雑誌『イコール』創刊号発刊記念の未来フェスに参加。

雑誌「イコール」創刊号発刊記念の未来フェスに参加。

18名が参加、12名が発言、記事の中から一つ選んで3分で紹介するという流れ。初回なので、我々の仲間が中心だったが、この輪もしだいに広がっていくことだろう。

「好き」と「凄い」で選択。小学生、高校生の活動に感心。ちゃらんぽらん遺伝子。マンダラ。一人ミュージアム。現場と論客。ラジオネームと文章。ダ・ビンチの気持ち。生きてる人の弔辞を書く。、、。

私は「墓碑銘」というコーナーの「坂本龍一」を選んだ。以下、発言メモ。

橘川編集長:Chatgptの登場とシェア書店の流行。人間にシステムが合わせる時代になる。人間はどうするか。技術はリニアだが、人間は反省し修正する。表現する場を提供していく。

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「名言との対話」5月26日。津本陽「年齢をかぞえる前に、わが意欲を思え」

津本 陽(つもと よう、1929年昭和4年)3月23日 - 2018年平成30年)5月26日)は、日本小説家。享年89。

東北大学法学部卒。東北大では東北電力の明間輝行社長と同期。企業の購買部に12年半ほど勤務。病身の父の会社の混乱を整理するために退職し3年間を費やす。35歳、作家になろうと志す。38歳、「丘の上」が1961年上期の直木賞候補。49歳、故郷和歌山の捕鯨漁民を描いた『深重の海』で直木賞。を受賞。

最初は自分の過去を描いた小説。次は他人小説。そして剣豪小説、最後は歴史小説とテーマが変わっていく。進化であり、深化だろう。

2000年以降、2016年までの著作数を数えてみたら56冊あった。71歳から87歳まで、1年に3-4冊のペースで作品を発表し続けている。生涯で168冊だ。直木賞を受賞した49歳から86歳までの37年間に全精力を傾けた結果である。年4-5冊のペースだった。晩成の人である。

津本陽 こう生きて、こう死にたい』を2023年に読んだ。この本は、日本史の英雄に学ぶ箴言集である。津本陽は主に、戦国の武将と武士を取り上げている。信長「下天夢か」(1989年)。秀吉「夢のまた夢」(1993-1994年)。家康「乾坤の夢」(1997年)。そして宮本武蔵塚原卜伝千葉周作柳生兵庫助など剣術の達人の作品も多い。剣道3段、抜刀術5段の腕前であり、戦いの場面の描写にすぐれていた。日本刀のスピードは80分の1秒である。以下、参考になる部分。

  • 立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半(俚諺:言い伝えられた言葉)
  • 「古の武士道」の精神い立ち返る時だ。技芸を磨き上げる。死を恐れない気魂を練る。古い武士道とは100年続いた戦国時代を生き抜いた武将や武士の道。戦国三部作の主人公の信長、秀吉、家康は傑出。
  • 新たな思想や理念を見出せない。自信喪失。民族のポテンシャルが落ちている。魂が抜けたような状態。アメリカのリモコン。
  • 人間の器量:摂取の勇があるかないかで決まる。
  • ここだ。いまだ。潮時。リズム。機をつかむ。渡を越す。運気。
  • 100人の田舎の名人と、1万人の江戸の名人の違い。人に会い他人の優れたところを取り入れて自説を組み立てること。
  • 先のことが分からぬときは、おのれの運に掉さして、思い切って前へ進むことだ

津本は剣道抜刀道五段の心得を生かした迫真の剣豪小説から、しだいに歴史小説に重点を移していく。信長をテーマとした日経新聞の連載小説『下天は夢か』の単行本は、1989年も60歳のときに発刊され200万部を超える大ベストセラーになった。私も連載時は毎日楽しみに読んでいた。小説を書く上で重要なのは「自分自身の体験である」という言葉は、剣豪小説を読むと納得する。

津本陽は以下の人物とその時代を描いた。塚原卜伝柳生兵庫助千葉周作などの剣豪。秀吉、家康、信玄、謙信、政宗、利家などの戦国大名。海舟、西郷、龍馬などの幕末の英雄。始皇帝則天武后など中国の傑物。

事実とは往々にして「事実らしからぬ」ほどのドラマ性を持っているから、できるだけ事実をそのまま描き出すことだとし、膨大な資料を読み込み、小説に生かした。

2003年、74歳で書いた 『老いは生のさなかにあり』というエッセイを読んだ。鈍物を自認する家康(75歳)は経験を知恵にできる洞察力があり、大器晩成の生涯を送った。親鸞は63歳から膨大な著述を始め、75歳で『教行信証』を著すなど90歳まで続けた。毛利元就(75歳)は襲ってくる事象に対して的確に対処していくリアリストだった。北条早雲(88歳)は常に前途に希望を抱き、60歳直前という晩年に大運をつかむ。勝海舟(75歳)というマキャベリストは、時代の先を読み幕藩体制を一新し、旧幕勢力を糾合し、慶喜を補佐した生涯を送った。

彼らの晩年に花が咲いた人物の特徴は、しぶとい、晩年に最高の知恵が身につく、障害を乗り越え新境地をひらく勇気がある、冷静に自分を見る目を持つ、などだという。そして「生きているあいだ、どのように行動するかを考えている人は、おおむね死を怖れない」。宇宙のなにももかの意思によって与えられた「定命」(じょうみょう)を生き切るだけだ、と津本陽は語っている。

NHK「あの人に会いたい」をみた。人間の本音がでる激動期の人間像に迫る。ひとつのものごとに打ち込んでいく人間の心の軌跡を探っていく。節目節目で脱皮する、そこが面白い。京間の8畳で座ったままで斬られた坂本龍馬の暗殺については、抜刀術を会得した剣士の目で、一人の暗殺者の仕業だと断定している。そして「男には心に刀を持つ そういう気構えが必要」と語っている。

・完全に絶望するということは、もうそれ以上は落ちない「底」に着いたということ。つまり、本当の絶望は、壁を乗り越えるための復活の始まりでもある。

・「事実らしく見えるもの」を書くのではなく、できるだけ「事実」そのままを描き出すことだ。

「みんな死を忘れて楽しんでいます」(キダ・タローとの対談)

林真理子は津本が亡くなった時、「直木賞選考の場で頼りにしたのが津本先生。歴史・時代小説が候補になると、先生がどう考えているかをみんなが気にした」と語っている。

「年齢を重ねるとともに行動の知恵をふかめてゆき、なお高度な段階に至り、大きな収穫を得るために心を砕くのが、すぐれた人物にそなわった器量である」。老境に至ってなお、盛運のいきおいを増してゆく、老いてはじめて知恵のかがやきを発した人物が、歴史のうえに数多く名をなしているのである。それが「老境力」である。年齢をかぞえる前に、意欲をわが思え。わが志を思え。

