[文献]著作・編集・執筆「書目」一覧。

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2004年4月20日 『日本アナキズム運動人名事典』発行。
『日本アナキズム運動人名事典』(内容案内、項目の一部にリンク)



『日本アナキズム運動人名事典』編集・項目執筆


『中濱鉄 隠された大逆罪』共編著

金子文子 わたしはわたし自身を生きる』年譜執筆

山梨県生涯学習推進センター主催シンポジウムパネラーとしての執筆




『はなかみ通信』


『トスキナア』7号
『トスキナア』刊行に関して


『トスキナア』8号 2008年10月15日発行

1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した。

シン・チェホ
1880年12月8日<旧暦換算同年11月7日>-
1936年2月21日<旧暦換算同年1月29日>
歴史学者にして言論人。抗日革命思想家として独立運動
アナキズム運動の中心で活動。北京に帰り、抗日運動に奮闘。1921年北京大学の中国人教授、アナキストのリ・シチユン(李石曽)との交際でアナキズムへの理解を深め幸徳秋水に共鳴したという。
キ厶・ウォンボン(金元鳳)が率いていた義烈団の宣言である「朝鮮革命宣言」を
1923年に作成。(朴烈・金子文子の予審調書に資料として全文が翻訳され添付されている)。
独立運動が民衆革命によりなせると判断、
1924年北京で初めて結成された在中国朝鮮アナキズム者連盟の機関誌である『正義公報』に論説を載せアナキズム運動に傾く。1927年、南京で設立され日帝本国からも含めアジア各地域のアナキストが参加した東方無政府主義連盟に加入、
機関誌である『奪還』『東方』にも中心的に関与し文章を掲載。

『奪還』

また幸徳秋水を高く評価し『基督抹殺論』を漢訳、中国のアナキズム雑誌『晨報』に掲載。

刑期を 3年位控えて病気の悪くなったシン・チェホ は1936年 2月21日脳溢血で獄死。

朝鮮革命宣言
『朝鮮革命宣言』表紙

大審院作成日訳全文

<原史料は『朴烈・金子文子裁判記録』大審院所蔵・80年後に翻刻>関連記事「白貞基への弾圧」

「シンチェホ<左端>と同志]


朝鮮革命宣言(訳文)<1925年朴烈公判記録に添付された文献>
一、強盗日本が我国号を無くし政権を奪ひ吾等の生存的必要条件を皆剥奪したり。経済の生命たる山林、川沢、鉄道、鉱山、漁場乃至小工業原料迄悉く奪ひ、一切の生産機能を刃を以て切り、斧を以て絶ち、土地税、


家屋税、人口税、家畜税、百一税其の他各種雑税が逐月増加して血液の有る丈け悉く吸収され、若干の商業家等は日本の製造品を朝鮮人に売買する仲介人となりて漸々資本集中の原則の下に於て滅亡するのみ。大多数人民即ち一般農民は血汗を流して土地を耕作して終年所得を以て家族の口糊を凌ぐ丈けの余裕も出来得ずして、吾等を殺食し居る日本強盗に提供して彼を肥しやる永世の牛馬となるのみか、其の牛馬の生活も許さざるべく日本移民が年々高度の速率を以て増加し、下駄足に踏まれ吾民族は足踏む土地も無くして山に野に西間島に北間島に西伯利亜の荒野に駆逐せられ餓鬼となり流鬼となるのみ。
ソウルの書店の風景


強盗日本が憲兵政治、警察政治を励行して我民族の行動を寸歩も任意に為さしめず、言論、出版、結社、集会の一切の自由を失ひ、苦痛と憤恨に堪えざるも、唖者の腹痛の如く幸福と自由の世界には盲者同様子女には日語を国語とし、日文を国文とする奴隷養成所の学校に収奪し、時に朝鮮歴史を読ませるときには檀君素戔鳴尊の兄弟なりと偽り、

三韓時代漢江以南は原日本の領地なりと称する日本人の作りたる儘を読ましめ、新聞又は雑誌には強盗政治を賛美する日本化奴隷的文字のみ記載しあり、稍々気概ある子弟は環境の圧迫に依り厭世絶望の堕落者になるか又否らざれば陰謀事件の名称の下に監獄に拘留せられ周穿(両股に棒を挟み圧する拷問)、枷鎖(重き板の中央に穴を穿ち其の穴に頭部を入るるもの)及烙刑鞭撻、電気烙針刺、手足を縛して釣り下げる、鼻に注入、生殖器針刺、其の他所有悪刑即ち野蛮専制国の刑罰辞典にもなき刑を受け、僥倖にして獄門を出ずるにしても終身不具廃疾となり、然らざるものにありても発明創作の本能は生活の困難に依り断絶せられ、進取活発の気象は周囲の圧迫に依り消滅せられ、苦情も言ひ得ざる様各方面の束縛、鞭笞駆迫圧制を受け、環海三千里が一個の大監獄となりて、我が民族は全然人類の自覚を失ふのみならず自動的本能をも失ひ、奴隷又は機械となりて強盗の使用品になるのみ。強盗日本が我等の生命を草芥視し、乙巳以後十三道に義兵起るや各地方に日本軍隊の暴行は枚挙する能はず、最近三月一日独立運動以後木原宣川国内各地より北間島、西間島、露領沿海州各州に至る迄居民を屠戮し、村落を焼き払ひ財産を略奪し、
婦女を汚辱せしめ、首を切り、生きたる儘を埋め、火を以て焼殺し或は体は二つ三つに切り離し、児童に悪刑を加へ、婦女の生殖器を破り、出来得る限り惨酷なる手段を用ヰて恐怖と戦慄を以て我が民族を圧迫して人間を生きたる死骸を為さしめつつあり。以上の事実に依りて我等は日本強盗政治即ち異族統治が我朝鮮民族生存上の敵たるを宣言すると同時に、吾等は革命手段を以て敵たる強盗日本を殺伐するを以て正当の手段なるを宣言するものなり。

二、内政独立又は参政権或は自治を運動する奴等は何人なりや。汝等が東洋平和韓国独立保全等を担保する盟約が其の墨痕乾かずして三千里の境土を蚕食せられたる歴史を忘却し居るや。朝鮮人民生命財産自由保護、朝鮮人民幸福増進等が申明したる宣言を為すや、時を移さずして二千万生命の地獄に落ちたる実際の状況を見ざりしや。三月一日運動以後に強盗日本が我等の独立運動を緩和せしむる為
宋秉蔲、閔元植等一二の売国奴を操縦して如斯狂論を称しめたるものなれば、之に附和するものは盲人にあらざれば奸族なり。縦し強盗日本が果して寛大なる度量ありて慨然として是等の要求を許諾するにせよ所謂内政独立を得、各種の利権を取戻すにあらざれば朝鮮民族は一般に餓鬼になるのみならず又参政権を獲得するにせよ自国の無産階級の血液迄搾取する資本主義強盗国の殖民地人民となりて若干奴隷代議士の選出を以て餓死の禍を救ひ得るや。自治を得るにせよ如何なる種類の自治を問はず日本が其の強盗的侵略主義の標的たる帝国なる名称が存在する以上は、其の下に附属せらるる朝鮮人民が自治の虚名を以て民族的生存を維持し得るや。
例令強盗日本が突然仏様の心を以て総督府を撤廃し、各種の利権を吾等に還附し、内政外交我等の自由に任せ、日本の軍隊警察を一時に撤廃し、日本の移住民を

一時に召還して虚名の統治権のみを存在せしむるにしても、我等の過去の記憶が全然消滅するにあらざれば、日本を宗主国として奉戴することは恥辱の名詞を知る人類としては難忍難事なり。日本強盗政治の下に文化運動を称へるもの何人なりや。文化産業と文物、物の発達したる総積を指したる名詞なれば、経済剥奪の制度の下に生存権を奪はれたる民族は其の種族の保全さへ疑問なるに、況や文化発展の可能性ありと云ふべきや。衰亡したる印度族、猶太族は文化ありと雖這は金銭の力を以て其の祖先の宗教的遺業を継続し、其の土地の広大、人口の衆を以て上古の有由発達したる余沢を保守し得たる所以にして、蛇蝎犲狼の如く人血を吸収して骨髄迄も咬まるる強盗日本の口に嵌り込みたる朝鮮の如き地位に於て文化の発展又は種族保守を存し得たる例あるや。
検閲押収所有圧迫中に幾個の新聞雑誌まで文化運動の木鐸と自名し、強盗の心理に反せざる言論位を言唱して是を以て文化発展の過程と見るならば、其の文化発展が却て朝鮮の不幸なりと云ふべし。
以上の理由に依り吾等は吾等の敵たる強盗日本と妥当せんとするもの即ち内政独立自治運動、参政権論者又強盗政治の下に寄生を甘ずる主義を持つもの即ち文化運動者等は何れも我敵なるを宣言す。
三、強盗日本を駆逐すべき主張の内に尚左の如き論者あり。第一は外交論なり。李朝五百年文弱政治が外交を以て護国の長策と認め、
其の末世に最甚しく甲申年以来維新党守旧党の盛衰が殆んど外援の有無に依て決せらるる為政者の政策は、

