ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』の思想:「魂」とメディ

ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』の思想:「魂」とメディア界:作業仮説としてのアトランティス文明


ブレイクは、「人間は魂から区別される身体をもたない。なぜなら、身体とは、五感によって弁別される魂の一部分であるから。」と言っている。
 ブレイクの説く「魂」とは、不連続的差異論のメディア界に相当するだろう。私は、メディア界を心身と捉えているが、正確に言えば、メディア差異である。ここでは、思惟(精神)と延長(感覚・身体)とが、即非である。だから、ブレイクの「魂」とは、思惟(精神)「即非」延長(感覚・身体)である。そう考えれば、正に、「身体とは、五感によって弁別される魂の一部分である」。
 近代主義は、当然、この思惟と延長とを切断・分離したのである。主客二元論である。ブレイクが、「この時代の主なる入口」と五感を呼んでいるが、それは、近代主義ないし唯物論を意味していよう。
 また、「エネルギーが唯一の生命であり、身体から発するのであり、理性は、エネルギーの限界(境界)ないし外的な周囲(円周)である」と述べているが、これは、「魂」⊇身体からエネルギーが発生するということであり、「理性」とは、エネルギーの知性、メディア界の知性ということだろう。敷延すれば、エネルギーと知性とは一体ないし即非であるということになるだろう。
 思うに、ブレイクのエネルギーという言葉は、とりわけ、意味深長である。これは、メディア界のエネルギーであり、単純な物質的エネルギーではなくて、共振差異的エネルギー=共感的エネルギーである。そう、太陽のエネルギーでさえ、差異の共振性=共感性によって発生しているのだ。もし、共振性=共感性を「愛」と呼べるならば、エネルギーは、差異の「愛」から産まれているのである。(ついでに言えば、女性の本性は、メディア界である。今日、メディア界を喪失した現象界化した女性がほとんどである。)
 この視点から見ると、心身平行論と呼ばれるスピノザ哲学は、明らかに、メディア界の哲学である。即ち、スピノザの説く「思惟」・「心」・「精神」とは、メディア界の知性であり、それは、ブレイクの「理性」であり、ブレイクの「身体」(ないし「魂」)・エネルギーと結びついているのである。つまり、メディア界の心身性(心即非身体)を基盤とする心身平行論と考えることができる。スピノザは、デカルト哲学をベースにしているので、心と身体の二元論を保持しているが、実質的には、スピノザの心と身体は心身性=メディア界を共通基盤にしているのである。そう考えると、スピノザの実体(神即自然)とは、メディア界のことではないだろうか。もっとも、イデア/メディア境界をもっているのであるが。つまり、イデア界の縁はもっているのである。
 さらに展開すると、ドゥルーズスピノザに至高の評価を与えるのは、ドゥルーズ哲学が、メディア界の哲学、メディア差異を対象にした哲学であるということを意味していると考えられるのである。
