歌人。六歌仙の一人 生没年・伝未詳(810の頃か)。 宇治山(三室戸の奥)の僧らしい。三室戸の奥には喜撰ヶ岳があり、中腹には喜撰洞もある。 川柳とお茶で有名な「上喜撰」もこの宇治の地名からきている。 古今集に収められた「わかいほはみやこのたつみしかそすむよをうちやまとひとはいふなり」の歌 以外に伝えられていないので、その存在は疑問視されている。
宇治川に架かる観流橋と大吉山 喜撰法師(8番)🦌古今集 雑下・98 🌿我が庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり 〜私の庵は都の東南にあって、このように平穏に暮らしている。 なのに、世を憂いて逃れ住んでいる宇治(憂し)山だと、世の人は言っているようだ。 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり その宇治山は現在 喜撰山きせんやまと呼ばれてハイキングコースになってるようです🗻 なんだかよく分からないけど、あれこれ言われてるらしいな😅 でも、私はのんびり平穏に暮らしているんだよ🌿 ちょっと苦笑いしてい喜撰法師様を想像してしまった( ̄∀ ̄) ハイキングコースとしても、楽し…
百人一首の八首目の作者は喜撰法師。 九世紀頃の人で、小野小町などと同時代に生きたと考えられています。 今回は喜撰法師について紹介します。 喜撰法師とは 時代背景 百人一首の歌 喜撰法師とは 宇治の御室戸の奥に住んでいたようです。 鴨長明の「無名抄」にも、喜撰が宇治の山中に住んでいたと紹介されています。 山の中に住んでいて、実は仙人だったとか、不老長寿の薬を作っていたとか、天上に飛び去ったとか、いろいろと言われています。 喜撰の歌にも、世間の目から離れた暮らしを身軽に楽しむ雰囲気が読み取れますね。 時代背景 平安時代の初期の頃になります。 最澄や空海が中国から帰国してそれぞれの宗派を教え始めた時…
第八歌 我いほは 都のたつみしかぞすむ よをうぢ山と人はいふなり 小倉百人一首、第八番の歌です。 作は、喜撰法師(1197~1242) 古今集 雑下・983 に載っています。 私の庵は都の東南にあり、鹿も住んでいるようなのどかな山里、宇治山にあります。 この里で、私は心静かに暮らしているのです。 しかし、世間の人たちは、私が世を憂いて宇治山に住んでいると言っているそうです。 作者の喜撰法師は、平安時代初期の六歌仙の一人です。 宇治山に居た僧としか、経歴は伝わっていません。 六歌仙とは、平安時代初期に活動した、和歌の名手、6人を選んだものです。 在原業平、遷昭僧正、喜撰法師、大友黒主、文屋康秀、…
💮実は昨日(ちはやふる)を世間ではどのように理解しているのか、を見て驚きました。 全く意味が解っていません。 (その事を→はてな❗の→ちはやふる)に書いています(ブロック)された→Googleが(ブロック)している、と思います。(はてなファン)は見て下さい。 💮そこで改めて「ちはやふる」です。 知能が低い方々には→知能の高い日本人が作った仕掛け(現在風に言うと→パスワード)が解っていません。 在原業平さんの歌「ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」 💮まず→ちはやぶる。 宇治や神にかかっている枕詞です。 その代表格の方々が次です。 ①伊勢神宮→宇治橋。 ①源隆国(大納言→宇治…
百人一首第31番目の歌の作者は坂上是則。 三十六歌仙の一人です。 今回は坂上是則について紹介します。 坂上是則とは 生年は不明、没年が930年頃。 大和大掾に任じられていますので、それで吉野への愛着が強かったのかもしれません。 最終官位は従五位下・加賀介。 地方官に始まり、地方官に終わった人でした。 吉野とは、奈良県吉野郡、吉野川流域。 桜の名所の吉野山もあります。 古来、吉野には多くの天皇の離宮がありました。 それで吉野を古里と思う人も多かったのでしょう。 そういえば、百人一首には都の周辺に降る雪のことがいくつかの歌で詠まれています。 当時は雪が降り積もることがよくあったのでしょうね。 時代…
「もしも、猫が人のように話したら・・そんな想像をしたことはありませんか? 」 という副題の付いた猫尽くしの展覧会。 人間以外の何かを人間になぞらえることを擬人化と言いますね。 そんなに猫好きでもない私もその擬人化の見事さに思わず笑ってしまいました。 この展覧会では、猫の擬人化作品をたくさん描いた歌川国芳の作品を中心に江戸時代の擬人化表現の面白さに着目していました。 浮世絵師の歌川国芳(1797-1861)は、天保12年(1841)頃から、猫の擬人化作品、あるいは役者(人間)を猫にした作品を次々と発表しています。一度はどこかで目にしたことのあるものがきっと見つかると思います。 弟子の言うには、国…
百人一首の選者、藤原定家は1162年の生まれ。 時代は保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)を経て、平清盛が強大な権力を持ちつつあった頃でした。 その後、藤原定家は平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱による後鳥羽院の配流などを見ながら、自らは和歌の才能を磨き続けます。 百人一首の成立は1235年。 鎌倉幕府から削除するように指示されていましたが、結局は後鳥羽院の歌も含めた百首が選ばれました。 【百人一首の歌人】では、これまで天智天皇から元良親王まで、それぞれの人物の時代背景に焦点を当てて紹介してきました。 全体の1/5まで来ましたので、一旦まとめたいと思います。 ざっと時代を振り返りま…
