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2008-02-22

[][]沖島勲ノート(3)−2−1(井川耕一郎)

 『アメリカの夜』、『パッション』、『ことの次第』、『(秘)湯の街 夜のひとで』、『ロケーション』、『女優霊』……。映画の撮影現場を描いた映画は今までに何本もつくられてきた。1999年に公開された沖島勲の『YYK論争 永遠の“誤解”』もそうした映画の一本なのだろうが、しかし、他とは異なる感触がこの映画にはある。

 撮影の続行が難しくなるような危機が訪れてしまうこと――これが撮影現場を描いた映画の多くに当てはまる特徴だろう。だが、『YYK論争 永遠の“誤解”』には、そうした危機があっただろうか。撮影中にまったくトラブルがなかったわけではない。制作主任の古川が万引きをしたり、自衛隊が地中から唐突に出現したり、外波山文明演じる監督が映画評論家を殴ったり、といった事件がたしかに起きてはいる。しかし、これらの事件が現場に与えたダメージは限りなくゼロに近く、撮影は予定どおり三日で終了してしまっているのだ。

 撮影現場を描いた映画に出てくる登場人物たちは、映画の完成を目指して行動する。こうした登場人物たちでドラマをつくるとなれば、撮影の続行が難しくなるような危機が必要となってくるのは当然のことだろう。だが、沖島勲はその当然を『YYK論争 永遠の“誤解”』ではあえて無視しているように思える。だから、撮影があっさり三日で終わってしまうのではないか。

 外波山文明演じる監督にとって、映画の完成は本当に第一の目的なのだろうか。ひょっとしたら、彼はもっと別の目的にとり憑かれているのではないか。そして、映画の撮影はその目的を達成するための手段にすぎないのかもしれない。では、一体、外波山文明は何を目指しているのだろうか。


 『YYK論争 永遠の“誤解”』は、謎が多く、そう簡単には分かったと言うことができない作品である。たとえば、劇中で撮影される映画の出だしで、義経の亡霊(蒲田哲)は同じく亡霊である常磐御前(あさいゆきの)に向かって次のように尋ねる。

義経「ところで、母上……母上は、あれから、どうなされました……私共は、父・義朝が討たれたことを聞き、平家の追っ手を逃れて、雪の山中をさ迷い歩きました。私には、それ以後の記憶がないのです」

 映画の後半で、頼朝の亡霊(黒澤正義)は義経のこの台詞には嘘があると言っている(「雪の中を、平家の追手を逃れて、落ちのびて行った……そのまま、鞍馬の寺に預けられたように言ったが、そうではなかろぅー」)。たしかに、頼朝が言うように、義経は寺に預けられる七才まで、母のそばにいた事実を隠している。だが、それよりも先にこの台詞でひっかかるのは、「私には、それ以後の記憶がないのです」という部分だ。

 義経は母や兄たちと「雪の山中をさ迷い」歩いたと回想しているが、そのときの彼はまだ赤ん坊であった。「それ以後の記憶がない」ことが嘘なのは明らかだが、それ以前の記憶があるというのもやはり嘘のはずである。

 一体、なぜ義経は見えすいた嘘をついたのだろうか。いや、と言うより、なぜ沖島勲義経の台詞をこういうふうに書くしかなかったのだろうか。

 この謎をとくためのヒントは、昨年の『一万年、後‥‥。』の東京上映のときにもたらされた。宇川直宏とのトークショーで沖島勲はおよそこんなことを語っている――『YYK論争 永遠の“誤解”』の発想の出発点には二つの経験があった。一つは、子どもの頃に牛若丸の絵本を読んだこと。そして、もう一つは、三十を過ぎた頃、常磐御前が平清盛の女となっていたという事実を知り、ショックを受けたこと。

 要するに、義経が雪の山中のことをはっきり覚えているかのようにふるまってしまったのは、外波山文明演じる監督が、沖島勲のように、子どもの頃に読んだ牛若丸の絵本のことを忘れずにいたからだろう(沖島が読んだ絵本がどんなものかは知らないが、子ども向けの義経の伝記は、たいてい、雪の山中から始まっている)。

 だとしたら、母が平清盛に犯されたことを知ったあとの展開には、沖島勲のもう一つの経験が反映していると言っていいだろう。「……母上!……その男は、父・義朝を殺した……源氏一族の、憎んでも憎み切れない、敵ですぞ!!」という義経の言葉に、常磐は「だって……こうなった以上、仕方がないじゃない……」とあっけらかんと答えてしまうが、これは沖島が事実を知ったときに感じたショックをわざと誇張して滑稽に表現したものだ。そして、次のような芝居もショックのユーモラスな表現だと言える(注1)。

 義経、刀を取り……二人の方へ向かって駈けて行こうとするが……(途中、二人の場所が一段高くなっていたらしく)けつまずいて、二人の彼方後方までぶっ飛んで行き、セットの壁にぶち当たる。

 だが、そうなると、新たな謎が出てくる。沖島は宇川とのトークショーで、常磐御前が平清盛の女になったことを知ったとき、これは映画になる、と思ったと語っている。ならば、沖島が表現したかったことは、義経が蹴つまづくところまでで充分表現できたということになる。しかし、実際には、義経のつまづきまでは『YYK論争 永遠の“誤解”』の導入部にしかすぎない(映画が始まってまだ十分しかたっていない)。では、一体、その後の展開、残りの九十三分は何なのだろうか。


 撮影二日目の午前中に、外波山文明たちは平清盛(松川信)と常磐御前のベッドシーンを撮り、次に義経の「……私が、鞍馬の山中で思い続けた事は、幼い日に別れた母上様に会いたい、その事だけだったのでございます……それが……事もあろうに……」という嘆きを撮る。

 この義経の言葉に対して、常磐御前はこう答える。「それを言って下さるな……それを言われると、心が苦しゅうなります……私を殺してから、三人の子供を手掛けて下されと、お願い申した心に、偽り等はありませんでした」。これは義経の母である常磐御前の亡霊が語る台詞として素直に聞けるものとなっている。

 だが、その直後に、彼女は急に別人格になったかのように、「グッとくだけた感じで」、平清盛との情事に関してこう言うのである。「それが、あなた……いい年して、凄いテクニシャンで……」「精力絶倫!」「六波羅附近のお屋敷にかくまわれて、それからは、もう、夜毎夜毎……ハッキリ言って、私も、はまりました」。

 そして、常磐の言葉を受けて、清盛もまた悪のりして義経たちに向かってこう言う。「イヤ、俺も、敵の大将の女という事で燃えちゃった訳よ……義朝を討ちとらせて、その首をさらして、その直後だっただけに……その女房が、俺に抱かれているかと思うと、どうしても興奮するじゃない……勝利者になったような気が、するじゃなイ!」。

 ここまでは一日目に撮影した分の変奏と言ってよいものだろう。となると、当然、この後に、激怒した義経がずっこけるという芝居が来ることになる――だが、このときはそうならなかった。万引きをした制作主任の古川を連れて、駄菓子屋の親爺(室田日出男)がやって来たために、撮影が中断してしまうのである。

 結局、撮影に戻ることなく、現場は昼休みに入る。だが、ここからの展開が『YYK論争 永遠の“誤解”』の興味深いところと言うか、簡単には分かったと言えないところなのだ。

 外波山文明演じる監督は弁当を食べるのをやめて、今の自分に与えられた悲惨な製作条件を嘆きだす(注2)。すると、その嘆きはなぜだかカフカの『審判』の一挿話である『掟の門』の話になり、しまいには平清盛役の山村主演で撮りたいと思っていた『山村武の、はめ殺し一代』の話となってしまうのである。そして、さらに、ペルー大使館人質事件のために特殊訓練中の三人の自衛隊員が地中から出現するという珍事件が起きるのだ。

 一体、この奇妙な展開をどう理解すればいいのだろうか。とりあえず、『掟の門』と『山村武の、はめ殺し一代』の二つに限って見ると、そこに共通するものがある。

 『掟の門』の旅人は目の前の門を通りぬけることができない(その門が自分のためだけにあるというのに)。そして、『山村武の、はめ殺し一代』の主人公について、監督の外波山文明はこう説明する。「女に憧れるタイプで、憧れた女とはやれない訳よ、そんな、汚い、セックスなんて事は……」「だけど……自分に惚れて来る女ってのは、これも、出来ない訳……憧れてないから」「だから、はめ殺し一代じゃないんだけどね……それで、ドンドン、ドンドン、精液が溜まって行く訳よ。これが、大変なんだ」。

 どちらの話も、目的をすぐに達成できそうに見えて、それがいつまでもできないでいるもどかしさを描いている。だとしたら、こうは考えられないだろうか。

 撮影一日目に、義経は常磐御前が平清盛の女となったことを知り、彼女を母ではないと否認しようとする(実際、常磐御前は清盛に抱かれた瞬間、急に言葉づかいが変わり、別人になってしまう)。そこで、彼は母ではなくなった常磐御前と清盛を斬ろうと駆けだすのだが、段差につまづき、ずっこけてしまう。

 これと似たようなことは二日目の午前中にも起きるはずだった。ところが、常磐と清盛が義経を怒らせるような言葉を口にしたところで、撮影はふいに中断してしまう。その結果、目の前の母を否認し、本当の母に出会いたいという義経の欲望はずっこけることなく、劇中映画の枠を飛び超えて駆け続け、監督の外波山文明にとり憑いた。要するに、義経の欲望は外波山文明の無意識を経由して、『掟の門』の旅人や『山村武の、はめ殺し一代』の山村へと乗り移ったと言えるのではないだろうか。


 いや、そう解釈すれば、自衛隊員の地中からの出現も少しは理解できるのだ。

  穴の中から、又、ガサゴソと、音がする。

  皆、穴の中を覗く。

  隊員1が、穴を這い上がって来るが、顔を上げた隊員1の目に、常磐の顔が入ってくる。

隊員1「ワッ!!」

  気を失って倒れる。

  続いて隊員2が、這い上がって来る。

  清盛の顔が、目の前にある。

隊員2「ワッ!!」

  気を失って、倒れる。

    ×     ×

  “ハァ、ハァ……”と、荒い息使いで這いつくばっている、隊員1、2。

  スタッフが、水を与える。

隊員2「(水を飲んで)タイム・トンネルを、潜って来たかと思ったよ」

 この場面で重要なのは、隊員2の「タイム・トンネルを、潜って来たかと思ったよ」という台詞だ。おそらく、『山村武の、はめ殺し一代』の主人公に乗り移った義経の欲望は、「ドンドン、ドンドン、精液が溜まって行く」ように強くなって、ついに自衛隊員を撮影現場に引き寄せたにちがいない(注3)。

 だが、自衛隊員たちが地中から出てくるなり見た常磐御前は本物の常磐御前ではなかったし、シナリオと違って映画では、自衛隊員たちは常磐御前と一緒に平清盛までも見てしまったところで、驚いて気を失ってしまう。要するに、義経の欲望はここでまたしてもずっこけてしまったわけである。

 では、本当の母に会いたいという義経の欲望はどうなってしまったのだろう。自衛隊員たちは穴を埋めると、おとなしく撮影現場から去って行った。ということは、義経の欲望も劇中映画の義経のもとに戻っていったのだろうか。

 二日目の午後の撮影は、義経の嘆きを撮るところから始まる。「アア、俺は馬鹿だった……母上と、もう一度再会できる事……そうして、父・義朝の仇を討ち、源氏を再興させ、父の霊を弔う事……その事だけを想って生きて来た……」。

 だが、義経の嘆きの言葉はそれ以上続かず、「それを言うなら、わしとて同じよ……」と頼朝の話にすり替わっていく。するとそこからさらに話の主導権は清盛に移り、義経は清盛から「お前、さっきから、母親がどうのと、ウジウジした事、言いやがって……甘ったれるな!」と罵られる。

 それから脱線はなおも続き、義経は常磐に「でも……九郎も、結構、女の人にもてたんでしょう」と尋ねられ、頼朝からは「こいつは凄かった……ハッキリ言って、色情狂」とまで言われてしまうのである。

 こうなると、義経の欲望を劇中映画の枠内で満足させることはいよいよ難しくなってくる。そこで義経の欲望は怒りに変化して、監督の外波山文明にまたしてもとり憑くことになる。

 まず、義経の怒りは予告編のアイデアという形であらわれ、どうやら映画の準備段階で監督の外波山とプロデューサーを裏切ったらしい滝沢という男をいたぶりだす。

  滝沢、泣き叫びながら、通路に崩おれんとする。

  その際、右足に、プツンと音がする。

  “アッ、靱帯が、切れたッ!!”