 さらにさらに、展開すると、西欧文化におけるメディア界的思想の起源は何だろうかという問題があるのである。ブレイクの場合は、ケルト・コスモス主義あるいは、ケルト/東方キリスト教的コスモス主義だと思われるのである。スピノザ哲学のメディア界的コスモス主義はどこから発生しているのだろう。オランダという「地霊」なのか(p.s. オランダ・フラマン語の方言の一つにリンブルグ語があり、その基層がケルト語の可能性があるということである。【リンブルグ語は、その下層にケルト語がある可能性の徴を見せる。それは他の西ゲルマン語派の各方言よりもケルト語起源である語が多いことに見られる。この地域は、元々、ケルト族の部族が住んでいたのである。】リンブルグ語:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B0%E8%AA%9E
p.p.s. 「紀元前時代、現在はオランダと呼ばれる地方にはゲルマン民族ケルト民族が住んでいました。」http://www.oranda.or.jp/index/japanese/netherlands/history.html )、それとも、ユダヤ教からの逸脱なのか。ユダヤ神秘主義カバラ)なのか。スピノザブリテンロマン主義は、通じるものがあるのである。ブレイクには、グノーシス主義的な要素がある。また、カバラ的なところもある。簡単に言えば、神秘学が背景にある。すると、ケルト・コスモス主義、東方キリスト教グノーシス主義カバラ、等となる。そう、超越論的高次元内在論の思想である。結局、これが、スピノザとイギリス・ロマン主義(さらには、ロマン主義全般とフランスのサンボリスム象徴主義)に共通する起源ではないだろうか。そして、これが、ニーチェフッサールで、絶対的ポスト・モダンの展開をすると考えられよう。
 超越論的高次元内在論とは、本来のイデア論ないしプラトニズムである。また、超越論的知性である数学である。文化史的には、西欧ないしヨーロッパにおいては、ルネサンスに結びつく。しかし、スピノザの存在の一義性とは、中世のドゥンス・スコトゥスに拠るのである。彼は、スコットランド出身である。つまり、ケルト文化圏出身である。すると、ケルト・コスモス主義が起源として考えられる。もし、そうならば、ケルト文化とは何かである。ケルト神話は先に見たように、折口信夫神道観に近いのである。簡単に言えば、ケルト文化とは、東洋主義である。あるいは、前アーリア民族的な文化である(ケルト人は、アーリア民族であるが、ブリテンの巨石文化を受け継いだと考えられるのである)。
 今、アトランティスという言葉が浮かんだのである。作業仮説として、アトランティス文明が起源としよう。こうすると、巨石文化の高度文化性も説明できるし、また、プラトンが『ティマイオス』等で、アトランティスに言及していたことにも符号する。そう、ケルト十字(⊕の+の部分を延長する)は、ガウス平面の円運動を表現していると見ることもできるので、アトランティス文明を想定すれば、超越論的知性である数学の起源も説明できるだろう。そうならば、起源は、アトランティスの叡智(ソフィア)・般若である(そう考えると、仏教哲学とプラトン哲学の近さを整合的に説明できるだろう)。
 では、折口信夫神道論とどうつながるのか。記紀神話は、メディア界の表現(イザナミ/イザナキ【イザナギ】、アマテラス/(ツクヨミ)/スサノオ)と見ることができるし、また、イデア界(又はメディア界)の表現【造化三神天之御中主神 (あめのみなかぬし)、高御産巣日神 (たかむすび)、神産巣日神 (かみむすび)】と見ることができる。また、ケルト神話と同様に、他界・常世を、海の彼方と見たのである。海の彼方とは、アトランティス大陸の名残(p.s. 日本の場合、太平洋にあった高度文化をもった「島」かもしれない)と見ることができるだろう。以上のように考えると、すべては、アトランティス文明で糸がつながるのである。パズルはこれで、解決するのである。


