文政7年5月3日出生。兵学者。司馬遼太郎『花神』主人公のモデル。 旧名村田蔵六。現在の山口県防府市出身。 緒方洪庵の元で蘭学を学ぶが後に親の命により故郷に帰投、田舎医者の位に納まっているが、後に見出され長州藩軍監に。幕長戦争時は総指揮官となり幕府軍を撃退。 維新後は軍隊の原型を作り「軍神」とされるが(靖国神社に銅像があるのはそのため)、薩摩藩士との不仲が原因で襲撃を受け、後日、その傷が原因で死亡。
こんにちは クローバーです^^ 今回は山本栄一郎氏(大村益次郎研究家)・相澤孝夫氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集^^ 【目次】 山本栄一郎氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集 相澤孝夫氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集 // 山本栄一郎氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集 「維新の三傑」と言えば西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允とされている。これは明治新政府が維新の功労者に授けた恩賞「永世禄」を基準にしたものだろう。大名・公家を除いた一般藩士で、千石以上の恩賞を受けた人物は十一名。その中にあって農民出身なのは大村益次郎ただ一人であったことは特筆に値する。西郷をはじめ他の十名は、全人口…
< 人 酒と交わり 酒人となる 酒人 酒を深く識り 酒仙となる のかもねえ > NHK大河ドラマ華やかなりしころ、1977年放送の「花神」っていうのがありました。 花神っていうのは「花咲かじいさん」のことなんだそうですね。 原作は同名で、1971年に発表された司馬遼太郎の「花神」戊辰戦争、官軍の総司令官「大村益次郎」が主人公です。 長州藩の村医者だった「村田蔵六」が天下に大号令をかける総司令官「大村益次郎」にまでなるんですから、軍隊を機能させることに長けたイクサの天才、だったんでしょうね。いわゆる近代戦っていうのを日本で初めて実現させた人です。 靖国神社に日本初の西洋式銅像として、大村益次郎像…
【中古】天下を計る価格: 2136 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 数字に強い「算用者」として丹羽長秀に仕えた長束正家は、融通の効かない「竪物」と見られていた。例え武勇で名高い武士にも算術の誤りには容赦をせず、帳面から丹羽家の実態を把握することで、主君丹羽長秀から信頼を受けていた。長秀は死の間際、天下人の秀吉は欲望が果てしなく信用できないと述べ、正家に長秀死後の丹羽家を託す。果たして秀吉は丹羽家に120万石から15万石に大減封を命じる。 減封の過程で借金踏み倒しの嫌疑をかけられ、豊臣家から調査が入るが、正家は独自に工夫した帳簿で、指摘された問題点を淀みなく説明して疑問を晴らす。仕事への取組み…
何時も前を通りますが、目的地への途中の事で通り過ぎてしまう「大村益次郎卿殉難報国之碑」。 高さ約12mも有る大きな石碑は、紀元2600年の節目にあたる昭和15年11月に政財界や陸海軍の要人、大阪や関西を中心に88名の発起人並に発起人黨賛助者によって亡くなった旧大阪仮病院隣接地に建立されています。 日本近代軍政の創始者・大村益次郎、若き日の村田蔵六の物語は、1969年から1971年 朝日新聞に連載された司馬遼太郎の「花神」、1977年のNHK大河ドラマ「花神」で良く知られ、私は朝日新聞連載で読んでいて家の購読新聞が度々変わったりして良く解りませんでしたが、大河ドラマの「花神」の視聴は毎回欠かさず…
東京九段にある靖国神社。その境内に大村益次郎の像があります。 (天才軍略家・大村益次郎) 大村益次郎は、幕末から維新にかけて活躍した長州藩の天才的軍略家であり医師で、江戸幕府倒幕の中心的人物の1人です。 緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、成績優秀で塾頭になります。豆腐を肴にお銚子2本の酒を飲むくらいで、どんちゃん騒ぎの宴会は嫌いというまじめで静かな人物だったようです。 【適塾についてはここをクリックして御覧下さい】 大村益次郎は1853年に宇和島藩に出仕し、蘭学の教授を行い、同時に軍政改革に参画します。 その後1860年に萩藩雇士となります。大村益次郎は、江戸時代末期に起きた長州征討と戊辰戦争で長州…