  左足に、ポキン!と音がする。

  “アッ、足が折れたッ!!”

  ボロ雑巾のように、通路に崩折れ……コートの中から、(昆虫のように)首だけ出している。

 そして、次に義経の怒りは撮影現場にやって来た宮下という映画評論家に向かい、監督の外波山は彼を殴ってしまう。

 だが、それにしても謎なのは、評論家殴打事件のあと、義経の怒りが外波山文明の体から離れ去ったかのように見えることだ。三日目の朝、外波山は自分の若い頃をふりかえり、バイト先の倉庫で働いていた山守さんや、誘拐するはずだったトリュフォーのことを古川に向かって淡々と語る。一体、これはどういうことなのだろう。この問は、最初の方に書いた「外波山文明演じる監督は何を目指しているのか」という問とも関連してくることである。



注1:以前、試写で見たとき、私は義経があやまって蹴つまづいたために、このカットがNGになるというふうに理解していた。しかし、あらためて見直してみると、外波山文明は義経の芝居に対してNGとは言っていない。ということは、つまり、義経役の役者がセットの壁にぶつかってしまったことは想定外の事態だったかもしれないが、彼が蹴つまづくこと自体はシナリオに書いてあった芝居なのだろう。


注2:外波山文明演じる監督は、予算三百万、撮影日数三日という製作条件を嘆いているが、沖島勲ピンク映画の現状をリアルに描くことを目指していないだろう。大体、倉庫を借りて、セットを建て、時代劇の衣装までそろえるとなると、これは三百万のピンク映画の規模を軽く超えてしまうものではないだろうか。それにまた、撮影二日目の夜に月見をしながらビールを飲む撮影隊の姿には、余裕すら感じられる。ひょっとしたら、この優雅な休憩時間こそ、沖島勲の資質がもっとも色濃く出ている場面かもしれない。


注3:自衛隊員が暗い地中を長い間さまよっていたこと。また、地上に出てきた彼らが撮影スタッフに水を求め、それをうまそうに飲み干したこと。こうした自衛隊員のあり様は、『一万年、後‥‥。』の主人公とどこか響き合うところがある。『YYK論争 永遠の“誤解”』の中の自衛隊員のエピソードは、『一万年、後‥‥。』の原型であると言っていいのではないか。


[][]沖島勲ノート3−2−2(井川耕一郎)

 ここでもう一度、『YYK論争 永遠の“誤解”』の発想の出発点に戻ってみよう。外波山文明=沖島勲とみなすのはあまりに短絡的だが、外波山文明が義経頼朝、清盛、常磐の四人が登場する劇中映画の作者であるという設定になっているのだから、少なくとも発想の出発点にある体験くらいは沖島勲と共有していると考えてもおかしくはないだろう。

 沖島は三十才くらいのときに、常磐が清盛の女になったことを知り、ショックを受けたと語っている。たしかに、こんなことは子ども向けの絵本には書けないことだし(注4)、それにまた、歴史の教科書にわざわざ記すほど重要なことでもない。沖島が源義経に「母上は、あれから、どうなされました……」と言わせた背景には、そうした読書体験があったのだろう。

 だが、「母上は、あれから、どうなされました……」という問が求めているものは、常磐が義朝の死後、どのように生きのびたかということだけなのだろうか。宇川とのトークショーで、沖島は、子どもの頃に読んだ牛若丸の絵本の中で、もっとも強く印象に残っているのは義経と常磐の別れの場面だ、と語っている。その場面は、今、私の手もとにある小学生向けの伝記、今西祐行の『源義経』(講談社火の鳥伝記文庫)では、次のように書かれている。

 牛若が七つになったとき、常磐は、清盛とのやくそくどおり、みやこの北にある鞍馬山のお寺にいかせることにしました。そこには、東光坊といって、義朝ともしたしかったぼうさんがいたからです。

 牛若は、お寺になぞあずけられるのはいやでした。でも、いやだといえば、困るのは母の常磐です。牛若にもそれはわかっていました。

「牛若や、おしょうさまのいいつけをよくまもって、りっぱなおぼうさまになっておくれ。さびしくなったら、このふえをおふき、おまえのお父さんも、とてもふえがおすきだったのだよ」

 常磐はそういって、牛若に小さな横ぶえをわたしてやりました。

「はい……。いってまいります」

 牛若は、なみだをこらえていいました。

 なぜ子どもの沖島はこの場面に強くひきつけられてしまったのだろうか。それはこの場面を最期に常磐が義経の前から消え去ってしまうからではないのか。おそらく、幼い沖島が常磐の絵本からの消失を通して初めて考えてしまったものとは、死なのだ。

 つまり、義経の「母上は、あれから、どうなされました……」という問は二つの問に分けることができるだろう。一つは、常磐は平氏の時代をどのように生きたかということ。もう一つは、常磐がいつどこでどのように死んだのかということ。そして、義経の欲望の中では、一つ目の問よりも二つ目の問の方が、答が簡単には見つからないぶん、重要であった(常磐に関しては生没年不明。どのように死んだのかを知りたいのなら、幽霊となった彼女に尋ねるしかない)。

 だとしたら、三日目の朝の外波山文明の態度も少しは理解できるものになる。義経の欲望は外波山文明のもとから去ってはいないだろう。三日目の朝、外波山文明がトリュフォーのことを思い出すのは、彼が死んでいるからだ。そして、昔、倉庫で一緒に働いていた「山守さんっていう六十前の小父さん」もとうに死んでいるにちがいない。要するに、外波山文明は義経の欲望にうながされて、死者たちを思い出しているのである。

 ということは、外波山文明演じる監督が目指していたものは、死者を回想し、追悼するということだったのだろうか。三日目に撮影された劇中映画の中で、頼朝は「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」という台詞を口にする。これは劇中映画の結論とも言えるような台詞である。だが、この謎めいた台詞の意味するものが死者の追悼だとしたら、これは何とも常識的すぎて拍子抜けしてしまうのだが……。


 外波山文明たちが最終日の三日目に撮影したものは、『YYK論争 永遠の“誤解”』の中でもっとも重要な部分のように見える。だが、その展開には謎も多く、一番分かりづらい部分でもある。

 三日目の撮影は義経頼朝の論争から始まるのだが、まずこの時点で映画を見ている私たちはつまづいてしまう。劇中映画の大まかな展開は、撮影二日目まではスクリーンに映るいくつかのシーンから推測できた。しかし、三日目の義経頼朝の論争はあまりに唐突である。一体、どういう経緯で二人は論争をするようになったのか。私たちは二日目までの展開と三日目の論争との間に断絶を感じてしまう。

 さらにひっかかるのは、義経が「何故、自分の弟を殺したのか?」と頼朝に問うていることである。義経の問そのものは実にまともで、おかしいところはない。たしかに、義経にしてみれば、頼朝が発した追討の命令はぜひともその訳を問いただしたいものだろう。だが、義経の糾弾に頼朝が答え、頼朝の答に義経が反論し……というその後の展開を見ていくうち、私たちの中にふと一つの疑問がわいてくる。そういえば、この劇中映画は義経の「母上は、あれから、どうなされました……」という問いかけで始まったのではないか。一体、あの問いかけはどこに行ってしまったのだろうか。

 するとそのとき、奇妙なことが起きる。頼朝の「嘘を付いているな?」という一言で論争の流れが急に変わり、常磐のことが問題になってくるのである。

頼朝義経……それなら、言うてやろうー……お前は、今回の話の中で、嘘を付いているな?」

義経「(気色ばんで)な、なにが……」

頼朝「雪の中を、平家の追手を逃れて、落ちのびて行った……そのまま、鞍馬の寺に預けられたように言ったが、そうではなかろぅー」

義経「……!」

頼朝「何故、嘘をつく!?」

義経「そ、それは……」

  常磐、清盛の顔も恐怖で歪む。

頼朝「今若、乙若は、スグ寺に預けられたが……乳飲み子であったお前は、常磐の為に清盛公が用意した屋敷に、一緒に住んでいた筈だ」

義経「……!」

頼朝「清盛公は、お前の側で、お前の母を抱いていたのだ」

義経「……!!」

頼朝「その頃の事を、あまりに幼かったから覚えていなかったと言うなら、それも良い……然し、清盛公がお前の母に飽いて、藤原長成にくれてやり、お前が長成の事を実の父だと思い、暮らしていた事まで否定できまい……お前は既に、七歳になっていた」

義経「……」

頼朝「何故、嘘をつく?」

  清盛が止めようとするが、

頼朝「……お前は自分に嘘をついてまで、美しい“物語”を信じようとした……まるで“童話”のような世界を……」

清盛「“童話”!?」

義経「(打ちひしがれ)そ、そこまで……言うか……」

頼朝「そうだ、“童話”だ……そんなもので、この世を生きて行けるか!! 歴史の激動期を、やって行けるか!!……この世は“力”だ!!(と、絶叫する)」

 義経が嘘をついているという頼朝の指摘はたしかに正しい。だが、頼朝の言葉の中には、何かひっかかるものがある。彼は義経に向かって、「お前は自分に嘘をついてまで、美しい“物語”を信じようとした」と言っているが、この言葉に本当に間違いはないのだろうか。

 なるほど、劇中映画の義経は、監督の外波山文明が子どもの頃に読んだであろう絵本から借りてきた登場人物である。「美しい“物語”」、「“童話”のような世界」の住人であると言っていいかもしれない。

 しかし、「美しい“物語”」を信じていたら、「母上は、あれから、どうなされました……」というような問は出てこないのではないだろうか。義経は母に関することで「美しい“物語”」には欠落部分があるのに気づき、信じきることができなくなった。そこで、彼は母の物語を一から再構成するために、雪の山中の後のことは覚えていない、とあえて嘘をついたとは言えないだろうか。

 となると、三日目に撮影された論争においては、義経だけでなく、頼朝のあり方も不可解ということになる。義経の嘘をあばく形で常磐の過去について言及しておきながら、彼の「母上は、あれから、どうなされました……」という問いかけはなぜだか忘れてしまう――一体、頼朝のこの態度は何なのだろうか。

 いや、頼朝義経の問いかけを忘れたのではなく、わざと無視したのかもしれない。前にも書いたように、義経の常磐に対する「あれから、どうなされました……」という問いかけには二つの問が含まれていた(「常磐は平氏の時代をどのように生きたか」という問と、「常磐がいつどこでどのように死んだのか」という問)。ひょっとしたら、頼朝は後者の常磐の死について尋ねる問を必死になって回避しようとしているのではないだろうか。

