『社会学のまなざし』コメンタール(回路1)

受講生からでた質問への回答にかえて、各記述について、補足説明。
※ 表記などについての疑問については、「『社会学のまなざし』誤植一覧

■「サイレント・マジョリティ」(p.66 4行)
↑ 本来は、「サイレント・マジョリティ(英: silent majority)とは、「物言わぬ多数派」、「静かな多数派」という意味」
アメリカのニクソン大統領が、1969年11月3日の演説で「グレート・サイレント・マジョリティ」とこの言葉を用いた。当時、ベトナム戦争に反対する学生などにより反戦運動がうねりを見せて高まっていた。しかし、ニクソンはそういった運動や発言をしない大多数のアメリカ国民はベトナム戦争に決して反対していないという意味でこの言葉を使った。事実、兵役を回避しながら反戦運動をする学生などに対して、アメリカ国内では高学歴の富裕層や穏健的な中流層から、保守的な低所得者層の労働者たちまでの広範囲な層が反感を強めていた。実際に1972年アメリカ合衆国大統領選挙ではニクソンは50州中49州を獲得し、圧勝している。
日本においても、昭和35年(1960年)のいわゆる「安保闘争」の際に、当時の首相岸信介が銀座や後楽園球場はいつも通りであることなどを挙げ、安保反対運動に参加していない国民を声なき声という言葉で表現し、ニクソン大統領の「サイレント・マジョリティ」とほぼ同じ意味で用いた」(ウィキペディア「サイレント・マジョリティ」)
・本書では、環境汚染などの直撃をうけ、ときに絶滅したりする野生の動植物は、人類に理解できるような異議もうしたてなどしない(できない)以上、対義語である「ノイジー・マイノリティ(「声高な少数派」の意味)」ではもちろんなく、沈黙をまもりつづける無数の生命体といして人類をとりまいているという現実を、皮肉をこめてのべている。


■「エリザベス貧窮法」(p.66 したから2行)
イングランド救貧法(きゅうひんほう、Poor Laws)とは、近世〜現代のイングランドにおいて、貧民増加による社会不安を抑制するための法制をさす。1531年に救貧が始まり、エリザベス救貧法をはじめ幾度も改正が繰り返され、結果的に福祉国家イギリスの出発点となった。イングランド救貧法は近代的社会福祉制度の先駆として模範のひとつとされ、諸外国も福祉制度の導入にあたって参考にした。日本の生活保護法などもこの影響を受けて作られている。
……
エリザベス救貧法(旧救貧法
救貧行政は各地方が個別に行っていたが、手に余る教区・都市も出始めていた。そこで1597年には、最初の総合的な救貧法(Act for the Relief of the Poor 1597)が制定され、1601年にエリザベス救貧法として知られる救貧法改正がなされた。この制度は17世紀を通じて救貧行政の基本となり、近代社会福祉制度の出発点とされている……
エリザベス救貧法の特徴は、国家単位での救貧行政という点にあった。エリザベス以前の救貧行政は各地の裁量に委ねられていたが、この改正によって救貧行政は国家の管轄となった。以降、救貧は中央集権化を強めていった。イングランド内戦がおこると一時的に機能麻痺に陥ったが、1662年の小規模の改正によって立て直された。
この救貧法現代社会福祉制度の出発点と評価されるいっぽう、法の目的は救済ではなくあくまで治安維持にあった。したがって貧民の待遇は抑圧的でありつづけ、懲治院は強制収容所・刑務所と変わらない状態にあった。ときには健常者と病気を持つ者を分け隔てなく収容し、懲治院内で病気の感染もおこった。こうした待遇から脱走や労働拒否を試みる貧民はあとを絶たず、一定の社会的安定をもたらす効果はあったものの、根治には至らなかった」(ウィキペディア「貧窮法」)


■“from the cradle to the grave”“from womb to tomb”(p.67)
「From the cradle to the grave
第二次大戦後、英労働党が掲げた社会福祉制度のスローガン。「From womb to tomb (子宮から墓場まで)」とも言われる。社会保障を充実させることを目的とした「生まれてから死ぬまで国民の面倒を見る」という社会福祉国家の構想。60年代、主要諸国の社会福祉政策の指針となり、財政・金融政策に基づく完全雇用を目指す「大きな政府」が主流となるが、失業率・医療費の増加、人口の高齢化などにより、社会保障費が国家歳出に占める割合が膨張。その後、歳出と課税、政府介入などを極力抑えた「小さな政府」への転向を試みる政策が見られるようになった。」
英国の社会保障制度とその変革 - 元気な高齢者と定年制度廃止

■「小さな政府」論(p.67したから7行)
「小さな政府(ちいさなせいふ, 英: Limited government)とは、民間で過不足なく供給可能な財・サービスにおいて政府の関与を無くすことで、政府・行政の規模・権限を可能な限り小さくしようとする思想または政策である。小さな政府を徹底した体制は夜警国家あるいは最小国家ともいう。基本的に、より少ない歳出と低い課税、低福祉-低負担-自己責任を志向する。主に、新保守主義者またはリバタリアンによって主張される。」(ウィキペディア「小さな政府」)


■「優勝劣敗原則は貫徹されない」(p.68 6行)
↑ そもそも、中高年男性が支配する長老支配(家父長制など)自体、身体的な強弱、反射神経などだけでは優劣がきまっていない証拠。つよいものだけが つねに かちのこり、よわいものは つねに きえていくというなら、壮健な成人男性(18-32才前後)だけしか いきのこれないことになる。そんな社会は、いまだかつてない(社会は戦場であはない)。
そして、壮健な成人男性も、幼少期という弱小な時期がかならずある。つまり、社会は、高齢者はともかく、乳幼児や女性など、弱者が いきのこれるよう、さまざまな保護や援助がなされるようできた互助的空間となっている。


■「うけざら」(p.68 8行)
↑ 現在、情報通信技術などによる省力化や労働力不足傾向にある職種との能力のミスマッチの結果とされている膨大な失業者。かれらを雇用し、福祉の対象から福祉をささえる主体へと変身させる職務の提供空間。高齢者介護施設etc.

■「単にビジネスチャンスだとか「官僚の天下り先」といった次元でなく、英知の結集が必要」(p.69 9-10行)
化石燃料を駆動力に、最大限に開花した複製技術が、乳幼児や育児関係者の生活環境も劇的に改善させ、乳児死亡率をさげ、高齢者を長寿化した。大衆化した高等教育。図書館・博物館・美術館・動植物園などはもちろんカルチャーセンターや公民館など文化的施設における社会教育(成人教育)。これら福祉・学習サービスは、ゆたかさの象徴であり、せっかく養成された人材を有効利用する空間でもある。これら資源が、業者の利潤追求とか、キャリア官僚らによる「余生」のための手段と化してはもったいなすぎる。私利の追求ではなく、公益につながるような福祉・学習サービスへの人材・資金の充当がもとめられる。当面は、大学などが先行例として参考になるはず。

『社会学のまなざし』コメンタール(回路2)

受講生からでた質問への回答にかえて、各記述について、補足説明。
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■「国連人口基金東京事務所」(p.69)→ウィキペディア国際連合人口基金

