不能になった人の返済の肩代わりをさせられたのである。その上に利殖話にのり、遂には高利貸に金を借りてしまう。と言うようなおきまりの借金地獄に入ってしまったためである。自分が使うために作った借金ではなく他人の保証をしたためにできた借金であることを、母はしみじみとした口調で打ち明けてくれたので、私たち兄弟も父に対する不信感もすっかり溶けたのである。
 このようにして二十年間積もり積もって苦しめられた借金の問題をやっと全面的に解決するめどがたったのである、そして、長兄の俊雄は婚期をやや過ぎた長女エイは別として、次女カツ、三女琴江、には家計の内情をつぶさにうちあけて、せめて借金が返済されるまでは働いてくれるようにと申し伝えて了解を得て、みんなで協力し合うことを確認しあったのである。
 私も兄も家業の農業に励み自給自足体制を計るべく、兄は奈良下講中の大地主である土志田修吉氏に交渉して字助太郎谷戸に二十数年間使わずにあって荒廃していた雑木林を借り受け開墾した結果、耕作総面積は畑五反(千五百坪)、田んぼ三反五畝(千五十坪)、まで拡張でき、米麦はもとより野菜類、特に大・小豆は自家製味噌、醤油をつくり、米の裏作に油菜を植えて菜種を取り、業者に頼み食用油をしぼり、主食、副食、調味料はほとんど自給することができるようになった。父仁太郎は生活のゆとりもできてきたので張り合いが出たのであろう自ら進んで、今まで引き受けていた区内の役職などを人に譲り、農作業の手伝いなどに精を出すようになったのである。私も慣れなかった農作業もすっかり慣れ虚弱だった体力も普通の若者と同じようになっていたことも自覚し始め自信も付いたのである。

独立・暗い時代・田奈部隊

     独 立
 そこで私は、次男坊の俺はもうこれ以上家にとどまる必要もない、ゆくゆくは独立して一家を構えなければならないと考え、早急に働くところを物色していたが当座の準備金がいる。そこで同じ村の若い人たちと一緒に資産家の三澤藤太さんの屋敷の宅地造成工事の土方に雇われ賃稼ぎをすることにした。日当は日払いで食事つき八十五銭で、雨以外の一ヶ月半働いて貯えにした。その時、農家の関根鶴吉さんが三澤さんの現場を見に来ていうには「実は俺のいとこが川崎の日本鋼管で社内の専属工事の請負業者をしているから誰か行って働いてみる者があるなら、俺が紹介状を書いてやるよ」と言いながら私の顔を見て「お前さんは弟身分だからどうだろう働く気はないかね」と言ってくれたので、私は渡りに船と承知し紹介状を頼み、このことは当分伏せておいてもらいたいと言い添えた。
 数日後、準備も整ったので、初めて両親、兄に出稼ぎに出ることをいい紹介状を見せたのであるが、父母も兄も川崎の日本鋼管の工事場と聞いて何とか思いとどまらせようとしたが、普段は逆らうことをしない私だったがこの時ばかりは頑として決心を変えなかったのでしまいには折れてくれた。
 当時、日本鋼管は日本の重工業のトップ企業であったが『金と命の交換会社』などといわれ、人身事故や傷害事故の多いとても危険で過酷なことで知られていたのである。兄は何とかして思いとどまらせようと「お前が家を出てよそで働きたい気持ちはよく解る、だがあの工場で例えどのような現場で働くのも俺は反対だなー、俺が赤羽の工兵隊にいた時に同年兵とあの現場を見学に行ったことがあるが、あの会社にだけは就職する気になれなかったなー、とても危険な現場ばかりだよ命が幾つあっても足りないと思ったよ」 「工兵隊現役出で上等兵以上の成績で除隊したものは無試験で本雇用の工員になれるが俺の同年兵には一人も希望者いなかったくらいだからなー」と言うのである。
 私は「俺ももう二十三だよ、他人から見れば半人前かもしれないが、俺も一端自分で決めたことだから今更やめることはできないよ、世間で言うほど危険な仕事だったら帰ってくるよ」と言って決意を述べた、父母も兄もそれ以上は言わなかった、翌朝母は出発する私に好物のぼた餅をこしらえて心配そうに送り出してくれた。
 日本鋼管川崎市渡田にあり、大小の鉄管をつくるのを主な仕事としていた、南側の海岸線は広大な埋立地で、たくさんの工場が林立したくさんの煙突からは赤黒く空を覆う煙を出し騒音は大変激しく響き渡り休むことがない、静かな山村地域から来た私には耐え難いほどの轟音が腹に響く、北側は一面の湿地帯で、葦が覆い茂り耕作を放置された水田だろう、急速な人口増のための住宅地が急ごしらえに造成された地域にある関根鶴吉さんが紹介してくれた従弟の会社を訪ねた。
 太田組鈴木喜代治郎さんの住居兼会社は、正面が母屋になっていて、右側が若い衆(従業員)の寝泊りする部屋があり、左側は工事用具や材料を置く物置小屋があった。母屋正面には大きな一枚板に太い筆で太田組と大書され左側に鈴木喜代治郎と書いてある玄関口で案内を請い、出てきた若い衆に関根鶴吉さんの紹介状を出した、しばらく待つうちに五十五、六歳のがっしりとした男の人が出てきてニコニコしながら「やあ、よく来てくれたなあー、私が鈴木喜代治郎だよ、手紙にも書いてあるが、都会に出てきたのは初めだそうだが、ナーニお百姓の息子さんならうちの仕事くらいなんでもないさすぐに馴れるよサアサア上がって座敷で休んでいてくれよすぐに賄いのばあさんがお茶でも持ってくるからゆっくりしててくれ、夕方になれば若い衆が戻ってくるから紹介しよう」とのことだった。
 午後六時ごろになると工場内の現場から六〜七人のひとたちがドカドカと戻ってきた、皆真っ黒の日焼けして逞しい体格の人たちばかりであった。その中の六十がらみの親父さんが部屋頭の熊谷久太郎という人だった、翌日から私も現場へ出て働くことになり、なれない土方作業の根切り(つるはし、スコップ等での土起こし)、パイ助担ぎ(工事用の砂利、砂を丸い籠二個につめ天秤棒で担ぎ運ぶこと)は初め無理なので工事場の片付けや段取りの手伝いなどの仕事をしていたが、三ヵ月もするとたいがいの仕事も人並みにできるようになって日当も人並みのものになったがそれというのも部屋頭の親父さんが辛抱強くめんどうをみてくれたおかげだった。