唯甲国を引いて乙国を制するに過ぎず、其の依頼の習性が一般政治社会に伝染せられ甲午甲辰両戦役に日本が数十万の生命と数億万の財産とを犠牲にして清露両国を排斥し、朝鮮に対して強盗的侵略主義を貫徹せむとするに際し、我朝鮮の祖国を愛し民族を救ふと称する人等は一剣一弾を以て昏庸貪暴なる官吏又は国賊を討つこと能はずして照会文位烈国公使館に寄せ、長書を日本政府に寄せて国勢孤弱を哀訴して国家存亡、民族死活の大問題を外国人又は敵国人の処分のみに仰ぎたり。
而して乙巳年条約庚戌年併合即朝鮮と云ふ国号ありて以来数千年間初めて受くる恥辱に対し、朝鮮民族の憤怒的表示として僅に哈爾賓の銃、鐘峴の剣、山林儒生の義兵あるのみ。嗚呼、過十年の歴史たるや、勇者にして之を見れば唾罵すべく、仁者にして之を見れば傷心するのみ。然るに国亡以後海外に出でたる某々志士等の思想は何よりも外交を以て唯一の能事とし、国内人民の独立運動煽動方法も未来の日米戦争、日露戦争等の機会に来すべしと論ずるもの殆んど多し。最近三月運動に一般人士の平和会議国際聯盟に対する過信の宣伝が却て二千万民衆の奮闘前進の意義を打消したる媒介物たりしのみ。第二は準備論なり。乙巳条約の当時列国公使館に雨の如く降り投げたる紙片を以て例したる国権を扶持する能はず。丁未年の海牙密使も独立恢復の福音を齎すこと能はずして段々外交に対する疑問発生し戦争するに不如と判断せられたり。
然れども軍人もなし武品もなし、何を以て戦争を為すや。山林儒生等は春秋大義には成敗を計らずして義兵を募集し、大冠大衣を以て指揮の大将と為り、狩猟者の火縄銃隊を集めて朝鮮日本戦争の戦闘線に立つことになりたるも、稍新智識ありて新聞位読み

時勢を斟酌すると云ふもの等は戦闘する勇気もなく、今日では日本と戦争すると云ふ事は妄動なれば、銃器も製造し、資金も調達し、大砲も求め、将官及士卒となるべき人物を養成したる後にあらざれば日本と戦端を開く能はずと主張せり。是即ち所謂準備論者にして戦争を準備すると云ふ派に属す。外勢の侵入加はるに伴ひ吾等の不足を一層に感覚せられ、準備論の範囲が戦争以外迄拡張せられ、教育の振興及商工業の発展は勿論、其の他部分迄準備すべき論に及べり。庚戌年以後各志士等が或は西北間島森林を辿り或は西伯利亜の寒風に晒され或は南北京方面に徘徊し或は米州布哇に渡り或は京郷に出没して十余里星霜内外外地に於て喉が裂くる迄準備論を唱へたり。然れども彼等の勢力の不足にあらずして実は其の主張を誤りたるものなり。強盗日本が政治経済両方面を以て攻め来り、経済が日々困難に陥り、生産機関は全部剥奪せられ、衣食の方策を断絶せられたる場合に際し、何を以て実業を発展し教育を拡張し、就中、何所に於て幾何の軍人を養成し得るや。養成せむとするも日本戦闘力の百分の一をも比較するを得べきや。実に一場の寝言にすぎず。以上の理由に依り吾等は外交論、準備論者羅の迷夢を捨てて民衆直接革命の手段を取るべきことを宣言する所以なり。

四、朝鮮民族の生存を維持せむとするには強盗日本を駆逐すべく、強盗日本を駆逐するには革命を以てするのみなり。革命にあらざれば強盗日本を駆逐する方法なかるべし。而し我等が革命に従事せむとすれば如何なる方面より着手すべきや。旧時代の革命を以て論ずれば人民は国家の奴隷となりて、夫れ以上に人民を支配する上典即ち特殊勢力の名称変更するに過ぎず。換言すれば、乙の特殊勢力を変更するにすぎざりしものなり。夫れ故人民は革命に対して唯甲乙両勢力即新旧両上典の何れが仁にして何れが暴なりや、又何れが善にして何れが悪なりやを見て其の向背を定めるのみにして直接の関係は殆んど無かりし。
故に其の君主を誅して其の人民を愛撫するを以て唯一革命の宗旨とし、箪食壷漿を以て王師を迎へるが民衆革命の唯一の美談となりしも、今日の革命を以て論ずれば、民衆が民衆自己の為になす革命なるを以て民衆革命又は直接革命なりと称す。民衆直接の革命なるが故に其の沸騰膨張の熱度が数字上の強弱を比較する観念を打破し、尚其の結果の勝敗が常に戦争学上の定軌を逸出して無銭無兵の民衆を以て百万の軍隊、億万の富力を有する帝王も打斃し、外寇を駆逐す。依て吾等の革命の第一歩は民衆覚悟の要求なり。然らば民衆が如何にして覚悟をすべきや。民衆は神人聖人又は英雄豪傑が出て民衆を覚悟せしむべき指導に依て覚悟するものにあらず。民衆よ覚悟せよと熱叫する声に依りて覚悟するにあらず。

唯民衆が民衆の為に一切の不平、不自然、不合理なる民衆向上の障碍を打破するを以て民衆を覚悟せしむる唯一の方法とす。換言すれば、即ち先覚の民衆が民衆全体の為に革命的先駆者たるを民衆覚悟の第一路とす。一般民衆が饑寒困苦に迫まり、納税の督促、私債の催促、行動の不自由と所有圧迫に依り生きむとしても生き得ず、死むとしても死する能はざる境遇に於て、其の圧迫の主因たる強盗政治の施設者を打倒し、強盗一切の施設を破壊して福音が四海に伝はり、万衆同情の涙を振つて人々が其の餓死以外に革命と云ふ一路が開かれたるを覚り、勇者は其の義憤に堪えず、弱者は其の苦痛に堪えずして皆此の道に集注して継続的に進行し、普遍的に宣伝して挙国一致の大革命となれば、奸猾残暴なる強盗日本が畢竟駆逐さるべし。 
夫れ故吾等の民衆を喚醒して強盗の統治を打倒し、吾が民族の新生命を開始せむとするには十万の兵を養成するより一擲の爆弾を要し、億千枚の新聞雑誌が一回の暴動に不如。民衆の暴力的革命が発生せざれば兎も角一旦発生したる以上は恰も懸崖より転下する岩石の如く目的地に到達せざれば停止することなし。
吾等己往の経過を以て見れば甲申政変は特殊勢力が他の特殊勢力と衝突する宮中一時の活劇にして、庚戌前後の義兵等は忠君愛国の大義の下に激起したる読書階級の思想なり。安重根、李在明等烈士の暴力的行動は熱烈なれども、後面に民衆的暴力の基礎力なく三月一日運動の万才の声に民衆的一致の意義が瞥現せられたるも是又暴力的中心を有せざりしものなり。民衆的暴力両者の中、其の一を欠けば如何なる轟然壮快の挙動なりと雖、雷電の如く終息さるるを免れず、朝鮮内に強盗日本の製造したる革命原因が山の如く積もれり。何時にても民衆の暴力的革命が開始せられ、独立せざれば生存せず、日本を駆逐するにあらざれば退かずとの口号を以て

継続前進しなば目的を貫徹すべし。是は警察の剣、軍隊の銃又は奸猾なる政治家の手段を以て防止し得べきものにあらず、革命の記録は必ず惨絶壮絶なる記録となるべし。然れども退かば後面は暗黒の陥穽にして、進めば前面には光明の活路あり。我が朝鮮民族は其の惨絶荘絶なる記録を以て前進すべし。茲に於て暴力、暗殺、破壊、暴動の目的を大略挙ぐれば、
一、朝鮮総督及各官公吏
 二、日本天皇及各官公吏
 三、探偵奴、売国
 四、敵の一切施設物
此の外地方の紳士又は富豪にして特に革命運動を妨害したる罪跡なきも、若言動を以て我等の運動を緩和し或は中傷するものは吾等の暴力を以て衝るべし。日本人移住民は日本強盗政治の機械として朝鮮民族の生存を威脅する先鋒たるを以て是又吾等の暴力を以て駆逐すべし。