■「農牧をはじめても狩猟採集生活時代とくらべた爆発的人口増加にはいたらなかった」(p.70 7-8行)
 ↑ 一般的には、農耕社会直前(「居住可能地の人口密度は最大で1平方キロ当たり1人、通常は0.1人以下と推定されている」)が全世界で数百万人台の水準だった状況が、数千年がかりとはいえ数十倍に増加した事実は否定できない(「一般に粗放農業でも、単位面積当たりの人口支持力は狩猟採集の100倍は下らない」)。しかし、産業革命以降の人口爆発と比較すれば、「爆発的人口増加」という表現はあたらない。農業の伝播は、早晩、階級社会をもたらし都市を形成した。収奪システムが起動することで、格差が固定化し、特権層周辺は「人口増」をみたかもしれないが、その量はもちろん、たかがしれていた。都市部が農業生産の増産分を蕩尽し、農業生産人口を漸増させるにとどまったとかんがえられる。農業生産を急増させ、食料を遠隔地まで大量輸送できることで飢饉が消失していく=栄養水準向上などによる人口爆発時代の到来は、産業革命をまたねばならなかった。
どの程度の人口規模が地球のエコシステム上、適正なのか? その試算は、存外むずかしそうだ。しかし、現状の様な暴走というべきエネルギー利用(化石燃料原子力の無節操な活用)は論外だし、格差がひろがる一方の人類にあって、過剰な消費をつづけることが非倫理的であることはまちがいない。


■「休産期にはいらないよう絶食などにより栄養不足においこみ、強制的に羽毛をはえかわらせる」(p.72したから8行〜)
 ↑ 「採卵鶏は150日齢頃から産卵をはじめる。産卵を開始して約1年が経過すると、卵質や産卵率が低下し、自然に換羽して休産期に入る鶏が出てくる。このため、換羽前にと殺する場合もあるが、長期にわたって飼養する場合は、強制換羽がおこなわれる。強制換羽とは、鶏を絶食などの給餌制限により栄養不足にさせることで、新しい羽を抜け変わらせることである。強制換羽で生き残った鶏は、また市場に出せる質の良い卵を生むことができる。強制換羽は日本の採卵養鶏では約50%で実施されている」(ウィキペディア「養鶏」→http://jlta.lin.gr.jp/report/animalwelfare/h18/no2/AW181220-m3.pdf
羽毛を産業廃棄物ではなく有効利用するものとして、低価格帯のフトン/ジャケットやハタキ、募金用の羽根などがあるが、食用・鶏卵用の過密飼育では満足な質が保証できないために、羽毛用の飼育がなされている模様。

■「産む機械」(p.72したから7行)
 ↑ ナチズムがホロコーストという狂気のすえに、ユダヤ系市民を素材化して、人体の脂肪組織からセッケンをつくりだすという「有効利用」しようとした。
グダニスク
アレクサンダー・ワースの著書『Russia at War 1941 to 1945』で、彼は1945年に赤軍によって解放されたグダニスクを短期間訪れ、街の郊外に人間の死体から石鹸を作る実験工場を見たと記録している。ワースは「スパナーというドイツ人博士」が稼働させていたもので、「悪夢のような光景だった。タンクの中身は液体に浸かった人間の頭や胴体だった。そしてバケツの中身は、薄片状の物質――人間石鹸――だった」と書いている。
ニュルンベルク裁判では、ジークムント・メイザーというダンツィヒ解剖学研究所の助手が収容所で死体の脂肪から作った石鹸のテストをしており、40体の死体から集めた70から80 kg の脂肪で25 kg 以上の石鹸を製造することができ、完成した石鹸はルドルフ・スパナーという博士が保有していたと述べている。目撃証人には収容所の建設に従事させられたイギリス人収容者やグダニスク薬学校毒性学部長スタニスワフ・ビツコフスキー (Stanislaw Byczkowski) 博士が含まれていた。ホロコーストの生き残りであるトーマス・ブラットは、この件を調査し、具体的な文書がほとんど見つからず、人間の脂肪から石鹸が大量生産されたという証拠はないとした。しかし、石鹸を作る実験の証拠はあったとしている」(ウィキペディア「人間石鹸」)
食用や生体組織を利用するためにかわれる家畜が、いきる「素材」であることはいうまでもない。鶏卵用白色レグホンなどが、その方向で特化した「品種改良」の産物であることも多言を要さない。
ちなみに、性差別主義者は女性を「産む性」ときめつけており、たとえば安倍改造内閣厚生労働大臣をつとめた政治家が〈「産む機械」発言〉をした事例でもうらづけることができる(ウィキペディア「柳澤伯夫」)。
動物にしろ人間にしろ、他者を手段視してはじない人物(ベジタリアンでない人間の大半はそうであるが)は、生命存在を簡単に素材視・装置化するのである。

■「水産物の養殖や水耕栽培なども徹底ぶりの大小の差があるだけ」(p.72したから3行〜)
 ↑ 養鶏など究極の超合理化(=工業化)がすすんだ領域ほどには、養殖は徹底化が困難だし(たとえば個体ごとに個別に給餌できないetc.)、逆に水耕栽培などの一部はコンピューター管理で計画どおりの作物育成が可能だとか、徹底ぶりには濃淡がある。

パナソニックの創業者、松下幸之助の『水道哲学』が提起された『社主告示』(p.73)の現代語訳(私家版意訳)
「企業人の社会的使命とは貧困状態の克服である。そのためには、物資のたえまない増産によって、社会をとませないといけない。水道水は無料ではないが、通行人が無断でのんでも罪にとわれることはない。大量生産される水道水が、極端に安価だからだ。企業人の社会的使命も、水道水のように商品を無尽蔵に生産することで、あたかも無料かとおもえるような価格破壊を実現することにある。それにより、民衆に幸福を提供し、この世を天国を実現できるのだ。松下電器の本当の使命も、おなじである。」

■「鶏卵の物価水準や100円ショップほかでの驚異的な廉価販売=「水道哲学」は、技術革新による工場制大量生産が相当程度実現させた」(p.73 したから10行〜)
 ↑ 「農業・畜産業・水産業の工業化」(pp.71-2)が食品の「驚異的な廉価販売」を可能にしたが、そのインフラを整備したのは「技術革新による工場制大量生産」だった。また「技術革新による工場制大量生産」は複製技術によっているため、その生産システムをコピー(追従)したという面も否定できない。密集したかたちで、集約的に鶏舎を運営するとか、給餌を機械的におこなえるよう、エサを単位時間あたりに消費される流体として把握するといったシステムは、畜産業の工業化といえる。動植物という生命体さえ素材化し、効率化のために規格化するわけだから、100円ショップなどの廉価品の製造工程では徹底的に大量生産が追求された。早晩、それは無人化へとむかう。


■「人間の文化の大半は複製技術を基盤にしている」(p.73 したから4行〜)
 ↑ p.74にかけて整理したとおり、人間の文化は基本的にコピーによって成立している。それも、コピー技術がコピーされていく過程として歴史(文化史・経済史・政治史)は理解することができる。農牧業・水産業しかり、各種工芸しかり、オートメーションによるロボットの機械的複製過程も、その延長線上にある。
穀物や野菜・果実などの種子等の拡大再生産、家畜・ペットの「品種改良」など、いかにも複製技術を基盤にしたものだけではなく、言語文化をはじめとして、ありとあらゆる人間の文化現象は、コピーによって継承・伝播される。くりかえしになるが、コピー方法自体がコピーによって継承・伝播される。ひとが、独力で技法をあみだすことは不安定で、リスクがおおきく、コピー方法をコピーするのは、合理的なのである。「オートメーション」については、次項参照。