 日本鋼管での現場の土木作業も、世間で噂するほど厳しく危険なものではなかった、会社の安全基準を守って注意深く行動すればよく毎日の仕事にも張り合いが出るようになり、こせこせしない野外労働、雨の日は屋内工事となり思いのほか収入もえられた、三澤籐太氏の土木作業の二倍の日当一円六十銭になった。
その間、家には一度も便りをしなかったので、昭和十年四月、兄の俊雄が突然訪ねてきた「お前が家を出てからただの一度も手紙もくれないので、お袋が心配して様子を見てきてくれというので、野良仕事も一段落したので来たんだ」とのことだった。私は連絡もせずにいたことをわびた後「大丈夫、初めはなれない仕事なので苦労はしたが、きつい仕事にも要領を覚えてきたので、呼吸も飲み込みケッコウ楽しく働いているから心配は要らないよ」と言って、盛り上がった肩、節くれだった腕をたたいて見せた。兄は、呆れたように苦笑した。「そうか、よく解った。俺もお袋に安心するように伝えておくから」と言った。「そうですよ、おっかさんに余計な心配をかけるもんじゃありませんよ」とお菓子とお茶を持ってきた賄のおばさんも加わった。兄は玄関の上がりかまちから腰を上げ賄いのおばさんに礼をいい私に「それじゃあもうおいとまするからご主人や皆さんにお前からよろしく伝えてくれ」と外に出たので私も兄と連れ立って表通りまで出て兄を送り際に、ズボンのポケットから財布を取り出し一円札二枚、五十銭銀貨一枚を「帰りに昼飯でも食ってくれ」とためらう兄の手に握らせた、しばらく私の顔をじっと見ていたが「身体に気をつけろよ」と言い残して帰っていった。
 そんなことがあってから四ヶ月後の八月下旬、至急電報が届いた。兄からのものだった、[チチキュウビョウカエレ]と言うものだった、私は取る物もとりあえず久しぶりの我が家へ帰った。仁太郎は持病の喘息の発作から高熱を出し、肺炎を併発、危篤状態に陥り二〜三日が峠であるとの医師の診断であった、そのうえ兄俊雄が九月中旬から三か月の予備役召集(現役を終えた予備役在郷軍人の軍事再教練)で、東京市赤羽の工兵第一大隊に入隊することになったのである。
 やがて、秋の農繁期になる、一家の働き手を軍隊にとられてしまえば大変なことになる。幸い父の容態は小康状態態になったが姉妹は働きに出ている、病み上がりの父と母では秋は越せない、仕方がないので三か月の間私が農作業をして我が家を支えることになった。川崎の太田組には事情を話し残りの賃金を清算し、荷物をまとめ引き上げて我が家に戻り次の日から農作業に従事した、十一月中旬、兄も無事に軍務を全うし除隊したので、兄とともに年末の取り入れ、作付けなどを滞りなく終えた。
 昭和十一年新春、父もスッカリ健康を取り戻し私も二十四歳になった、これ以上家に居る必要もない、将来の生活の道を築くのが何よりも先決だと思い、また適当な働き口を探すため知り合いに声をかけていた。その内の一人屋号が杉山の井組勇吉さんの紹介で井組さんの遠縁に当たる横浜の鶴見区佃野町十三番地にある池田組運送店という土木埋め立て用の砂利の運搬をしている会社に住み込みで働くことになった、肉体労働以外に特技もない私には仕事の選り好みなど言っていられない事情があった、とりわけわが家の様な山里の小作農では長男が家業を受け継ぐのでさえやっとのことであるし、私が外に出て生活の道を求めるのはあたりまえのことで自立こそ大切なことである。池田組運送店はわたしが想像していたような荒っぽい、きつい仕事ではなく、野外労働を経験したものにとっては健康体でさえあれば誰にでもできる作業であり池田組はおもに鶴見〜川崎〜羽田〜大森〜森が崎方面の臨海工業地帯の埋め立て作業である。鶴見町総持寺の本山通り裏手の通称浦島山と呼ばれていた高さ五十メートルほどの小高い山を切り崩しトラックに積んで埋立地に運搬するというきわめて簡単な作業で危険なことも無く安心して長つづきする仕事だった。作業員は三十人ほどの若い衆がいた、おもに東北の福島県山形県、あたりから出稼ぎに来ている人たちで農家の次、三男が多かった。それに、同じ村の鴨志田四平さんが元部屋の先輩として働いていた、社長の池田高助さんは三十三歳の壮年ながら二十三の歳からこの道を志し裸一貫、独力で事業を起こして粘り強く努力を重ねたたたき上げの人だった。内部屋、外部屋の棒頭(責任者)や若い衆の気受けも極めてよく信頼も厚く、仕事以外にも何やかやと細かい点まで相談相手になってくれる温かい人柄で、佃野町内のひとびとにも極めて信頼され、町会長まで務める好人物だった。
     暗い時代
 私が池田組運送店に住み込みで働くようになったのは昭和十二年二月の中ごろからでその年の七月七日は上海盧溝橋事件に端を発した支那事変の勃発の年だったがそれは日本陸軍の狂気の独走が始まったことによるもので、天皇を初め側近の重臣、心ある為政者、内閣、真の憂国者、たちの真意を無視した無謀な軍人たちによって「日本国は神国なり、神州は不滅なり」「大日本は大東亜の盟主なり」と世界の大国に向けて揚言大語(ようげんだいご)し、支那大陸に戦いの歩を進めたのである。[支那を制すのは世界を制す]との思い上がりである。果たせるかな、そのような行為に対してアメリカを始めヨーロッパの大国は一斉に無謀な侵略であるとして、ただちに中国全土から撤兵せよとの抗議文を各国の大使館、公使館に突きつけてきたのであった。それを無視する日本軍は昭和十三年に入ると、上海、徐州、南京と侵略を進めいつ終るとも知れない長期戦の様相を呈してきたのである。既に国内では予備役在郷軍人および第一乙種の兵役義務にある男たちが、次から次へと招集され大陸戦線へと送り込まれていたし国内には不安な様相が世の中を覆い始めていたのであるがわが家も例外ではなく兄が予備役在郷軍人であり、弟ももうすぐ兵隊検査である。
 不安が的中する、私の職場に兄が召集を受けたとの知らせが、電報によって届けられた。私は組長の池田高助氏にこの事を告げ、仲間や池田家の人々への挨拶もソコソコに家に戻った、六月九日であった、その夜近隣の人々、親類の人たちを招いての壮行会が行われた、壮行会と言うのは送別の祝宴で、農村などでは[立ち振舞い]といわれ、通常は他家に嫁ぐ花嫁、または次、三男が他家に婿入り時に行う送別の祝宴などをいった。