Marriage of Heaven and Hell PLATE 4


The voice of the Devil


All Bibles or sacred codes. have been the causes of the following Errors.
1. That Man has two real existing principles Viz: a Body & a Soul.
2 That Energy. calld Evil. is alone from the Body. & that Reason. calld Good. is alone from the Soul.
3. That God will torment Man in Eternity for following his Energies.

But the following Contraries to these are True
1 Man has no Body distinct from his Soul for that calld Body is a portion of Soul discernd by the five Senses. the chief inlets of Soul in this age
2. Energy is the only life and is from the Body and Reason is the bound or outward circumference of Energy.
3 Energy is Eternal Delight


http://www.english.uga.edu/nhilton/Blake/blaketxt1/marriage_of_heaven_and_hell.html
詩画(版画)は以下。
http://www.blakearchive.org/exist/blake/archive/object.xq?objectid=mhh.i.illbk.04&java=yes


参考:般若
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5


Sophia
http://en.wikipedia.org/wiki/Sophia


ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス
http://en.wikipedia.org/wiki/Duns_Scotus


以下は、toxandria氏のスコトゥスに関する論考である。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050403
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050404


ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス
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ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1266年 ? - 1308年 11月8日 )中世ヨーロッパの神学者 ・哲学者 。トマス・アクィナス 後のスコラ学 の正統な継承者。アリストテレス に通じ、その思想の徹底的な緻密さから「精妙博士」(Doctor Subtilis)といわれたフランシスコ会 士。スコットランド のドゥンスで生まれ、オックスフォードとパリ で哲学・神学を学んだ。最後はケルン で教え、そこで亡くなった。主著として「命題集註」が知られている。 士。盛期スコラ学と後期スコラ学をつなぎ、スコトゥス学派の祖となった。


思想


トマス・アクィナス と異なり、スコトゥスは神学を「人間を神への愛に導く実践的な学問」であると考えた。また個物に本質を見出したアリストテレス から一歩進んで、存在が個物においてのみ成り立つ(「知性は個をとらえる」)と考えたところにスコトゥスの思想の特徴がある。さらには必然的なものである自然と、必然的なものでない意思の自由をわけて考えたスコトゥスにとって、人間の幸福は(トマスが言うような)神を直観することではなく神を愛することにあった。この考えは近代の主体主義 のルーツとなっていく。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 " より作成

カテゴリ : キリスト教神学者 | 1266年生 | 1308年没


折口信夫『妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏
』から


「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾(かつ)ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。
すさのをのみことが、青山を枯山(カラヤマ)なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣(ハヽ)が国」は、われ/\の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。
而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣(わけ)があると思ふ。第一の想像は、母権時代の俤(おもかげ)を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ/\移つて行くに連れて、愈(いよいよ)強くなつて来た懐郷心とするのである。併し今では、第二の想像の方を、力強く考へて居る。其は、異族結婚(えきぞがみい)によく見る悲劇風な結末が、若い心に強く印象した為に、其母の帰つた異族の村を思ひやる心から出たもの、と見るのである。かう言つた離縁を目に見た多くの人々の経験の積み重ねは、どうしても行かれぬ国に、値(あ)ひ難い母の名を冠らせるのは、当然である。