■「オートメーション」(pp.74-5)
 ↑ 「ファクトリーオートメーション(英: Factory Automation)とは、工場における生産工程の自動化を図るシステムのこと。FA(エフ・エー)と略される。
……従来、人間によって行われていた作業を無人化することを意味する。産業用ロボットを多用して、従来人間によって行われていた作業を無人化することで、人間による作業ミスの削減、作業効率、人間に対する安全性の向上を図る。……」(ウィキペディア「ファクトリーオートメーション」)の前史としては、「ベルトコンベア」の導入がある。チャップリン映画「モダン・タイムス」は、機械の奴隷のようなあついかいをうける工場労働者の実態を風刺したもの。
「ベルトコンベア」や「ロボット」の導入は、基本的に同一の製品が長時間大量に再生産されることが前提となっている。「複製技術」の典型例である。

■「各界の熟練技能=個人技を解析し、複製可能な程度にまで徹底解体してしまうシステム」(pp.74-5)
 ↑ 「そのみち20年」といった熟練工などの個人的な特殊技能は、調達するコストがたかいので、とりかえ可能であり、養成期間・費用がやすくてすむ単純労働者ですむ生産体制をくみたい。テーラー・システムを起点に、フォーディズム(フォード主義)やトヨティズム(トヨタ主義生産体制)などは、自動車工場などが実現したものであった(トヨタのベルトコンベア労働は、なれと、かなりの体力が必要だったが)。ともあれ、熟練工ではないスタッフだけでまかなうためには、生産過程の分解がなされる必要がある。アルバイターでも短期間にコピーできるまでの生産過程の解体と透明化。マクドナルド化とは、アルバイターが1週間程度の実地研修でシステムのリズムについていける程度まで、手順が解体され透明化されている点も重要な要素である。すくなくとも、ファストフードやコンビニなどは、それが必要だ。

■「マニュアルにそったコスト軽減重視の画一的なプロセスに変容していくなら、育成過程自体かぎりなく「機械化=非人間化」していきます」(p.75 したから10行〜)
 ↑ 商品の低価格化をはかろうと人材育成過程のコスト削減を徹底化すれば、時間短縮には物理的限界があり、最終的には、ぞんざいなあつかいにいたる。動植物の生育と同様、促成栽培・早熟化をはかる方向での合理化には限界があるのに、あたかも無限に省力化・短縮化をすすめることができるかのような幻想が一部にのこっている。

■「もろばのつるぎ」(p.75したから2行)
 ↑「諸刃の剣」(「もろはのつるぎ」とよませることが大半)。「相手にも打撃を与えるが,こちらもそれと同じくらいの打撃を受けるおそれがあることのたとえ。また,大きな効果や良い結果をもたらす可能性をもつ反面,多大な危険性をも併せもつことのたとえ。両刃の剣。

■「消費者には福音ですが」(p.75 最終行)
 ↑ 「1個10円未満の鶏卵」「100円ショップの商品群」など驚異的な価格破壊で、大衆のおおくが満足する点(→pp.96-7など、満足できない層、ついていけない層の存在もあるが)

■「『水道哲学』のような『博愛主義』」(p.76 2-3行)
 ↑ p.73の松下幸之助の主張は、大量生産・薄利多売による「貧乏の克服」をうたっているのであるから、すくなくとも表面上は「博愛主義」と位置づけるべきである。

■「薄利多売商品以外にはサイフをゆるめない消費者集団。それら消費市場をとりあう熾烈な競争をくりかえす業者群。これら需給関係」(p.76 13-5行)
 ↑ 大衆社会における消費者は、生産最前線・流通最前線での現実など考慮しないで、ひたすら利己的な関心だけで「よいものをやすく」と要求しつづける。【需要がわの暴走】
この消費者の要求にこたえるため、同業他社との競合にまけないため、経営者価格破壊へと経営者たちはおいこまれる。価格破壊をめざしてコストカットを徹底する過程で実質労働単価をきりさげるなら、労働現場に、かならずシワよせがいく。【供給がわの暴走】
かりにムリ・ムダ・ムラを皆無にすることができたしても、労働者の消耗を必要悪視する経営者や監督者が一掃されないかぎり、商戦上の「合理化」は最後は労働者の「つかいすて」とか、違法な水準にたどりついてしまう。【「ブラック企業」の遍在化】
技術論的・経済学的なコスト圧縮メカニズムについては、直前の「オートメーション化」(pp.74-5)参照。

■「20世紀後半以降の市場競争は、国境線をこえた億単位の大衆をまきこんだ巨大なうねりとなりました」(p.76 最終的〜)
 ↑ 17世紀オランダでのチューリップ・バブルと崩壊のような国際的な現象はあったが、かかわった人口はたかがしれていた。しかし、20世紀後半にはじまり、世紀末から21世紀にかけての市場競争は、近代初期の数百万といった市場規模での現象ではなく、数千万、数億人にもおよぶような巨大津とか巨大台風をイメージさせる現象さえもたらした。中国製品の大量流入→家電業界の業績悪化は、日本の鉄鋼や自動車の大量流入で市場撤退や転換をしいられた北米産業界や失業などとかぶるものだし、中国など東アジア諸地域の中産階層・富裕層の急増にともなう市場の膨張も、20世紀前半までには想像もつかないような巨大な変動といえる。

■「確実にいえること。〜」(pp.77 最終3行)
↑ たとえば、徳川幕府が「鎖国」によって、キリスト教流入や貴金属の流出をおさえるなど、19世紀中期までの世界各地は、グローバル化の直撃をうけないかたちで、自律的な経済・社会圏を維持できていた。しかし、19世紀の後半をへて20世紀にはいると、欧米社会の政治経済的事件や、風俗・流行などが、世界各地に急速に影響をあたえはじめた。官吏や警官・軍人などを中心に洋髪や洋装(西洋式ファッション)などと無縁であることは困難になるとか、獣肉食が急速に普及するとか(「文明開化」)、世界中の感染症流行の余波をうけるとか、世界と無縁な空間は、ごくわずかしかのこされなくなる。居住地や職種・交際の自由が原則となれば、人口移動が無視できなくなり、文物や情報もしばしば高速で広域に伝播するからだ。