津本陽 こう生きて、こう死にたい』の「あとがき」で、「短い人生を、何事かに全精力をうちこみ去ってゆきたい」(2000年11月)と書いていたとおり、89歳でその生涯を終えている。小説で描いた主人公たちのエキスを吸いながら、それらを総合しながら、人生の高みに登って行った人である。深い共感と尊敬の念を覚える。

 老いは生のさなかにあり (幻冬舎文庫)

焼津小泉八雲記念館ーー「我々人間の肉体は、幾世代もの先祖の魂の複合体である」

昨日訪問した焼津小泉八雲記念館の訪問記。

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『焼津小泉八雲記念館ーー八雲と焼津2007』という小冊子を興味深く読んだ。巻頭の「ご挨拶」は、この記念館の名誉館長の小泉凡さんだ。「弱い者いじめ」と「うそつき」が何より嫌いだったとそうだ。この人のラジオでの声を聴いたことがあり、また松江の小泉八雲記念館の見学と、その後の懇親会では隣で酒を飲んだことがある。

小泉八雲ラフカディオ・ハーン)はギリシャ生まれ。アイルランドのダブリン、フランス、アメリカのシイシナチ、ニューオリンズ西インド諸島のマルテニーク島。そしてあこがれの日本に。島根県松江、熊本、神戸、東京。放浪の旅人だった。八雲の生涯を眺めると、人間関係に難があったらしく、次の仕事のめどもなく辞めることが多かった。その中でも、焼津の海と素朴な人々との交流には満足していた。

小泉八雲は、深くて荒い焼津の海が気に入った。焼津の浜通りの魚商人の山口乙吉の家の2階を借りて、毎年夏を過ごすことになった。
八雲の趣味は水泳である。焼津は絶好の遊泳地だった。
八雲は、乙吉を「神様のような人」と言い、「乙吉さーま」と呼んだ。さっぱりした気性であけっぴろげの典型的な焼津っ子である。そして、焼津の人々は、八雲を「先生様」と呼んだ。
八雲は「乙吉のだるま」と言う作品を書いている。八雲は、その他「漂流」、「海辺」を含めた「日本雑記」を書いた。
展示されている草稿「美の中の悲哀」には、「我々人間の肉体は、幾世代もの先祖の魂の複合体である」と唱えた独特の哲学が描写されている。
焼津滞在中の八雲から東京で留守をしているセツ夫人に送ったカタカナの手紙が展示されている。八雲の日本語はカタコトであった。その言い方は後年「ヘルンさん言葉」と呼ばれた。その手紙には、ユーモラスなスケッチもあり、焼津での出来事や連れてきた子供たちの様子、設夫人への愛情などが書かれている。
八雲は帝大講師時代の1897年(明治30年の47歳から1904年(明治37年)の54歳まで実に6回焼津を訪れている。滞在期間は約1ヵ月前後であった。
1904年には日露戦争が勃発した。日本海軍がウラジオ艦隊を撃破したときぬは、「何ぼう喜ばしの鬼退治!」と叫び、乙吉の店ですべての玉ラムネを開け、人々に振る舞った。八雲は日露戦争の海戦にあたり、海外の新聞雑誌へ日本びいきの記事を書き送っていた。
1903年には帝国大学の文化大学講師を解雇される。後任は夏目漱石であった。翌1904年には早稲田大学文学科講師として招聘された。しかし、教壇に立つことは叶わなかった。9月には心臓発作を起こし亡くなったのである。54歳であった。

焼津の小泉八雲記念館は、焼津の人々の愛情のこもった素晴らしい記念館だった。

毎年のひと夏を過ごした家。

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八雲の部屋。ここでは座り机だった。

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八雲の著書。八雲関係の書籍。

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朝は9時からのヨガ教室。夕刻の17時から20時までは、唐木田の「神成さん家」でMiwa先生を囲んだ教え子たちとの酒盛り。「温かい家庭料理と美味しいお酒」という看板通りのすてきな店。料理、お酒、会話を存分に楽しんだ3時間だった。

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「名言との対話」5月25日。川上源一「足元が明るいうちにグッドバイ」

川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2002年5月25日)は、日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長。ヤマハ発動機株式会社創業者でもある。

旧制高千穂高等商業学校(のちの高千穂大学)卒業後、日本楽器製造(現:ヤマハ)に入社し、社長に就任し、ピアノ生産量を世界一にする。ヤマハの伝統戦略はこうだ。赤ちゃんが生まれると毎月1000円づつ貯金をしてもらう。4からヤマハ音楽教室でピアノを習い、10歳になった頃に溜まったお金でピアノを買うというストーリーをつくった。我が家もその通りの道筋で子どもたちはピアノを弾けるようになったし、ピアノは今でもリビングに鎮座している。そおういった戦略のおかげでピアノに親しむ習慣が根づいた。日本は今ではピアノの普及率は世界一となっている。また開発した電子オルガン「エレクトーン」は、電子オルガンの代名詞にもなった。

1955年にヤマハ発動機を創業し社長を兼務し、オートバイ、スポーツ用品、レクリエーションなど各種事業を創業した。会社の休日を「土日」ではなく、「日月」にし、レジャー産業を社員に教育している。「慎重に急げ」はオートバイ事業に進出した時の名言である。「日本も復興してきたたら、レジャーが産業になる」と考え、社長就任後、わずか1年でオートバイを製造販売し大ヒットさせた。川上は強烈なイノベーターであり、大きな成果を挙げた「ヤマハ中興の祖」である。

川上は次々と直面する課題に対して即時の決断と素早い実行を行ってきた。それには次のような心構えがあったのだ。「社長は戦国時代の大名と一緒で、すべて背水の陣でものを考えている。その都度、その都度、私自身、自分の決心に時間をかけたことはない」「常に自分の事業の姿がどうならなければならないか、という見通しを持っていなければ的確な意志決定はできない」。

 

『社長の椅子が泣いている』(講談社)を読んだ。この本は川上源一の指名を受けてヤマハ楽器の社長になった河島博について書かれた本だ。兄は・喜好は本田技研工業の社長である。兄弟社長は珍しかった。65歳の河上源一は「明るいうちにグッドバイ」との名言を残して去ったが、数年後には好調な業績をあげつつあった後継社長を解任し、社長に復帰している。兄は「沈黙は金。日記に書いておけ。私は高く評価している、ご苦労であった」と伝えている。涙が出てくる愛情のこもった、そしてトップの進退をめぐ貴重なアドバイスで、読んでいて涙がでてくる。

「社長と副社長との間の距離は、副社長とヒラ社員の距離よりも遠い」という旭化成の宮崎輝の名言があるように、不満もあったのであろう。ヤマハは源一の父、本人、息子と3代にわたって経営を担ったこともあり、「川上天皇」にも世襲批判はあった。やはり事業のバトンタッチは難題である。さすがの川上源一も、引き際の魔術師とはいかなかったようである。

 