五、革命の道は破壊より開拓すべし。然れども破壊の為に破壊するに非ず、建設するが為破壊するものなり。若建設を知らざれば破壊する道も知らず、破壊するを知らざれば建設する道も知る理なし。 建設と破壊と形式上に於て区別あるのみにして、精神上に於ては破壊即建設なり。之を論ずれば吾等日本勢力を破壊せむとする目的は 第一異民族統治を破壊するなり。如何となれば、朝鮮と云ふ上に 日本と云ふ異民族其のものが専政を行ひ、異民族専政の下に居る朝鮮は固有的朝鮮にあらざるを以て固有的朝鮮を発見する為異民族統治を破壊するものなり。
第二は特権階級を破壊するにあり。何となれば、朝鮮民衆の上に総督だの何だと云ふ強盗団の特権階級が圧迫し居れり。特権階級の圧迫の下に居る朝鮮民衆は自由的朝鮮民衆にあらざるを以て自由的朝鮮民衆を発見する為特権階級を打破すものなり。
第三は経済掠奪制度を破壊するにあり。何となれば、掠奪制度の下にある経済は民衆自己の 生活の為に組織したる経済にあらずして、民衆を殺食する強盗を肥やす為組織したる経済なれば、民衆生活を発展せしむる為経済掠奪制度を破壊する所以なり。
第四、社会的不平均を破壊するにあり。何となれば、弱者の上に強者あり、賎者の上に貴者あつて所有不平を抱いて居る社会は互いに掠奪、互いに剥削、互いに嫉妬仇視する社会となりて初めには少数の幸福を計る為多数の民衆を惨害したる結果、畢竟、少数の間にも惨害し、民衆全体の幸福が数字上零となるべし。故に民衆全体の幸福を増進せしむる為社会的不均等を破壊するものなり。
第五は奴隷的文化思想を破壊するにあり。何となれば、遺来の文化思想中宗教、倫理、文学、美術、風俗、習慣何れが強者の製造にして強者を擁護するものにあらざるや。

一般民衆を奴隷化せしむる麻酔剤にあらざるや。少数の階級は強者と為り、多数の民衆は却て弱者と為りて不義の圧制に反抗し得ざれば、専ら奴隷的文化思想の束縛を受けたる所以なり。
若民衆的文化を提唱して其の束縛の鉄鎖を解くにあらざれば一般民衆の権理思想の薄弱となり、自由向上の興味が欠乏して奴隷の運命中に輪廻するのみ。故に民衆文化を提唱する為奴隷的文化思想を破壊する所以なり。換言すれば、固有的朝鮮を建設する為異族統治の略奪制度の社会的不平均の奴隷的文化思想の現象を打破するものなり。然らば破壊的の精神が即建設的主張なり、進めば破壊の剣となり、入れば建設の畑と為る。破壊する気魄なく建設する妄想のみあれば五百年を経過しても革命の夢も結ぶ能はず。茲に破壊と建設とが一にして一にあらざるを知るに於ては民衆的破壊の前には必ず民衆的建設あるを知るべし。現在朝鮮民衆は民衆的暴力のみを以て新朝鮮建設の障碍なる強盗日本勢力を破壊せざるべからざるを知り、朝鮮民衆が一団と為り、日本強盗が一団となりて彼が亡ぶにあらざれば我亡ぶべき一本橋上に行き会ひたるを知るならば、我二千万民衆は一致して暴力破壊の道に猛進すべし。
宣言の要旨は吾革命の大本営なり。暴力は我が革命唯一の武器なり。吾民衆の中に於て民衆と携手して不絶暴力暗殺、破壊暴力を以て強盗日本の統治を打倒し、吾生活に不合理なる一切の制度を改造して人類を圧迫すべからず。社会を以て社会を剥削すべからざる理想的朝鮮を建設するに在り。
四千二百五十六年一月 日
               義烈団



朝鮮総督府所属官公吏に
朝鮮総督府所属官公吏諸君、強盗日本の総督政治下に寄生する所の官公吏諸君、諸君は諸君の祖先より子孫に至る迄動かすべからざる朝鮮民族の一分子にあらざるか。若朝鮮民族の一分子なりとせば、仮令口腹と妻子との為強盗日本に奴隷的官公吏生涯の為すと雖、強盗日本の総督政治が我が民族の仇敵なるを知るべく、従て吾等の革命運動は即強盗日本の総督政治を破壊し朝鮮民族を救済せむとする運動なるを知るべし。之を知つたならば吾々の革命運動を妨害せざるべきをも信ず。然も尚之に妨害するものありとせば我々は斯る徒輩の生命を容赦せざるべし。
    四千二百五十六年一月 日
               義烈団

韓国映画アナキストたち」
二〇〇〇年五月はじめ、ソウルの中心街の映画館で韓国の若いアナキストたちと共にみた。

封切りは四月二九日。韓国語はわからないままアクション映画としての側面を楽しんだ。

映画館は満員。日帝の軍人が攻撃されるたびに観客席はどよめいた。

その数日前、一九二〇年代の著名なアナキスト友堂(イ・フェヨン)記念館にある国民文化研究所を訪ねたおり、この映画「アナキストたち」が話題となった。

新聞でも大きく話題になり、国民文化研究所のイ・ムンチャンさんたちも監修を頼まれたということであった。

しかし義烈団をそのままアナキストたちと重ねたタイトルには批判的であった。

七〇代、四〇代、一〇代のソウルのアナキストたち皆同意見であった。

二〇〇二年二月、韓国語版のビデオを送ってもらい再び見た。

二〇〇五年春、渋谷を皮切りとした韓流映画祭での限定的な劇場公開を契機としてDVDが発売された。

日本公開でのタイトルは「アナーキスト」。

(原題ハングルは複数形とのこと、また英文でも「ANARCHISTS」と複数形でハングルタイトルの下に付されている)。

監督はユ・ヨンシク、脚本はパク・チャヌク、「JSA」「オールドボーイ」も手がける。

真っ先に注文、日本語字幕、あるいは吹替えでようやく見ることができるようになった。五年越しで史実に基づいた部分も把握できた。

物語はキム・ウォンボンが一九一九年、当時の「満州」で組織した抗日武装組織「義烈団」の活動を描く。しかし娯楽アクション映画でもあり、主人公たちの恋愛も描かれ、巨額の活動資金の行方やアヘン吸引という波乱要素が組み込まれる。

映画で活躍するのはモスクワ大留学経験の虚無主義者セルゲイ(チャン・ドンゴン)、

朝鮮王家の末裔、ロマンチックなヒューマニスト

詩人でトルストイを崇拝するイ・グン(チョン・ジュンホ)、

マルクスレーニンから理念の洗礼を受けた冷静な革命家ハン・ミョンゴン(キム・サンジュン)、

小作人出身の過激な行動主義者トルソク(イ・ボムス)、

少年、サング(キム・イングォン)。

いずれも実在はしないキャラクター設定である。

セルゲイの恋人、カネ子(イェ・ジウォン)は母親が朝鮮人という設定で義烈団へ同情し、アナキズムの本も読む。

しかし時代背景はリアルに描かれ、実在した人物たち、独立運動の著名人、イ・ドンヒ(李東輝)、シン・チェホ、キム・ウォンボン(金元鳳)、キム・グ(金九)の名が出される。 

初の韓中合弁で作られ、六〇万坪の敷地に建設された上海スタジオと近隣都市でのロケが生かされ、一九二〇年代の上海を再現したという。中国人エキストラも動員、三ヶ月の製作期間。

映像は一九四八年、冒頭、ラジオ放送「政府樹立一周年の今日イ・スンマン大統領閣下は……」

「金九まで暗殺して政府を名乗るとは」……「私は死ぬべき時に死ぬことができず……」とサングの回想。

セピア色の二〇年代上海から人々が動き出す。一九二四年の上海。旭日旗と絞首ロープが象徴的にアップされる。両親を日帝に殺されたサングは日本人住区に放火するという復讐行為により逮捕、公開処刑されようとしていた。

日帝軍人のカトウ「我等大日本帝国に抵抗することがどれほど無意味か理解し…」。

街の中、処刑台の周辺に爆弾が投げられ日帝の官憲が撃たれる。

サングは義烈団のメンバーとなる。

「義烈団はなぜ黒を着るのか?」

社会主義(共産主義という表現を避けているのか)の色が赤ならアナキズムは黒」

「白衣の民族朝鮮の没落を反省するため」というアナキストが黒というイメージを語らせる。

セルゲイも「俺は黒が好きだから」と発言。皆は記念写真を撮りに行く。

サングは写真館の少女リンリンに惹かれる。

サングはトルソクから「義烈団の革命宣言を言ってみろ」と問われる。

上海の街を揃って歩くシーンにかぶらせて革命宣言が激しい口調で発せられる。

「民衆は革命の大本営」「暴力は革命の唯一の武器だ」

「我々は民衆に分け入り絶えざる暴力暗殺で強盗日本の統治を打倒せん」

「我等は不合理な一切の制度を改造し人類が人類を圧迫するを為し得ず社会が社会を収奪するを為し得ない理想の朝鮮を建設する」 

朴烈の大審院公判調書に添付されている翻訳された「宣言」と比較する。訳文の差があるだけで内容は同一である。

「朝鮮革命宣言」はシン・チェホの起草した文である。

「宣言の要旨は吾革命の大本営なり。暴力は我革命唯一の武器なり。吾等は民衆の中に於て民衆と携手して不絶暴力暗殺、破壊暴力を以て強盗日本の統治を打倒し、吾等生活に不合理なる一切の制度を剥削すべからざる理想的朝鮮を建設するに在り。」