■「2000年3月に日本人横綱が引退してから〜約半数をしめるという現実」(pp.78-9)
 ↑ 「平成
若貴兄弟(貴乃花光司若乃花勝)の活躍により、一時相撲ブームが起こった(二人の名を取って若貴ブームとも呼ばれた)。伯父が名横綱・初代若乃花、父が名大関・初代貴ノ花という血統が、オールドファンを呼び戻すとともに、貴乃花の精悍な風貌、若乃花の人好きのする童顔は、それまで相撲に興味のなかった層の女性ファンも獲得した。
一方、千代の富士貢の引退が呼び水になったように生じた横綱不在、群雄割拠の中、まず小錦が抜け出した。彼は膝の故障をついに克服しきれず、史上初の外国出身横綱を逸したが、ハワイ出身の後輩、曙、武蔵丸が共にこれを果たし、優勝も二桁10回以上を重ねた。1993年から2000年頃にかけては、若貴兄弟らの二子山部屋勢対曙・武蔵丸のハワイ勢の様相を呈した。
貴乃花は曙らを抑えて優勝22回を数え日本人力士の体面を保ったが、その引退と入れ違いのように外国出身力士の主流はモンゴル勢に移った。2006年3月場所では、優勝と三賞をすべてモンゴル勢で占めることになった。ブルガリア出身の琴欧洲エストニア出身の把瑠都大関に昇進するなど、旧東欧圏出身力士も目立ち始めた。2006年1月場所栃東から……日本人力士による幕内最高優勝が達成され」ていない。(ウィキペディア「大相撲」)

■「もはや「外国人」ぬきに興行が成立しない」(p.79)
 ↑ 「ウィンブルドン現象ウィンブルドンげんしょう)とは、市場経済において「自由競争による淘汰」を表す用語である。特に、市場開放により外資系企業により国内系企業が淘汰されてしまうことをいう。ウィンブルドン効果とも呼ばれる。……市場経済において自由競争が進んだため、市場そのものは隆盛を続ける一方で、元々その場にいて「本来は地元の利を得られるはずの者」が敗れ、退出する、あるいは買収されること。
競争により活性化し望ましいという見方と、在来のものが除外され望ましくないという見方がある。……
……語源はテニスのウィンブルドン選手権。伝統ある同選手権では世界中から参加者が集まるために強豪が出揃い、開催地イギリスの選手が勝ち上がれなくなってしまった。男子シングルスでは1936年のフレッド・ペリーの優勝から2013年のアンディ・マレーの優勝までの77年間、優勝がなかった。また、女子シングルスでは1977年のバージニア・ウェードの優勝を最後にイギリス人の優勝者は出ていない。……
……
ウィンブルドン選手権以外のスポーツ競技における同様の現象
・大相撲・日本出身力士の不振
日本の国技と言われている大相撲では、現在モンゴル国ポリネシア、東欧など世界各地から才能のある選手が集まり、相撲内容は多彩になった。しかし、それと同時に地元である日本出身の力士が、現在に至るまで長期間活躍出来ていないという様子が、ウィンブルドン現象に例えられる場合がある。
幕内最高優勝では、2006年1月場所栃東大裕(元大関・現玉ノ井親方)を最後に、現在2013年に至るまで7年以上、日本出身力士の幕内優勝は一人も出ていない(ただし2012年5月場所、モンゴル出身で日本国籍を取得済の旭天鵬勝が平幕優勝)。また2003年1月場所限りで貴乃花光司(第65代横綱・現貴乃花親方)が現役引退して以降、2013年現在10年以上も日本出身の横綱が存在していない状態が続いている。さらに日本出身の横綱は1998年5月場所後の若乃花勝を最後に15年以上誕生しておらず、また日本出身の横綱同士の対戦となると、1991年7月場所の北勝海信芳と旭富士正也の取組を最後に20年以上実現していない。
……2002年2月から「1部屋1外国人制」を実施し、以来一つの相撲部屋には外国人は1人しか入門できない仕組みになっている(入門時に日本滞在が満10年以上の者や日本に帰化した場合は対象外)。

・プロゴルフ
全米女子プロゴルフ協会(LPGA)主催試合において、2000年代以降、アメリカ合衆国以外の出身選手の参戦が顕著となり、とりわけ、1998年全米女子プロゴルフ選手権で優勝した朴セリの成功をきっかけに大量にツアーに参戦した韓国出身選手が多くの大会で優勝するにつれ、2008年に全米女子プロゴルフ選手権を放送したザ・ゴルフ・チャンネルの中継中、「韓国選手があまりにも多く、米国選手の活躍が少なくなり、米国内で視聴率が落ちている」とコメントされるほどの事態となり[1]、実際に年々大会数や賞金規模が縮小、2012年には、賞金総額こそ4772万ドル(約44億円)と日本女子ツアーを上回ったものの、トーナメント数はついに30試合を割って29試合(日本開催のミズノクラシックも含む)となった」(ウィキペディア「ウィンブルドン現象」

「特徴
・2003年頃からプレミアリーグに所属する各クラブが外国人投資家に買収されるようになり、現在ではリヴァプールアメリカ人)、マンチェスター・U(アメリカ人)、チェルシー(ロシア人)といったビッグクラブやマンチェスター・シティUAE人)、アストン・ヴィラアメリカ人)、ポーツマス(ロシア系フランス人)、バーミンガム香港人)などといった中堅クラブまでが外国人オーナーの所有するクラブとなっている(ウィンブルドン現象)。2011年10月現在、プレミアリーグ所属の20クラブ中、半数の10クラブで外国人がオーナー職を務めているという現状である…。
イングランドのリーグだが、英国籍の選手の率は決して高くはない。(13-14シーズン開幕戦の英国籍のスタメン率は34%と過去最低となった。)一時期のアーセナルではスタメン全員が外国籍選手だけという試合もあった、クラブによっては多国籍化が進んでいる。」(ウィキペディア「プレミアリーグ」

■「自給率100%ちかい国家」(p.79)←2009年段階で主要国で、食料自給率(カロリーベース)で100%をこえているのは、アメリカ・カナダ・フランス・オーストラリア、かなりちかいのがドイツぐらい。ほかは日本の40%はともかく、50%台から70%台で、とても一国内で自給できているとはいえないのが現実(農林水産省諸外国・地域の食料自給率(カロリーベース)の推移(1961〜2012)」)。カナダ・オーストラリアなど、突出した穀倉地帯が世界各地の不足分をおぎなっているといえる。

■「bads」(p.80)←ここでは、経済学モデルでの厳密な概念ではなく、単純に、「よくない事物・現象」「さけたい事物・現象」をさす。
感染症の原因であるウィルスなどのような有害なものはもちろん、覚せい剤などのように依存症患者を最終的には破滅においこむ依存性物質など、社会に問題をもたらす要素が、航空機やインターネットなどを介して大量高速移動するという現象を現代社会の本質だとみなして議論をすすめている。
pp.98-9も参照のこと。

■「仮想水」(p.80)←脚注27以上の情報は、とりあえず以下参照。
ウィキペディア「仮想水」(外部リンクなど意外に充実)


■「ひとびとが(一応)主体的に判断し取捨選択した行動が集積し、政治経済的・文化的に、既存の境界線がやすやすとのりこえられているという現実」(p.81 11-3行)
 ↑ 戦時中の軍事的徴用(詐欺・誘拐をともなう軍慰安婦「募集」などもふくめた)のように(半)強制的な移動、アメリカ大陸への奴隷の輸送など、人間の意志を完全に無視した越境は、20世紀なかばまで たくさんあったし、朝鮮労働党による市民の拉致など、20世紀後半にも醜悪な事例は散見される。しかし、20世紀に急増した越境は、経済的困窮などが基盤になっているとはいえ、移住者たちの主体的な判断がからんでいた。19世紀後半以降、急速に制度化した国境線や出入国管理システムとはうらはらに、大規模客船や航空機が、世界中で移動を活発化させた。

