九条兼実

(一般)
くじょうかねざね

九条兼実(久安5〔1149〕年〜承元元〔1207〕年)は藤原忠通の三男。摂政関白・太政大臣。五摂家のひとつ九条家の祖。また同じく五摂家の一条家・二条家も彼の子孫から分派したもの。異母兄に近衛基実・松殿基房、同母弟に天台座主になった慈円(『愚管抄』の著者)や藤原兼房(太政大臣)がいる。
保元3(1158)年元服、正五位下に叙せられ、左近衛権中将、永暦元(1160)年従三位に昇叙し公卿に列せられる。
仁安元(1166)年僅か18歳で右大臣に昇るも、後白河法皇、平清盛の対立図式の中で両者から距離を置いていたため、その後20年近く昇進を押し止められ、長らく政権の中枢から外れていたが、源頼朝の支援を受けて、文治元年(1185)に内覧、翌年には摂政・氏長者となり、文治五(1189)年には太政大臣に昇任し、建久元(1190)年には娘の任子を後鳥羽天皇の中宮に入内させ、朝廷の第一人者となった。
しかし、頼朝の長女大姫の入内問題が絡んで、頼朝の支援を受けられなくなり、源通親との対立から建久七(1196)年、関白を罷免され失脚した(建久七年の政変)。
その後は弟・慈円の後見に付き仏教界で活躍した。また法然に帰依した。
彼の記した日記『玉葉』は、当時を知る貴重な史料。

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