 わが国に明治初年に制定された国法は天皇陛下を中心とした立憲君主国制度の憲法が制定され、国体、国威を維持する要である徴兵制度が敷かれ、日清、日露の戦争には大勝利をなし、世界列強国に対して国威を宣揚できたのは天皇陛下の大御心(おおみごころ)による賜物と、世界に比なき勇武の陸海軍の将兵の儘忠報国(じんちゅうほうごく)の愛国心によるものであり、選ばれて一切の私情を捨てて祖国のため、天皇陛下の御為に軍人として戦場に赴くことは、男の本懐であり名誉であり一家一門の栄誉でもあるといわれていたのである。そういう背景の下に壮行会という重苦しい空気の中で行われる送別の宴であった。その後人々が帰った後「俺が出征した後、うちの収入はまた元のように何も無くなる、苦しい暮らしに後戻りだなー、やっと自給自足が整いあと半年か一年頑張れば暮らしも幾らか楽になるという矢先に召集となー」 と深刻な顔で言うので、私は池田組で働いて貯めた貯金通帳を見せ「大丈夫だよ、これだけあれば兄貴が応召解除になるまで心配ないよ、なーに俺も家に戻ったからにはそのつもりで頑張るから」と励ますと、兄は私の顔をジッと見て「そうか、これで俺も安心してあしたは出発できるよあとは頼むぞ」と私の手を固く握り締めた。
 昭和十三年六月十日兄は東京の所属部隊に出て行った、同じく十七日中支派遣軍岡村部隊気付、栗原部隊、柴田隊に配属され中支戦線に出征していった。
私はまた家に戻り農業を支えることになる。その後借財は計画どうりに返済が進んでいたがまだ完済までには一年半を残していた、私は貯えた二百四十円の金を銀行で降ろしてきて現金を父に手渡した。父は驚きそして大変喜んだ。
 支那事変から二年、中国戦線は拡大の一途をたどり、やがて奈良村からもきょうはあの家、明日はこの家という風に召集令状が届くようになっていた。最早戦争も局地戦では収まらず、本格的な戦争に突入してしまったことは国民みんなが覚悟せねばならない事態となっていたのである。戦線、銃後という言葉が盛んに言われだして、日常生活の食料や燃料に不自由するほどになる頃『欲がりません勝つまでは』などという標語が流布されますます重苦しい貧窮が迫るようになり『ガソリンの一滴は血の一滴』などと叫び銃後の協力もむりやりというようになって日本中が狂気の集団と化してゆくのもそう遠くはなかった。 昭和十四年三月下旬、軍事至急電報が届く兄俊雄からのもので『アスアサカエル』と言うものだった、吉報だ!みんながざわめいた、応召解除だ!復員だ!父、母、私は夜の明けるのも待ち遠しい思いで朝を待った。
 午前十一時ごろ、帰り着いた兄は以外に戦時武装のままの姿だった、左腰に長い指揮刀をつけ、右腰に大型の軍隊用の銃をつけ、左腕には紅白の横縞の腕章を巻き、左右の肩には軍曹の階級章をつけ、実に堂々たる姿で現れたのである。応召解除の復員ではなかった、所属工兵隊の一部復員帰還兵員、百五十人の輸送指揮官として広島の宇品港に上陸、六日後には再び軍用輸送船で中支戦線へ戻るのだと言うわけで、その間一泊二日をわが家で過ごすというわけだったので東京のメリヤス問屋で働いている三男敬敏(十九歳)も呼び寄せ、親戚のものや近隣の人々も我が家に集まりいろいろな話に花が咲いた。翌日、午後出発の直前、兄は突然の激しい悪寒にともない四十度の熱を出し倒れたが予定の日までにはなんとしても広島まで戻らねばならない、中国滞在中で罹ったマラリアの再発だった。すぐに長津田の医師の急診を受け解熱注射と解熱薬を処方してもらい出発していった、それから十日後兄からの軍事便で原隊復帰の知らせが届きホッとした。
     田奈部隊
 明治維新以来七十余年これと言う変化もなく土着の人びとにより、農業を中心に因習を守り山村特有の質素な暮らしを守り、平凡で平和な暮らしをしていたのであるが昭和十三〜十四年初めにかけて、この地がまだ横浜市編入される直前のことだったと思うが、東部軍経理部の中堅将校を通じて神奈川県都筑郡田奈村字奈良、鴨志田、東京市南多摩郡鶴川村三輪野共有林を含めて、総面積三十数万坪の山林、田畑を事前協議無しに各町内会を通じて、国の定めた適正価格の応じて即刻買い上げを関係地主に申し渡した、関係地主はもとよりその地にすむ人にとっても寝耳に水であったが逆らうこともできなかった。東部郡経理部の半強制的に買収した山林田畑は東京市板橋に所在する東京兵器補給廠の分廠であり、おもに弾薬調整加工廠であることが明らかにされ、そのため軍当局は新設作業廠の必要使用人は男女を問わず地元民を優先採用すると確約したのである、そして施設予定地に住む八戸の農家も移転を余儀なくされた。
 その年、昭和十四年四月一日付けで神奈川県都筑郡田奈村字奈良から神奈川県横浜市港北区奈良町と住所変更された。同じ年の六月頃から東京の大手土木建設会社松村組により軍事建設工事が着手されたのだが、当時の工事は機械がまだまだ後れていた時代で土木作業は人による人海戦術であり、そのため多くの労働者が募集され工事が進められていった。戦時下の工事ゆえ急を要するものであるので、労務者も多数を必要とされ、東北の宮城、福島、山形あたりの農家の青年や、在日朝鮮人が多く集められ、またたくまに飯場が急増、農家の空き家なども飯場用に貸し出された、このように各地方からたくさんの労働者が溢れるように集められた山間の小さな村はにわかに活気に溢れ、騒がしくもなった。 それまで戸締りなどしたことのないこの村は、見慣れぬ労働者の徘徊する村となり、警戒の目を注ぐようになり、戸締りなどもするようになった。しかし、軍当局、及び松村組の責任において次のような注意が告知されたのである。
一、本工事完成は地元民の皆様の全面的な協力が無ければ早期完成は不可能であること。
二、工事関係労務者は安全及び監督は充分に注意を怠らず夜間外出はすべて許可制とし、宿舎の人員点呼は毎日行うこと。
三、万一地元民に迷惑を及ぼすような言動、行為をなした者はただちに憲兵分隊にひきわたすこと。 
四、朝鮮人独身労務者はすべて恩田宿舎に収容し同宿舎責任者に監督を一任すること。