■「「日本国との平和条約」の発効で独立状態をとりもどす」(p.82 したから10行〜)
↑ 同時に発効した旧安保条約と、1960年からきりかえられた新安保条約は、たしかに、日本が安全保障という名分で、準植民地的な存在であることをしめしている。特に、日米地位協定は、植民地といわれても、否定できない本質をかかえている。しかし、日米両政府は、もちろん、この非対称的地位(優劣関係)をみとめていない。たしかに、一応独立国なのである。米国政府の一存で日本の政治経済が決せられているわけではないし、すくなくとも、日本国民は、「民主的投票」によって、国政の代表者を選択しているし、行政をになう官僚も日本国籍者によってしめられているからである。この形式的独立と実質的屈従こそ、戦後の日本の政治体制の本質といえよう。

■「アメリカ国民は「9・11同時多発テロ」のいわれなき被害者だというアイデンティティ(自画像)から解放されていない」(p.82したから2行〜)
 ↑ チャルマーズ・ジョンソンが、『アメリカ帝国への報復』(鈴木主税訳,集英社 2000年,“Blowback: the Costs and Consequences of American Empire”, Henry Holt, 2000)で指摘していたとおり、「9・11同時多発テロ」に類する攻撃を誘発するような高圧的・差別的な世界戦略をとりつづけてきたアメリカは、環太平洋を植民地・準植民地化してきた、あきらかな帝国主義国家だった。しかし、アメリカ国民の大半はその自覚がないことが、歴代の大統領府や連邦議会議員のメンバーをみれば、それは否定できない。かれらは、「真珠湾攻撃は卑劣な不意打ち」という神話を信じてうたがわないのと同様、「9・11同時多発テロ」のいわれなき被害者だと信じてうたがわない。世界から、どのような反感をおぼえているのか、それがどんな歴史的経緯をもっているのかをしらないし、しろうともしない。

■「砂漠地帯を〜ちがいありません」(p.83、8行〜11行)
 ↑ 戦争は政治経済の拠点をめぐっての支配権の争奪戦が基本となる(かなり広域の領土の争奪も、拠点となる諸都市の支配権が決する)。したがって、大都市や軍都でもない地域に、軍隊が駐留するとか(それを「市場」とした諸業種=性風俗などもふくめた=も結集する)、避難民の支援のために国内外からNGOなどが結集するといった人口移動がおこることは、近代以前にはありえなかった。

■「(現代の=引用者注)大量移動のなかで……社会全体への変動をもたらしたものの象徴といえるのは、マクドナルドなどサービス産業が世界展開したことによる労働・消費スタイルの変容」(p.84 7-8行)
 ↑ 世界展開したマクドナルド社にならって、おもに北米起源のファストフード、スーパーマーケットやコンビニなどの大規模チェーンが急増した。このことは、流通業界全体を変革しただけでなく、そこではたらく労働者、そこを利用する消費者の人生の質を全面的に改変するような圧倒的な影響力を行使した。【次項参照】

■「マクドナルド……のもたらした変革は……意図的コピーにとどまらず、公/私や営利/非営利にかかわらず、普遍的に作用している」「競合している組織同士は、合理化競争ゲームからおりられない」「たとえばスーパー/生協間はもちろん、公立病院/私立病院間でも」(p.84したから10行〜)
 ↑ こういった合理化競争をしいる力学は、「利用者も大半は〜サービス組織に要求水準をどんどんあげていく」ことの集積がもたらしたもの。これら超合理化に対する違和感や非合理性については、p.96第2段落・第3段落。
マクドナルド化の起点は、レイ・クロックによるマクドナルド1号店(1955年)。経緯の詳細は、『マクドナルド化する社会』2章「マクドナルド化とその先駆者たち」。

■「効率性」「計算可能性」「予測可能性」「制御」(pp.84-7)の補足説明
 ↑ 「効率性」:外食サービスなら、「空腹→満腹」へのプロセスの省力化・省時間化・低価格化を徹底すること。薄利多売の速度をあげることで利潤を最大化。
「計算可能性」:外食サービスなら、素材の調達・調理プロセス、商品の提供プロセス、商品の消費プロセスにおいて、時間や量が数値化できること。
「予測可能性」:外食サービスなら、素材の調達・調理プロセス、商品の提供プロセス、商品の消費プロセスが、あらかじめ当事者に明確にイメージできること。
「制御」:外食サービスなら、「きちんと並ぶことが求められている行列、選択の余地のないメニュー、追加注文の品数の少なさ、そしてすわり心地の悪いいすなど、そのすべてが経営戦略上顧客に要請していること」で消費者は店舗スタッフや経営者に「制御」され、「従業員は教えられたとおり正確に、ごく限られた業務をするよう訓練され……さまざまな装置や組織作りの方法がこの制御を補強し、店長は従業員が自分の職務をきちんと実行しているかどうかを確認する」が、これらの総体が経営者らによって「制御」されている。


■「公教育機関マクドナルド化」(p.85)
 ↑ 受験塾や予備校、英語学校や資格試験予備校など「営利企業」としての教育産業は、家庭教師や個人レッスンなどのマンツーマン・少人数サービスを例外として、「マクドナルド化」圧力をうけている。セルフサービス(宿題・自習etc.)を自明視し、なるべく多人数への一斉授業(統一テキスト・カリキュラムによるマスプロ教育)をふやすという、コスト圧縮圧力がかかりつづける。少子化や構造不況など、社会的環境の「悪化」は、圧力をつよめることはあっても、ゆるむことはない。前線に労働単価をきりさげる圧力がくわわることは、あきらかだ。サービス商品を提供するための「サービス残業」など、さまざまな労働強化が進行する。
受験塾や予備校と陰に陽に共存・競合関係にある小中高校には、公私をとわず、広義のライバルにまけないよう圧力がかかる。英語学校や資格試験予備校と陰に陽に共存・競合関係にある大学も、同様の圧力をうける。私学の偏差値競争や入試の多様化など、すべて労働強化をともなう。進学・就職実績をあらそう諸組織は、利用者たる生徒・学生や保護者に自助努力を要求するだろう。
マクドナルド化の負の側面」(p.85したから2行)も参照のこと。
マクドナルド化」が進行するのは、もちろん教育界にとどまるはずがない。p.84に例示したとおり、余波は私立病院をへて公立病院へ、スーパーマーケットなどを介して生協へ、影響がおよぶ。1対1の対面サービスでないもの、利潤追求の業者が参入できるところでは、基本的に発生する。保育・介護などは、その典型例である。

■「……「効率性」「計算可能性」「予測可能性」「制御」の4条件を追求するために、既存の諸力は、すべてつまみぐいされています」(p.85したから5行〜)
 ↑ ここで「つまみぐい」という表現をつかっているのは、「すこしずつ、ほぼ等量」という意味ではない。マクドナルド化する組織は、超合理主義を追求するために、既存の組織・技術を恣意的(ごつごう主義的)に援用し、そこになんら罪悪感とか羞恥心とか感じないメンバーが主流派をしめていくという意味。