 思い返してみれば、二日目の午前中の撮影で、常磐が急に別人格になったかのように「それが、あなた……いい年をして、凄いテクニシャンで……」と言いだしたのは、頼朝の「それで、その後はどうなったの?」という問いかけによってだった。

 また、同じ日の午後の撮影では、義経の「アア、俺は馬鹿だった……」で始まる嘆きを、頼朝は途中から自分の嘆きにすり替えているし、清盛が議論に介入するきっかけをつくったのも、「あの、タコ坊主……チョット、清さん!」という頼朝のふざけた呼びかけによってだった。

 劇中映画の中で、頼朝は母の物語を再構成しようとする義経の真剣な試みをからかい、妨害するようなことばかりしてきている。こうした頼朝の態度から透けて見えてくるものは、常磐の死に関する問だけは抑圧しようという意思ではないだろうか。

 だが、一体なぜ頼朝は常磐の死に関する問を抑圧してしまうのだろうか。頼朝がいくら抑圧しても、母の死について知りたいという義経の欲望が消滅することはない。実際、撮影二日目の晩には、義経の欲望は怒りに形を変えて監督の外波山文明にとり憑いている。それにまた、三日目の撮影で、義経が「何故、自分の弟を殺した?」と頼朝を糾弾するのも抑圧に対する反動ではないだろうか。

 ということは、こういうふうには考えられないだろうか。頼朝が常磐の死について知りたいという義経の欲望を抑圧するのは、その欲望が重要であることを示したいからだ、と。ひどく屈折していて理解しづらい態度だが、こういう頼朝のあり方は柄谷行人が次のように論じた小林秀雄のあり方とどこかで響き合っているような気がする。

「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」(「様々なる意匠」)。この有名な文句は、たとえば「夢」を「視霊者の夢」(カント)として読むのでなければ、まったく愚劣である。実際これからどれだけ陳腐な批評文が生産されてきたことか! 小林秀雄から「批評」がはじまったといいうるとすれば、まさに彼が「視霊者の夢」を肯定しながら否定し、あるいは否定することによって肯定するという戦略的言説をとらねばならなかったからである。 (柄谷行人「懐疑的に語られた夢」)

 だとしたら、頼朝の「そうだ、“童話”だ……そんなもので、この世を生きて行けるか!! 歴史の激動期を、やって行けるか!!……この世は“力”だ!!」という台詞についても見直さないといけないだろう。この台詞は頼朝にとって結論などではなく、本当は新たな反論を誘うための仕掛けなのではないのか。そして、実際、頼朝のこの言葉に清盛は反応して、「ちょっと、待ってよ、あんさん……」と異議をとなえるのである。

清盛「その話には、色気が無い……あんさんの言う事は分かるが……その話には、何かが抜けてる」

頼朝「どぅいぅ事だ?」

清盛「ウーン、なんやろなァー、そぅー……」

  と、しきりに首を傾げているが、

  やがて――

清盛「(大声で)そぅや!!」

  と、膝を叩く。

清盛「その話には……“あの世が、抜けてるッ!!”」

 ギョッとする、一同。

 この「あの世が、抜けてるッ!!」という清盛の台詞には、映画を見ている私たちもちょっと驚いてしまう。なるほど、劇中映画の四人の登場人物はあの世の者という設定になっている。しかし、この設定は、彼らが過去をふりかえって語るというフィクションを成立させるための仕掛けでしかない。だから、頼朝が死者であることをまるで忘れてしまったかのように、「そうだ、“童話”だ……そんなもので、この世を生きて行けるか!!」と叫んでも、私たちはさして疑問を感じないでスクリーンを見ていたのである。

 ところが、清盛の「あの世が、抜けてるッ!!」は、この映画はこういう設定で成り立っているのだろうという私たちの思いこみを突き崩してしまう。映画が新たな段階に入ることを予感させるような台詞だと言えるだろう。とはいえ、清盛の言葉には分かったようで分からない部分がある。一体、なぜ「色気が無い」は「あの世が、抜けてるッ!!」に言い替えることができるのだろうか。

 撮影二日目に、清盛は「わしは、快楽主義者じゃー! 現世主義者じゃ!」と言っている。そういう清盛が面白みがないことを「色気が無い」と言ってしまうのは理解できる。しかし、快楽主義者で現世主義者の彼が「あの世が、抜けてるッ!!」という考えに達する道すじがどうにも見えてこない。「色気が無い」と「あの世が、抜けてるッ!!」の間には、飛躍というか断絶があるように思うのだ。

 そして、続く場面もこれまた分かったようで分からないのである。

 部屋の中は、外からの明りだけで照らされている。

 四人が……一方の外れた車座のようになって坐っている。

常磐「あの世って、何?」

清盛「そぅやねぇー……“個人”ってあるじゃない……あれから八百年間、随分盛んになって来た……」

  聞いている一同。

清盛「“個人”が、この世で立派な“個人”になったからって、何が面白いの……“個人”が“個人”である限り……死んだら、何処にも行かれへんよ……」

  聞いている一同。

清盛「しかも、世界は永遠に続く……その“個人”は、二度と出て来られへん」

常磐「じゃー、どうするの?」

清盛「さぁねぇー」

 ここで、清盛はこの世に生きる個人だけを人間とみなす考えに限界があることを指摘している。だが、この考えから導きだされるのは、人間にはあの世が必要ではないかという新たな問でしかない。これでは、常磐の「あの世って、何?」に対する答にはなっていないだろう。「“個人”が“個人”である限り……死んだら、何処にも行かれへんよ……」と言う清盛と、「あの世が、抜けてるッ!!」と言う清盛の間には、やはり、断絶がある。

 一体、なぜ清盛が語る言葉と言葉の間には断絶が生じてしまうのか。シナリオには「四人が……一方の外れた車座のようになって坐っている」というト書きがあるが、沖島はわざと清盛に「一方の外れた車座」のように思わせぶりな語り方をさせているのだろうか。

 いや、そうではないだろう。沖島は本当はあの世のことを真剣に語りたいのだが、自分があの世についてストレートに語るオカルト信者になってしまうことをひどく恐れているのだ。だから、清盛に断絶のあるしゃべり方をさせるしかなかったのではないだろうか。

 だとしたら、次の場面についても慎重に見直す必要があるだろう。

  部屋の中が――急に、暗くなる。

常磐「どぅするの?」

  一人一人のセリフの間が、随分、開く。

頼朝「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」

常磐「あの世って、何?」

頼朝「……この世じゃないもの……この世から、追い出されたもの……」

義経「……神のようなもの……天使なようなもの……」

頼朝「幼いもの……子供っぽいもの、無邪気なもの、幼稚なもの……」

義経「(微かに笑って)童話のようなもの……」

 ここで、沖島は「あの世」をさまざまに言い替えて、分かりやすさを目指しているように見える。だが、これらの言い替えを鵜呑みにしてしまうと、肝心なところが逆に分かりにくくなってしまうのではないか。要するに、柄谷行人ふうに言うのなら、こういうことになる――「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」の「あの世」を文字通り、死者たちがいるあの世として読むのでなければ、まったく愚劣である(注5)。

 頼朝の「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」とは、死者たちとの対話を指しているのではないだろうか。私たちはふとしたときに亡くなった人たちのことを思ってしまう。だが、一体なぜそうしてしまうのか。答は生者である私たちの側から考えるだけでは見えてこないだろう。死者たちはたえず私たちに話しかけている、と考えないかぎり、本当の答にはたどりつけないのではないだろうか。


 外波山文明演じる監督にとって、映画製作とは何だったのだろうか。

 前にも書いたように、外波山の発想の出発点には子どもの頃に読んだ牛若丸の絵本があった。彼はまず子どもの頃に感じたことを義経に託して、「母上は、あれから、どうなされました……」と言わせようと考える。そして、自分たちの中に死者と対話したい欲望があることを認めるところまでドラマが進めばいいと考えて、シナリオを書きだしたにちがいない。

 だが、シナリオを書く前に頭の中にあったものと、書かれたシナリオとが完全に一致することはありえないだろう。外波山の場合にも、やはり、ずれが生じてしまったように見える。

 気になることが二つある。一つ目は、劇中映画の結論とも言える「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」という台詞を義経が言っていないことである。義経に「母上は、あれから、どうなされました……」と言わせていることから見ても、外波山文明は彼を主人公としたドラマを構想していたはずだ。だとしたら、義経に結論を言わせようと考えるのが普通だろう。

 だが、実際に書かれたシナリオはそうはならず、頼朝に「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」と言わせている。一体、これはどういうことなのだろう。

 おそらく、シナリオを書き進めていく中で、外波山文明演じる監督は二つに分裂してしまったのだ――子どもの頃の自分と、大人になった今の自分とに。そして、前者は義経に、後者は頼朝に託されていくようになった。だから、義経を主人公として始まったドラマは、頼朝義経の幼さを批判していくうち、最終的に頼朝を主人公にしたドラマへと変質してしまったのだろう。

 もう一つ気になるのは、清盛が月を見て思わず呟いてしまう「八百年前を、思い出すなァー……」という台詞である。なぜ義経頼朝、清盛、常磐の四人は八百年後の今を選んで集まったのだろうか。

 この問に対する納得できる答は彼ら四人の中からは出てこないだろう。となると、彼らが八百年ぶりに集まるという設定を成立させるには、別の設定が必要になってくる――この世にいる誰かが彼らを降霊術で呼び寄せたというような設定が。だが、その「この世にいる誰か」が誰なのかまでは、外波山文明が書いたであろうシナリオには記されていない。

 主人公が途中で変わったり、必要なはずの登場人物が出てこないといったことは、通常、シナリオの欠陥とみなされるものだ。けれども、外波山はそうは考えなかった。彼はどうやらシナリオの欠陥を何かが起きる徴候と見ていたようなのである。

 たぶん、彼は次のように考えたはずなのだ――主人公が義経から頼朝にすり変わったということは、今のおれにより近い存在になったということだし、義経たちを降霊術で呼び寄せたい人物がいるとしたら、それはおれそっくりでなくてはおかしい。要するに、シナリオに書かれたドラマは、おれに向かって参加しろと呼びかけているのだ。だとしたら、きっと撮影現場で何かが起きるにちがいない……。

 撮影前に外波山がひそかに期待していたことは、役者たちに登場人物が乗り移り、自分に話しかけてくることではなかったろうか。撮影二日目の午前中、頼朝役の役者と義経役の役者は、自分たちの出番を待っている間、こんな会話をしだす。

頼朝「(ちょっと芝居ががって)のぅ、義経……あれから、随分、経ったわのぅー」

義経「(それを受けて)そうよのぅー」

頼朝「もう、二十世紀よのぅー」

義経「それも、もう、終わらんとしている」

頼朝「(ちょっと笑って)そうよのぅー……後、一、二年よのぅー……」

 この会話は外波山の「あんた達、さっきから、何やってるの?」という言葉で中断してしまうのだが、それにしてもなぜ彼は撮影の最中に二人の前にやって来たのか。外波山は撮影現場で何かが起きるのを期待していた。だから、偶然聞こえてきた二人の会話につい引き寄せられてしまったのではないだろうか。

 しかし、二人の役者の会話は、暇つぶしのちょっとしたお遊びでしかなかった。外波山が期待していたような事態は、制作主任の古川の万引き事件によって撮影が中断したあとに訪れる。前にも書いたように、劇中映画の義経が外波山にとり憑き、常磐のことを知りたいという欲望をさまざまに変奏しだすのである。