 その結果地元民も厳重な警戒感も緩和し友好的な態度で迎えるようになった。昭和十五年、奈良町の軍事施設工事も昼夜兼行で急ピッチで進められ、山村で現金収入の機会の少ないこの町の青年たちは農作業は老人に任せ、農繁期以外は工事場に出て働くようになった。私も父と相談して家から遠い作地を地主に返して耕作面積を縮小(田畑併せて千三百坪)し、私は松村組の製材作業場へ製材職人の手伝い人夫に雇われ日給二円三十銭で働きに出ることにした。弟の敬敏も東京のメリヤス問屋の定員をやめて横浜市神奈川区の浅野船渠(ドッグ)機械工として就職し家から通勤するようになり、家族も父母、私、弟、妹二人の六人となっていた。兄は戦地におり、姉のエイ、次女カツ、三女琴江の三人は嫁に行って、わが家もそれなりに平和な日々が過ごせるようになっていた。
 昭和十六年六月、中支戦線から兄の便りで、曹長に昇進したとの軍事郵便があり。十月には奈良町に新設された陸軍作業廠も操業を開始、名称は東京陸軍兵器補給廠田奈部隊といい火薬調整及び大小の砲弾装填、貯蔵、それらの戦地輸送準備などが業務であった。またこの年はわが家にもいろいろなことがあった、過去二十年にわたる借財返済の終ると同時に、父仁太郎の傷痍軍人特別恩給証書が抵当を外れて念願の父の元に返ってきたことである。その日の来るのを石井仁太郎家の全ての者が待ち望んでいたのである。わが家ではその日、まず神棚に榊を供え、灯明をともし恩給証書を供え、父母ともども拍手を打ち、うやうやしく伏し拝んだときは御神灯も涙にかすんで、待ちに待った喜びと安堵感に浸った。
 そんな喜びも覚めやらぬうち、兄俊雄からの軍事郵便が届いた、肺浸潤により陸軍野戦病院へ入院したと言うのであった。喜びは一転して重苦しいものとなった。そして、三男敬敏は前年浅野ドッグを退職、経験工として相模原市淵野辺の陸軍相模原造幣廠に転職していたのであるが、この年徴兵検査で甲種合格となり、翌十七年春には現役兵として満州の部隊に入隊が決まってしまったのである。弟もわが家の家計の大変さは知り抜いていたので、月給も最低限必要なものほかは父に渡していた、その弟も楽しい思い出もないままにすぐ戦地に赴く、重苦しさは二重になってまた我が家に張り付き始めるのだった。
 丙種合格の私は戦場の行かなくて済むので、地元の陸軍兵器補給廠田奈部隊、会計班付き炊事班に臨時工員として務め始めた。一昼夜制の二十四時間交代勤務だったので、さいわい家業の農作業もさして支障も無く、好都合であった。それから一ヶ月後、日本が突然アメリカに宣戦布告し同時に、日本の連合艦隊所属海軍航空隊特別攻撃隊が、ハワイの真珠湾を攻撃したのである。アメリカ太平洋艦隊は大変な損害を受けた。日本では『やったやったと』大騒ぎであったが、世界を相手にいわゆる第二次世界大戦に突入してしまった日であるそんな昭和十六年が過ぎた。
 昭和十七年一月五日、臨時雇いだったわたしもこの日、本雇用となり普通工員となり、二月一日付けで配膳係班長に任命されまずこれで一安心ということになった、毎日の作業に弾みがつき、張り合いも出、一日おきの勤務明けの日には父母ともどもに農作業に励むゆとりある日々を過ごせるようになっていた。安定した陸軍軍属工員に本雇用になったことで、父母を初め弟敬敏、隣家の大工職、鳥海酉蔵さんご夫婦までわがことのように喜んでくれた、私が二十八歳八ケ月のことである

見合い・所帯・兄の結婚・貧しい所帯・戦時下・戦場からの手紙

     見合い 
 同じ年の二月下旬、思いがけない人から結婚話が私に持ち上がったが、兄がまだ独身で野戦病院に入院中のことでもあり、「弟の私が兄より先にそのような話は受けられない」と断ったのだが、父母の方が乗り気になりその話を受け入れた。醜男(ぶおとこ)を自認していた私ではあったが、それならと見合いをした、相手の女性(二十五歳)も承諾したので結納も済んで吉日を選んで挙式の日取りも決まった、数日後、突然相手方から理由も明かさず一方的に結婚解消してくれとの文書が入った現金為替で結納金が送り返されてきた。封書の中には、理由は後日仲人を通じてお知らせすると言うのである、それから二日後仲人の海老沢磯吉なるひとから話された一方的な破談の理由とは次のようなものであった。女性にはほかに将来を約束した男性がいるのだが、その人は現在中支戦線で戦っている人である、両親に打ち明ける機会も失いまして頑固一点張りの父親にはなおさら打ち明けられなかった。
 思い余った末に母親に打ち明けたというのである、真偽の程はさておき、話の筋は通っている、無理もないことではあるがそれならばなぜ結納の前日にでも婚約を断ってくれなかったのかと抗議をしてみても始まらなかった。仲人の海老沢磯吉さんも面目まるつぶれとなり、私の前に深々と胡麻塩頭を下げ「いい年をして君や君の両親に頼まれもしないのに余計な世話を焼いて挙句の果てにこのざまだ、何を隠そう先方は私の長女があの家の長男に嫁いでおり親類の間柄だ、こうなったからには場合によれば、娘の家とも親戚の縁を切り、結納金も倍額にして返すつもりだから」と言うのである。私は「今となってはなんといっても仕方ありませんが、例え世間知らずとはいえ、二十五歳を過ぎた人なら、これから先長い一生の生活の相手を決める大事な時、自分で決断できず相手方に屈辱を与えるような人とは今となれば結婚できなかったほうが良かったと思います、結納金はお渡しした分だけ返してくれれば結構です」「私は見てのとおりの醜男ですがいつの日か分相応の女性と結婚する時もあるでしょが、このたびのご親切は私にとって貴重な経験として自分の胸にとっておきますから、当分は近所の噂にもなりましょうが、その内にほとぼりも冷めるでしょう」と言い気にしないよう伝えた。かたわらの父母や石井側仲人石井泰助さん海老沢磯吉さんも黙って聞いていたが、海老沢さんは「私もこの歳をして指をくわえて引っ込んで入られない、意地でも、気立てのいいもっと了見のしっかりした花嫁を探してきますからね、そうしないと君に頭が上がらないからね」と言ってくれた。