■「マクドナルド化の負の側面」(p.85したから2行)「マクドナルド化への批判
・合理的システムは大量の非合理性を必然的にもたらす。つまり合理的システムは人間の理性を否定する傾向を助長する。
マクドナルド化は環境に対して様々なマイナスをもたらした。人々が期待しているポテトを作るためには形の揃ったジャガイモを育てる必要がある。そのためには大量の化学薬品が使われ、完璧でないジャガイモは大量に捨てられる。
・食事をする場所や作業をする場所が脱人間的な環境に変わっていってしまう。ハンバーガーを求めて、カウンターに一列に並ぶ顧客や、ドライブスルーで行列をつくって待つ顧客、そして食事の準備をしている従業員がしばしば感じていることは、自分が組み立て作業ラインの一部になっているという感覚である。食べていることに向いていないだけでなく、働く状況として非人間的になってしまっている。」
↑ 基本的に、「効率性」「計算可能性」「予測可能性」「制御」の諸要素は、消費者のニーズにこたえているからの成功の要素(合理化)ではあれ、所詮は利潤の極大を追求するシステムのマーケティングにすぎず、利益をえるのは経営者と投資家である。「消費者のニーズにこたえている」というのは、大衆あいての薄利多売のために不可欠だからにすぎない。コストカットゆえ、当然消費者や労働者の健康についての配慮は軽視される。「ファスト」フードや「マックジョブ」に、ゆとり、など人間らしさを要求するのは、「ないものねだり」である。
また、回転率を極大化するように設計されてはいても、「ラッシュアワー」は発生する。ファストフードにしろ、テーマパークにしろ、利用者のニーズは時間的に集中しがちであり、高速道路の渋滞のような現象はさけられない。「行列」を敬遠させないだけの集客力がもとめられる。


■「ピザや書籍の宅配システム……は、まさにマクドナルド的サービス」(p.87 8行〜)
 ↑ 根拠は、ページ後半(自宅/オフィスでのテーブル・玄関/ドア間が、店内のテーブル・カウンター間に対応)。
もちろん、近代日本で全国化していった(起源は、18世紀なかごろ)「出前」は、現代的デリバリーに先行している。江戸前ずしや仕出し弁当、どんぶりものなどをファストフードとみなせば、デリバリー版マクドナルド商法の先行形態といえそうな感じがして当然だ。しかし、一度の注文で5000円〜数万円といった価格帯にまでおよんだり、ピザなどとはちがってときに数十分かけて食すなど、通常の「ファストフード」イメージとは相当ズレる。すくなくとも、江戸前ずしの出前は、薄利多売ではない。

『社会学のまなざし』コメンタール(回路3)

受講生からでた質問への回答にかえて、各記述について、補足説明。
※ 表記などについての疑問については、「『社会学のまなざし』誤植一覧

人類学者や社会学者たちがうたがっている、「その実体性」(p.92 7行)
↑ 「人種」や「民族」の「実体性」。次項参照。

「ひとびとがかたる「民族」など、ほとんど無内容」(p.92最終行)
↑ 直前の「自分たちの文化・歴史を共有している」「という信念がもたらす求心力の産物」、あるいは、「ユダヤ人」のように、キリスト教徒など異文化にある集団からみたときの「集合体」≒幻想が、「民族」の本質(本性)。
後者における境界線があいまいすぎてナンセンス(ネット右翼らによる「在日認定」etc.)であることはもちろん、内実の多様性をくくる概念の妥当性は、つねに微妙な本質主義の産物、いいかえれば、先入観にもとづく共有化された錯覚(共同幻想)であることは、明白。
前者も、日本国籍者ほか「日本人」とみなされる人物全員が共有する「文化・歴史」などないといって過言でない(アイヌ系/琉球系/朝鮮系etc.)。
●スチュアート・ヘンリ『民族幻想論』

民族幻想論―あいまいな民族 つくられた人種

民族幻想論―あいまいな民族 つくられた人種

●ましこ・ひでのり『幻想としての人種/民族/国民』
幻想としての人種/民族/国民―「日本人という自画像」の知的水脈

幻想としての人種/民族/国民―「日本人という自画像」の知的水脈

●與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』


文化人類学者や社会学者たちが「実体」として着目するのは、ひとびとが共有している「人種意識」や「民族意識」という実態の現実」(p.93 1-3行)
↑ 人類学や社会学の学界では、「人種」や「民族」などを「実体」視することから解放されている。しかし、「人種」や「民族」などを「実体」視する集団が、たとえばナチズムを奉じてグロテスクな愚行をしでかしたとか、原爆投下や強制収容など蛮行が正当化してきた歴史的事実に着目する。独立運動などナショナリズムや北米の公民権運動など解放闘争も、「民族」や「人種」を実体視する集団心理ぬきには説明不能だと。

『社会学のまなざし』コメンタール(回路4)

受講生からでた質問への回答にかえて、各記述について、補足説明。
※ 表記などについての疑問については、「『社会学のまなざし』誤植一覧

■「合理化の逆説」(p.95 13行)
 ↑ 「オートメーション化」(pp.74-6)、「グッズ(good)・バッズ(bads)の大量高速移動」(pp.80-2)、「マクドナルド化」(pp.84-6)など、合理化は「光」だけをもたらすのではなく、超合理化には「影」ももたらす点。

■「現代社会に特徴的な「超合理性」」(p.95 15行)
 ↑ 現代社会以前にも、社会ごとの合理性は存在したが(一定水準以上の合理性がないと社会が存続しない)、現代社会は、合理主義が究極まで徹底され、システムに適応できない弱者をきりすてる、冷酷な現実がひろがる。超合理主義がもたらす副産物=非合理・非道が多発する。

■「とりわけ大企業は、近代以前の王国〜巨大な官僚システムを維持するのとおなじ」(p.95したから3行〜p.96うえから3行)
 ↑ 大企業と軍隊は、ライバルをうちまかす、ないしはテリトリーを死守するために、戦場と攻守のライバルのかかえる条件を徹底的に分析する。
戦場・自陣周辺で加勢してくれる勢力の分布や、敵に加勢する勢力の分布はもちろん、各地への物資補給などの地理的条件における彼我の優劣など、諸条件の科学的で冷静な分析がくりかえされ、戦略にくみこまれる。
それらの分析の蓄積・総合をへて、各地への物資補給の中長期的計画(後方支援体制の組織化)や短期的な決断がなされる。
これらがライバル間でしのぎがけずられる過程で、競争原理は合理化を徹底化させることになり、企業は、実弾や爆薬など兵器をつかわないだけで、本質的に非常ににかよった官僚制組織として対立・共存することになる。

■「NIMBY」(p.98)
NIMBY(ニンビー)とは、“Not In My Back Yard”(自分の裏庭には来ないで)の略で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す語。日本語では、これらの施設について「忌避施設」「迷惑施設」「嫌悪施設」などと呼称される。」(ウィキペディア「NIMBY」)
本書のなかでは、p.100に具体例。


■「すぎたるは、なおおよばざるがごとし」(p.96うえから11-2行)→「過ぎたるは猶及ばざるが如し

■「遠隔地系マクドナルド化システムは便利さを享受するための知識とそれを活用する技能……が不可欠」(p.97 5行〜)
 ↑ 情報通信技術がらみのインターフェイス(キーボードやマウス、タッチパネルetc.)は、システムの構造をおおづかみできる層にとっては、単純に便利である。しかし、それは、わかさ(心身の柔軟性)など、情報処理能力や助力があってこその利便性。高齢者をふくめた広義の病者・障害者や、幼児をふくめた年少者には、駆使が困難な障害物でしかないことが、すくなくない。