戦国ヒストリーという日本の歴史に関するサイトへの投稿を続けています。専門家、歴史愛好家ら多士済々の執筆者にまじって、歴史ファンの一人として、ユーザー投稿の形で執筆しているところです。 「戦国ヒストリー」は、丁寧に歴史を追求した本格派の戦国WEBマガジンといううたい文句で、戦国時代を中心に源平時代から近現代史まで、時代もジャンルもバラエティに富んだサイトです。 sengoku-his.com 今回の掲載コラムご紹介は「戦の天才「大村益次郎」の名を世に知らしめた二つの戦いとは」です。 大村益次郎は、幕末の長州藩で軍事指導者として倒幕に大きく貢献した人物として知られ、新政府にも出仕し「日本陸軍創設の…
2023年5月21日激動の幕末にドラマの舞台となったのが、長州藩邸や土佐藩邸が建ち並んでいた高瀬川界隈でした。明治という日本の夜明けを待たずして、テロや戦さで命を散らした幕末の志士たち。 今回は、四条小橋から高瀬川沿いを北上して、彼らの足跡をたどりました。 高瀬川河原町の喧騒を忘れさせるほど静かに流れる高瀬川。川底の石がよく見える、透き通った清らかな水が淀みなく流れています。 アオサギアオサギや鴨が生息する高瀬川。時にはオオサンショウウオも泳いでいるそうです。 古高俊太郎邸跡飲食店がひしめく路地裏で見つけたのが「古高俊太郎邸跡」の碑。 京都で薪炭商を営みながら長州藩のスパイとして活動していた古…
子供のころ、長野市に住んでいた。 当時、「信濃の国」という県歌を覚えた。長野県で育った人なら大抵歌えるらしい。 歌詞はとってもむずかしくて長い。 長野県歌【信濃の国】歌詞の内容・歌の歴史ちのステーションホテル補足ページ…信濃の国,県歌,自然保護,市民憲章,長野県,茅野市www.cs-h.co.jp 5番の歌詞で、県出身の偉人を褒め称えている。が「象山 佐久間先生も~」と、ガイジンのように姓と名をひっくり返して歌われているのは何故なんだろうな~と思っていた。 長野県人はこの名を100%「ぞうざん」と読むが、それ以外の人らは「しょうざん」と読む。とにかく、佐久間象山という、松代出身の偉人が江戸時代…
1977年大河ドラマ『花神』をご存じの方はいらっしゃるでしょうか。 「花神」とは中国の古語で「花さか爺さん」の意味です。 大河ドラマ『花神』は大村益次郎が主人公ですが、吉田松陰や高杉晋作など、時代を疾走した青年が咲かせ、散らした花吹雪の中で、彼らと彼らを支えた人たちの軌跡の物語です。 目次 大河ドラマ『花神』オープニング 大村益次郎とは 出生 天才大村益次郎 医師から軍人、政治家へ ちょっと変わり者? 暗殺 大河ドラマ『花神』オープニング 昨年アンコール放送された『黄金の日日』でもありましたが、オープニングでの口上(司馬遼太郎氏の原作の文章を脚色)がいいのです。 10代の私の心に響きました。 …
秘秘術で偉人をリサーチ Research the great with numerology 大村 益次郎(おおむらますじろう)【誕生数⑤ 日本】 編集 編集 編集 数秘術で偉人を分析シリーズ、五人目は大村益次郎。 維新10傑の一人であり、大久保公と同じく40代半ばでこの世を去ってしまった維新の巨星。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となりました。 戊辰戦争後、凶刃に襲われるまでの約3ヶ月の間に、その後の日本陸軍の創設に重要な影響を与える決断を矢継ぎ早に下し、 事実上の日本陸軍の創始者と見なされています。 そういう理由で靖国神社の参道中央にいつも立っていらっしゃいます。 もし…
半蔵門から靖国神社 最高裁判所を過ぎ,国立劇場を過ぎると皇居側に旧江戸城半蔵門が見える。大手門の正反対の位置にあるこの門は,徳川家康に仕えた服部半蔵正成に因むという。服部半蔵正成は,伊賀国忍者の頭領として大衆文化において絶大な人気を誇る。祖先はあるいはそのような一族であったかも知れないが,本人は家康の岡崎時代からの家臣であったことから出自は三河国(愛知県)である。戦場では先陣を切り,家康窮地に至ってはその命を救った。中でも本能寺の変に際して,堺にあった家康が,本国三河へ命からがら逃げかえった伊賀越えにおいては甲賀・伊賀衆を味方につけ,無事護衛した功績は大きく,家康江戸入場後はその警備を任され,…