 ところで、死者と対話したいという欲望に着目して、撮影二日目の昼休みを見直してみると、気になることが二つ出てくる。

 一つ目は、外波山が語る没になった企画『山村武の、はめ殺し一代』のラストである。

  山村、女の上に乗っかる。

  感に堪えないといった表情。

監督の声「男は、溜りに溜まってた精液を、ドンドン、放出しちゃう訳……一トンくらい……」

清盛の声「……一トン!?」

監督の声「そうー……それでもって、死んじゃう訳……」

  ○山村……放出し終えると、ガックリ息絶える。驚く、女。

監督の声「そうして、その一トンの精液を受け入れた女は、ドンドン、膨らんで行っちゃう」

  ○女体(フーセン)が、ドンドン、膨らんで行く。

  バンバンに膨張する、女の体 。

監督の声「だけど、現代医学というのは恐ろしいもんで……女の方は、命だけは、助かっちゃう」

 外波山が語る「女の方は、命だけは、助かっちゃう」というラストは、救いがあるように見えてどこか投げやりである。没企画にふさわしいいいかげんなオチと言っていいだろう。しかし、何かひっかかる。ひょっとしたら、このラストは破裂して死んだ女をよみがえらせるという物語を語ろうとして、途中で語る意欲を失った結果なのではないか。

 二つ目の気になるものは、地中から出現した自衛隊員が撮影現場から去っていく場面である。夕陽を浴びながら、畑の中の道を歩く三人の自衛隊員――彼らはふと足を止めると、外波山たちに向かって手をふり、頭を下げる。

 このとき、遠くに小さく見える三人の姿が、どうしようもなく懐かしく美しく見えてしまうのはなぜなのだろうか。考えられる理由は一つしかない。彼らがこの世のものではないからだ。三人の自衛隊員は地中を掘り進む特殊訓練中に死んでいるのだが、そのことに気づいていないのである。

 ということは、つまり、自衛隊員の出現は、監督の外波山にとって、死者と対話する絶好の機会だったはずだ。しかし、実際には、彼は自衛隊員を前にしてただ突っ立ったっているだけだった。自衛隊員を見送ったあとに、まちがいなく外波山は機会を無駄にしたことを悔やんだだろう。そして、その後悔は午後の撮影を経ていらだちへと変わっていったにちがいない。

 二日目の撮影が終了し、義経のいらだちは外波山に乗り移る。このときにいらだちをさらに煽ったのは、頼朝役の役者と義経役の役者だった。

  私服の義経が、やはり私服で、毛布を肩から掛け、ちょっと哲人風の姿の頼朝と向き合っている。

  背後には、(月に)煌々と照らし出されている、夜空。

義経「お久し振りです、佐藤さん……」

頼朝「(微かに笑い)久し振りだね……こんな所に呼び出して、悪かった……」

義経「いいんですよ……ここは、常磐線の、○○駅から、五・六百メートル歩いた、原っぱです……こんな所に、こんな場所があるとは、驚きだな……知らなかった」

頼朝「(周りを見回し)まるで、パンテノンだ……」

義経「どこだって良いんだよ、どこだってあるんだよ……会って話したければ……」

  義経、頷く。

義経「ところで、どうですか、あちらの世界は?」

頼朝「(淋しく笑って)……別に、どうってこともないよ。まだ、来たばっかりだし……」

 「あんた達、何やってるの?」と尋ねる外波山に、義経役の役者は「これ、今度、うちの劇団で公演する芝居で……稽古していたんですわ」と答える。だがそれにしても、二人の役者が演じていた生者と死者の対話こそ、外波山がもっとも望んでいたことではなかったろうか。

 外波山は偶然見てしまった芝居の一場面に嫉妬したはずだ。そして、彼のいらだちは、まずはプロデューサーに予告編の構想を語るという形で、自分たちを裏切った滝沢に向けられ、次に現場に来ていた映画評論家の宮下に直接向けられることになる。

監督「オイ、宮下……お前、この前、映画は全然勢いを失っていない、好調だ等と書いていたが……どういう事だ?」

  宮下、知らん顔をして、助監督と話を続ける。

監督「(大声で)どういう事だって、聞いてるんだよ!」

宮下「(腰を引いて)何が……」

監督「映画の現状をどう見ようと、そんな事は大した事じゃない……ただ、お前の言い草には、歴史が無いじゃないか……“撮影所の映画は終った”なんて簡単に言うが、じゃ、何で終ったんだ……映画が不況になったから、潰れたんじゃねぇーか……撮影所が閉鎖になり、大騒ぎだったじゃねぇーか……その太い流れが、何時元に戻ったんだ……どんな事件があったんだ?」

 外波山は宮下の現状認識に誤りを感じ取って、怒っているように見える。しかし、「映画の現状をどう見ようと、そんな事は大した事じゃない」と言っていることからも分かるように、宮下の言うことが正しかったとしても、やはり彼は怒っていただろう。

 外波山は、宮下が死んだ映画がよみがえるという事件について何も語っていないことが許せなかったのではないだろうか。彼は最初からずっと死者と対話したいという欲望にこだわり続けてきた。宮下を殴ってしまうのも、そのこだわりとまったく無関係というわけではないだろう。

 ――とここまで見てきて、私たちはやっと「外波山文明演じる監督にとって、映画製作とは何だったのだろうか」という問に答えることができる。

 要するに、こういうことではないだろうか。外波山にとって、映画製作とは死者と対話したいという欲望を増幅させるための回路だった、と。だとしたら、撮影現場で頼朝役の役者に「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」という台詞を言わせても、外波山はもう満足できないだろう。彼が求めているのは、「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」を我が身で実践することなのだから。


 外波山たちは撮影を予定通り三日で終えると、ささやかな打ち上げを行う。そして、早朝、駅に向かう道を外波山は常磐役の女優と二人きりで歩く。

常磐「私、中学生か、高校生なら良かった」

監督「(けげんそうに)どうして?」

常磐「そうしたら……援助交際が、出来るでしょう?」

監督「……??(ショックを受ける)」

常磐「一月に、十万円、決まった収入があったらね……そうしたら、何とか、やって行けるんだけど……」

  監督、返事のしようがない。

 このとき、横を歩く主演女優の姿は、外波山に雪の山中を行く追いつめられた常磐を思い出させたはずだ。そして、駅の改札で女優と別れてまた歩き出した彼の中で、義経の欲望がふいに起動する。

  監督が歩いて来る。

監督「……?」

  (何故か)目の前に、十メートルに位に渡って、人工的に、二十センチ位の雪が積もっている。

  監督……歩きづらい雪の上を歩いて行く。

  足元をとられながら……二歩、三歩と歩いて行く。

  空から声がする。

常磐の声「……九郎……九郎……」

  監督、空を見上げる。

  空の……遙か上の方に……常磐御前が、裾乱して……清さんと、抱き合っている。

監督「……!!」

  監督、ブスッとした表情で、雪の上を歩いて行く。

常磐「(地上へ呼びかけて)九郎……九郎……」

監督「……!」

  監督、微苦笑しながら……雪の上を歩いて行く。

 一体、なぜ雪は道の一部分にだけ人工的に積もったのか。それは、外波山の中で、義経だけでなく、頼朝も目を覚ましたからだ。義経の幼さを批判する頼朝は、雪が積もる範囲を制限する。しかし、外波山は愚かだと分かっていても、雪の上を歩いてしまう――死者と対話したいという欲望に衝き動かされて。

 だが、死者との対話はそう簡単には実現できない。天から聞こえてくる「九郎……九郎……」という声も、清盛に抱かれた常磐の姿も、いずれも常磐を演じた主演女優のものだ。結局、外波山は自分が撮った映画を無意識のうちに反復しているにすぎない。

 要するに、私たちは死者との対話を望んでも、自分が産みだした妄想と出会うだけなのだろうか。いや、死者との対話について真剣に考えたいのなら、もっと別の問い方をした方がいいかもしれない――私たちはどうしたら自分の妄想と本物の死者とを区別することができるのだろうか。

 おそらく、沖島勲ならこう答えるだろう。死者が語る言葉が私たち生者の言葉と同じだと考えるのが、そもそも間違いなのかもしれない。まず、私たちは死者の言葉を学習するところから始めなければいけないのではないか(注6)。

 沖島の最新作『一万年、後‥‥。』の冒頭では、阿藤快の子孫である少年が英語の勉強をしている。一体、なぜ彼はとうに死滅した言語である英語を学習しているのか。このことを理解するには、死者の言葉を学習する必要性を認めなければならないだろう。そういう意味で、『一万年、後‥‥。』は『YYK論争 永遠の“誤解”』の続編であると言うことができる。



注4:たとえば、今西祐行の『源義経』では、「そして、常磐はその日から、おさない牛若をかかえて、自分の夫をころした清盛につかえねばならないことになったのです」と言うふうに曖昧にぼかして書かれている。


注5:頼朝が「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」という結論めいた台詞を言った直後、沖島はセットの裏で助監督にこう呟かせている。「一人の人間が、世界を救おうなんて、思う方が、おかしいじゃないか……それじゃ、世界を見ない事と、同じじゃないか……いいじゃないか、一人の無力な人間で……楽しく生きて行けば、それでいいんじゃないか……それが、未来と継がるんじゃないか」。助監督のこの言葉は劇中映画の議論全体に対して批判的である。だが、こういう批判と並べることによって初めて、「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」という言葉が意味を持つと沖島は考えているようだ。それにしても、カメラがゆっくりと移動しながらセット裏を撮していく中、助監督の台詞がまるで幽霊の口から発せられたかのように響くのがひどく気になる。『YYK論争 永遠の“誤解”』は、「肯定しながら否定し、あるいは否定することによって肯定する」という複雑な話法であの世について語ろうとした映画だと言うことができる。


注6:もし私たちに死者の言葉を聞き取る能力が与えられたとしたら、死者たちの会話は次のように聞こえてくるのではないだろうか。

  もっと、暗くなっている、セット――

清盛「暗く、なったね……」

常磐「見えてますか、私の顔が……」

清盛「少しね……」

  皆の顔が、闇に溶けかかっている。

清盛「懐かしいね……」

頼朝「懐かしいですね……」

義経「物凄く……懐かしい……」

常磐「生きてた、ことがね……」

  ゆっくりと、闇が増し――

  四人の顔が、完全に、闇の中に溶けて行く。

2007-09-14

[]沖島勲の新作『一万年、後....。』

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沖島勲の新作『一万年、後....。』が9/8(土)から9/21(金)までポレポレ東中野にてレイトショー公開されます(連日21時より)。

公式サイトはこちら


[][]沖島勲ノート(3)−1(井川耕一郎)

 沖島勲の仕事全体を見渡したとき、一九九三年に公開された『紅蓮華』(監督・渡辺護)のシナリオはひどく孤立しているように見える。沖島の他の作品には童話的なもの――笑いと残酷さの独特な融合があるが、生真面目にリアリズムを押し通した『紅蓮華』にはそれが感じられない。八百年後の現在に義経たちの幽霊が漂着する『YYK論争 永遠の“誤解”』や、遠い未来の子孫のもとにご先祖様の男が漂着する『一万年、後‥‥。』といった最近の荒唐無稽な作品と並べてみると、本当に『紅蓮華』のシナリオは同一人物が書いたものなのだろうか、という疑問すらわいてくる。

 沖島勲が『紅蓮華』のシナリオに参加するまでの経緯にも少しややこしいところがある。ある女性社長の自伝の映画化を依頼された監督の渡辺護は、沖島勲にシナリオを頼もうとした。しかし、原作の自伝を読んだ沖島は自分はライターとして適任ではないと感じて断ってしまう。そこで渡辺は佐伯俊道にシナリオの執筆を依頼するのだが、第一稿が完成したところでふたたび沖島に会い、シナリオの直しを依頼するのである。