映画では引用されない他の部分を紹介する。民衆の自立した意識による革命をめざすということである。

「今日の革命を以つて論ずれば、民衆が民衆自己の為に為す革命なるを以つて民衆革命又は直接革命なりと称す。」

「……吾等の革命の第一歩は民衆覚悟の要求なり。然らば民衆が如何にして覚悟をすべきや。民衆は神人聖人又は英雄豪傑が出て民衆を覚悟せしむべき指導に依て覚悟するものにあらず。唯民衆が民衆の為に一切の不平、不自然、不合理なる民衆向上の障碍を打破するを以て民衆を覚悟せしむる唯一の方法とす。」

「換言すれば、即ち先覚の民衆が民衆全体の為に革命的先駆者たるを民衆覚悟の第一路とす。」

「……暴力、暗殺、破壊、暴動の目的物を大略挙ぐれば、一、朝鮮総督及各官公吏 二、日本天皇及各官公吏 三、探偵奴、売国賊 四、敵の一切の施設物」

セルゲイは不明な死を遂げる。葬儀の場面。「日本人は関東大震災で六千人を超す同胞を無残に殺しました」と語られる。

アジトでは方針をめぐって論議が起きる。トルソクが「俺に朝鮮総督天皇をやらせてください 俺が息の根を止めてやる」と幹部に迫る。トルソクは「革命宣言」を履行しようとの発言であった。

港のシーン。幹部は「義烈団は左翼の拠点である広州に活動を移す」

「我々は今後組織化された大規模な蜂起を目標にする」

「諸君も社会主義(共産主義と読み替えるべき)革命家として生まれ変わってほしい」。

それに対して「我々はアナキストです社会主義(共産主義)は独裁だ」

「無政府共産の理想社会実現」。

幹部は「しかし個人テロにはもう望みがないことを知るべきだ」

「例え天皇を殺しても息子に代わる」。

幹部は(君等は)「自由の身だ」(しかし)

「義烈団を名乗ることは許さん」と発言。

黄昏時、イ・グンが上海港の沖合いを見つめながらサングに語る。

アナーキーの語源を知っているか」

ギリシャ語でアナルキアあるいはアナルコス」

「船長をなくした船乗りたち」。 

日本の軍人、高級官僚が乗船する船を攻撃する計画がたてられる。船内では日の丸を背景に日帝軍人が撃たれる。しかし反撃され、ハン・ミョンゴン、イ・グン二人の義烈団員は殺される。 

再びサングの回想。出獄してくると祖国は解放されていた。

「キム団長は共産主義者として拷問される。」

「今日、私はイ・スンマンと共に同志たちと再会する」。エンディング。

現実の「義烈団」はどうであったか。

希少な文献の翻訳、『金若山と義烈団』(朴泰遠著、四七年ソウル刊、金容権訳、皓星社、八〇年八月)により上海での活動、一九二四年の動きを探ってみる。

一九一九年にキム・ウォンボンが二一歳で義烈団を創設したとき同志は総勢一三名。

二五年まで数百の事件、数千人が関わっていたという。

爆弾製造の熟練者ハンガリー人マザールの存在も記述されているが、映画でも冒頭、アジトで紹介されている。「彼はマジャール。武器を調達してくれる」。

同書で上海の活動が記されているのは上海黄浦灘事件、一九二二年三月の陸軍大将田中義一暗殺未遂事件だけである。

(梶村は『義烈団と金元鳳』一九八〇年、著作集収載、において二三年九月の「上海爆弾押収事件・五〇個」を記している)。

田中が上海に立寄るのを知ったキム・ウォンボンは上海に滞留しているすべての同志を一堂に集めた。そして三名を選び、拳銃と爆弾を用意する。

船から降りた直後に狙撃するが失敗してしまう。

二四年の大きな行動は一月五日の東京における二重橋爆弾事件、金祉變が二重橋まで至り爆弾三発を投げるも二発は不発、一発は爆発するが威力は小さかった。

無期懲役の判決を受けるが二八年二月、獄中で突然死。

刑務所は脳溢血と発表、四四歳であった。朝鮮総督府の丸山警務局長によると義烈団の中核団員は二、三〇名。(梶村は官憲資料から二四年当時は七〇名程度と記述)。

しかし団員がそれぞれ別の名の団体を組織し二、三百名が活動していたという。スバイ対策もあり幹部団員以外は自分が義烈団員であるかないかもわからないという仕組みになっていた。

二三年三月、二四年一月と多くの同志が検挙、二五年三月には団内のスパイを処刑と記述。

そして二五年、一部の同志の反対はあったがキム・ウォンボンは従来の少人数単位の武装闘争路線を放棄し、組織的な軍事を学ぶことを提起する。本人自ら偽名で黄浦軍官学校に入学、軍隊組織を学ぶ。

その後の義烈団は梶村の論文によると「二八年一一月、朝鮮義烈団中央執行委員会の名で協同戦線論をふまえ『創立九周年を記念しながら』を発表、共産主義者の指導組織との連携を強調し、ボルシェビズムの側により接近」「二九年か三〇年にキム・ウォンボンは朝鮮共産党を除名になった安光泉と朝鮮共産党再建同盟をつくる」としている。

キム・ウォンボンは抗日闘争を貫いた後、引き続き共産主義に同調、朝鮮民主主義共和国建国過程に参与、五七年最高人民会議常任委員会副委員長に選任、五八年引退以降の消息は不明。

路線変更に反対した一人、アナキストの柳子明は二一年に義烈団に加わり、文案の起草や整理にも関与したという。(『人名事典』では立項されているが二一年加盟や路線反対には触れていない)。

韓国内での公開当時の評価を紹介する。

アナキストとは? 船長のいない船のクルーの群れ、という語源のギリシャ語アナキアから出たアナキスト無政府主義者を意味する。彼らの思想の『アナキズム』は民族主義でも共産主義でもない第三の思想であり、権力のない支配されない社会建設を主唱し、テロ活動に力を注いだのが最も大きな特徴だ。」

この認識は義烈団とアナキストたちを同一視している。

アナキスト(無政府主義者)は現実感のない耳慣れない単語中のひとつだ。半世紀を越す冷戦体制が支配している分断国家で、彼らが足を付けられる土地は事実上なかった。」

「新鋭ユ・ヨンシク監督がメガホンを持った映画『アナキスト』は植民地からの解放以後、韓国・北朝鮮の理念対立の構図の中で忘れられつつある一九二〇年代のアナキストの生を扱った点から『歴史の復元』という、意味ある作業をなし遂げた。」

「上海、黒いコートを着て中折帽を押さえて青年らが歩んでくる。顔には虚無と憂いが現れている。眼差しは鋭い、彼らを覆った空気は尋常でない。死を覚悟したように悲壮だ。」「映画 『アナキスト』はアナキストのキャラクターをこのように浪漫的に描いた。革命のためにならば愛も命も捨てるテロリスト。アナキズムの専門家である東国大の教授(哲学)は映画『アナキスト』に対して『アナキストのキャラクターを歪曲しているにもかかわらずアナキズムを下位文化・抵抗文化・反文化の表象に浮上させるのに一助となった』と話す」と続けてエマ・ゴールドマンの本も紹介される。「アナキズムは保守陣営からはもちろん進歩陣営にも疎外されてきた」「『Anarchism and Other Essays』が原題であるこの本が韓国語訳で 『呪われたアナキズム』と題されて刊行。著者であるエマ・ゴールドマン(一八六九〜一九四〇)は二〇世紀の代表的アナキスト。ロシア出生で米国に移住した後、アナキズム運動を展開する。投獄され市民権まで剥奪された女性だ。一九一〇年に刊行したこの本は難解なアナキズムの概念を比較的明瞭に叙述したアナキズム入門書だ。」

「民族陣営と共産主義者、そしてアナキストが共存した。この内のアナキストらは、暴力とテロを通じて日本帝国に真正面から対抗した歴史の中に実存した。彼らは日帝の力がおよばなかった中国の上海のフランス租界を根拠地にして一九二〇年代初めに 三〇〇余件のテロを敢行した。」「映画『アナキスト』はニム・ウェイルズの『アリラン』などを土台に、五名のアナキストを架空に作り出した。」

