仏教用語
唯識にいう八識の一つで、人間存在の根本にある識である。五感と思考による認識を支える枠組みにあたる。
唯識論では、自己と自己を取り巻く自然界の全存在は自己の根底の心である阿頼耶識が知らしめたもの、変現したもの、とする。阿頼耶識が蔵する、一切の現象を起こさせる可能性または能力を種子(しゅうじ)という。種子から一切諸法が生起し、その顕現した現象は直ちに阿頼耶識に影響を及ぼし、新たな種子となる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98
阿頼耶識は、蔵している種子から対象世界の諸法(現行(げんぎょう)法)を生じ、その諸法はまた阿頼耶識に印象(熏習(くんじゅう))を与えて種子を形成し、刹那に生滅しつつ持続(相続)する。
仏教では、業の思想を、生死輪廻の中に考えている。行為の影響力が死後にまで及ぶと考えられる。このとき、もし行為の情報が身体に貯えられるとなると、死んで肉体を失った後は、その情報は伝達されない。そこで身体ではなく、我々の意識し得ない心の領域があり、それは生死輪廻を貫いて存続し続ける、そこに情報は貯えられるとされ、その心の領域として阿頼耶識が考えられたという。(竹村牧男『知の体系』佼成出版社、89〜100)
阿頼耶識から生成した万物は迷いの世界であるが、では煩悩を滅し尽くした後に阿頼耶識はどうなるか。これは阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという問いであり、迷いを捨てて修行することは思考や認識作用が無くなってしまう事を目標にするのか、どこまでも考え続けるべきなのかという問いでもある。
聖闘士星矢用語。本来は仏教用語。
→エイトセンシズ