 一体、なぜ沖島は一度は断ったシナリオを引き受けようと思ったのか。それは、佐伯俊道が書いた第一稿の中に、原作をどう料理すればいいのかということに関する重要なヒントがあったからだろう。

 佐伯が書いた『紅蓮華』の第一稿は、主人公・さくらの誕生に始まり、親が決めた相手との結婚、軍人である夫の戦死、未亡人となってからの出産、夫の実家でのつらい労働の日々……といったふうに波瀾に富んだ女の一生を二時間のドラマとしてうまくまとめている。しかし、沖島が注目したのはそうしたうまさではなかった。原作にはほんのわずかな記述しかなかったさくらの再婚相手・健造に関する挿話が大きくふくらんでいたこと――このことが沖島にとっては大きな刺激となったはずだ。

 佐伯が書いた第一稿では、健造に関するドラマはおよそ次のように展開する。

 戦後、さくらは自分の意思で結婚相手を選んで再婚しようとする。さくらにとって重要なのは、相手を愛しているかどうかよりも、自分の意思で相手を決定したかどうかだった。今のひとの目から見れば、どこかゆがんだ考えに見えるかもしれないが、さくらは今まで自分を苦しめてきた古い家のあり方からとにかく逃れたかったのだろう。そんなさくらの結婚の申し出を受け入れたのが、いとこの健造だった。ところが、彼には洋子という恋人がいた。洋子にしてみれば、健造の結婚は許せるものではない。彼女はさくら・健造夫婦の家に強引に上がりこみ、かくして夫・妻・愛人の奇妙な同居生活が始まってしまう。

 自分が女性から必要とされていることに喜びを感じる傾向は、男性一般に見られるものかもしれない。健造もそうだった。彼はさくらの要求を受け入れて結婚し、洋子の要求を受け入れて同居を許してしまう。当然、さくらは洋子を家から追い出すように求める。しかし、健造はこう言って責任逃れをするのである。「結婚の要求以外、きみは条件をつけなかったじゃないか。きみは家を出たいから僕のところに来たのと違うかな。僕が好きで来たわけじゃないんだろう」。何ともずるい言い訳だが、やがて健造は三角関係の中で精神的に疲れていき、最終的には自殺することになる。

 沖島が考えたシナリオの直しの方針はおおまかに言って次の二つに要約できるだろう。

(1)第一稿の前半部分、終戦までの部分をばっさりカットして、さくら(秋吉久美子)・健造(役所広司)・洋子(武田久美子)の三角関係をドラマの中心にすること。

(2)健造が精神的に追いつめられて自殺するしかなくなっていく過程を細かく描きこむこと。

 (2)の方針から見て、沖島が書いた決定稿の中で重要と思われる場面は三つある。

 一つ目は、洋子を健造の弟で知的障害のある勇造と結婚させてはどうか、というさくらの提案を健造が受け入れる場面。佐伯俊道が書いた第一稿では、まずさくらの提案があって、それを健造がしぶしぶ認めるという流れになっているが、沖島の決定稿はちがうものになっている。さくらが、洋子との同居生活で神経がズタズタになってしまった、と訴えると、健造はこう言い返す。


健造「俺は、結婚なんて言うのは、世間に対する、体裁の様な物だと思っている。君も、その体裁が欲しかったから、俺と結婚した様なものじゃないか……今は、個人主義の時代なんだ。その中で、それぞれが、勝手に、好きな生き方をすれば、いいじゃないか」


 さくらにしてみれば、「あなたの言う事なんか、屁理屈よ!」である。しかし、さくらはその屁理屈を逆手にとって提案をする。結婚が単なる体裁にすぎないのなら、「勇造さんと洋子さんと、結婚させたらどうかしら?」。健造は自分が言いだした理屈に追いつめられて、さくらの要求を受け入れるしかなくなってしまう。このあたりの議論の進め方は見事というしかない。

 そして、二つ目は、健造が結婚した洋子から関係を拒まれる場面である。この場面は沖島が新たに書いたもので、健造がいつものように弟夫婦の家にやって来て洋子の体を求めようとすると、洋子にこう言われるのである。「私達、一応、夫婦ですから……何とか、自分達で、やって行こうと思います」「勇造さんが、一生懸命、働いてくれています。……それでも、足りなかったら、私も、何かして働きます。(初めて健造の顔を見て)とにかく、この子が出来たんですから……今迄と違って、何とか、まともに……」「帰って下さい! もう、二度と、来ないで下さい!!」。

 洋子の態度の変更は、彼女が一児の母になったことから来るものだった――と、沖島勲が書いた決定稿をここまで読んできて、ふと気づくことがある。沖島は『紅蓮華』の健造を「母」にとり憑かれた人間としてとらえているのではないか。

 このことをもう少し具体的に言うと、こうなる。健造はさくらの結婚の申し込みを受け入れ、洋子と勇造を結婚させようという彼女の提案も受け入れた。一体、なぜ健造はさくらの無茶な要求をいつも受け入れてしまうのか。それは終戦までのさくらがつらい目にあい続けてきた「母」だったからではないだろうか。また、健造が洋子からの関係の拒絶を最終的に容認してしまったのも、彼女が「母」になったからではないだろうか。

 実際、三つ目の重要な直しは、健造が「母」にとり憑かれているのではないかという仮説を裏付けるものだ。佐伯の第一稿とはちがって、沖島の決定稿では健造の母は病死してしまう。そして、母の葬式のあとに次のようなシーンがくるのである。


  二人、自分たちの車の方へ、歩いて行きながら、

健造「何もかもが終った」

さくら「……」

健造「俺の中で、全てが、終った」

さくら「……」

健造「お袋に死なれてみて、俺が、とんでもない、見果てぬ夢を、心に抱いていた事が分った。……(自嘲して)フッフ……それは、俺が、何代も続いた旧家としての中田家を、復興しよう等と、考えていた事だ……」

さくら「……」

健造「そうして、少年時代の、黄金時代を、取り戻そう等と、考えていたことだ……」

さくら「……」

健造「本気で、そんな事を考えていたのか……タダ、夢の中に、無意識の中に、持っていたものか知らんが……そんな想いが、俺の中に、くすぶり続けていた事は、確かなようだ……」

さくら「……」

健造「(笑って)だけど、安サラリーマンの俺に、そんな大それた事が、出来るハズも無かった……」

さくら「……」

健造「それに、そんな子供っぽい夢を持っている様な奴に……そんな事が、現実に出来るハズが無い……」

さくら「……」

健造「そうして、お袋の死で、全てが終った」

さくら「どうして?」

健造「お袋が死んだら、もう、そんな夢を持つ、理由も根拠も、無くなったからだ……全ては、お袋が生きててこその、夢だったのだから……」

さくら「……」

健造「そうして、俺自身も、全て、終った」

さくら「これから、あなた自身の人生が、始まるんじゃないですか?」

健造「イイヤ、俺自身には、人生なんて、ない」

さくら「……」

健造「……夢の、残りかすが、あるだけだ……」

  二人、車にのりこむ。

  発射する車。


 このシーンの健造のあり方は、沖島勲の他の作品に出てくる息子たちのあり方と響き合うところが大いにある。母さんが幸せになれなかったのは自分のせいなのだ……。健造はそう考えて自分を責める。そして、このあと、精神を病み、数回の自殺未遂のはてに、自分と車にガソリンをかけ、火を放って爆死してしまうのである。

 だが、それにしても気になるのは、健造がさくらに語った自己分析の言葉だ。ここまで明解に自分の無意識を説明できるのなら、「子供っぽい夢」から目がさめて自由になってもよさそうなものだ。なのに、どうして健造は自殺してしまったのか。さくらは健造に「これから、あなた自身の人生が、始まるんじゃないですか?」と言っているが、これは助言としてはきわめて真っ当なもののように思える。だが、なぜ健造はこの助言にうなずくことができなかったのだろうか。

 『性の放浪』の印刷台本の余白に書かれていた台詞を借りてきて言うなら、健造の母は「おらへんことで、消えたというかたちで、今は、あんたの前に存在しとる」ということになるのだろう。健造の意識は中田家の復興を「子供っぽい夢」だと笑うことはできるが、その夢を完全に排除することができない。健造の母の死は「そんな夢を持つ、理由も根拠も無く」してしまうものだったが、それでも「夢の、残りかすが、あるだけだ……」という状態は残ってしまう。そして、「夢の、残りかす」は健造の母の幽霊をこの世に呼び寄せ、「子供っぽい夢」をなぜ実現できなかったのかと健造に問い続けてしまうのである。

 ここまでシナリオを読んできて思うことは、『紅蓮華』は実はあと一歩でリアリズムの外に出てしまう地点まで来ていたということだ。幽霊が登場する『YYK論争 永遠の“誤解”』や『一万年、後‥‥。』との距離は見た目ほどには離れていないのかもしれない。だとしたら、『YYK論争 永遠の“誤解”』の次のような台詞のやりとりも、『紅蓮華』をふまえて読み直すべきだろう。


頼朝「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」

常磐「あの世って、何?」

頼朝「……この世じゃないもの……この世から、追い出されたもの……」

義経「……神のようなもの……天使のようなもの……」

頼朝「幼いもの……子供っぽいもの、無邪気なもの、幼稚なもの……」

義経「(微かに笑って)童話のようなもの……」


 「あの世を、この世に、取り入れて生きる……」とは、本当は人間はそういうふうにしか生きられないという意味ではないだろうか。

2007-09-11

[][]沖島勲ノート(2)−1(井川耕一郎)

 『一万年、後‥‥。』の主人公の男は、一万年後の子孫・正一の家に漂着するまでのことを語っているうちに思わずこう叫んでしまう。


「お袋ーッ! 宇宙の、こんな長い時間、始まりも終りも分らない、そんな時間の中に、たった(指で示して)、これっぽっちの間、この世に生まれて来て、どうして、苦労ばっかりして、死んで行ったんだよーッ。一体、何の意味があったんだよーッ!?(ワンワン泣きながら)一万年経った今でも、俺、気になって……」


 すると、正一の家の壁に母の映像が映って、男に向かって静かに語りかけるのである。


「隆、よくお聞き……お母さんは幸せだったんだよ……お前達、子供のことを心配して……その事が、楽しかったんだよ」


 そして、母の映像はさらにやさしい言葉を男にかけるのだが、「本当ですか、お母さん……」と男がいい年をして泣きながら、ふたたび問いかけると、態度を急変させてしまう。


「心配なものが目の前にあるのに、心配しないでどうするんだィ? (凄い形相で、怒鳴る)ふざけんじゃねえッ!!」


 母さんは幸せだったのだろうか……と問う息子に冷水をあびせるような行動をとる母。こうした母は、『一万年、後‥‥。』だけでなく、『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』、『YYK論争 永遠の“誤解”』といった過去の監督作にも登場する(『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』では、乱交の中で快感を感じている姿を、『YYK論争 永遠の“誤解”』では、平清盛といちゃつく姿を、母は息子に見せる)

 母の苦労について考えるときに自然とにじみ出てくる感情には注意しなければいけない。それは単なる子どもの甘えや感傷にすぎない場合がある。現実に突き刺さるような表現をうみだすためには、甘えや感傷には批判的でなければいけない――沖島勲はそう考えて、自分が監督する作品に登場する息子たちを意識的に突き放しているように見える。しかし、沖島勲の想像力の根底に、母の苦労を語る物語にどうしようもなく惹かれてしまう傾向があるのもたしかなのではないだろうか。