抗日武装闘争は「テロ」なのであろうか? さらにアナキズムと「テロ」を短絡的に結びつけられてしまう。後に明確なアナキズムの立場にたつシン・チェホが義烈団の綱領といえる「朝鮮革命宣言」を起草したこと、柳子明という優れたアナキストが主要団員として存在していた事実はあるが、義烈団をアナキストアナキズム二重写しにするのは無理がある。キム・ウォンボンは創設者であり象徴として義烈団を統括していた。そのキム・ウォンボンは強固な民族主義から共産主義に同調していった。

当初は、梶村が次に分析しているような組織性であったのだろう。「…アナキズム・ボルシェビズムと接する機会はしばしばあったはずだが、そのいずれかに分化しきってしまうことを敢えて避ける姿勢をとっていたといえよう。…また、よくまちがえられているが、アナキズムとの関係も同様であった。…自覚的なアナキスト団体とは別個であり、義烈団がこれと合体したような形跡はない。」著名なアナキストの参加は他にない。

映画は「義烈団」全体の活動を描いていない。二四年の上海に焦点をあてた。義烈団の動向をこう理解しよう。朝鮮本国での前年までの活動がキム・ウォンボンの義烈団としてはピークであった。失敗と弾圧による主要活動家の逮捕、スパイの存在、義烈団の存続が問われていた。関東大震災における六千人以上の朝鮮人の虐殺に対する天皇日帝への報復行動、二四年一月の金祉變の闘争も実質は失敗であった。二四年の義烈団、キム・ウォンボンは苦悩していた。

映画は「義烈団」の中の一グループを描き、構成する団員の思想を図式的に分けている。

虚無主義者セルゲイ、トルストイを崇拝するイ・グン、共産主義の影響を受けたハン・ミョンゴン、過激な行動主義者トルソク、最年少で思想的には白紙で未来があるサング。

前述した「我々はアナキストです。社会主義(共産主義)は独裁だ」「無政府共産の理想社会を実現させたいのです」をイ・グンに語らせている。

またイ・グンがサングにアナキズムの語源を説明するシーンがある。

これはイ・グンにアナキストを象徴させ、なおかつサングに伝えるという表現であろう。

義烈団内の個々のグループは解散をするがハン・ミョンゴンをリーダー格としたこの一グループは皆最後まで行動を共にしようとする。

ハン・ミョンゴンは本来、キム・ウォンボンの「組織的な蜂起」路線に同調したかったが、自身の病(肺結核か?)で先がないことを自覚し最後の闘いに赴く。

虚無主義者セルゲイは早い段階で死を迎えている。

行動主義者トルソクは乗船する前に警備の官憲をひきつけ銃撃で死す。

イ・グンは「無政府共産の理想社会を実現させたい」と信念を持ち、その目的遂行のため武装行動に起つ。イ・グンとハン・ミョンゴンは日帝の軍人に銃撃され倒される。そして手を伸ばし、つながり死ぬ。

ラストシーンもサングの回想であり、「今日、私はイ・スンマンと共に同志たちと再会する」という「語り」でとじられる。

これはイ・スンマンの暗殺に向かうという暗示である。

現実にはイ・スンマンは四八年以降も生き続けるわけであるから、サングの行為は未遂か失敗に終わるということは見る方は認識してしまう。

解放後も生き残ったサングが選ぶべき思想は「義烈団」綱領ではなくイ・グンの「理想」とするアナキズムなのではないか。

再びの暗殺行動を示唆するまま終わっては、上海港においてイ・グンがサングに「アナキズム」の語源を伝えたシーンは無になってしまう。

梶村秀樹がシン・チェホ(申采浩)に触れた論文を遺している。 
「かれの写真を眺めていると、ふと中国の魯迅と日本の夏目漱石と朝鮮の申采浩という連想が浮んだ。……三人とも、ほぼ同じ世代の、状況と自己から目を離さなかった、ほんものの知識人である。

小さい画像が夏目漱石
……人間的・思想的対比としてそれほど突飛でないような気がしている。いずれにしても、ほかの二人とくらべて、あまりにも不釣合いに、申采浩は日本では読まれていないというべきではないだろうか?」

『申采浩の啓蒙思想』≪季刊三千里≫第九号掲載1977年春
(アップ時の訂正×『近代朝鮮史学史論ノート』2008年4月10日)

 また他の論文でも
「近代朝鮮史学史の系譜のなかで、最も重要な位置を占める歴史家であるといえる。日帝時代に生きた朝鮮人のなかで、今日、南朝鮮でも北朝鮮でもともに肯定的に評価されている人物は、当然のことながら非常に少ないが、申采浩がその数少ないうちの一人であることも偶然ではないだろう」と評価されていることに言及している。『申采浩の歴史学』≪思想≫誌掲載1969年 
 シン・チェホの著作は歴史書一冊と短編小説、いくつかの詩の日本語への翻訳はあるが梶村の40年近く前の指摘、「ほかの二人とくらべて、あまりにも不釣合いに、申采浩は日本では読まれていない」という状況は今も変わっていない。
和訳は『朝鮮上古史』『竜と竜の大激戦』。
シン・チェホを論じた文献「申采浩の啓蒙思想梶村秀樹、「恨と抵抗に生きる、申采浩の思想」「申采浩と民衆文学」金学鉉、「朝鮮革命宣言と申采浩」高峻石

 一方、韓国では1970年代に著作が『丹斎申采浩全集』としてまとめられ改定を重ね
三巻にまとめられている。近年は朝鮮史に関する論文だけがクローズアップされナショナリズムを語る文脈の中でたびたび引用をされる。
またキム・ウォンボン(金元鳳)が率いていた義烈団の宣言である「朝鮮革命宣言」を
依頼され1923年に作成している。翻訳が複数ある。
日帝に対する非妥協的な闘争の意思が強かったシン・チェホは義烈団キム・ウォンボンの要請に答え「宣言」を起草した。臨時政府イ・スンマンの腐敗への批判は強かった。  



参考<サイバー・シンチェホ>http://www.danjae.or.kr/

1911年1月24日、東京監獄にて11名絞首、幸徳秋水 午前8時6分 新美卯一郎 午前8時55分 奥宮健之 午前9時42分 成石平四郎午前10時34分 内山愚童 午前11時23分 宮下太吉 12時16分 森近運平午後1時45分 大石誠之助 午後2時23分 新村忠雄 午後2時50分 松尾卯一太 午後3時28分 古河力作 午後3時58分 処刑  宮下太吉、執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。管野須賀子は翌25日に処刑。

[アナキズム運動史]1925年1月20日 後藤謙太郎の死

1「一月二十二日の日も暮れたときである。私が運動社の近くの露地まで帰ると、医師奥山伸先生の懐中電灯の案内で、村木が担架で社へ運びこまれるところであった。 …病床には、

延島英一君母子、岡本文弥、村木が横浜で牛乳配達のころから世話になり懇意にしていた土屋家の人たち、江口渙氏などが付き添ってくれていたが、翌々日午後意識が回復しない

ままに死んだ。一月二十四日で、幸徳たち大逆事件の記念日だったのである。村木がたったいま息をひきとったばかりの、ちょうどそのとき、労働運動社へ年配の一婦人の訪問客があ

った。

玄関へ座るなり、<うちの謙太郎はどこにいるでしょう?> ……

軍隊宣伝事件で巣鴨刑務所へ入獄中の後藤謙太郎君のお母さんで、刑務所からの謙太郎死去の電報によって、九州熊本からはるばる上京、 ……

私たちは後藤君の死をはじめて知ったのであったが、 ……  

村木の方には私たちがあたり、後藤君の方のいっさいは江口渙たちにしてもらった。後藤君は前いったように軍隊への宣伝事件で捕えられて懲役一年に処せられ、その年

の七月に出獄する筈であったが、それを待たず監房で縊死したのであった。」 近藤憲二。(『私の見た日本アナキズム運動史』1969年6月刊、平凡社)

2 後籐謙太郎の解剖は実際にあったのか 後籐謙太郎の死因を追及するため、解剖があったという経過は直後の機関誌紙にはまったく書かれていなかった。しかし、3年後に出版され

た『反逆者の牢獄手記』に記述があった。

<後藤謙太郎> 

詩 『反逆者の牢獄手記』 1928年6月発行、行動者出版部

「熊本の人、酒を好み、愛犬を友に、全国を宣伝行脚した人、放浪詩人とも云われ、多くの詩を作った。大正 11年の軍隊宣伝で下獄、大正14年1月20日巣鴨服役中自殺した。在京の同

志に知らせられず、獄吏の手で共同墓地に埋められた事を不審とし、掘り起こして慶應病院で解剖して見たが、やはり自殺であった。大阪では同君の『労働、監獄、放浪の歌』が出版

されている。」

3  後藤の遺書 『労働運動』紙8号(1925年2月刊)、

<労運社から>に近藤憲二が後藤の遺書を掲載している。江口が「彼と彼の内臓」で記述している後藤の遺書も、初出誌『改造』ではそのまま引用され、伏字[ ×の記号化]の部分も