■「好景気で労働力の売り手市場でもないかぎり、雇用者(買い手)が相対的優位にあることはあきらか」(p.97したから2行〜)
 ↑ 斜陽産業などや過疎地ならともかく、都市部で倒産せずに存続している企業は、すくなくとも求職中の労働者よりは強者といえる。例外的なのは、バブル経済など好景気。テレワーク・モバイルワークとよばれる情報通信技術に即した労働は、職務形態の柔軟性ゆえに、労働者の主体性が維持される自由な時空が確保されるようにかたられたが、消費者や企業など、しごとを発注するがわのつごうにあわせるために、とことん私生活を犠牲にするような、ちから関係が基調となる。
繁忙期に業務が物理的にこなしきれず、行列や順番まちなどが発生し、サービスを提供されるがわにとって不如意な状況が発生することはある。しかし、そういった「渋滞」状況を例外として、たとえば「納期」を充分にまもりきれない労働者はきりすてられるのであり、IT時代で進行中の「超合理化社会」は、労働者の労苦をやわらげはせず、むしろ、労働強化をつよめる傾向がつよい。

■「合理」(p.98 4行〜5行)
 ↑「合理化(ごうりか、英: rationalization)
◇企業・団体が、新しい設備、施設、技術の導入、管理体制、組織を再編成することによって労働生産性の向上を図ること。特に、余剰資産・設備や人員を整理することについて使われる。
◇合理化 (心理学) - 心理学の用語で、自分にとって都合の悪い現実を、事実と異なる理由で隠蔽・正当化するなど、心理的自己防衛を図ること。 例えば、大学入試に失敗した者が、自分の学力が不足していたことに目を背け、「あの大学はもともと学風が嫌いだった」と述べるなど。……
◇合理化 (社会学) - それまで慣習的に行われてきたやり方を、成文的なルールに則ったやり方に改めること。マックス・ヴェーバーの一連の社会学によって研究された。」(ウィキペディア「合理化」)
本書にあっては、文脈によって、いずれももちいられている。回路④では、おもに経営学などでもちいる第1の語義でおもにもちいている。もちろん、「超合理主義という非合理性」といった表現においては、「労働生産性の向上」とか「人員を整理」といった方向性を自明視する姿勢を批判的に位置づけている。労働者を道具としてしかかんがえないがわの正当化という意味での「合理化 (心理学)」がはたらいているとうたがうからだ。 

■「不安と排外主義」(p.102 4行〜)
↑ pp.100-4にわたって展開される事例は、欧米社会におけるユダヤ系やイスラム系や、日本列島におけるコリアンなど、「外部」から侵入してきた異分子といった位置づけの排外主義的構造である。北米やオセアニアが、そもそも植民地であり、ヨーロッパにルーツをもつ住民自身が入植者の末裔にすぎないこと、日本列島のヤマト系と位置づけられる住民自身が、朝鮮半島や中国大陸、太平洋諸地域からの流入・定着民の末裔であることは、あきらかである。しかし、支配的な多数派勢力は、19世紀後半以降、とりわけ20-1世紀の移住者だけを、「外部」から侵入してきた異分子として位置づけ、みずからの排外主義を正当化する。天皇家がルーツに朝鮮半島の王族をもっているという文献だけでなく、天皇家をふくめた住民全員が、日本列島外からの流入者であることや、西日本の陶磁器の拠点のおおくが、秀吉らによる陶工の強制連行をルーツにかかえていることなど、列島上の出自や文化的系譜が列島外にあること、列島内で自然発生的にうまれひきつがれた独自性などわずかであることを直視せずに、在日各層など民族的少数派を暴力的に差別排除するのである。法務省による難民申請者への過酷で冷酷な拒否(p.102)や、それへの国民各層の冷淡さも、その構造的産物といえよう。

■「ユダヤ人差別という責任転嫁」(p.103 5行〜)
↑ 「ヒトラーを党首(党設立時から総統とよばれた)とする国家社会主義ドイツ労働者党(NASDAP:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、いわゆるナチ党)は,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定を唱え,第一次大戦の敗戦を,……ユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張した。」(「◆ユダヤ人虐殺の理由・アウシュビッツ強制収容所」『鳥飼行博研究室』)
「……「ユダヤ人が社会民主党の指導者」であるとされ、社会民主党は階級的な組織ではなく民族的な組織として、つまりユダヤ民族(ユダヤ人の民族共同体)のドイツ民族(ドイツ人の民族共同体)に対する闘争の組織として解釈される。マルクスユダヤ人であり、その「理論的大言と活動」は、ドイツ民族を支配するために「ユダヤ民族が思想をかくすため、少なくとも偽装するため」のものとされ、マルクス主義の階級的性格は民族的なものにすりかえられる。
 ブルジョア的世界観・イデオロギーも、民族的性格に「還元」される。ブルジョア革命とその理念としての自由と平等、その世界観としての自由主義個人主義、民主主義等々は、ヒトラーによれば、ユダヤ人が他民族を支配するためのものであった。
 ナチス民族主義は、伝統的な反ユダヤ主義と結びつくことにより、国民統合の武器となる。漠然とした不安や、矛盾に満ちた個々の人種観は、諸悪の背後には「ユダヤ人の黒幕」がいるというイメージによって、イデオロギー的に統合することができた。人々が現実に経験する近代のユダヤ人は実に様々であったので、いろいろな現象の背後に「ユダヤ人」という憎むべき神秘的な存在をかぎつけることが容易になった。例えば、ドイツ文化に同化したユダヤ人知識人は近代という悪を体現し、正統派のユダヤ教徒は、キリスト教反ユダヤ主義による伝統的な敵のイメージに合致する。経済的に成功したユダヤ人は、「強欲な資本」と自由主義とを象徴し、ユダヤ人の社会主義者は、憎むべき「ボリシェヴィズム」と「マルクス主義」を代表する。東欧からのユダヤ人は、ゲットーという異質な文化から出てきたため、帝国主義時代の文明的・植民地主義的優越感のはけ口としてまさにぴったりであった。これにともない、ナチ党の反ユダヤ主義は、宗教的、国民主義的な理由からする伝統的な反ユダヤ主義とは異なり、ユダヤ人の個々の要素ではなく、「ユダヤ人そのもの」という抽象的なもの、つまり人種主義がつくりだした人工的なイメージを標的にしたのである。ナチに敵対するものの究極的な象徴としてユダヤ人が利用されたのであり、厳密な区別は必ずしも必要ではなかったのである。
 ヒトラーの客観的現実的政治目標は、第一に領土拡大と帝国主義戦争であり、第二にそのための国内の政治体制の確立であった。そして、そのためには新しい理念と世界観をもった強力な大衆的政治運動が必要であり、そのための世界観が民族主義的世界観であった。このような見方に立つと、ユダヤ人絶滅政策を単にヒトラー反ユダヤ主義から見るのは誤りである。ユダヤ人を絶滅することは、ヒトラーの政治目標にとって何の意味もないのである。ユダヤ人を絶滅してもドイツの領土は拡大するわけではないし、戦争を遂行しうるような国内体制を樹立することにもならない。したがってユダヤ人攻撃は、民族主義的世界観以外の全てのものに対する攻撃的意識を喚起するためのイデオロギー的手段にすぎなかったのである。反ユダヤ主義は、ドイツ帝国主義への国民統合の一つの武器でしかなかった。……」(「ナチズムのユダヤ人絶滅政策」)