 『まんが日本昔ばなし』のために沖島が書いたシナリオの中には、そういう根底にある傾向が素直に出たものがある。

 山にもどって蛇の姿で暮らさなければならなくなった女が、子どもがひもじくなったら、これをしゃぶらせて下さい、と言って自分の目玉を夫に託す『へび女房』。

 死後に棺桶の中で産んだ子どものために、毎晩、女巡礼の幽霊が飴を買いに行く『飴幽霊』。

 鉄砲で撃たれて足を失ってしまった母ガラスのために、子ガラスたちが食べ物や薬草を必死になって探しだそうとする『ごん兵衛とからす』。

 これらのシナリオには、沖島自身が監督した作品と響き合うところがあるように思える。


 沖島勲にとって、『まんが日本昔ばなし』のメインライターをしていたということはどのような意味を持っているのだろうか。一九七五年から一九九四年までの二十年の間に、約一四〇〇本のシナリオを書いたという事実を前にすると、これはもう脱帽するしかない。

 しかし、考えてみれば、一四〇〇本のシナリオを書いたということは、それ以上の数の民話がどうやらこの世に存在しているらしいということなのだ。この事実の方が恐ろしくはないだろうか。だとしたら、こんなふうに問い直してみた方がいいかもしれない。民話にとって、沖島勲という存在はどのような意味を持っているのか。

 民話は、次の世代に語り伝えてくれる語り部がなくなってしまったら、死んでしまう。だから、次の世代に話を確実に受け継いでもらうには、魅力的な語りの技術が語り部に備わっていることが望ましいだろう。しかし、それはいわゆる「作家性」が求められているというようなことではない。つまり、沖島勲はすぐれた表現者ではあるが、民話にとっては、単なる語り部の一人にすぎないということだ。


熊井「(酒を飲んで)仕事が、面白くないと言ったら、嘘に、なります。仕事が、順調に行っていれば、それは、それで、楽しいものです。(再び、しょげ返って)然し、所詮は、金ですからねー……所詮は、会社が、金を儲ける為ですからねー……それに、気づいたら、愕然とします。そこん所が、空しいです」


 これは沖島が監督した作品『出張』の中で、主人公の熊井がゲリラに向かって言う台詞である。よくあるサラリーマンの愚痴と言ってしまえばそれまでだが、民話から見た自分について考えたとき、沖島勲はこれとよく似た思いにとらわれなかったろうか。


[][]沖島勲ノート(2)−2(井川耕一郎)

 一九八九年に沖島勲が撮った二作目の監督作品『出張』は、落石事故で鉄道が不通になるところから始まる。地方の支社に行くはずだった熊井(石橋蓮司)は、途中の駅で足止めを食うことになるが、これは漂流の始まりでもあった。鉄道が復旧するのを待つため、熊井は山奥の温泉に行く。そして、翌朝、山道を歩いていると、ゲリラに出くわし、彼らのキャンプ地に漂着してしまう。

 『出張』には見る者を微笑ませるところがあるが、それは熊井とゲリラたちの関係から来るものだろう。林の中から若いゲリラに、こっちへ来い、と手招きされて、思わず、俺?と自分を指さし、のこのこ着いていく態度といい、山奥で展開するゲリラと機動隊の銃撃戦を見て、「国家権力の、壊滅?……そりゃー、面白そうだ。ちょっと、見て行こう――」と言うなり、その場に腰をおろしてしまう態度といい、熊井にはまるでアホウドリのように警戒心というものが欠如している。

 それに、ゲリラたちの方も実にのんびりとしたものだ。ゲリラの隊長(原田芳雄)は熊井に、あなたを人質にして身代金の交渉をします、と宣言したすぐあとに、山奥に潜伏する前に毎朝欠かさずに見ていた連続TVドラマの結末を知らないか、と尋ねてくる始末である。また、古参兵のゲリラ(吉沢健)は熊井に、お父さん、と呼びかけて、たき火にあたるようにすすめる。この古参兵と熊井はどちらも痔のせいで座っているのがつらく、たき火に背を向けて尻をあたためるようにして並んで立ち話をするのだが、その姿にはしみじみとしたものが感じられる。

 このとき、「ところで、下界の方は、どうかね。景気、よいかね」と古参兵は熊井に尋ねる。「下界」という言葉がすんなりと出てきてしまうあたりに、ゲリラと熊井がどんな関係にあるのかがよくあらわれていると言ってよいだろう。熊井にとって、ゲリラのキャンプ地は天国であり、ゲリラたちは遠い昔に別れ別れになってしまった友人なのだ。だから、山奥のキャンプ地が熊井をほっとさせる懐かしい場所であってもおかしくはない。

 しかし、だとしたら、どうにも気になってしまうのは、身代金の交渉がまとまったあとに次のようなシーンが来ることだ。


副隊長「熊井さん!」

  熊井、トボトボと、副隊長の方へ行く。

  副隊長、熊井を促して、歩きながら、小声で話す。

副隊長「一応、交渉が成立して、これから、現金を受け取ることになりました。あなたが、人質で居る限り、現金は、無事に、受け取ることが、出来るでしょう。……金を、受け取り次第、あなたは、釈放します。ただ……」

  副隊長は、ますます声をひそめて、熊井を、人気の無い方へ、連れて行く。

副隊長「ただ……今度の交渉の中で、奥さんの方に、どうも、あなたが、何等かの理由で死亡して、保険金を狙っていた様な節が、あるんです」

熊井「(驚いて)女房が?!」

副隊長「これは、あくまで、推測ですが。……私共は、決して、あなたの命を狙うとか、そんな事はしません。……ただ、家へ着かれる迄、どんな形であれ、命を落とされることのない様、くれぐれも、気を付けて下さい。それが、如何に、事故の様な、体裁を、とっていたとしてもです」

 熊井、恐怖に、脅える様な表情。

 副隊長“分りましたね”と、念を押して、行ってしまう。


 副隊長(志賀圭二郎)は熊井に何を言おうとしたのか。熊井の妻から依頼を受けた何者かが熊井を殺そうと狙っているのかもしれない、と言いたかったのだろうか。だが、結局、帰り道では何も起きなかった。ということは、副隊長の注意は無意味だったのだろうか。

 DVDで『出張』をひさしぶりに見直して気になったことがある。熊井はゲリラから解放され、たった一人で家に戻る。そのときの疲れきった姿が、一九九三年に沖島が佐伯俊道のシナリオを改稿して完成させた『紅蓮華』(監督:渡辺護)に登場する役所広司演じる健造の姿とどこかだぶって見えてくるのである。『紅蓮華』の健造は映画の後半で心を病み、何度も自殺しようとするのだが、たとえば、次のようなシーンの健造の姿には『出張』の熊井を思い出させるものがあるように思える。


  夜は、段々、明けて来て、時計の針は、六時半を回っている。

  居ても立っても、いられないさくら。

  その時、玄関の方で物音がする。

さくら「……!!」

  ギクッと、立ち上がり、玄関の方へ、飛んで行く。

  戸が開いて、幽鬼の様な健造が、立っている。

健造「(ボソッと)いい、死に場所が、無かった」

  さくら、健造に取り縋ろうとして、よろける。

健造「少し、寝る」

  健造、二階へ登って行く。


 『出張』の主人公・熊井の中には、本当は自殺への衝動が潜んでいるのではないだろうか。彼は古参兵のゲリラの前でこう言っている。「毎朝、起きると、必ず、思うんですよ。“これでいいのか……”って。……それを、毎日、毎日、何年も、何年も、繰り返している中にうつ病のようになってしまって……」。しかし、これは誰もがついつい口にしてしまうありふれた愚痴にすぎないだろう。熊井の中に自殺衝動があると強く感じられるのは、古参兵に下界の話を求められたときに、当時、現在進行形だったバブル経済について説明し、続けてこう言ってしまうときなのである。


熊井「(薄く、笑って)まァー、あなた方を前にして、こんなことを言うのは、何だか……私は、こんな状況が、このまま続けば、放っといても、何か、考えられない様な、珍けな革命が……革命というのか、騒動というのか、今迄の常識では、考えられない様な、コミックな騒動が起きるんじゃないか、と思っています(笑って)これは、見物ですよ。私は期待しているんです」


 熊井の無意識は、「珍けな革命」や「コミックな騒動」といった言葉によって自殺衝動があることをほのめかしているように見える。それに、「これは、見物ですよ。私は期待しているんです」というときの(笑って)には、ちょっと恐いところがある。

 だとしたら、こうは考えられないだろうか。熊井の妻は、夫の普段の言動から、彼の中に自殺に向かう傾向があることをうっすらと感じ取っていた。そして、ゲリラの副隊長は、交渉中に熊井の妻のちょっとした言葉使いにひっかかりを感じて、彼女が夫から感じ取ったものを読み取ろうとした。こうなると、まるで伝言ゲームだ。熊井、妻、副隊長と伝わっていくうちに、メッセージは「妻は熊井の死を望んでいる」というふうに書き変えられてしまったのである。

 ひょっとしたら、この仮説は突飛なものに見えるかもしれない。しかし、熊井の中に自殺衝動がひそんでいると考えれば、なるほど、そういうことか、と思える箇所があるのも事実なのである。

 映画の前半で、熊井は山奥の温泉宿で晩飯を食べたあと、外に出かける。そして、飲み屋に入り、酔った勢いで店の二人の女(たかちゃんとみっちゃん)とセックスしてしまう。この挿話について沖島はDVDに収録された福間健二との対談の中でおよそこんなことを言っている。ゲリラとの遭遇という白昼夢のような出来事に観客を巻きこんでいくためには、その前に踏み台となるような挿話が必要だった。それが、なぜか二人の女性と寝てしまったという挿話なのだ、と。

 これは熊井寄りの立場に立ったドラマの理解の仕方としては分かりやすいものだ。では、逆に飲み屋の女たち寄りの立場から見たドラマはどうなるのか。これに関連して、封切りで見たときから、あれは何だったのだろう、とずっと気になっていたことがある。それは女たちの目――店内でみっちゃんのお尻を撫でながら踊っている熊井を見つめるときのたかちゃん(亜湖)の目であり、熊井とたかちゃんのセックスを部屋のすみで膝をかかえて見つめているときのみっちゃん(松井千佳)の目である。二人の女たちが熊井を見るときの妙に冷めた目は何を意味するのか。

 このことは熊井に自殺衝動があると考えれば、そういうことだったのか、と了解できるものだ。つまり、たかちゃんとみっちゃんはこう考えたにちがいないのである――この男はもうじき死ぬ。それで最期にはめをはずしたがっているのだ。だったら、寝ても大丈夫だろう。じきに死ぬ男なのだから、あとでしつこくつきまとったりはしない……。

 ゲリラの副隊長の注意は的はずれなものだったかもしれないが、その注意があったために、熊井は事故死とも自殺ともつかない死を回避して帰還することができた。二人の女たちの予測ははずれてしまったわけである。とは言え、無事に帰還できたことは、熊井にとってかならずしもうれしいことだったわけではない。ゲリラに身代金を払うために借りた一千万円をこれからせっせと返済しなくてはいけないし、妻の玲子(松尾嘉代)は会社の部長とできているようにも見える。本当のことを言ってしまえば、熊井は死んでしまった方が楽なのである。

 映画のラストで、熊井はまたしても出張を命じられる。走る列車の窓から外を見ると、ゲリラたちが戦っている山で爆発が起きている。「オーイ! 頑張れよーッ!!」と熊井は窓から身を乗り出して叫ぶ。彼は自分が何とか死なずに生きていることをゲリラに伝えたいのだ。だが、山は遠くにあって、熊井の声など届くはずもないのである。


[][]沖島勲ノート(2)−3(井川耕一郎)