     二

民族の違うた遠い村は、譬ひ、母の国であつても、生活条件を一つにして居るものと考へなかつたのが、大昔の人心であらう。さればこそ、とよたまひめの「ことゞわたし」にも、いはながひめ等の「とこひ」にも、八尋鰐や、木の花の様な族霊崇拝(とうてみずむ)の俤が、ちらついて居るのだと思ふ。此方は、かう言ふ事実が、此島での生活が始つてからも、やはり行はれて居て、其に根ざして出て来たもの、と見ても構はぬ。
又、右の二つの想像を、都合よく融合させて、さし障りのない語原説を立てることも出来る。
ともかく、妣が国は、本つ国土(クニツチ)に関する民族一列の※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)から生れ出て、空想化された回顧の感情の的である。母と言ふ名に囚はれては、ねのかたすくになり、わたつみのみやなりがあり、至り難い国であり、自分たちの住む国の俗の姿をした処と考へて居なかつた事は一つである。此は、妣が国の内容が、一段進んで来た形と見るべきで、語部の物語は、此形ばかりを説いて居る。いなひの命と前後して、波の穂を踏んでみけぬの命の渡られた国の名は、常世(トコヨ)と言うた。
過ぎ来た方をふり返る妣(ハヽ)が国の考へに関して、別な意味の、常世(トコヨ)の国のあくがれが出て来た。ほんとうの異郷趣味(えきぞちしずむ)が、始まるのである。気候がよくて、物資の豊かな、住みよい国を求め/\て移らうと言ふ心ばかりが、彼らの生活を善くして行く力の泉であつた。彼らの歩みは、富みの予期に牽(ひ)かれて、東へ/\と進んで行つた。彼らの行くてには、いつ迄も/\未知之国(シラレヌクニ)が横(よこたは)つて居た。其空想の国を、祖(オヤ)たちの語では、常世(トコヨ)と言うて居た。過去(スギニ)し方の西の国からおむがしき東(ヒムガシ)の土への運動は、歴史に現れたよりも、更に多くの下積みに埋れた事実があるのである。大嘗会のをりの悠紀・主基の国が、ほゞ民族移動の方向と一致して、行くてと過ぎ来し方とに、大体当つて居るのも、わたしの想像を強めさせる。東への行き足が、久しく常陸ぎりで喰ひ止められて延びなかつたことは事実である。祖たちの敢てせなかつたことを、為遂げたのは、毛の国から更に移り住んだ帰化人の力が多い。此は、飛鳥・藤原から、奈良の都へかけての大為事であつた。
祖たちが、みかど八洲の中なる常陸の居まはりに、常世(トコヨ)並びに、日高見(ヒタカミ)の国を考へたのも、此処に越え難いみちのおくとの境があつて、空想を煽り立てたからであつた。常世(トコヨ)を海の外と考へる方が、昔びとの思想だとする人の多からうと言ふことは、私にも想像が出来る。併し今の処、左袒多かるべき此方に、説を向けることが出来ぬ。
書物の丁づけ通りに、歴史が開展して来たものと信じて居る方々には、初めから向かぬお話をして居るのである。常世(トコヨ)と言ふ語の、記・紀などの古書に出た順序を、直様(すぐさま)意義分化の順序だ、との早合点に固執して貰うて居ては、甚だお話がしにくいのである。ともあれ、海のあなたに、常世(トコヨ)の国を考へる様になつてからの新しい民譚が、古い人々の上にかけられて居ることが多いのだ、とさう思ふのである。海のあなたの大陸は蒲葵(アヂマサ)の葉や、椰子の実を波うち際に見た位では、空想出来なかつたであらう。其だから、大后一族の妣(ハヽ)が国の実在さへ信じることが出来ないで、神の祟りを受けられた帝は、古物語を忘れられた新人として、此例からも、呪はれなされた訣になる。彼らは、もつと手近い海阪(ウナザカ)の末に、わたつみの国と言ふ、常世(トコヨ)を観ずる様になつて来た。いろこの宮を、さながら常世(トコヨ)と考へることは、やはり後の事であるらしい。 」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/13212_14465.html


p.s. ケルトブリテンは、20世紀に入り、大爆発した。文学では、「モダニズム」と呼ばれるものである。(それは、完全に錯誤の命名であり、例えば、前期ポスト・モダニズムと呼ぶべきものである。)D.H.ロレンスヴァージニア・ウルフジェイムズ・ジョイス、T.S.エリオット、W.B.イェイツ他である。とりわけ、ロレンスは、西方キリスト教を突き抜けて、さらには、皮相なプラトニズムを突き抜けて、ケルト・コスモス=メディア界を体現し、表現したのである。

 また、哲学では、巨人のホワイトヘッドが、『プロセスと実在』で、メディア界の哲学を打ち立てたと考えられるのである。

 結局、ケルトブリテンは、アトランティスの叡智に現代的に反復・回帰したと言えよう。


p.p.s. フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが、英米文学を評価するのは、ドゥルーズには、ケルトの血が流れているからではないだろうか。そう、ニーチェに関しても、ケルトの血を感じるのである。これらについては後で検討したい。