 そんなことがあってからしばらくしたある日、職場の先輩で副組長格の佐藤末広さんがそっと私をもの陰に呼んで「実は石井君、突然君にこんな話しをするのは非常識かも知れないが、思い切ってもう一度お見合いをしてみる気はないかね」「と言うのは実は俺の女房の妹に今年二十五歳になる末娘がいるのだがね、今までに一つ二つの縁談があったらいがなかなかまとまらず、今年で二十五になるのだが両親も義兄夫婦も頃あいの相手がいたら俺たち夫婦に仲人になってこれとのことなんだ」「末娘でなんの行儀も仕込んでないが、子守り奉公や女中奉公の経験もあるのでそれなりの苦労はしているようなんだ体格は小さいけれどね、顔立ちは人並みだと思うんだよ」「君は炊事工員の中でも一番話の筋は通っているし、真面目だし本雇用で収入も安定しているその上、失礼な言い方かもしれないが召集令状の来る心配もないしね。」「俺はね満州事変のとき予備役召集兵だが、俺の応召中は留守中女房は、長男を抱えて苦しい生活を強いられ、影膳をそなえて毎日俺の無事復員を祈っていたそうだ、どうだろう思い切って今一度だけ見合いしてみる気はないか」と言うのである。
 私は、心の中でヨシッ恥のかきついでだ、駄目でもともともう一度やってみるかと決心して「解りましたお会いしましょう、ですがひとつだけ条件があります、私の父母や職場のみんなに内緒でならお会いしましょう、そちらの都合でいつでも伺いいたしますが」と言った。それから二日ほどして佐藤さんから見合いの日を伝えられた。私も承知しましたと佐藤さんに告げた。
 見合いは長津田の駅前の佐藤さんの住まいでだった。内緒のことなので適当な理由をつけて仕事が終った後の夕方のお見合いとなった、仕事帰りの作業着のまま居間に通された、しばらくして義姉に付き添われて畳に手をつき頭を下げて白湯を出してきてくれたので挨拶をすると、相手の女性も顔を上げて私を見た。丸顔の可愛い顔つきをしていた、数えで二十五歳といったが一〜二歳は若く見えた、しばらくして彼女は引き下がった後、佐藤氏と少し雑談をして家に帰った。昭和十七年三月三日だった。
 やがて相手方のほうも話を進めてくれという意思が私に伝えられ、そのことがあった後、私ははじめて父母に今までのことを伝えたのである。そして、こちらからも正式に結納、婚約をすすめてくれるように頼んだ、父母も突然のことだったので驚いてはいたがおめでたい話なので大いに喜んでくれた、昭和十七年三月九日だった。
 その日の夕方からは弟の敬敏が海外部隊(満州)へ入隊のため、壮行会が行われ、祝宴が済み人々が帰った後、弟に今日までの縁談のいきさつを話した、前の破談のことも知っていた敬敏は「よかったなあ、兄貴、よかったよかった」と心から喜んでくれた。翌三月十日の朝、弟敬敏の出発の日、祝入営石井敬敏君と大書した幟旗を先頭に奈良町内の老若男女および小中学生等多くの人々に送られ村社「住吉神社」に武運長久を祈念し、奈良町〜恩田町の沿道の家々の人たちの万歳万歳の声援に応えながら約四㌔の道路を勇ましい進軍ラッパの音を響かせながら行進し、国電長津田の駅まで行進は続くのである。駅前の佐藤末広さんの家に前に差し掛かったとき晴れ着姿で最前列に出て義姉とならんで日の丸の小旗をふっている将来の私の嫁になる『トシ』に気づいた弟は『トシ』をジッと目の裏に焼き付けるように見ていた。
 海外部隊の入隊者の集合地は小田原城内広場と決められていたがそこまでは私と義兄(長女エイの夫)加藤正一、義弟(三女琴江の夫)井組繁蔵の三人でおくりにきていたが、弟敬敏は途中の列車のなかでこういった「ところで兄貴、俺の見た第一印象では優しそうないい娘さんではないか、何しろ我が家のような大家族に来るのだから、あまり余計な心配や苦労はかけないようにするんだな」と、九歳年下の弟ではあったが日頃からの親思い兄弟思いの弟の言葉がうれしかった「大丈夫だ心配するな」と答えておいた。そのときのやり取りが今生の別れの言葉だったとは誰が知ろうか。
 やがて、縁談は順調に進み、こちらは本家の石井泰助さんを仲人に立て、昭和十七年三月二十八日の良き日を選んで、石井幸夫(数え年三十歳)河原トシ(数え年二十五歳・長津田町下長津田・河原庄三郎、テイの五女)の両名はめでたく結婚した。石井幸夫、トシ夫婦の誕生である。




     所 帯
 結婚当初は、見るもの聞くものみな新鮮味があり、楽しさに満ちて毎日が張り合いのある生活で、お互いが心身ともに打ち解けあい信じあい、語り合うのが楽しく、理解を深める一方、夫婦愛の芽生えも感じ始めたころは、早くも三ヶ月を過ぎていた。
 少年期に症状があったが、その後治まっていた鼠径ヘルニアがまた症状が出てきた。勤務先の田奈部隊の医務班の軍医(中尉)の診断を受けると、「このままにしておくのは非常に危険である、ただちに手術を行うように」という命令なので部隊の指定病院である町田市民病院に入院し手術を受けた。鼠径ヘルニアのような比較的簡単な外科手術も三十歳ともなると手術時間も以外に長引き二時間五十分もかかったそうである、全身麻酔からさめたのは夜の八時三十分ごろだった、フッと気がつくと寝台の枕元の上から心配そうな妻の顔と並んで妻の母親(義母)の顔がぼんやりと見えた、妻は何も言わず私の右手首を固く握っていてくれた、三時間もそうしていてくれていたらしい、義母もほっとした様子で私を見ていたが「よかった、よかった」と無事に終ったことを喜んでくれ、安心した顔で夜半帰宅して行った。妻はその夜はまんじりともせず枕元に付き添ってくれて朝を迎えた、二日目の昼も夜も寝ないで看病をしてくれているので、健康を案じた私の母は、三日目を迎えた朝の八時三十分ごろ加藤の家に嫁いだ長女のエイを頼み、妻と交代してもらった。 