掛川(生誕の地)の吉岡彌生記念館(東京女子医大創設者)。焼津の小泉八雲記念館(避暑の地)。

掛川吉岡彌生記念館。

三島から新幹線「こだま」で掛川。駅からタクシーで30分(3500円)。帰りは1時間に一本のバスで駅に戻る。


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東京女子医大を創立した吉岡彌生の生誕の地に立つ記念館と実家の医院跡を訪問。生涯を「志」「翔」「愛」にわけて展示されている。

座右の銘は「至誠一貫」。そのとおりの不屈の生涯だった。

「大正評判女番付」が展示されていた。記念館では、文壇の酒豪の番付や文豪の執筆量料の番付などを見たことがある。今度は女の番付だ。

横綱広岡浅子(銀行家)と峰島きよ(質商)。張出横綱は矢島楫子。吉岡弥生(女医)は安井哲子(教育家)と並んで大関となっている。三浦環(音楽家)と川上貞奴(女優)が関脇。下田歌子(校長)と棚橋洵子(校長)が小結。前頭で名前を知っているのは、九條武子(美人)、野上弥生子(文学者)、松井須磨子(女優)、嘉悦孝子(教育家)、田村俊子(文士)、伊藤野枝鳩山春子(交際家)、中條百合子(小説家)。

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・吉岡弥生 吉岡弥生伝

購入した『吉岡弥生』の「阿弥陀如来」「震災の思い出」「わが指導者原理」「あとがき」を読みながら帰る。古稀のお祝いの記念に刊行した本。執筆者は福沢諭吉伊藤博文大隈重信渋沢栄一に並ぶ女傑だとしている。婦人界の指導権を、門閥なき婦人、生活する婦人の手に取り戻したと評価している。詳しくは別途記す。

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焼津の小泉八雲記念館。

掛川から東海道本線で焼津。タクシーで20分(1000円)。


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どうして焼津に小泉八雲の記念館なのか。帝大時代の晩年はほぼ毎年、夏に気に入った焼津で過ごしたからだった。

名誉館長の小泉凡さんの挨拶文が載っているパンフを購入。凡さんは八雲の曾孫で松江の記念館の館長で酒席をともにしたことがある。

わずか34ページだが、この焼津過ごした八雲の様子が手に取るようにわかる優れたパンフだ。焼津のことを書いた作品、焼津での生活や、乙吉との交流、セツさんとのカタカナでの手紙などが興味深い。

小泉八雲ラフカディオ・ハーン)はギリシャ生まれ。アイルランドのダブリン、フランス、アメリカのシイシナチ、ニューオリンズ西インド諸島のマルテニーク島。そしてあこがれの日本に。島根県松江、熊本、神戸、東京。放浪の旅人だった。その八雲が避暑と水泳のできる「絶好の遊泳地」の焼津が気に入ったのである。詳細は別途記す。

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川勝知事の辞任に伴う、今週末が投票日の静岡県県知事選のポスター。

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東海道本線で静岡。静岡から新幹線で新横浜経由で自宅へ。

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「名言との対話」5月24日。大宅昌「美しく死ぬことはやさしい。しかし美しく老いることはむずかしい」

大宅 昌(おおや まさ、1906年10月19日 - 2007年5月24日)は、評論家大宅壮一の妻で、大宅壮一文庫理事長。享年100。

富山県立富山高等女学校卒、富山県女子師範学校第二部卒、7年間教師をする。1931年4月、前妻を亡くしたばかりの大宅壮一が富山へ講演会に来て見初められ、5月に結婚。 大宅壮一の蔵書をもとに設立された雑誌専門図書館大宅壮一文庫」の理事長を1971年に発足以来、終生務めた。長男は夭逝した大宅歩。三女映子はジャーナリスト。老衰のため横浜市の自宅で死去。100歳没。

 大宅壮一は70歳で亡くなっている。6つ下の昌は100歳まで到達したセンテナリアンである、夫の死から36年を生きた。1981年に出版された「愉しく生きる老い」はベストセラーになった。

2016年11月22日の「名言との対話」で私は大宅壮一を取り上げている。マスコミ界の怪人で造語の名人だった。「一億総白痴化」「恐妻」「駅弁大学」「青白きインテリ」「口コミ」などは大宅の造語である。70歳で亡くなった大宅壮一は「しまった。ライフワークを手がけるのが10年遅かった」と痛恨の言葉を残している。大正時代をライフワークとして書きたかった大宅がサンケイ新聞に連載した『炎は流れる』は、1963年元旦から1年10か月、4444回で中止となったのである。この人にして突出した名著、満足できる書物を遺すことができなかったのだ。高齢社会においては、「ライフワークをつくりましたか」、この問いが重要になる。

私のブログに大宅壮一という名前は頻繁に登場する。それは本人が在世中に発足した「大宅壮一ノンフィクション賞」を受章した本の読後感が多い。桐島洋子佐野眞一、近藤史人、森健、中村ひろ子、児玉博、山崎朋子米原万里深田祐介辺見じゅんイザヤ・ベンダサン安田峰俊などの受賞作品を読んでいる。こういった名前と作品を眺めると、大宅壮一という人の偉大さがわかる気がする。昌は在世中は、大宅壮一文庫理事長として表彰式には必ず出席した。

今回読んだ妻・昌の『大きな駄々っ子 夫・大宅壮一との40年』(文春文庫)でも、「男子一生、二人以上の子を育て、家を建てることができれば、一人前といえよう」「男の顔は履歴書」「生まれた以上は人間として、出来るだけの仕事をしなければならない。しかも残る仕事を」などの名言があった。

昌の観察眼は壮一の日常や仕事への取り組みを教えてくれる。いわく、メモ魔、野次馬旅行、そして「歩きながら考え、読みながら考え、寝ながら考え、食事しながら考え」るというすさまじい仕事ぶりを伝えてくれる。

子どもたちの配偶者にも「当った」し、子どもたちは自分のまわりに住んでくれるなっど、晩年の昌は幸せだった。壮一から恐妻とからかわれたが、本人は「私は家具の一つであった」という。その温かい人柄は、エッセイの中で十分に知ることができる。

期待していた長男・歩は、ラグビーの後遺症で33歳で夭折する。その闘病生活と夫婦の心情を描いている。歩が書き残した遺稿である詩や文をからなった『詩と反逆と死』は、1966年に刊行されベストセラーになった。私も大学時代に大いに感激して読んだ本だ。

昌は壮一の自戒の言葉「美しく死ぬことはやさしい。しかし美しく老いることはむずかしい」を自らに向けた最高の人生訓として、結婚生活とほぼ同じ時間を未亡人として過ごしたセンテナリアンだ。壮一のそばにいたこともあるのだろうが、文章もなかなか味がある。亡くなった偉人の妻が、その夫を語る本がある。そこには本人のほんとうの姿や、語りたくなかった秘密が登場するから、私もよく読むことにしている。その中でもこの本は出色の出来だ。

 

 