3p.s. 前期ポスト・モダニズム文学として、ジョイスと並び称されるプルーストをあげられるが、ケルトと関係があるのではないかと検索していたら、あった。


「ここで、プルーストの作品構造と、時間が凝固してしまったようなヨーロッパ中世の教会堂建築との血縁性が明らかになる。
 プルーストは、ラスキンの翻訳や、その長い序文執筆によって、ラスキンの美意識と彼の鋭い観察眼をわがものとし、
ゴシック建築をはじめ、中世芸術に通じていた。
さきの引用で、言及されていたロマネスク建築を例にとれば、それは、
「歴史のすべてを監禁し、幽閉し、圧搾している」と表現されていた。
ここでは、時の流れとしての歴史は存在しない。その代わりに、重層する空間化された「時」が存在する。
 現代のわれわれにまで伝わる、例えば十二世紀のロマネスクの教会堂は、
後陣のこの部分は十世紀、柱頭彫刻のいくつかは十一世紀、壁画のこの部分は十三世紀、
この修復はバロック期・・・といった具合に、ひとつの建物の中に、それぞれ具体的な「時」が息づき併存している。
さらには、教会堂の地下にケルト時代の泉があったり、ローマ時代のミトラ信仰の祭壇があったり、
地下墳墓(クリプト)があったりすることもある。
一つの建築物の中に、可視的なレヴェルで、複数の「時」が重層したイマージュの構造をとる。
歴史の連続性が、視覚に訴えられるのである。
 したがって、『失われた時を求めて』の冒頭部、プルースト文学の核心をつくるマドレーヌ菓子の挿話も、
その前後で、古代ケルト人の信仰に触れた一文が置かれていることは、注意深い考察に値しよう。
それは決して偶然ではない。


私はケルト人の信仰をいかにももっともだと思う。それによると、われわれが亡くした人々の魂は、何か下等物、獣とか 植物とか無生物とかのなかに囚われていて、われわれがその木のそばを通りかかったり、そうした魂がとじこめら れている物を手に入れたりする日、けっして多くの人々には到来することのないをのような日にめぐりあ うまでは、われわれにとってはなるほど失われたものである。ところがそんな日がくると、亡くなった人々の魂はふるえ、われわれ を呼ぶ。そしてわれわれがその声をききわけると、たちまち呪縛は解 かれる。われわれによって解放された魂は、死にうちかったのであっ て、ふたたび帰ってきてわれわれとともに生きるのである。
 
 ここで、プルーストは、カエサルのゴール征服以前、フランスの土地にいたケルト人の信仰にある霊魂不滅の説をとりあげている。樹木の霊力や魂の再生に触れ、死を征服し、魂の甦りを信ずるケルト人たちの信仰について述べている。プルーストはこの話を、理性や意志の力ではいかんともしがたい隠れた記憶を、感覚が偶然的な契機によって喚起してくれるという、あのマドレーヌ菓子による至福の体験の描写にふかく繋げている。われわれの心の深層に、ふだんは眠っている反覆、繰り返しの単位であった太古の時間は、容易に変化しないものとして、歴史の基層に確かに存在する。」


http://osaka.cool.ne.jp/micay/temps.htm


『夢想書庫:プルースト


4p.s. 先に、ケルトと結びついた東方キリスト教のことを述べたが、『叡智の禁書図書館』(http://library666.seesaa.net/

では、アリウス派であろうと推測している。これは、キリスト教異端で、イエスの神性を否定しているのである。いわば、三位不一体論である。これは、不連続的差異論の三層構成と一致するだろう。「父」/「聖霊」/「子」である。三位不連続である。

 また、D.H.ロレンスが、真の代表作の『死んだ男』で、「死んだ」イエスを、単独的な、コスモス的な人間に変えたことを想起するのである。ここでは、ケルトアリウス派ブリテン・コスモス文化が究極的に、表現されていると見ることができるだろ。


参考:アリウス派
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/bun041.htm
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official