ほぼ踏襲されていることが確認できた。

しかし「無政府主義者としての死に方」が「社会革命家としての死に方」と、「伏字」部が「自選作品集」では恣意的に復元されてしまっていた。

「 ■…後藤君の遺書だけを発表して置く。

■『……は戦って来たが、如何せん持って生まれた病気には何うしても打ち克ち難い。一昨年の怖ろしい発作を思うにつけて、今また再発せんとする兆候を正視するに僕は堪えないの

だ。無政府主義者としての死に方が決して斯ういうものでないこと丈は僕も充分に知っている。だが、やがては理性も失われなければならぬ病気のことを思えば、僕は遂に自決の道を

撰ぶよりほかに致し方がなかったのだ。諸君よ、兎も角も僕は逝く』

■之は遺書の全部ではない。この前文が数十行あつたのだが、獄吏のために奪われて永久に葬り去られた。

■両君の死に際していろいろ、お骨折下さった諸君、殊に布施・山崎両弁護士、奥山・馬島両医師、及び両君のために態々弔意を表された多くの同志諸君に対し、僕達は茲に心から

の感謝を捧げるものである。 [憲]」

<彼と彼の内蔵> 初出誌『改造』 1927年5月号

「 …………ヽヽヽヽ来たが、如何せん持って生まれて来た病気には何しても打ち克ち難い。一昨年の怖ろしい発作を思うにつけて、今また再発せんとする兆候を正視するに僕は堪えな

いのだ。 ×××××ヽヽヽヽヽヽヽヽ決して斯ういうものでないこと丈は僕も充分に知っている。だが、やがては理性も失わなければならぬ病気の事を思えば、僕は遂に自決の道を選ぶ

よりほかに致し方がなかったのだ。諸君よ。兎も角も僕は逝く」

<彼と彼の内臓>『江口渙自選作品集』

「 ……僕は戦って来たが、いかんせん持って生まれてきた病気にはどうしても打ち克ち難い。一昨年の怖ろしい発作を思うにつけて、今また再発せんとする兆候を正視するに僕はたえ

ないのだ。社会革命家としての死に方が、決してこういうものでないことだけは僕も充分に知っている。だが、やがては理性も失わなければならぬ病気の事を思えば、僕はついに自決

の道を選ぶよりほかに致し方がなかったのだ。諸君よ。兎も角も僕はゆく。 …」


4 金子文子も後藤と村木の死を語っていた。  

金子の獄中からの手紙が『婦人サロン』 1931年4月号に掲載されている。

「女死刑囚の手紙 金子文氏より某氏への獄中通信」。おそらく栗原一男宛の手紙であろう。栗原は、真友聯盟デッチ上げ治安維持法弾圧で実刑判決であった。朝鮮での 3年の監獄

生活から解放され東京に戻ってから自身宛の手紙を公開したのではないか。雑誌 14頁にわたるテキスト量である。

<四月の或る日に>金子文子

「<達者でいてくれ、同志はみんな達者だ !>とばかり云わないで、凶いこともたまには知らしておくれ!差し入れまでしてくれた、そして堅実な有望な同志、生粋な妾達の仲間が、二人

まで獄死しているじゃないの ?……  生前に会った同志G兄のガツチリした態度や、顔立ちや、××××に載っていた詩などを思い合わせては、何とも言われぬ悲痛な気がする。惜し

かった、本当に惜しかった、その辺の所謂気取り屋さんとは違って、あの人は不穏ビラくらいで、命を落とす人でなかった。 ……」 金子自身、1926年7月に獄死するが、関東大震災直後

から「保護検束」「治警法」「爆取」「大逆罪」と予審、大審院での裁判時も含めて、 3年近くの獄中生活であった。その間獄死しているのは、村木源次郎と後藤謙太郎だけである。Gとい

うイニシャル、詩、不穏ビラ、と後藤を暗示させる鍵言葉が並んでいる。中浜哲は朴烈を知っていた。中浜は後藤も自分のグループに誘っていたので中浜を通じて朴、金子も出会ってい

ておかしくはないのである。

5 上野克己も後藤に触れている。  

<社会運動雑話「あの時分を」批判的に語る>

…後藤謙太郎は余りにも激情家で、その言動は時に狂的であり、ある時など尾行刑事を刺し精神病院に収容された事もあった様だ。後に軍隊宣伝事件で巣鴨刑務所に服役中、獄窓

で縊れ死んだ。「彼と二つの心臓」とか題で江口渙が「改造」か「中央公論」に物した創作は後藤と村木源次郎の死をモデルにしたものだったが、それ等は後の話。古田や中浜が謀議

の後暫くして後藤は病床に臥す身となり、後年のギロチン社一味との関係は断たれた。

…『民衆の解放』1933年12月28日

6 <番外>後藤の二冊目の著作は刊行されたのか?

『祖国と自由』 3巻1号<文明批評社1927年9月刊>の広告欄に掲載されている。 「改訂増補 労働・放浪・監獄より 故後藤謙太郎 最近刊 一冊五十銭 総クロース二百頁 発行所

 東京市外上目黒駒場七八三 解放新聞社」

これが全てである。編集記には『労働・放浪・監獄より』が発禁になり在庫もない、また載せられなかつた作品もあるので解放新聞社より刊行、当社でも扱う、と記されている。 最近刊

が実際に刊行されていたとすれば、増補といえども二冊めの著作となる。

実際に後藤の『労働・放浪・監獄より』文明批評社刊には未収録の作品は多くある。

[アナキズム運動史]1911年1月18日

幸徳秋水ら 24名に死刑判決
大審院、24名に有罪判決、新村善兵衛、新田は爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた。大審院の審理は形式的で、政府の意を受け刑法73条適用、取調、予審訊問をコントロールした検事総長の「有罪意見書」「論告」を追認するだけであった。


 唯一の独自判断は2名を「大逆罪」から外し爆発物取締罰則違反のみで認定しただけである。しかし、そうであるならば管轄違いであったということで差し戻し審に回すのが当時の法体系に沿うものである。

大審院が有罪理由とした24名を組み込んだ全体のストーリーはフレームアップされたものであり、その計画「赤旗事件への報復、暴力による反抗、赤旗事件の連累者の出獄を待ち東京の中心で暴動<富豪の財を奪い官庁を焼き払い殺し>を起こし宮城に逼る、あるいは決死の士50名により暴力革命を起こし皇太子を殺す」、は当事の状況下では全く不可能で現実化しようが無い。

幸徳事件大審院判決  抄

全文ではない。幸徳秋水に関わる「理由」を中心。いずれ全文をアップ。 2004年9月

理由

1904年 幸徳は夙に社会主義を研究して北米合衆国に遊び、深く其他の同主義者と交り、遂に無政府共産主義を奉ずるに至る。その帰朝するや専ら力を同主義の伝播に致し、頗る同主義者の間に重ぜられて隠然その首領たる観あり。

管野スガは数年前より社会主義を奉じ、一転して無政府共産主義に帰するや漸く革命思想を懐き1908年世に所謂錦輝館赤旗事件に坐して入獄し、無罪の判決を受けたりと雖も、忿伊恚の情禁じ難く心ひそかに報復を期し、一夜その心事を幸徳に告げ、幸徳は協力事を挙げんことを約し、且つ夫妻の契りを結ぶに至る。その他の被告人もまた概ね無政府共産主義をその信条となす者、若しくは之を信条となすに至らざるもその臭味を帯びる者にして、その中幸徳を崇拝し若しくは之と親交を結ぶ者多きに居る。

1908年6月22日 「錦輝館赤旗事件」と称する官吏抗拒及び治安警察法違反被告事件発生し、数人の同主義者獄に投ぜられ、遂に有罪の判決を受くるや、之を見聞したる同主義者往々警察吏の処置と裁判とに平ならず、その報復を図るべきことを口にする者あり、爾来同主義者反抗の念愈々盛にして、秘密出版の手段に依る過激文書相次で世に出で、当局の警戒注視益々厳密を加うるの已むを得ざるに至る。ここに於て被告人被告人共の中、深く無政府共産主義に心酔する者、国家の権力を破壊せんと欲せば先ず元首を除くに若くなしとなし、凶逆を逞(たくまし)うせんと欲し、中道にして兇謀発覚したる顛末は即ち左の如し。

第一

1908年6月22日錦輝館赤旗事件の獄起るや、被告幸徳は時に帰省して高知県幡多郡中村町に在り、当局の処置を憤慨してその後図をなさんと欲し

1908年7月 その訳する所の無政府共産主義者ペートル・クロポトキン原著『パンの略取』と題する稿本を携え上京の途につき、迂路和歌山県牟婁新宮町の大石を訪問 成石平四郎、高木顕著明、峰尾節堂、崎久保誓一と会見