三島で開催された富士箱根伊豆国際学会の総会。

夕方、静岡県三島で開催された富士箱根伊豆国際学会の総会に出席。我々の仲間では、橘川さん、田原さん、都築さん、松永さをが駆けつけた。この学会では私は顧問を務めている。

終了後の懇談会では、乾杯の挨拶を頼まれた。30数年前に知研の仲間だった世古真一さんがいて、声がかかった。

その後は、学会会長の五條堀隆先生を囲む会と、深呼吸学部の友人の小林佳代さん(ももちゃん)の遺伝学研究所の博士課程入学を祝う会に出席した。ここでも10分近くのスピーチを要請された。

この学会を支えるリーダークラスの何人かに、この学会の進むべき方向や進め方について、飲みながらプロジェクトエンジニアリングについての私の考えを伝えることとなった。

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二次会は、私たち東京組と何人か女性で、五條堀先生を囲む会となった。

昼ごろ三島に着いて、佐野美術館を訪問したが、残念ながら休館日だった。堀文子展をやっていた。

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タクシーの運転手から勧められた、蕎麦屋で3色そばと日本酒を少し飲んでゆっくりする。

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三島大社の宝物館。

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プロレスマスクミュージアム

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「名言との対話」5月23日。熊井啓「家庭にトラブルがある人は良い仕事が出来ません」

熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、日本の映画監督。

 多くの監督作が『キネマ旬報』ベスト・テンに選出され、ベルリン国際映画祭ヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。

1964年、「帝銀事件・死刑囚」で映画監督デビューしてからは、「日本列島」(1965年)、「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年)、「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」(1981年)、「日本の黒い夏 冤罪」(2001年)といった日本の近現代の社会問題や社会事件を主題とした作品をつくった。

職業的生命を賭けた「黒部の太陽」(1958年)は、空前のヒットとなった。高校生時代に石原裕次郎主演のこの映画をみたが、それは熊井啓の作品だったのだ。映画の批評がエネルギーになっていたようだ。山﨑豊子は「じかに日本人の魂に訴えて来る巨大な感動感」と言い、荻昌弘は「この映画がみつめようとしたのは、、、我々「人間」が、何かものを「作る」ことの意味--それであった」と熊井の真意を理解した発言をして、勇気をもらっている。

忍ぶ川」(1972年)、「天平の甍」(1980年)、「海と毒薬」(1986年)、「千利休 本覚坊遺文」(1989年)、「深い河」(1995年)、「愛する」(1997年)といった作品は、日本の文芸作品を原作とし、人間の生と死を見つめた作品である。

朱子がつくったと言われている「偶成」という漢詩がよく知られている。「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰 軽んず可からず 未だ覚めず池塘 春草の夢 階前の梧葉 已に秋声」。若者はアッという間に年をとり、しかし学問はなかなか完成しない。少しの時間でも軽々しく過ごしてはならない。池の堤の若草の上でまどろんだ春の日の夢がまだ覚めないうちに、階段の前の青桐の葉には、もう秋風の音が聞かれる。

 妻からは偽悪的で韜晦的でもあったとも評された熊井啓は、色紙を求められると「未覺池塘春草夢」と書いた。その夢とは映画をつくることであり、強じんな精神力をもって意気軒昂な姿でその夢を生涯持ち続けた。熊井啓は少年の志を持ち続け、実現した人である。

安曇野市豊科交流学習センター“きぼう”の中に、妻が寄贈した1600点以上の貴重な資料をもとに、その業績を顕彰するため、熊井啓記念館が2008年にできている。

熊井は「本はいくらでも買え、勉強のための出費は惜しむな」と後に作家となった妻・明子に語っていた。さらに、「家庭にトラブルがある人は良い仕事が出来ません」という言葉も紹介している。

 