 一九九六年に沖島勲が監督した第三作目の作品は、まずタイトルでひとを惹きつける。『したくて、したくて、たまらない、女。』――だが、このタイトルはピンク映画に本当にふさわしいものなのかどうか。たとえば、『女課長の生下着 あなたを絞りたい』というタイトルなら、これはまちがいなくピンク映画だ。前半の「女課長の生下着」が猥褻なイメージを必死になって喚起しようとしている一方で、後半の「あなたを絞りたい」は何のことだかさっぱり分からないが、猥褻な雰囲気だけはただよわせている。この具体性と曖昧さの奇妙な組み合わせがピンク映画のタイトルに必要なものなのだろう。だとしたら、『したくて、したくて、たまらない、女。』はまったくピンク映画らしくない。曖昧さがまるでなく、笑ってしまうくらい具体性に向かってまっしぐらだ。

 映画は、仕事を終えた二人の仲居が露天風呂に入るところから始まる。このとき、仲居たちはひっそりと湯につかっている謎の女(城野みさ)を目撃するのだが、観客はすぐにこの女が「したくて、したくて、たまらない、女。」だと直感するだろう。実際、ドラマはその直感のとおりに進行し、最後には女の正体が明かされる。女は杉田ひかるという元女優だった。いや、正確には、杉田ひかるの生霊といった方がよいだろうか。杉田ひかる自身は老人ホームに入所している寝たきりの老女だった。ベッドの上の彼女は、フリーライターの斎藤(黒沢清)と温泉宿の息子・洋一(倉田昇一)に背を向けたまま、こう語る。


老女「特に、俳優の安田健治とは、深い仲で……二人でよく、ここの温泉にお忍びで来たのです……でも、安田も私も、役者にありがちなことですが、恋の駈け引きや、人気の奪い合いに夢中で……、要するに、虚栄心ばっかりで……本当に男と女として、素直な付き合いが出来た時期はなかったのです……」

  淋しく笑う、老女。

  (旅館で、浴衣姿の若いひかると健治が、言い争うカットがインサートされる)

老女「その事が、心残りで……」

  息を潜めて、立っている二人。

老女「私は、結局、一杯……沢山の男と付き合って来ましたが、……一度も肉体的な満足を得たことは、ないのです……」


 彼女はそこまで話すと、息をひきとってしまう。要するに、死が目の前に迫ってきていると感じたから、彼女は「したくて、したくて、たまらない、女。」になったのだ。この点で、彼女のあり方は、『出張』の飲み屋の二人の女の目から見た熊井のあり方とよく似ている。

 『したくて、したくて、たまらない、女。』はタイトルどおりの内容で、見終えたあとに謎が残らないような分かりやすい構成になっている。しかし、DVDであらためて見直してみると、ひっかかる点が出てきた。それはセックスシーンに関することだ。


 1回目:仲居のミキと夫の昌三

 2回目:洋一と恋人の房子(室内)

 3回目:洋一と房子(外)

 4回目:杉田ひかるの生霊と温泉宿の番頭・喜六

 5回目:杉田ひかるの生霊と昌三

 6回目:洋一と房子(室内)


 上映時間一時間の間に六回のからみというのは、ピンク映画としてはごく普通のものだろう。しかし、六回の配分が、房子(葉月蛍)が三回、杉田ひかるの生霊(城野みさ)が二回、ミキ(小川美那子)が一回というのはどうなのか。『したくて、したくて、たまらない、女。』というタイトルの映画ならば、城野みさのからみは三回あるべきではないのか。(ちなみに、エクセスというピンク映画の配給会社では、からみの回数と配分がはっきり決まっていたように記憶している。主演女優が三回で、助演の二人の女優については、それぞれ二回と一回。合計六回であった)

 もちろん、からみにおいて重要なのは、回数ではなく内容であるという考えもあるだろう。たしかに、城野みさ演じる生霊と室田日出男演じる喜六のからみは強く印象に残るものだ。


  喜六がチビチビと酒を飲んでいる。

  布団の中から、

「ねえー……見たい?」

喜六「(又、目の色が変って)そりゃー、もうー……」

  女、布団の中で全裸になり、体の秘処をあちこちと喜六に見せる。

「ねえー……元気になった?」

喜六「そりゃ、もうー……ここまで見せて戴いて、元気にならん男なんて、おまへんがな!」

「アラ、喜六さん、大阪弁になったの?」

喜六「へえ、わて、若い頃、大阪におりましてん!……」

  喜六、女に乗しかかる。

喜六「気持ええです。気持ええです……ありがとうございます。ありがとうございます……」

  女も、よがりまくり、悶えまくって……やがて、気を失って行く。


 喜六の「そりゃー、もうー」のくりかえしにはどこか民話を思わせるのどかなところがあるし、女の「アラ、喜六さん、大阪弁になったの?」は何度見てもおかしい。沖島勲はユーモラスでエロティックなからみを撮っていると思う。

 しかしそれにしても、城野みさのからみが四回目と五回目というのは遅すぎはしないだろうか。映画の前半、城野みさはただ露天風呂に入っているだけで何もしない。結果として、彼女のかわりにがんばってしまうのが、ミキ役の小川美那子なのだ。なかなかセックスする気にならない夫の昌三に乳房を押しつけて吸わせ、しまいには夫のうえにまたがって悶えるミキの姿を見ていると、彼女こそ「したくて、したくて、たまらない、女。」ではないか、というふうにすら思えてくる。

 いや、ひょっとしたら、この考えはもっと推し進めてもいいのかもしれない。城野みさが最初に画面に登場した瞬間、彼女こそ「したくて、したくて、たまらない、女。」だと直感したことは、本当に正しかったのだろうか。世の中には、名前の最後に「娘。」と書くアイドルグループがあるくらいなのだ。『したくて、したくて、たまらない、女。』の「女。」が単数ではなく、複数である可能性は十分にある。

 もう一度、杉田ひかるの生霊の行動について考え直してみよう。なぜ彼女はセックスをする相手に、番頭の喜六とミキの夫の昌三を選んだのか。それにまた、なぜ彼女は温泉宿の一人息子・洋一とはセックスをしないのに、彼が房子とセックスするのを見て、「イヤ……イヤ……」と口走ってしまうのか。杉田ひかるは女優だった。ならば、彼女が誰かの無意識を読み取って、それをもとに役をつくって演じたとしても別におかしくはない。

 たぶん、杉田ひかるの生霊が読み取った無意識の持ち主は、温泉宿の女将(志水希梨子)にちがいない。ひさしぶりに東京から戻ってきた洋一が房子に会いにいった晩に、露天風呂で生霊は女将の無意識を読み取ったのだ。


  例の女が、ちょっと上気した面持ちで湯につかっている。切なげな表情で、何度もタオルを使う。

  見ると、……目の前に、女将が、やはり湯につかっている。

  女将、ムシャクシャした表情で呟く。

女将「全く……洋一ったら……帰って来た日くらい、家で、ジッとしていればいいのに……ッたく。……」

  女が、ザバッと湯から立ち上がる。

  チラッと目をやる女将。

  何か、決意した様な表情で、女が脱衣場の方へ行く。

  (※インサート――洋一と房子が交わる場面がインサートされる)

  女、脱衣場に行く。


 映画の後半に唐突に登場するフリーライターの斎藤は、城野みさ演じる謎の女の正体をあばいた。だが、その結果、登場人物は皆、いや、観客までもが、「したくて、したくて、たまらない、女。」は杉田ひかる一人だけだと思いこんでしまったのである。本当は、夫に先立たれ、たった一人で息子を育ててきた温泉宿の女将も「したくて、したくて、たまらない、女。」であったのに。

 洋一が自分の母が「したくて、したくて、たまらない、女。」だったと気づくのはいつになるのだろうか。おそらく、母が亡くなったあとだろう。そして、そのとき、洋一は沖島勲の他の作品に出てくる息子たちと同じように、母さんは幸せだったのだろうか……と問にとらわれてしまうにちがいないのである。

2007-09-10

[][]沖島勲ノート(1)−1(井川耕一郎)

 沖島勲足立正生と共同で書いた『性犯罪』(監督・若松孝二)のシナリオには、読んでいてどうにもひっかかる部分がある。主人公の伊丹(吉沢健)が海辺で子づれの女に声をかけるあたりからの一連の場面がそうだ。


  伊丹、夫人と話しながら、足元の砂をつまんでは投げ捨てているが、やがてギョッとした表情。

  砂の中から、時計の目盛盤のようなものが付いた変てこな機械が出て来る。

  どうやら、素人が作った時限爆弾らしい。


 伊丹は爆弾を砂の中に埋めもどすとその場を離れるのだが、結局、「シュルシュルと白煙が立ち上」っただけで爆発は起こらない。すると、伊丹はまた女のところに戻り、彼女を誘惑し、次のシーンの冒頭ではこういうことになる。


  伊丹が自転車に身をもたせかけて夫人を待っている。

  ハンドルのところにぶら下げた今日の時限爆弾をもてあそびながら……。


 そしてそれきり爆弾はドラマとのつながりを失ってしまうのである。ラストで唐突に爆発し、伊丹と彼が書きあげたばかりの小説を吹き飛ばすまでは。

 一体、この爆弾は何なのか。誰がどんな目的でつくったのかというような詮索はまったくなされない。どう考えてみても場違いなのに、こんなところに落ちていても別に不自然ではないでしょう、と言わんばかりの奇妙なあり方だ。ついつい替え歌で「名も知らぬ遠き島より流れ寄る爆弾一つ……」と歌ってしまいたくなるような気分である。つまり、『性犯罪』の爆弾はテロの道具というより、漂着物に近い。わたしを拾って……と無言のうちに呼びかけてくる貝殻や流木の仲間だと考えた方がすっきりするのではないか。

 『性犯罪』と同じ一九六八年に沖島勲がシナリオを書いた『性の放浪』(監督・若松孝二、共同脚本・足立正生)は、主人公の昌三(山谷初男)が気がつくと見知らぬ田舎の駅にいるところからドラマが始まる。昌三は東京に帰ろうとするのだが、途中で金を奪われたり、女に拾われては捨てられたり……といったさんざんな目にくりかえし会いつづけてしまう。そしてとうとうこんなふうにぼやくことになる。


昌三のN「……俺は、東京へ帰っているのか、逃げてるのか……俺は、こうせざるを得ないのか……それとも、好んで、こんなふうにしてるのか……一体どっちなんだ……? ……ああ、この先、何時東京へ着くんだろう……」


 昌三は海原をただよう椰子の実と変わらない存在となって、やっと上野駅に漂着する。すると、駅には映画の撮影隊がいて、昌三の妻がカメラの前で夫を探す演技をしている。一体、このラストシーンのおかしさをどう説明したらよいのか。『性の放浪』という映画が今村昌平の『人間蒸発』のパロディとして企画されたことをあらためて指摘すれば、それで充分なのだろうか。

 いや、そうではないだろう。昌三の妻が夫を探す演技をしているとき、一番起きてはならないのは、そこにひょっこり昌三が現れてしまうことなのだ。ラストシーンのおかしさは、昌三の場違いな漂着によって監督の演出意図があっさり無効になってしまった点にある。実際、沖島はそのおかしさを強調するように印刷台本の余白に手書きで監督の台詞を次のように書き足している。


「種田さん、もうちょっと疲労感が欲しいなあ。もう、何か月もいなくなって、探したんだから、それに、もう少し内面的な芝居が欲しいなあ、ね、御主人は、消えちまったんやからね、え? 御主人てのもこの世に、おらへんわけや、ね! 勿論、理由はあらへん。理由なんてもんから脱出したかったんや。あんたの主人やから、あんたの前から消えたってことは、この世からおらへんのと一緒や。あんたが、この世、世界なんやから。ね! いうたら、おらへんことで、消えたという形で、今はあんたの前に存在しとるわけや」