 術後の回復も早く、周りの人々は驚くほどだったが二週間で退院、三週間後には職場に復帰し通常勤務に戻ることができた、そのときの妻の献身的な看護が私には嬉しかったし感謝し愛情もより深まった。スッカリ健康を取り戻したので、父仁太郎も一安心してそれから家事、家計、親類、近隣の付き合いに至るまで私たち夫婦に任せて、父たち夫婦は我が家から七〜八十メートル離れたところに新設された兵舎(相模原市淵野辺)陸軍兵器学校火工科伝習隊田奈部隊実科生の宿泊兵舎の管理人として、母ともどもに住み込みで勤務するようになった。父は日露戦争の白襷隊の生き残りであるため、兵器学校の主任経理官の染谷属官よりの指名で、強いて望まれて兵器学校の守衛長と同等の待遇を受けて管理人として勤めるようになった。そんなわけで、わが家では田畑の縮小をするため借地の返還などして面積を調整した、兄は肺結核のため香川県善通寺町の陸軍病院入院中であり、病が全快し応召解除になって帰ってきたとしても、当分無理な農作業は控えなければならないだろうということも理由のひとつにあった。私には兄が不在の間は家業の維持をする責任があるので、一日おきの勤務明けの日には農作業をする、農作業はまったく経験のない妻も家事の合間に慣れないながら畑仕事や、田の仕事の手伝いをと、私と一緒に汗を流してくれ、また春・秋の農繁期には妹思いの里方の長津田の家から妻に兄、義姉が手弁当で農作業の手伝いに来てくれたりした。
 昭和十七年十二月下旬、兄俊雄の病気も治癒、原隊復帰、無事にわが家に復員してきた時は、田の稲の取り入れ、畑の麦の播きつけ、脱穀、籾摺り、俵詰め、その他近所の人たちや親戚の人などの手助けもありとどこうりなく終わり、手助けしてくれた皆々様と、兄の無事な帰郷を心から祝福しささやかながら祝いの宴を開くことができたのである、兄は、長期の留守の間いろいろなお世話になった感謝の言葉を皆さんに述べあらためて私たちの結婚を祝福してくれたのだった。そして兄は復員後の疲れを癒すため当分のあいだ休養を取る必要上、父母と共に兵器学校伝習兵宿舎の管理人室六畳間に寝泊りすることになる、わが家の方には五女英子(ひでこ)と私たちの三人で寝起きするという生活が始まった。四女寿美代は東京市府中町の陸軍燃料廠に筆生(ひっせい・事務係)として勤務していた。三女琴江の夫、井組繁蔵が同じ燃料廠に勤めていたので、琴江の嫁ぐ家に寄宿していた。
     兄の結婚
 昭和十八年三月上旬、兄俊雄は地元の田奈部隊庶務班に事務雇員として入職し勤務するようになる、雇員と呼ばれる職員は所属する作業廠内では判任官としての待遇を与えられる人を指している、兄は応召中中支の部隊にいたとき曹長に昇進、成績も優秀であったとのことで一階級上の準慰職事務である人事、功績係事務を歴任したので、判任事務適任証書、善行証書、努力証、その他の証書を授与され持っていたため、労務係事務雇員として採用された、職務はおもに人事関係担当だった、すなわち守衛、消防、その他男女工員、事務などの志望者の採用試験担当及び現場工員の勤務成績調査などである。貧農の長男として誕生し、貧苦の中で年少より家計を助けながら小学校にも満足に通えないため小学校の卒業証書ももらえなかった人が独力で、たゆまぬ努力と精進を重ね命がけでかち得た地位であった。奈良村の人びとを初め、周辺の地区の人々は破格の待遇で迎えられて職を得た三十二歳の俊雄に羨望と尊敬の態度で接したといわれる、そんな兄の身辺には、にわかに嫁取りの話が盛んになっが、俊雄は「むこう二年のあいだは結婚できません」と言い、断り続けていた。兄は「俺は二年くらいたって、完全に胸の病気が出なくなるまでは結婚はとめられているだ、だから当分は兵器学校の親父さんがいるところで住まわせてもらうから、それまでお前たち夫婦で家のことは何とか支えていてくれ、頼むよ」と私に言った。田奈火薬廠には雇員以上の上級職員は十人ほどいたのであるが、いずれも年配の妻帯者であり独身は兄俊雄一人だったので、廠内の上司や同僚からぜひとも結婚するように勧められていたが、遂に断りきれないほどの状態になってきた、とくに両親それも母ツルの熱心な要望のこともあり受け入れざるを得なくなったため見合いをすることを受け入れたのである。
 相手の人は同じ奈良町の北が谷戸講中の代々土着の自作農の家で屋号を油戸といい、父の仁太郎とは若い時からの友達付きあいのある井上幸造さんの次女ヒロさんであり、その時、兄俊雄の七歳下であった。縁談はとんとん拍子に進み、進行役の先方の仲人である田後万五郎氏はヒロさんの叔父に当たる人で、同じ奈良町宮の谷戸講中で、代々続いた裕福な自作農家の主人であった。兄の俊雄とヒロさんは平素からの顔見知りであるので、かたちばかりの見合いをしたがすぐに済み、こちらからも姉の夫、加藤正一を仲人に立てて、その年昭和十八年五月上旬に婚約・結納を取り交わし一ヶ月後の吉日を選んで挙式をしたのである。
 私たち夫婦は相続人の俊雄の挙式が決まったので、兄夫婦と入れ替わりに生家を出て生活することになり、住まいを探し始めたが、急なことでもありなかなか空き家が見つからなかった。そんな折、母ツルが日頃から親しくしている金子宇平さん宅のおばさんでユウさんという人が、うちの離れの六畳間が空いているが、金子の相続人である亀治さんが所帯を持つまでの五ヶ月間でよければお貸ししましょうと言ってくれたのでそこを借りて当座の住まいとしたのである。その離れには屋内に便所もあり、小さいながら炊事場もあるのが、風呂は母屋へのもらい風呂であったが、これでまずまずの落ち着き場所が決まり一安心となった。そして家賃を前納することとなったが、私たちの手元には三円ほどの金しか持ち合わせがない、昔のことなので正確な額については記憶が定かでないがたしか三十円位だったと思う、結婚以来私たち夫婦は結婚以来、一年二ヵ月のあいだ給料は封を切らずに父に渡していた。
 家族五人の生活費は妻がそのつど父から貰うということをしていたので、私たちの手元には小遣い銭すら満足に持ち合わせていなかった。それというのも私たち夫婦の婚約時のとき、ある約束が両仲人のあいだで取り交わされていたのである。長男俊雄が復員し家庭に治まる時は、小さいながら家を建て私たち夫婦に与えるか、あるいは父の恩給一年分を私名義の貯金としてくれるか、との条件を口約束ではあるがしていたので、そのことは妻の実兄、両親も承知していたのである。そのため月給をすべて父に渡すようにしていたのである。その金額は月に百二十円くらいである、わが家の五人分の生活費には充分だったし、父の恩給、年金もあったのだから一年二ヵ月とはいえ相当の貯えもあったはずだったが、家賃の前納はおろか三円の手持ち金しかないことを承知でいながら、父は何の心配もしてくれず、何もかも知っていたのに手を差し伸べてくれなかった。