■「関東大震災時の「朝鮮人来襲」デマのような悪質なものは横行しないものの、ネット上の匿名掲示板では、それを事実であるかのようにかたる人物が阪神大震災後も東日本大震災後も続出しました」(p.106 9-11行)
 ↑ 「デマとしては、「性犯罪が増加した」などが流れたが、兵庫県内の強姦の事件数自体は前年と変わらず、逆に強制わいせつ事件は減少していた。また、窃盗・強盗の件数も同様に減っていた」(ウィキペディア「阪神・淡路大震災」)
「福島第1原発から半径30キロ圏内についても「外国人窃盗団が荒らしている」など根拠のない情報が出回っている」(「震災めぐりネットに悪質書き込み 警察がデマ対策強化」【共同通信】2011/04/01)
「「避難所となった三条中(仙台市青葉区)で中国人らが支援物資を略奪している」。震災数日後、ネットや口コミを通じ、こんなデマが流れた」(「「性犯罪や略奪行為多発」… デマ横行し不安が増幅(河北新報)東日本大震災の後 先々の見通しが立たない不安が背景」)


■「自制・抑制がきかないきらいがあります」(p.106 16行)
 ↑ =自制・抑制が充分できないという、こまった傾向がある。

■「ホットスポット」(p.107 最終行)
「……「hotspot ホットスポット」とは、局地的に何らかの値が高かったり、局地的に(何らかの活動が)活発であったりする地点・場所・地域のことを指さすための用語で、具体的には以下のような場所を指す。
・犯罪が多発する地区、犯罪率が高い地区。 →ホットスポット (犯罪)
・汚染物質が大気や海洋などに流出したときに、気象や海流の状態によって生じるとりわけ汚染物質の残留が多くなる地帯のこと。汚染物質の種類や流出理由は問わない。……」(ウィキペディア「ホットスポット」)
↑ ここでは、もちろん、東日本大震災のひとつである「福島第一原発事故による放射性物質の拡散」にともなう、原発周辺からははなれた地域での汚染の「飛び地」をさす。

ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図

ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図

■「対岸の火事」(p.108 13行)←「他人にとっては重大なことでも,自分には何の痛痒(つうよう)もなく関係のないこと」(大辞林 第三版)
ここでは、受益圏住民が、「NIMBY(Not In My Back Yard)」という、リスクを遠方や後世に まるなげして、さまざまな便益だけ享受しようという姿勢が、受苦圏のリスクの「ひとごと」視にささえられている(罪悪感の欠落・忘却)という指摘。

■「監視社会化」(pp.108-9)
↑ 前段までの議論をうけて、「不安と排外主義」に起因する個人や小集団への監視がつよまり、しかも 監視状況への感覚マヒから、監視下にあることの自覚ないまま個人情報等が収集・利用されている点を強調している。本書の該当箇所で指摘しおとしたのは、国家権力による防諜活動と並行して、国家機密を「保護」するという名目で、「特定秘密保護法」などにより政府の不祥事などが隠蔽されかねないリスクである。つまり、「監視社会化」とは、国家や企業による私人等の監視(情報収集)が進行するのと反比例するかのように、国家や企業に対する監視が困難になっていく過程でもある。

プロファイリング・ビジネス~米国「諜報産業」の最強戦略

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ポスト・プライバシー (青弓社ライブラリー)

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『社会学のまなざし』コメンタール(回路5)

受講生からでた質問への回答にかえて、各記述について、補足説明。
※ 表記などについての疑問については、「『社会学のまなざし』誤植一覧

■「超合理性と非合理性とは「せなかあわせ」」(p.109)
 ↑ 合理性追及もいきすぎれば、合理的とはいえない「負の副産物」をもたらすと。労働者のことをつかいすてにしないかぎり達成できない価格破壊。提供時間短縮を追求するあまり、油分を大量にすいこんだポテトしか商品化できないマクドナルド。不審者・犯罪者の行動を監視・抑止しようとして導入されたカメラが、一般市民の私生活に介入。利便性を追求したネット利用での、個人情報流出頻発。etc.


■「バベル化」(pp.109-114)
 ↑ 「バベルの塔」は旧約聖書の神話だが、古代にすでに意識化されていた多文化状況は、一極化/グローバル化が喧伝される21世紀においても、基本はかわっていない。億単位での話者人口を維持し、事実上の非英語圏といってよい、アラビア語圏、スペイン語圏をとりあげるだけで、それは充分立証されている。ウシを神聖視する信者が億単位でいれば、そこには牛肉パテを前提にしたハンバーガー文化は定着しえない。日本をはじめとして、キリスト教をはじめとした一神教が例外的少数の信者しか獲得できない地域は、世界中に点在しつづけるだろう。情報通信技術(ITC)の進展は、これらの多文化状況を消失させる力学にはなりえないだろう。人類が、現在のような化石燃料に依存した浪費システムにしがみつづけるかぎり、早晩、生態系が破局的な変容をきたすことになり、文明社会は崩壊するものとおもわれる(p.113)。そのころ、相互に孤立する、崩壊した各文明は、現在以上に文化の異質性がたかまるはずで、たとえば、世界中で英語だけがはなされる時代とか、世界中でアメリカンフットボールが愛好される時代などは、一度もやってこないであろう。

■「ガラパゴス化」(p.114)
 ↑ 「(ガラパゴスか、Galapagosization)とは日本で生まれたビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で「最適化」が著しく進行すると、エリア外との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、外部(外国)から適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い種(製品・技術)が導入されると最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である。ガラパゴス現象Galapagos Syndrome)とも言う。」「パーソナルコンピュータ」「携帯電話」「デジタルテレビ放送」「カーナビゲーションシステム」「非接触ICカード」「ゲームソフト」「建設業」「長距離走」(ウィキペディア「ガラパゴス化」)
北米でのSUV(Sport Utility Vehicle)人気とその崩壊ぶりを批判したイギリス経済紙の例や、やはり北米の磁気ストライプ型クレジットカードによるにもあるように、一定の市場規模(数千万人以上の成熟した消費者層など)があれば、どこでも発生しえる。

■「情報発信やヒト/モノの輸送能率の加速化がすすむほど、情報の発信速度、質/量の濃縮化がすすむほど、各「小世界」は皮肉にも分散しつづけ、たがいに孤立化をすすめていく」(p.116したから5行〜)
 ↑ pp.115-6でかいてあるとおり、情報通信技術(ICT)の進展は、情報発信・受信双方の条件や能力の格差を拡大することはあっても、ちぢまることはない。なぜなら、発信・受信双方の当事者がもちあわせる条件や能力の格差を情報通信技術(ICT)をちぢめるより、むしろひろげる宿命をかかえているからだ。