図解「JAPAN」プロジェクトーーー規定科目は「花火」「箸」「パチンコ」。自由課題で「ブランド」「鎮守の森」。

『図解塾』の図解「JAPAN」プロジェクト。

規定科目は「花火」「箸」「パチンコ」。自由課題で「ブランド」「鎮守の森」。

以下、塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。講義始まりの恒例の近況報告。今回は先生の、「ライフワーク最も忙しい時に種をまく」です。日記を書く。ですね。今回は、「花火」「箸」「パチンコ」自由課題で「ブランド」「鎮守の森」でした。「花火」は音とその迫力と、もちろんきれいさが好きでしたが、今回は、はかなさが良いのに、ビールを飲みすぎてねてしまう贅沢さと、2時間も見続ける退屈さ、最後にアナウンスされるスポンサーの騒がしさがなんとも楽しいという、横からの観点からの花火のお話で、結局は娯楽、しかもそれぞれ俳句でたとえながら、というのが面白かったです。「箸」は、書かれている文章以外のことをたくさん調べて図解していただいたのがすごかったです。人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』…文章を読んで最初の数行で断念してしまいそうでしたが、図解にしていただいて、箸を浄と不浄の対立する2つの主張で説明していたことが分かりました。ありがとうございました! 「パチンコ」は、ここで中国ではない国ヨーロッパ?アメリカ?からきたものだということが新鮮でした。太平洋を渡ってきたのでしょうか。日本最大の産業だったというのも知らなかったことで、日本だけで発達し、賭博だけど賭博じゃないというスタンスのものが盛んな国なんだということをなるほどと聞いておりました。自由課題での虚構から生まれた「ブランド」のことと「鎮守の森」は、神の聖域を森で囲み俗世間と隔てるということ。そして、明治神宮は、鎮守の森が作られている、など、いろいろとお話を聞けて楽しめました。ありがとうございました。次回もどうぞよろしくお願いいたします。
  • 今日もありがとうございました。仕事がおわらず慌てたのと、スマートフォンを変えてLINEのトークが5年分消失してしまったことで、図解塾のZOOMのIDがわからなくなり、無事入れるまでに、いろんな方に連絡をしてご迷惑おかけしました。「花火」私は、花火には、「はかなさ」と同時に長岡の花火大会のコンセプトにもあるように「鎮魂」の意味を感じていました。それは、花火の持つ華やかさと切なさと、短時間で終わる潔さなどがあると感じていました。草森紳一は、酒井包一の句や与謝野晶子の歌を交えながら情景を例えていましたが、後段は花火は娯楽で贅沢であり、それは平和がなせる業であるように展開して言ったのを、図解で矢印による展開で私にインスピレーションを与えてくれました。また、図解の中で、春夏秋冬に例えるオリジナリティ溢れる感覚はとても素敵だと感じました。「春夏秋冬」のコンセプトを4ブロックにわけで説明してもらったら、もっとそう感じた感性が伝わってくるように感じました。 花火は私も30分くらいがちょうどいいかな、2時間も正座してみるモノではない、やはり贅沢な娯楽でもあるとうなずきました。「箸」高橋睦郎の文章は初見では全く理解できなかった。初見どころか何度みても何で鮹?これってタコでいいなよな、、、と、文言を一つ一つ携帯で検索してもなかなか情景が入ってこず、忌串は、神様に捧げる供物を手で触らずに箸(串)と包丁で料理する神事のあれのことだよな、、、と、その情景だけはなんとなくテレビで見たモノが思い浮かんできたたが、なんとも難解な文章だと罹患することを半ば諦めていました。図解により『仮名手本忠臣蔵』の人物関係からシーンの背景まで教えてもらい、図解によってその情景が浮かび知ることができ、衛生面の話しではなく、不浄と浄の対比からみる日本人の精神性のような感覚が図解から伝わってきて感動しました。「パチンコ」
    パチンコ業界のことは多少しっていたのと、竹内宏の文章は、高橋睦郎のあとだけにとてもイメージがすっと入ってきて分かりやすいと感じました。図解では、シンプルに中央に「大きなパチンコ玉」が鎮座して、吹き出しにより作者の解説がしゃべっているようで面白く感じました。また、お二人の自由課題はそれぞれ面白みがあり、一つは、洗練された大人が本気で遊ぶと虚構が真実になり仕事になるという物語が図解から良く分かりました。二つ目は、神社の周りにある神木、社のも周りの鎮守の森にどこか日本らしさ、日本の精神性を感じるルーツのようなものを図解により感じさせていただきました。私も自由課題に取り組みたいという意欲を戴きました。皆さん今日もありがとうございました。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、図解塾。先ずは近況をシェア。☆話題の「ほんまる」探訪、T原さんの枠は何処?☆目籠(めかご)作りに挑戦、笹を割いて編む、枠の部分は硬いので男が担当、などの家庭内工程分担が有ったとか。☆高度成長時代を綴ったインタビュが本になった、自分が担当したパートも有り感激。☆新たな資格養成講座を主催、準備に没頭などナド、各塾生からのトピックは相変わらず充実ぶり。久恒先生からは①「世界を知る力」:☆アベノミクスの呪縛から日本は如何に脱するか⇒総合エンジニアリング力に基づくイノベと医療&防災(コンテナパッケージで迅速出前スキーム)…日本が世界をけん引するオポチュニティ。☆シンガポール定点観測、今やGDPで日本の2~3倍稼ぐ豊かさ、最近中国人の流入が増加中、相続税法人税にメリット大。日本企業も進出、勝ち抜けるか?…定期的な寺島先生のReportを図メモに残し蓄積する事で確かな知見を養える!②青藍工房展で「MetaMoji」の U  ご夫妻と談笑、新製品PJTは着々進行中。③東博法然浄土真宗」展、師匠法然(浄土宗)から育った弟子親鸞が開いた新たな世界(浄土真宗)、一大進化を遂げ民衆の物となる。「要はこうなんだ」と一言簡単に話せたらホンモノの知識!④名言:塚本三郎(1927-2020、民社党書記長・幹事長)、「天敵を排除し独裁者の悲劇が始まる」…反主流派、労組、マスコミといった「対峙」する立場が機能不全では与党が堕落!…今、大当たり!⑤名言:上岡龍太郎(1942-2023、タレント)「芸能生活40周年の2000年に完全引退する」宣言を実行、『出処進退』の哲学と実践、自己革新のもと長く活躍する超有名タレントと一線を画すもう一つの生き方。など…。さて本題、図解「Japan」プロジェクト。本日は規定課題(日本を知る105章:3件)と自由課題の計5件。1)『花火』:パッと咲いてポタっと落ちる⇒星が一つ流れ行く儚(はかな)さ、消えゆく過程に見出される美しさという点に「詫び寂び」にも通じる、日本人のメンタリティをくすぐる魅力が腑に落つ。また作図に当たっては、a)日本の常識論 b)作者(草森氏) c)図解者(塾生) 3つの立場での見解の対比でレイアウトする事によるダイナミックな立体化が期待、一方「俳句」「短歌」の引用により「情景」「リアリティ」が演出されることにより深まりが期待され、今後も楽しみな1枚。2) 『箸』(途方担当):文章の冒頭1/3を占める文楽『仮名出本忠臣蔵』のくだりは理解不能の難文!言葉の意味に始まり登場人物の関係、ストーリと背景など大枠を理解する為「補助図」6枚を併せた大物物件と相なりましたが、複雑極まる文楽のストーリに惑わされる事無く論点をシンプル(いやいや、図自体は結構Busy)に表現でき、安堵。 3) 『パチンコ』:作図者のアジとなった「マル」基調の図で「歴史」「産業規模」「世界ギャンブルとの比較」「経営環境」といった関係各因子別の幅広い記述で『まんだら』を形成した1枚。 4) 自由形『ブランド』(当方担当):小山薫童氏が仲間達と一流プロ総動員で本気で仕掛けた「偽ブランド」ドッキリ。製作した記念品が一流デパート経営者の目に留まり、即商品化&店舗展開が決定したという「虚」から生まれた「実」のハナシ。キャッチ‐で短い言葉を配して流れを作れた事、実際のモノや人物の写真を配しリアルな「イイね」感演出、そんな事が出来た1枚。 5) 自由形『鎮守の森』:「マル」基調の図柄で『杜』感を助長。「…とは」のover viewから始まり、歴史~未来展望、防災などの機能面、そして「明治神宮」もこれと同じという大スケールへと昇華する内容、明確なコトバで強調出来たら尚良しか、今後の広がりを期待させる1枚…。以上本日も大変盛り沢山に情報シャワーを共有できたこと、難解な文章との格闘の末紡ぎ出された図の蓄積が、Graphicalに分かり易い「知識ダム」へと成長していくワクワクが感じられた事が本日の収穫となりました。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。
  • 久恒先生、みなさま、本日もありがとうございました。
    今回は、図解「JAPAN」プロジェクトの「日本文化編」4回目。規定科目の『日本を知る105章』から「6_花火」と「7_箸」と「8_パチンコ」、自由科目として「おしゃれ」と「鎮守の森」の5つの図解の発表がありました。規定科目では、前回久恒先生から図解作成者の視点を加えてもいいとの言葉を受けて、ご自身の考えや調べた情報を追加するなど、それぞれ工夫されていたので、原文を読むよりわかりやすいなと思いました。「6_花火」では、図解の作成者の考えや独自の視点で「春夏秋冬」の文字を太字で追加するなど工夫されていたので、著者の花火の解釈の違いがわかりやすかったです。
    「7_箸」では、著者がテーマとした「浄と不浄」の対比が非常にわかりやすく、この浄瑠璃のことを知らなかった方が作った図解とは思えないものだったので、本当に驚きました。実は、著者が取り上げている7段目以外の段を一つひとつ丁寧に読み解いたうえで図解を作成したとのこと。凄い!の一言でした。 「8_パチンコ」では、中央に内容の柱となる単語が集められていたので、そこから繋がっている枠を順に読み解いていくという流れが自然にできました。ほとんどが単語で記載されていたのですが、著者の書いた文章が頭に浮かんでくるような感じがしてわかりやすかったです。自由科目では、お二人の図解の表現方法の違いから、作成者の個性ってこんなに出るものかと、改めて思いました。「おしゃれ」の図解では、中央に大きな太字で伝えたい内容の流れがあって、それぞれの説明等がまわりにつながっている。たくさん情報が詰まっているけれどどこから読み始めればいいかがすぐわかるし、小さい文字でもつながった先にあるものなので自然に興味が湧きました。「鎮守の森」では、丸で囲んだところと囲んでないところを作ることで違いを表現されたり、写真を貼付されたりしていたので、イメージがつかみやすかったです。次回の図解も楽しみにしていますので、引き続きよろしくお願いいたします。
  • 5月の図解塾に参加させていただきました。久恒先生、皆様、本日もありがとうございました。今回のテーマは、「花火」「箸」「パチンコ」、自由課題として「ブランド」と「鎮守の森」でした。私が担当した「花火」では、「はかなさ」「贅沢さ」「楽しさ」「退屈さ」といった花火の楽しみ方を図解で説明しました。「星一つ残して落つる花火かな」という句が、花火の魅力をよく表していると思います。参加されたメンバーからは、花火の「侘び」「寂び」と言った考えも教えてくださり、私の図解の枠の外に追加することで一層深みが増すとのアドバイスを久恒先生からいただき、大変参考になりました。 「箸」では、難解な文章も図解によって理解が深まりました。人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』の話や、箸で浄と不浄を対比する発想は非常に面白く、普段何気なく使っている箸にも日本人の深い精神性が込められていることを学びました。「パチンコ」については、初めは一軒家の軒下で子供の遊びとして始まったものが、17兆円規模の日本最大のレジャー産業に成長したことが興味深かったです。また、パチンコは一見賭博ではないように見えますが、実際には賭博であり、日本だけで発達しているという点も新たな発見でした。図解によりパチンコ業界の全体像が把握できました。自由課題では、「ブランド」と「鎮守の森」についての図解がありました。「ブランドは共感が創りあげるもの」というテーマでは、遊び心から生まれたブランドが本物のブランドになっていくという話が非常に興味深かったです。遊び心が大切であることを実感しました。図解も丁寧でわかりやすかったです。
    「鎮守の森」については、神社の周りにある鎮守の森が俗世間と隔てる役割を持っているという考え方がとても興味深かったです。明治神宮以外にも鎮守の森がある神社を見かけるので、その役割や意味を理解することができました。今回の図解塾も、日本文化について新たな気づきや発見を得ることができました。これからも引き続き探求していきたいと思います。次回の図解塾も楽しみにしております。どうぞよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、みなさま、図解塾ありがとうございました。「日本を知る105章」の続き。規定科目の「花火」「箸」「パチンコ」の3題と自由科目2題。図解も面白く大変楽しみました。「花火」では、花火に対する思いや感じ方が様々で、「はかなさ」「楽しい」「贅沢」などのほか「退屈」というのもあり、人それぞれと思いましたが、「星一つ残して落つる花火かな」という句が一番印象に残り、「日本」の花火を物語っていると感じました。「箸」では、忌串の浄・不浄から始まって「仮名手本忠臣蔵」の七段目「祇園一力茶屋の場」の名場面に繋がっていくところに驚きましたが、それを図解で表現されているところも素晴らしく、また解説も楽しめました。「パチンコ」では、パチンコ業界が住宅・自動車に並ぶような大きな規模の「産業」であることや、「建前は守っているが実質は賭博」というところ、「日本だけで発達している」という不思議もあり、面白く聴きました。自由課題の「ブランドは共感が創りあげるもの」では、遊び心が創造性の源である好事例だと思いました。チャーミングさも遊び心と同じ根っこにあるようにも感じます。 「鎮守の森」は田園の中にそこだけこんもりした森があるという懐かしい景色。トトロのアニメも連想する日本の原風景だと思いました。大事にしていきたい気持ちに共感します。ということで今回とても面白い内容でした。次回の図解塾も一段と楽しみです。
  • 本日もありがとうございました。他の会議があったため途中からの参加となりました。「花火」はディスカッションのところからでしたが、俳句をちりばめたためたいへん日本的なものになりました。海外でも花火がいろいろなイベントに使われているようですが、「はかなさ」と「ぜいたく」という視点で日本人の花火観を表すという発想はまず思いつきません。欲を言えば、一目見てそれぞれの枠の中の文字が多いかな、と感じましたのでなるべく文にしないのがよいのかな、と思いました。「箸」は正直、当たらなくてよかった、という超難解な文章でした。「仮名手本忠臣蔵」を第1章から調べ、積み上げて1枚にまとめられたのは本当にすごい、と思いました。浄と不浄を対立させたとらえ方、きちんとまとめられていました。しかしこの高橋睦郎という方の箸の見方、実際日常使っている箸と全く別世界のことですね。「パチンコ」は自分が担当させていただきましたが、これは2001年当時の文章であり、現在がどうなっているか、また賭博をめぐって日本人の本音と建前についてさらに深めるとよかったかな、と思います。
     「自由課題」では「日本を知る105章」で取り上げられていない日本や日本人の特徴となる事物を探して挙げることにしました。今回は「鎮守の森」。長年何度もお話をうかがい敬愛してきた宮脇先生のお仕事も紹介できてよかったです。今後も自分なりに日本及び日本人を特徴付けるものを探そうと思います。
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橘川さんと新宿の「らんぶる」でミーティング:表紙。シニアネットワーク。恒久舎。応援。、、、