あの人だけはなってはいけない 不適3条件を満たす候補は 自民総裁選は史上最大の乱戦へ 大手町の片隅から 乾正人 - 産経ニュース 次の3条件に当てはまる人だけは、総裁にしてもらいたくない ①憲法改正に積極的でない ②靖国神社に参拝していない 自民党員として国家のかじ取りを志す者が、国家の為に命を捧げた先人たち*1を慰霊するのは当たり前の話。これまで参拝してこなかった、となれば歴史認識が疑われる。 →【ボーガス注】 なお、以前も書きましたが「政教分離」の観点から靖国では無く千鳥ヶ淵で慰霊すべきですし、「戦没者でも土方歳三(箱館戦争で戦死)、彰義隊、白虎隊、西南戦争の西郷隆盛のような賊軍は祀ってな…
納骨がまだなのに、遺産相続の話をしたがる親戚にドン引きしている今日この頃。 大村益次郎が「西国から足利尊氏の如きものが現れる」と言って、大阪兵器工廠に大量の砲を作らせたと、確か司馬遼太郎の「花神」に書いてあった気がします。つまりは西郷隆盛の西南戦争を予言したという事ですが、考えてみると足利尊氏も薩摩藩も、最後の最後になって幕府を裏切ったので、このあたりからもそう思ったのかもしれません。
この日も気温予想は36度、関西エリアで35度を越えるのは京都だけだ。したがって、再び朝活散歩。少し慣れてきて、朝食を早めに済ませ、8時過ぎにはコンドミニアムを出た。地下鉄東西線で東山駅まで、そこから市バスに乗り換えて清水道のバス停で降りる。外国人観光客が目立つが、朝早いせいかさほど混んではいなかった。 二年坂の観光客向け商店街 清水坂を登っていくと、急に外国人比率が高まる。何人かに一人はレンタル着物で歩いている。三年坂、二年坂には古い街並みが残っているが、中身はお土産ショップなど。僕らの目的地は、これではない。 霊山護国神社への道 「維新の道」がある霊山を歩きたいと思ってやってきたのだ。霊山護…
特集『慰霊と顕彰*1から考える日本の近現代』 【前振り】 必ずしも「全ての論文」で靖国、護国神社について触れてるわけではないですが、「(戦没者の)慰霊と顕彰」と言った場合、靖国、護国神社は「国営だった戦前」は勿論「今も自民政治家らが集団参拝する」ので当然重要な存在です。 また今の日本では戦死者は「一般的ではない」ところ、幕末以降1945年までの日本は 日本が関与した戦争一覧 - Wikipedia ◆戊辰戦争(1868~1869年) ◆台湾出兵(1874年) 近代日本最初の対外戦争 ◆佐賀の乱(1874年) ◆神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(1876年) ◆西南戦争(1877年) ◆日清戦争(1…
上野の西郷隆盛、靖国神社の大村益次郎 そして、皇居外苑の楠木正成を東京三大銅像と言うそうだ。 OM-1 Mark II + CM-AEF-MFT + APO 70-300mm F4-5.6 DG MACRO(70mm) SS1/1000 F5.6 ISO200 さて大楠公…楠木正成である。 後醍醐天皇に従い鎌倉幕府打倒の兵をあげ、 赤坂城、千早城で幕府の大軍を寡兵で迎え撃ち そのすきに叛いた足利、新田が六波羅探題と鎌倉を攻略し 幕府は滅亡する。 のちに足利尊氏が後醍醐天皇に叛くと 再三にわたり献策するも用いられず、 最後は死ぬとわかったうえで 湊川に赴き敗死した。 死ぬ間際、弟に死んだらどの世…
4月のゲームマーケットで購入した「1868 戊辰戦争」にようやく着手。とりあえず1回ソロプレイしてみることに。本来は軍マーカーだけを盤上に置いた方が動かしやすいのだけれど、ユニット数の多寡がわかるように、あえてそのままスタックとして積んでみた。 ゲーム開始時点(1868年4月前半)、すでに無血開城された江戸には、薩長土佐兵を中心とする新政府軍スタックが積まれている。対する旧幕府軍は、上野寛永寺に彰義隊が立て籠もり、国府台には江戸を脱した西洋式幕軍歩兵・伝習隊や新撰組などが集結している。裏返しになっている関東諸藩ユニットは、一応、新政府軍に恭順しているものの、他のユニットに進入された場合にはダイ…
足守の町の西にある山中に、足守藩主木下家の菩提寺である臨済宗の寺院、大光寺がある。 第3代藩主木下利当(としまさ)が建てたと伝えられている。 大光寺 山門を潜ると、寺まで参道が真っ直ぐに続いている。 山門 山門は城郭の門のように立派である。 参道はゆるやかな石段で、歩くとすぐに目的地に到達した。 参道 石段を登り切って驚いた。大光寺は荒れ果てていて、明らかに無人の廃寺であった。 大光寺 大光寺には、秀吉、北政所、歴代藩主の位牌を安置した霊廟があるが、境内に入ることは出来なかった。 境内の中は、見るからに雑木や雑草だらけである。 霊廟 霊廟は、岡山県下でも珍しい霊廟建築の遺構として、岡山県指定文…