 それにしても、「おらへんことで、消えたという形で、今はあんたの前に存在しとるわけや」という台詞はちょっと気になる。これはまるで幽霊の本質について論じている言葉のように見えるのだが……。

 しかし、ここで脱線するのはよして、先に進むとしよう。


[][]沖島勲ノート(1)−2(井川耕一郎)

 一九六九年、沖島勲は『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』を撮って監督デビューする。結婚式の打ち合わせのために山奥の別荘に集まった人たちが最後に乱交してしまうというこの傑作コメディにも、漂着物のような人物が登場する。新郎の母・きくがそうだ。映画の前半で、彼女は満州からの引き揚げのこと――ロシア兵を恐れながら、妹と交互に幼い息子を背負って極寒の満州をひたすら歩き続けたことを語る。しかし、これだけではきくはただの漂着物でしかなく、場違いな感じはない。彼女の場違いぶりがあらわになるのはもっとあとのことだ。

 映画の後半で、新郎の顕一(矢島宏)と新婦の父・厳(津崎公平)は、戦争で夫をなくしたきくの性的欲望について論争を始める。その論争はなぜだか顕一の叔母・美津子(江島裕子)と新婦の母・昌子(香取環)のとっくみあいのケンカへと脱線していくのだが、登場人物たちだけでなく観客までもがきくの存在を半ば忘れかけていたとき、ふいにきくが、ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね……と童謡「ぞうさん」を歌いだすのだ(しかも、聞く者を呆然とさせるほど、たどたどしく)。そして、歌い終えたあとにこう尋ねるのである。


  奇妙な童謡を歌っていたきく、突如皆の方へ向き直り、

きく「先ほどの、私の問題はどうなったんでしょうか?」

全員「(愕然として)えっ!」

きく「ずい分、あいまいで終ったけど……、私の、欲望……いえ、春情についての話は、どういう風に結論が出たのでしょうか」

全員「?!……」

きく「私は、この結論がはっきりされるまで、どうして良いのか分らない……戦後二十数年間……私の生き方は間違っていたのでしょうか」


 きくを演じた女優は須磨ひとみというらしいのだが、どういう経歴の人なのかまるで知らない。ただ、この場面での彼女の演技は見た人の記憶の中にいつまでも強く残るだろう。津崎公平や香取環といったベテランの役者たちを圧倒してしまうくらいの存在感を放っているのが、もう笑うしかないほど素晴らしい。

 だがそれにしても、このあと、乱交に至るまでの間に一体何が起きたというのだろう。その出来事の面白さを的確に指摘するのはとてもむずかしい作業のように思える。というのも、分析すべき回想があり、分析があり、その分析結果を裏づける新たな事実の提出があり……といったふうに真っ当な手順で議論が進んでいくように見えて、全体としては大きくゆがんだドラマ展開となっているからだ。

 乱交までの展開を要約すると、こんなふうになる。まず、厳たちが議論の結論はどうなったのかというきくの問に答えられないでいるなか、ふいに新郎の叔父(きくの兄)・吾郎(松浦康)が童謡「ぞうさん」のことを問題にしだす。「君たち、あの歌、どこかで聞いたことがあるかね? 今までに……」。昌子や美津子が、聞いたこともない歌だ、と答えると、吾郎は、ずいぶん前にたった一度だけ聞いたことがある、と言う。それは幼いきくが八幡様のこま犬にまたがって遠い目をして「陶然とした……うっとりと、自分に酔っているような……」感じで歌っていた歌だった、と。

 すると、巌が「君の妹さんは……その時、性の快楽を味わっていたわけだ……」と断言し、きくは未亡人となってからはオナニーによって性欲を処理していたのだろう、と推理する。当然のように顕一は母を侮辱されたと感じて怒るが、そのとき、新婦の笙子が急に口を開くのである。「不思議と言えば不思議ね……私が、自分の部屋にとじ込もって……着ているものを全部脱ぎ、裸になってピアノを弾く時、必ず弾くのがこの曲なの……象さんなのよ……」。そして、笙子はきくのもとに走り寄り、着物を剥ぐと、厳に呼びかける。「パパ! 早くっ! 早くやっちゃいなさいよ!」

 きくの問いかけに答えられずに脱線していった議論が、いつまにかきくの問いかけに答えているという展開もおかしいが、何と言っても気になるのは脱線した議論の中で話題になる童謡「ぞうさん」だ。

 まどみちお作詞・団伊玖磨作曲の「ぞうさん」がつくられたのは一九五三年のことだし、映画が製作された一九六九年の時点で「ぞうさん」は有名な童謡だった。そういう点から見れば、『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』は現実からかなりずれたところで成立してしまっている。しかし、不思議なのはそうしたずれがどうでもいい小さな傷にしか見えないということだ。

 『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』のすごさは、童謡「ぞうさん」を今まで聞いたことのない歌、知らない歌として扱うところからもう一歩ふみこんで、思いもよらない別の定義をしてしまったことにある。はっきり言って、以下に引用する部分はひょっとしたらシナリオから削除した方が話の流れとしてはすっきりするかもしれない。にもかかわらず、厳は「ぞうさん」について次のように定義してしまうのだ。


「君がこの歌を二度と聞いたことがないのも、そして我々が、今夜ここで聞くまで全く一度も耳にしたことがなかったというのも……それはこの歌が、こんな歌は、実はこの世に有りはしないからだ」

  一同、茫然とたたずんでいる。

「(煙草を一服し、落ち着いた態度で)きくさんがこの歌を歌う時は、もう、自分の他には誰もいないまあ、しいていえば、神様とだけ向い合ってる、そんな瞬間なんだよ……」


 神様と向き合っているときにだけ出てくるこの世に存在しない歌――こうなると、これはもう、宗教的な恍惚の中で信者の口から未知の国の言葉があふれ出るという異言のようなものではないだろうか。なるほど、まどみちおの歌、たとえば、「やぎさんゆうびん」や「ふしぎなポケット」には際限のない反復へと人を誘う力がある。「ぞうさん」もそうだ。「ぞうさん」を歌う者は、象の鼻が長い理由を子象だけでなく、さらに母象、母象の母、母象の母の母……というふうに無限にさかのぼって尋ねてみたくなってしまうだろう。そんな無限への誘いを異言と結びつけて理解したとしても、別におかしくはない。奇妙なことに、厳は童謡「ぞうさん」の成り立ちについては無知ではあるが、その本質だけはきちんとつかんでしまっていると言える。

 しかし、「ぞうさん」はきくにとって異言のようなものであるという定義は、そのあとすぐに厳自身によってねじ曲げられてしまうのである。未亡人のきくは男を作って浮気をするというようなことはなかっただろうが、オナニーはしていたはずだ。つまり、「ぞうさん」は、きくがオナニーするときに歌う歌である、というふうに。そして、笙子も自分の体験を語って父の断定に賛同してしまう。一体、「ぞうさん」をめぐる評価がこうも大きくゆれ動いてしまうのは何なのか。

 たしかに、吾郎が語る言葉のとおりだとすれば、こま犬にまたがって「ぞうさん」を歌う幼いきくは性的快感を感じていたのかもしれない。しかし、彼女が感じていたものは本当にそれだけだったのだろうか。というのも、吾郎は幼いきくが「ぞうさん」を歌ったときの状況について次のように回想しているのである。


吾郎「(昔の情景を思い浮かべながら)そうだ……俺が未だ小学生だったから、(きくを指し)こいつが未だ、学校へ行くや行かずの頃だったろう……引っ越してきたばかりの土地だったから、友達もあまり出来なかった……俺たち兄妹は、二人で良く遊んでいたもんだ……あの時は、八幡様の境内で……俺が何時もこま犬にまたがって、ハイシハイシとやっているのを、うらやましく思ってたんだろう。こいつが自分も乗るといい出した……」


 引っ越してきたばかりの土地――つまり、このとき、すでにきくは一個の漂着物だったのだ。ならば、こうは考えられないだろうか。きくは漂着したばかりの土地になじむことがなかなかできなかった。だから、こま犬の上で「ぞうさん」を歌って、今こことは異なる次元に向かった。そして、その異次元にいること自体がきくにとっては大きな歓びだった、と。

 だとしたら、満州から引き揚げてきたきくにとって、「ぞうさん」を歌うということはどういうことだったのだろう。たとえば、息子の顕一は引き揚げてきたばかりのことをラスト近くでこう回想している。


顕一満州から引き揚げて、長岡の田舎にたどりついた時、空には、黄色い月が登っていた……僕達は、橋の上から、何故か立ちどまってそれを見たんだ……それから僕は、魚を売って歩いたし、新聞配達もした……苦しい生活だったが何か、空が本当に天まで突き抜けていたのはどういう訳だろう……地べたにしがみついて生きながらも、空が突き抜けていることは、何という幸福なこと……」


 ここで語られているのは、何とか生き延びて今ここにいるということの素直な歓びだ。しかし、「ぞうさん」を歌うときの母親は、息子が感じているような歓びには背を向けているように思える。彼女は今ここではない異次元を夢想して強い快感を感じている。はっきり言ってしまえば、その夢想の根底に流れる感情とは「死ねば、楽だ」ということではないだろうか。もっとも、きくは「先ほどの、私の問題はどうなったんでしょう」と他人に真顔で尋ねてしまうくらいだから、自分のことがよく分かっていない。しかし、彼女の無意識はそうなっているのではないだろうか。

 そう言えば、美津子と昌子がとっくみあいのケンカをしているときに、画面外からふいに聞こえてくるきくの「ぞうさん」には、エコーがかかっていた。きくが立っていたところは美津子や昌子たちからほんの二、三メートルしか離れていなかったのに、その歌声は無限に遠くから響いてきたのだ。つまり、登場人物たちはあの世からの歌声にふりむいてしまったのである。

 そして、ふりむいてしまったことに内心もっとも動揺してしまったのは、厳だったのではないだろうか。厳は自分が眠っている間に何か決定的なことが起きてしまうのではないかという強迫観念にとらわれていた。そのくせ、彼の肉体は泥酔し、ひどく眠りたがっていた。肉体の欲求にさからって目覚め続けようとする厳にとって、あの世から響く「ぞうさん」ほど恐いものはない。だから、彼は強引に「ぞうさん」はオナニーの歌であると断定したのだろう。乱交に至るまでの展開がゆがんだものになってしまったのは、死にだけはかかわらないでおこうという厳たちの必死の抵抗のあわられだったということができる。

 しかし、厳たちはあの世を完全に遠ざけることができたのだろうか。ラストでくりひろげられる乱交には、はめをはずしてセックスにのめりこもうというような活気は感じられない。恐ろしく静謐な光景で、どこか死臭がただようものとなっているように思う。

 それにまた、ラストで響く「誰も見てないぞ! ……誰にも見せないぞーッ!」という叫びは何なのか。山奥の別荘に新たに誰かがやって来る気配はまるでない。にもかかわらず、誰かの目を気にしてしまうとしたら、その目とは「おらへんことで、消えたという形で、今はあんたの前に存在しとる」ような者の目――つまり、幽霊の目ではないだろうか。


 ――と、ここまで書いてみて、自分の言葉が『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』の後半の面白さを言い尽くしていないことを感じる。やはり、これもまた試論にしかならないのだろうか。

 とりあえず、今言えることは次のようなことだろう――沖島勲は場違いな漂着物を世界に持ちこむことで、普段は見ることができない現実の別の面を表現しようとした映画作家である。