 引越しの当日、母はなすすべがなくオロオロ心配するばかりで困り果てていた、そのような母がたまらなく哀れで不憫(ふびん)に思った。そんな母に「心配するなよ、月末には給料が入るから後十日の辛抱だ、家賃はそれまで待ってもらう、今度の給料からは自分たちだけのものになから何とかなるさ」と言うと、母はいかにも申しわけなさそうに黙って私の顔を見ていた。
 一言も不平じみたことを言わずに妻は私の後をついて引越しの手伝いをしていた、私は二十歳を過ぎて二度、今回で一度、コツコツ貯えたお金を差し出し、兄弟全員が家計のために働いてきてやっと借金も返して、今では大分ゆとりもできただろう父の今回の出し惜しみの態度には腹立たしさと情けなさをつくづく感じたが、これからは誰にも気兼ねせず妻と二人だけで生活を切り開くことができる開放感を噛みしめながら誓いを新たにしたのである。
     貧しい所帯
 しかし世の中はますます戦争による重圧と貧しさと軍部による締め付けの厳しい時代になり、庶民のあいだには敗戦の気配と厭戦的な重苦しくてやけっぱちな空気が漂い始めてくるのを私たちは感じ始めていた。
 そんな中、私たち夫婦は粗末ではあったが着るものはあり、食べ物も私は一日おきに三食付の職場でもあり心配はなかったが、住まいの方は貸家を出る日が近づいてきた。その頃の奈良町は田奈火工廠勤務の人たちが東京などからたくさん働きに来たので、空き家はおろか農家の納屋に至るまで全て貸しているような状態だった。私たちもあせりながら探した、そんな折、私方の仲人の石井総本家の泰助さんが心配し、父仁太郎と相談し、先々私の住まいを建てるまでの間ひとまず総本家の蚕小屋を繕い二人を住まわせようということになった。しかし、戦時下非常事態の最中であり物置小屋に等しい建物を住めるようにするのには困難を極めた。資材の入手が困難で、建具はおろか一握りの釘さえも買えないほどものが欠乏していた、そこで私は思いをめぐらした挙句、フッと父の勤める兵器学校の風呂の燃料の廃材の中にある使用不能になった古財、弾薬箱を貰いうけ、勤務のない日に父に手伝ってもらい、弾薬箱は床板用に古材木はネダ用に、釘は金づちで曲がりを伸ばしてためて、十日ほど費やして相当量にしてリヤカーで借りる予定の石井家本家に運んだ。それから一週間ほどして住まいができたとの知らせで、妻と連れ立って見に行ったが、あまりにオソマツな仮の宿に恐れ入ったがそこ以外にあるわけでもないので覚悟を決めた。
 その家は平屋の草葺屋根で建坪は六坪の一戸建てであり、骨組みはがっしりとしている、南向きで日当たりもよく道路からは二十メートルほど離れており、小高い場所にあった、間口は二坪の土間、雨戸もなく土間と床の境に古障子が二枚だけの仕切りである、仕切り境の障子を開け部屋をのぞいて驚いたのは床板は地面から五〜六寸(十五〜十八センチ)の高さで、床板の上には稲藁をぶ厚く敷き詰めその上にガマゴザ(蟇の穂で編んだ敷物)を敷き詰め、居間の三方の荒壁は隙間風を防ぐため古新聞が張り詰めてあり、明り取りの窓はなく、おまけに天井は六尺五〜六寸(二メートル程度)で前面にハトロン紙が貼ってありさながら大きな箱を横倒しにしたような格好だった。炊事場はなく便所は二十五メートル位離れた屋外のもので、総本家の人と共同であると言うようなものだったが総本家の相続人である石井泰助さんの好意に寄りようやく住まいが定まったのであるから、不平不満は禁物であると妻と話し合い、三度の食事の煮炊きはとりあえず間口のひさしの土間が二坪ほどあるので大家さんから大型のコンロを借りて裏山から枯れ木を集めて燃料とした、二人だけの生活なので慣れてくるとそれほどの不自由は感じなくなった。しかし南風が強く吹く日や雨の日には大矢さんの台所を借りてでなければできなかった。夫婦二人の持ち物と言えば、妻は里方から持ってきた箪笥一竿、小さな鏡台、私は古びた布張りトランクひとつ、布団一組、茶碗四個、小皿三枚、湯飲み茶碗ふたつ、夫婦箸二膳、多少の衣類が全財産だった。しかし金子さんの間借りの期間にためた現金が二百円以上あったので生活に不自由することはなく、他人が見るほど悲惨なものではなかった。
 『不自由を常と思えば不足なし』と言うところか、懸命なる妻の支えがあったからこその忍耐でもあった、私たちの場合は二身一体ともいうべきで、互いに心の中で励ましあって乗り切ろうとしていたのである。とはいえ夫として、男としてこのままではいけないので、少しでも環境を改善しようと行動に移し始めた、まずは台所であり、次は便所そして風呂である、そこで私は家主の泰助さんに許可を得て北側の裏手の土手を切り崩し平地にして空き地を作り、勤務先の田奈部隊の建設工事場から燃料として民有地に放出される廃材置き場から、非番日を利用してリヤカーを借りて、どうやら使えそうなものを集めておいて、職場の同僚である村田富蔵さん藤森一治さんの協力を得て縦五尺横二間、屋根は古いトタンを葺き、周囲は古い板で囲い粗末ながらお勝手を作り、村田富蔵さんの裏山から山砂や粘土をもらって水で錬りその中に藁を細かくしたものを混ぜ、大きな二口かまどをこしらえた。日光で三日乾かして村田さんと二人でリヤカーに積んで、我が住まいに運んで据え付けた、厚みのある板で流し場も作り、おそまつながら台所の完成を見たのであるがまだまだ課題である便所と風呂場のことがある、そこで裏に作った空き地に便所を建て、南側の入り口土間の右側に一坪ほど板囲いをして田奈部隊の自動車修理工場から貰い受けたふるいドラム缶を特別に払い下げてもらい、古いレンガやコンクリートの破片を集めて大きなカマドを組み立て、外側を粘土と山砂、石灰を水に混ぜて錬ったのを上塗りとして施してその上にドラム缶を載せドラム缶の中に丸い敷板を作り速成のドラム缶風呂が出来上がった。
 また妻が鳥海大工(和明さん・修行中)さんに頼んで北側の壁を打ち抜き間口六尺奥行き三尺の押入れを造ってもらい、ようやく家主さんに迷惑がかからないようになった。やっと夫婦二人が生家を離れて以来、気兼ねもせずに過ごせるような住まいを得ることができたのである。 
     戦時下