「政府の迫害甚しきにより反抗の必要なることを説き、越えて8月新宮を去りて

(1908年8月)箱根林泉寺内山愚童を訪問

赤旗事件報復の必要なること」を談じ

帰京の後東京府豊多摩郡淀橋町柏木に卜居し

次で同府北豊多摩郡巣鴨に転住し

「同主義者に対し常に暴力の反抗の必要」なる旨を唱道せり。

1908年9月 森近、坂本は巣鴨幸徳宅に客居

初め森近は無政府共産主義を奉じ、大阪に在りて『大阪平民新聞』或は『日本平民新聞』と称したる社会主義の新聞を発行し、また定時茶話会を開き無政府共産説を鼓吹す。

たまたま宮下心を同主義に傾けたるも、皇室前途の解決について惑う所あり

1907年12月13日 宮下太吉、森近を大阪平民社に訪うてこれを質す。

森近「即ち帝国紀元の史実信ずるに足らざることを説き、自ら宮下をして不臣の念を懐くに至らしむ。

その後宮下は内山愚童出版の『入獄紀念・無政府共産』と題する暴慢危激の小冊子を携え、東海道大府駅に至り、行幸の鹵簿(ろぼ)を拝観する群集に頒与し、且つこれに対して過激の無政府共産を宣伝するや

 衆みな欣聴するの風あれども、言一たび皇室の尊厳を冒すや、また耳を藉す者なきを見て思えらく、「帝国の革命を行わんと欲すれば先ず大逆を犯し、以て人民忠愛の信念を殺ぐに若ず」と。

「ここに於て宮下は爆裂弾を造り大逆罪を犯さんことを決意」し、

1908年11月13日その旨を記し且つ

「一朝東京に事あらば直ちに起ちてこれに応ずべき」

旨を記したる書面を森近に送り、

森近はこれを幸徳に示し、且つ

宮下の意志強固なることを推奨したるに、幸徳はこれを聴き喜色あり。

1908年11月19日 大石、幸徳訪問。

幸徳は森近、大石に対し、

赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを説き、予め決死の士を募らんことを託し」

森近、大石はこれに同意したり、

1908年11月中 松尾卯一太も幸徳を訪問

幸徳より前記の計画あることを聴て、均しくこれに同意したり。

幸徳は更にその顛末を新村忠雄及び坂本に告げ、特に坂本に対しては各地を遊説して決死の士を募るべきことを勧告したり。

新村は幸徳より無政府共産主義の説を聴てこれを奉じ、深く幸徳を崇拝す。

曽て群馬県高崎に於て『東北評論』と称する社会主義の新聞を発行し、その印刷人となりて主義の鼓吹に努め、信念最も熱烈なり。

1908年春頃より 坂本清馬、幸徳方出入り、その後『熊本評論』に入り、赤旗事件以後上京

幸徳方を去り宮崎県に往き、或は熊本県松尾卯一太方に寄宿

松尾、飛松与次郎等に対し暴慢危激の言を弄し、各地を放浪

1910年3月 佐藤庄太郎を東京市下谷区万年町2丁目の寓居を訪問、爆裂弾の製法を問えり

1908年12月 幸徳は『パンの略取』を出版

管野すが 近日当局の主義者に対し圧抑益々甚だしいと憤慨

「爆裂弾をもって大逆罪を犯し、革命の端を発せんと欲する意志を抱き、幸徳を巣鴨に訪ねこれを謀る、幸徳は喜んでこれに同意し、協力事を挙げんことを約し、且つ告ぐるに宮下太吉が爆裂弾を造りて大逆を行わんとする計画あること。及び事起るときは紀州と熊本に決死の士出づべきことをもってせり。

1909年1月14日 愚童は上京して幸徳を訪問、幸徳は欧字新聞に載せたる爆裂弾図を愚童に貸与し、坂本と共にこれを観覧…

▲愚童と管野

★宮下関連

1909年2月13日 宮下太吉、幸徳訪問し「逆謀」を告ぐ、幸徳「故さらに不得要領の答をなし」

宮下去るに及んで幸徳、スガ及び忠雄に語り、太吉の決意を称揚

宮下、森近を訪問「逆謀」を告ぐ

5月中、亀崎の松原徳重より爆裂弾の製法を聞く

6月明科に転勤、7日、幸徳訪問

幸徳、管野は新村忠雄、古河は各勇敢の人物なることを説き、これを宮下に推薦したり。

その後宮下は明科製材所に在りて同僚の職工等に対し無政府共産説を鼓吹し、

▲7月薬品の購入

また書を新宮町大石方に奇遇せる新村に寄せてその逆謀に同意せんことを求め、且つ塩酸加里の送付を乞う。

8月1日更に書を発してこれを促し、遂に

8月10日に新村より送致したる塩酸加里1ポンドを受領したり。

1909年4月以来新村忠雄は大石方に往き薬局の事務を補助、峰尾節堂、高木顕明等に対し「…大逆を行わんに若かず」との激語を放ち、殊に成石平四郎とは意気相投合し

1909年9月上旬、新村は帰京幸徳方に寓居、「1910年秋季爆裂弾を用いて大逆罪遂行」

1909年9月下旬 奥宮健之は幸徳方を訪問

1909年10月  再来訪

10数日後 幸徳に爆裂弾の製法を通知

1909年10月上旬 幸徳は古河を招致、『自由思想』印刷人

…宮下関連

★1909年10月12日 宮下、薬研入手

11月3日 爆裂弾、試みに投擲

12月 新田融に鉄葉小缶を造らしめ

12月31日 幸徳、訪問

1910年1月1日 幸徳方、4人会合

1月23日 古河、幸徳を訪問、幸徳は病気で寝ていた

管野、新村と秋季逆謀の実行協議

1910年3月 幸徳は「且つその躬親(みみずから)ら逆謀実行の任に当るを不利とする念を生じ」湯河原に赴き

1910年3月 幸徳は管野と共に湯河原に赴く

1910年4月 管野は長野県に在る新村に爆裂弾の再試験を勧告

1910年5月1日 管野は帰京、千駄ヶ谷増田方に寓す

1910年5月17日 新村も帰京、管野、新村、古河は管野の寓居に相会し大逆罪実行の部署を議し、抽籤

1910年4月中 宮下は新田に鉄葉缶24個を造らしむ

1910年5月8日 宮下は万一の事あらば古河力作に転送

1910年5月21日 鍛冶工場、汽機室内に隠匿、事発覚

第二

1906年 (大石は久しく社会主義を研究、無政府共産主義を奉じ)上京、幸徳と相識り、爾来交情頗る濃なり。

1906年頃より 成石平四郎は大石の説を聴き所蔵の新聞雑誌、書籍を借覧、自ら購読、無政府共産主義に入り

1906年頃より 高木顕明は社会主義に関する新聞雑誌等を読み大石宅に出入り社会主義者に交りようやくこれに感染

1907年頃より 峰尾節堂は社会主義の書を読み大石と交りて無政府共産主義に入り

1907年4,5月以来 崎久保誓一は大石より社会主義に関する新聞雑誌を借覧、無政府共産主義に帰し

成石勘三郎は弟平四郎の所蔵する社会主義に関する文書を読みて無政府共産主義の趨向にあり。

……

1908年7月 幸徳が新宮町に来訪するや…大石は…成石平四郎、高木、峰尾、崎久保を招集して共に幸徳より当局の圧迫に対する反抗の必要あることを聴き、また大石はその反抗手段について特に幸徳と議する所あり。

1908年11月19日 幸徳宅に於て幸徳が大石及び森近運平に対し赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて富豪を劫掠し、貧民に賑恤し、諸官衙を焼き、当路の顕官を殺し、進んで宮城に迫り大逆を犯すべき決意あることをツ告ぐるや、大石は賛助の意を表し帰国して決死の士を募るべきことを約す。

1908年11月末 大石は帰県の途次京都を経て大阪に出て、武田九平、岡本穎一郎、三浦安太郎等に会見して幸徳の病況を告げ、且つ逆ぼうぎの企図を伝えてその同意を得、帰県の後

1909年1月に至り、成石平四郎、高木、節堂、誓一を自宅に招集して、幸徳と相図りたる逆謀を告げ、これに同意せんことを求む。

成石平四郎等四人は当時既に皇室の存在は無政府共産主義と相容れざるものと信じ、奮て大石の議に同意し、一朝その事あるときは各決死の士となりて参加すべき旨を答えたり。

成石勘三郎薬種商にして、かつ煙火を製造したることもあるを以て、成石平四郎は前示逆謀に使用すべき爆裂弾製造の研究を依頼し、勘三郎はその情を知りてこれを諾し、

1909年4月以来和歌山県東牟婁郡請川村大字耳打の自宅に於てその研究に従事し、まず所蔵の鶏冠石、塩酸加里を調合して紙に包み、熊野川原に於て爆発の効力を試みたれども成功せざりしを以て