なにげに挨拶して、話しかけてみるもんだね。ー暑いねー。「暑いっすねー。どこから来たんですか」──春野です。 「え、春野には友人がたくさんいますよ」──へええ、どんな人?聞いていったら、共通の友人が数人いた。そこから、いろいろ話が盛り上がる。 ▽きょうは、助成金の申請をしたので、役所でそのヒアリング。5分でプレゼンして、あとは質疑。ま、縁があれば採択されると思うけれど、わからない。 ともあれ、せっかく二俣に来たので、阿多古川で泳ぐことにした。阿多古川では初泳ぎ。水は澄んでいるし、魚はたくさんいる。美しい石もいっぱい。 でも、ひとりで泳いでいても、あんまりおもしろくない。そこにいた人に話しかけたの…
7月は6月に外出していた勢いでそのまま外出していました。 これだけ外出しても体調はそこそこなのがありがたいです。 目眩もなかなかスッキリ治らず病院に行くか悩んでいたのですが、始まってから1ヶ月くらいでやっとこ完全復活となりホッとしました。が、スクリーンタイムはだいぶ減らしているのですが、晴れの日が続くとやはりちょっと怪しい。 そして、手元に新しい本がないので手持ちの司馬遼太郎の花神を読み返すことに。今(中)を読んでいます。面白くてどんどん読める。20代前半までに何度も何度も読んだ作品が4つあるのですが、その中の一つ。 幕末期に長州藩で活躍した蔵六(大村益次郎)のお話。他の幕末物よりも血みどろ感…
奥羽越列藩同盟にとって奥羽鎮撫総督府の九条総督は錦の御旗でした。彼を軟禁している限り人質としても新政府を脅す材料になるからです。ところが九条総督一行は仙台藩領から久保田(現在の秋田県)藩領に逃げ込みます。これは同盟側の大失態ともいえる出来事でしたが、九条総督一行を迎えた久保田藩は第12代藩主佐竹義堯(よしたか)以下、勤皇派が多かったことから反論を勤皇に統一し列藩同盟から離脱します。 列藩同盟は、仕方なく上野戦争から逃れ東北に来ていた寛永寺門跡輪王寺宮(孝明天皇の実弟)を擁立し盟主に祭り上げました。輪王寺宮ご自身は複雑な心境だったと思いますが、官軍に対抗するには錦の御旗が必要な列藩同盟側も必死で…
2009年11月20日第1刷発行 表紙裏「『坂の上の雲』の秋山兄弟、『世に棲む日日』の高杉晋作、『翔ぶが如く』の西郷隆盛、『竜馬がゆく』の坂本竜馬…。大転換期を迎えた今こそ、国民作家が愛した救国の指導者たちは輝きを増す。その魅力を半藤一利、磯田道史、関川夏央、田中直毅らが語り尽くす―。」 目次 大座談会1 司馬遼太郎日本のリーダーの条件 半藤一利/吉田直哉/田中直毅/関川夏央/磯田道史 「天の意思」が命じた―坂本竜馬、勝海舟 政治における悪の効用―西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎 組織の力、個人の力―土方歳三、高杉晋作 反天才主義を貫け―大村益次郎、河井継之助 軍神と名参謀の真実―乃木希典、秋山…
会津藩関係者や会津贔屓の人は松平容保を名君と評すでしょう。しかし私は暗君とまではいわないまでも凡庸であったと評します。その上貴人特有の酷薄さを持ち合わせていました。 まず鳥羽伏見の敗戦の後、家臣を見捨てて江戸に逃亡したことは非難されてしかるべきでしょう。いくら慶喜に懇願されても断り、家臣と共に粛々と大阪城を撤退すべきでした。そうしていたら神保修理も死なずに済み、会津藩のその後の運命も変わっていたかもしれません。ところが現実には家臣を見捨てて逃亡し、その責任を神保修理に転嫁し切腹させたのです。その点、主君に家臣の恨みが向かわないようにすべての責任を被って粛々と切腹を受け入れた神保修理は立派でした…
八月十八日の政変に敗れ京都を追われた長州藩では、高杉晋作が身分に関わらず広く人材を集め奇兵隊を創設、表向きは幕府に恭順を装いながら来るべき反抗の準備を進めます。また久坂玄瑞、桂小五郎らは密かに京都に潜入し、長州派の公家と連絡を取り合っていました。 1864年8月、長州藩家老福原越後、益田右衛門介、国司信濃らに率いられた長州藩兵千数百名が京都に入ります。彼らは「藩主の冤罪を天皇に訴える」と称し御所に迫りました。蛤御門は会津藩が守っていましたが、御所に入れろ入れないで押し問答になり長州兵が強行突破しようとしたことから戦闘になりました。御所周辺の各所で長州兵と幕府方が戦闘に突入、多勢に無勢で長州兵は…