 既に中国大陸では、中華民国国民党党首の蒋介石総統は首都を中印国境ちかくの奥地、重慶まで後退させて国土防衛のための最後の非常手段として、思想的にも政策的にも違う中国共産党と手を結び、救国と言う大儀のもとに容共抗日徹底抗戦を支援国である世界の強国に宣言した。
 昭和十九年に入ると、連合国軍(英・米・オーストラリア軍ほか)の反撃作戦はますます激しくなり、日本の北方最前線の要衝であるアッツ島守備隊、山崎部隊の玉砕の悲報を皮切りに、中国重慶を基地とするアメリカ空軍が世界に誇る空飛ぶ要塞といわれたボーイングB29爆撃機編隊が東京三鷹中島飛行機製作所(ゼロ戦などの製造で知られる航空機トップメーカー)を大爆撃して大打撃を与えた。また南方海域戦線の要衝ソロモン群島諸島のうちガダルカナル島、ブーゲビル島、などの日本軍守備隊も敗色濃く、制海・制空権を失い、補給線は寸断され各島々の守備隊は孤立無援の状態になった。『どうも駄目らしい』と言うたぐいの流言も流布し初め、一時は占領したフィリピン諸島などもアメリカの陸海空軍の猛攻撃にあい苦戦しているなどの情報が流れ、大本営発表とのズレを感じる国民は、次第に不安の色を濃くしていったのである。 
 そんな状勢の時、久しく途絶えていた弟敬敏から軍事郵便が届いた。はがき便の文面には満州国吉林省公主領陸軍教導学校を無事卒業、陸軍伍長に任官、某方面にむかうことになったという簡単な文面のものであり、末尾にはしばらく便りはだせないが元気で軍務に服しているので安心してくださいというものだった。入隊以来初年兵当時から十日〜十四日おきにうちや親戚或いは近隣にとどいていた弟敬敏からの便りはその後ぷっつりと途絶えたのである。いっぽうわが家では兄嫁ヒロさんが妊娠五ヶ月を迎え、兄の俊雄はじめ六十過ぎになった父仁太郎、ははつるなどは程なく生まれてくる初孫の顔を見る日を待ちわびていた矢先、俊雄が急に胸部疾患(結核が再発)町田の病院に入院した、昭和十九年三月であった。その年以降敗戦色が濃厚になり日本国中が混乱と貧困の時代になるのである。兄の入院は意外に短く、二ヶ月ほどで病状も小康を得てひとまず退院をして自宅療養ということになったが、当時の医療水準は非常に貧困なもので、戦時下でもありとても情けないものだった。ヨーロッパ、アメリカなどとは比較にならぬほど立ち遅れ医薬品はおろか治療さえ充分に行われていない現状だった。皆戦費の方に回されて国民は『欲しがりません、勝つまでは』のスローガンの下、貧困な生活を押し付けられていたのである、そんな状況の自宅療養だったこともあり結核の特効薬などは庶民には遠い存在でとても高価なものだったし、第一品不足で買えるほどの人は一握りの人だけだった、薬どころか食料すら満足ではなく、米麦の配給とて少なく、ましてや肉、魚などの配給はたまにしかないという有様だったので体力の回復もママならぬと言う事態に置かれていた。 米農家ですら定められた量の自家保有米のほかはすべて強制的に供出せねばならなかった。 
 わが家は、私たちの別居と同時に借りていた農地はほとんど返したので食糧は配給を受けていたが、幸いにも私は炊事班に勤めていたので一日おきではあるが三食付と言う特恵があり妻は住まいの近所の農家の手伝いや、衣類の繕いや縫い直しなどをしていたので、謝礼として少しではあるが米や野菜を頂くので、配給米があまるほどだったため少しずつではあるが貯めては実家の母に届けていたが、それでも大人数の実家(両親、病気の兄、妊娠中の兄嫁、四女寿美代、五女英子)では不自由だったと思われた、もうその頃は四女寿美代は地元の田奈部隊に転職して実家から通勤していた。
 兄嫁は身重のため病床の俊雄を含めて四人の家族の家事その他にたずさわることは重荷なので、四女寿美代と五女英子は父仁太郎の勤務先である兵器学校の管理人室に父母とともに寝泊りして、食事なども共にし、二人は田奈部隊へ勤めたため兄夫婦は生家で二人暮しになった。    
     戦場からの手紙 
 そんな時、久しく途絶えていた弟の敬敏からの封書入り特別軍事郵便が生家に配達されてきた、封書の中の便箋は軍用罫紙であり、冒頭には最後の通信とあった。
『入営以来三年間、平和郷の満州で軍事訓練を受け続けてきましたが、それは軍人としては当然のことであり、現在は大東亜戦争下であり軍人として国防第一線の激戦場で戦うのが軍人としての真の任務であり、本懐であり、その望みは達せられたのである、いよいよ征途につかんととして居ります再び生還は期しておりません。
必ず人に負けない働きをして大東亜戦完遂の一端を果たさんとして居ります。決してご心配くださいますな、私もお父さんの子です幾多の戦友に別れて今まで苦労を供にしてきた人達に涙を以って別れました。男泣きです、米英何者ぞ必ずこの足下に蹴散らして彼らの息の根の根までを止めてやります、七度生まれて国敵を滅ぼす覚悟です。自分のことばかり申して申し訳ありません。末筆ですが、お父さん、お母さん、兄上、姉上、妹よ、長いあいだお世話になりました。二十数年のご恩はこの死によって償わせてください。お父さん、お母さんの長寿を、兄上、姉上にはご多幸を祈ります。妹よお前たちも身体だけは丈夫にして、しっかり父母様のために立派な孝行をしてください。兄は今、護国の神としての栄誉を担う死に就かんとしております。心は冷静です、世の中に思い残すことはありません。
一意国家の存亡を負って戦います。爪と髪の毛を同封しておきます、海山のご恩は死すとも忘れません、色々のことを書きました。しかしこれは己の幸福を表徴(ひょうちょう)するものです、この二十四年間は本当に幸せでした』(原文のまま)
との長文の遺言書である。 
 私は生家に立ち寄った際に母ツルから受け取り読んで、敗色濃い最激戦地に送り込まれる弟の心の中を想像し、『私は生まれ育った故郷を思い、家、山、川、父母、姉兄、弟妹、に一目でもいいから逢って死にたいと思う悲痛な叫びを聞いておいて下さい』と言っているように思えて沈痛な気持になったが努めて平静を装った。
「誰でも最前線に向う時は、遺言状と爪と髪は送ってくるそうだから、みんなで無事に帰ってくることを祈ろうよ」と言うより仕方がなく寂しそうに肩を落としている母にその遺言状を返した。
昭和十九年五月中旬だった