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「名言との対話」5月22日。石橋博良「気象会社から気候会社へ」

石橋 博良(いしばし ひろよし、1947年1月5日 - 2010年5月22日)は、日本の実業家。株式会社ウェザーニューズ創業者。

千葉県生まれ。北九州大学国語学英米学科を卒業後、安宅産業に入社する。仕事の醍醐味あったが、マネーゲームだと感じ、1970年に担当していた船舶が海難事故に会い、「本当に役立つ気象情報があれば、この海難事故を防げたかも知れない」と考え、船乗りの命を守ることに人生をかけようと決心する。民間海洋気象情報会社・オーシャンルーツに入る。1976年、29歳で日本支社の代表取締役。安全と効率の両立という使命感を持って仕事をする。1980年、本社の副社長で1年6か月のアメリカ生活を送る。

気象予報が無くてなならないのは次のような事例を聞くとわかる。仕出し弁当会社には午前一時に翌日の代々木公園の午前5時からの気象の予報を出す。プロ野球の後楽園スタジアムは1時間3-4ミリ以上の降雨の予測で試合中止するからその予報を出す。朝日放送の「ニュースステーション」では、気象庁の言葉以外で伝えようとし、選択指数、傘指数、ビール指数などを発明した。

1986年、本社の赤字部門を1.8億円で買い、365日24時間体制で「あなたの気象台」としてのウェザーニューズ社を創業する。データベースをきちんと整備し、最適な形で情報を提供するためにエキスパートシステムをきちんと構築し、リスクコミュニケータという業界の知識をきちんと持った予報技術者を育成するに没頭することを続けた。