百人一首No.82 道因法師:思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪(た)えぬは涙なりけり つれない人のことをあれこれと思い悩んで、それでも命は堪えてこうして生き永らえているのに、堪えきれないでこぼれ落ちるのは涙であった。 N君:「V+わぶ」は「Vを繰り返してもはやVする気力もなくなってしまうほどになる」の意なので、本歌では「あの人のことを慕って慕ってもう慕う気力もなくなってしまいそう」という状態を表しているのだと思います。 Though troubled about her cold treatment, I still live long. I cannot prevent tears f…
百人一首No.64 中納言定頼:朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木(あじろぎ) 明け方に宇治川の川面を覆っていた霧がとぎれとぎれになって、その絶え間のあちらこちらから川瀬の網代木が現れてくるなあ。 N君:早朝の宇治川の風景が浮かんできます。好きな歌です。 As it becomes bright in an early winter morning, the dense fog over the Uji River is gradually dispersing. Many Ajirogis, wickerwork fences, have emerged here an…
変体仮名を読む練習をちょっと前からしているのだが、上にある一葉の原稿の平仮名は直ぐに読めるわかりやすいものだと思う。まず、題名の「たけくらべ 」のうち、「く」「ら」が変体仮名であることが分かる。「く」の変体仮名は上の方に小さい「く」があって下に大きな「く」があるように見える。漢字の「久」を崩したもので下の左下のタイプである。この変体仮名は、本文の「明けくれなしの」の「く」にも同じものが使われている。左下の「く」には、小さい「く」があって下に大きな「く」があるように見えるというのは結構重要で、下の二つの字の上側は「く」の変体仮名だが、下側は「天」を崩した「て」の変体仮名である。区別は上の方が「く…
百人一首についての学びを共有します。 本日は、喜撰法師による8番歌です。 本日の一首 作者 本日のデザイン 本日の一首 わが庵は (わがいほは) 都のたつみ (みやこのたつみ) しかぞ住む (しかぞすむ) 世をうぢ山と (よをうぢやまと) 人はいふなり (ひとはいふなり) 作者 喜撰法師(生没年不詳) 平安時代の歌人。六歌仙の一人。 本日のデザイン 人里離れた隠れ庵をイメージしました。 2022.06.14 1st edition
2022/05/14㈯ 晩御飯鶏もも肉漬け焼き(スーパーの漬け肉ニンニク塩味)シーチキンレタスサラダ(シーチキン缶詰 レタス千切り マヨネーズ)五目豆(蒸し大豆 人参 じゃが芋 しめじ 枝豆 ウインナ-)ほうれん草胡麻和えミニトマト母の日のケーキ 五目豆は大豆、人参、ごぼう、こんにゃく、椎茸、蓮根辺りが普通のようだ。うちはごぼう、こんにゃく、れんこんが食べれないので他のものをいれた。 お腹の調子が大体元にもどってケーキをもらった。子供からではないけど… 若い人 外食****** 小倉百人一首周辺 六歌仙(古今集序文に記された六人) 小野小町 僧正遍照 在原業平 喜撰法師 文屋康秀 大友黒主 覚…
百人一首No.22. 文屋康秀(ふんやのやすひで):吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ 秋の山を吹き降りる風、その風が吹くやいなや草も木も枯れてしまう。ああなるほど、だから山の風を嵐というんだなあ。 N君:「からに」は複合の接続助詞で「~するとすぐに」の意だそうです。「むべ」はちょっと昔の言い方で「むべなるかな」というのを聞いたことがあり「なるほどそうだろうね」の意であることを知っていました。 As soon as a chilly gust blows down from the mountains, autumn plants wither away. Now I se…
百人一首の九首目の作者は小野小町。 前の喜撰法師と同じく、九世紀頃に生きた人です。 小野小町、名前は知っている人も多いかもしれませんね。 今回は小野小町について紹介します。 小野小町とは 時代背景 百人一首の歌 小野小町とは 名前から小野氏の娘であることはわかります。 仁明天皇か文徳天皇の更衣(女官)として仕えていたようですが、正確なところはわかっていません。 女流歌人として六歌仙、三十六歌仙に選ばれるほど才能が認められているのですが、その人物については不明なところが多い歌人です。 一方で、絶世の美女であったとか、美女の落魄の伝説に登場したりとか、その姿にまつわる言い伝えの方が、多くの人に知ら…
百人一首No.10. 蝉丸(せみまる):これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関 これがあの、これから旅立つ人も帰る人も、知っている人も知らない人も、別れてはまた逢うという、逢坂の関なのです。 N君:和訳を読んで初めて気付いたのですが、行く・帰る・知る・知らぬ は全て連体形で「人」が隠れていたのですね。これと同じようなことを源氏物語桐壺の冒頭部分でも経験しました。「いづれのおほん時にか、女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり」の「時めき給ふ」が連体形で、あとに「人」とか「女性」とかが隠れていたのです。古文ではこういうことが…