7月18日新宮町に往き、当時大石方に客食したる成石平四郎と共にこれを大石に告げ、再試験をなさんがため原料の付与を乞う。

…薬品の調合…の件

成石勘三郎は平四郎、大石、新村を新宮町養老館に招請す。

四人会食して大逆罪の計画談あり

1909年8月…宮下への塩酸加里送付の件

新村の大石方寄食は4月1日より8月20日に至る。

その間、平四郎、高木、峰尾は新村と交りて不敬危激の言を以て逆意を煽動せられ、なかんずく平四郎は忠雄と意気相許し、且つ当時事情ありて厭世の念を生じ、新村と相約して他の同志者の去就を顧みず挺身して大逆罪を遂行せんことを図りたり。然れども平四郎は幾何ならず帰省して疾に罹り、新村も急に帰京したるをもって事遂に止みたり。

第二終わり

第三

1904,5年頃より 松尾卯一太は社会主義を研究

1908年夏以来無政府共産主義に入り幸徳伝次郎と文書を

往復

1908年6月 新美卯一郎は幸徳に書を寄せてその説を叩き、遂に無政府共産主義に帰向するに至る。

1907年6月 熊本市に於て松尾、新美は協力して『熊本評論』を発刊、過激の説を掲載、無政府共産主義を鼓吹する所あり

1908年 赤旗事件起るや新美は事をもって上京幸徳、その他主義者を訪問、赤旗事件の公判を傍聴★「連累者の言動を壮快なりとなし」帰国の後幾何ならずして『熊本評論』は発行禁止の命を受くるに至る。ここに於て松尾、新美は甚だこれを憤慨し、「これ政府が無政府共産主義を圧迫するものなれば、主義を実行せんと欲すれば、暴力に頼りて国家の権力関係を破壊するを要す、大逆も敢えて辞すべきに非ずとの念」を生じ、松尾はしばしばその意を新美に洩せり。

1908年 11月 松尾上京、幸徳を巣鴨に訪問、赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを聴き、これに同意して決死の士を養成すべきことを約し、

1908年12月 熊本市堀端町の自宅に於て新美にその計画を告げ新美はこれに同意したり。

1908年5月頃より、佐々木道元は松尾の勧誘によって社会主義を研究、松尾、坂本等の鼓吹に遭い、無政府共産主義を奉ずるに至り、

1909年1月、松尾が熱烈なる志士養成の必要あるをもって協力事に従うべしと激励するや、道元は頗る感奮する所あり。

1909年3月、飛松は松尾の勧誘により、『平民評論』の編集兼発行人となり松尾、新美の説を聴いて無政府共産主義の傾向を有するに至る。……

第三終わり

判決書 第四

内山愚童

1907年頃より社会主義を研究

1907年6月、赤旗事件の獄起り、…憤慨し

1908年10月、11月赤旗事件入獄記念として、『無政府共産』を秘密出版

「暴慢危劇…不臣の心情掩うべからざるものあり」

1908年8月12日、幸徳は上京の途次、被告愚童を箱根林泉寺に訪い、赤旗事件の報復必要なることを説き、愚童は9月以降しばしば上京し…伝次郎に対し『パンの略取』に記するが如き境遇を実現すべ方法を問い、「総同盟罷工或は交通機関の破壊その他の方法により、権力階級を攻撃するにあり」との説明を得、

1909年1月14日伝次郎を東京府豊多摩郡巣鴨町に訪うや、坂本清馬と共に欧字新聞に載せたる爆裂弾図を借覧し、清馬は「此の如き爆裂弾を造りて当路の顕官を暗殺する要あり」と言い、愚童は不敬の語をもって「皇太子殿下を指斥し、むしろ弑逆を行うべき」旨を放言し、

翌15日管野すがを東京府豊多摩郡淀橋町柏木の寓居に訪い、すがは「若し爆裂弾あらば身命を抛て革命運動に従事すべき」意思あることを告げて同意を求むる状あるを見て、愚童は予すでにダイナマイトを所持せり、革命運動の実用に適せざるべきも、爆裂弾研究の用に資するに足るべしと答え、且つ革命の行わざるべからざる旨を附言せり。

……

1909年1月16日同主義者田中佐市を横浜根岸町に訪い、佐市及び

金子新太郎、吉田只次等に対し、「東京の同志者は政府の迫害を憤慨し、且つ幸徳伝次郎の余命幾何もなき状にあるをもって、近き将来に於て暴力革命を起さんと決心せり。その際大逆を行わんよりはむしろ皇儲を弑するの易くして効果の大なるに若かず、決死の士五十人もあらば事をなすに足らん。伝次郎及び誠之助は已に爆裂弾の研究に着手せり。この地の同志者は一朝東京にに事起らば直ちにこれに応ぜざるべからざる地位にあり、卿等その準備ありや」と説き、その賛同を求めたれども佐市等の同意を得る能わずして去る。……その後4月被告愚童は事をもって越前永平寺に往かんと欲し、途次16日石巻良夫を名古屋市東区白壁町に訪い、「東京の同志者は政府の迫害に苦しみ、幸徳、管野等は暴力革命を起す計画をなし、紀州の大石もまたこれに与り、大阪方面にも3,4の同志ありて大石と連絡成れり。暴力革命には爆裂弾の必要あり、幸徳の宅には外国より爆裂弾の図来り居り、横浜の曙会や紀州の大石等は爆裂弾の研究をなし居り、幸徳、管野は爆裂弾あらば何時にても実行すべしと言い居れり、一朝革命を起せば至尊を弑せんよりは先ず皇儲を害するを可とす、この地の同志者の決意如何」と説き、もってその同意を促したれども、また志を得る能わず。去りて永平寺に赴き用務を了し、帰途更に大阪に出で、

5月21日武田久平を大阪市南区谷町6丁目に訪い、久平及び三浦安太郎に会見し、前掲横浜及び名古屋に於てなしたる勧説の趣旨と同一のことを説き、久平及び安太郎の同意を得、その翌

22日神戸市夢野村快海民病院に行き、岡林寅松、小松丑冶に対してまた同一趣旨の勧説を試みてその同意を得、且つ爆裂弾の製造方法について寅松、丑冶の意見を徴したり。

愚童の項終わり

第五 大阪関連

1908年6,7月 武田九平、無政府共産主義に帰し

1907年6,7月より 岡本穎一郎は森近運平と相交わり無政府共産主義に入り

1907年夏以来 三浦安太郎は無政府共産主義を奉ず。

1907年7月 武田は森近と共同して大阪平民新聞日本平民新聞を発刊、自宅に平民倶楽部を設け

1907年11月3日 森近主催、幸徳の歓迎会、武田、岡本、三浦臨席

1908年9月中 岡本は平民倶楽部茶話会、皇帝少しも尊敬すべき理なし…不敬

1908年11月 武田は内山の送付したる『入獄記念・無政府共産』を岡本、三浦に頒与し

1908年11月下旬 大石大阪に投宿、武田、岡本訪問、三浦遅れて訪問、逆謀を説示され同意

1909年5月21日 内山、武田を訪問、三浦が迎える、武田合流

内山は「幸徳、管野は病、爆裂弾あらば何時にても実行すべしと意あり、幸徳宅には外国より爆裂弾の図到来し、横浜の曙会、紀州の大石等は爆裂弾の研究をなし居り、一ヶ所に5,60人の決死の士あらば事を挙ぐるに足るとの説を聴き、且つ内山が皇儲弑害の策を告ぐるや、三浦は已に主義のため死を決して当地の同志者にその意を漏したる旨言して賛同の意を表し…

第六 神戸関連

1904,5年 岡林寅松は非戦論を是として社会主義に入り後一転して無政府共産主義に帰す。

1904年以来 小松丑冶は社会主義を研究し、1907年に至りて無政府共産主義に入る。

1904年中 岡林、小松は『赤旗』と称する雑誌を発刊せんと図りたるも故ありて中止

1907年11月3日 大阪での幸徳歓迎会に小松出席

1908年11月 岡林、小松『入獄記念・無政府共産』を内山より

収受

1909年5月22日 内山は岡林、小松を神戸に訪問「皇儲弑害の策」を唱え賛同を促す、岡林、小松は難色を示すもこれに同意、爆裂弾の製法を問う、岡林は「リスリンを用いれば可」、小松は「硫酸とリスリンをもって製すべし」と答うるに至りたり。

第七 新田融

第八 新村善兵

     

「アナキズム運動史」1908年1月1日 『高知新聞』幸徳秋水「病間放語」掲載 

「文明の日本、戦勝の日本、樺太を占領し、朝鮮の保護するの日本、三井と岩崎の日本においても革命はたしかに活ける問題なり」

フィリッピン人・ベトナム人朝鮮人中、また気概あり、学識ある革命家、けっしてすくなきにあらず。彼らの運動が単に一国の独立、一民族の団結以上にいでざるの間は その勢力や、はなはだ見るにたるなしといえども、もし東洋諸国の革命党にして、その眼中国家の別なく、人種の別なくただちに世界主義・社会主義の旗幟の下に大連合を形成するに至らんか、20世紀の東洋は実に革命の天地たらん」