5p.s. ケルトアリウス派ブリテン・コスモス主義を、さらに巨視的に考えようとすると、19世紀後半から20世紀初めのロシア文学にぶつかる。文豪トルストイドストエフスキーたちの文学は、奇蹟的である。ロシア文学は、ロシアの大地から切り離しては考えられない。そして、また、ロシア文化には、コスモス主義がある。これは、東方キリスト教から発しているだろうし、また、土着的なものがあるだろう。大地とコスモスの一体性がある。一言で言えば、メディア界文学・文化である。だから、当然、ケルトと通じるものがあるのである。しかし、アトランティス文明を根源として想定したとき、どうつながるのか。そう、キリスト教の問題があるのである。キリスト教は、本来は、アリウス派的な三位不一体であったと思われるのである。あるいは、グノーシス主義的なキリスト教であったと思われるのである。さらに、言えば、超越論的高次元内在コスモス主義である。これが、東方キリスト教に伝播しているのだろう。ギリシア正教である。ギリシアは、東西の結節点である。そう、ギリシアは、古代ギリシアは、古代エジプトの叡智を継承したと思われる(プラトンの『ティマイオス』で、ギリシア人は、エジプト人から見たら、子供であるという言葉が伝えられている)。これは、また、アトランティスの叡智であろう。つまり、東方キリスト教アトランティスの叡智を継承しているのである。だから、ケルトアリウス派ブリテン・コスモス主義と共通点をもつのである。両者、アトランティスの叡智の継承なのであると考えられるのである。
 西洋文明は、アトランティスの叡智の破壊である。そう、アトランティス文明を破壊させたと考えられる同一性の悪魔アーリマンの邪悪な知性を西洋文明は発展させたのだ。それが、近代主義であり、とりわけて、アメリカ文明である。西洋文明は、占星術双魚宮魚座)にふさわしく、二面性をもっているのだ。一つは、アトランティスの叡智の継承とアトランティス破壊の悪魔的知性の継承である。今日、前者を批判的に継承しなくてはならず、今や、不連続的差異論やヌース理論として、日本で新生したと言える。ポスト西洋文明である。新アジア文明である。新アトランティス文明である。新アジア=新アトランティス=新ユーラシア=新地球ポスト文明・超文明である。


6p.s. 参考:ベルギー、オランダとケルト

「ベルギー

  国名はローマの征服以前住んでいたケルト系住民ベルガエ族に由来しています。オランダ、ルクセンブルク、ベルギーを含めてネーデルランドと呼んでいましたが、19世紀ごろから分裂してベルギーを国名として使うようになりました。」
http://www.mita.lib.keio.ac.jp/lib_info/display_history/189.html


「オランダの最古の都市Nijmegen(ネイメーヘン)とケルト
http://plaza.rakuten.co.jp/patitani5555/diary/200601230000/
のコメント参照


その他
http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/forg/forg36.htm
http://www.geocities.jp/beerforum/bbhistory.htm


7p.s. 因みに、私がクラシックのCDで、一枚あげよと言われたら、グスタフ・レオンハルトの演奏によるバッハの『フーガの技法』である。とても、東洋的な幽玄な、わびさびのある、能楽のような、間のある演奏である。また、バッハの音楽、特にこの曲は、ケルト的な、多元的な入り組んだ文様を想起させないだろうか。バッハのポリフォニーケルト文様は比較する価値がある。(p.s. 実際は、CD二枚組である。)


8p.s. ロシアのコスモス主義
http://ameblo.jp/renshi/entry-10004906772.html
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/ETHER1.html
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9970051296
http://72.14.203.104/search?q=cache:daaC_Cm1JH8J:blog.melma.com/00122700/20041103075652+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80sophiology&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&client=firefox
http://72.14.203.104/search?q=cache:mdjhiGAnGJ8J:blog.melma.com/00122700/20041103075342+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80sophiology&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&client=firefox
http://72.14.203.104/search?q=cache:-OQecW1jCvYJ:blog.melma.com/00122700/20041103080036+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80philosopractical&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&client=firefox
http://72.14.203.104/search?q=cache:0b-_BYSqxikJ:blog.melma.com/00122700/20041103080425+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80philosopractical&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&client=firefox


映画ならば、タルコフスキーだろう。