JAL、ANAを顧客としてAIによる航空エキスパートシステムを10年かけて完成する。ディスパッチャーという名前の運航管理者の入社でリスクコミュニケータが1994年にデビューした。気象と経済活動の思わぬ相関関係があることを発見する。冷夏になると目薬が売れるのは子どもたちがプールに行く回数が減るからだ。エルニーニョ現象がアンチョビの不漁を招き、かわりにアメリカ産大豆の需要が増え、結果的に日本の豆腐の値段の高騰を引き起こした。コンビニでは天気や体感温度で商品の売れ行きが変わるから予報が大事になる。リスクコミュニケータは「横浜市港北区の午後6時から午後11時までの総降水量は150ミリ」との情報を提供できる。顧客の言葉に翻訳し情報をグラフィックに変えて提供する。農業はもはや天気まかせではなく、気象データを用いて作物の生育予測が可能であり、また病害虫駆除の処置も可能で1キロ四方の精密さで病害虫の発生予測をしている。

1993年、オーシャンルーツ社の全株式を取得し、「お天気は眠らない」をモットーとした世界最大の気象情報会社となる。以下の様に気象に関するあらゆるデータを集めている。世界各国の気象庁発表のデータ。世界中の空港気象データ。高層観測データ。アメリカ海軍の収集した気象データ。ヨーロッパ中期予報センターの数値予報データ。宇宙からのデータ。日本の気象衛星ひまわりからのデータ。気象庁のデータ。1300か所に設置されたアメダスからのデータ。全国20サイトの気象レーダからのデータ。ウェザーニュー社独自の観測データ、気象庁も持たない雷データ。風向・風速、気温、海水温、気圧、降水量、雲量、雲形、河川水位、海氷、波、台風、ハリケーン、、、。30分前のガイアの体温と脈拍を感じる仕事である。

気象とは「全体」と「部分」の精妙な関連であるから、東京という部分と地球という全体で予報が可能になる。天気を稼業とする人間はボーダーレスの仕事をしているのだ。この気象情報を相手にするビジネスは、まさにビッグデータ時代の寵児であると思う。

石橋は夢を語っている。すでに小学校の学区単位で予報、局地予報が可能になっている。1日10円、1年3650円で、自宅の空の天気予報を出したい。双方向になると全国に人間アメダスがいることになる。アジアの気象情報システムづくりという夢もある。情報民主主義の世界を創り出す。それができたらリタイヤし、北海道でダービー馬を育てる。しかし、志半ばで倒れることになるが、育てた仲間が石橋の志を継いでいる。

2010年、南極観測船「SHIRASE」の第二の船出を宣言したグランドオープンから20日後、石橋は永眠した。余命3か月の宣告だったが、このプロジェクトを遂行することで命の火を燃やし2年6か月を生き抜いた。石橋博良は気象革命の旗手だった。 

今では気象情報は、天気アプリ「ウェザーニュース」は3700万のダウンロードがあり、ゴルフ、洗濯など個人に役立つ情報の地位を獲得している。そして、コンビニ、テーマパークなどあらゆる業界に必要なインフラとなっている。気象情報の提供によって、できる。損失を回避し、売り上げを伸ばすことができるからだ。考えてみれえば、天気に関係していない産業は見当たらない。売り上げが過去最高を記録し続けていることがそれを証明してる。

石橋の後輩たちは、日々の気象情報を扱うだけでなく、数十年を視界に置いた「気候」も見据えている。人類の課題である「気候変動」にも貢献しようとしている。気象革命を先導してきたこの会社のテーマは、「気象会社から気候会社へ」へ進化している。創業者の石橋博良の蒔いた種は順調に育っている。

 

 

東京国立博物館「法然と極楽浄土」展ーー「極楽と地獄」の姿を描いた浄土美術

東京国立博物館法然と極楽浄土」展。

法然の浄土宗からみた、弟子・親鸞浄土真宗を興味を持ってみたが、ほとんど親鸞の名は出てこない。「浄土宗系譜」の中に単なる弟子の一人として「親鸞」と「浄土真宗」の記述があるに過ぎない。親鸞からみた、師・法然の姿とは違ったことに驚いた。

2024年は浄土宗開宗850年。中国唐代に浄土宗を大成した善導(法然と並んで二祖)の「観無量寿経琉」の一節「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に」に出会い、廻心する。そして43歳で立教開宗する。享年78。

南無阿弥陀仏」という6文字をひたすら唱える「専修念仏」(せんじゅねんぶつ)のシンプルさは、既存の宗派から迫害をうけ乍らも多くの信者を獲得していった。

徳川家康と以後の将軍たちは浄土宗を保護している。総本山が京都の「知恩院」、関東の大本山が「増上寺」だ。

平安時代源空の『往生要集』は、極楽と地獄の具体的な姿のまとめの書である。それは絵図にもなって、極楽と地獄の様がみえるようになった。その200年後に法然が開宗した浄土宗が根づく要因となった。それが浄土教美術として発展し、この企画展になったのだ。

岡山に法然上人を本尊とする誕生寺があり、訪問すると1147年法然15歳のときに植えたとのいわれのある老木があった。法然の教えが1000年近く経っても生きていると感じた。

親鸞に関する本もいくつか読んできたし、京都の東西の本願寺築地本願寺などで教えに接している。南無阿弥陀仏を唱えることで身分を問わず誰でも浄土へ行けるとした法然、そして悪人(凡夫)は「正機」、つまり優先的に浄土へ行けるとし師の教えを一歩進めた親鸞、この二人によって、日本の宗教はそれ以前の国家仏教から民衆仏教への一大転換が起こったのだ。

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今日の収穫

  • 200勝を挙げたダルビッシュ「キャリアは関係ない。プロでずっと成長したいという姿勢は崩してはいけない」(2023年のWBC合宿)
  • 林芙美子NHKアーカイブス):46歳時のイアンタビューを聴いた。47歳で死去する前年だ。今はデッサンのようなもの。蚕が糸を吐くように書いている。勉強のつもり。60歳、70歳になったら、いいものを書ける。70から。楽天主義、楽観的、庶民精神。朗らかな笑い。残念なことに林芙美子は、青年期で人生が終わってしまった。

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訃報:与謝野馨さん78歳=元官房長官、元財務相 - 毎日新聞

名言との対話」5月21日。与謝野馨「過去の日本にも往々にしてあったことだが、声の大きい者たちや偉い実力者が出てくると、皆が何も言わなくなってしまいがちだ。とりわけ政治の世界で『本当のこと』が言えなくなったら、世の中は真っ暗になってしまう」

與謝野 馨(よさの かおる、1938年〈昭和13年〉8月22日 - 2017年〈平成29年〉5月21日)は、日本の政治家。享年78。

東京都千代田区出身。与謝野鉄幹・晶子夫妻の次男・秀(外交官)の息子である。東大法学部卒業後、日本原子力発電勤務。中曽根康弘元首相秘書を経て、1976年に自民党公認衆院初当選し、衆院議員を計10期務めた。文相、通産相などを歴任。2004年、自民党政調会長に就き、当時の小泉純一郎首相が目指す郵政民営化の党内取りまとめに当たった。財政再建論議も本格化させ、経済財政担当相、財務相では消費税増税への環境づくりに努めた。

2010年、たちあがれ日本の結成に参画し、自民党から除名された。2011年には菅直人第2次改造内閣の経済財政担当相に起用され、たちあがれ日本を離党。社会保障・税の一体改革を策定した。

一方で、がんとの闘いを強いられ、体験談『全身がん政治家』も出版。2013年、咽頭がんの影響で声帯を切除して引退した。その後は都内の事務所で執筆活動などをしていた。2017年4月30日、自民党に復党した。(産経新聞の訃報より)

 祖父鉄幹は生まれる前に死去し、祖母晶子は4歳の時に亡くなっているから、二人の思い出はない。馨は晶子が注力した学校法人文化学院の院長もつとめた。

民主党政権菅直人内閣の大臣に就任したとき、誰もが驚いた。内閣府特命担当大臣(経済財政政策、男女共同参画少子化対策)に就任し、新設された社会保障と税の一体改革担当大臣も兼務した。長く自民党の重鎮だったため、節操がないとの批判があったが、「政治家は、歴史と勝負している、という気概を持たなければいけない」と考える与謝野は日本を救うために仕事をすると表明していた。

亡くなったとき、ホームぺージを覗いて「随想」を読んでみた。人物論中心だ。佐藤信二と南原晃などの訃報。そしてノーベル賞をもらう前の大村(智)先生とのゴルフも出てくる。ジュリアスシーザーという天才政治家をめぐっては、塩野七生から「ジュリアス・シーザーは2000年に一人しか出て来ない人間。そういう人は何をやっても許されるのよ。与謝野さん達は駄目ですよ」と言われたと書いている。

経歴をみると、囲碁の腕前はアマ七段、パソコンを自作できるほどの知識の持ち主、写真は玄人はだし、天体観測や釣りにも凝っている、という多趣味の人だった。政策について、テレビで穏やかに語りかける人柄はよく覚えている。

与謝野馨に仕えた知人の官僚からは、「尊敬している」と聞いていた。また朝日新聞政治記者だった鮫島浩は『朝日新聞政治部』(講談社)の中で政治権力の監視という記者の矜持をもって、与謝野にも接したと語っているが悪い印象ではなかったようだ。

「日本が戦争に向けて坂道を転げ落ちていった昭和の初期。政治家は皆国民に迎合し、耳障りのいいことばかりを言っていた。今になって見れば、ほとんど皆、歴史の評価には一切耐えられないような政治に加担してしまったのではなかったか」

与謝野馨が言うように、本当のことを言えない、いや本当のことを言わないという状態の組織や集団の未来は暗い。「政治の世界で『本当のこと』が言えなくなったら、世の中は真っ暗になってしまう」。その通りだ。

 

 

 

雑誌『イコール』創刊号が到着ーー「イコール」を巡る動きが活発に。

雑誌『イコール』(橘川幸夫編集長)創刊号が到着。「時代の蔡戦線を個人の視点で語るメディア情報誌」の創刊です。

192ページという厚み。ゼロ号よりはるかにパワーアップされた内容。AIを使った表紙のインパクト。10代が主役の第一特集と70代が主役の第二特集という登場人物の幅の広さ。坂本龍一の墓碑銘に親友の塩崎恭久(元厚労大臣)の投稿。公文俊平情報塾活動中。多様で多彩な不思議な書評群。映画を語る会。糸島の動き。市会議員の今。蜃気楼大学報告。70年代を駆け抜けた風・真崎守。画家の気持ち。短歌とAIのコラボ。能登半島。未来研究所。なんでも未来研究所。ゲームは動詞でできている。30歳の転機。でも暮らし。AIのべりすと文学賞。田原真人研究室始動。連載小説。深呼吸学部のへの誘い。チャランポラン進化説の五條堀孝博士インタビュー。漫画・こどもオモ部。、、。これが「雑誌」だ。

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「イコール」関係の動き。

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「名言との対話」5月20日塚本三郎「天敵を排除したことに気づかなくなったとき、独裁者の悲劇がはじまる」

塚本 三郎(つかもと さぶろう、1927年昭和2年4月20日 - 2020年(令和2年)5月20日)は、日本政治家。享年93。

名古屋出身。1958年の総選挙社会党から出馬し初当選を果たす。その後、社会党を離党し民主社会党結成に参加。衆議院議員(通算10期)、民社党委員長(第5代)、書記長(第5代)などを歴任した。

 1974年2月、民社党書記長に昇格し11年務めた。委員長の佐々木良作社公民路線を推進したのに対し、春日一幸自公民路線を主導した。1985年4月に民社党委員長に就任。1989年2月7日に党委員長を辞任し常任顧問に退いた。1994年12月に民社党が解党した折には新進党には参加しなかった。1996年1月に自民党に入党。

風雲急を告げる1944年、ある宗教家から「勝つにこしたことはないけれど、負けることの方が幸せになることだってある」「正しいことが不幸せになることは決してない。それが仏教の教えです」と諭され、法華経に親しむことを教えられ、信者になった。その後、労働組合の指導者に推され、東京の本部に派遣され、中央大学の夜間部で学ぶ。卒業後、政治をこころざす。政治の世界は、塚本の信仰を実践する場だったのだ。

マスコミで実直そうな顔をみていたが、仏法、とくに日蓮の崇拝者だったことを、塚本三郎『善知識の橋』(読売新聞社)を読んで知った。10代から70数年後に亡くなるまで仏法を学んでいて、その真髄を自分史と絡めて書いた本だ。

サブタイトルに「仏眼でみる権力の興亡」とあるように、戦国時代から始まる日本の歴史、そして参画した現代政治について論じている。その結論は、「仏法の眼で見た権力の歴史の流れは、正に因果応報の繰り返しであったと言い得る」であった。

権力とは権(かり)の力であり、権実(ごんじつ)のはざまに我々は生きている。権力とは、仮の力、借りた力、預かった力であるという指摘が勉強になった。

「天敵を排除したことに気づかなくなったとき、独裁者の悲劇がはじまる」と、ながく野党暮らしをした政治家らしい発言もある。天敵を遠ざけ、批判と忠告に耳を傾けず、追従者の言をとるとき、衰亡がはじまる。

この見方には賛同する。与党に対する野党、政治家に対する官僚、政党執行部に対する反主流派、政治に対するマスコミ、経営者に対する労働組合、そいう天敵がいなくなった時、権力の堕落がはじまるのだ。批判者がいることによって、辛うじて権力は成り立っているのだ。危ういバランスこそが大事なのだ。敵やライバルは導師なのだ。

善知識の橋―仏眼でみる権力の興亡